chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 「ひと-もよう学」草稿

    「ひと-もよう学」草稿●人間は動物的な「もよう」を殆ど帯びずに生まれ出る。それが自然においてどのような生存へと結びつくか。道具を使用し、表象することにより植物を育て、動物をてなずける、あるいは他の人間と強調したり、敵対することにつながってきたのだと思う。ある種の「パターン認識」が、生の持続にいかに作用してきたのか。「ひと‐もよう学(人文学)」のテーマはこの生の持続性に在る。 ■言語のはたらきとはなにか。「ひろがり」または「つながり」について ことばは指し示すものであり、時間的・空間的なひろがりを現わすものである。 人間が道具を使用し、共同で働くようになってから、ことばはより多義的に、スキーマと…

  • 言語研究:異=名辞(イメージ)と銘=政治(メッセージ)

    古典教養が等閑視される時代になって久しい。 もっとも、それには古典教養の「形骸化」ともいうべき、何でも形而上学的美学や精神修練に結びつけるような論説が前段階にあり、やがてオカルトや階級対立、民衆的立場から教養を扱き下ろす風潮があって、全くもって卑俗に拝金的に衰微してしまったといわざるを得ない。 しかしながら、人文学的なモノの持つ「復古主義」の魅力に一抹ながら価値があることもまた確かで、教訓じみた信仰、歴史趣味の消費に齷齪する人間も少なからずいる。 しかしながら、大局的に古文化の表象、言語文化の意義についてかんがえる人間は皆無にひとしい。 テクノロジーの進歩は大量の情報を一瞬で処理せしめる。コン…

  • 存在とかたり:古文化表象の分析

    現代人ほど言語や存在に無関心でのうのうと生きている者はいない。 国語教育はたしかに国民全体の読み書きの浸透には益するもので、文明とか生活に恩恵をもたらすものである。しかしながら、言語や歴史学、哲学の取り扱いについては、きわめて凡庸で弛緩した知覚……目の前に再現しうるものしか信じないし、掘り下げない学問的態度をあらわにしてしまっている。 つまるところ、吟味し、没入すべきとされるオリジナルな心情とか感情が重視されるあまり、周囲のコンテクスト、なぜその表象が遺ってきたかという「かたり」のメカニズムが充分維持されてこなかったのだ。取り上げられても好奇の目にさらされるばかりで、絶えてしまった表象も多いこ…

  • 言語と古文化表象学

    またしても大きなブランクが空いてしまった。 現代のように、好きなときに好きなだけ書物が読めるという状況は極めてまれな事態である。衣食住にかかわるその他の行為も大体は季節や場所の制約があったものである。それが撤廃されたのは、ひとえに機械による産業革命や教育による識字率の向上の貢献が大きい。そうして均質化された国民国家、貨幣経済の恩恵により、自由な精神活動が行えるようになった反面、社会的・環境的な負荷が及ぼす疲弊も顕著になってきてはいるが。 「時や場所によってフレキシブルに変化しうる社会的関係」は、書物文明のなかにおいては受け入れられがたい不確定性を孕んでいる。書物の「型にはまった」理解……ある論…

  • 言語文化と想起

    書物文化、およびインターネット社会は、「書く」、および「読む」という行為を食事や排泄と同じくらい欠かせない反射的で、感覚的な行為として完成させた。しかも、それらは思考する「精神」の営為として理解される。民族や国家、あるいは民衆といったカテゴリーに属して、自発的に行動する人間の表現の発露。おそらくこの事実について疑問をさしはさむ人間はいない――いないからこそ問題なのだ。 「書く」「読む」という行為を社会的に何かを「伝える」営為とするとき、なぜその事象を日常生活のなかで「想起する」、または「表象する」のかという問いに置き換えると、「書く」「読む」行為はたちまちその反射性、感覚性を除かねばならない。…

  • 複製情報時代の情報(複製芸術時代の芸術、ならぬ)

    以前、といってもずっと前だが、このブログにて「学融機関」というアイデアを扱ったことがある。文化をSDGsなどに絡めてPRし、現在への投資に活かしたり、遠隔地の文化財や行事などのサービスを取りまとめて、観光や地域振興に活かす拠点として、「大学」や「美術館、博物館」などがより自らのもつ文化的な情報の取り扱いに先鋭的になるべきだとする論だったように記憶している。 私のスタンスは、コロナ禍の前のこの無邪気な空想からは全く変わっていない。いな、むしろこのアイデアにこそ、新時代の情報産業の要が存在するように考えられる。 アメリカのGAFAをはじめとするビッグデータ産業、および中国の情報産業を鑑みるに、彼ら…

  • 言語文化と信用:劇的な学問

    人文学は、言語とその信用の歴史に向き合わなければならない。 「考える」という事象は、ともかくも「信用」を中心にした紐帯――言語が通用するところの共同体をふくめた連関――を基盤としている。学問はその連関の精髄であるが、むしろ精髄であるがゆえに、多くの事例を捨象し、あるいは見落としている。 言語は、「存在」の表象のうちに、ある種の「価値判断」をひそませる。この性質が、言語が維持する/されるべき共同体にとっていかなる作用をはたらくか。すくなくとも、「現実性(reality)」なる観点には、単なる存在・非存在の客観から遊離した、倫理的または論理的整合性「ことわり」を見て取ることができる。すなわち、因果…

  • 言語表象文化――「たてる」哲学

    歴史や言語は、「国家や民族、あるいはそれらに類した社会集団固有のもの」であるという、素朴な認識がある。 高等教育や専門的議論においても、もっと言うならおよそ言語を用いて社会活動を送る人間は、この「無意識の壁」によって守られながら、論理的に思考している。孤立的な選民主義は言うに及ばず、手垢のついたグローバリズム、「異文化」への相互理解であっても、この手の縄張り意識なしでは成立しえないだろう。 ところが、こうした認識への越境――人間の考えには一定の類型があったり、語源をたどれば同一性を実証できる――をくわだて、主張するものがいる。 はっきり言えば、この手の侵略的空想は、前世紀の国境線――植民地支配…

  • ゴッドファーザーの失敗

    ゴッドファーザーPart3を初めて観た。 Part1とPart2はだいぶ昔に観たことがあったが、Part3は初見だ。駄作という評判を前々から聞いていたので、蛇足な作品とばかり思っていた。が、今回BSで一挙放送されていたのを観て(Part1は見逃したし、Part3は前半見忘れたが)、世間の評判ほど当てにならぬものはないとつくづく考えさせられた。 逆張りの癖に偏見でものを見るので食わず嫌いが多い。「車輪の再発明」かもしれないが、雑感をつらつら書き連ねたいと思う。 アメリカ映画は基本的にビジネスであり、万人受けするよう味付けされ、練り上げられた「新しい神話」である。そして映画批評や賞の受容も、瞬間的…

  • Let It Be偏向的総論:Can You Dig It?

    まさかの半年ぶりの続編。 matsunoya.hatenablog.jp Let It Beというアルバムを、私はあんまり聴いてこなかった。コンセプトが適当で自然消滅したゲット・バック・セッションを、フィル・スペクターという変態プロデューサーがド派手なオーケストラでアレンジして、ポールの怒りを買い解散の元凶となった。 そういう経緯を「ジェフ・エメリック自伝」とか「コンプリート・セッション」でよく知っていたから、個人的にはこのアルバムを聴くよりは「マジカル・ミステリー・ツアー」を100回聴きたいし、「イエロー・サブマリン(ソングトラックじゃない方)」のほうが価値があるとまで思っていた。レット・イ…

  • 創作落語「怪談・加州旅籠(ホテル・カリフォルニア)」

    毎度ばかばかしい小噺を一つ。 時は70年代、エルヴィスがまだ生きていて、ジョンレノンがショーンの子守りをやっていたころ、まだベトナム戦争の爪痕の生々しいアメリカのお話でございます。ひとりの男が、暗い暗い砂漠の夜道を、バイクで風切って飛ばしておりました。 もう夜だから、どこかのモーテルのベッドに潜り込もうってェ算段ですが、あいにくここは砂漠のど真ん中、あるのはコリタスばかり。そろそろガス欠が気になって、こちとらちっとも「テイク・イット・イージー」じゃあいられないってェ丁度そのときに、ぼんやり光る窓明かりが前に見えてきた。 「おーい大将、お宿を貸してはくれないかい」と中に入ってみると、何やら訳あり…

  • ポスト・グローバルとパスト・グローバル

    現代社会の政治や経済においても、「グローバル」という観点は非常にややこしい問題を孕んでいる。 経営者や政治家は、英語の公用語化や自由貿易などという、ときに荒唐無稽で、ときに皮相のみに終わる目標を掲げる。いままでの決まり事を総とっかえして、世界的な基準にあわせようとするので、当然反発がおこる。そこで勃興するのが、「ローカル」な文化の再解釈・再評価であり、これらは文化人や宗教者を中心に、国粋主義的で選民主義的にすすめられるものだと、一般的に理解されていると思う。 しかしながら、その「ローカル」とされる文化も、たんに「グローバル」との二項対立で捉えられうるものではない。それらは、重層的に積み上げられ…

