ヨハネの福音書 44 16章12節~33節 耐える力がない12節でイエス様は、「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたが…
ヨハネの福音書 44 16章12節~33節 耐える力がない12節でイエス様は、「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたが…
ヨハネの福音書 43 16章1節~11節 神様を知らない民16章に入り、1節でイエス様は、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまず…
ヨハネの福音書 41 14章27節~15章8節 イエス様が与えられる平安前回の最後の部分で述べられていたように、ペンテコステ以降、信じる者に聖霊が下…
ヨハネの福音書 40 14章13節~26節 栄光のため13節でイエス様は、「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをし…
ヨハネの福音書 39 13章33節~14章12節 今は行くことができない33節でイエス様は、「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたとい…
ヨハネの福音書 38 13章18節~32節 エゴー エイミー前回から、イエス様のメッセージが続いている。今回の冒頭の18節は、再びイスカリオテ・ユダ…
ヨハネの福音書 37 13章1節~17節 愛を示される13章になり、場面は変わって、夕食の場面となる。1節に、「さて、過越の祭りの前に、この世を去っ…
ヨハネの福音書 36 12章44節~50節 大声で言われた前回の箇所で、イエス様は真理の御言葉を語って後、立ち去られたとあったが、今回の箇所では再び…
ヨハネの福音書 35 12章27節~43節 何が先であるか27節でイエス様は、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお…
ヨハネの福音書 34 12章12節~26節 エルサレム入城前回は、イエス様がベタニヤに来られた箇所までを見た。そしてその翌日、人々はイエス様がエルサ…
ヨハネの福音書 33 11章45節~12章11節 ラザロのよみがえりの波紋ラザロが墓からよみがえった、という驚くべき奇跡によって、多くの人々が、イエ…
相対的なこの世では、主観と客観が相対する。そのため、この世においては、何でも主観的に行動することはできない。自分はこう思うから、自分の立場ではこうだから、など…
ヨハネの福音書 32 11章41節~44節 墓の前での祈り前回は、ラザロが納められている墓の前に、マルタとイエス様が来られたところまで見た。そして、…
ヨハネの福音書 31 10章40節~11章40節 ベタニヤへ前回見た最後の箇所で、イエス様は、捕らえようとするユダヤ人から逃れられたとあった。そして…
ヨハネの福音書 30 10章33節~39節 『詩篇』82篇前回の最後の箇所で、「わたしと父とは一つです」(30節)というイエス様の御言葉を聞いた…
ヨハネの福音書 29 10章22節~32節 信じないユダヤ人まず22節に、「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった」とある。「宮きよめの…
ヨハネの福音書 28 10章11節~21節 良い牧者と雇い人前回では、イエス様はご自身を、羊の囲いの門にたとえておられたが、今回の箇所では、良い…
私には、わからないことが一つある。たぶん、これは死ぬまでわからないままであろう。それは以下のようなことである。もし私が、イエス様を信じて救われた時、今のような…
ヨハネの福音書 27 9章8節~10章10節 人々の動揺前回見たように、イエス様は生まれつきの盲人の目を癒されたが、このことにより、周囲のユダヤ…
ヨハネの福音書 26 8章48節~9章7節 腹を立てるユダヤ人たち前回の箇所で、イエス様がユダヤ人たちに対して、あなたがたは悪魔から出ているとか…
この世のすべては、相対的な存在である。相対的な存在は、あくまでもすべてに相対的でなければならない。自分自身と他のものは、言うまでもなく、もうそれ自体で相対して…
ヨハネの福音書 25 8章33節~47節 奴隷状態前回の最後の箇所の32節で、イエス様は、「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自…
