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暗闇検校の埼玉県の城館跡
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2018/02/27

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  • 水木しげる論の連載しています。

    こんにちは。現在、「みんなのディスカッション広場-ダベルポスト」で、「あるモダニスト漫画家の「帰郷」-水木しげると妖怪漫画-」という論考を連載させていただいております。現在、第3回まで書いております。ご関心をお持ちの方は、ご一読ください。よろしくお願い申し上げます。(1)https://daberupost.com/articles/subculture/shigeru-mizuki-yokai-manga-1/(2)https://daberupost.com/articles/subculture/shigeru-mizuki-yokai-manga-2/(3)https://daberupost.com/articles/subculture/shigeru-mizuki-yokai-manga-3/水木しげる論の連載しています。

  • 番外編 姫路城好古園(西御屋敷跡庭園)③

    好古園は姫路市の市政百周年を記念して、城主の屋敷跡に造営されたものです。私は、てっきり江戸時代の城主屋敷の庭園が整備されてそのまま残っているのかなと思っていたので多少苦笑いが出てしまいました。とはいえ、一万坪と言われる回遊式庭園内はまるでタイムスリップしたような感覚になります。庭園内には技師の方がいて、庭の手入れをしていました。こういうものを維持するというのは大変なんですね。私ではたちまち草むらのようになってしまうでしょう。好古園は時代劇のロケーションにもたびたび使われているそうです。言われてみればこの風景はどこかで見たような気がしますね。例えば、侍が不逞浪人の襲撃を受けるシーン・・・・この下の門などはどうでしょうか。誰かが襲われていた気がしますね。園内は春夏秋冬何時でも楽しめるよう設計がなされているそうです。...番外編姫路城好古園(西御屋敷跡庭園)③

  • 番外編 姫路城好古園(西御屋敷跡庭園)②

    姫路城天守閣のある姫山天守閣背後は手つかずの「姫山原生林」が残っており、その斜面下には内堀が残っています。ここは広場となっており、姫山公園と言います。姫山原生林が残ったのは、姫路城内ということもありますが、最大の理由は急斜面という開発に不向きな地形によると思われます(この辺りの考え方については糞虫研究で著名な生態学者の塚本珪一先生の著書から取り入れたものです)。内堀には現在大きな鯉がたくさん泳いでいます。とって食べる人もいないせいでかなりの大鯉です。この辺りから西の丸だと思います。この丘には姫山とは別に鷺山と名付けられています。ここには南勢隠門跡です。石垣は野面積みに近い打ち込みハギというか、かなり野趣の溢れる積み方です。虎口としての機能も持っていたと見え、食違がつくられています。この辺りは本当に鷺山部分です。...番外編姫路城好古園(西御屋敷跡庭園)②

  • 番外編 姫路城好古園(西御屋敷跡庭園)

    1月30日に姫路城周辺を歩き回りすぎてしまいました。予定では男山まで行って終わりの予定だったのですが、とにかくむやみに歩き回る習性のある私は、予定外の場所を延々と歩き回ってしまいました。昔は多少疲れても気力で、写真だけは撮影したのですが、現在はかなりいい加減になってしまいました。31日には帰る予定だったのですが、30日に刑部明神の御朱印がいただけるという噂に誘われて、姫路城の管理事務局に伺ったところ、「ございません」という御答えでした。個人的には「怪しい神社の御朱印」を少しですが集めている私はがっくりです。ところがそこで「2月1日に期間限定で登城印を頒布いたします」と伺いました。そこで、2月1日に再び訪問をすることにしました。しかし、登城印をもらうだけの目的で再訪するのは恥ずかしいものです。そこで、夏場に暑さの...番外編姫路城好古園(西御屋敷跡庭園)

  • 番外編 景福寺(兵庫県姫路市)

    景福寺は1369年の創建で、元は姫路城下坂田町にあったものを、姫路藩主が酒井家に代わるとともに、当地に移転し、菩提寺にしたものだそうですが、藩主の墓所は全所領の前橋にあり、景福寺には藩主正室の墓所があるということです。境内内には石橋がありその他もとには大きな黒松があります。山門の仁王像は鎌倉期の古いものです。境内内には地蔵堂があり、地蔵が奉納され祀られています。酒井家墓所は山門の外側にあります。墓石が非常に大きなものだったので驚きました。このあと、道に迷い途方にくれながらもなんとか姫路駅まで到達し、遅い昼食を食べたのでした。番外編景福寺(兵庫県姫路市)

  • 番外編 姫路城下材木町(兵庫県姫路市)

    見星寺一帯は材木町と呼ばれています。この一帯に材木商が集まっていたそうです。ここから、酒井家の墓所がある景福寺にむかって歩きます。材木町は古い家屋が多く残っています。関東ではこんな木の格子のある家なんて本当に見かけなくなりましたが、姫路ではいまだに良く残されています。外壁の何気ない意匠を発見するのも楽しいですね。景福寺参道にたどり着きました。番外編姫路城下材木町(兵庫県姫路市)

  • 番外編 高田稲荷神社、見星寺

    鷹匠町は姫路城の外堀沿いに展開していました。大通り(書写街道)に出るとすぐに外堀と船場川があります。ここには市野橋門があったそうです。ここで、姫路城内には戻らず、点在する段丘を目指して歩くことにしました。そうも、姫路には段丘の下にはお寺があるという法則のようなものがある気がします。書写街道を渡ると、高田稲荷神社という小さな神社がありました。1つに見えた鳥居ですが近くによると4本ありました。この近くには見星寺というお寺があります。本多政朝が祖母の徳姫(見星院)の菩提を弔うために創建したものだそうです。このお寺の入口には寛延2年大洪水流死菩提所碑という供養の地蔵があります。正直、歩き疲れてきていますが、まだ歩きます。番外編高田稲荷神社、見星寺

  • 鷹匠町(兵庫県姫路市)

    男山のふもとには、姫路藩の鷹匠が住んでいた地域があり、鷹匠町と呼ばれています。路地を歩いていると、雰囲気のある古い家が残っています。さらに、細い路地に入ります。お医者さんが多いのでしょうか。処方箋薬局が目立ちます。町内掲示板には男山八幡宮のお祭りの告示が張られていました。鷹匠町(兵庫県姫路市)

  • 番外編 男山八幡宮、千姫天満宮、水尾神社(兵庫県姫路市)

    男山は姫路城の隣にある山です。姫路城のある山を姫山と呼んでいる所から、男女一対の山だったのかもしれません。男山は元々砦で、そうした匂いがプンプンしてくる場所です。男山には男山八幡宮、千姫天満宮、水尾神社の三社が鎮座しております。不動院から歩いたので男山の裏から登ることになりました。男山の頂上まで登りました。ここからの姫路城の眺望はすばらしいものがあります。ここから山を下って男山八幡宮に入りました。八幡宮の石鳥居は榊原政邦の寄進によります。本殿は昭和62年放火によって焼失したそうです。ここで、下山をしながら千姫天満宮、水尾(みお)神社に参拝しました。千姫天満宮は千姫の信仰していた天神・菅原道真の木像を祀ったものです。八幡宮から降りる長い階段です。千姫天満宮の本殿です。千姫天満宮の裏には不明の行者の祀った小祠があり...番外編男山八幡宮、千姫天満宮、水尾神社(兵庫県姫路市)

  • 番外編 不動院:池田輝政公菩提寺(兵庫県姫路市)

    姫路城の天守閣を出て裏の方に鷺の清水という井戸があります。外堀の外側に大野川と船場川の合流点があります。合流点におもしろいものがあります。これは大野川への逆流洪水を防ぐための棒出しだと思います。コンクリートに直してもよいはずですが、それをしないところを見ると治水遺跡の一つなのだと思います。棒出しの上のかかった橋は筋違橋という名前。言いえて妙です。ここに寺院があります。ここは池田輝政公の菩提寺、不動院です。結構歩いたので、多少疲労があるのと下調べ不足で、男山八幡に行こうとしか決めていなかったので予定外の行動です。池田公菩提寺にしては新しい感じがしましたが明治3年にこの地に移されたものだそうです。石造物が豊富で、本堂背後の墓地内に多くがあるそうですが、今回は残念ながらそこまで気が回りませんでした。ここから、延々と歩...番外編不動院:池田輝政公菩提寺(兵庫県姫路市)

  • 番外編:姫路城⑦(兵庫県姫路市)

    天守閣から出ると、備前丸曲輪に出てきてしまいました。なんだかあっけない気持ちがしました。ここに出てくるとものすごく広く感じます。備前丸にも井戸があります。長期間の籠城を念頭に置いたのか井戸が多いです。順路に復帰します。これは「備前門」ですね。ここは腰曲輪、帯曲輪に相当するスペースでしょうが、ここにも井戸があります。井戸櫓だそうです。帯郭櫓(腹切丸)に向かう門ですが、ここは通行止めになっていました。写真にもところどころ写っていますが、修復工事が様々なところで進められていました。「りノ門」ですね。そして、山里曲輪に出てきました。まあ、非常にざっとですが、姫路城内を一周してきたわけです。改めてお菊井戸を撮影します。往路よりもお客さんが減っていました。行きには撮影できなかったので菱の門を撮影しました。番外編:姫路城⑦(兵庫県姫路市)

