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森とまちをつなぐ「半農半X」日記 https://blog.goo.ne.jp/takebei6491

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

武兵衛
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2019/06/10

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  • 黄砂とともに春を捕捉する花木

    一昨日は黄砂で山並みがぼんやり。洗濯物は室内に吊るす。なんとなく焦げ臭いにおいもする。その臭いはどうやら韓国の山火事のせいらしい。自然界の壮大な迫力に感心する。季節の移り変わりの変遷に体がついていかない。しかし、木の花たちはこのわずかな変幻をしっかり補足しているから自然界のディティールもなかなかのものだ。遅かった「河津桜」も急速に花を開ききった。東京のソメイヨシノの開花宣言と同じ日だった。この2本の河津桜は、シカの食害に5~6も会い瀕死の重傷を越えての成熟だった。桜の皮にはよほどの旨味があるのだろう。若い枝はポキポキ折られていた。まもなく葉桜になってしまう。車で20分ほど行ったところはとっくに葉桜になっていて花の残骸も見つけられない。そう言えば、30年前だろうか、伊豆の河津町にこの河津桜を見に行ったことが...黄砂とともに春を捕捉する花木

  • 遠州の古刹・長楽寺に行く 1 しなやかな空間

    何年ぶりだろうか、浜松市細江町に行く。そこは江戸幕府を開く直前に家康が関所を開いたという交通の要所でもある。その近くにある「長楽寺」は、平安前期に開創された真言密教の古刹で、今川・徳川家に庇護されてきた歴史ある寺だ。そこへ行く途中に、二宮尊徳の座像が鎮座していた。遠州と言えば、報徳思想の実践が未だに続いている拠点でもあるのがこの像からでもわかる。ここは、「呉石(クレイシ)学校」の跡地との石碑があったがどんな学校だったかはここからではわからない。気賀地域を支配していた旗本・近藤家は大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場した井伊谷三人衆のひとりで、気賀関所を250年間も治め、この長楽寺に近藤家の別宅があったという。また、宝永大地震(1707年)による津波で壊滅的な被害を受けた農民たちに,塩害に強い藺草の栽培を奨...遠州の古刹・長楽寺に行く1しなやかな空間

  • そろそろ開花しようかなー

    一昨日の早朝のこと、和宮様が「世界が突然変わったぞよー」とまどろみの中にいたオイラを叩き起こしてきた。ウクライナの和平が実現したのかとも思ったが、まさか、どうも違うようだった。そして、うれしそうに「雨戸を開けなされ」とおっしゃるのであわてながら雨戸を開ける。すると、裏山の銀世界のパノラマが迫ってきた。あわてて、カメラ片手で外に行く。山並みにうっすらとにわか雪が積もっていた。すでに朝日が昇ってきているのでもう雪は消えていく過程にあった。手前に見える「河津桜」のつぼみがほんのり恥じらいでいた。街中のカワズザクラが満開だというのにわが家の春はまだまだおあずけだ。枝に積もった雪は水分をいっぱい含んだ「べた雪」だった。河津桜も開花してよいのやら迷っている様子だ。午後にはすっかり雪も消えてアイスバーンの心配もほぼなく...そろそろ開花しようかなー

  • 馬頭観音を掘り出したのは…

    わが家の近くに古道がある。戦国の世ではこの狭い道を徳川軍は武田軍追討のため通った古道らしい。古くから馬頭観音の石仏があった。その近くには川にかかる古道の橋があり、むかしは吊り橋だった。そのため、馬が落ちて亡くなったりすることもあったそうな。また、重い荷物を持った人間が隣町へ行くために峠を登るため結界を越えるという馬も人間も命がけの行路でもあった。それでいつからか、古道の坂の途中に鎮魂と安全祈願のための馬頭観音の石仏が鎮座していた。今のところ、川の決壊や橋が流されることはないが、高台には縄文遺跡があり、縄文人は川のそばでは生活しなかった知恵があったようだ。さて、その馬頭観音は、おそらく去年早々だと思われるが、みんなが知らない間に姿を消してしまった。盗まれたかとさえ思ったが、少しずつ土砂も崩れていたのできっと...馬頭観音を掘り出したのは…

