chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
美しいハワイと私 https://note.com/susie_hawaii/m/m678763745f80

☆ハワイの神話と歴史をたどる=古代ポリネシア人が残した神話、ハワイ王国を築いた人々やハワイを訪れた人々が残した作品を読む。 ☆ハワイを訪れた日本人 戦後編 ☆ホノルルの海と街を歩く

東京生まれ。横浜育ち。静岡を経て、ホノルルへ。 ハワイの自然、歴史、文化をシェア♪

Susie@Honolulu, Hawaii
フォロー
住所
ハワイ
出身
横浜市
ブログ村参加

2018/06/13

arrow_drop_down
  • 米国人アーウィンがハワイと日本を結ぶ②1894年まで2万9139人の移民を実現

    駐日ハワイ国代理公使兼総領事アーウィンの仕事は、日本で移民を募集し、ハワイへ届けるだけではなかった。移民と一緒にハワイへ渡り、ハワイでの移民の受け入れ態勢の改善に努めた。在ハワイ日本国総領事の安藤太郎も、移民の待遇改善に取り組んだ。しかし、1893年1月17日にハワイ王国は倒され、1894年7月4日にハワイ共和国が樹立される。最後の官約移民は1894年6月28日到着の第26回渡航船・三池丸が運んだ。官約移民の総計は2万9139人。アーウィンの役割は終了し、移民事業は、民間の移民会社に移され、私約移民の時代が始まる。 時間外労働と仮病。雇主と移民との意思不通 移民の各島への配置が終

  • 米国人アーウィンがハワイと日本を結ぶ①1885年に第1回官約移民を届けるまで

    1881年(明治14年)に来日したカラカウア王は、明治天皇にハワイへの日本人移民の実施を申し出た。それを受けて、1885年から1894年まで26回にわたり総計2万9139人の官約移民の渡航を実現した人物は、アメリカ人でハワイ国総領事に任命されたロバート・ウォーカー・アーウィンだ。 1860年、フィラデルフィアで万延元年遣米使節を目撃 アーウィンは1844年にコペンハーゲンで誕生。父ウイリアムは、ピッツバーグ市長、下院議員、駐デンマーク米国代理大使を務めた。母ソフィアは、アメリカ合衆国建国の父フランクリンの曾孫。1860年、フィラデルフィアで、16歳のアーウィンは、髷を結い、日本刀

  • カラカウア王のニッポン仰天旅行記

    世界一周旅行 ハワイ王国国王カラカウア1世は1881年1月の朝早く、司法長官をつとめていた私(アームストロング)に話しかけた。場所はワイキキにある夏の離宮である。 「余の心配ごとも片づいたので、念願の世界一周の旅に行きたい。そのほうも随行するがよい」 ☆ 昼過ぎ、カラカウア王は内閣を召集し、世界一周旅行に出ると宣言した。枢密院の議員を呼び、旅行の費用を検討するよう指示した。随行員に私を指名し、国務大臣の肩書と、旅行の最大の目的である移民政策担当官の職名を与えた。もう一人の随員に侍従長のジャド大佐、王付きの従者にロベルトを指名した。 ☆ この旅行記は、カラカウア王の腹心の臣下である私が

  • 元年者(Gannenmono) 日本最初の海外移民150人がハワイへ

    元年者とは、慶応4年4月25日(1868年5月17日)、ハワイのサトウキビ農園で働くために、横浜港を出発した約150人の移民労働者のこと。これが実質的に日本最初の海外移民となった。慶応4年9月、明治に改元され、明治元年となったため、彼らは後に「元年者」と呼ばれるようになった。 徳川幕府の使節団のハワイ訪問が契機 欧米由来の伝染病によるハワイ人の激減に直面したハワイ王国は、外国人労働者の導入を決定。1852年1月、最初の中国人移民195人がハワイに到着。8年後の1860年、徳川幕府は日米修好通商条約の批准書交換の使節団を米国軍艦ポーハタン号で米国に派遣。途中ホノルルに寄港し、カメハ

