このブログは、主に私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話します。
さて、御嶽城本丸までたどつきました。さて、御嶽城はかなり起伏に富んでいます。本郭から、帯郭に降りようとしますが、かなりダイナミックな悪路です。露出した岩盤です。こういった天然の要害が随所に見られます。2の郭に向って進んでいるはずですが、一人の労力では山城調査も簡単ではないです。これは本郭と二の郭の間にある堀切です。この堀切がかなり強烈に深くて危ないと思いました。ここで、私は思いっきり滑ってしまいました。もう、ほとんど、ドリフのバナナの皮状態で、すってーん!!おかげで、堀底に転落しました。メガネがどこかに吹っ飛んでなくなってしまいました。私は、用途に応じたメガネのスペアを3本くらい持っているので、とりあえずそれを掛けました。山城の場合、ルートがはっきりしているとはいいがたい部分もあります。楽な方に回ろうとするとい...御嶽城(神川町)②
本日から、数回に分けて御嶽城(神川町)について書きたいと思います。調査日は2019.02.12です。御嶽城は武蔵三之宮金讃神社の背後にある御嶽山の山上に展開する山城です。金讃神社は二之宮であるという説もあります。まあ、それはともかく、御嶽山は修験の行場でもあり、岩塊がむき出しの山です。御嶽城は峻険な山であるにもかかわらず、縄張りはかなり広範囲に展開しており、今回は、100枚以上の写真を撮影しました。峻険な岩山であり、足場はかなり悪く危険です。ここには一度行きたかった。というのも、この御嶽城は妻沼の長井斎藤氏の手になるものと言われており、私の先祖にも縁がある城だからです。北条氏の勢力伸長に伴って、勢力を失った長井斎藤氏は、妻沼に残された領地に戻って、長井姓も斎藤姓も名乗らず歓喜院の別当職を継いでいます。ともあれ、...御嶽城(神川町)①
今回は、境稲荷神社と弁慶鏡が井戸について紹介いたします。訪問日は2019.02.09です。境稲荷神社と弁慶鏡が井戸は、不忍池近く、池之端の東大医学部下にあります。酒井稲荷神社の創建時期については不明だそうですが、室町幕府九代将軍義尚によって、再建されたのだそうです。巨大な鳥居で目立ちます。鳥居の巨大さに圧倒されますが、社殿はこじんまりしています。社務所もありますが、人の気配はありませんでした。社殿の裏には、義経が欧州に向かう際に、立ち寄りのどを潤したといわれる弁慶鏡が井戸があります。ただし、この井戸は一度埋められてしまったそうで、昭和15年に再度掘り出されたものなのだそうです。まあ、埋めるとは何とも手荒なものですが、それを掘り出すのもものすごいことだと思います。2019.02.09境稲荷神社と弁慶鏡が井戸
本日は、源範頼館跡、息障院について書きたいと思います。調査日は、2019.02.14です。源範頼館跡、息障院については、これまでたくさんの方にブログで取り上げられておりますし、私自身も、度々訪ねております。まあ、せっかくですから今回は、ちょっと変わった方法をとることにしました。源範頼の館跡は、現在、息障院と幼稚園になっています。調査日には、ちょうど梅の花が6分咲きくらいの状態で、日の当たり具合で、咲き方が違います。まあ、梅の花はこれくらいにして、息障院の山門です。息障院の周囲は堀で囲まれており、これが館の遺構となるわけです。門前から続く堀跡の曲がり角です。源範頼館跡は、空堀以外に目立った遺構はありませんが、よく見ると。西側には土塁の面影を残す土の盛り上がりが残されています。堀跡の残り方は非常によく、南側、西側は...源範頼館跡息障院(吉見町)
本日は、中条堤(熊谷市)についてご紹介したいと思います。訪問日は、2019.01.29です。中条堤は、中条氏館跡常光院の北、自動車で3分ほどのところにあります。中条堤は、既に古墳時代からその原型がつくられたといわれ、築堤には秦氏一族が技術者として動員されたようです。妻沼地域は秦氏一族に源流をもつ人たちが多く、小さな田舎町ですが、学問好きや技術者が多い土地柄です。私も秦氏一族の出なので、まあ、ご先祖様の遺跡ということになります。鎌倉期、室町期にかけて整備が進み、さらに江戸期になると忍藩一帯を洪水から守るために維持管理がされましたが、守るのはあくまで堤内地(川の無い方)で、堤外地(川のある方)は惨憺たる目にあったそうです。この堤防は、政府からも忘れ去られ、戦後に再発見されたそうで、なんだか不思議な堤防です。堤防は緩...中条堤(熊谷市)