  • 番外編:姫路城⑥(兵庫県姫路市)

    「ほノ門」をくぐると天守閣の足元に到達します。ここに至って本丸内に入ったわけです。ここまで来ると、お客さんの濃度も煮詰まったような感じで混雑していると感じます。下の写真は倉庫で、塩櫓だそうです。ここは城兵最後の生命線で、並びに井戸もあります。ここで、天守閣の石垣の中に姥が石呼ばれる石があります。これは、天守建設の檻城下に住む老婆が石臼を持って来て建設に用いてくれと供出をしたものであると言われています。しかし、どれなんだろう。下の写真の、金網で保護されているのがそうですね。水二門。これもまるで裏木戸のようです。ここで、ようやく天守閣に到達です。だれもいないように見えますが、団体さんの途切れた一瞬を狙いました。お客さんは少な目とはいえ、じっくりカメラを構えるのは難しかったです。意外に中は質素な作りで、二条城のような...番外編:姫路城⑥(兵庫県姫路市)

  • 番外編:姫路城⑤(兵庫県姫路市)

    「にの門」に到達しました。ここに至りまでの塀にも、銃撃用の穴が開いています。この「にの門」は変わった構造をしております。「にの門」は櫓門で、門の中は通過しにくいようにか、柱が低く張り出してあたかも洞穴のようになっています。後ろを振り返ると真っ暗です。この櫓門を通過すると、西北腰曲輪という場所に出ます。天守閣がそびえています。天守に向かうには、木戸のように小さな門をくぐります。これが、「ほの門」です。敵の軍勢をたやすく入れないための作りなのでしょうが、江戸時代の安定した治世下では、ここをくぐる人々はおかしな気持ちになったのではないでしょうか。番外編:姫路城⑤(兵庫県姫路市)

  • 番外編:姫路城④(兵庫県姫路市)

    お菊井戸を見た後、見学順路に復帰します。ろの門です。もうお気づきになられたと思いますが、姫路城内の門は「いろは」の名前が付けられています。ここは、映画撮影で実際の爆薬を使っての撮影が行われた時、火薬の量を間違えて誤爆破されてしまった過去を持つそうです。ここまで来ると大分、天守閣が近くなって気がします。このあと、ろの門西南方土塀が続いています。この時は、中国の旧正月の休み明け直後で、思ったよりも観光客が少なかったです。ただ中国系の観光客が多かった気がします。ガイド付きで団体さんもいて、解説を聞いている団体さんをじっとやり過ごしたり、華麗にスルーしているので、写真枚数が異様に多い場所と、肝心なところが全く撮影されていないというちぐはぐな状態です。この壁の穴から鉄砲を撃つんですね。次に、「はの門」が現れます。櫓には袴...番外編:姫路城④(兵庫県姫路市)

  • 番外編:姫路城③(兵庫県姫路市)

    姫路城内で「切り込みはぎ」の石垣は意外に少ないようです。「切り込みはぎ」は時代的には一番新しいものだそうです。「をの門」跡付近には低い石垣が残っています。この石垣も大きな石を使って非常に立派なのですが、よくみると隙間に細かな石片が楔のように打ち込んであるのがわかります。「打ち込みはぎ」なのでしょう。下の石垣はをの門の土台ですが、部分的には下の写真のように荒っぽい積み方をしています。石垣を見上げると大きな石の間に石片が打ち込まれ模様のように見えてきます。この石垣の傾斜は「扇の勾配」と呼ばれているそうです。お菊井戸のある上山里曲輪にはいる「ぬの門」の扉です。鉄の板が打ち付けられておりいかめしく見えます。まず、今回の目的地のお菊井戸です。姫路城下にはお菊神社がまつられており、昨年の夏にお参りいたしました。番外編:姫路城③(兵庫県姫路市)

  • 番外編:姫路城②(兵庫県姫路市)

    城内に入ると、まず大きな池のようなものがあります。これは三国堀という堀です。普通は西の丸の方に入るらしいのですが、この日はそのまま人の流れに乗って「いの門」に直進しました。姫路城では、「野面積み」「打ち込みはぎ」「切り込みはぎ」3種類の積み方があるのだそうですが、この辺りの石垣は打ち込みはぎでよいのでしょうか。一見、びっしりと石を積み上げているようですが、よく見ると隙間に石を詰め込んでいるのがわかります。ただ、それほど細かな石ではありません。この写真、中央より少し左上の小さなすき間を埋める石には、何か文様が刻んであるように見えますが。こうした転用と思われる石を探すのが楽しいかもしれません。今回は初めてということもありますので、次回にそなえての資料収集です。ここからは二の丸に入りますが、ここの石垣は石が小さく、古...番外編:姫路城②(兵庫県姫路市)

  • 番外編:姫路城①(兵庫県姫路市)

    本日は、姫路城とその周辺について書きたいと思います。姫路城・・・・正直言って、書くのが気恥ずかしいというか、基本的に埼玉県内の土の城を中心に回っている私にとって、姫路城はミーハーというか、城というよりも観光地に近いですから。しかし、過去、夏に一度行ったときにはあまりの暑さのために玉砕。チャンスは冬しかないということで、行ってまいりました。天下の名城姫路城ですが、私には秘めた目的があり、これが無ければ多分いかなかったと思います。それは、お菊井戸と天守に祀られた刑部明神神社です。さっそく、城内入り口に向かいますが、途中、入り口ゲート外の家老屋敷跡などによりみちをします。しかし、これほど完成度の高い城は、まともな場所を何度か撮影すると、もう何も撮影すべきものが見当たらないような気持ちになります。悔しいので石垣の写真ば...番外編:姫路城①(兵庫県姫路市)

  • 正福寺(旧川本町)

    熊谷市三尻に隣接する旧川本町地内に正福寺という古いお寺があります。『埼玉縣大里郡郷土誌』によれば、ここは瀬山地区の土豪だった瀬山将監行政の墓地があるそうです。堀の内(瀬山氏館跡:旧川本町)については、先日当ブログにおいてとりあげた通りです。https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=13155b243275c37201c1a9961ef77280&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD0xさて、上記のような下調べなしにぶらぶらしていて、私は正福寺にたどり着きました。正直に申し上げますが、私はここは何か無名の館跡なのではないかと思ったのでした。周囲にはそれとなく堀...正福寺(旧川本町)

  • 大河原氏館跡(東秩父村)

    本日は、大河原氏館跡について書きたいと思います。大河原氏は丹党の武士です。現在の館跡は浄蓮寺一帯とされています。以前、このブログでも取り上げたことがありますが、今回はその追加情報です。浄蓮寺大河原氏館跡(東秩父村)https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=8edafaea79edb9e69ebad89cb7657e9c&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD04さて、通常、大河原氏館跡は浄蓮寺周辺とされていますが、ちょっと思いがけないものを発見しました。東秩父村には、浄蓮寺に隣接する形で「紙漉きの里」という施設があり、大変人気を集めています。私もここにはよく立...大河原氏館跡(東秩父村)

  • 東方城④

    御所屋敷のところまで戻ります。御所屋敷の切通しの道の少し先に行くと、民家の敷地(2号累跡)、商店の敷地内(1号塁跡)に大規模に土塁と空堀が残されています。商店横には路地があって、そこではフェンス越しに土塁と空堀が確認できます。次は2号塁跡のある民家脇の路地に入ってみます。この民家の敷地内は「城主別邸」と呼ばれているようです。言われてみれば、風格のある農家です。ここの敷地内には堀と土塁が長く残されています。土塁は段丘崖まで続いています。この下はテラス状になっており、この一帯も城の施設の一部だったのではないかと思います。城主別定北側のテラス状部分です。御所屋敷方面に向かって歩きますが、ここもテラス状の段が認められます。以上のように、東方城は結構広く、より詳しく遺構を見ようとすれば、かなり手間をかける必要があると思い...東方城④

  • 東方城③

    今日は東方城の西側についてみたいと思います。ここは、国道263号線がバイパスされて農村の風情は一変しています。この付近には城に関係のあると思われる石造物や祠が個人宅にあったりします。263号線を渡ると塚のようなものがあるのがわかります。これは木の本古墳群の1基のようです。坂道を下ると深谷市幡羅生涯学習センターに突き当たります。その途中にも土塁があり、また、段丘をうまく利用して縄張りが設定されています。今度は城跡東側の部分に向かいます。東方城③

  • 東方城②(深谷市)

