私が現在住んで街は、宮島の対岸にある閑静な住宅地である。散歩をしていると道路に塵一つ落ちてないし、犬と散歩している人達は銘々、糞を処理する袋を持参しており、犬の糞の痕跡は全くない。風で飛び散った木の葉も、翌日には掃き清められており、整然としている。そこには、日本人の几帳面さと美意識が表れていて、清々しい。海外旅行で他国の道路事情を見て、初めて、日本人の美意識に気付いた。この美的習慣が、公衆衛生に好影響をもたらしているのだろか。また、コロナの感染者を少なくしているのかもしれない。良き生活習慣は、受け継いで行きたいものである。ミュンヘンの街角で日本人は清潔好き・・・
一昔も以前のこと、海外旅行が盛んだった頃、憧れの欧州旅行をした。格安のチケットを利用しての旅行だったが、日欧の文化の違いを比べて見る絶好の機会であった。過去の文化遺産を大切に保存しているのには、驚かされた。文化遺産が、全て観光資源として生かされていることと、国策で保護されていることだった。特に、ヨーロッパ諸国に共通する印象だった。日本が観光立国を目指すなら、日本特有の生活文化の遺産を前面に打ち出すべきと思う。日本は後発グループに甘んじることになるが、庶民の暮らしの中にこそ文化遺産があることを忘れないで・・・。日本には伝統的な精神文化遺産がある。ザルツブルグの街庶民の暮らしの中の文化遺産を・・・
我が家では、これまでペットを飼ったことがなかった。娘が愛玩犬を連れてきてくれた。よそでペットを可愛がっているのを見ると、欲しくなることも屡々あった旅行等で家を空けられないし、不幸に際しては辛い思いをする等の理由でペットは飼ってこなかった。もともと動物好きの我が家では、すぐになついてくれた。その仕草の愛らしいこと、可愛がっている内に、癒されているのが解ってきた。食わず嫌いというものがあるが、まさに食わず嫌いであった。友人がペットとの別れは辛いと嘆いていたのを覚えているが、ペットは家族の一員になることが理解できるようになった。家族になれば、別れは辛いだろな・・・。大濠公園の庭ペットに癒される・・・
観光産業振興に「GoToキャンペーン」が、外食産業の需要喚起を図る目的で「GoToEatキャンペーン」が次々に行われる。経済再生のための官民挙げての試みだが、小さなトラブルが見込まれているが、成功を願いたい。アフター・コロナに向けての生き残り競争が繰り広げられると思うが、企業・店舗の知恵比べになるだろう。乗り損なうと倒産の憂き目を、成功すれば栄えていくことと思われる。コロナが作った「踏み絵」に違いない。生存競争が展開される。角館の旧家どんな企業が栄えるか・・・
選挙の度に思ってきたことである。それは、日本には国創りのビジョンがないことだ。どんな国にしたいのか、グランド・デザインが全く見当たらないだ。先頃、北欧の小国フィンランドの教育について学ぶ機会があった。フィンランドでは、教育費は無償で、すべての国民に平等に与えられている。国家の屋台骨に「教育」を据えていることに注目した。「人作り」こそ、国家の基本方針にしている点だ。日本の庶民は、「寺子屋」で教育され、人間教育も行なわれてきた。「寺子屋」が教育の基盤となっており、日本の民度を上げて、近代国家を築いてきた。日本が世界に伍していけるのは、教育以外には見当たらない。教育=人作りに徹するべきではないか。フィンランドには、シベリウスの名曲「フィンランディア」の魂が宿っているように思えてならない。北欧の小国ではあるが、中立国を...人作りこそが国民を幸せに・・・