  • 言語文化の再構にむけて:工匠文化へのまなざし

    人文学で取り扱う知識は、一般的に「教養」と呼ばれている。それらは、たとえば国家だったり民族だったり、あるいはもっと広範な「人類」を主体に、積み上げられてきた知を取り扱うことを建前としている。書店にならぶ「教養」の本をざっと見れば、驚くほど多彩な地域の、多様な時代背景から成り立っていることがわかる。これらを読むと、自分の価値観や世界観が「広がる」と感じることができるのは、なんと純粋な無知であることだろう。 実のところ、実際に「研究者」が触れることのできる知は、その教育のレベルが上がるほど深く、狭くなっていく。専門としている領域を「理解」するためには、外国語の文献は必須であるし、近しい関心を持つも…

  • 業務連絡

    研究所(ブログ)開設から1年経ったのでそろそろ再始動します。

  • 工匠文化論:火知りと日知り

    貨幣や政治のシステム、そして文字によるリテラシー、宗教に至るまで、従来の国家と民族中心の歴史観は、いわゆるウェストファリア条約から、1750年代に始まり二度の大戦へと200年弱続く「長すぎる19世紀」において構築されたものである。この間は、王権や宗教権力によって抑圧されていた商工階級が文字による歴史や文学を主導し、迷信に染まっていた信仰と理知的な科学を分離し、民主主義や資本主義経済の様々なシステムを考案した時代であるとされる。 そして、ヨーロッパ諸国が全世界への海洋へと進出し、植民地や博物学的な研究をも独占した。宣教活動によって普及した「紀元」は、地質学・考古学・物理学の進展により、キリスト教…

  • 歴史の夢・ロマン・謎:信用ならない語り手にすぎない、歴史学の直視しがたい現実としての

    歴史に夢とロマンと謎はつきものである。これはいい意味で言っているのではない。プロの研究者でもアマチュアの歴史家でも、知らず知らずのうちに、 ●自己投影、アナクロニズム ●勧善懲悪、陰謀史観 ●テーマの束縛、専門化 ●権威主義、タブーの無視 などといった問題を棚上げにして、夢やロマン、謎という虚構で一般読者の関心を惹こうとしてきた。おおよそ社会的な発言力や影響力を得た壮年・中高年になってからでは、学んだ歴史観、そして研究上のインプットとアウトプットを軌道修正するには遅い。 この弊害は、歴史研究そのものにたいして、研究者とそれ以外の人間のあいだで温度差、認識の隔たりを生んでいる。一般的な認識として…

  • 人文探しの旅:大阪・奈良

    かねてより人文探しの旅をしてみたかった。自分探しではなく、古本集めと古代史のフィールドワークを兼ね、国内を回り、現代の地域振興に役立つ情報を収集するれっきとしたプロジェクトである。 一日目 出発は大阪の天王寺。そこから阿倍野を下り、南田辺の古書店「黒崎書店」を目指す。目当てはインドと中国の天文知識の交点、「宿曜」の本である。また、一帯は太子信仰や物部氏、安倍晴明にゆかりの深い地域である。太子の手下が大蛇を斬り殺した桃ヶ池(股ヶ池)など、 目当ての古書を確保したあと、八日えびすで知られるという山阪神社に詣でた。そこから針中野まで歩き、近鉄で柏原市まで向かう。手始めに石神社や弘法水を見て回る。高尾…

  • 歴史地理、物質民俗、音・光・香り……史学の新視点

    これまでわたしは、「農耕社会の成立史」のように編集されてきた伝統的な史学から、鍛冶や鉱山師などの職人の歴史を抽出し、水銀朱や鉱石、岩石の加工と特有の信仰とのむすびつきを考えてきた。 「農耕社会の成立史」であるところの、理性や精神の発達史観からすると、農耕にむすびつく食欲や性欲などの直接な欲望の充足から「ほど遠い」、いわば余分なこれらにまつわる説話伝承は、脈絡を追うことは困難であり、単なる迷信や虚構、想像力と解釈されている事例が少なくない。さらに産業革命による機械化・都市化も手伝い、多くの人の手がかかっていた職人仕事や鉱山労働、土木治水工事などの意義が変化し、農耕や日常の市民生活から分離した。 …

  • 「蝦夷」、境域の民たち:西国との交易・文化的関係をかんがえる

    蝦夷の歴史は「境域」の歴史と捉えるべきと思う。 明治以降の古代東国史研究は、蝦夷対和人という民族対立、支配や隷属という階級対立の歴史として考えられてきた。それは江戸時代から続くアイヌとの交易だったり、北海道の入植という内政問題とも密接にかかわってきたし、コロポックル論争などから端を発する先住民問題にも入り組んでいる。そのほかにも縄文人と弥生人というよく知られた類型や、東北以西のアイヌ語地名説、マタギなどの狩猟文化など、学界の定説、俗説を問わず近代の蝦夷観が波及した例は枚挙に暇がない。 そして多くの説が、アイヌ=蝦夷=縄文人、和人=渡来人=弥生人のような図式を当てはめ、北海道や東北の文明化や近代…

  • 説話研究の意義

    説話の研究は、じつに多面的な意義をもっている。 まず一つは、言語の構造の研究である。これまでの言語研究では自立して成立しうるかのような、文法的な側面がクローズ・アップされてきたが、言語は人と人とのあいだにはたらきかけ、あるいは生と死のあいだを仲立ちするものであるべきであり、その内容物たる物語のおよぼす影響は社会において計り知れないものである。 たとえば時制の標示やものごとの位置関係、数などの順序といった文法的な表現は、言語学者の考えている以上にひとを拘束する。こうした構造への考察を純粋に突き詰めていった結果が「法学」なり「数学」といった解釈の手立てへと結実している。善悪などそこでもなお解決でき…

  • 研究、あるいは広げすぎた大風呂敷

    雑多な分野に手を広げすぎたせいで、研究の全体像がぼやけてしまっている。 はじめは井本英一が記録したオリエントやヨーロッパのさまざまな伝承と、吉野裕子がまとめた陰陽五行説による農耕儀礼の比較検討が目的であった。犬をいけにえにしたり、死者の使いとして忌み畏れる風習はよく似たものがあるが、その土地を支配する道教、陰陽道であったり、ゾロアスター教にあわせて、また言語によるこじつけもあり解釈が異なっている。これらにおそらく共通したのは、天文知識による季節と気候の把握が、「呪術」として幾何学化、法則化されることで、一種の「精神」と呼ばれる解釈の体系のことなりを生み出してきた、という仮説をたてた。災害や兵乱…

  • あらためて

    今の今までだれも交差させなかった分野を混じり合わせることで、正しいとは言い切れないが、今までにない可能性を切り開くような人文学を欲している。 このブログで追究してきた、「文化の類型が広がる背景にはある種のグローバリズムが介在している」というテーマは、これまでいくつかの可能性を提示してきた。天文学の情報のある程度の共有、鍛冶や採鉱、アマルガムなどの冶金文化の信仰文化への流入、インド洋やシルクロードの交易と説話の関係などは、多くの先人の事績を追いながら、モザイク状に推論されるものである。 従来の人文学観の「農耕社会」偏重は、古典教養の農耕民重視のヒエラルキー、方向づけに従って、産業革命や啓蒙主義革…

  • 次代のフォークロアのために

    人と人が接し、何らかの表象や指示――いわゆるコミュニケーションが行われるとき、それらが明確に伝わり、実行されるかどうかは不確実である。そのため、コミュニケーションをより「均質的」に、誰でも同じように享受できる手続きないしシステムが整っていることが、音声や身振り、文字の体系を「言語文化」たらしめる要点であるといえる。 こうして課された条件は、すでに万全に伝わるべく整備された、近現代の国語や科学観に慣れ親しんだ人間にとって、無意識に受け入れられ日常的に見過ごされているものである。サルや動物に言語が存在すると主張したり、有史以前の文字や文化を発見したという研究者には、それらが真に伝わるような「言語文…

  • 日本語の「語源」

    「邪馬台国がどこにあったか」と同じくらい堂々巡りを続けているのが、「日本語はどこから来たのか」という問題である。考古学的成果やDNA解析などと重ね合わされ、有史以前以後の人類の移動と言語を推測する研究も見られるが、確答は得られていないようである。その時々の政治やナショナリズムに左右されることもさることながら、「謎」や「真実」という扇情的な文字が躍らなければ、論争も世間の関心も呼び込むことのできない「無風状態」かつ「閉鎖的」なジャンルであることも一因であろう。 そもそも言語というのは異個体、異集団間の交渉に益するように、たえず混淆し、意味を変えていくものである。この言語観は、文字化され、純化運動…

  • 眼のシンボル、邪視と癒しと冶金文化

    「産業革命、啓蒙革命によって失われたもの」というと、精神的な荒廃、そして公害や環境破壊というペシミスティックな側面が強調されがちである。これらを克服するために、例えば柳田国男は民俗的な伝承を守り伝えようと努力したし、南方熊楠は鎮守の森の保護運動を進めたし、鈴木大拙は禅や浄土思想など神秘主義の弁護をすすめた。西欧でも同様なロマンティシズムに衝き動かされた人文運動はよく見られる。 しかしながら、こうした保護活動と同時進行で、説話と民俗、産業以前の生業が維持してきた緊密なネットワークが、細分化された学術研究によって断ち切られ、あるいはほとんど全容がつかめないようになってしまった。記憶として消えかかり…

  • 言語文化:生と死のあいだに……

    このブログでは、伝統的かつアカデミックな言語学とは異なる「言語についての学問」を追究するべく努力してきた。 模範的な言語学では、たとえば「ピエールがポールを殴る」という文を、名詞や動詞、3人称現在や主格・対格という文法的な要素に分解し、同程度の文章、「ピエールは学校に行く」や、「リリーがべスを殴った」という文と比較し、その差異を「他動詞対自動詞」や、「現在対過去」といった現象(あらわれ)の対立として観察している。そしてそうした区分がなにに起因するか――民族や国家という巨視的なコンテクスト、あるいは脳の認知や生物的なミクロの進化を原因として解明するように展開してきた。 外形としての文法と連動する…

