八光洞から西へバイクで10分足らずの距離に常照皇寺があり、その手前には「丸山しだれ桜」が植栽されています。「丸山」は当地の地名「右京区京北井戸町丸山」によるものと思われ、京都市内で桜が散った頃、当地は桜の見頃となります。北へ進むと正面に参道の石段があり、そ
西国観音霊場、新西国霊場、薬師霊場、近畿不動尊、神仏霊場など関西の巡礼地及び洛陽観音霊場、京都十二薬師、都七福神などの京都市内の霊場を紹介します。
二尊院から北へ進み、その先で左折して西へ進んだ先に祇王寺があります。受付から入ると苔庭を周遊するように順路が設定されています。祇王寺は山号を高松山、院号を往生院と号する真言宗大覚寺派の寺院です。平安時代の末期、平清盛が盤石な地盤を築き上げた頃、都で白拍子
二尊院から北へ進み、その先で左折して西へ進んだ突き当たりに祇王寺への参道があります。祇王寺本堂の模型でしょうか?参道を登ると右側に祇王寺の入口あり、その左側を進んだ先に滝口寺の拝観受付があります。滝口寺は山号を小倉山と号する浄土宗の寺院です。かって、この
小倉百人一首文芸苑の右隣りに二尊院があります。二尊院は正式には山号を小倉山、院号を二尊教院、寺号を華台寺と号する天台宗の寺院です。承和年間(834~847)に第52代・嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師・円仁が開山したと伝わります。但し、円仁は承和2年(836)から遣唐使と
常寂光寺から戻って東に進み、元来た四つ角を左折して北に進むと、「小倉餡発祥の由来」の駒札が立っています。日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは、弘仁11年(820)とされています。当時、小倉の里に和三郎という菓子職人がいて「亀の子せんべい」を作っていました。大
「無動庵」から100m足らず西へ進んだ突き当りに常寂光寺があります。南約100mに小倉池があるので随分遠回りして来た感があります。山門は江戸時代後期に改修されました。江戸時代中期の「都名所図会」には袖に土塀をめぐらした薬医門が描かれていますが、現在は土塀は取り払
清涼寺西門から西へ進んだ北側に慈眼堂があります。鎌倉時代前期、この地に藤原定家(1162~1241)が中院山荘を営み、慈眼堂を開基したと伝わり、慈眼堂には本尊として木造千手観音立像が安置されていました。千手観音立像は像高58.1cm、鎌倉時代の作で「中院観音」とも呼ばれ
薬師寺の本堂は清涼寺の境内に向かって建っています。現在の本堂などの建物は、江戸時代初期の寛永年間(1624~1645)に焼失し、その後再建されたものです。薬師寺は山号を竜蟠山(りゅうばんさん)と号する浄土宗知恩院派の寺院で、清涼寺の境内塔頭です。薬師寺は弘仁9年(818
小倉池から東へ進み、府道29号線へ左折して北へ進んだ突き当りに清涼寺の仁王門があります。現在の仁王門は天明4年(1784)に再建されたもので、京都府の文化財に指定されています。和様と禅宗様を折衷した建物で、初層には室町時代の長亨(ちょうきょう)年間(1487~1489)作の
清涼寺の仁王門の手前に愛宕野々宮両御旅所があります。御旅所とありますが、ここに両社の神輿が納められています。5月の第四日曜日に野宮神社と愛宕神社合同の還幸祭が行われますが、愛宕神社は山の上なので勿論、野宮神社の神輿でさえ、神社に立ち寄ることはありません。大
妙見大菩薩は、北極星、北斗七星を神格化した菩薩であり、諸星の王として宇宙万物の運気を司どり支配される菩薩です。「洛陽十二支妙見めぐり」は、京都の中心である御所・紫宸殿を中心に十二支の方角に祀られた妙見宮から構成され、それぞれの妙見宮をめぐり開運、厄除けを
小倉百人一首文芸苑の北側はJR山陰線(嵯峨野線)に面し、踏切がありますが、渡らずに野宮神社まで戻り、神社の南側の竹林を進みます。「竹林の道」と呼ばれ、野宮神社から大河内山荘(おおこうちさんそう)まで約200mの小道で、毎年12月には、京都・嵐山花灯路が開催され