    さて、全久院の西の集落に向かいます。自動車で5分もかかりません。こんなお店の前を通り過ぎると、城跡を示す標柱があります。その10mほど先の、細い北に向かう見通しのいい坂道を下っていくと、農業構造改善事業で作られた城下公園という公園があり、その向かい側に駐車場があります。東方城探訪はここから始めます。北から見た城址の遠望です。東方城は段丘を利用してかなり広く縄張りをとっています。遺構はかなり良く残っていますが、大半が農家等の民有地になっています。農道を歩いていくと、水路沿いに廃畜舎があります。先には切通が見えます。この辺りが御所屋敷と呼ばれているようで、周辺の水路は地形との関係から見て水堀を農業用に転用したもののようです。御所屋敷は段丘上と段丘下に分かれていたようです。まず畜舎周りを見ましょう。畜舎周りは折れのつ...東方城②(深谷市)

  • 東方城①(深谷市)

    今回は、深谷市の東方城について書きたいと思います。複数回に分けて書きます。調査日は2020.01.20です。東方城は熊谷市の別府地域、利根川氾濫原の段丘上にあります。東から西にかけて奈良氏館、玉井氏館、別府氏館、西別府城、幡羅官衙遺跡、そしてこの東方城と隣接しており、歴史的に極めて重要な地域だったことが推測できます。別府の段丘直下には別府沼という老朽河川がありますが、この河川は実は荒川水系に属します。この別府沼上流には古代の祭祀遺跡もあり、古代ー中世史の重要地点です。幡羅官衙遺跡に接する形で全久院があります。全久院には、戸田松平家の祖、東方城主の松平康長の墓があります。もっとも、松平康長の墓所は現在長野県松本市にあり、以前は全久院にも、松平康長の墓という案合札があったのですが、現在は、撤去されたらしく見当たりま...東方城①(深谷市)

  • 高負彦根神社とポンポン山(吉見町)

    本日は、高負彦根神社とポンポン山(玉鉾山)について書きたいと思います。訪問日は2020.01.19です。高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)は、和銅3年(710)に創建、延喜式内社と、古い社格の高い神社です。吉見町には、式内社が三社もあり、高負彦根神社・伊波比神社・横見神社と三社もあります。これは古代吉見の地域的特異性を表すものと言えるでしょう。高負彦根神社はこのように社格の高い神社なのですが、時季外れに行くと寂しいです。戦後昭和30年代半ばころまでは周辺の小学校の遠足の対象として選ばれるなど繁盛していたそうですが。境内脇には獅子封じ塚というものがあります。これは古墳ではないのかなと思いますが・・・。高負彦根神社の背後には玉鉾山、通称「ポンポン山」です。というよりも、この岩丘の上に、高負彦根神社を祀ったと考える...高負彦根神社とポンポン山(吉見町)

  • 村岡河原古戦場(熊谷市)

    本日は、村岡河原古戦場について書きたいと思います。村岡河原古戦場は熊谷市の荒川大橋上流(西側)の北岸、野球グラウンドがある地域です。熊谷市の荒川南岸には村岡五郎平良文の領地があったといわれています。現在、茶臼塚と呼ばれる古墳跡が残っており、その近くの高雲寺にかけて村岡館跡があったといわれています。高雲寺の西側にごく小さい古墳と思われる塚があることから村岡館も、熊谷によく見られる古墳を利用した館跡だったとことが推測されます。目立った遺構はありませんが、古墳を手掛かりに当時の姿を把握していくのは方法論としては無駄ではないと思われます。さて、この平良文が箕田郷(現、鴻巣市)に源充と合戦を行ったのが村岡河原だといわれています。今昔物語「箕田源氏の源充と平良文合戦語第三」として有名ですが、これはどちらかというと家来同士の...村岡河原古戦場(熊谷市)

  • 堀の内(瀬山氏館跡:旧川本町)

    本日は、川本町の堀の内(瀬山氏館跡)について書きたいと思います。調査日は2020.02.07です。堀の内(瀬山氏館跡)は川本町、秩父鉄道の南側、川原明戸に近い瀬山地区にあり、秩父線の新しい駅明戸駅が最寄り駅です。瀬山氏は地名を姓に採った在地の土豪で、私市党の瀬山氏とは関係が無いようです。恐らくもともとは荒川氾濫原の講縁開拓に入植した一族が出発点だったのでしょう。北条氏治下では瀬山、長在家、上原地区が瀬山氏の所領であったようです。この瀬山氏から、大坂冬の陣に出陣した瀬山将監行政を輩出したようです(『埼玉縣大里郡郷土誌』武川村の項)。瀬山に隣接した明戸は、農業に向かない土地を意味する悪土を語源とするといわれ、瀬山氏の辛苦がしのばれます。恐らく水害も多かったのでしょう。堀の内(瀬山氏館跡)は現在の明戸八幡神社を中心と...堀の内(瀬山氏館跡:旧川本町)

  • 北条堤(熊谷市)

    本日は、北条氏によってつくられた北条堤の痕跡をたどってみたいと思います。天正2年(1574)に北条氏邦の築いた堤防だといわれています。北条堤は石原氏陣屋の記事で触れた松巌寺付近から出発します。明治期に作られた迅速測図というものがあります。歴史的農業環境閲覧システム(迅速測図閲覧システム)https://habs.dc.affrc.go.jp/その迅速図には、松巌寺付近の本石地区から北条堤が伸びていることがわかりますが、現在は、市街化も進んでいるため、町の谷間にうずもれて分かりにくいと思います。まず、松巌寺からスタートしましょう。松巌寺付近に北条堤の遺構らしきものは見当たらないと言ってよいと思います。ここから、17号国道沿いに出て東に向かいます。松巌寺前の横断歩道を渡ってしまう方がいいです。大体徒歩で30秒ほど東...北条堤(熊谷市)

  • 石原氏陣屋跡

    前記事に続き、本記事では石原氏関連の石原氏陣屋について書きたいと思います。調査日は2020年01月14日です。石原氏陣屋は、石原氏館跡よりかなり離れた本石地区の市街地にあります。17号国道沿い北側、八木橋デパート近くです。正直、目立つ遺構らしきものはありません。石原氏陣屋跡は荒川氾濫原に面した微高地にあるのですが、市街化が進んでいるので注意深く地形を読み取る努力が必要です。下2枚の写真は松巌寺山門前の路地を撮影したものですが、境内地がやや高いことがわかりますが、かといって、堀跡なのかなあ・・・・というとどうなんでしょうか。仮に堀跡だと推定しても近い距離にある熊谷氏館跡の熊谷寺ほどの雰囲気はありません。むしろ、注目するべきは松巌寺西側にある、ひときわ幅の広い道路です。ここは、陣屋に付随する馬場があったのではないか...石原氏陣屋跡

  • 石原氏館跡(熊谷市)

    先日に引き続き、本日も地元でもほとんど知られていないマイナーな館跡について書きます。今日は、石原氏館跡です。石原氏というのは、埼玉県大里郡石原村、つまり現在の熊谷市石原地区を根拠地にしていた中世豪族です。『吾妻鏡』に登場し、武蔵の国の治水施設の修復工事で奉行を命じられています。『吾妻鏡』に登場するくらいなのですから、地元でも名前が知られていていいはずなのですが、現実には、ほぼ無名。地元の古老でも知る人は希です。館跡についてもつまびらかではありません。ただ、石原村の中心が宿と呼ばれる秩父街道沿いであったため、楊井憲春の居館跡である兵部裏屋敷、城和泉守昌茂の屋敷跡である御蔵場が、もと、石原氏の居館跡だったとする説もありました。わたしも成田氏の開削した成田用水の取水口に祀った赤城神社周辺にあったのではないかと考えてい...石原氏館跡(熊谷市)

  • 伝、市田太郎館跡(旧大里村)

    今年の冬は、なかなか思うような城館探訪の時間が取れませんでした。山城探訪などの大場所にはあまりいけなかったのです。そこで、多少視点を変えて身近な、しかし忘れられた城館跡をいくつか見つけ出して訪問してみました。今回は、埼玉県の旧大里村(現熊谷市)にある伝、市田太郎館跡を取り上げてみました。調査日は2020年01月19日です。『大里村かたり草』(1978年)という、旧大里地区の口碑伝承をまとめた本があります。同書によれば、大里村の荒川堤外地に「三十間」(さんじゅっけん)と呼ばれる沼地があり、そこには、市田太郎の館跡があるという伝承が残されているのです。まず、「三十間」という沼地ですが、それは、現在大里村小泉にある「切れ所沼」の堤防を挟んで反対側にあります。上の写真は切れ所沼です。この沼は、昭和13年の堤防決壊によっ...伝、市田太郎館跡(旧大里村)

  • 伝、市田太郎館跡(旧大里村)

    今年の冬は、なかなか思うような城館探訪の時間が取れませんでした。山城探訪などの大場所にはあまりいけなかったのです。そこで、多少視点を変えて身近な、しかし忘れられた城館跡をいくつか見つけ出して訪問してみました。今回は、埼玉県の旧大里村(現熊谷市)にある伝、市田太郎館跡を取り上げてみました。調査日は2020年01月19日です。『大里村かたり草』(1978年)という、旧大里地区の口碑伝承をまとめた本があります。同書によれば、大里村の荒川堤外地に「三十間」(さんじゅっけん)と呼ばれる沼地があり、そこには、市田太郎の館跡があるという伝承が残されているのです。まず、「三十間」という沼地ですが、それは、現在大里村小泉にある「切れ所沼」の堤防を挟んで反対側にあります。上の写真は切れ所沼です。この沼は、昭和13年の堤防決壊によっ...伝、市田太郎館跡(旧大里村)