  • マーク・トウェインが見たカメハメハ5世のハワイにおける砂糖産業

    ハワイ王国では、1860年にポーハタン号と咸臨丸でホノルルを訪れた日本人が謁見したカメハメハ4世(1856~1863)が、息子が4歳で亡くなると、衝撃を受けて翌年に死去。 ☆ カメハメハ4世の兄ロットが、カメハメハ5世(1864~1872)として即位。王権を強化する新憲法を発布するとともに、カウアイ島のサトウキビ農園主で外務大臣ロバート・ワイリーの勧めもあり、農園の労働力不足に対応する組織として移民局を創設。サトウキビ農園の発展のために移民を受け入れた。 ☆ マーク・トウェインは1866年3月18日~7月19日、米国紙「サクラメント・デイリー・ユニオン」の特派員としてオアフ島、マウイ島

  • 幕末の日本人が訪れたカメハメハ4世のハワイ

    漂流民以外の日本人はハワイに辿り着くことはなかったが、1854年のマシュー・ペリーの日本再訪艦隊により、日本は、日米和親条約を締結し、200年以上続いた鎖国を解く。そして1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のために派遣されポーハタン号に乗船した徳川幕府の使節団一行77名と、使節団の護衛として派遣された咸臨丸に乗船した勝海舟、福沢諭吉らは、初めてハワイを訪れる。 日本の使節団を乗せたポーハタン号がホノルルに寄港 徳川幕府は1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、新見豊前守正興を正使とする使節団を米国に派遣。一行77名は、米国の提供した軍艦ポーハタ

  • ハワイのサンタクロースのイメージは、どのように生まれたのか

    毎年11月25日頃から、ワイキキの街は、クリスマスの装飾で輝き始める。その主役は、クリスマスツリーとサンタクロース。子供たちは、親に連れられて商業施設へ行き、サンタと一緒に記念写真を撮影する。ホテルや小売店には、クリスマスツリーに加えて、サンタの人形が登場する。 ハワイのサンタは、大きな身体と白いあご髭は従来の通りだが、その服装は、半袖のアロハシャツ、半ズボン、裸足にビーチサンダルというようにハワイで過ごしやすいように変えられている。そして、サーフィンをしたり、フラを踊ったり。このハワイのサンタのイメージは、どのように生まれたのだろうか。 サンタクロースのイメージのルーツ 大きな

  • 米国人宣教師が布教を始めたカメハメハ2世のハワイ①ハワイ語を習い、王族の信頼を得る

    カメハメハ大王が死去すると、カアフマヌ王妃はカプと偶像崇拝を禁止する。翌年、米国海外伝道評議会が派遣した宣教師一行24名が到着する。大王が拒否したキリスト教の布教を許すべきかハワイの王族たちは悩むが、ビンガム夫妻はじめ、宣教師一行はハワイ語を習得し、王族の信頼と友情を育んでいく。 食事カプの廃止 カメハメハ大王が1819年に死去すると、長男リホリホが23歳で王位を継承し、カメハメハ2世となる。 大王の側室の1人カアフマヌは、多くの王族の前で「大王の遺言により自分がカメハメハ2世のクヒナ・ヌイ(摂政)となり、一緒に王国を統治し、古来のカプ(禁忌)制度を廃止する」と宣言する。 ☆ ハ

  • ジャック・ロンドンの旅①日本、北米横断、アラスカ、ロンドン、朝鮮、ハワイ

    ハワイに関わった英米の作家として、ハーマン・メルヴィル、マーク・トウェイン、イザベラ・バード、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジャック・ロンドン、サマセット・モームが挙げられる。このうち、村上春樹が強い影響を受けたジャック・ロンドンの生涯とハワイとの関わりについて、ラス・キングマン著・辻井栄滋訳『地球を駆けぬけたカリフォルニア作家 写真版ジャック・ロンドンの生涯』および南太平洋を舞台とするジャックの作品を要約する形で紹介したい。 ☆ 妊娠した妻に夫は中絶を要求したが、妻が断わると家から追い出した。妻は絶望し自殺を図るが未遂に終わり、友人宅に保護された。ジャックは1876年1月12日