天龍寺総門から府道29号線を北へ進み、次の丁字路を左折して道なりに進んだ竹林の中に野宮神社があります。野宮とは天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所で、主に嵯峨野の地が選ばれ造営されましたが、天皇一代ごとに場所を変え、造り替えら
天龍寺総門は、南は渡月橋から北の嵯峨釈迦堂へと至る府道29号線に面して建っています。天龍寺は正式には「霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)」と号する臨済宗天龍寺派の大本山で、神仏霊場の第86番札所です。平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の構
宝巌院前の車道には杭が立てられ、乗用車では通行できませんが、先へ進むと天龍寺の自転車・原付の無料駐車場があり、そのすぐ先には法堂(はっとう)があります。元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変で、長州藩は天王山と伏見の長州藩邸及び天龍寺に陣を敷いていたこ
承和年間(834~847)、法輪寺を中興した道昌は勅願により大堰川(おおいがわ)を修築し、現在の渡月橋より上流約100mに橋を架けました。大堰川とは渡月橋の上流から松尾の辺りを指し、それより上流は「保津川」、下流は「桂川」と呼ばれています。この地を開拓した秦氏により
法輪寺から府道29号線を北上し、渡月橋を渡らずに更に北へと進んだ左側に宗像神社・櫟谷神社への石段があります。神社の境内左側に「嵐山モンキーパーク(入園料550円)」の入口がありますが、新型コロナの影響で、閉園されています。宗像神社・櫟谷神社とも古くから松尾大社
西光院から北へ進むと府道29号線に合流し、府道を更に北へ進むと法輪寺があります。府道から境内に入ると轟橋が架けられていますが、現在川はありません。北向きの石段を登ると山門があり、左側に無料駐車場があります。無料駐車場の向かいに稲荷社があります。フェンス内に
蔵泉寺前の街道を北へ進んだ所に西光院があります。西光院は山号を二尊山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、京都洛西観音霊場の第29番札所です。塀の前に「西行法師旧跡」の石碑が建っていますが、西光寺は西行法師が住したと伝わる庵を起源としています。かって本堂の北
松尾大社から府道29号線を北上し、郵便局の手前の信号を左折し、その先の四つ角を左折して道なりに進んだ先に蔵泉寺があります。蔵泉寺は山号を宝珠山と号する臨済宗相国寺派の尼寺で、京都洛西観音霊場の第28番札所です。山門の手前には夢窓国師の腰掛石があります。夢窓疎
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八光洞から西へバイクで10分足らずの距離に常照皇寺があり、その手前には「丸山しだれ桜」が植栽されています。「丸山」は当地の地名「右京区京北井戸町丸山」によるものと思われ、京都市内で桜が散った頃、当地は桜の見頃となります。北へ進むと正面に参道の石段があり、そ
貴船神社の奥宮から北へ、標高680mの芹生峠を越えた先、奥宮からバイクで10分足らずの距離に「芹生の里」の碑が建っています。芹生の里は、上桂川支流・灰屋川(はいやがわ)の上流にあって、灰屋川に芹(せり)が自生していたことが地名の由来とされています。かっては、林
杉坂の船水の先を左折して北へ進むと「古道 若狭街道」と記されています。若狭街道は朽木を経由するものなど幾筋かのルートがあります。その直ぐ先に「氷室分れ」の標識があり、左折して北への坂道を登り、その先で下りとなって、標識からバイクで5分余りの距離に氷室神社が