  • ブログ再開のお知らせ

    新しいネタを仕入れてきましたので、ブログを再開いたします。何か月続けることができるかわかりませんが、よろしくお願いいたします。ブログ再開のお知らせ

  • 番外編 古いマーケット(姫路市)

    姫路市に、心惹かれるマーケットがありました。尤も、お店の大部分はすでに撤退してしまったのですが、営業中のお店もあって、廃墟というわけでもありません。私の実家のある関東では、あなりみかけない珍しいスタイルですが、なんとなく懐かしい雰囲気ですね。こうしてみていると往時がしのばれます。奥にはスーパーマーケットがあったそうです。個人的には古書店が集まって営業するとそれなりに行けそうな気もしますが、もう古書店という時代でもないのか・・・・。この地域では多少離れた場所に、現在郊外型の大型ショッピングモールができています。まだ生活者たちのぬくもりが残っているような気がして、胸に沁みます。番外編古いマーケット(姫路市)

  • 江袋溜井(熊谷市)

    今回は、江袋溜井(熊谷市)について書きたいと思います。訪問日は、2019.08.13です。江袋溜井は、地元の人達には江袋沼の名前で親しまれています。上流には別府沼があります。細長い河川のような形状をしていますが、水の流下速度が緩慢で水底の堆積土砂や有機物量が極めて多いことから、「沼」と呼ばれています。実際に膨軟な堆積物に足をとられてしまうと簡単に足の根元まで沈み込んでしまい危険です。1970~180年代の釣りが盛んな頃は、ヘラブナ釣り場として親しまれていましたが、一時水質がひどく悪化しました。環境保護の盛り上がりの中で、水質改善と生態環境復元が行われています。江袋溜井は、伊奈備前守忠次によって慶長年間に作られたと言われています。作った目的は農業用のほかに、水の流下速度の緩慢な老朽河川、福川の洪水を防ぐための水量...江袋溜井(熊谷市)

  • 能護寺(旧妻沼町)

    本日は、旧妻沼町永井太田にある古刹、能護寺について書きたいと思います。妻沼のアジサイ寺として知られる能護寺は、解説によれば、天平15年(743年)に行基によって開山され、後に弘法大師空海により再建されたと伝えられています。妻沼の歓喜院は、この能護寺の末寺だったということで、その格式の高さがしのばれます。実は、うちの父は、30年ほど前、このお寺さんのご住職に親しくさせていただいておりました。有名になったアジサイも、時のご住職が熱心に手入れをなさっていたものです。現在の本堂は文化11年(1814年)に再建されたものだそうです。この辺りは利根川の水害が多く、近くには堤防決壊時に出来た沼が残っています。鐘楼は修復中でした。鐘楼の鐘は、元禄14年(1701年)に鋳造されたそうで、熊谷市の文化財になっています。御朱印をやっ...能護寺(旧妻沼町)

  • 常光院と中条氏館跡②(熊谷市中条)

    常光院は中条常光を弔いために建てたお寺です。常光院内には、中条判官常光の墓、忍城城代を勤めた天野氏三代の墓所があります。これらの墓地は一般の墓地とは別に、境内の中、本堂前の墓所にあります。遊歩道に従って歩くと見つかります。前回記事の塀裏の土塁と空堀跡をの脇を抜けると、山王社が現れます。鐘楼この裏手に、墓所があります。中条常光の墓です。中条氏の墓の背後に、天野氏の墓があります。写真が縦に登録されてくれなくなったので困ってしまいます。ものすごい蒸し暑さで、ご住職に「随分汗をおかきですね。気をつけてお帰りください」と声を掛けられました。非常に丁寧な温和そうなご住職でした。常光院と中条氏館跡②(熊谷市中条)

  • 常光院と中条氏館跡①(熊谷市中条)

    今日は、常光院と中条氏館跡(熊谷市中条)について書きたいと思います。調査・参拝日は2019.07.29です。丁度この日は、光屋敷調査に行ったので。帰りにもう一つの目的である中条氏館跡に回りました。もう何度もこの門をくぐりました。私が初めて来たのは中学2年生の8月2日だったと思います。当時は、周囲に「お店屋さん」があり、小さいながら門前町もありました。今はみんな廃業されてしまったようですが、熊谷の小京都といった風情は残っており貴重です。お祭りに使われたのでしょうか。もう、私より年上でしょうね。参道脇には水堀が残されており、冬場では水も減って寒々しさ倍増ですが、夏場は生命感があふれています。常光院は珍しいかやぶき屋根で、この雰囲気が好きで参拝を欠かさない方も多いはずです。このクラスの屋根の葺き茅はそろえるだけでも、...常光院と中条氏館跡①(熊谷市中条)

  • 釜山神社(寄居町)

    番外編はあと一つ残っていますが、今日は埼玉県に戻りましょう。釜山神社(寄居町)について書きたいと思います。調査日は2019.08.08です。調査日・・・というのも実は、登谷山山麓に館の跡があるという伝承があるのを知って、それが、一説には恒持王の館跡だと言われていると聞いたものですから、探しに行ったわけです。ところが、地元・・・といっても山中ですが、そこにいる方のほとんどは、地元の方ではなく、里で聞いた話だけを頼りに探すのはとても無理がありました。そこで、帰途参拝したのが釜山神社です。それにもしかしたら神社周辺に館跡があるかもしれない・・・・。釜山神社は、釜伏峠近くにあり、参道がついているのですぐにわかります。三峰神社同様、山犬を拳族とする珍しい神社です。参道入り口に立つと非常に長く見え、前途の多難を思うと、心が...釜山神社(寄居町)

  • 番外編 播磨国分寺跡(姫路市)

    今回は、番外編の最後ということで、播磨国分寺跡(姫路市)について、書きたいと思います。訪問日は2019.08.07です。播磨国分寺跡は御着城跡から、国道2号を西に向かって歩いて15分ほどです。国分尼寺跡の前にも国分寺というお寺がありますが、国分寺跡に参ります。国分寺跡は大きな広場です。建造物のあった場所の案内ように、それがわかるように石板が生めてあります。これで寺院が本当にあったらすごいでしょうね。建物跡には、復元された土台があります。寺院の門がありますが、これが現在の国分寺です。ただし、播磨国国分寺跡とは関係ありません、塔跡だそうです。国分寺跡というと、礎石が散在しているというイメージがありますが、ここはものすごく広いです。近くの職人さんらしいおじさんが三人座り込んで世間話をしていました。途中「国分寺跡?何に...番外編播磨国分寺跡(姫路市)

  • 番外編 大歳神社(姫路市)

    今日は、御着城のそばにある大歳神社を紹介いたします。大歳神社は年神様を祀るもので、御着城小寺氏廟の東にあります。御着大明神とも呼ばれ、山陽道に面しています。大きな石鳥居がありそれをくぐると、白壁に囲まれた屋敷のような神社があります。中には石鳥居と祠がありますが、これは年神様の元々のものなのでしょうか。そこはちょっと不明でした。というのも、現在ある拝殿は元々は、神楽殿の舞台であったようだからです。中には見事な、大きな絵が飾られています。西の神社は、関東と違うパワーが感じられます。番外編大歳神社(姫路市)

  • 黒田家廟所 (姫路市)

    御着城は、小寺氏とともに黒田官兵衛で知られた黒田氏とも深いかかわりがあるということで、小寺氏廟所の国道挟んで反対側に黒田氏廟所があります。城址本丸には、黒田官兵衛顕彰碑があります。それというのも、黒田氏は小寺氏の重臣だったからで、黒田氏は姫路城を守っていたのです。狭い路地を入ると廟所が・・・。もっと大きなお寺を想像していたのですが。ここにあるのは、黒田官兵衛の祖父にあたる黒田重隆、実母の明石正風娘の墓だそうです。黒田氏も小寺氏も一族の方が残っておられ、合同で法要をするのだそうです。黒田家廟所(姫路市)

  • 番外編 御着城跡③(姫路市)

    御着城跡は、かなり市街地にくわれてしまっていますが、元々が広大なので、細かく調査するともっと遺構に比定できる地形があると思います。今回はいささか準備不足ですが。本丸跡をもう少し見てみましょう。これは、本丸脇の堀跡と推定される道路です。解説板も多いです。これは二の丸付近について解説してあります。これは堀跡ですね。本丸脇写真の道路と連続性があります。そしてこのグラウンドが二の丸です。脇の砂利道も堀跡と思われます。二の丸の状況はこんな状態です。運動している人がたくさんいるので、かわしながら写真を撮ります。下の写真が土塁跡なのですが・・・。グランドの土塁跡は、破壊されたのか、グランドの一部に利用されたのでしょうか。代わりに、民有地内に若干の残存部分と思われるものがあります。二の丸のグランド内には、遺物と復元瓦が展示され...番外編御着城跡③(姫路市)