  • ワイキキの現在を映し出すライブカメラ

    2023年6月23日から「note」に投稿をはじめ、8月下旬から投稿に使用したハワイの写真を「みんなのフォトギャラリー」に登録したところ、約1年後の2024年9月13日に、私の写真が300回使われたとの連絡が来た。 ☆ 写真が使われるとnoteからEメールで連絡が来るので、今度は、どんな文章に使われたのかと、読むのが楽しみだ。ハワイの写真だが、ハワイをテーマにした文章に使われるとは限らない。それぞれの文章から、書き手の息づかいが聞こえて来る。 ☆ 2024年9月15日は、日菜(ひな)さんが書いた「眠れない夜は、世界を見に行こう。」という文章に、トングス・ビーチで私が撮影した写真が使われ

  • ハワイの誇り デューク・カハナモク 水泳と波乗りの継承と発展

    ハワイを初めて訪れた時、ワイキキビーチにサーフボードを背に両手を広げて立つ銅像が建てられた英雄について、私は全く知らなかった。彼が活躍したオリンピックは、1912年ストックホルム、1920年アントワープ、1924年パリ、1932年ロサンゼルスの4回で、太平洋戦争の前だ。その彼が、今もハワイの人々に愛され続ける訳を知りたくて、ハワイ人にとっての水泳と波乗りの意義、デュークの生涯、その遺産を継承する取り組みを探ってみた。 1778~9年、クック船長が見た水泳と波乗り クック船長は、太平洋探検の第3回航海で、ヨーロッパ人として初めて1778年1月にカウアイ島、2月にニイハウ島、1779

  • イザベラ・バードが訪れたルナリロ王のハワイ①ホノルルとハワイ島

    ハワイ王国史におけるルナリロ王の在位期間は、わずか1年25日。だが、この期間にハワイの島々を訪れ、王に謁見した英国の女性旅行作家がいた。私は2018年に彼女が書いた本の日本語訳を購入したが、本棚に積んだままになっていた。今回、xでルナリロ王時代のハワイを紹介するために、彼女がハワイから英国の妹に送った手紙を抜粋する形で連載を始めた。手紙16で彼女は一旦ハワイ島を離れるので、ここまでを一区切りとし、要約を補うためにインターネット上で公開されている写真を添えた。 ルナリロ王(1873~1874) ウィリアム・チャールズ・ルナリロは1835年1月31日、現在のホ​​ノルルで、カメハメハ

  • 高峰秀子とハワイ 日系米兵との出会い~ハワイに眠る

    高峰秀子生誕100年、おめでとうございます。 女優の高峰秀子がハワイと深く係わっていたことを私が知ったのは、夫で脚本家の松山善三との共著『旅は道づれ アロハ・ハワイ』を見つけてから。さらに『わたしの渡世日記 下』には、終戦直後にハワイから日本を訪れた日系米兵、ハワイ生まれの灰田勝彦、ハワイの日系人の歴史について書かれていた。また、高峰秀子の養女となった文筆家・斎藤明美の『高峰秀子との二十年』にはハワイのコンドミニアムを購入した経緯などが記されていた。これらの文章を時系列に編集し、高峰秀子の写真集や斎藤明美編『高峰秀子 旅の流儀』などに掲載された写真を添えて、「高峰秀子とハワイ」と題して

  • ドナルド・キーンとハワイ 戦時下における日系人、日本人捕虜との交流

    ハワイに住む者として、ハワイの歴史を知りたいと思った。そのひとつの方法は、ハワイを訪れた人が書き残した書物を読むことだ。ドナルド・キーンがハワイと係わっていたことをどうやって知ったかは覚えていないが、私はドナルド・キーン(著)/角地幸男(翻訳)『ドナルド・キーン自伝 増補新版』(中公文庫、2019年)から、ハワイに関する部分を抜粋し、ウェブ上に公開されている写真などを添えた下記の原稿を2020年11月17日から28日までツイッターに連載した。自伝は2006年、「読売新聞」の土曜朝刊に『私と20世紀のクロニクル』として連載されたもの。 源氏物語 コロンビア大学に入学した1938年9