北山台杉の畑の先で鷹峯街道は、直進する府道107号線と分かれ、右折して南下し、その先に地蔵院があります。山号を「桃源山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院ですが、創建に関する詳細は不明で、平安時代(794~1185)には真言宗の寺院であったと伝わります。明治20年(1887)
国道162号線を北上して、バイクで中川へ向かいました。平成10年(1998)に延長1,582mの中川トンネルが竣工し、現在での国道は集落を迂回しているため、集落内は閑散としています。日本人初のノーベル文学受賞者・川端康成(1899~1972)の小説『古都』の舞台となった所でもありま
東雲寺から東へ、バイクで20分余りの距離に四所神社(ししょじんじゃ)があります。所在地は京都市右京区ですが、カテゴリーは「京都府亀岡市~福知山市・綾部市」に含めます。天文21年(1552)に愛宕山白雲寺福寿院の幸海(こうかい)僧正が、清滝四所明神を原村の「かぶとの
清源寺の南西方向、バイクで約5分の距離に巴塚があります。源義仲 (みなもと の よしなか:1154~1184)の愛妾(あいしょう)・巴御前(ともえごぜん:生没年不詳)を祀る供養塔があります。寿永2年(1183)5月11日の倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で大勝し、
京都帝釈天の駐車場から南へ、バイクで5分足らずの距離に文覚池があります。神護寺中興の祖である文覚上人(もんがくしょうにん:1139~1203)が治承年間(1177~1181)に当地へ訪れ、この地を適地と村人を指導し、村人が掘削した溜池で、周囲850m、面積4.22haの大きさです。当
京都帝釈天の駐車場から南西方向へ、バイクで5分余りの距離に西光寺があります。山号を「飯森山」と号する真言宗の寺院で、山門は龍宮造の鐘楼門です。勝宝8年(756)に良弁大僧正(ろうべん/りょうべんだいそうじょう:689~774)により創建されたと伝えられています。その後、
日吉ダムの南、バイクで約10分の距離に福寿寺の駐車場があり、その先から帝釈天参道の登りとなります。参道には「願いの鐘」が設置されています。本堂石段下までの約700mに108の鐘が設置され、願いを込めて左手で叩いていけば、帝釈天に届くと記されています。また、「庚申塔
生身天満宮から北東方向へ、バイクで約15分の距離に日吉ダムがあり、ダムの手前の橋を渡り、上桂川の北側の道路を川に沿って登ればダム管理所前の駐車場へと続きますが、こちらは上桂川の南側の道路からの画像です。こちらは管理所側で、石垣に見える目印は平成25年(2013)9月
九品寺の東、バイクで10分足らずの距離に「園部城址」の碑が建っています。元和5年(1619)12月に但馬国出石藩主であった小出吉親(1590~1668)が移封され、園部藩が誕生して園部陣屋が築かれました。小麦山南東の丘陵に方形居館、武家屋敷を構え、周囲には外郭線を築いた本格的
摩氣神社から北東方向へバイクで5分余りの距離に九品寺があります。参道を入ると「天宗」と刻まれ、その奥に大日堂があります。天宗は昭和29年(1954)に開かれ、真言宗の流れを汲み、大日如来を本尊としています。東京都日野市にある日仏寺聖殿が総本山とされています。堂内に
摩氣神社(まけじんじゃ)は、JR山陰本線「園部」駅の西にあって、徒歩だと2時間近くを要しますので、当日はバイクで向かいました。園部川に架かる「摩氣橋」の畔に御神燈が建ち、徒歩ならばこの橋を渡って神社へ向かうと思われますが、現在は工事中で「この先通行止」となっ
伊夫岐神社から北へ、バイクで10分足らずの距離に長尾護国寺があります。本坊・惣持寺の近くとその下にも駐車場があり、下の方の駐車場にバイクを置きました。本坊への登り口に「長尾寺大門跡」があります。この辺りは「大門坂」と呼ばれ、長尾寺の山門が建っていた所と伝え
悉地院から南西方向へ、バイクで10分足らずの距離に太平観音堂があります。伊吹四大寺の一つ、太平護国寺が廃寺となり、当地に太平観音堂が建立され、遊行僧・円空(1632~1695)が造立した十一面観世音菩薩立像が安置されました。円空は太平寺の中之坊を拠点に伊吹山で修行を