  • 番外編 御着城跡②(姫路市)

    さて、小寺大明神のある本丸跡に行ったあと、国道2号線の反対側にわたります。歩道橋の上から撮影です。御着城は、山陽道(現在の国道2号線)を押さえる要衝だったそうで。元々は茶臼山という丘を中心に建てられていたのです。現在は、復元櫓っぽい市の施設がたてられておりますが、いかにも役所っぽいつくりです。この手たものの前には、本丸を囲む堀跡があるので行ってみました。この石の橋は天川橋といいます。この下にあるのが御着城の遺構の堀跡です。もう、ここをしつこくとらなければ意味がないというくらいのものです。茶臼山上に建てられていたため、本丸周囲は急な坂になっております。(つづく)番外編御着城跡②(姫路市)

  • 番外編 御着城跡①(姫路市)

    今日は、番外編として、姫路市にある御着城跡について書きたいと思います。訪問日は2019.08.07です。当時の播磨の国は、赤松氏の勢力下にあり、御着城は赤松氏一族の小寺氏によって築城されたそうです。当時は、姫路城の方が支城で御着城の方が本城だったそうです。御着城の最寄り駅である御着駅周辺には、播磨国国分寺もあり、歴史的には重要な地域だったようです。現在、城跡の遺構の一部が残っています。その他、地形も独特のものがあります。御着駅から国道2号沿いに東に向かって歩いていくと10分ほどで城址の案内板が現れます。本丸跡付近は姫路市役所東出張所・御国野公民館があります。本丸跡の国道を挟んで向かい側には、城主の小寺氏を祀った祠があります。稲荷社もありますが、これも御着城に関係した祠なのでしょう。石碑には天川城址の名が彫られて...番外編御着城跡①(姫路市)

  • 番外編 亀山本徳寺②(姫路市)

    亀山本徳寺は西本願寺派に属するそうですが、本徳寺は別に船場本徳寺というのがあるそうで、こちらは東本願寺派なのだそうです。非常にガードが堅いような雰囲気がある反面、気安く受け入れてくれそうな雰囲気もあり不思議です。門徒の方がご家族連れでいらっしゃっている様子で、ご住職の声と、雅楽の音色が響いています。恥ずかしながら、わたしはこの時まで、雅楽というものがお寺でも使われるということを知りませんでした。曲は越天楽のようです(これは知ってたww)。本徳寺では、楽市楽座を行っているそうです。この建物が中心になるようです。亀山本徳寺は同じ飾磨郡英賀の英賀城攻めの際に、戦渦に巻き込まれるのを惜しんだ城将の三木氏が、わざわざ、攻め方の秀吉に譲り渡し、亀山に移築されたそうです。そうした理由から、現在に至るまで伽藍が残されているのだ...番外編亀山本徳寺②(姫路市)

  • 番外編 亀山本徳寺①(姫路市)

    姫路城を見た翌日、姫路の私鉄、山陽電鉄を使って、亀山駅そばの亀山本徳寺を訪ねました。お参りをしたのは2019.08.04です。今年の夏は暑かったわけですが、実は、このお寺は宿泊場所から歩いても行ける距離だったのですが、少しでも汗を抑えるために、電車を使って移動しました。亀山本徳寺の周辺は寺町ということで、お寺がすごく多いです。1つ1つ訪ねるのも面白いかもしれません。亀山本徳寺の周囲には掘割がめぐっておりますが、その堀の水は澄んでいて感心しました。何だか涼しげです。まあ、私の様に釣りが趣味の人間にとっては、すぐに、魚がいるかどうか探してしまいますが。寺町ですので、小さなお寺がいくつもあります。日暮れ時に来たら、お寺の山門の灯りがなんとも言えない雰囲気に見えるんだろうなと思います。地蔵堂の中が結構いいのです。これに...番外編亀山本徳寺①(姫路市)

  • 長壁神社(姫路市)

    姫路城といえば、天守閣最上階に住む妖怪刑部姫が有名ですが、城下には、その刑部姫を祀った、長壁神社があるので、参拝してまいりました。参拝日は、2019.08.04です。長壁神社は、お菊神社よりも姫路城に近い町中にあります。長壁神社は、意外にも刑部親王とその王女富姫を祀ったものだそうで、姫路城の天守閣で、不用意に上ってくる侍の首をねじ切ったりする妖怪ではないのですね。当日は社務所がお休みでしたが、社務所が開いているときには、御朱印もいただけるようです。長壁神社(姫路市)

  • 姫路城②(姫路市)

    白さがまぶしい姫路城!もう、友人はヨレヨレになっていて・・・・まあ、ふだん山の中うろうろしているだけ私の方が少しはましなんですが、本当にものすごい暑さで、天守閣に向かう人が誰もいない・・・・。とりあえず日陰を求めて、移動します。姫路城は河川で港につながっていたそうで、船着き場があります。この辺りは水が動かないうえに暑さも手伝って、水面が真みどりですね。もう、だんだん見学という感じではなくなってきました。天守閣の裏側に回り込むと、庭園風に整備されており、多少涼味が味わえます。城内には姫路神社があります。以前は、御朱印を揮毫してくださったのだそうですが、今はやめてしまったそうです。ここは水神が祀られているのでしょうか。姫路出身の友人は、「少し来ない間に随分抜け道がなくなっている」といっておりました。丁度、日よけとベ...姫路城②(姫路市)

  • 姫路城①(姫路市)

    今回は、姫路城について書きたいと思います。訪問日は、2019.08.03です。昨日の記事で、射楯兵主神社について書きましたが、その後あまりにも暑いので、近くのビルの中にあるハンバーガー屋さんに逃げ込み、休息と軽食を取りました。わたしは姫路城に行く気満々でしたが、友人は、「これちょっときつすぎ。絶対に回れない」といいます。まあなんとか、姫路城の堀をわてって天守閣くらいは見ようやぁ・・ということになりました。店を出て、ちょっとあるくと、いきなり石塁が現れました。射楯兵主神社が中曲輪にあるんだということを初めて実感しました。これ、姫路の町の中ですからね。秋とか、もう少し、いいシーズンに来ればよかった。もう、汗びっしょりですから。服がめちゃくちゃ汗臭い。少し歩くと、堀が見えてきました。なんだか、もう湖みたいな水堀です。...姫路城①(姫路市)

  • 番外編 播磨國総社射楯兵主神社(姫路市)

    本記事も、番外編として姫路城周辺にある名所を紹介します。今日は播磨國総社射楯兵主神社です。参拝日は2019.08.03です。播磨國総社射楯兵主神社は「はりまのくにそうしゃいたてひょうずじんじゃ」と読むそうです。ここは、姫路城の天守閣は大分遠いところにありますが、射楯兵主神社は姫路城の中曲輪にあるのだそうです。いつも中世の土の城ばかり見ている私にはちょっと想像できませんね。まず、総社御門が立派です。延喜式内社と刻んだ巨大な石標です。案内してくれた友人によると、昔はもっと地味なもんだったんだそうですが、いつの間にかこんな朱塗りの門になってしまったそうです。拝殿に向かいます。播磨國総社だけあって、摂社が非常に多いです。この鳥居の向こうに摂社がたくさんあります。稲荷社の赤鳥居のトンネルは、非日常感が強く、日本人はもちろ...番外編播磨國総社射楯兵主神社(姫路市)

  • 番外編 十二所神社・お菊神社(姫路市)

    夏は、番外編として、姫路城下の神社や城跡を見てきました。今日は十二所神社・お菊神社(姫路市)について書きたいと思います。参拝日は、2019.08.03です。十二所神社は少彦名神を祀っています。医薬の神様で、いわば薬師様といったかんじです。境内には、末社としてお菊神社も祀られています。8月3日は、もう、10分も歩けば汗みどろになるほどの高温状態が続いていました。姫路駅から、クーラーの聞いている通路、日陰を選んであるいて10分ほどの場所です。個人的には、お菊神社の方に関心がありました。わたしは結構怪談好きで、多少は怪談物の和本も集めています。関東近辺では、このくらいの神社には社務所はあっても人がいないものですが、西の神社は、社務所に人がいらっしゃるのですね。すごく感心いたしました。十二所神社の本殿です。参拝者も入れ...番外編十二所神社・お菊神社(姫路市)

  • 平将門ゆかりのお寺・太陽寺(大滝村)

    本日は、太陽寺(大滝村)について書きたいと思います。参拝日は2019.08.10です。太陽寺は、平将門の愛妾である桔梗の御前が、将門敗死のあと、隠れ住んだと伝えられており、秘仏として、平将門の騎馬像が残されています。秘仏ですので、公開はされていません。大陽寺は大血川という荒川上流渓谷沿いにあります。大血川は平将門の愛妾たちがとらえられて処刑されて、川が血に染まったという口碑に由来すると、言われています。三峰神社が女人禁制であった時代には、女性は太陽寺を訪れたと言われております。現在、熊の出没地帯にもなっているので、夜間は注意した方がいい地域です。大地川の断崖上に建つ大陽寺は、研修などを積極的に受け入れているそうです。閻魔堂です。子だから石だそうです。女人寺であっただけあります。ご住職の家にはゴールデンリトリバー...平将門ゆかりのお寺・太陽寺(大滝村)