今年の梅雨は異常な長雨で豪雨続きだった。ここに来て、晴れ間が見えるようになり、蝉時雨が始まった。クマゼミが競う合うようにして、けたたましく、合唱を始める。シャン・シャンと泣き叫ぶ。昔はミン・ミーン蝉や油蝉が混じっていて混声合唱だったが、今は、クマゼミの独演会だ。我が家の庭からも、蝉の抜け殻が散見される。自然界にも変化が起きたのだろう。蝉しぐれに出会うと、騒音が周りの音を掻き消してしまう。いよいよ真夏の到来を知らせてくれたのだろう。蝉しぐれは、季節の風物詩かも知れない。やがて訪れる酷暑を、予告してくれているようだ。石鎚山の天狗岳梅雨明けの兆しが・・・
緩慢なな動作をしていると「魂が入ってない」と叱られたものだ。気持ちの入った機敏な動作をするには「気合い」がいるようだ。政府や東京都に国民が求めているのは、断固とした強い姿勢が伝わって来ない。専門家の意見には、謙虚であって欲しいが、政治家には腹の据わった高度な決断が求められる。政治的判断には、断固とした姿勢が大切だ。総花的であってはならない。「メリハリ」が必要なのだ。東京都と政府間の意思疎通ができていないようだが、意識統一した上で、明確な指針を示して貰いたい。「断固として行えば、鬼神もこれを避ける」というではないか。政治のリーダー・シップが求められる。優柔不断な姿勢こそ、大敵だ。鞆の浦・仙酔島を前に断固として行えば、鬼神もこれを避ける・・・
世界各地で想定外の自然災害が発生している。かつて、経験したことがない甚大な災害が続出している。自然の猛威は怖ろしいばかりだ。これも人間が作り出した自然破壊の結果だ。人類はここで自然に対して謙虚になる必要があるのではないか。コロナが大切な反省の機会を与えてくれたのではないか。人間が自然を勝手放題に征服してきた傲慢さにある。古来から人間は自然を愛で、恐れ、へりくだる謙虚さがあっだはないか。コロナ禍を機に、自然との関わり方を根本的に見直す必要がある、自然と共生する世界だ。乱開発で自然を破壊してはならない。自然は生きとし生けるものすべての無くてならぬ住み家なのだ。オランジェリー美術館にて予期できぬ事が多くなってきた・・・
先日、突然クレジット・カード会社から電話があった。私のカードに不正利用の疑いがあり、確認の電話だった。セキュリティー・チェックにかかり、利用の有無の確認だった。使用していない旨回答した。カード会社から、即座にカードを再発行するので、旧カードを廃棄して欲しいとの依頼だった。クレジット・カードの不正使用には、十分注意する必要がある。そのため、毎月、利用明細を送ってもらい、確認することにした。自分には無関係と思ってきたが、油断していたら、痛い目に合うところだった。クレジット・カードには常に厳重気注意を怠ってはならない。昼下がりのカフェテラスにてクレジット・カードの保管には厳重気注意を・・・
人種差別の抗議デモが続いている。銃規制と人種差別の問題はいずれ解決せねばならない大問題である。しかし、繰り返し繰り返し発生する問題が未解決のまま放置されている。国民の多くは、何とかして解決せねばならないという切実な願いがあるのでしょう。願いが適わないのは、社会に見えない「闇」が存在するのか、政治の力不足かに違いない。地球温暖化の問題にしろ、リーダーが率先して、解決を進めてもらいたい。社会の分断化が進み、収拾できない状況なのか。世界のリーダーを自認するからには、何としても解決しなければならない問題だ。国民の意識改革を期待したい。ありし日のノートルダム寺院の聖人達それでも民主国家と言えるか・・・
GoToキャンペーンの強行に、各方面から反対論が出ている。政府が経済のテコ入れのために、観光産業の回復を目指すのは理解できるが、何故そんなに急ぐのか、理解に苦しむ。確かに、観光産業の疲弊は明白だが、コロナが全国的に猛威を振るい始めた今、急いでは事を仕損じると思えてならない。コロナの感染拡大が懸念されている今、身を危険に晒してまで、旅行を願う人がいるだろうか、いささか疑問だ。東京都をはじめ医師会も疑問を呈していいる。この際焦りは禁物だ、冷静になって判断してもらいたいものだ。オランジェリー美術館にてGoToキャンペーンは政府の焦り・・・