日本は神の国である。多くの日本人が感じていることであろうが、単純に、他の国の人々に比べ、日本人は良い人が多い。これは、自分の国を贔屓目に見ているからではなく、…
人はなぜ、この世で生きているのか。ただしこれは、あくまでもこの世において、であり、他の世のことではない。それは、人を赦し、自分を赦すためである。この世を良くす…
ヨハネの福音書 24 8章21節~32節 自分の罪の中で死ぬ21節でイエス様は、「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分…
神様は絶対的次元の方であるから、相対的な次元の私たちには、その御声も聞こえず、もちろんそのお姿など見えるはずがない。では、あくまでも人間は神様がわからず、私た…
絶対的真理は唯一であって、真理が二つも三つもあるわけがない。これは間違いない。 しかし、その真理の表現は無限にある。なぜなら、言葉にせよ、映像にせよ、文学にせ…
ヨハネの福音書 23 8章12節~20節 前々回の続き前回のいわゆる「姦淫の女」の箇所は、後の挿入と考えられるということを前回述べたが、今回の箇…
相対的なこの世のすべてのものは、絶対的次元の表現である、ということは、このブログでも繰り返し述べてきた。 目に見える事実も、人々の心の中に展開される創作された…
『法華経』は一仏乗(いちぶつじょう)について書かれた経典であることは、このブログでも繰り返し述べている。一仏乗は絶対的真理そのものであり、相対的な言葉で表現で…
真理は方向性によって表現される。神様を見上げ、祈ること、賛美することがその方向性。経典を読むことも、念仏することも、題目唱えることも、座禅することも、その方向…
ヨハネの福音書 22 8章1節~11節 挿入された箇所今回の箇所は、いわゆる『姦淫の女』の場面であるが、この範囲について、新改訳の下の注に、古い…
引き続き、『法華経』の「方便品」からの言葉の解き明かしとなる。「(未来世における仏は)無数のあらゆる法門を説くであろうが それらも実に一乗のためである」この「…
前回は、「方便と一仏乗」という記事を書き、この世では方便=一仏乗ということなのだ、ということを述べたが、今回はその続きである。一仏乗というと、テレビなどでは、…
『法華経』の「方便品」には、「ただ一乗があって二乗はない。過去無数劫の無量の滅度の仏は、百千万億おられ、その数は測ることはできない。このようなあらゆる世尊も、…
開示悟入(かいじごにゅう)という『法華経』にある言葉が、仏教世界の中では非常に有名である。その本文の訓読箇所は、次の通りである。「諸仏世尊は、衆生をして仏知見…
ヨハネの福音書 21 7章37節~53節 わたしのもとに来て37節の前半に、「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた」…
私は学生時代は、天台教学における仏教学者の卵の道を歩んでいました。それから数十年後となるここ数年、日蓮上人の書を研究していて、次のようなことを悟りました。ちょ…
ヨハネの福音書 20 7章19節~36節 殺そうとする前回から、仮庵の祭りの時にエルサレムに上られたイエス様が、宮の中で語っておられる御言葉を見…
ヨハネの福音書 19 7章1節~18節 ガリラヤでの活動7章に入り、1節には、「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちが…
ヨハネの福音書 18 6章52節~71節 肉を食べ血を飲む前回は、イエス様が、「わたしは、天から下って来た生けるパンです」(51節)とおっしゃっ…
1+1の答えは、数字であることは大前提となっている。けっして、桜だのバラだの山だの川だのということが答えに来ないことは最初からわかっている。なぜそれがわかるか…
ヨハネの福音書 17 6章36節~51節 父がお与えになる者36節でイエス様は、「しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたし…
私は2019年に、「絶対的な神様と相対的なこの世」ということに目が開かれて、福音書も再び深く解き明かせるようになった。そして、パウロの言葉も、この絶対的、相対…
私は、27歳の時にイエス様を信じ救われたが、その時は韓国に留学中であった。生活しているアパートの近くに丘があって、素朴な散歩コースのような道があり、夜にもかか…