  • 拡張する神話群――「物語る」言語の意味

    神話学は、「国」「民族」「階級」といった閉域、そしてその比較にとどまってはならない。 「かたる」ことは、常に時間的・空間的に拡張していく性質をもっている。経緯をかたり、「かたる」という自らの行為自体を特権化することは、ひとえに閉じた領域を生成しつつ破壊するいとなみである。 わたしはここ数か月、古代や中世の鍛冶職人や鉱山師、商人たち――ときに霊力をもつとみなされた祭祀芸能者でもある――の活動をつうじ、それが王を頂点とする農耕共同体にどのような物語を「占有したか」ということについて関心をはらってきた。錬金術や秘儀などは、古今東西を問わず職人や商人と結びついていた。職人や商人の遍歴は、異境や異教とい…

  • 十二支と十二星座

    日本神話は「星」と疎遠であるといわれている。 江戸時代の国学あたりからか、農民は早寝早起きだから星を見る余裕がない、という至極てきとうな決めつけがなされてきた。そのスタンスは概ね現代に受け継がれている。農民は迷信的で純朴無知であるという、近代特有の啓蒙主義的な決めてかかりも影響しているのだろう。 しかし、本来農業というのは気候や季節に鋭敏な感覚をもって運営されなければならないはずである。太陽、月、星の観察を積み重ね、梅雨や台風の時季を正確に予測せねば、飢饉は免れえない。それに、昔の農業にはずっと多くの人間が携わる集約的なものであった。領主や地主たちは祭礼などを設け、彼らの適切な労務管理をしなけ…

  • 神話から文藝、文藝から科学・教養……マニフェスト

    この数日間、水銀朱についての研究から派生し、鉄や銅、礬類やナトリウム、硝石、花崗岩や凝灰岩などと歴史の関係を調べていた。 従来の「風土」論は主に気候や植生が中心であった。そこから気質や精神、文化との関連を説明するのであるが、多分に国粋主義的で、「環境決定論」とまで揶揄される独善的なものであった。しかしながら、北方人は勤勉で、南方人は怠惰で未開などという類型は、「南北問題」のような経済問題として形を変えながら受け継がれているように見えるし、「照葉樹林文化」とか「日本は木の文化、ヨーロッパは石の文化」というようなお決まりの成句となって、知らず知らずのうちに新たな研究の可能性を潰していることもありう…

  • モザイク的歴史叙述、キュビズム的歴史観

    辰砂の歴史研究、などという大風呂敷を拡げてしまった。 日本については市毛勲『朱の考古学』や蒲池明弘『邪馬台国は朱の王国だった』、上垣外憲一『古代日本謎の四世紀』、そして何と言っても松田壽男の『丹生の研究』『古代の朱』ですべて出尽くした感がある。ヨーロッパ方面については『金枝篇』や『河童駒引考』のような博覧強記からの、完全に推測の域を出ない。鍛冶にかんする伝承は、農耕の豊穣崇拝と同一視されやすく、異教的な悪魔崇拝やオルギーという見方しかされてこなかった。 いままで抑圧されてきたマイノリティの解放を謳う社会運動により「民衆的」で「異教的」なヨーロッパが脚光を浴びたさいも、これらの扱いはいわゆる「オ…

  • ポスト・オリエント学と水銀朱(辰砂):ユーラシア情報文化圏交渉比較環境人文学として

    水銀朱(辰砂)の用途 ①「朱」として顔料、装飾的要素に ②「水銀」を精錬し、金をアマルガムめっき(中世以降は鏡の研磨にも使用) ③「朱」や「水銀」を薬として使用(殺菌・ミイラ化) ④水銀と硫黄から化学的に合成する過程を、錬金術や神話などシンボル化 従来の神話解釈・歴史解釈は、豊穣を願う儀礼の顕われと解釈するなど、「農耕社会」を前提としてきた。一方で採掘や精錬、鍛冶などの工業的発展は、古代・中世においては「文字に遺されない」という暗黙の了解がある。化学変化や工学的な変型を扱うこれらの職業は、商業とともに、宗教的に卑賤視・迫害されてきたという見方が一般的であろう。 しかし、産業革命以降の農業と商工…

  • 西洋の水銀朱伝承

    インドや中国に比較して、ヨーロッパの古代・中世における金細工や鍛冶の歴史の追跡は困難である。一応水銀によるアマルガム技術は遅くても紀元2世紀のローマに存在していたといわれてはいる。 思うにそれは金属加工の技術が「悪魔」と結びついていたこと、ユダヤ人やロマ(ジプシー)などのアウトサイダーとの繋がりなどにより記述されることが好まれなかった経緯があることが予想される(私は鍛冶や採掘を担った人びととして、おもにオリエント系の語彙を織り交ぜたペルシアやトルコ系の人びとや、長江流域から紅海地中海を往来したインド系の人びとがいたのではないかと推理している。同時に傭兵や芸能を担うことにより、かれらの持つシンク…

  • We Shall Never Surrender...

    一般的に、西洋は現実主義、東洋は神秘主義というイメージが根付いている。しかしながら、中国は現世利益的、インドでは思弁的、さらに道教は理想主義、儒教は現実路線……など、言ってしまえば何とでも言えるのであって、そのイメージは産業革命、帝国主義以降のヨーロッパの価値観を中心に、専門的研究家の狭い視野で捉えられたステレオタイプにすぎない。それはカトリック的な文化や、ロマン主義の源となった異教のイメージを研究する西洋の視点にも顕われているので、正直どっこいどっこいであるともいえる。 科学的世界観と文明史観が未分化なために発生した、強固な「カースト」の元で与えられた評価を覆すべく、自国自民族の文化を紹介し…

  • 学問への動機

    歴史にかぎらず、学問は現代の鏡である。なにか「現代に通じるもの」を嗅ぎ取ったからこそ、深く掘り下げて研究が行われる。書籍や論文で浸透する学説、というものは、時代精神、時代の要請にかなったものだからこそ、その影響力を認めざるを得ない。そこにはある程度の流行り廃りを認めなければならない。 しかしながら、多くの人間は学問にそれ以上のものを求める。具体的には、「あまりにも現代的な」結論ありきで、学問を矮小化、教訓化、精神化してしまう。「物語」として、現代的な視点からあれこれ口をはさみたがる。たとえば歴史であれば、「古人の愚かさ」をあざ笑い、「われわれの責務」を見出し、「唯一固有のアイデンティティ」とし…

  • 辰砂説話の東西

    辰砂(水銀朱)にまつわる技術の歴史は、シンボリズムの歴史と言い換えることができる――農耕文明において、金鍍金技術に必要な水銀は、金銀で飾られた聖地、神々といった信仰の対象のために必須であった。さらに、朱の耐腐食性、不老長寿の効能から薬、顔料としての役割も担っていた。水銀公害が問題化して以降はタブーとなってしまい、研究、そしてその成果の総合が進んでいない分野である。 しかしながら、鉱山師、鍛冶師たちは、農耕社会の「部外者」とまで見なされていた。時代が下った中世ヨーロッパ都市では、騒音や水質汚染などで鍛冶師と市民の諍いが起こっている。平地は農耕のために利用されるべきであり、かれらが集住するところと…

  • 文化圏研究叙説

    歴史研究は時代の鏡である。研究者は周囲の環境から何かしら影響を受け、みずからの研究が歴史という大河に「一石を投じる」「波紋を広げる」ことを願う――世の中の関心に少しでも寄与できるように、みずからの得た知をフィードバックしようとする。 しかしながら、多くの場合、それは一時的に水面を揺らめかせるにすぎない。専門的な知識に踏み込むと、世間一般で信ぜられている通説からはかけ離れ、限られた仲間うちにしか理解されないものになってしまう。また、発想の独創の度が過ぎたり、研究者自身の死によって、顧みられなくなってしまった研究も数多く存在する(私は趣味の古書蒐集を通じて、そのような研究を多く見てきた)。 この半…

  • 辰砂:文化と知識のネットワーク

    空海と水銀、鍍金技術の関係 丹生明神……水銀 虚空蔵加持……黒雲母、ウナギのタブーと「ヲ」を持つ蛇のアナロジー 尾張-美濃‐近江‐山城-丹後:辰砂文化圏と 大和-葛城(生駒)-和泉-紀伊(熊野)-伊勢:辰砂文化圏との、 平安期における統合 その前段階としての「文学」 「古事記」 真言宗寺院に保存された、古代の鉱脈の歴史 「ヲ」の思想…「ヲ」の霊である大蛇、「ヲ」の生えた人間 オオクニヌシとスクナヒコナ ヤマトタケル、白鳥伝説 道教的な文脈、ペルシア、バビロニア神話との連関 「日本霊異記」……著述した景戒は紀州の人で行基の門人? 神仏習合にいたる道のり、神と仏の資源争奪戦 目一つの鬼 役行者 「…

  • 言語:信用とあそび

    これの続き。 matsunoya.hatenablog.jp 言語は「信じられていること」の体系である。それはちょうど貨幣や金券のように、その共同体の空間的「境界」と時間的「限度」を維持しながら表象され、やり取りされている。貨幣だと「信じられていること」は、貨幣だと「信じられているもの」を用いて、対等なモノやサービスを受けることのできる境界と限度をその額面のなかに表示する。貨幣は、より時間のかかる商取引や法などの言語によるシステムを端的に簡略化した事象であるといっても過言ではない。 従来、言語は「記号」や「物語」という側面で、しかもどちらかと言えば信じられている「͡こと」よりも信じられている「…