日本政府は緊急事態宣言を解除するとともに、経済と感染防止のバランスを採ると言いつつ、経済重視に舵を切った。本来、コロナ対策は、最優先課題に向けて取り組むべき事案である。経済とのバランスを重視すれば、感染防止は疎かになってしまう。東京都の感染が増加して、再度自粛要請の復活が言われ始めている。ここに政治判断の良否が問われている。「二兎を追うものは、一兎も得ず」の例えが、頭を掠める。感染対策を揺るがないようにしてこその「経済」ではないか。「焦っては、事を仕損じる」というが、少し焦りすぎたのではないか。多くの国民が、心配し始めたように思う。通勤・通学の満員電車が怖ろしくなってきたというではないか。経済再生相がリーダーなのは気掛りである。本来は厚労相がもっと前面に立つべきではないのか。パリのオペラ座正面入り口二兎を追うものは、一兎も得ず・・・
これまで、諸悪の根源は自己中心にありと言ってきた。自己中心=エゴであり、自己の利益ばかり求める人のことを言う。自己中は「利他の精神」とは相容れぬ概念である。人間どうしても自己中心に考えてしまう。己の利害に直結しないことに対しては、無関心であり、「他所事」として扱ってしまう。無関心=他所事=自己中心主義=エゴに陥りやすい。最近になって「利他の精神」が言われるようになってきた。無関係と思っていたことが、意外なところで自己につながっていることがある。いわゆるブーメラン効果である。森羅万象何処かで繋がっているものだ。「他所ごと」と軽く考えないことだ。ベルサイユ宮殿他所ごとは無責任の始まり・・・
東京都のコロナ感染者が4日連続200人を超えた。打つ手がないのか、経済の回復を優先するのか、無為無策になっている。政府も都も策がなくて立ち往生しているようだ。かかる時こそ、有能なリーダー・シップがいるのではないか。政権の力量が問われる。日本は放置国家になってしまったようだ。先手必勝と期待したいが、期待できそうにない。ごり押しする政権も、我慢の一手か。大阪府の吉村知事のような、強いリーダシップのある責任者の出現が待たれる。無為無策は重大な結末を迎えることになる。失敗を恐れてはならない。断固として行えば鬼神もこれを避けるというではないか。優柔不断こそ大敵だ。出発を待つ心を鬼にして・・・
テレビ・コマーシャルを見ても、新聞雑誌の広告欄を観ても、健康に関する記事が、所狭しと掲載されている。世はまさに、「健康ブーム」と言っても過言でない。私は、健康体だった頃には、今ほど健康に関心は無かったように思う。病んでみて、初めて健康の大切さと有難さが身に染みて解るようになった。多くの人が病み、不安を抱えながら、毎日を暮らしてるのが分かる。病院に行ってみて、その切実さが伝わってくる。元気そうに見えても、薬に頼っている人のなんと多いことか。本来、人間には自然治癒力がが備わっていて、健康が維持されているはずなんだが・・・。薬石に頼らぬ健康を求めたいと切に願いたい。薬には必ず「副作用」があることを、心にとめておいて欲しいもの。シャンデリヤ煌めく健康志向は歓迎すべし・・・
「知即行」「行即知」は、陽明学の教え、「知行合一」が必要かつ十分な条件だろう。知識はあっても、行動が伴わないことには意味がないということだ。「知の学問」といわれる朱子学に対し、「心の学問」と呼ばれることもある陽明学は、中国の明代に、王陽明が興した学問であり、実践を重んじる。現代社会にあっても通用する実践的な学問である。世の多くの有識者は、口は達者だが、行いはどうだろうか。実践して初めて価値あるものとなる。選挙における「公約」がそれに該当するのではないか。実行あって価値が産まれるのだ。世の政治家達に言いたい、「言うは易し、行うは難し」と・・・。美辞麗句は不要、誠実な実践を望みたい。瑞巌寺境内知行合一は陽明学・・・