ヨハネの福音書 16 6章16節~35節 祈るために前回は「五つのパンと二匹の魚の奇跡」と、その奇跡を体験した人々がイエス様を王としようとしたの…
神様というと、長い髭を生やし、白い衣を着て、杖を持って、雲の上にいる仙人のようなイメージがまずある。もちろんこれはかなり幼稚なイメージだが、手軽にイラストなど…
ヨハネの福音書 15 6章1節~15節 ガリラヤ湖の向こう岸1節から2節には、「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸に…
「鰯の頭も信心から」という諺があります。どちらかと言えば、信心している人をからかった意味で使われる場合が多いと思われますが、必ずしもそうではなく、良い意味にも…
こだわりというものがありますが、それが趣味とかなんかの「軽いこだわり」「自分でも自分だけのこだわりだとわかっているようなもの」などというものなら、害はありませ…
神様は正しいお方、という言葉はよく聞く。確かにその通りだが、その神様の「正しい」ということは、「正しくない」ということに相対していないことを知らねばならない。…
ヨハネの福音書 14 5章40節~47節 イエス様のもとに前回は、イエス様を証言する方について、①バプテスマのヨハネ、②イエス様のわざ、③父なる…
私は都内で生まれ育ったのだが、ある日、近くの公園の砂場で遊んでいた時のことだった。砂場で遊ぶくらいだから、たぶん幼稚園くらいの年齢だったろう。砂を掘っていると…
『大般泥洹経(だいはつないおんきょう・涅槃経の一種)』には、「良き男子よ。過去において無量のさまざまな罪、あらゆる悪業(あくごう)を犯したための罪報(ざいほう…
人物崇拝をしてはなりません。今いる人間でも、過去にいた人間でも、人間である限り、あの方は神様だ仏様だ、と崇拝してはいけません。それは正しい宗教ではありません。…
ヨハネの福音書 13 5章31節~39節 イエス様を証言する方ここまで、イエス様はご自身が、父なる神様のみこころを行なわれていることを語られてき…
このブログに私は何度も記しているが、私は27歳の時にイエス様を信じて救われたが、それはあくまでも恵みであって、一方的に与えられた救いである。救われたならば、何…
キリスト教や仏教でも、あまりにも容易に、あいつは地獄に堕ちる、などと言い過ぎる。普段は、神様は愛です、とか、慈悲の仏様とか言いながら、ちょっとでも自分たちと意…
雲の切れ間から、地面に向かって照らされている太陽の光線が、まるで梯子のように見える時がよくあるが、あれを「天使の梯子」と言われることもよく知られている。これは…
私の中で、イエス様の福音と大乗仏教の教理がきれいに一致して、互いに表に出ていない教理などを補い合っている。さらに、私はもともとプロテスタントであったが(過去形…
どの宗教も、ほぼすべて、ある日突然ある人を通してこの世に表わされた、ということはなく、その前段階となる宗教がある。たとえば仏教は、歴史的釈迦の前段階として、イ…
日蓮上人の『開目抄』に、次のような文がある。「上にあぐるところの諸師の釈、皆一分経論に依て勝劣を弁ふやうなれども、皆自宗を堅く信受し先師の謬義をたださざるゆへ…
神様から遣わされた方々聖書では、御使いは、「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」(『ヘブル人への手…
永遠の命「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(『…
ヨハネの福音書 12 5章26節~30節 いのちを持つように26節でイエス様は、「それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも…
私は、27歳の時にイエス様を信じ救われ、絶対的な神様を体験的に知りましたが、それは一方的な恵みであって、何か私が努力したり悟ったりして得たものではありませんで…
大乗仏教とは、釈迦が亡くなって約四百年から五百年たった、つまり紀元前後において、インドで興った仏教の宗教改革である。それまでの伝統的な仏教の殻を破って、かなり…
一念三千(いちねんさんぜん)とは、天台大師が実践修行である止観(しかん・止は乱れた心を収めること、観は心を観察すること。見た目は坐禅と同じ瞑想の形を取るが、内…
ヨハネの福音書 11 5章19節~25節 神様とイエス様とのご愛安息日を破り、ご自分を神様と等しくするイエス様を、エルサレムのユダヤ人たちは批判…