  • 赤城久伊豆神社(熊谷市)

    本日は、成田氏の開削した成田用水の荒川取水堰の祭神である、赤城久伊豆神社について書きたいと思います。地元では、赤城神社の名前で親しまれています。赤城神社周辺を歩いてみようと思った理由ですが、実は、この地域に石原氏と言われる土豪の根拠地なのですが、石原氏は文献上現れるものの、その館跡がよくわからないのです。石原の歴史を紐解いてみると、いしはらのかいはつは坪井と言われる湧水の多い地帯から始まったとされています。恐らくそのあたりが、石原氏発祥の地ということになりそうですが、怪しいところは片っ端から調べて、見当をつけようということで、まず、赤城神社にやってきたというわけです。とはいえ、赤城神社について調べると、その創建は成田氏が成田用水の取水堰の祭神として祀ったとされており、石原氏のいの字もありません。当日は、強烈な猛...赤城久伊豆神社(熊谷市)

  • 三峰神社砦跡②(大滝村)

    昨日の記事では、山門から2の郭方面と付属する大堀切について書きました。今日は1の郭および3の郭についてみたいと思います。1の郭は日本武尊像のある小高い丘です。私が子供の頃、正月松の内に三峰神社に参拝するのを習慣としていました。当然、1986年頃に、三峰神社砦については写真を撮影しているのですが、家を探しても見つかりませんでした。そこで、記憶に基づいていうのですが、当時はこれほど庭園的な整備はされていなかったように思います。なんというか、石造物が並ぶ荒涼とした風景だったような記憶があるのです。遺構にもかなり手が加わっているのではないかと思うのです。日本武尊像のある平場が1の郭です。2の郭にくらべると1の郭はかなり大きいです。もうこの時点では、小粒ながら雨が降り始めており、速足でチェックをしていきます。1の郭に隣接...三峰神社砦跡②(大滝村)

  • 三峰神社砦跡①(大滝村)

    今日は、三峰神社の僧侶らの防御施設、三峰神社砦跡について書きたいと思います。調査日は2019.08.10です。三峰神社砦跡は、三峰神社の徒歩参拝道をのぼりつめて、神社山門を固める防御機構です。砦跡は、神社入口両側の丘、さらに、本殿裏付近と3つの郭に分かれ、日本武尊像のある丘が1の郭、1の郭と山門を挟んでいるのが2の郭、本殿裏付近が3の郭になります。当日は不安定な天気でした。山中の道路には、時々、2リットルペットボトル大の巨大な獣糞が落ちています。クマ出没注意地域なので、熊のものだという悪い連想が働いてしまいます。お盆前の休日のためか、交通量が多いです。三峰神社の駐車場は3分の1ほどの入りでした。山間から時々、霧が沸き上がってきます。さっそく、山門に向かいました。この両側が、既に砦になっています。下の写真は、参拝...三峰神社砦跡①(大滝村)

  • 2019.08.18 龍泉寺(熊谷市)

    今回は、三宅屋敷調査の際に、最初に立ち寄った、三ケ尻の龍泉寺について書きます。龍泉寺周辺は、古代からの遺跡が多く、長い歴史のある地域です。水にかかわる信仰の痕跡もあり、狭山池と呼ばれる祭祀遺跡もありました。龍泉寺の背後には観音山がそびえたっていますが、この観音山、龍泉寺の本堂裏には、降雨後に姿を現す滝がありました。この滝は、観音山の不透過層に沿って、地下水が流れ出したもので、濾過された綺麗で冷たい水でした。観音山頂上付近には竜の出る輪という、円形のシミのようなものもあります。ここで儀式を行うと、地中から竜が出現すると言われています。私が子供のころは、大きな山犬が出現したという目撃情報があり、「観音山に近づくな」と何度も注意指導が行われました。頭にイメージがこびりつき、夢に見るほど怖かったです。縁日はにぎわいます...2019.08.18龍泉寺(熊谷市)

  • 城之内(熊谷市・旧妻沼町台)

    本日は、旧妻沼町の利根川堤防沿いにある城之内について書きたいと思います。調査日は2019.08.11です。ここは、長井斎藤氏の支城の一つです。利根川沿いの台と呼ばれる地区にあります。近くに男沼樋門と呼ばれる農業用排水路の利根川排水門があります。男沼には妻沼と対になる「おどろ沼」があり、これが転じて男沼となったそうです。鎌倉期には既に開拓者が入っており、草分けの土豪が名家として残っています。おどろ沼と言われるくらいですから、利根川氾濫原の沼沢地で、度々、洪水に見舞われ自然堤防が形成され、その自然堤防上に土豪たちが根を張ったのでした。この洪水地帯の氾濫水が妻沼に流れ込むのを防ぐために、雉子尾堤がいつごろからか築堤され、妻沼は繁栄しますが、男沼は長らく水害に悩まされることになります。城の内はこの雉子尾堤の堤内地でこれ...城之内(熊谷市・旧妻沼町台)

  • 三宅屋敷③(熊谷市)

    日付は変わって、2019.08.21。わたしは、幸安寺を目指しました。幸安寺は三ケ尻の集落の少し外れにあります。門が結構立派なので驚きました。さて、幸安寺の解説板を読むと・・・・・室町期に開山された後、一時、さびれたものの三宅氏の所領となった天正年間に、再興されたわけですね。そして、三宅康貞の菩提寺です。三宅屋敷の記述もあって、ここから200mほど離れた場所にある・・・・。う~ん。私が先日目星をつけた場所はいずれも、200mほど離れた場所にあるようです。お寺の方に話を伺ったところ、三宅屋敷については全くご存じないそうです。これで完全に行き詰りました。この日は、暑さもそれほどではなく、地元のお年寄りが結構外に出てらっしゃいました。追い詰められた私は、手当たり次第に声をかけました。しかし、幸安寺周辺は、三ケ尻の古い...三宅屋敷③(熊谷市)

  • 三宅屋敷②(熊谷市)

    三宅屋敷の情報を求めて、なぜ龍泉寺に行ったのかといえば、龍泉寺には、渡辺崋山の『訪瓶録』の写本(龍泉寺本)を所蔵する、崋山の三ケ尻来訪に縁の深い古刹だったからです。猛暑炎天下にもかかわらず、龍泉寺には多くの参詣客がいました。最近の御朱印ブームが影響しているようで、龍泉寺の事務方は大忙しのようでした。手を煩わせるのを恐縮しながら、三宅屋敷について尋ねました。奥から、龍泉寺に直接関係があると思われるご婦人が現れて三宅屋敷についてご教示をいただきました。この方は、大分以前、市の教育委員会の三ケ尻地区の古跡を見学する回に参加なさったそうです。「三宅屋敷は、三尻小学校の近くにあるんだけど、何もなかったわ。それに、口頭ではなかなか説明しがたいところにあるのよね・・・う~ん。」結局、詳しい話は、三尻小学校の付近の住人に聞いた...三宅屋敷②(熊谷市)

  • 三宅屋敷①(熊谷市)

    今回は、熊谷市三尻地区にある「三宅屋敷」について書きたいと思います。調査日は、2019.08.18及び2019.08.21の2日です。熊谷市三ヶ尻(三尻)地区は、熊谷市の西部にあります。熊谷扇状地の扇頂部に位置するため、旧熊谷市域には珍しく、観音山という小さな山があります。三尻といえば、渡辺崋山の調査記録『訪瓺録』(ほうちょうろく、ほうへいろく)が有名で、三宅屋敷は『訪瓺録』に記録されていますが、同じ館跡ならば、黒沢屋敷の方が有名です。埼玉県の城館跡に関心をお持ちの方なら、黒沢屋敷の名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。黒沢屋敷は土地改良事業にかかって、昭和58年に発掘調査が行われた後に、機場(ポンプ場)が建設されてしまいました。一方の三宅屋敷ですが、ここは、安土桃山時代末期、徳川家康の家臣で三ヶ尻地区の...三宅屋敷①(熊谷市)

  • 平将門伝説と埼玉① 大内沢郷と恒持王 その2 (東秩父村)

    今日の記事は、前日に引き続き、大内沢郷と恒持王の遺跡について書きたいと思います。調査日は、2019.07.31です。前回の調査では、同行者が「腹減った~ぁ、つまんない~!マック食べたい~」とやりだしたので、撤退しました。そこで日を改めて調査に入りました。御堂貝戸について、ご教示をもとに車を走らせます。御堂貝戸の目印の一つに挙げられたのは、「北向地蔵」。県道沿いに北を向いた地蔵がたっているということです。まあ、県道は東西に抜けていきますから、西に向かって走っていれば左側に立っている地蔵はすべて北向き地蔵なわけです。といっても、走っているときはそんなこと思いも至らず、寄居に抜けてしまったのでもう一度戻って、峠付近にある公衆トイレの駐車場に入ると周囲の民家で、御堂貝戸について確認をします。ようやく、御堂貝戸の正確な場...平将門伝説と埼玉①大内沢郷と恒持王その2(東秩父村)

