書物文化、およびインターネット社会は、「書く」、および「読む」という行為を食事や排泄と同じくらい欠かせない反射的で、感覚的な行為として完成させた。しかも、それらは思考する「精神」の営為として理解される。民族や国家、あるいは民衆といったカテゴリーに属して、自発的に行動する人間の表現の発露。おそらくこの事実について疑問をさしはさむ人間はいない――いないからこそ問題なのだ。 「書く」「読む」という行為を社会的に何かを「伝える」営為とするとき、なぜその事象を日常生活のなかで「想起する」、または「表象する」のかという問いに置き換えると、「書く」「読む」行為はたちまちその反射性、感覚性を除かねばならない。…
以前、といってもずっと前だが、このブログにて「学融機関」というアイデアを扱ったことがある。文化をSDGsなどに絡めてPRし、現在への投資に活かしたり、遠隔地の文化財や行事などのサービスを取りまとめて、観光や地域振興に活かす拠点として、「大学」や「美術館、博物館」などがより自らのもつ文化的な情報の取り扱いに先鋭的になるべきだとする論だったように記憶している。 私のスタンスは、コロナ禍の前のこの無邪気な空想からは全く変わっていない。いな、むしろこのアイデアにこそ、新時代の情報産業の要が存在するように考えられる。 アメリカのGAFAをはじめとするビッグデータ産業、および中国の情報産業を鑑みるに、彼ら…
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