『法華経』の真実の教えを解き明かした人物は、天台大師であり、日蓮上人も、日蓮上人の著作の最初から最後まで、天台大師の教えを正しいものとして記述を進めている。そ…
ヨハネの福音書 10 4章45節~5章18節 ガリラヤに入られる前回は、イエス様一行が、サマリヤからナザレを通過するところまでを見た。こうして、…
相対的次元であるこの世においては、絶対的真理は方向性として認識される。いきなり少々お堅い言葉を記しましたが、これも真理の言葉です。いわゆる悟りというものは、絶…
使徒パウロは、『ローマ人への手紙』7章で、自分はしようと思うことができず、かえってしたくないことをしてしまう、という告白があり、24節で、「私は、ほんとうにみ…
私は33年前に、イエス様を信じて救われました。それはすばらしいことで、私の一生のすべてを後悔したとしても、イエス様を信じて救われたことだけは後悔はしない、とい…
ヨハネの福音書 09 4章31節~44節 食べ物を差し上げる前回までは、イエス様とサマリヤの女との会話を見てきたが、これまでの箇所と今回見る箇所…
ヨハネの福音書 08 4章19節~30節 ゲリジム山前回は、イエス様がサマリヤの女の心を開くため、この女に関する誰も知るはずのないことを言い当て…
神様が絶対的な方である、ということを悟ってから、しばらくは、かえって祈りにくくなった。なぜなら、絶対的な方は人間の相対的な思考によっては知ることのできない方で…
ヨハネの福音書 07 3章22節~4章18節 ヨハネの働きの終わり22節から24節には、イエス様は弟子たちとユダヤの地に行き、そこでバプテスマを…
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」。意味は、「善人が極楽に往生できるなら、どうして悪人が往生できないことがあろうか」となります。この親鸞の言葉は、…
私は自分でも、世界一良い人だと思っています。などと言ったら、数少ない私を知っている人なら、何を言うか、おまえなんか、世界一悪い人間だ、まだ自分のことがわかって…
神様は絶対的存在であり、絶対的認識主体である。私たちを含めた万物は、相対的存在であり、人間は相対的認識主体である。人間が神様の似姿と言われるゆえんである。そし…
ヨハネの福音書 06 3章1節~21節 ニコデモ3章になって、イエス様とニコデモの対話となる。ニコデモはパリサイ人であって、宗教的指導者であった…
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(『マタイの福音書』6:33)とあるため、私はずっと、「…
聖書の講解も素晴らしいけれど、やはり、聖書の御言葉に沿わねば、講解とはいわないので、ある程度、真理を確信しても、何の制約もなく言葉にするということはできない(…
私は、小学生の時から、何でいつも自分は自分なのだろう、他の田中さんや木村さんになるようなことがなく、ずっと自分が松岡広和と呼ばれる自分であるのはなぜだろう、と…
ヨハネの福音書 05 2章18節~25節 イエス様への批判前回は、いわゆる「宮きよめ」の内容を見たが、当然、そのイエス様の行為に対して、批判する…
ヨハネの福音書 04 2章1節~17節 カナの婚礼今回の箇所は、まずいわゆる「カナの婚礼」として有名な箇所である。前回見た箇所の出来事から三日…
ヨハネの福音書 3 1章35節~51節 ヨハネを離れる二人の弟子今回の箇所は、イエス様の弟子たちが、初めてイエス様に出会う場面である。まず、…
『ヨハネの福音書』 02 1章14節~34節 恵みとまこと14節前半には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とある。前回も述べたように…
『ヨハネの福音書』 01 1章1節~13節 ロゴス『ヨハネ』の冒頭の1節から2節には、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは…
『創世記』 07 10章1節~11章9節 各言語が生じる10章に入って、1節からその章の最後の32節までは、ノアの三人の息子それぞれの系図が記され…
『創世記』 06 6章1節~9章29節 肉に過ぎない6章に入って、1節から2節には、「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子…
