八光洞から西へバイクで10分足らずの距離に常照皇寺があり、その手前には「丸山しだれ桜」が植栽されています。「丸山」は当地の地名「右京区京北井戸町丸山」によるものと思われ、京都市内で桜が散った頃、当地は桜の見頃となります。北へ進むと正面に参道の石段があり、そ
西国観音霊場、新西国霊場、薬師霊場、近畿不動尊、神仏霊場など関西の巡礼地及び洛陽観音霊場、京都十二薬師、都七福神などの京都市内の霊場を紹介します。
松尾大社から桂大橋を渡り、四条通りを東へ進み、「梅宮大社前」の信号を左折した先に梅宮大社があります。四条通りから左折して北へ進んだ参道には一の鳥居が建っています。梅宮大社の旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社です。更に参道を進むと二の鳥居
月讀神社から北へ約400m進むと松尾大社の無料駐車場があります。3月26日に参拝した時には駐車場のフェンス沿いの桜が満開でした。駐車場の奥に鳥居が建ち、奥には土俵が見えます。毎年9月の第一日曜日に、松尾大社では八朔祭が行われ、当日には「八朔相撲」と称される相撲神
月読神社は松尾大社の境外摂社で、松尾七社の一社に数えられています。月読神社は『日本書紀』巻十五の第23代・顕宗天皇(けんぞうてんのう)3年(487)の条に記述が見られます。任那(みまな/にんな=古代に存在した朝鮮半島南部の地域)へ派遣された阿閉臣事代(あへのおみこ
華厳寺から東へ進み、突き当りを左折した先に西光寺があります。西光寺は山号を帰峰山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、京都洛西観音霊場の番外札所です。本尊は阿弥陀如来で、札所本尊は如意輪観音ですがここには安置されていません。華厳寺から来る途中で横に見た谷ヶ
西芳寺から北東方向に歩いても数分の所に華厳寺があります。華厳寺は山号を妙徳山(みょうとくさん)と号する臨済宗系の単立寺院で、四季を通じて鈴虫が飼育されていることから通称で「鈴虫寺」と呼ばれています。華厳寺は開門され、本堂の参拝はできますが、新型コロナの影
来迎寺から北西方向に斜めに進むと西芳寺への参道に合流します。参道を西方向に進んだ先に西芳寺があります。寺の南側に西芳寺川が流れ、手前に大歇橋(だいけつきょう)が架かっていますがこちらからは入れません。大歇橋はかって、現在の黄金池の東側にある茶室「潭北亭(
浄住寺から「左・浄住寺」「右・地蔵院」の道標が建つ四つ角迄戻り、地蔵院の方向に進んだ先に竹の寺地蔵院があります。地蔵院は山号を衣笠山と号する臨済宗系の単立寺院で、周囲を竹林で囲まれていることから通称で「竹の寺」と呼ばれています。鎌倉時代、この地には公卿で
観世寺から南西方向へ10分足らずバイクで走ると「山田岐れ(わかれ)」の変則的な四つ角があり、その南西角に「浄住寺」への道標が建っています。更にその先には「左・浄住寺」「右・地蔵院」の道標が建ち、左折した先に浄住寺があります。浄住寺は山号を葉室山と号する黄檗
上桂御霊神社から北東方向にバイクで約5分の距離に観世寺があります。観世寺は山号を大悲山と号する西山浄土宗の寺院で、京都洛西観音霊場の第27番札所です。観世寺には山門はありませんが、金剛力士が浮き彫りされた石板が境内を守護しています。現在の本堂は昭和40年(1965)
御霊神社が創建された年代は不明ですが、この地を開拓した人々が太田神を祀って五穀豊穣を祈ったのが始まりとされています。山背国は秦氏によって開拓され、秦氏は氏神として稲荷神を京都一帯に祀ったとされています。北西約1.5kmの距離には秦氏が創建した松尾大社もあること
阿弥陀寺から北東方向、バイクで5分余りの距離に長恩寺があります。長恩寺は山号を霊鷲山(れいじゅうざん)と号する西山浄土宗の寺院で、京都洛西観音霊場の第26番札所です。明治15年(1882)、近隣の尼寺、千光寺・念仏寺・光照庵が合併されて長恩寺となり、千光寺の堂宇が残
阿弥陀寺は地蔵寺から北西方向にバイクで約5分の距離にあるのですが、スマホのナビでは入口の場所がわからず、少々迷いました。阿弥陀寺は山号を吉祥山と号する浄土宗西山深草派の寺院で、京都洛西観音霊場の第25番札所で、23番・千手院常楽寺の代行もされています。浄土宗西