  • 韮と丹生(草稿)

    吉野裕子『陰陽五行と日本の天皇』の中に、中臣寿詞の解釈が出てくる。 そこで問題とされているのが、天孫の統治に必要な「天津水」を得るために、秘義とされている「韮と竹叢」の意味である。玉櫛を占庭に挿し、祝詞を唱えると韮と竹が生えてきて、そこを井戸として湧き出る水が「天津水」なのだという。 吉野は五行説の火金干合から、そして唐の『酉陽雑俎』から韮の伝承を引き、この記述を説明しようとした。 「竹」が「高」ないし「多賀」という地名を経て、「辰砂」や「水銀」産地と関係があるのではないか、という愚考を前回述べた。「中臣寿詞」にも、「…大倭根子天皇が天つ御膳の長御膳の遠御膳と、赤丹のほにも聞こしめして…」と、…

  • 辰砂の社会文化史・試論――平城京と平安京を例として

    この記事は前の万葉歌謡史の補完のようなものである。 matsunoya.hatenablog.jp matsunoya.hatenablog.jp どの国のどの文化もほとんどは「伝統」「慣習」「古典教養」として農耕文化を基礎としている。ヘシオードスやウェルギリウスの農耕詩、中国の詩経、そして万葉集や記紀の世界は、純朴な「農民」の精神を反映しているとみなされ、これらを基礎とした経済学や儒学、国学に「回帰衝動」をうながすこととなった。 資本家が商工業を自由に行い、貧富の格差が拡大することへの危惧、国家による経済の統制、軍事的伸長の達成といったアイデアの根源には、知識人が修辞として刷り込まれる教養が…

  • The Beatles(White Album)偏向的完全ガイド

    ザ・ビートルズのザ・ビートルズ――通称ホワイト・アルバムは2枚組(アナログ盤では4枚組)のアルバムである。曲数がやたら多いせいで、1枚にまとめきれなかったのか、オレならこの曲を抜く、という議論がたびたび起こる。「ビートルズに捨て曲無し」の立場を貫く筆者は、こういう議論を見るたびにひそかに心を痛めてきた。 ジョンの革新性、ポールの守旧性にクローズ・アップして論じるレビューも数多見てきた。音楽ライターが口をそろえて言うには、ジョンは前衛的な「悪い子」、ポールは伝統的な「いい子」の音楽だという。 しかしそういうありきたりな通説は間違っている。あの66年から68年のサイケデリック・イヤーを経験し、薬物…

  • 名誉フェロー号 授与について

    ご愛読の無識者(むーしきしゃ)の皆様 ツイッターでも告知しましたとおり、この度マツノヤ財団 知域総合人文学研究所は名誉フェロー号を愛読者全員に授与しております。 無料、無制限、無駄の三無がそろっており、特典としてこのブログ及びnote、pixivの無料購読権、コメント権、拡散権およびネーミング・ライツ(後述)を付与いたします。 www.pixiv.net 無料で名誉研究員のポストが得られることはメリットでしかありません。まず、稲盛財団など、ごく少数の富裕層や教祖にしか満たせなかった名誉欲、自己顕示欲が満たせます。さらにもし皆様が不祥事を起こしたとしても、論点を「研究所の不祥事、自浄作用」という…

  • 情報操作概論――どうすれば有名になれるか、または「無識者(むーしきしゃ)」心得

    文系研究者は基本的に無名である。無名だと出版物を出そうにも出せない。研究者としての成功や科研費やなんだのやりくりのために、大学や学会のアカデミズムに歩調を合わせることとなる。そうすると内輪での評判はよくても、一般の知名度が皆無となる。これでは出版社も渋ってしまう。結果、文系学問は無益だと切り捨てられる。 とにかく、このままでは情報化社会は活字文化社会と同じ道をたどりかねない。匿名で何でもありの雰囲気が消えうせ、自由な議論を謳いながら、心理的、社会的にものを言えなくするシステムが、このソーシャル・ネットワークの時代にもやってくる。だれもがヴォルテールのように相手が異なる立場で発言することを許して…

  • 6・1知域総合人文学研究所設立宣言

    ブログご愛読者の皆様へ いつもご声援とご愛顧を賜りまして誠に感謝いたします。 マツノヤ人文学研究所は、この度11月11日の設立より半年と20日くらいを迎え、より研究内容の深化と発展を期すべく、2020年6月1日付けで名称をマツノヤ財団 知域総合人文学研究所に改称し、研究方針の明確化のために設立宣言を発表します。 グローバル化の退潮と孤立主義の台頭のさなか、人文系学問は食えない、実生活の役に立たないという烙印を押されています。書店には売れるマンガとゴシップ雑誌、有名人のゴーストライター新書本しか置いておらず、人文教養がかつて果たしていた社会的統合、知の普遍化というから役わりからは遠のくばかりです…

  • 『妹の力』私見

    私のスタンスは、国語とか民族語とかいう概念は近現代の虚構である、という立場である。従来古語とされるようなやまとことば、さらに縄文語や弥生語とされるような再建も、まったく国民国家の便のためにあるようなもので、古典教養がコミュニケーションとして機能していた時代の実情というのは知られえないものだとつくづく思うのである。 だから、戦後よく議論された日本語何とか語起源説というのは、戦前の大日本帝国や大東亜共栄圏の版図の域を越えず、その時代の時代認識、地域認識を映す以上のものではない(いわゆる「南島イデオロギー」というものであろうか)。特に厄介なのは、戦後の経済的秩序、政治的秩序による境界線にとらわれてい…

  • 研究方針:神話学と錬金術、あるいは家電の説明書はなぜ長く読みづらいか

    現在わたしが取り組んでいる研究を端的に言えば、「西洋錬金術と道教煉丹術、および日本神話の比較と、その言語的表象の研究」である。 ここ半年の実験的な原稿から、やっとこさ何か成果ができそうになった。基本的には以下の記事を膨らませたものである。どこか大学で勉強できる環境があればいいのだが、たぶんどこでも受け付けてくれないのではないかと思う。 matsunoya.hatenablog.jp matsunoya.hatenablog.jp 従来、錬金術や煉丹術は吉田光邦『錬金術』(中公新書)におけるように、単なる絵空事とか荒唐無稽な虚構のようにかんがえられている。一応、前者は化学元素の発見や実験器具の発…

  • 理想の文化‐文法事典

    ことばが具象的な表象から抽象的な表現に移行する過程を、一冊の本にまとめてみたい。 神話上の神格や怪物が、卑俗な昔話、迷信を経由して、日常的な科学知識や現象に移行する過程は、文法の大衆化、文語から口語への選好の変化と軌を一にする。長いスパンの変化を記憶するための文法から、より瞬間的な表現法への移り変わりは、たとえば並列的に確実性の所在をあきらかにする接続法や仮定法が失われつつあり、より単純で直列的な、過去・現在・未来の系列へと再編される傾向によって見て取ることができる。 これは、事象が「ある」こと、またその対極として「ない」とされることについての性質の変化とも見なせる。この言語上の特質を考慮に入…

  • マレビト補論:「説き語り」の系譜学

    言語を研究するには、伝えるための文法構造と伝えてきた文化体系とを総合的に見ていかなければ、全体像をつかめない。 およそ世に行われている研究は、どちらかを間に合わせで補い成り立っている。科学という文化でも、政治経済という文化でも、それを伝えてきたことばの構造は、翻訳の過程で有耶無耶にされてしまう。対して、文法や概念の構造などを考える哲学的な分野においても、他領域の文化知は「通説」の段階にとどまるように見える。 否、翻訳までもがないがしろにされつつある。生硬な文体、未消化の外来語によるジャーゴンが罷り通る学問を、はたして「受容した」と言えるだろうか。さまざまな社会集団がアクセスすることが可能で、異…

  • 歌謡発生の後景――男子の本買いと、そこからの着想

    今回の男子の本買い 古橋信孝『万葉歌の成立』、講談社学術文庫、1993年(原著1985年) アンドレ・ヨレス『メールヒェンの起源』、講談社学術文庫、1999年 やはり講談社学術文庫やちくま文庫は、古書に限る。 『万葉歌の成立』は、万葉集の歌を沖縄の神謡や古代中国の詩経と比較しながら、その独自のジャンル性を忘れずに解説した書である。なんで今まで手に取らなかったんだろう?と思ってしまうくらい、現在の研究に役立ちそうな本だ。とくに「生産叙事」のアイデアは、農耕や巡行、歌垣など、万葉文化の表出としてのうた、かたりという立場を思い出させてくれる。 その文化は、現代を生きるわれわれと隔絶している、とは書か…

  • 言語:文化と文法

    このブログでは何度か言語について取り上げてきた。「ポスト・オリエント学」「情報文化圏交渉比較環境人文学」といういささか皮肉めいた題名で研究してきたことは、歴史や文学のみならず、人間の行動の規範となる科学全般が、いかに社会集団の地域的、通時的交流に依存されるか――シルクロードや海上交易的なつながりを例にして、錬金術や祭祀呪術、神話の拡がりをまとめてみようという試みであった。 吉野裕子(陰陽五行説)、伊藤義教(ゾロアスター教研究)井本英一(イラン学から東西説話交渉史)、佐藤任(インド密教史・錬金術史)、白川静(中国古代史)、澤田瑞穂(道教・中国説話研究)、吉野裕(古事記から冶金史)若尾五雄(物質民…