『創世記』 05 3章20節~5章32節 皮の衣20節にはエバという名前が、21節には、アダムという名前が初めて登場する。エバは、新改訳聖書の下の…
『創世記』 04 3章1節~19節 蛇の誘導3章に入って、これからこの蛇が、善悪の知識の木の実を食べるように女を誘導するのであるが、既存のキリスト…
『創世記』 03 2章2節~25節 第一日目から第七日目ということ2章1節には、「こうして、天と地とすべての万象が完成された」とある。このように、…
『創世記』 02 1章3節~2章1節 認識が生じた前回、3節までの御言葉を見たが、繰り返し、今回も3節から見る。この3節以降の内容は、まさに天地万…
『創世記』 01 1章1節~3節 神について論じる必要性聖書の冒頭の御言葉である『創世記』1章1節は、「初めに、神が天と地を創造した」である。この…
『使徒の働き』 44 27章27節~28章最終節 陸地に近づく今回の冒頭の27節には、「十四日目の夜になって、私たちがアドリヤ海を漂っていると、真…
『使徒の働き』 43 27章1節~26節 ローマへ出発今回の箇所から、いよいよローマへの航海の記述となるが、最初の1節には、「さて、私たちが船でイ…
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ヨハネの福音書 44 16章12節~33節 耐える力がない12節でイエス様は、「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたが…
ヨハネの福音書 43 16章1節~11節 神様を知らない民16章に入り、1節でイエス様は、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまず…
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ヨハネの福音書 40 14章13節~26節 栄光のため13節でイエス様は、「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをし…
ヨハネの福音書 39 13章33節~14章12節 今は行くことができない33節でイエス様は、「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたとい…
ヨハネの福音書 38 13章18節~32節 エゴー エイミー前回から、イエス様のメッセージが続いている。今回の冒頭の18節は、再びイスカリオテ・ユダ…
ヨハネの福音書 37 13章1節~17節 愛を示される13章になり、場面は変わって、夕食の場面となる。1節に、「さて、過越の祭りの前に、この世を去っ…
ヨハネの福音書 36 12章44節~50節 大声で言われた前回の箇所で、イエス様は真理の御言葉を語って後、立ち去られたとあったが、今回の箇所では再び…
ヨハネの福音書 35 12章27節~43節 何が先であるか27節でイエス様は、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお…
ヨハネの福音書 34 12章12節~26節 エルサレム入城前回は、イエス様がベタニヤに来られた箇所までを見た。そしてその翌日、人々はイエス様がエルサ…
ヨハネの福音書 33 11章45節~12章11節 ラザロのよみがえりの波紋ラザロが墓からよみがえった、という驚くべき奇跡によって、多くの人々が、イエ…
相対的なこの世では、主観と客観が相対する。そのため、この世においては、何でも主観的に行動することはできない。自分はこう思うから、自分の立場ではこうだから、など…
ヨハネの福音書 32 11章41節~44節 墓の前での祈り前回は、ラザロが納められている墓の前に、マルタとイエス様が来られたところまで見た。そして、…
ヨハネの福音書 31 10章40節~11章40節 ベタニヤへ前回見た最後の箇所で、イエス様は、捕らえようとするユダヤ人から逃れられたとあった。そして…
ヨハネの福音書 30 10章33節~39節 『詩篇』82篇前回の最後の箇所で、「わたしと父とは一つです」(30節)というイエス様の御言葉を聞いた…
ヨハネの福音書 29 10章22節~32節 信じないユダヤ人まず22節に、「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった」とある。「宮きよめの…