伊富岐神社から西へ、バイクで約20分の距離に悉地院(しっちいん)があります。伊吹山は滋賀県と岐阜県の県境にあって、標高1,377mで滋賀県の最高峰です。日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)が伊吹の神に退けられたとの物語があって、古来から霊峰とされていました。
南宮大社の北西方向、バイクで約10分の距離に伊富岐神社(いぶきじんじゃ)があり、入口には石造りの太鼓橋が架けられています。神社付近には石器時代の遺跡や古墳なども多く、古代から豪族が住んでいたことが明かで、伊富岐神社は古代、伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏
養老の滝入口駐車場から北へ、バイクで約20分の距離に南宮大社があります。第10代・崇神天皇(在位:BC97~BC30)の御代に創建され、古くは「仲山金山彦神社」と称されていましたが、美濃国府が現在の岐阜県不破郡垂井町府中に置かれたことにより、その国府の南に位置する宮と
関ケ原古戦場の「徳川家康最初陣跡」から南東方向の養老の滝へ向かうと、養老の滝への入口の手前の大菩薩寺の境内に「日本武尊史跡 当芸野(たぎの)」の碑が建っています。日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)が東国を平定して尾張国へ戻ると、伊吹山に悪い神がいる
西教寺から北の信号を左折して伊香立浜大津線をバイクで5分余り進んだ先に飯室谷不動堂があります。詳細はこちらをご覧ください。その奥に元三大師堂への登り口があります。約1時間ほど登ると横川から三石岳を経て八王子山への縦走路と合流します。縦走路へ左折して三石岳の
日吉大社の大政所から伊香立浜大津線を北へ直ぐの西側に西教寺の総門があります。高さ6.4m、幅5.6mの門で、明智光秀(1516~1582)によって築かれた坂本城の城門が天正年間(1573~93)に移築されたと伝わります。昭和59年(1984)に修理が施されましたが、形はそのままの姿で復元
八王子山から下り、西へと進むと神輿収蔵庫があります。延暦10年(791)に第50代・桓武天皇(在位:781~806)の詔により二基の神輿が奉納され、延暦寺の面目がつぶされたり、何か不利なことが起こると日吉神社の神輿を担ぎ出し、京へと繰り出し強訴しました。「神輿振り」と呼ば
坂本城跡公園から北西方向、京阪電車石山坂本線の「坂本比叡山口」駅の直ぐ西側に生源寺があります。山号を「比叡山」と号する天台宗の寺院で、「伝教大師生誕の地」です。父・三津首浄足(みつのおびときよあし)の居館跡であり、最澄(766or767~822)はここで誕生し、境内に
七本柳鳥居の直ぐ北側に坂本城跡公園があります。本丸跡は企業の所有地、二の丸・三の丸跡地は市街地となり、この公園は城外の当時は琵琶湖中で後世に埋め立てられた場所にあります。公園には明智光秀(1516~1582)の像が造立されています。坂本城は元亀2年(1571)の織田信長(1
近江神宮から北東方向へ、バイクで10分弱の琵琶湖岸に唐崎神社があります。日吉大社で代々神職を務められた家の先祖である琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまるのすくね)がこの地に居住して「唐崎」と名付けました。第38代・天智天皇6年(667)に大津京へ都を遷した天皇は
弘文天皇陵から北へバイクで約5分の距離に近江神宮の一の鳥居が建っています。社号標は近江神宮奉賛会の初代会長で、第34・38・39代内閣総理大臣などを歴任した近衛文麿(このえ ふみまろ:1891~1945)の筆によるものです。一の鳥居は、第二期工事の昭和19年(1944)に建立さ
近江今津港から南へ、バイクで20分弱の距離に白髭神社があります。国道161号線に面し、全国に約300社に及ぶ白鬚神社の総本社で、「琵琶湖とその水辺景観」の構成資産として、日本遺産に認定されています。社伝では第11代・垂仁天皇25年(BC5年)に倭姫命(やまとひめのみこと)