千手院常楽寺から少し南へ進み、阪急京都線の踏切を渡って線路沿いに北上し、桂駅前から東へ進んだ先に地蔵寺があります。地蔵寺は山号を久遠山と号する浄土宗の寺院で、京都洛西観音霊場の第23番札所です。平安時代、この地には「桂大納言」と呼ばれた公卿・源経信(みなも
長福寺から西へ進み阪急京都線を超えて線路に沿って北上した、桂駅の西口付近の大宮社の境内に千手院常楽寺があります。大宮社の社号標には「松尾七社之一」と記されていますが、松尾七社を調べると月読神社・四大神社(しのおおかみのやしろ)・衣手社・三宮社・宗像社・櫟
称讃寺から北西方向にバイクで約5分の距離に長福寺があります。長福寺は山号を念佛山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、京都洛西観音霊場の第21番札所です。かって、京都洛西観音霊場の第21番札所は法華山永福寺でしたが、明治12年(1879)に長福寺に合併されました。更に、
蔵王堂光福寺から北東方向にバイクで5分弱走った所に称讃寺があります。称讃寺は山号を青柳山(せいりゅうざん)と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、京都洛西観音霊場の第20番札所です。寺の西側に保育園が隣接し、境内には園児達が遊んでいたので、新型コロナの影響を考え
神仏習合時代を偲ばせる鳥居安禅寺から南へ進んで府道201号線を西に進み、新幹線をくぐって次の丁字路を北上した先に蔵王堂光福寺があります。山号を醫(医)王山と号する西山(せいざん)浄土宗の寺院で、京都洛西観音霊場の第19番札所です。参道の桜は吉野との縁により植えら
西圓寺から桂川の堤防を北上し、国道171号線を左折してその先の171号線が延長する道路を右折した先に安禅寺があります。但し、車道からの細い通路にバイクを止め、境内に入った南側に山門があります。安禅寺は山号を栖雲山(せいうんざん)と号する西山(せいざん)浄土宗の
万福寺から国道171号線まで戻り、国道171号線を北上して「久世殿城中」の信号を右折して東に進み、その先で北上した先に西圓寺があります。西圓寺は山号を朝日山と号する西山(せいざん)浄土宗の寺院で京都洛西観音霊場の第18番札所です。本堂西圓寺は文化5年(1808)の火災で
観音寺から西へバイクで5分余り走った所に万福寺があります。万福寺は山号を 慈眼山と号する西山(せいざん)浄土宗の寺院で京都洛西観音霊場の第17番札所です。本堂15歳で最澄に師事した円仁がこの地を訪れた際に、村人からの“おもてなし”に感謝し、聖観音像を刻み一宇を
観音寺は山号を普陀落山と号する真言宗豊山派の寺院で、京都洛西観音霊場の第15番札所です。国道171号線を南へ進み「菱川上植野」の信号を左折した中央分離帯がある大通りの一筋北側にあり、京都洛西観音霊場で唯一、所在地が京都市伏見区となっています。本堂観音寺は養老6
西国街道まで戻って北上し、東北角に信用金庫がある変則四つ角を左折して西へ進んだ突き当りの石段上に樫原廃寺跡(かたぎはらはいじあと)があり、国の史跡に指定されています。飛鳥時代後期に創建され、平安時代中期に廃絶したと考えられ、寺名も判明しなかったので地名か
西国街道(府道67号線/物集街道)まで戻って北上し、次の中央分離帯がある大通りの一筋南側に来迎寺があります。来迎寺は山号を紫雲山と号する西山(せいざん)浄土宗の寺院で、京都洛西観音霊場の第32番札所です。室町時代の寛正年間(1460~1466)に錦空上人により、浄土宗西
泉福寺から西へ進み、西国街道で右折して北上します。向日市文化資料館前を通り過ぎた次の四つ角を左折した先の例慶公園(れつけいこうえん)に宝菩提院跡の説明板が建っています。宝菩提院は、飛鳥時代の670~680年頃に、女帝であった第41代・持統天皇の夢告により薬師如来
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八光洞から西へバイクで10分足らずの距離に常照皇寺があり、その手前には「丸山しだれ桜」が植栽されています。「丸山」は当地の地名「右京区京北井戸町丸山」によるものと思われ、京都市内で桜が散った頃、当地は桜の見頃となります。北へ進むと正面に参道の石段があり、そ
