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暗闇検校の埼玉県の城館跡
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2018/02/27

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  • 2019.01.29 日向城(旧妻沼町)

    今回は、旧妻沼町にある日向城について書きたいと思います。調査日は、2019.01.29です。わたしは低湿地帯・平場の城跡は夏場に回ればよいと思っていますが、今冬は、体調を崩してしまい体調の持ち直した日の、日中の限られた時間を使って、地元の平場の城跡に行くことにしました。日向城は、旧妻沼町、福川南岸にある西城、東城とそれほど離れていません。この城跡群を訪問する方は、セットで訪ねた方がお得だと思います。日向地区、長井神社の境内が、日向城です。長井神社には不思議な大蛇退治の縁起譚が伝えられています。水神信仰の最も古い形態は蛇であり、河童などの成立は、ずっと後代のものであるとると私は考えていますが、これは治水・水利の技術水準とも関係するものでしょう。城の話に戻ります。長井神社は道路沿いからも入ることができますが、わたし...2019.01.29日向城(旧妻沼町)

  • 小仙波堀の内(川越市)

    今回は、川越市の名刹、喜多院内にある小仙波堀の内について、書きたいと思います。調査日は2019.01.30です。川越市といえば、喜多院内に移築された江戸城の一部や、市内に保存された町並みから小江戸と称されて有名です。喜多院には、私も小学生のころ、家族と毎年、初詣に来たなじみのある寺院です。さて、喜多院は水のない深い堀によって囲まれています。このことからなのか、堀の内という小字が残されており、平安末期から仙波氏の城館跡とされているのですが、川越城との関係性や、喜多院の再興や増築などとの関係から、現在残る堀は川越城の支城としてつくられたもの、喜多院と関係するものであるなどの考え方も有力のようです。今回はそのあたりも検討できればいいなあなどと考えながら、JR川越駅に到着します。JR川越駅から素直に歩いたのですが、静か...小仙波堀の内(川越市)

  • 羽尾城跡(滑川町)

    本日は、滑川町の羽尾城跡について紹介いたします。調査日は、2019.01.23です。森林公園前を通過する元有料道路を南下すると、市野川を越える橋があるのですが、その橋の手前を左に入ると、市野川沿いの丘の上に羽尾城跡があります。羽尾城は東西に細長い長方形の城で、東西にかけて三つの郭が並んでいます。現在、中に入れるのは、中の郭だけで、西側は私有林と民家があって、あまり詳しく内部を見ることはできません。また、櫓台のある東の郭は、東京の会社の所有地で、工場建設予定地でしたが、埋蔵文化財に対して知識のなかったようで、発掘をしなければならないことを知って、計画を断念し、腹いせに周囲を柵で囲って管理を放棄して30年近くを経過しているそうで、もう、荒廃し放題になっております。わたしは、羽尾城は3度目なのですが、1985年前後の...羽尾城跡(滑川町)

  • 羽尾堀の内(滑川町)

    今回は、滑川町の羽尾堀の内について記事を書きたいと思います。調査日は2019.01.23です。羽尾堀の内は、羽尾神社の境内とその周辺地域を含みます。羽尾一帯は謎の人物、羽尾恒儀(はねおごうぎょ)こと藤原恒儀(ふじわらつねのり)が治めていた地域らしく地元では伝説的人物として知られています。以下にも由緒ありげな石碑が格好いいです。羽尾神社本殿です。羽尾神社本殿一帯は周囲よりもかなり高い場所にあります。羽尾神社周辺は、広範囲を掘りで囲まれています。農業用水の整備事業に伴って、U字溝などに替えられていますから、そこを感じる勘が大事です。まず、本殿脇に土段があります。ここは、何か構築物っぽいですね。ただ、館跡に関係するのかは微妙か?もしかしたら儀式などを行う平場だったのかもしれません。本殿裏に空堀があります。空堀の向こう...羽尾堀の内(滑川町)

  • 水房館(滑川町)