  • 即効性、瞬間風速、最大震度……

    持続的、持続性、持続可能性ということが煩く言われるようになって久しいが、実現されているところを見たためしがない。それどころか不思議と、どの界隈においても持続すればするほどボロが出る。もっとも、政治家がよく不快なくらい繰り返すようにそれを「驕り」とか「緩み」などと精神論的に片づけてしまうと、事態はもっとこじれてしまう。 文明国に追いつき追い越せ、戦後復興、先進国の仲間入りという目標のもと、科学技術を取り入れていくと、しぜん「即効性」が高いものばかりが選び取られることとなる。大学教育も人材育成も、「即戦力」となりうる人間を求め、海外からもかき集める。そればかりか、観察に時間の掛かったり、比較を要す…

  • 一億総博知時代

    タイトルははっきり言って皮肉である。SNSとかあっても、使う人間が8割が凡庸、2割が怠け者なものだから、じつはスマートにもソーシャルにもなっていないのである。 コロナ禍以来、「若者の消費」を抑えろ、抑えろという論説が目に付くようになった。送別会やコンパが「クラスター」となった経緯があるからで、大学はそのあおりで閉鎖が続いているのはわかっている。しかし、以前は「若者の消費」はむしろ馬鹿にされるくらい低調なものだったことを忘れてはならない。ああ、こうして嘘が嘘で塗り固められていく。「ジュリアナ東京」がバブルの象徴のように喧伝され、ユダヤ人が陰謀論で迫害される。新聞やテレビが言い出したらレッドネック…

  • #『市民ケーン』が最高の映画とかいう風潮に抗議します

    もし大学の講師だったらこんな授業をすると思う。 www.businessinsider.jp 2020年になってもなお『市民ケーン』が史上最高の映画だそうだ。 こういう「映画通」の選ぶ映画というのは、ご多分に漏れず「懐古」や「思い出補正」が入っているし、最新の映画を推したは推したで「ミーハー気質」や「業界のお手盛り」などを差し引いて考えなければならない。テレビや雑誌でごり押される映画は、たいてい放送法かなんかで「番組」として放映されることを条件に宣伝されている。アニメやマンガが原作のコスプレ学芸会を有難がって見ている連中もいる。 ハリウッド映画も似たり寄ったりで、さほど変わることはない。近頃は…

  • 人文学的「情報機関」について

    人文学はただ専門的に研究されるだけではなく、それを総合的に集約し、分析する場を必要としている。 再三述べてきたことだが、文系学部の知識は役に立たないといわれる。歴史や哲学、文学は、娯楽や教訓くらいにしか認識されていない。大学院に進学し、専門の研究を行うキャリアパスも存在するが、日常生活とは徹底的に無縁の領域と見なされている。こうした無関心のため、大学院生や研究者の苦境、資金や出版などの環境の悪化は、改善される気配がない。 それは、第二次世界大戦以前の人文学的教養が、西洋文明に追いつくための模倣と、その反動としての国粋的、東洋的なものの賛美という極端な二極化傾向にあったことと無関係ではない。科学…

  • フォークロアの研究――いわゆる「都市伝説」「集団幻覚」から

    「科学文明社会」を生きる人間においては、迷信におちいることは恥ずべきこととされている。その一方で、全体主義や都市伝説、疑似科学など、およそ現代人とは似ても似つかない迷信的な信仰をもつ人びとを、近現代の狂騒は生み出してきた。 現今の「コロナ禍」や、その他の流行現象もそうした迷信に分類される日が来るだろう。いくらウイルスの飛沫感染が防げるとはいえ、繊維よりもはるかに微細なウイルスをマスクで防御するといった発想は迷信的である。しかしそれでもマスクは買い占められて店頭から消えた。ウイルス感染を実効的に防ぐというより、我われがウイルスからいかに隔離されて清浄かということを「表象する」ことに重きが置かれ、…

  • 自粛の黙示録(Apocalypse Nowadays)

    出口の見えない自粛がつづく。テレビを見ていてもSNSを眺めていても、誰々はこうして我慢している、だからお前らも自粛しろだのとやせ我慢の見せ合いになってしまっている。あるいはお国のためにと見栄を張り、マスクやガウンづくりに精を出す。 すっかり戦時中のあり様だ。8月の戦争特集で東京裁判や大本営発表について偉そうなご高説を垂れていた新聞テレビが、兵隊さん頑張れの調子で医療従事者を激励し、徴用工や慰安婦問題にあれだけ良識ぶりながら、水商売の女性や外国人労働者の苦境を美談に仕立て上げる。ずいぶん呑気なダブル・スタンダードである。歴史認識は都合のよい金稼ぎの手段であり、全く現実に応用のきかない代物であるこ…

  • ネオ河童駒引考:文明から文化圏へ

    ステマとかじゃない不要不急な読書レビュー。 さいきん若尾五雄の「物質民俗学」にハマってしまった。日本各地のさまざまな伝承を、金属加工や治水技術と結びつけて研究するスタイルで、真弓常忠の「日本古代の鉄と神々」や、佐藤任がインド密教と錬金術を結び付けて考えていたころの同時代の研究である。吉野裕子の陰陽五行説や、井本英一・伊藤義教のペルシア研究とも同時代である。 その民俗学を集成した「物質民俗学の視点」第二巻は、河童をテーマとした昭和30年代の研究をはじめに、和泉式部や行基、ヤマトタケルの白鳥伝説の裏に「隠された」地理や社会的条件について取り扱っている。何でも若尾民俗学は語呂合わせや強引な付会が多く…

  • 言語:連想と合理的説明

    言語は異なる境遇にある、異なる職能をもつ人びとを結び付ける紐帯である。社会とか歴史は言語の創作物として、人びとの共通観念として刻印される。これらの「物語」なるものは、記号と指示(行為と対象双方)を連関させるものとして、「連想」を不可欠とする。 「連想」は、しかしながら、忘却され、摩耗するものなのである。横溢する生の中で解釈するという行為は、常にこの連想に評価をあたえ、より「合理的(ロゴスのある)」筋書きに更新する作用をもつ。物語は、解釈によって放棄されることもあれば、合理的な説明をあたえられ維持されることもままある。 それでは、何をもって連想を合理的とみなすか。解釈を共有する共同体の規模に比例…

  • 空想から唯劇論へ:迷妄書き

    世界的な交易路と説話のネットワークの研究 共同体が社会生活を営むにあたって、ものごとの「本質」を共有することが重要である。共同体そのものが、「本質」を渇望している。 いかなる空間(風土、社会)、そしていかなる時間(こよみ、歴史)を生きるか。説話を伝達し、伝承することは、その社会がどのようなネットワークの中で生を営んでいるかをあらわしている。 説話について、ふたつの混同が見られる。「起源」と「産出」である。現在説話でかたられる起源は、人類の科学的起源、国家や民族の起源と安易に結び付けられて考えられることが多い。テクストがどのように記録されたか、もしくはコンテクストとしてのかたりを踏まえずに、「本…

  • 生成と変容

    「語源」「神話の類型」「心性」の研究は息が詰まるし、行き詰まる。なぜかというと、これらの起源をたどるという行為が、病的な収集癖、衒学、知識人の選民意識(アカデミズム)、オカルトといった近代活字文化の爛れた腐臭にまみれているからであり、その毒に中ってしまうからだ。 人間社会の営為から切り離され、いずれ「道楽」として忘却されてしまうような塊。それらは自分のたどって来たローカルな歴史には沈黙し、「普遍的な理論」がごとくふるまう。それらを活き活きとした学問へと再生するには何をすべきか?……学際的、もっといえば「学融的」に、貪欲に他領域に雑じり、交わっていかなければならない。 学問はその時代、地域の雰囲…

  • 魂、精神、真理という隠喩:物語ることについて

    魂は実在しない、精神は存在しない、真理は人それぞれだ……という達観した論はまことにありふれている。身の回りのものが、目に見えたり、手近に扱えるような事物でないと安心できない「心性」がある意味浸透してしまっているのかもしれない。 科学の発達が自然現象をある程度解明し、また経済の発展が自由と民主主義を再生し、人びとを同じ議場に立たせた。しかるにそれらの社会的意義は「分からない」ことを分かち合い、より有用な知を共有するためであるのであって、「分からない」ことを隠蔽し、無関心や冒頭にあげたようなニヒリズムを醸成しながら、大学や議会をだましだまし生き永らえさせることのためではない。世界大戦という危機が学…

  • 反寓話攷:近代精神の解体(草稿)

    現代社会において、精神と物質、経済と宗教の溝は根深いように見える。しかし実はこれらは表裏一体なものであって、本研究所でもそれに絡めて「有用性」と「消費」に一度論じたことがある。 matsunoya.hatenablog.jp 精神も物質も一種の「かたる作用」の所産である。そしてその「かたり」は、社会のあり方や歴史の流れのなかで、さまざまな解釈を加えられながら変容していく。それを名称の同一性という観点から眺めたとき、「正しい意味」「派生、転義」という対立が生まれる。 その対立を引きずって、「寓話」というスタイルが生まれることとなる。たとえば、古代中世を研究する意義そのものが、現代の寓話としてなの…