  • ハワイにおける新型コロナウイルスとの戦い①2020年

    2020年の私は毎日、ハワイ州の新型コロナウイルスの新規感染者数とハワイ州知事やホノルル市長の対策をツイッターで発信していた。その後、忘れたこともあるので、この機会に、ハワイにおける新型コロナウイルスとの戦いについて、ツイッターで発信した情報をまとめてみることにした。 発信した情報は、2020年だけで5万2千字を越えている。月毎の目次を作成したので、まずは各月の最初に書いた要約を読んでいただければと思う。 1月に「中国の武漢市が新型肺炎の感染で都市封鎖された」と聞いた時は、まだ他人事だった。 2月に横浜港に寄港したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」で集団感染が発生した時が、

  • ダイヤモンドヘッド周辺のビーチを歩く

    近藤純夫さんによると、オアフ島が海上に姿を現したのは350万年前。ダイヤモンドヘッドが出来たのは15万年前。海面直下で噴火が起きたために、マグマが激しく海水と接触して水蒸気爆発を起こし、ほぼ真円に近い直径1キロのクレーターがつくり出された。 その後、到来する雨や風、そして波が永い時間をかけてダイヤモンドヘッドの山麓を少しずつ削り取り、細長い砂浜と遠浅の海をつくりだした。 風と潮流の関係もあり、ビーチの前には良い波が立つ。しかし海底にはサンゴ礁があるので、この海を知らない人には向かない。ここに集まるのは、ほとんど地元のサーファーたちだ。 ダイヤモンドヘッド周辺のビーチを西から順に紹介した

  • 朝陽が照らし出すホノルルの海と街

    夕陽はじっと見ていられるが、朝陽は眩しくて見ていられない。日の出とともに景色は逆光で暗くなるので、日の出前の空の色の変化が面白いと気づいた。日の出後は、朝陽がどこを照らすかに注目した。ワイキキではシェラトンが最初に明るくなる。ワイキキから見るダイヤモンドヘッドは午前中は影の中だ。 ホノルルの朝陽を見つめる 「Sunrise seen from the plane heading to Hawaii」 2022年6月9日(木)20時45分、前日のPCR検査陰性判定書を持って、成田空港から日本航空JL784でホノルルへ。ハワイ時刻5時47分頃から水平線がオレンジ色になり、6時には太平

  • 炎が演出するワイキキの夜

    夕陽が沈むと、カラカウア通りぞいのホテルやショッピング・モールのトーチに炎が灯される。ルアウ(ディナーショー)では、伝統食を振舞い、ステージでは歌とフラを披露し、最後はサモアのファイアー・ナイフ・ダンスで締めくくる。金曜日の夜には、ヒルトンで花火を打ち上げる。炎は、野性を蘇らせる。 「7 pm at Waikiki Beach Marriott Resort & Spa」 2023年3月30日、木曜日。ワイキキでは、サンセットを眺めてから、食事に出かける人が多いのでは。日没後のマリオット前も、ワイキキ中心部へ向かう人、地階のアイランド・ヴィンテージ・シェイブ・アイスに下りて行

  • 残照のなかのホノルルの海と街

    ホノルルの海に太陽が沈んだ後、10分ほど経っても、海岸沿いの高層ビルの正面は、まだ明るく照らされている。20分ほど経つと、ホテルの部屋の灯りが強さを増してくる一方、ビーチでは、水平線近くの空に赤みが差し、やがて燃えるようなオレンジ色に染まっていく。ホテルのプールはライトアップされる。 Makapuu Avenue 今日は丘の上から夕陽を見ようと、モンサラット通りを登り始めたが、なかなか眺望が開けない。 カピオラニ・コミュニティ・カレッジから、マカプウ通りに出ると、金網フェンス越しに、夕暮れのワイキキの高層ビル群が見えた。 2019年6月19日撮影。 マカプウ通りから見たワイキキの夕