貴船神社の奥宮から北へ、標高680mの芹生峠を越えた先、奥宮からバイクで10分足らずの距離に「芹生の里」の碑が建っています。芹生の里は、上桂川支流・灰屋川(はいやがわ)の上流にあって、灰屋川に芹(せり)が自生していたことが地名の由来とされています。かっては、林
杉坂の船水の先を左折して北へ進むと「古道 若狭街道」と記されています。若狭街道は朽木を経由するものなど幾筋かのルートがあります。その直ぐ先に「氷室分れ」の標識があり、左折して北への坂道を登り、その先で下りとなって、標識からバイクで5分余りの距離に氷室神社が
北山台杉の畑の先で鷹峯街道は、直進する府道107号線と分かれ、右折して南下し、その先に地蔵院があります。山号を「桃源山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院ですが、創建に関する詳細は不明で、平安時代(794~1185)には真言宗の寺院であったと伝わります。明治20年(1887)
国道162号線を北上して、バイクで中川へ向かいました。平成10年(1998)に延長1,582mの中川トンネルが竣工し、現在での国道は集落を迂回しているため、集落内は閑散としています。日本人初のノーベル文学受賞者・川端康成(1899~1972)の小説『古都』の舞台となった所でもありま
東雲寺から東へ、バイクで20分余りの距離に四所神社(ししょじんじゃ)があります。所在地は京都市右京区ですが、カテゴリーは「京都府亀岡市~福知山市・綾部市」に含めます。天文21年(1552)に愛宕山白雲寺福寿院の幸海(こうかい)僧正が、清滝四所明神を原村の「かぶとの
清源寺の南西方向、バイクで約5分の距離に巴塚があります。源義仲 (みなもと の よしなか:1154~1184)の愛妾(あいしょう)・巴御前(ともえごぜん:生没年不詳)を祀る供養塔があります。寿永2年(1183)5月11日の倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で大勝し、
京都帝釈天の駐車場から南へ、バイクで5分足らずの距離に文覚池があります。神護寺中興の祖である文覚上人(もんがくしょうにん:1139~1203)が治承年間(1177~1181)に当地へ訪れ、この地を適地と村人を指導し、村人が掘削した溜池で、周囲850m、面積4.22haの大きさです。当
京都帝釈天の駐車場から南西方向へ、バイクで5分余りの距離に西光寺があります。山号を「飯森山」と号する真言宗の寺院で、山門は龍宮造の鐘楼門です。勝宝8年(756)に良弁大僧正(ろうべん/りょうべんだいそうじょう:689~774)により創建されたと伝えられています。その後、
日吉ダムの南、バイクで約10分の距離に福寿寺の駐車場があり、その先から帝釈天参道の登りとなります。参道には「願いの鐘」が設置されています。本堂石段下までの約700mに108の鐘が設置され、願いを込めて左手で叩いていけば、帝釈天に届くと記されています。また、「庚申塔
生身天満宮から北東方向へ、バイクで約15分の距離に日吉ダムがあり、ダムの手前の橋を渡り、上桂川の北側の道路を川に沿って登ればダム管理所前の駐車場へと続きますが、こちらは上桂川の南側の道路からの画像です。こちらは管理所側で、石垣に見える目印は平成25年(2013)9月
九品寺の東、バイクで10分足らずの距離に「園部城址」の碑が建っています。元和5年(1619)12月に但馬国出石藩主であった小出吉親(1590~1668)が移封され、園部藩が誕生して園部陣屋が築かれました。小麦山南東の丘陵に方形居館、武家屋敷を構え、周囲には外郭線を築いた本格的
摩氣神社から北東方向へバイクで5分余りの距離に九品寺があります。参道を入ると「天宗」と刻まれ、その奥に大日堂があります。天宗は昭和29年(1954)に開かれ、真言宗の流れを汲み、大日如来を本尊としています。東京都日野市にある日仏寺聖殿が総本山とされています。堂内に
摩氣神社(まけじんじゃ)は、JR山陰本線「園部」駅の西にあって、徒歩だと2時間近くを要しますので、当日はバイクで向かいました。園部川に架かる「摩氣橋」の畔に御神燈が建ち、徒歩ならばこの橋を渡って神社へ向かうと思われますが、現在は工事中で「この先通行止」となっ