  • 物語、隠喩、精神

    「賢さ」にはまったく異なる二つの概念が内在する。事物に関する知識の豊富さを単に量る「賢さ」と、その知識がどれだけの事物と関連するかという総体の「賢さ」である。いくら科学の知識が発展したとしても、多方面の学問を別々に知らなければならないならば、それは古代や中世などより「賢くなった」とはいいがたい。 人文学が「物語」を介して伝達、伝承するものは事物との多義的なつながり、「隠喩」による賢さである。神話や呪術が天象、農耕、醸造、狩猟、鍛冶などを統合し、一時代、一地域の「語り」たりえたのは、この働きによる。ソーシャル・ネットワーク以前の社会的な結束は、物語の共有にあったといっても過言ではない。 ところが…

  • 「染中」時代の自覚

    新型コロナウイルス肺炎は、新時代の「戦争」を我われにもたらしつつあるように思う。 ここまで至る現代日本の前史として、第二次世界大戦「戦後」の時代は、バブル崩壊から阪神淡路大震災、東日本大震災を経由した「失われた20年」で一区切りを迎えた、と考えてもよい。日本人の思考のパラダイムも、個人の生活の量的、質的向上のために政治に参画するという志向から、景気や災害から生活を防衛するために政府の対応を要請するという志向へと、徐徐に移り変わっていった。そこに、少子高齢化の進行、グローバル経済の進展と観光立国構想、そして対外孤立主義等々と、さまざまな要因が相俟って、目に見えない戦争の構図を形成していく。 これ…

  • 生の終着としての道具と道具への執着としての生(フェティシズム)

    「史実」とはいったい何を指すのだろうか。考古学的な発掘がすなわち歴史的な実在を証明するのだろうか。科学的な年代測定で有史以前の世界を描くことが出来るのだろうか。多くの論考は「史実」かどうかに拘るが、その拘りの淵源を追究する研究者はあまりにも少ない。 科学的な研究は一種の演劇である。これを一概に虚構であるといいきるのはナンセンスであって、物語ること、演ずること、扮することが「実在」たりえるのである。考古学的な発掘、民俗学な見地は、数多のコピー、ヴァリアントのなかのひとつの実在を指し示す。ただしそれが研究者が探し求めるような原初の「実在」であるかは、物語への没入という「信仰」、そして物語が受け手に…

  • 「知性」学の現在のために

    植民地時代、ヨーロッパの国々は陸上海上を問わず区画し、みずからの領土を拡大していった。「探検し、地図上に線を引く」冒険譚と地政学によって、国際政治が展開されることとなる。 その後の戦争、独立、グローバル化によって、地理上の国境はなくなるかのように喧伝された。しかし孤立排外主義の蔓延、そしてコロナウイルス肺炎による「封鎖」に見られるように、それはひとときの幻想にすぎないのである。表面的なコロニアリズムは政治的努力で克服しえても、社会的なシステムや、精神や理性や美といった個人的なメカニズム、そしてそれらの根本に在る人文学、学問が停滞しているからである。 人文学は啓蒙理性の普及により宗教や信仰から切…

  • 伝説リバイバル考:オオクニヌシ、祝融、海洋交易

    前日に引き続き、斜め読みの成果を。 大国主と祝融、蚩尤の関係性については、梅原猛がもう創作で行ってしまっているらしい(何を考えても二番煎じになるのは悩ましい)。それはともかく、八十神のような兄弟神を持っていた祝融や蚩尤の記述、そしてかれらの先行者である薬祖神農と、オオクニヌシの治療神たる性格(国主=くす、くず)の類似は、中国南部、朝鮮一帯の医薬(くす)、鍛冶(金くず)の連関を見据えるばかりでなく、遠方との交易を通じた説話の連環を感じずにはいられない。 祝融、蚩尤が伝達されるにあたり、日本では主に2系統の信仰、祭祀に分化したと私は考える。前に述べたように、それはオオクニヌシという国造りを担う巨人…

  • 伝説リバイバル考:水神としての詩人と蛇神

    ことばは境界をつくりだす。ことばによってかたどられた事象は、それが伝達、伝承されるかぎり永遠の記憶となりうる。ゆえにことばを用いる祭祀儀礼は(もともとは同調(Harmony)を必要とする労働が原型なのかもしれないが)共同体の中枢としてさまざまに活かされ、書き留められることとなった。 やや時代が下ると、「抒情詩」「叙事詩」「叙景詩」は国家の形成とともに共通のトポスを獲得し、祭祀の場をはなれ、一般的、通俗的な物語へと変化していく。それに伴い、語られる対象も「理想的な」神話の神々から、いつ、どこを生きたのかが明らかな歴史的人物や、無名の「民衆」「妖怪変化」へと移っていくだろう。しかしながら、それは全…

  • 伝説リバイバル考:古代中世詩劇史論稿

    とりあえず、ブログ開設以降の思考をまとめてみる。 matsunoya.hatenablog.jp ポスト・オリエントの二つの交易路 matsunoya.hatenablog.jp matsunoya.hatenablog.jp オリエント・ペルシア・インド北部・チベット・中国北部・朝鮮(シルクロード) ケルト・ゲルマニア・エジプト・アフリカ・ギリシア・ローマ・インド南部・東南アジア・中国南部・朝鮮(海上交易の可能性) アフリカの説話も、オリエントやエジプトの神話の影響を受けているではないだろうか。 共有される情報(神話で表現されうるもの、隠喩) 農業、狩猟・漁撈、養蚕(絹糸)、金属精錬(錬金術…

  • 有用性と消費、そして聖性についての考察

    「人類学」的な思考で歴史や社会をごたまぜにして文化を論ずるのはあまり好みではないのであるが、すこし論じてみたいテーマがある。ゆくゆくは共時性や通時性を考察しうるものではないかと思うのだが…… 近代科学はおもに近世ヨーロッパの貴族、商人や地主たちによって意味が組み替えられてきた呪術の末裔である。近代に「未開」とされたその他の地域の呪術の思考と異なる点は、空間や時間をはかる尺度が徹底して抽象的な数や記号に置き換えられてきたというところに尽きる。数学的な秩序以外に意味をもたない数で計量し、記号により関係を論理的に表すことが、地域や時代を問わない普遍的学問としての科学を生み出した。 ただしそのぶん、か…

  • 精神というフィクション――劇的詩学序説

    言語はもともと集団の生、祭祀儀礼のためのもので、個の領域はその派-生である。 自然に適応するための労働や技術のために「詩」があり、そこから空間や時間のための思考、「風土」や「こよみ」の知識の蓄積も生じる。詩のリズムと表現物、そして社会的な関係は、もともと不可分に分かち合われていた。 そこで数々の「劇的なるもの」が生じるのである。詩における「隠喩」という行為は、農耕と金属精錬など、異質な事物をひとつの集団語にまとめあげ、根幹を作り出すわざなのだ。隠喩による飛躍をうずめるために、神話など劇的なるものの想話がおこなわれる。 劇的なるものによることばの境界画定は、おのおのの社会的関係の「欲望」を反映す…

  • 道化の権威学、さらけ出し、見られるということ

    Youtubeなどの動画文化の潮流は、すっかり我が国の祭祀芸能の伝統と習合してしまったように思う。前時代のラジオやテレビは、農村儀礼としての「万歳」の来訪や、都市の芸能としての「芝居」とを、同じく都市化で希薄となりつつあった民俗を「大衆文化」なる虚像として現出させた欧米文化を受け入れ、一大公共圏としての芸能、マスコミュニケーションとして大成させた。 固有の名がなく、役わりとして演じられる「万歳」や「狂言」は、「芝居」を経由して、芸人や役者の個性が賞賛されることとなった。かつて信仰と不可分だった芸能の「世俗性」が強調されることは、役がらや演者の個性、人間性(パーソナリティ)の混同が起こることとな…

  • 伝説リバイバル考:地名とオノマトペ

    これまで「民族」「渡来」集団居住の証拠と捉えられてきた地名。しかし事情はむしろ逆で、気候条件や地形を「地名」として名乗る(その始まりはオノマトペ、擬声語や擬態語があったと思う)集団があり、伝承としてさまざまに分化を遂げた、と考えるのが自然であろう。 縄文語・弥生語という区分を設け、その他種々の外国語で読み解く向きもある。当然それも参考となる。ただ、そうした集団語は社会的な関係をかえって地名に仮託して、伝承、伝達を(詩などで)かたることで形成された文学をもととするため、深入りすると「物語」の域を出ないおそれがある。とくに、農耕民族や農耕の伝来を一パラダイムとして日本史を構成する史観は、さまざまな…

  • 伝説リバイバル考:十二支アイヌ語説

    畑中友次『古地名の謎(近畿アイヌ地名の研究)』(大阪市立大学新聞会)を読んでいる。 昭和32年の本で、コロポックル先住民説や日ユ同祖論などが平然と出てくる。ともあれ、既存の近畿地名と北海道地名を対照させながら、そこに共通の地形的命名法を見いだす手法は評価されるべきだと思う。とくに「チャシ(交市、砦)」と「茶臼山」の類似は、わたしが長年気にかけていた問題でもあった。 ただし、アイヌ語も日本語も、当然意味や音韻の変遷があって然るべきである。古代・中世の「地名」は、狩猟や漁労、鉱業と農耕といった、多彩な職能民の交点であった時代を物語る証拠と言うべきであって、特定の「民族」として括られる以前の、不定形…