本堂から石段を登ると三十八所権現社本殿があります。慶長年間(1596~1615)に淀殿(1569~1615)により、石山寺の復興が行われた際に石山寺の鎮守社として「石山寺硅灰石(けいかいせき)」の上に建立され、国の重要文化財に指定されています。初代・神武天皇(在位:BC660~BC5
建部大社から瀬田の唐橋を渡り、瀬田川右岸を南下した先、バイクで5分余りの距離に石山寺があります。画像は平成30年(2018)11月参拝時のものを使用しています。石山寺は山号を「石光山」と号する東寺真言宗の大本山で、西国三十三所観音霊場・第13番、神仏霊場・第146番など
瀬田の唐橋から東へバイクで5分弱の距離に建部大社があります。社伝では、第12代・景行天皇46年(116)に日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)の妃・布多遅比売命(ふたじひめのみこと:生没年不詳)が神勅により、日本武尊を祀ったのが始まりとされています。当初は御子
水のめぐみ館アクア琵琶から瀬田川左岸をバイクで約5分北上すると右側に「瀬田城跡」の碑と「勢多古城地碑」が建っています。瀬田城(勢多城)は、「山岡城」とも呼ばれ、永享元年(1429)に山岡資広(すけひろ)が南の大日山に城を築き居城としました。第9代城主・山岡景隆(15
立木観音の駐車場から瀬田川沿いに、バイクで5分弱北上した左側に南郷公園の駐車場があります。駐車場から道路を横断すると「皇后陛下行啓記念碑」が建立されています。第123代・大正天皇(在位:1912~1926)の貞明皇后(ていめいこうごう:1884~1951)が大正11年(1922)11月1
佐久奈度神社から鹿跳橋まで戻り、瀬田川右岸を北上した直ぐ先の右側に安養寺の駐車場があり、駐車場から道路を横断すると「立木観音参道」の碑が建ち、810段の石段が連続して続きます。かっては南郷から2kmの登山道が参道となっていましたが、約150年前に京都の町衆により、
東笠取から南へ下り、瀬田川沿いに東へ進み、鹿跳橋を渡って進んだ先に佐久奈度神社があります。東笠取からはバイクで20分弱の距離です。佐久奈度神社は第38代・天智天皇(在位:668~672)が大津京へ遷都したのを機に、天智天皇8年(669)に勅願により中臣金(なかとみ の かね
奥宮神社から南へ進み、山道へ入って正法寺へ向かいます。奥宮神社の標高は400m、正法寺は標高443mの岩間山の南麓、標高390m辺りに立地し、標高差は僅かで、所要時間は約10分です。正法寺の手前に動物の防護柵があり、それを入ると正法寺の境内と思われます。防護柵から入り
東笠取清瀧宮から下ると電柱に「宇治市 東笠取」と表記されています。その先に奥宮神社・岩間寺(正法寺)への道標が立っています。電柱に張られてた岩間寺徒歩参拝道路図。バイクを路肩に置き、集落の最上部まで登ると、奥宮神社と岩間寺への登山道が左右に分かれ、奥宮神
瀬田川を宇治から上流へ向かって進むと、道路が左岸から曽束大橋(そつかおおはし)を渡って右岸を走ることになりますが、直進して府道242号線へ入り、その先で京滋バイパスの笠取インターの方へ進み、その先を右折して西笠取川沿いに北上して西笠取清瀧宮へ向かいました。曽
宝巌寺から舟廊下を渡った所に都久夫須麻神社の本殿が鎮座しています。永禄元年(1558)の大火で焼失し、永禄10年(1567)に再建されました。これが現存する庇(ひさし)と向拝の部分にあたります。庇の部分は素木仕上げで彫刻が施されています。撮影は禁止されていましたが、こ
近江今津港発9:30発の船に乗り竹生島へ向かいました。現在では竹生島往復の料金が3,000円となっています。今津と長浜からは琵琶湖汽船が運行し、今津港からは約25分で往復の料金は3,000円、長浜港からは乗船時間が約35分で、往復の料金は3,400円です。彦根港からはオーミマリ