ヨハネの福音書 28 10章11節~21節 良い牧者と雇い人前回では、イエス様はご自身を、羊の囲いの門にたとえておられたが、今回の箇所では、良い…
私には、わからないことが一つある。たぶん、これは死ぬまでわからないままであろう。それは以下のようなことである。もし私が、イエス様を信じて救われた時、今のような…
ヨハネの福音書 27 9章8節~10章10節 人々の動揺前回見たように、イエス様は生まれつきの盲人の目を癒されたが、このことにより、周囲のユダヤ…
ヨハネの福音書 26 8章48節~9章7節 腹を立てるユダヤ人たち前回の箇所で、イエス様がユダヤ人たちに対して、あなたがたは悪魔から出ているとか…
ヨハネの福音書 29 10章22節~32節 信じないユダヤ人まず22節に、「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった」とある。「宮きよめの…
ヨハネの福音書 28 10章11節~21節 良い牧者と雇い人前回では、イエス様はご自身を、羊の囲いの門にたとえておられたが、今回の箇所では、良い…
私には、わからないことが一つある。たぶん、これは死ぬまでわからないままであろう。それは以下のようなことである。もし私が、イエス様を信じて救われた時、今のような…
ヨハネの福音書 27 9章8節~10章10節 人々の動揺前回見たように、イエス様は生まれつきの盲人の目を癒されたが、このことにより、周囲のユダヤ…
ヨハネの福音書 26 8章48節~9章7節 腹を立てるユダヤ人たち前回の箇所で、イエス様がユダヤ人たちに対して、あなたがたは悪魔から出ているとか…
この世のすべては、相対的な存在である。相対的な存在は、あくまでもすべてに相対的でなければならない。自分自身と他のものは、言うまでもなく、もうそれ自体で相対して…
ヨハネの福音書 25 8章33節~47節 奴隷状態前回の最後の箇所の32節で、イエス様は、「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自…
日本は神の国である。多くの日本人が感じていることであろうが、単純に、他の国の人々に比べ、日本人は良い人が多い。これは、自分の国を贔屓目に見ているからではなく、…
人はなぜ、この世で生きているのか。ただしこれは、あくまでもこの世において、であり、他の世のことではない。それは、人を赦し、自分を赦すためである。この世を良くす…
ヨハネの福音書 24 8章21節~32節 自分の罪の中で死ぬ21節でイエス様は、「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分…
神様は絶対的次元の方であるから、相対的な次元の私たちには、その御声も聞こえず、もちろんそのお姿など見えるはずがない。では、あくまでも人間は神様がわからず、私た…
絶対的真理は唯一であって、真理が二つも三つもあるわけがない。これは間違いない。 しかし、その真理の表現は無限にある。なぜなら、言葉にせよ、映像にせよ、文学にせ…
ヨハネの福音書 23 8章12節~20節 前々回の続き前回のいわゆる「姦淫の女」の箇所は、後の挿入と考えられるということを前回述べたが、今回の箇…
相対的なこの世のすべてのものは、絶対的次元の表現である、ということは、このブログでも繰り返し述べてきた。 目に見える事実も、人々の心の中に展開される創作された…
『法華経』は一仏乗(いちぶつじょう)について書かれた経典であることは、このブログでも繰り返し述べている。一仏乗は絶対的真理そのものであり、相対的な言葉で表現で…
真理は方向性によって表現される。神様を見上げ、祈ること、賛美することがその方向性。経典を読むことも、念仏することも、題目唱えることも、座禅することも、その方向…
ヨハネの福音書 22 8章1節~11節 挿入された箇所今回の箇所は、いわゆる『姦淫の女』の場面であるが、この範囲について、新改訳の下の注に、古い…
引き続き、『法華経』の「方便品」からの言葉の解き明かしとなる。「(未来世における仏は)無数のあらゆる法門を説くであろうが それらも実に一乗のためである」この「…
前回は、「方便と一仏乗」という記事を書き、この世では方便=一仏乗ということなのだ、ということを述べたが、今回はその続きである。一仏乗というと、テレビなどでは、…
『法華経』の「方便品」には、「ただ一乗があって二乗はない。過去無数劫の無量の滅度の仏は、百千万億おられ、その数は測ることはできない。このようなあらゆる世尊も、…