  • 文化のネットワークとしてのことば

    これの続き。 matsunoya.hatenablog.jp わたしは「辞典」形式の語源研究にも、「作文」主体の文法教育にも納得していない。以前示した立場として、古典教養は劇や儀礼と密接に関係しており、「集団語」としての代名詞「われ」「なんじ」「それ」が、そうした文脈から解き放たれ個人の書き物に用いられるようになったのはつい最近になっての(とはいえ、有史以来なのではあるが)運動なのだ。 だから、いま現在われわれが辞典を引き文法書を参照しながら作文をこなし、やがてこうしてソーシャル・ネットワークにて文章のやり取りを行うようになったのはむしろイレギュラーなのであって、そうした通念を古代や中世の言語…

  • 隠喩と語源

    語源は基本的に眉唾ものである。とくに即物的、明示的にかたられる「語源」は、たいていがこじつけである。地名などがその典型であろう。それを収集、検証し学問体系にまで昇華するのはまず稀有な大事業だ。言語というのは社会生活の根幹であるため、その正統性と正当性は常に問われるところのものである。 しかしながら、われわれは日常のなかで「語源」までさかのぼり意識して生活することはない。語源は、特別な「物語」なしでは判然としない。あるいは、各々の淵源というべき特殊な「集団」に思いを致す機会がなければ、言語を共時的、通時的に分析し、正そうと考えることすらないだろう。 「女房詞」や「コックニー」、「方言」や「外来語…

  • Introduction to Drasmatica――唯劇論と飛躍

    長年積ん読していたホカートの『王権』(岩波文庫)を読んでいたら、ミトラス教のことについて書いてあったり、「唯劇論」に活かせそうなアイデアを多く見つけた。というよりアウグスティヌスが聖書を「取りて、読め(Tolle, lege)」してしまったようにままある話で、その時どきの興味関心に沿った本選びをできているということなのでしょう。ホカート自身は何か民俗学や人類学的視点に立って世界中の王権やイニシエーションなどの習俗の考察を行っていたようであるが、正直海や陸は壁として隔てるためではなく、行き来するために存在するものである(すくなくとも、べきである)ので、「起源」とはいえなくても、通商路上のこうした…

  • 来たるべき労働観の変化:「労働運動」から「労働運用」へ

    新型コロナウイルスによって経済活動が大きく変貌しようとしている。しかも、学校行事や地域のイベント、そして「東京五輪」といったここ1年の動向だけではなく、テレワークや時差出勤など、今まで梃子でも動かなかった慣習的な働き方への見直しをもともなっている。 この騒動はどのように収束するかは皆目見当がつかないが、こと「労働観」については、不可逆的な爪痕を残すのではないかと私は考えている。経済や労働についてはまるで門外漢ではあるものの、時評として論じてみたい。 交通機関が不通になっても、通勤客が駅に居並ぶ光景がまだ記憶に新しい中で、「濃厚接触」による集団感染の危機がこうして持ち上がることは、おそらく戦後、…

  • Personificationの神話学――唯劇論の歴史

    神格そのものよりも、その神格に帰せられてきた物語のPersonification(擬人、人称化)によって神話を分析するべきではないかという考え。 農耕民族史観、渡来人史観、金属史観、終末論、王権……神話にはさまざまな解釈がある。「特定の社会的階層のための物語」として、神話を合理化しようとするこの近代の衝動は、神話への熱狂が失われた時代において、「学問のために」純粋な神話として保存される大義名分となった。しかしながら、特定の史観に与することは、近代以前の神話の混淆したありよう、全体像なしでさまざまな語り手によって共有されてきた「圏」としての神話をまったく反映していない。こうした多義をもつ人文学へ…

  • 漢字とその文化圏の研究について――反起源論、そして後藤朝太郎

    漢字の起源という学問分野に興味をもつ人間は多い。かくいう私も、白川静の「常用字解」や「字統」から起源に興味を持ち、藤堂明保の漢字家族論に惹かれたひとりである。その後西洋史学に進んだため、輓近の研究には触れられていないのだが、これらの漢字研究は多くが50年以上前のものであり、アップデートの必要があるのかもしれない。けれどもこの両者以上の鮮烈な論は管見では見受けられない。 しかし、ここで問題となるのが、「日本人には漢字は他者の文字であり、そのやまとことばへの受容には葛藤があった(だろう)」という論である。維新、戦後の漢字廃止論などの精神的支柱としてのこの漢字コンプレックス。漢字研究は多かれ少なかれ…

  • 唯劇論――情報文化圏交渉比較言語人文学の立場で

    情報文化圏交渉比較言語人文学という長ったらしい名前を冠して自らの専門領域としたのは、高度に専門化して周りを見渡せないほど多岐に分かれてしまった人文学のあり方へのささやかな抗議からであった。もっと簡明な仕組みですべてを把握できはしないか――そうした知的欲求は、オリエントとインド=ヨーロッパ、そして東洋文化のある種の同源性から、刻々と移りゆく時間や空間を「こよみ」、「風土」と捉え改変するメカニズムの考察を経て、ある帰結をもたらそうとしている。 matsunoya.hatenablog.jp matsunoya.hatenablog.jp 以上に述べ来った私の姿勢を、ひとことで言い表すとすれば「唯劇…

  • 男子の本買い

    どう学究につながるかを踏まえたうえで、徒然なるままに買った古書を振り返っていこうと思う。 哲学篇 千葉命吉『現象学大意と其の解明』(南光社、昭和3年) おそらくフッサール現象学に触れた最初期の日本人の著作。著者は大正教育八大主張なる講演会を行った教育家の一人であり、官憲の弾圧や相次ぐ渡米渡独を経験した稀有な人で、カルト的人気を集めている。 管見の限りネット上には「独創主義」とよばれる彼の教育のみがクローズ・アップされており、この著作にまつわる解説ページは皆無であるといえる。特異なのは、平田神道の名彙で現象学を解説しようと試みられている点であり、巻末には訳語対照表が付いている。独自解釈も含まれて…

  • 学融機関論――「学行」構想

    これらの続き。 matsunoya.hatenablog.jp matsunoya.hatenablog.jp まえに「学財閥」という、学問的にも経営的にも厳しくなった大学を、地域や企業が銀行とともに再建に取り組み、学生の消費や就職を囲い込むようになるのではないか、という予測を述べた。今回は大学や研究所側も、ゆくゆくは金融システムのように研究を管理し「貸し付ける」ようになり、より学際的な交流が生まれるのではないか、と期待をこめて、学校と銀行のハイブリッド、「学行(がくこう、UniVanque)」と名付ける。 ●「講座」の管理 学行では、教師や講師について教えられるのではなく、一人ひとり「講座」…

  • 伝説リバイバル考:太子/大師信仰と劇、そして「ミトラス」

    聖徳太子と秦氏の関係、そして秦の始皇帝やユダヤ教、ネストリウス派キリスト教との妖しげなかかわりについては、何冊もの本が著されてきたのでここではあえて論じない。いくら鎮護国家や律令国家、守護地頭といった体制が整えられたとはいえ、古代や中世における国家や仏教は現代におけるそれとは根本的に異なるといわねばならない。 口承的な「語り」によって緩やかにまとまってきた社会や歴史は、研究者がいかに文章を弄しても、書物の「文化」ではけして近似することはできないものがある。ここを閑却して、書物文化と国家権力や信仰をむりやり重ね合わせていった結果、社会や歴史はヒエラルキーと選民主義に満ち満ちた無知へと人を導く。 …

  • 伝説リバイバル考:オオクニヌシと抽象化される暴力

    matsunoya.hatenablog.jp これの続き。 matsunoya.hatenablog.jp そしてこれとも多少関連してくる。 邪馬台国の位置がどうとかいう議論もそうだが、「出雲神話」という観念にとらわれては、神話――芸能と信仰の渾然一体としたもの――を一読者の視点からどうこう論評することにしかならない。 国譲りとか出雲王朝とかを古墳時代や奈良時代の実在の出来事に限って追究するスタイルも結構である。しかしながら、神話を伝えてきたメディアを考察すること抜きには、国家的な暴力と抑圧されてきた民衆、のような感傷的でありきたりな――いわば小市民的神話の――世界を脱することはない。 おそ…

  • 伝説リバイバル考:お菊・皿屋敷伝説

    中世・近世の伝説は古代神話のリバイバルであるという仮説のもと、お菊さんで知られる皿屋敷伝説と、菊理媛≒白山明神の関係を夢想してみる。とんでもな推論かもしれないが。 中世の皿屋敷伝説の初見には、皿もお菊の名前も出てこず、鮑の盃、それも五枚のみだったと聞く。この伝承は中世の時点ではかなり実話に近かったのではないかと思う。しかし口承にて伝播することによって、現在のわれわれが重視するようなリアリティではなく、その言語的な呪術性、シンボリズムが強調されることとなった。音が似た句を連続させることで、伝達の便をはかることもそうだが、おそらく似た名の神仏との結びつきを借り連想させることで、後代に伝承されやすく…

  • 学融資本論――客観性と観客性

    これの続き。 matsunoya.hatenablog.jp 景気次第ではあるものの、この数年のうちに経営破綻、機能不全に陥る大学や大学院はおそらく国公立、私立を問わず増えるのではないか、と考えている。学生は学生で高校卒業世代が少なくなるだろうし、学費の負担も重くなる。教授も教授で、事務的な仕事が増え、言論執筆活動とのバランスをとるのがいっそう難しくなると思う。 それでも、若い労働力や購買力の確保や就職予備校としての性質から、地域社会や企業は大学という集金マシーンを見放すことはないだろう。大学自治という建前はあるが、採算の取れなくなった大学は、地方公共団体や民間企業の支援や介入を受けることとな…