2019.02.03、腰越城に登った帰途、城郭の向かい側の鉄橋を撮影しました。なかなかいかした鉄製の歩道橋です。こげ茶色の塗りが良いです。鉄橋の下の槻川です。水が澄んで綺麗です。釣り好きの私としては、寒バヤ釣りでもして、夜の肴にしたいところです。わずかな滞在でしたが、寒い季節のしみじみとした良さを感じました。橋(小川町)
本日は、東秩父村にある上田氏供養板石塔婆について書きたいと思います。この板石塔婆は、安戸城の登り口近くの小高い丘にあり、県道沿い第霊神社に5本の大きな板碑があるので非常に目立ちます。大霊神社はどうも、戦没者の慰霊のために建てられたもののようで、新しい神社で戦没者慰霊関連の石碑が多い印象です。板碑は非常に大きなものです。、欠損を補強するため鉄枠で補強されています。この板碑の特徴はなんといっても、題目が刻まれていることです。この大きな板碑の背後に、おなじみの種字を刻んだ小さな板碑がありました。上田氏供養題目石塔婆(東秩父村)
今日は、浄蓮寺上田一族の廟所について書きたいと思います。2019.02.03にお参りに行きました。浄蓮寺の南側に墓地がありますが、上田一族の廟所はのほ墓地の奥、山の中の沢沿いにあります。谷川沿いのためか、ものすごい冷気が流れてきます。墓地は斜面中腹に作られています。石塔がありました。しかし、松山城を抑えていた武将の一族だけあって、苔むしたような廟所の発する有無を言わさぬ迫力には圧倒されます。しかし、ここには夜は来られませんな。浄蓮寺上田一族の墓(東秩父村)
本日は、東秩父村の浄蓮寺大河原氏館跡について書きたいと思います。調査日は2019.02.03です。大河原氏は丹党の武士です。現在の館跡は浄蓮寺一帯とされていますが、ある種突き詰めにくい雰囲気があるというか・・・。まあ、その突き詰めにくいものの正体をまずお見せしましょう。それは、これです。この立派な石垣は、大河原氏時代よりもかなり後になって組まれたものとされているのですが、上田氏の廟所があるお寺なので、上田氏の庇護を受けている時代に組まれたものなのか?この通路は堀跡とされています。まあ普通の感覚だと、2枚目の写真辺りで打ち切りですな・・・。しかし、それでは、何のために来たのやらということにもなります。そこでバリバリと行くことにしました。大河原氏の館を見にきて浄蓮寺本堂裏を見る奴っていうのは少ないでしょう。ちょっと...浄蓮寺大河原氏館跡(東秩父村)
本日は安戸城の城内に入ってみましょう。城内主郭には金属製の城址碑が立っています。城址内は杉林になっていますが、思いのほか広々としています。主郭の西側が高くなっています。解説板もあります。この解説図に明瞭に示されている通り、最初に歩き回ったのは帯郭だったのですね。東に向かって傾斜があります。この主郭に突き出た列石は遺構になるのでしょうかね?それに土の盛り上がり・・・。これは櫓台跡なのか?ここから下り傾斜がきつくなります。主郭の東端です。次に、二の郭に降りてみましょう。二の郭は主郭の北側にあります。主郭から降りやすいように木枠のついた道があります。二の郭から、主郭を見上げてみました。二の郭は狭いです。ここが堀切です・・・あまりはっきりしませんが。二の郭からも、主郭の台の岩盤がむき出しになった場所があります。二の郭か...安戸城(東秩父村)③
安戸城の南側は自然の岩盤を巧みに利用して、石垣のように利用しています。このように迫力のある天然の石垣が続きます。主郭の東端も岩が張り出しています。この東の尾根道も、加工が施されている気がします。主郭東端には虎口が確認できます。ここから主郭に入ってみました。正直足場が悪く、こんなところ登っていたら、相手にやりたい放題にされてしまうでしょう。主郭の北側に回ってみましょう。木が結構邪魔です。北側に移動するのは厳しいですが。平場がありました。それでは、次には主郭に登りましょう。安戸城(東秩父村)②
今回は、東秩⽗村唯⼀の城郭である安⼾城について書きたいと思います。調査⽇は、2019.02.10です。安⼾城は上⽥⽒の城郭であるとも、中世村落が⾃衛のために設けた城ともいわれています。城郭は東秩⽗村⽴城⼭保育園の裏⼭にあります。これは⽔⽥の中まで引いて撮影した遠景です。もう少し近づいてみました。城⼭保育園の看板です。県道沿いの⾼台に⼤きな題目を刻んだ板⽯塔婆群がありますが、そこから少し⼩川町寄りの場所に、保育園に向かう坂道がありその前を通り過ぎると、城⼭にぶつかります。⼊⼝はこんな感じになっています。⼲上がってはいるものの、どうも⽔場のように⾒えます。どうでしょうか。ここは帰路に再チェックします。この⼭道はつづら折れで、腰越城ほどではないですが、その分距離があり、おまけに⼭中に⾏くほど気温が下がるため、ひどく応...安戸城(東秩父村)①