巷間、「人間、諦めが肝腎」と人はいう。これは、金銭欲、物欲、名誉欲等執着心を放棄させるための言葉だろう。無駄な所有欲を持つなという教えだ。諦めれば、無駄な欲望を持たずに済むということだ。諦めることは、明るい希望とは相容れず、マイナス思考に陥りがちだ。実現できる希望がある時には、希望に燃えプラス思考を持つようになる。人は何に希望を抱き、執着心を捨てるかが、その人の人生観にかかっている。「諦めること」と「希望を持つこと」は、背反関係にあり、人の価値観を決定的にする。希望は野望になってはならない。家族と共に一日でも長く生き続けたいと淡い希望をもって、今日も懸命に生き続ける私である。猪苗代湖から磐梯山を遙かに諦めることと、希望を持つこと・・・
1960年の頃のこと、黒澤明監督の「悪い奴ほどよく眠る」という題名の映画を観た記憶がある。「隠し砦の3悪人」とともに、現代の社会悪を糾弾する作品として記憶している。ところで、先ほど逮捕された河合前法務大臣が、自民党幹部に猛然と抗議をしたと聞く。誰もがやっているのに、私だけが何故という抗議だったようた。盗人猛々しいとはこのことだ「説明責任を果たす」と宣言しておきながら、梨の礫になってしまっている。広島県選出の議員諸氏にも、90数人に現金を配ったとされるが、罪の意識は全くないようだ。つい思い出したくなったのが、前記の黒澤作品である。安倍政権に与えるダメージは大きいだろう。広島県人として広島政界の浄化を強く望みたい。羽田空港の出発便悪い奴ほどよく眠る・・・
先憂後楽とは、常に国民に先立って国民のことを心配し、国民が楽しんだ後に己が楽しむことをいう。北宋の忠臣范仲淹が為政者の心得を述べた言葉と聞く。転じて、先に苦労して心配事を取り除いておいた者は、後に安楽が待っているということだ。昨今の政治情勢を見ていると、国民に将来に向けての安心感を与えているだろうか。先行き心配事ばかりが累積している。当面の難題に四苦八苦ているように見える。想像するに、政治家の多くがこの国をどのような国に導きたいのかのビジョンがないからではないか。強国と同盟を結び、安穏としてはおられない時代になってきた。他国のことばかり忖度していると、目指す道のりを見失ってしまう。政治家は身を捨てて、国造りに邁進して欲しい。政治家の「私利私欲」と「保身」に汲々としている姿を見るにつけ、純真だった「初心」を問いた...先憂後楽ということ・・・
東京都のコロナ新規感染者が遂に243名なり、これまでの最高を記録した。緊急事態宣言解除後の人々の緊張感が緩んだように見える。テレビでは、連日、感染者対策を中心に、専門家、コメンテータ諸氏が激論を交わしているが、甲論乙駁しているばかりで、決定打に乏しい。政府は、緊急事態宣言を解除して以来、完全に、経済復興に舵を切ったようだ。専門家会議や分科会の答申を尊重するように見せかけ、経済優先に軸足を移したようだ。専門家会議も、おそらく、小田原評定に終始し、決定打を欠いたと言えよう。政治のリーダーシップと責任感も欠如しているし、ビジョンも示されていない。コロナは正体が解らないまま、今日に至ったのだろう。後は、国民の自粛に期待する外に決め手がないということか。コロナ対策に打つ手なしと思わざるを得ない。石鎚山全景コロナ対策は、船頭多くして、船山に登る・・・