  • 平将門伝説と埼玉① 大内沢郷と恒持王 その1 (東秩父村)

    今日は、「平将門伝説と埼玉」をテーマに、その伝承の残る土地と、館跡について書いてみたいと思います。本記事の調査日は2019.07.28です。東秩父村には、かつて「大内沢郷」と呼ばれた地域がありました。地域は東秩父村の大内沢(近くには、近年、「桃源郷」として有名になった花桃の郷があります)、から、登谷山を越えて寄居町の風布、皆野町三沢までを含む広大な山村地帯です。ここに、平家の祖となった高望王の弟、恒持王が配流されてきたという伝説があります。大内沢にある大内沢神社(大内神社)は、恒持王を祀ったものだそうです。下の写真は大内神社です。さて、突然ですが、わたしは別に平将門ファンではありません。にも、かかわらずこんな問題に首を突っ込むことになったのは、親戚の子供からこの件について、調べるように頼まれたからです。この神楽...平将門伝説と埼玉①大内沢郷と恒持王その1(東秩父村)

  • 光屋敷(熊谷市)

    久しぶりに記事を書くので、何を書こうか迷いましたが、今回は熊谷市中条にある光屋敷について書きたいと思います。調査日は2019.07.29です。光屋敷は「みつやしき」と読むのだそうで、中条氏館跡に近接しています。中条氏館の北方に観音寺と言うお寺があります。この地域は今井という地域です。観音寺は、中条氏の政庁跡地だそうですが、特段、遺構は残っていません。大きな宝篋印塔があったのですが、どうやっても写真が寝てしまいます。観音寺には地蔵菩薩図像板碑が秘蔵されており、高校生の時、拓本をとらせていただきました。さて、光屋敷跡は観音寺の西側にあります。光屋敷上は、県道の敷設、区画整理によって、遺構は大きく損壊されてしまいました。光屋敷は、下の写真の北側から、次の交差点あたりまでの一帯です。館跡は光屋敷と言う名前の集落で、全体...光屋敷(熊谷市)

  • ブログを再開します。

    ご無沙汰しております。今年も、夏の休暇にネタを集めて参りました。今回は、休暇期間も短く、怪しいターゲットに挑戦するあまり、集められたネタも少なめです。いつまでブログを続けられるかわかりませんが、よろしくお願いいたします。ブログを再開します。

  • 平場の館跡の見方について

    ある方のブログで、直接、名指しではなかったものの、自分の城館跡、特に平場の館跡の見方について批判(嘲笑)があったので、反論というほどではないですが自分の考え方を書いておきます。わたしが城館跡に関心をもったのは、1982年の夏です。最初は、熊谷市の中世武士の館跡に手を付け始めた訳です。別府城や中条氏館は、現在でも土塁も堀跡も堂々たるものが残されていますが、多くは見捨てられていくような存在でした。『埼玉の館城跡』という名著がありますが、ここに記載された記録をもとに館跡を確認しに行くと、文献上は土塁、空堀が残っているとされる館跡も、実際にはその遺構ががわからないような場所が多かったですね。そこで、住宅地図などを利用して場所を特定し、地主さんをはじめ付近にお住まいの方にご教示やご案内を乞うわけですが、遺構とされるものが...平場の館跡の見方について

  • 平山家住宅(埼玉県旧江南町)

    平山館は、武蔵七党西党に属した一族です。西党は東京の多摩川周辺に勢力を張っていましたが、平山氏が鎌倉幕府の信任が厚く実力を蓄え、檜原城に君臨しました。室町期の関東の混乱の中で、山内上杉氏、北条氏に従いましたが、北条氏の滅亡とともに、江南町樋春に居を構えて帰農しました。訪問日は、2018年08月09日です。私が、平山家住宅に行ったのは二つの目的がありまして、一つは館跡遺構を確認すること、もう一つは、かやぶき屋根の状況を確認することでした。家屋はご当主にご案内いただきました。ご当主にお悩みの点について伺ったところ、屋根の葺き替えが必要な状態にあるにもかかわらず、資金不足で葺き替えができないということでした。なるほど、屋根の痛みはかなり進んでいるようです。平山家クラスのかやぶき屋根になると、現在の相場では、1,000...平山家住宅(埼玉県旧江南町)

  • FBでちょっと試しにページを作りました

    みなさまこんにちは。試しに、FBで1回1枚で、城址の写真をアップし、思い出と能書きを書くページを始めてみました。HNのとおり、暗闇検校で見つかると思います。アドレスは下記のとおりです。地味なページですが。https://www.facebook.com/profile.php?id=100013919981177FBでちょっと試しにページを作りました

  • 元三島神社

    本日は、東京都台東区根岸にある元三島神社を紹介したいと思います。参拝日は、2019.02.01です。この神社は、弘安4年(1281年)の元寇、「弘安の役」で活躍した伊予水軍の河野通有が勧請したもので、大山祇命を祭神としています。神社は鶯谷のホテル街の中にありますが、もとは「根岸の里」、江戸時代の別荘地であり、寛永寺の住職が、京都の鶯をこの地に放って、鳴き声を楽しんだことから、「鶯谷」の名前がついているのであります。Youtubeなどで、遊郭があったなどと言っている方がいますが、全くの誤りです。また、加山雄三さんはこの地出身で、子供のころは元三島神社で遊んでいたそうです。このように由緒ある元三島神社ですが、現在では、社殿もかなり近代的な建物になっています。この日は、さきに摩利支天大徳寺に行ったため。午後になってし...元三島神社

  • 北温泉湯元の神

    栃木県、那須高原には北温泉という温泉があります。江戸後期に建てられた家屋がいまだに健在というところで、個性的な宿です。北温泉といえば、漫画家の水木しげる氏、つげ義春氏に愛された温泉としても知られています。ゲゲゲの鬼太郎でも、妖怪土転びの登場する回は、舞台として北温泉が採用されています。これは1995年ころに撮影したものです。この宿内には、神社があり湯元の神様が祀られています。湯気がもうもうとして写真も曇り気味です。好きな人にはたまらない古いつくりの廊下です。宿の中を温泉が流れています。デジカメならばもっとよく写るんでしょうね。北温泉湯元の神

  • 好きな城館跡の写真

    冬場の里帰りで、訪ねてきた城館跡や神社仏閣の写真もほぼネタが尽き、まだ、あといくつかストックがあるものの今一感があるので出さないのですが、今回は資料部屋から発掘してきた1980年代の城館跡の写真フィルムも現像しただけでスキャンデータ化していない・・・肝心のスキャナがPCと相性が良くないなどあってちょっと過去の写真の中で、自分が好きな城館遺構を拾ってみました。80年代は、わたしは中学・高校時代でロクなカメラもなく、11mmフィルムとか言うのを使うポケットカメラを愛用していました。フィルムも現像代も高い時代でしたが、あの頃は町中にも城館遺構が残っていました。これは、行田市内忍城の支城皿尾城で、正月松の内に尋ねたものです。かつて、上杉謙信の忍城侵攻を最前線で迎撃し、銀の銃弾を装備した謙信狙撃チームが派遣されたという皿...好きな城館跡の写真

  • 滑川町点景

    滑川町は、埼玉県北にある隠れ里のような町です。農道には、興味深いものが点在します。ここは谷城跡付近の農道です。路傍に板石塔婆がいくつも見られます。最近ではイノシシ注意の看板をたくさん見るようになりました。イノシシは猛獣と言ってもよい凶暴性をもっており、動物愛護では済まないケモノです。最近では、野生のシカも見られるということで、夏場は、彼らについて移動する山ビルがいる可能性もあります。注意してください。滑川町点景

  • 2019.02.14 吉見観音:安楽寺(吉見町)

    今回は、吉見観音:安楽寺(吉見町)について書きたいと思います。参詣日は2019.02.14です。これは、首切り谷、地獄谷の帰りに立ち寄りました。お寺さんも、神社さんも、そこの住職さん、宮司さん、檀家さん、氏子さんの熱意によって参拝、参詣するお客さんにいい思い出を提供できるところと、そうでないところの二つに分かれます。安楽寺は、比企郡屈指の古刹の一つで、近くの息障院を館とした源範頼公が身を寄せていたということなのですが、近くに関東支配の要、松山城があったために、再三再四の兵火に見舞われました。元来、参道はにぎわっていた雰囲気が残っていますが、いまでは、途中に茶店が一軒頑張っているだけで、寂しいですね。安楽寺付近は崖からの湧水が豊富で・・・・言い換えれば水の臭いがプンプンするのですが、わたしは、水の神が好きというこ...2019.02.14吉見観音:安楽寺(吉見町)