本日は、増尾氏関連遺跡の一つ、小川町の八幡神社について書きたいと思います。調査日は2019.02.03です。八幡神社は中城跡の西側にあります。この台地は梅香岡と呼ばれており、眺望に優れています。八幡神社は1333年、鎌倉幕府の滅亡に際して、当時、将軍の座にあった守邦親王が増尾氏を頼ってこの地に仮寓した際の館跡で、守邦親王が勧請したものとされています。ただ、守邦親王は幕府瓦解後、3か月で崩御されたといわれているため、この地が終焉の地だったのかもしれません。ただ、この地では守邦親王は流鏑馬をしたと伝えられてもいることから、必ずしも身体を壊していたとも思われず、謎の多いことであります。親王の墓所もあるいはこの地に隠されているのかもしれません。このような特別な重みをもつ八幡神社ですが、祭礼の日以外はどなたもいらっしゃら...八幡神社(小川町)
今回は、小川町の中城跡について書きたいと思います。調査日は2019.02.10です。中城跡は東上線小川町駅の西側、小川町市街地の真ん中につきだした台地上の「梅香岡」にあります。ちょうど、小川町の町営運動場の固まっているところです。この台地上は当地に勢力をもった増尾氏の根拠地らしく、中城跡は台地の東側先端部分にあります。また、鎌倉幕府最後の将軍守邦親王が、幕府滅亡に際して増尾氏の庇護を受け、仮寓した館跡でもあり、守邦親王の勧請したといわれる八幡神社は中城跡の西側にあります。中城跡はやや見つけにくく、対戦戦死者慰霊塔の向かい側にある民家のわき道を入っていかなければなりません。小道を直進すれば、テニスコートのある郭内に入ることができますが、これは後知恵です。普通ならば、民家前を通ってそのまま空堀と土塁に到達します。中...中城跡(小川町)
今回は、東秩父の雄、上田氏の家老を務めていたといわれる山田氏館跡を紹介いたします。訪問日は2019.02.10です。小川町から切通しを越えて、東秩父村に入るとすぐ旧街道沿いに安土の宿があります。いい雰囲気の古い町並みですが、この宿場の郵便局がある付近の山側に旧家があり、そちらのお宅が山田氏のご子孫のお宅です。ご主人に御挨拶をして、館跡を見せていただきたいとお願いすると、快く許可してくださいました。どうも、見学に訪れる方が大変多いのだそうです。まず、山田氏が勧請した山田稲荷から見せていただきました。普段は祠の扉はしめられているのですが、開けてくださいました。この、稲荷社はもともと、館跡内にあったのだそうです。下の写真が、稲荷社のあとです。さて、館跡は稲荷社のある耕地で、段が設けられています。遺構は斜面を削平して作...山田氏館跡(東秩父村)
2月の某日、所用で上野に行きました。某大学の医学部下にあります。つくり的に下宿屋さんだったのでしょう。いつも、この前を通るたびに「いつか、カメラに収めなくては」と思っていました。モルタル製の戸袋のデザインがいいです。帰途、少し遠回りになると思いながら、不忍池に回り込みました。雪になり損ねた霧雨で煙っています。弁天島です。こうしてみると、上野駅前もなんだかきれいですね。不忍池近辺
今回は、吉見町にある御所陣屋について書きたいと思います。調査日は2019.02.14です。御所陣屋は源範頼館跡に近く、延喜式内社の横見神社および隣接する稲荷神社境内がその跡とされています。横見神社は横見神社古墳上、稲荷神社は御所稲荷塚古墳の上にあります。両者とも円墳です。御所陣屋跡は、地元での認知度はとても低く、先日、報告済みの首切り谷、地獄谷について、地元の口碑についてご教示してくださった方は、「ここに、陣屋があったなんて聞いたこともない。範頼公の館は向うのお寺だよ」と、驚きつつ話してくださいました。横見神社です。この近くには延喜式内社の久伊豆神社もあり、古代吉見地区の特異性が感じ取れます。さて、横見神社に隣接するように稲荷社があります。見た目は、この祠の方がずっと古いのですが。稲荷社の横には、空堀跡が確認で...御所陣屋(吉見町)
この記事では、旧妻沼町東部にある西城城跡について書きたいと思います。調査日は2019.01.26です。西城城跡は福川の南岸にあり、東城、日向城に近接しており、当地が、当時としては得意な軍事的要衝であったことを伺わせます。わたしはかつて、高校生のころ、西城城跡の発掘現場を見学に行ったことがありました。それは、以前記事としてアップした通りです。今回はそれ以来の訪問となります。現在は、水田の中に城址碑があると聞いております。そこで、主に城址碑を見に・・・・遺構はあまり期待せずに見に行きました。当日は天候が悪く、寒風が吹きすさんでおりました。もう、こんな天気です。風も冷たい・・。城址碑の近くには、集落がありそこは周囲より小高くなっております。その下のかつては旧湿地であった水田地帯の中に、城址碑があります。西城城跡は水田...西城城跡(妻沼町)