  • ホノルルの海に沈む夕陽

    パートナーがハイアットの海側のABCストアで仕事をしていたので、初めて見たサンセットは、デューク像の近くからだった。大勢の人々が海に沈む夕陽をじっと見つめていて、ワイキキのサンセットがイベントだと知った。長く住んだ横浜と静岡では、夕陽は西の山に沈んだので、海に沈む夕陽は初めてだ。 ☆ ワイキキで毎日、海に沈む夕陽を見られるわけではない。ほとんどは、海から湧き上がった雲に隠される。隠されても、しばらくすると顔を見せて海に沈む夕陽もある。薄曇りだから隠れるだろうと思っていると、輪郭がくっきりした夕陽が海に沈むこともある。ワイキキの様々な場所で見た夕陽を紹介したい。 「Sunset saw

  • ホノルルの虹に出合う

    「Anuenue 虹」 ハワイは「虹の州」とも呼ばれるほど、虹がよく見られる。 車のナンバープレートにも、大きな虹がどーんと入っているくらいだ。 ハワイの島々には、いつも北東の方向から貿易風が吹きつけていて、 それが山にぶち当たって上昇気流をつくり、雨雲を発生させ、 その雨雲が流されて、あちこちに雨を降らせる。 でもシャワーのような雨が多く、いっぽうで太陽が輝いているものだから、 雨に日の光が当たって、よく虹が現れるというわけだ。 虹の出かたをご存知だろうか。 太陽と自分の目の位置を直線で結んで、 その延長線上(太陽と反対側)のある点が中心となって、虹が現れる。 ふつうは地面があるの

  • ダイヤモンドヘッド三十六景

    ★ワイキキから見たダイヤモンドヘッド 1 デューク・カハナモク・ラグーン 北斎がハワイに住んでいたら、ワイキキのあちこちから見たダイヤモンドヘッドを版画にしたのではないか。北斎のように写真を撮りたい。まずはデューク・カハナモク・ラグーンを散歩する家族連れを見守るダイヤモンドヘッド。2020年12月21日撮影。 デューク・カハナモク・ラグーンを散歩する家族連れを見守るダイヤモンドヘッド 2 デューク・カハナモク・ビーチ ココヤシの並木の写っている写真を見ると、ハワイかな?と思い、ダイヤモンドヘッドが写っていると、ワイキキだ!となる。ココヤシの並木のむこうに、ダイヤモンドヘッドが写ってい

  • ホノルルの潮騒を聴く②クヒオ・ビーチ~アラモアナ・ビーチ

    約3kmにわたるワイキキ・ビーチの沖には、9つのサーフポイントがある。かつてサーフィンはハワイの王族のためのスポーツだった。 王国崩壊後の1905年6月にハワイを訪れた人気作家ジャック・ロンドンは、サーフィンの手ほどきを受け、その魅力を世界に発信。 さらに、1912年のストックホルム・オリンピックの100m自由形決勝で金メダルを獲得したデューク・カハナモクがサーフィンの魅力を世界に発信。 1917年の夏、17mを超える波が、ダイヤモンド・ヘッドの外側から、ホノルル港に向かって、北東の角度で近づいてきた。デュークは長さ16フィートのサーフボードにしがみつき、一番の大波に乗ると、ボードの上

  • ホノルルの潮騒を聴く①クリオウオウ~ワイキキ・ウォークウェイ

    ホノルルの様々な海岸を訪れて、潮騒の音を聴いた。 そして、波の静かな海岸と波の荒い海岸があることに気づいた。 オアフ島の南側では、波は南東からやってくるようだ。 だから、火山の噴火などで作られた岬の東側の海岸の波は荒く、西側の海岸の波は驚くほど静かだ。 訪れた海岸を東から順に紹介する。 クリオウオウ・ビーチ 2023年6月30日、金曜日、午前11時。初めてクリオウオウの海に出たら、今までダイヤモンドヘッドの北側から見ていたココクレーターが左側に聳えていた。ココクレーターの右側にはココヘッド。南東からの波は、この火山に堰き止められて、犬も歩ける浅くて静かな海が広がっている。犬の散歩に来