伊夫岐神社から北へ、バイクで10分足らずの距離に長尾護国寺があります。本坊・惣持寺の近くとその下にも駐車場があり、下の方の駐車場にバイクを置きました。本坊への登り口に「長尾寺大門跡」があります。この辺りは「大門坂」と呼ばれ、長尾寺の山門が建っていた所と伝え
悉地院から南西方向へ、バイクで10分足らずの距離に太平観音堂があります。伊吹四大寺の一つ、太平護国寺が廃寺となり、当地に太平観音堂が建立され、遊行僧・円空(1632~1695)が造立した十一面観世音菩薩立像が安置されました。円空は太平寺の中之坊を拠点に伊吹山で修行を
伊富岐神社から西へ、バイクで約20分の距離に悉地院(しっちいん)があります。伊吹山は滋賀県と岐阜県の県境にあって、標高1,377mで滋賀県の最高峰です。日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)が伊吹の神に退けられたとの物語があって、古来から霊峰とされていました。
南宮大社の北西方向、バイクで約10分の距離に伊富岐神社(いぶきじんじゃ)があり、入口には石造りの太鼓橋が架けられています。神社付近には石器時代の遺跡や古墳なども多く、古代から豪族が住んでいたことが明かで、伊富岐神社は古代、伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏
養老の滝入口駐車場から北へ、バイクで約20分の距離に南宮大社があります。第10代・崇神天皇(在位:BC97~BC30)の御代に創建され、古くは「仲山金山彦神社」と称されていましたが、美濃国府が現在の岐阜県不破郡垂井町府中に置かれたことにより、その国府の南に位置する宮と
関ケ原古戦場の「徳川家康最初陣跡」から南東方向の養老の滝へ向かうと、養老の滝への入口の手前の大菩薩寺の境内に「日本武尊史跡 当芸野(たぎの)」の碑が建っています。日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)が東国を平定して尾張国へ戻ると、伊吹山に悪い神がいる
西教寺から北の信号を左折して伊香立浜大津線をバイクで5分余り進んだ先に飯室谷不動堂があります。詳細はこちらをご覧ください。その奥に元三大師堂への登り口があります。約1時間ほど登ると横川から三石岳を経て八王子山への縦走路と合流します。縦走路へ左折して三石岳の
日吉大社の大政所から伊香立浜大津線を北へ直ぐの西側に西教寺の総門があります。高さ6.4m、幅5.6mの門で、明智光秀(1516~1582)によって築かれた坂本城の城門が天正年間(1573~93)に移築されたと伝わります。昭和59年(1984)に修理が施されましたが、形はそのままの姿で復元
八王子山から下り、西へと進むと神輿収蔵庫があります。延暦10年(791)に第50代・桓武天皇(在位:781~806)の詔により二基の神輿が奉納され、延暦寺の面目がつぶされたり、何か不利なことが起こると日吉神社の神輿を担ぎ出し、京へと繰り出し強訴しました。「神輿振り」と呼ば
坂本城跡公園から北西方向、京阪電車石山坂本線の「坂本比叡山口」駅の直ぐ西側に生源寺があります。山号を「比叡山」と号する天台宗の寺院で、「伝教大師生誕の地」です。父・三津首浄足(みつのおびときよあし)の居館跡であり、最澄(766or767~822)はここで誕生し、境内に
七本柳鳥居の直ぐ北側に坂本城跡公園があります。本丸跡は企業の所有地、二の丸・三の丸跡地は市街地となり、この公園は城外の当時は琵琶湖中で後世に埋め立てられた場所にあります。公園には明智光秀(1516~1582)の像が造立されています。坂本城は元亀2年(1571)の織田信長(1
近江神宮から北東方向へ、バイクで10分弱の琵琶湖岸に唐崎神社があります。日吉大社で代々神職を務められた家の先祖である琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまるのすくね)がこの地に居住して「唐崎」と名付けました。第38代・天智天皇6年(667)に大津京へ都を遷した天皇は
弘文天皇陵から北へバイクで約5分の距離に近江神宮の一の鳥居が建っています。社号標は近江神宮奉賛会の初代会長で、第34・38・39代内閣総理大臣などを歴任した近衛文麿(このえ ふみまろ:1891~1945)の筆によるものです。一の鳥居は、第二期工事の昭和19年(1944)に建立さ