前回記事のように、腰越城の主だったところまで見てきたわけです。本日は、帰路で、まだ見ていなかった遺構について書きたいと思います。帰路は、街道に面している腰越城の南側にある腰郭や通路に従って下山しました。ここは、二の郭と三の郭の間の大堀切です。ここは、二の郭下にある腰郭です。ここを歩いていきます。石積遺構があります。ここは、囮の虎口入口に積んであるものです。下は、二の郭にあった囮虎口を下から見たものです。やはり、進入しにくそうですね。ここに入ると、大変な目にあわされるわけですね。南側の堀切です。南側には民家が並んでいます。その背後に当るところに竪堀があります。山道っぽいのでここから降りたくなる人もいるかもしれませんが無理です。今、城跡南側を防衛する空堀(横堀)内を歩いています。ここは土塁付きです。下の写真の右側が...腰越城(小川町)⑤
さて、二の郭に降りました。どちらから行くと効率が良いのかとも思いますが、二の丸を北に向かって歩くと、順繰りにほかの郭を回れるようです。腰越城内はかなり急斜面の山を最大限利用できるよう工夫が凝らされており、複雑な構造をしています。事前に文献所収の地図を持って行った方がよいと思います。二の郭から他の郭への連絡通路が延びています。下の写真は、山道にしか見えませんが一度、主郭・二の郭の下を巻き込むようにして、そのあと、再び折れて三の郭、西の郭へと向かうのです。この辺りに来ると落ち葉が積もってふかふかになっています。これは踏み固められた山道に浮いているのと同じで、うっかりすると滑ってもんどりうって転倒しかねない危険エリアです。下の写真の腰郭には、二の郭から直接おりてくることもできますが、城の構造を重視して遠回りをしたわけ...腰越城(小川町)④
腰越城主郭です。ここまで登ってくるのに30分近くかかっています。実は、腰越城には2時間半も滞在することになってしまいました。見どころが実にたくさんあります。主郭は思ったよりも広く、上田氏の牙城であった東秩父防衛のため、かなり充実した規模と機能を持っていると感じました。現在整備されている遊歩道のある東側は急傾斜で登りにくい一方で、西側(鉱山採石場で入山できないルート)の方は稜線が長く、傾斜も比較して緩く、郭の配置が手厚いです。小川方面の遠景。東秩父方面の遠景。主郭は案内板も充実しています。主郭から見下ろしたニの郭です。こちらが古い城址碑です。さて、主郭内をもう少し詳しく見てみましょう。主郭は北側・東側がやや高くなっており、傾斜しています。防御遺構らしきものですが、北側・東側に盛り上がりがありますが、これは土塁のよ...腰越城(小川町)③
先日は、大堀切のたどり着いたところまで書きました。その堀切には現在は会談がつけられておりまして、そこを上ると細長い腰郭になっております。そして、その先に、2の郭に向かうための階段があります。また、腰郭があります。上の写真部分、帰路についたときは要注意です。うっかり入り込むとおりる場所がありません。下に降りるときはあくまで階段を使いましょう。しかし、急傾斜の山を城郭化するために、腰越城は腰郭を多用している印象があります。主郭下の部分は、腰郭が帯のように巻き付いています。また、登り坂です。しかし、これらの整備道がなければ、まともに主郭にたどり着かないでしょうね。これで、2の郭に到着です。2の郭はそれほど大きくありませんが、よく調べてみましょう。2の郭内には、石積遺構が見られます。2の郭からつづら折れのように道が付き...腰越城(小川町)②
今回は、小川町にある腰越城について書きたいと思います。調査日は2019.02.03です。今冬は、山城を中心に訪問する計画だったのですが、計画通りにはいきませんでした。腰越城は、少ないチャンスを生かしての訪問となりました。なぜ冬は山城か?それは、暑い中登るなんて冗談じゃねえや!って部分もありますが、夏は樹木の勢いが強く、遺構が確認しづらいという問題もあるのです。腰越城は小川町中心部を東西に横切っている県道を東秩父村方面に向かって、ちょうど町村境付近にあります。腰越城の西側下には、昭和50年代まで石灰岩採掘場があり、現在では採掘場の名残を示す機械・設備類も取り払われていますが、山体の下が大きくえぐれているので、すぐにそれとわかります。さて、入り口ですが、入り口は槻川上にかかる焦げ茶色の鉄橋の付近です。鉄橋の前に2台...腰越城(小川町)①
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