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  • ▼山の軽口ばなし

    「秩父・秩父御岳山と木曾御嶽山」【概略】埼玉県秩父にも御岳山があります。ここは江戸中期の修験者・普寛(ふかん)行者によって開かれたとされています。普寛行者は木曽御嶽山の王滝口を開いた行者。そのためこの山も御岳山と名づけたのですが、秩父にあるため秩父御岳山(1081m)とも呼んでいます。南麓の秩父市(旧大滝村)落合集落には行者を祭った普寛神社があります。普寛行者は1731年(享保16)、この大滝村落合の木村家に生まれたといいます。幼名を木村好八丸といい、のち江戸の八丁堀同心浅見家にムコ入りしました。しかし34歳の時出家。故郷近くの三峰山で修行し、名前も正本山本明院普寛と改めます。のち全国の霊山を巡歴。52歳の時伝燈大阿闍梨(あじゃり)になりました。諸国修行中、木曽御嶽山が未開拓だということを聞き、その王滝口...▼山の軽口ばなし

  • ▼山の軽口ばなし「南ア・半神半鬼夜叉の夜叉神峠」

    【概略文】南アの入り口の夜叉神峠には荒ぶる神夜叉神をまつる石祠があり、峠の名はこの神から来ているという。かつて桃ノ木鉱泉のそばを流れる釜無川の支流、水出川(御勅使川)の上流に、身の丈20数m、眼は爛々と輝かせる暴れん坊の神(夜叉神)がすんでいたという。疫病をはやらせ、暴風を自由にあやつり、洪水を呼んで悪事悪業の仕放題。見かねた甲斐の国造(くにのみやつこ)・文屋の秋津は、この惨状を淳和天皇に奏上しました。天皇は心を痛め、勅使を送り、水難防止除けを祈ったという。そのため、水出川は御勅使(みだい)川と名を変えたそうです。これとは別に村人たちは、はじめは恐れおののいていたものの、ついに我慢できなくなりお互いに相談。夜叉神をまつりあげ、御勅使渓谷を一望できるこの峠に石の祠を建て、念入りに祭祀しました。それからは災害...▼山の軽口ばなし「南ア・半神半鬼夜叉の夜叉神峠」

  • ▼山の軽口ばなし「奥武蔵入口・天覧山と能仁寺」

    【概略文】埼玉県奥武蔵入口に天覧山という標高197mばかりの山があります。天覧山から多峯主山(とうのす)、巾着田(きんちゃくだ)のコース。天覧山とは1883年(明治16)、明治天皇がこの山に立って陸軍の大演習を統轄監督したことによるといいます。この山はもともと愛宕(あたご)権現をまつってあり、古くは愛宕山と呼んでいたということです。江戸時代、五代将軍綱吉が病気になった時、生母である桂昌院が南ろくにある能仁寺に祈願したところ、綱吉の病気が全快したのです。桂昌院は、そのお礼に山中に十六羅漢像を献納したといいます。山頂近くには鏡岩・獅子岩など大岩が露呈していて、「天覧山の勝」として埼玉県の名勝に指定されているという。南麓の能仁寺は1868年(慶応4)の飯能戦争(彰義隊の系統である渋沢精一郎を首領とする振武隊と官...▼山の軽口ばなし「奥武蔵入口・天覧山と能仁寺」

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