  • 加藤秀俊『ホノルルの街かどから』⑤ワイキキ、客の送迎、日本語放送局、アロハ、フロンティア、太平洋

    観光で来る人たちは、ハワイというと、ワイキキを連想する。とにかく、1日24時間、にぎやかで楽しいところなのだ。しかも、ここの海岸は美しい。海岸沿いのヤシの木は、貿易風にそよぎ、太平洋に沈む太陽が大空に描き出す夕焼けは、ワイキキ以外では見られない。 ☆ しかし、ワイキキが、ホノルル市のごく限られた行政区であることも事実だ。そして、ホノルルで生活をし始めてみると、ワイキキが極めて特殊、例外的なところに思えてしかたがない。物価も高く、人口密度も高く、大部分は休暇旅行で遊びに来ている人たちだ。生活者の文化と旅行者の文化とは、大分違う。 ☆ そんな気持を友人に話したら、「お前がマリヒニ(外来者)

  • 加藤秀俊『ホノルルの街かどから』④ヤモリ、バスケットボール、カメハメハ・デー、ステイト・フェア、元旦の花火、カウアイ島、貨物船

    ハワイに住み始めて、最初の夜を迎えた時、私たちは、チュ、チュ、チュ、という不思議な音を聞いた。かすかな音だが、気になる。断続的な音なので、なかなか所在がわからないが、台所の外壁から聞こえてくる。私は懐中電灯を照らして、この音の発信源を確かめた。 ☆ ヤモリだった。体長10cm。半透明にも見える薄灰色で、細かなウロコに覆われている。こいつが4本の足で壁にへばりついて、チュ、チュ、と鳴いている。ときどき桜色の口を開く。最初の晩はびっくりしたが、日が経つにつれて、目の前の壁や部屋の天井をウロチョロしているのが当たり前になってきた。 ☆ 家の内外をよく見ると、ヤモリはいたるところにいる。ある晩

  • 加藤秀俊『ホノルルの街かどから』③小切手、物価高、ラッシュアワー、不要品販売、募金活動、満天の星空、海

    アメリカ生活で、最初にしなければならないことのひとつは、銀行の口座を開くこと。現金をもっているのは、最も危険なことだ。そのかわりに、銀行に当座預金を設けて、小切手を使う。小切手帳のデザインを選ぶと、名前と住所を印刷して2週間以内に届けてくれる。 ☆ 小切手の注文後、クレジットカードをすすめられて、申込むと、ひと月以内に送るとのこと。このカードで買物をすると、その金額は自動的に、私が銀行から借りたことになる。返済金額は毎月10~20ドルで、残りは翌月に繰り越し。利子と手数料がついて銀行が儲かる仕掛けだが、消費者は、気が大きくなる。 ☆ かつてのアメリカで自由に流通していた小切手が、なかな

  • 加藤秀俊『ホノルルの街かどから』②マンゴ、食べ物、ポットラック、授業、コミュニティ・スクール、学園祭、夏休み

    5月のなかばすぎからマンゴの実が熟して、食べごろになる。実が青いうちは葉の色と同じで目立たないが、だんだんとオレンジ色になり、最後にリンゴのような赤い色になると壮観だ。1本の木で300個、400個はザラなので、庭にマンゴが2、3本あると食べきれない。 ☆ そこで食べきれない分は、まず人にあげる。うちの庭にはマンゴがないので、お隣のおばあさん、研究所の友人、妻の学校の友人からマンゴをいただいた。冷蔵庫はマンゴであふれている。研究所の片隅にもマンゴが山積。自宅にマンゴをもっている人たちの間でも品種がちがうマンゴを交換して風味を賞でる。 ☆ しかし、少なからぬ部分のマンゴは木から落ちるに任せ

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、Susie@Honolulu, Hawaiiさんをフォローしませんか?

ハンドル名
Susie@Honolulu, Hawaiiさん
ブログタイトル
美しいハワイと私
フォロー
美しいハワイと私

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用