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新令和日本史編纂所 https://blog.goo.ne.jp/reiwanihonshi

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。<br><br>

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2019/09/12

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  • 日本史に見る「悪女」の系譜 日本悪女考

    日本の悪女とは、誰に対して悪い女かという事がまず命題になる。男と女はまるで違うのであるから、男にとって思うようにならぬ存在として見れば女で悪女でないのは珍しいくらいのものである。ではその女自身にとって悪いのが、それでは悪女かと云えば、これまたそうでもないらしい。何しろ女は良い結果は自分の所為にしたがるが、そうでないのは他のせいにするからである(ここは女性には異論の在るところでしょう)では何だろう?となってしまう。勿論明快にして簡単な区分法もある。○消極的に他に気兼ねしながら生きたのが、善女。○積極的に思いの儘に生きたのが、悪女。といったのが、有りふれた解釈なら、○無名で埋もれてゆき、忘れられるのが善女。○有名で死後も取り沙汰されるのが悪女。こうした判別の仕方もあるだろう。とは言え、後世にその名が残るという事は、...日本史に見る「悪女」の系譜日本悪女考

  • 手形の元祖 天王寺屋五兵衛

    まるで浪花遊侠伝の一人のようだが、彼は侠客でも何でもない。『日本商業経済史』の中でも「我が国における手形振替による為替制度の創始者、西国浪人にして旧姓を大眉氏(大眉蔵人)と云い、大阪表へ移って天王寺屋を名乗る」とある。『戦国人名辞典』にも同じように出ている。しかし、残念ながらその深い内容にまでは触れられていないので、ここでそれを解明してみたい。そして、手形決済とか、為替振込といういうと、今の人は最初は大阪江戸の間で行われだしたように考えている。が、実際はそうではなく手形決済の起源は、山陰道と山陽道間が、史実の上でも間違いのない事実のようである。云うなればこの始まりは、山陽道を押さえていた毛利元就方と山陰地方の尼子晴久との間での、双方決済がこの為替制度の起こりである。といって、毛利と尼子は明け暮れ戦をしていたのだ...手形の元祖天王寺屋五兵衛

  • 大本営参謀の情報戦記 第三部

    大本営参謀の情報戦記第三部参謀本部「ソ連班」はドイツの敗北を分析していた第二次大戦前、日本は、日独伊の三国同盟を国策として締結した。そして、ドイツがソ連に攻め込むと、ドイツの勝利を疑わなかった。だがこれは、何々をすればドイツが勝つだろうという、予想と願望を基にした甘い判断だった。しかし、参謀本部情報課第五課は「ドイツ敗北」の判断をしていたのであるが、参謀総長はこれを無視してしまった。日本にも正しい情報判断をしていた人や部署があったというのに、惜しみて余りある話である。以下p-50-からの引用。西郷大佐の第十六課の情報への取り組み方は、何といっても大島浩という近来稀な大物武官(のち大使)を持っていて、ドイツの権力の中枢であるヒットラー、ヘス、リッベントロップといった重要人物と、あまりにも容易に会って意見を聞き得る...大本営参謀の情報戦記第三部

  • 山本五十六と日本の戦略の失敗

    山本五十六と日本の戦略の失敗年末から正月にかけ、テレビの下らぬ番組に辟易して、古い映画のDVDを観た。そのうちの一つに、映画の山本五十六について。主演の役所はそれなりの演技で無難に演じていました。しかし脚本は山本を美化しすぎ、形而上的に捉えすぎている。原作は半藤一利だが、亡くなった阿川弘之著「山本五十六」の方が秀逸といえるだろう。この山本を演じた役者は私の知る限り歴代8人居り、時系列では以下となる。大河内伝次郎、佐分利信、藤田進、三船敏郎、小林桂樹、古谷一行、丹波哲郎、役所広司。一番はまっていたのは小林桂樹ではなかったろうか。さて、米国の国力を知り尽くしていた山本が、「一年や二年暴れてみせる」等と嘯くのは所詮は軍人の悲しいさがでしかない。この山本を名将と評価する人も、凡将という人もいる。山本は米軍戦闘機に座乗し...山本五十六と日本の戦略の失敗

  • 信長の武将 滝川一益 やくざの発祥ヤシ テキヤ

    信長の武将滝川一益やくざの発祥ヤシテキヤ織田信長の武将達には次の者達が有名である。羽柴秀吉前田犬千代毛利新助丹羽長秀蜂屋頼隆川尻与平滝川一益蜂須賀小六明智光秀柴田勝家斉藤内蔵助森乱丸この者達は皆、永禄元年から天正年間に活躍しているが、藤吉郎時代の秀吉と同僚だった滝川一益の方はあまり知られては居ない。秀吉が藤吉郎と呼ばれ、まだ小者だった時代、織田家の長屋で隣同士だったこともあまり知られていない。この二人の出世には後に大きな差がつく。関東管領として五十万石も取っていたが、最後は三千石にまで落ちぶれた、悲劇の武将にここでは光を当ててみたい。山科言継卿日記<山科言継卿記第六巻>の、「天文二年七月二日の条」を見ると、何しろ応仁の乱このかた戦国時代で、すっかり生計不如意になった京の公卿が、当時の言葉で言うなら「少しドサ廻り...信長の武将滝川一益やくざの発祥ヤシテキヤ

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