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  • 戊辰・会津戦争34 若松城下侵入

    若松城下侵入会津古城研究会長石田明夫1868年8月23日『会津史』によると、早朝から猪苗代湖西岸の戸ノ口原で戦闘が開始されます。白虎隊などの会津藩兵を打ち破り、午前8時には一箕町滝沢の堂ヶ作山に到着し、そこから会津盆地を見て、侵入経路を確認し、9時には甲賀町口郭門、10時には北出丸大手口近くまで西軍は進攻したのです。若松城下の町にある木戸口には、町民が殺到し、折り重なって亡くなった者が多数いました。また、大雨で大川(阿賀川)が増水し、舟で渡りきれず水死したもの数百人いたという。市街戦の戦死者は460余人、藩士家族の殉死233人におよび、一般町民は多数で正確には不明。約千戸が焼失。白虎隊士16人が飯盛山で自刃したのです。同日、南会津の那須岳西側の三斗小屋でも戦闘があり激しい戦いでした。これは、期日を決めて、会津領...戊辰・会津戦争34若松城下侵入

  • 戊辰・会津戦争33 白虎隊の自刃2

    白虎隊の自刃2会津古城研究会長石田明夫1868年8月23日、白虎隊の飯盛山での自刃については、飯沼貞吉が残した『顛末記』によると「篠田儀三郎曰(いわ)く、最早(もはや)斯(か)くなる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀(はかり)、元より不可と云うにあらざれども、迚(とて)も十有余士の能(よ)く為し得(え)るべき所にあらず。誤って、敵に擒(とりこ)にせられ縄目(なわめ)の耻辱(しじょく)を受る如(ごと)き事あらば、上は君に対して何の面目(めんもく)やある、下は祖先に対し何の申訳やある。如(し)かず潔きよく茲(ここ)に自刃し、武士の本分を明にするにありと。議論爰(ここ)に始めて定まり、徐(おもむろ)に用意を為し、慶応四年戊辰八月廿三日巳(み)の刻(午前十時)過ぎなりき、一同列座し西方(正しくは南西)鶴ヶ城に向...戊辰・会津戦争33白虎隊の自刃2

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