従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。<br><br>
天海僧正は、明智光秀か信長殺しは家康か上野公園にある寛永寺とか、埼玉県川越市の喜多院住持として、天海は有名であり、『真宗伝記』の著作もよく知られている。が、一般には1536年(天文五年)生まれで1643年(寛永二十年)に没、つまり百八歳までの長寿を保ったという点で、「平均寿命が伸びた現在でさえ百歳以上は珍しい」のに、「人間僅か五十年」が定年制だった時代に、そういう高年齢は信ぜられぬので、疑問をもたれている。というのは昔から、「めでたやな、めでたやな、三浦の大助百八ツ」という長寿祝い唄があるごとく、百八という年齢は、実際年齢をさすのではなく、長寿を象徴する熟語であるからである。そして、この年齢不祥の僧正については多くの異説があるが、武田信玄をたよって、延暦寺の僧徒と交流があり、七福神法の慧心流の幽旨をきわめ、天正...天海僧正は、明智光秀か信長殺しは家康か
鉄砲軽視由来記大量生産なまくらの昭和新刀それは奇妙なことかも知れないが、昔からして、「槍一筋の家柄」とはいうが「鉄砲一挺の家柄」とはいわない。「街道一の弓取り」は、立派な武将のことをさすが、「街道一の鉄砲打ち」となると、これは猟師の事となる。それに『信長公記』などには、信長が鉄砲を習ったようにでているが、一般には、「鉄砲」というと、「足軽鉄砲」とされている。だからでもあろうか前大戦でも、アメリカ軍は、閣下とよばれる準将クラスでも肩章をとって自動小銃を小脇にバリバリ撃ちまくって突撃してくるのに、これに対する日本軍は、下士官の軍曹や伍長あたりでも、斬れもせぬ昭和刀をぶら下げて、「日本刀は武士の魂だ」とばかり、鉄砲は足軽なみで、豪いのは刀だとやっていた。だから、つい弾薬の補給もおろそかになったのか、各地で弾丸がなくな...鉄砲軽視由来記大量生産なまくらの昭和新刀
哀れなり築山御前以下がウエキペディアに書かれている、築山御前の記事で、現在、通説になっている。徳川家康の正室。名は未詳。一般的には築山殿、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)ともいわれる。「築山」の由来は岡崎市の地名である。父は関口親永(氏純とも)。母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。夫の徳川家康と同じ歳とする説、2歳年上とする説、12歳近く年上の1廻り歳上だったとする説がある。『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると井伊直平の孫娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという。その場合だと井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たる。近年では、関口親永と今川氏との婚姻関係を否定する説(親永の実兄である瀬名氏俊が義元の姉を...哀れなり築山御前
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