    鎌倉武士の小山朝政が住んだと伝えられている水房館は滑川町の水房にあります。ここに来るのは1980年代から3度目になりますが、東条線沿線の住宅開発が進み、また、水房地区の道路整備も進んで、当時の風景とはかなり変わってしまいました。80年代半ばごろまで幹線道路以外は砂利道だったんですから。調査日は2019.01.23です。いろいろ迷走しつつも、水房地区にたどり着きましたが、面影が全くありません。仕方なしに、景色で見当をつけ、周囲のこれと思ったお宅に水房館について尋ねますと、「ああ、それなら後ろの山だよ」。地元の方は、水房館についてはクールに見ていて、「そういうものがあったと伝えられている」という、冷静な言い方です。また、「館跡と伝えられるところには、4基の古墳があり、昭和40年代から50年代ころに発掘調査が行われた...水房館(滑川町)

  • 城原城跡(滑川町)

    本日は、滑川町にある城原城跡を再訪記録について書きたいと思います。調査日は2019.01.23です。わたしが熊谷市外の城館跡で、初めて訪ねたのが城原城跡でした。時は、1984年でした。当時はフィルムカメラの時代で、丘城、山城を見るポイントもわからなかったので、酷い写真でした。さて、城原城は森林公園南口近くの山田地区にあります。近くに、山田下集会場というのがあるので、そこに車を止めさせていただきます。山田下集会場は小さな山の脇にありますが、その山が城原城跡です。問題は登る場所なのですが、通りがかりの燃料屋さんに尋ねたとこと、表通り沿いに行って尋ねた方がよいとのことだったので、山の裏側に回り込んでしまいたい誘惑を抑えつつ表通りを歩きます。大きな屋敷が身をお祭りしているお宅の方が、庭木の枝打ちをしていたので、思い切っ...城原城跡(滑川町)

  • 谷城跡(滑川町)

    こんにちは。最近、サーバーとGooblogの相性が良くないらしく、度々アクセス不能になってしまいます。更新もその状況に合わせてということになりますので、遅くなったりすることもありますがお許しください。さて、今回は、滑川町にある谷城跡に行きました。調査日は2019.01.22です。谷城跡は森林公園の山崎城のある丘陵の低地を挟んで向かい側にあります。森林公園内には、山崎城に隣接するように山田城があり、また、谷城の直近には城原城があります。この挟み込む丘陵と小河川によってつくられた低地が軍事戦略上重要な地位を担っていたということでしょう。谷城跡の遺構は低地に突き出た円形の丘陵に主郭が、背後の廃寺跡のある鞍部を挟んで尾根続きの部分に館跡と2か所に分かれています。主郭のある丘の遠景です。この丘の東側に未舗装の小道がありま...谷城跡(滑川町)

  • 首切り谷・地獄谷(吉見町)

    大変ご無沙汰いたしております。いつまで続けられるかわかりませんがよろしくお願いいたします。再開第1回ですが、吉見町にある首切り谷・地獄谷について紹介いたします。調査日は2019.02.14です。現場は黒岩横穴墓群のある八丁湖湖岸の最奥部の二つの谷が、首切り谷と地獄谷と呼ばれています。上の地図は黒岩横穴墓群の調査報告書から引いたものです。図中、Dが首切り谷、Eが地獄谷です。首切り谷、地獄谷の名前の由来ですが、文献的には『新編武蔵風土記稿』にも、『吉見町史』にも記載が見つかりませんでした。地元の方からの聞き取りによれば、名前の由来には諸説あるようですが、首切り谷は松山城をめぐる攻防戦のなかで、捕えられた兵卒を処刑した場所であると伝えられているようです。一方の、地獄谷ですが、ここはその陰鬱で荒廃した風景が地獄のようで...首切り谷・地獄谷(吉見町)

  • ブログを再開します。

    今年も帰郷できたので、ブログを再開いたします。何か月続くかはわかりません。ブログを再開します。

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