  • 戦争の犠牲者はいつも子どもだった

    先日、戦場カメラマンの渡辺陽一さんの講演を聞く機会があった。期待どうり迫力ある講演だった。ゆったりした独得の語り口が子どもでも年寄りでもわかりやすい内容だった。さらに、ステージの左から右へ、もちろん中央でも全身を使ったパフォーマンスは視聴者全員に届けようとするアクションだった。その表現は、パントマイムのような手話のような豊かな所作だった。まずは、戦場カメラマンになろうと決意した経過を語った。それは学校の授業でアフリカのジャングルで狩猟する部族の話があり、それに魅かれてコンゴに飛んだ。しかし、当時はルワンダ内戦があり、民族の大量虐殺が発生していて、100万人以上の民間人が犠牲となった現場にかち合ってしまった。その前線にいたのが少年ゲリラ兵だったのでとてつもない衝撃となったという。持ち物のほとんどを提供してな...戦争の犠牲者はいつも子どもだった

  • ♪花は 花は 花は咲く♪

    寒さを気にしているうちにいつの間にか汗をかいていた日があった。そうかもう3月になったんだ。そんな実感が湧いたのは春を呼んだ花だった。春の到来を予感して「まんず咲く」、「マンサク」(マンサク科)だった。花がよく咲けば豊作、花が少なければ不作など、稲の作柄を占う植物として昔から人の暮らしとの深いつながりがあったことから、「満作」とも命名された。今年は花数が多いので畑も豊作になりそうだ。いつもだと、「のらぼう菜」が勝手にこぼれ種でいっぱい若芽を芽吹くはずなのにどういうわけか今年は皆無だった。しかし、山猿さんからいただいた「菜の花」の種から見事な花を見せてくれた。おかげでここ数日、柔らかい菜の花のおひたしを堪能できた。その隣に、4月以降咲く予定の「トキワマンサク」が濃いピンクや白色の花を満開にしてくれるはずだ。マ...♪花は花は花は咲く♪

  • 千両役者・岩井半四郎の女形

    江戸時代後期に大活躍した「目千両」と言われた「五代目岩井半四郎(1776-1847)」の役者絵を見る。「岩井半四郎」は初代から三代目までが上方歌舞伎で活躍し大坂岩井座の座元も兼ねた。四代目以降は江戸歌舞伎の女形を代表する家柄となった。なかでも、「五代目岩井半四郎」は、その眼差しとおちょぼ口をはじめ色気・愛嬌・容姿でも魅力的だった。さらに、悪婆・若衆・荒事のどれをとっても生き生きと演じられるまさに千両役者だったという。屋号は舞踊の名手を数多く輩出している「大和屋」で、「坂東三津五郎」や「坂東玉三郎」らも擁する一門である。役者絵を描いたのは「香蝶楼(カチョウロウ)国貞」(のちの三代目歌川豊国)。尊敬していた画家・芸人「英一蝶」(ハナブサイッチョウ)の名から「香蝶楼」の号(1827-1848)を名乗る。天保1...千両役者・岩井半四郎の女形

  • 久しぶりの薪割り

    先週、寒さが厳しいというので急いでダルマストーブの薪割りを行う。4~5年前に裏山の山林を地元の協力で伐採した樹木がころがったままだった。それを何とか丸切りしてマサカリで薪にする。木目がまっすぐなものは一発できれいに割れるが、節があったり木目が曲がっているとなかなか割れない。残念ながら、小雨がパラパラ落ちてきている中での作業となってしまった。しかし、今やっておかないと春を迎えられない。裏山にある丸太を下まで運搬するのも手作業となる。生木ではないのですごく重いわけではないが、続けていくと腰が痛くなっていくのがわかる。しかも、斜面でのピストン運搬も足がもつれそうだ。失敗するとその丸太が家に突入するので慎重に下まで運ぶ。雨で多少燃えにくくなっているが、古木でしかも虫食いもあるので燃えると結構早く燃えてしまうと思わ...久しぶりの薪割り

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