かねてから、「日米関係」の不合理を見直すべきと言ってきたが、今回のイージス・アショアの撤退は英断だったように思う。日米関係の不合理と思われる点は、幕末の「日米修好通商条約」を初めとして、敗戦後の日米安保条約、駐留軍の地位協定等々、米国から強要された多くの条約がある。そんな歴史的背景の中で、イージス・アショア撤退は、画期的な出来事と言えよう。日米が完全に対等の立場で締結した条約ならば、厳守するのは当然だが、いずれも米国の圧力を受ける中で締結されたものだ。不平等の条約は、見直すべきと考えたい。イコール・フッティングの中で全面的に見直しを進めて貰いたいものだ。当面の課題は、沖縄の「辺野古」の埋め立て問題だ。与党内からも見直すべきとの声が出ているという。この際、自国は自国で守る気概を持って、交渉に当たって欲しいものだ。...イージス・アショア撤退の英断・・・
今年も、梅雨末期の集中豪雨が襲ってきた。九州をはじめ日本各地に多大な被害をもたらせた。自然の猛威は脅威であり、恐怖さえ感じた。線状降水帯は次から次へと隊を連ねて襲ってきて、日本国中に甚大な被害を被った。中でも、球磨川、筑後川、飛騨川の氾濫は凄まじく、まるで猛獣が牙をむいて襲ってくるかのような脅威を覚えた。日頃は穏やかな風情を装っている河川も、一旦、牙をむくと恐怖の激流と化す。いくら「国土強靭化計画」を進めようとも、自然の脅威には太刀打ちできるとは思えない、所詮、蟷螂之斧ではないか。人間の自然に対する向きあい方が問われている。阿蘇五山自然の猛威をまざまざと見た・・・
我々は日頃、マスコミから多くの情報を受けている。しかし、真実が報道されているか十分吟味する必要がある、虚偽の情報が仕組まれているかもしれないから・・。特に誤報の疑いがあるのは、当局から発表されるニュースだ。報道操作の疑いがあるからだ。大切なのは、受け手の受ける影響から考えてみる必要があることだ。特に、国際問題では愛国心を煽る報道が意図的に流されることがあるし、民意を誘導するする狙いがある。そこには大本営発表に見られたように、虚偽が仕組まれているからだ。微妙な日韓関係、日中関係、日米関係など特に注意を要する。コロナに関する発表にも注意深く見守る必要がある。報道は信用したいのだが、陰でどんな操作が行われているのか判らない。与える影響は、計り知れないものがある。報道発表には物事を洞察する慧眼が必要だ。蔵王連山を遥かに報道発表にも疑いの眼差しを・・・
今年も梅雨末期の集中豪雨の季節がやってきた。毎年、線状降水帯が九州地方に、次から次に襲ってくる。熊本、鹿児島の球磨川流域に甚大な被害をもたらせた。専門家は、50~100年に一度に襲ってくる想定外の豪雨だという。毎年襲ってくるのが常態化している。簡単に、に「想定外」として扱ってもよいものか。東北大震災を初めとして、世界の気象の異変は発生している。今や、時系列に基づく常識は通用しなくなっている。有識者、専門家の頭も切り替えないと。彼等の常識も通用しないことを、肝に銘じておこう。それほど、気象の世界は変化してきているのだ。松山城のやぐら線状降水帯に要注意・・・
あおり運転が社会問題となって、法律も改正されたが、依然として後を絶たない。多分、煽り運転をする人達は、運転技術の優越感と短気な性格の持ち主ではないか。そんな変な心理が働いているように見受けられる。運転する時には精神が高揚するし人格が豹変するという。得意とする「運転技術」に優越感を抱き、イラついては煽ったり、無暗に警笛を鳴らす。日頃の欲求不満が爆発することになる。運転の得意な人も、苦手の人も、公道においては対等なのだ。高級車で運転技術に優越感を抱く人に多く見られる。問題になっても後を絶たないのは、そんなところに原因が潜んでいるのではないか。こけし館にてクルマの優越感は危険-あおり運転・・・