  • 歴史総力戦主義について

    表題は全くの造語で、歴史にたいするある種の硬直的で閉鎖的な態度、日本史は日本史として、東洋史は東洋史として、西洋史は西洋史として固定観念をもって歴史に取り組むことをさす。ありったけの文献や考古学史料、そして学生や研究者を総動員して、学問としての歴史の株を守ることに終始する。 高等教育においてひとつの教科のエキスパートとなって、次世代の研究者の教育をしなければならないという使命があることはしかたがないことである。郷土史家や歴史小説家としてある国、ある地域の偉人を顕彰するということも歴史の共同体における役割の一つである。 しかし、歴史はある観念「ありき」で編纂されるべきではなくて、その時々において…

  • 情報文化圏交渉比較環境人文学:継承と変容

    matsunoya.hatenablog.jp 祭礼……風土(空間)とこよみ(時間) 異界観……交易や地理認識の反照 詩学……語源意識と隣接語群からの借用 汎ユーラシア的移動・交渉と知識集積……物語の発生の総合的考察 「シュメル神話」と「中国神話」の比較(先行研究あり) メソポタミア、インド=ヨーロッパ語族への影響……法学や先例への先鋭化 大和神話、「明宿集」、シャーマニズム……「よりまし」の理論化 ただし、近代の東方学、東洋学、西洋学、国学の性質「帝国的拡張の副産物」という差し引きは必要である。つまり、学問の性質そのものが差異化、帝国的秩序を内包している。 歴史・信仰は上書き、更新される。 …

  • 分化する暴力:間名差し論

    古来より哲学は渾然一体とした「一者」のようなものを根源として思考してきた。しかしながら、一がなぜ多に分かれるかについては、いまだに「悪」のような分化を仕向ける対向者を仕立て上げ、「一者」への回帰をうながすような筋立てに終始するものも少なくない。それは古代、中世、近世、近代、古今東西あらゆる学者が嗜好してきた物語であって、純粋に観客としてみるならば食傷してしまう落としどころだろう。 とはいえ、小論が二千有余年の伝統芸能を覆すような新奇を表現しうるとは考えられない。そもそもの「一者」的なものが暴力のかたまりであって、つねに分裂し、間(ま)を際立たせるような衝動に満ちている、ゆえに少しでも間の細分化…

  • 英語力とはなにか

    世の中には「英語力」ほど珍重されているものは他にないと思う。その事実こそがわが国の英語教育、ひいては言語教育観の貧しさを端的に示している。英語力なる得体の知れぬ力で英語は「話されている」のだろうか。この巷説の裏を返せば、日本語を使うのに日本語力が必要だというのである。 日本語は非論理的で、情感のこもったやわらかな表現が多いというのは虚妄である。そういう人間はほとんど、他の言語のそうした感性に通ずる表現を知らず、言語間を比較したつもりになっているのである。受け売り引き写しで皮相的に言語を論ずるから、漠とした言語へのイメージしか持てず、結果として子どもや若者に日本語すら教えられない大人ばかりになる…

  • ロゴスの探究ーー嗜劇性の人文学体系

    ことばという行為によって運ばれる形式と質料については、それを訣ち考えることができない。元来ことばとは、書物に記されるまでもなく、また書字が一般的になっても何者かに効力を強いるために運用される劇的かつ呪術的であった。それを記号や理念型、属性といった無味乾燥なものと、主題や精神といった湿気たことに分断してしまった時代がある。政治的な混乱や知的な迷走などと、いままでろくなことがあった験しがないのであるが、ともかくこれらを混淆させねば人文学は活動していかぬのだ。 言語形式とロゴス 文法に生じるロゴス ことばはことの端(もの)であり、ことの場(のり)ともなりえる。ことばの定義について古来よりさまざまな定…

  • 年頭所感

    相鼠有皮 人而無儀 人而無儀 不死何為 相鼠有齒 人而無止 人而無止 不死何俟 相鼠有體 人而無禮 人而無禮 胡不遄死 (『詩経』鄘風、「相鼠」)

  • 学融商品論ーー不可視の大学、または図書館

    前まえから考えてきた学融機関について、少しずつ計画をはっきりさせていこうと思う。 matsunoya.hatenablog.jp 書籍がなぜ売れないのか、高校生や大学生のレベルがなぜ低いままなのか、人文学はなぜ社会の役に立たないのか……ほとんどの意見は文句を垂れ、問題を先送りにしたまま現在の出版物や、学生たち、そして人文学そのものを社会に送り出してしまった。 発展とはいわないけれども、これからの社会を維持していくには、未来の人文学の見通しや、拡散してしまった人文学的情報、情報の受容者となるべき社会人を再編する産業が不可欠である。 日本各地、あるいは世界を巡り歴史を訪ね余暇を楽しみ、「学び直し」…

  • 客観的に仮構された時間としての歴史学

    「構造」空間→時間→社会的関係群(社会集団、役職、共通尺度) 「意味」符合→強意→階層化および秩序化 古代や中世の歴史は解釈が困難である。それは物語と歴史が不可分であることも勿論ながら、そこに措かれている事象が多くの社会的関係群とかかわっているため、混乱を見てとらざるを得ない。神話や言語の「例え」の性質……音の模倣的関連、意味の比喩的運用が「起源」として居すわっているが、それは実体ではなく「作用」として捉えられる必要がある。 われわれが知覚するにあたっては、向きをしめすいくつもの作用が折り重なり、ある循環をもつような実体が「ある」ように感じられる。それは実際には「ない」おそれを抱かぬほどに明ら…

  • 言語研究ノート

    ことばとは符合することである。そしてその発展として、さまざまな強意の形態がある。それらを列ね、束ねることによって、言語はあるスタイルと構造を獲得する。 個としての領域、主観としてのことばから、客観的な集合体のための言語を確立するには、共同体の歴史と社会とことばとの符合が技術(わざ)として不可欠である。まったく偶然な音と指示対象の合致が、必然的な語源学へと昇華されるために、「かたり」へと向かう欲望、という際立ちが求められるだろう。こうして得られた編み目(コンテクスト)を意図的に緊張させることで、学問は体系的に成り立っているわけであるし、国家や民族、精神に理性という社会的関係群は、まるで身体のよう…

  • 「とりたて」と「列なり」、あるいは断絶と持続

    「とりたて」表現がどのような形式で発現しているかの比較研究。 「こと」は、「もの」がいかなる関係におかれているかを指し示す。たとえば、文章とその主題のむすびつきのように。主題は、ただの主語と述語や、名詞や動詞の関係のみならず、より広範な想起をもとめる。 説話の型を、主題と同義にあつかっても構わない。そこには「カテゴリー」、アゴラで語られるような訴訟上の争点が示されている。責務ないし債務を発しているのだ。「とりたて」表現には代価として注意を払わなければならない。かたどられたものの対立や融和によって際立つ点こそが、社会や歴史上に人びとが求めるような過剰な欲望を表象している。「聖なるもの」、権威をう…

  • 一即多(いっしょくた)ーー二元論への試み

    前の記事で、どうやら言語というのはイメージ(異名辞)、「強意」のかたまりであることに思いいたった。 matsunoya.hatenablog.jp 驚異であり、脅威であるところの、「乱れ」。集合体内にまた別の集合体を見いだす「入れ子構造」。われわれは矛盾や反語をたやすく口にするが、そこに作用しているある種の混淆に目を向けているだろうか。矛盾や反語は、非論理かつ病的なものとして排除してはならない問題を抱えている。 部分と全体の調和的な秩序、符合は、つねに社会内で意識されているおきてである。比や集合といった数学は、一を基礎にした多の考察という点では、こうしたおきてを求めようとする社会的な関心と連動…

  • 情報文化圏交渉比較環境言語人文学ーードラマトゥルギー序説

    情報文化圏交渉比較環境言語人文学の取り扱う事柄についてメモ。 matsunoya.hatenablog.jp 「こよみ」時間知と「風土」空間知という前提 感覚から慣習という一定の流れ、構想 密な空間と疎な空間、山岳、丘陵からむらやまちへ向かう儀礼 密な時間と疎な時間、晴れ(快楽)による褻(労働)の征服 山岳や丘陵の代替物としての建築物、祭りの代替物としての商業 そこからいかに作為、作品、作者が生まれたか……書く技術の共有 例外が慣習を基づけるまで、分かち、分かち合うまで、 matsunoya.hatenablog.jp 「乱れ」 としての説話型、「まれ」なる変化(へんげ)像 「まれ」の具現化、…

  • 芸能、マス・コミュニケーション、信仰、旅、災害、病

    表題に掲げた語群は、太古よりこのかた社会的連関を保ったまま、各地で文化現象を、つまり「かたり」をかたちづくっている。 従来多くの言語学は、おもに構文や発話行為といった「国家語」「民族語」の研究をしていても、その「かたる」対象ははなはだ空想的である。文は「禁止」「命令」「現在」「過去」等々と分類され、どこか静的というか、その国家、民族をかたちづくってきた「かたり」に踏み込んでくることはない。これらをかたちづくってきた過程を考察するかわりに、もう既製品となった国家や民族から(あるいは宗教など、諸社会集団を考えてもいいだろう)言語が生い出でるように考えているふしがある。 既製品、ということばで言い表…

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、松屋汗牛さんをフォローしませんか?

ハンドル名
松屋汗牛さん
ブログタイトル
マツノヤ人文学研究所
フォロー
マツノヤ人文学研究所

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用