近江今津港から南へ、バイクで20分弱の距離に白髭神社があります。国道161号線に面し、全国に約300社に及ぶ白鬚神社の総本社で、「琵琶湖とその水辺景観」の構成資産として、日本遺産に認定されています。社伝では第11代・垂仁天皇25年(BC5年)に倭姫命(やまとひめのみこと)
本堂から石段を登ると三十八所権現社本殿があります。慶長年間(1596~1615)に淀殿(1569~1615)により、石山寺の復興が行われた際に石山寺の鎮守社として「石山寺硅灰石(けいかいせき)」の上に建立され、国の重要文化財に指定されています。初代・神武天皇(在位:BC660~BC5
建部大社から瀬田の唐橋を渡り、瀬田川右岸を南下した先、バイクで5分余りの距離に石山寺があります。画像は平成30年(2018)11月参拝時のものを使用しています。石山寺は山号を「石光山」と号する東寺真言宗の大本山で、西国三十三所観音霊場・第13番、神仏霊場・第146番など
瀬田の唐橋から東へバイクで5分弱の距離に建部大社があります。社伝では、第12代・景行天皇46年(116)に日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)の妃・布多遅比売命(ふたじひめのみこと:生没年不詳)が神勅により、日本武尊を祀ったのが始まりとされています。当初は御子
水のめぐみ館アクア琵琶から瀬田川左岸をバイクで約5分北上すると右側に「瀬田城跡」の碑と「勢多古城地碑」が建っています。瀬田城(勢多城)は、「山岡城」とも呼ばれ、永享元年(1429)に山岡資広(すけひろ)が南の大日山に城を築き居城としました。第9代城主・山岡景隆(15
立木観音の駐車場から瀬田川沿いに、バイクで5分弱北上した左側に南郷公園の駐車場があります。駐車場から道路を横断すると「皇后陛下行啓記念碑」が建立されています。第123代・大正天皇(在位:1912~1926)の貞明皇后(ていめいこうごう:1884~1951)が大正11年(1922)11月1
佐久奈度神社から鹿跳橋まで戻り、瀬田川右岸を北上した直ぐ先の右側に安養寺の駐車場があり、駐車場から道路を横断すると「立木観音参道」の碑が建ち、810段の石段が連続して続きます。かっては南郷から2kmの登山道が参道となっていましたが、約150年前に京都の町衆により、
東笠取から南へ下り、瀬田川沿いに東へ進み、鹿跳橋を渡って進んだ先に佐久奈度神社があります。東笠取からはバイクで20分弱の距離です。佐久奈度神社は第38代・天智天皇(在位:668~672)が大津京へ遷都したのを機に、天智天皇8年(669)に勅願により中臣金(なかとみ の かね
奥宮神社から南へ進み、山道へ入って正法寺へ向かいます。奥宮神社の標高は400m、正法寺は標高443mの岩間山の南麓、標高390m辺りに立地し、標高差は僅かで、所要時間は約10分です。正法寺の手前に動物の防護柵があり、それを入ると正法寺の境内と思われます。防護柵から入り
東笠取清瀧宮から下ると電柱に「宇治市 東笠取」と表記されています。その先に奥宮神社・岩間寺(正法寺)への道標が立っています。電柱に張られてた岩間寺徒歩参拝道路図。バイクを路肩に置き、集落の最上部まで登ると、奥宮神社と岩間寺への登山道が左右に分かれ、奥宮神
瀬田川を宇治から上流へ向かって進むと、道路が左岸から曽束大橋(そつかおおはし)を渡って右岸を走ることになりますが、直進して府道242号線へ入り、その先で京滋バイパスの笠取インターの方へ進み、その先を右折して西笠取川沿いに北上して西笠取清瀧宮へ向かいました。曽
宝巌寺から舟廊下を渡った所に都久夫須麻神社の本殿が鎮座しています。永禄元年(1558)の大火で焼失し、永禄10年(1567)に再建されました。これが現存する庇(ひさし)と向拝の部分にあたります。庇の部分は素木仕上げで彫刻が施されています。撮影は禁止されていましたが、こ
近江今津港発9:30発の船に乗り竹生島へ向かいました。現在では竹生島往復の料金が3,000円となっています。今津と長浜からは琵琶湖汽船が運行し、今津港からは約25分で往復の料金は3,000円、長浜港からは乗船時間が約35分で、往復の料金は3,400円です。彦根港からはオーミマリ