東京都のコロナ感染者が再び増え始めたようだ。夜の従事者と游興客に多く発症していると聞く。東京は異様な巨大都市だ。地方が廃れた分、繁栄し続けてきた都市でもある。私もかつては憧れた街ではあったが、今では異常にさえ映る。田舎の荒廃は目を覆うばかりとなっている。商店街はシャッター通り化し、鉄道は廃線に追い込まれ、国土は荒れ放題になっている。そんな中で、スーパー・シティー構想が持ち上がり、云わば国土再編計画が始まっているようだ。同構想では、生産性より棲みよい社会を目指しているという。文明も、行き着くところまできたようで、この辺で再構築の時期を迎えたのかもしれない。痛みを伴うと思うが、大胆にやって欲しいものだ。知覧の街並みスーパー・シティー構想に期待する・・・
東京都のコロナ感染者が2日連続で100人を超えた。下火になったと安心ていたが、気の緩みが出たか注目してみていた。行動の自粛、休業要請が緩められた途端に、感染が拡大し始めた。コロナは人間の弱点を巧みに突いてくるようだ。そのためには、戦略性が求められる。これまでの対策には、徹底した戦略性に欠けた居たのではないか。例えば、検査体制の強化、診療機関の整備と経営上の保障等韓国・ドイツに見られるような戦略性が必要だったと思えてならない。コロナは社会の弱点を暴いてくれているようだ。社会の清掃をやってくれているように見える。今後は第2波、第3波の襲来が懸念されるが、戦略性を以て備えて貰いたいものだ。夕陽のビルの谷間でコロナは人間社会の弱点を突いてくる・・・
ある訓練受講中に教官から、人間、狎れ狎れしくしては駄目だ、人間関係も長続きしない、と諭されたことがある。確かに、狎れ合う関係は傍から見ていても好ましいものではない。親しき中にも礼儀ありで、友情も長続きはしないだろう。日常生活で、慣れ親しむことは大切だが、ケモノ編の付く「狎れ」はいただけない。親しみを込めるという行為は、親愛の情の表れなのだが、度が過ぎると嫌らしくさえなってしまう。人間関係にも、ほど良い距離を保つことが大切なのだ。ジャレ合っても、終生の朋には成り得ないのかもしれない。ソーシアル・ディスタンスも捨てたものではないのかも・・・。ピンカートンinグラバー邸狎れ狎れしくする勿れ・・・
何事を始めるにも、最初が肝心で、「有終の美を飾る」と言うが如く、終わりも大切だ。有名な画家ほど、デッサンを殊更重要視されるそうだ。そしてデッサンを片時も忘れない。何を為すにも、基礎作りが最も大切で事の成否を握っているようだ。美しい豪華な建造物も、雄大な万里の長城も、基礎工事がさぞや大変だったと想像する。画家がデッサンを大切にするように、あらゆる分野においても、グランド・デザインの大切さが分かるような気がする。人間も人格形成上、幼児期の躾と教育が肝要であり、老後のありようが重要になってくる。生きている限り、優れた人生のデッサンを持ち続けたいものだ。東京駅ー丸の内口正面画家はデッサンに始まり、デッサンに終わる・・・
コロナの感染は未だ収束を見ず、拡大の一途をたどっている。感染者は1000万人を超えてさらに拡大が続いている。経済を重視するあまり、感染対策が疎かになり、感染が急増している国々も見受けられる。一方、一部の国々では、コロナ収束後の新しい社会を如何に構築するかを真剣に模索し始めている。「グリーン・リカバリー」と言って、人間の生存を中心の据えた「包摂的な政策」を進めようとするものと聞く。経済成長優先の政策から決別して、地球環境に配意した食料、エネルギー、福祉等様々な政策が包摂的にされることになる。地球環境にも、地域循環型社会にも応えようとするもので、暮らし易い社会を実現しようと試みるものである。日本では「新しい生活様式」が言われているが、まだまだ検討の余地があるのではないか。日本も出遅れてはならない。日本のリーダーシッ...世界は新時代を模索し始めている・・・
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