  • 下谷神社(東京上野)

    本日は、東京上野の下谷神社を紹介いたします。参拝日は、2019.01.31です。下谷神社は、上野の中央改札を出て、左側、大通りを北方面に向かいます。ここを直進すると地下鉄銀座線の稲荷町や合羽橋、浅草方面へと向かうわけです。また、この辺りには古い釣り道具屋さんや和竿職人さんいたり、お仏壇で有名な山口翠雲堂さんの第1ビル、第2ビルと、たくさんあるのです。下谷稲荷は徒歩10分もかかりません。北に向かって歩いていると右側に大鳥居が見えてきます。本当はもっと手前にさらに大鳥居があるのですが、それを撮影するときには道路を挟んで向う側に渡らなければなりません。下谷神社には下谷稲荷が合祀されています。下谷神社はしばしば時代劇にも登場するため、なんとなくなじみがあります。下谷神社は夜も参拝者がおり、ぼんやりと火の灯る様子は、タイ...下谷神社(東京上野)

  • 摩利支天大徳寺(東京都上野アメ横)

    東京の上野駅から山手線に乗ると、アメ横の真ん中にお寺の屋根が現れます。なんじゃありゃあ?これが、摩利支天大徳寺。参拝日は2019.02.01です。創建は寛永年間ということで、やや新しめのお寺です。節分が近いこともあって、お寺の方がおみくじやお守りを特設コーナーで売っています。都会のお寺は、地方のひなびたお寺さんとは雰囲気が違っていて面白いです。忙しいようで、こちらの御朱印は書置きのものです。摩利支天大徳寺(東京都上野アメ横)

  • 武州寄居十二支守本尊御集印帳

    藤田善導寺、正龍寺と続いたので、今回は寄居の十二支守り本尊の御集印帳について書きます。現在の御朱印ブームにさかのぼること35年くらい前のものです。資料箱の中から出てきたのです。父の守り本尊が虚空蔵菩薩ということで、何度か天昌寺に新年のお参りに通ううち、この御集印帳があるのを知り、集めたのでした。天正寺さんの御朱印をいただいたのは不明ですが、おそらく56年。藤田善導寺さんは昭和57年ですね。58年にいただいたものもあります。なぜか正龍寺だけがありません。理由は分かりませんが、今年、別の和紙カードにいただきました。30数年越しでめでたく完成しました。武州寄居十二支守本尊御集印帳

  • 藤田善導寺 (寄居町)

    本日は、鉢形北条氏に縁の深い、藤田善導寺について書きたいと思います。訪問日は正龍寺と同日です。藤田善導寺はその名の通り、北条氏の縁戚関係にあった藤田氏の菩提寺です。私が中学生のころは善導寺と呼ばれていた気がしました。扁額も善導寺なのですが、現在は藤田善導寺と呼ばれています。藤田善導寺最大の見どころは本堂の天井の百人一首画で、中学生の時に見せていただいたことがあります。本堂内の彩色がガラス越しに少し見えます。以前は、本堂の天井の百人一首画も、かなり傷んでいたのですが、現在では修復が完成しております。それが映っているのでしょうか・・・?今では彩色もすっかり剥離してしまい、渋い雰囲気ですが、ところどころに残る彩色の痕跡は往時をしのばせてくれます。藤田善導寺(寄居町)

  • 正龍寺(寄居町)

    本日は、寄居町にある鉢形北条氏の菩提寺である正龍寺について書きたいと思います。お参り日は、2019.02.12です。正龍寺は猪俣氏が箱根権現を祀ったのが最初であり、1348年には青龍寺と号されたといいます。藤田氏15代目藤田康邦が開基し、1532年創建、以後、北条氏邦の帰依を受けて栄えたそうです。現在では、北条氏邦夫妻、氏邦の養父、藤田康邦夫妻の墓所があります。小田原落城にともなう鉢形城の開城の協議はこの寺で行われたのでした。北条氏、藤田氏の墓所は坂の中腹にあります。廟宇の中には、4基の宝篋印塔があります。また、廟宇の外には五輪塔寄居の町を見下ろすように立っていました。このお寺では御朱印がいただけます。これは私が中学校のころから続いているものです。その代わり手書きではなく「印」です。正龍寺(寄居町)

  • 鬼鎮神社

    2019年02月02日に鬼鎮神社にお参りに行きました。鬼を祀るかわった神社です。豆まき神事が有名ですが、豆まきの直前に行ったのは混雑を意識したわけではなく偶然です。創建は1182年で、菅谷館の鬼門除けとして祀られたということなのですが、川越城の鬼門除けとも、松山城の鬼門除けという説も聞きました。鬼門って、どっちの方角なんだ?というか、鬼門とは北東のことですよね。裏鬼門というのもありますが、これは南西です。すると菅谷館にとっては、北東になります。川越城にとっても北東なのか・・・。松山城にとっては南西といえば南西ですね。さて、実は私、鬼神神社に行くのは3度目。いずれも水房館に行く途中に立ち寄りました。昭和50年代末から60年代のことですから、当時はまだ周囲が舗装されていなくて、土に玉砂利が踏み固められた道でした。人...鬼鎮神社

  • 愚禅和尚馬頭観音脇ため池と堰

    愚禅和尚の馬頭観音碑の隣にこんな用水施設がありました。丘陵の橋から脇である細粒をここに一度貯めてるんですね。埼玉県北における滑川町は周辺の自治体とは全く異なる個性を持っています。私にとって、住んでみたい街の一つです。問題は交通の便ですが。このため池は、実は意外に知っている人の多い池です。ちょっと珍しい構造だからでしょうか。最近は、地元でビオトープとしても大事にされているようです。水利施設好きには、なかなかの見どころだと思います。愚禅和尚馬頭観音脇ため池と堰

  • 愚禅の馬頭尊(滑川町)

    多少さかのぼりますが、2019.01.23、城原城(滑川町)の調査後、羽尾堀の内に向かう途中に、大きな馬頭観音の石碑がありました。愚禅和尚の馬頭尊(滑川町)ということです。大里郡の口碑集を読むと、この愚禅和尚の揮毫による石碑がたくさんあるのです。愚禅和尚は滑川の出身だったそうです。いわば地元の偉人なんですね。映りが悪いですね。わたし、実はこの隣にある水利施設の方に関心がありました。それはまた明日。愚禅の馬頭尊(滑川町)

  • おまけ 上の写真と下の写真、どこがち~が~う?

    上の写真と下の写真の違いはどこだ?御嶽城跡の西郭の降りる途中です。遺跡を巡っていると時々こんな写真が撮れます。でも、デジカメになってから本当に少なくなりました。今は手元から紛失して、資料部屋内を捜索中の写真には、もろに大きな顔のおっさんが映っていたものがあって、たまげたことがありましたが。デジカメ移行後、多くは、光の玉が飛んでいるようなオーブ系のものです。これはもうはっきりと原因がわかっていて、レンズについたほこり、指紋、水滴で、これはかなり恥ずかしい。レンズの汚れなどそのままで写真を撮りまくっていることになりますから。いくら専業カメラマンではないとはいえねぇ・・・。この写真は、クレヨンで書いたような印象で、はじめての事例でした。もうお分かりですよね。左側の白い落書きのような痕跡です。原因がわからないので、珍し...おまけ上の写真と下の写真、どこがち~が~う?

  • 御嶽城(神川町)⑥

    本郭を経由して、東の郭に向います。往路で撮影した場所をもう一度撮っていきます。本郭手前ですが、虎口状に見えますよね。御嶽城の場合、自然地形がそのまま活用されている場所が多い。人口構築物だったら虎口としてカウントしたいところです。そういう場所が、上の写真のように、結構たくさんあるのです。本郭手前にあった小さな石の祠も撮影しました。さて、東の郭です。この郭も物見に非常に適しています。東端に岩盤が露出しており、この場所が江戸期には修験の行場として使われていたのです。郭内から入口方向を見ると、虎口、土塁に見えますが、かなり形が崩れてしまっています。東の郭は、むしろ本郭よりも広いようにみえます。岩山の上から眺望が得られます。長い報告になりましたが、御嶽城の報告は以上です。いざ、パソコン前に座ってみると、行ったつもりで行っ...御嶽城(神川町)⑥

  • 御嶽城(神川町)⑤

    どたばたと御嶽城内を歩いているうちに、思ったよりも時間が過ぎてしまいました。これまでは、東側、北側を歩いていたため、太陽光線が少なかったのですが、西側に回り込むと、お昼を過ぎて傾いた太陽光が差し込んでいます。どうも、斜面を移動できないようなので、本郭に上がります。本郭から北西方面の眺望です。本郭から西稜線と言っても、北西方面と西方面の2方向に分かれています。長い北西稜線を降ります。堀切ですね。下り坂なのですが、疲れてくるとひざが笑っています。堀切の底から一枚。堀切を過ぎると露出した岩盤があります。大きな堀切が現れました。角度を変えてもう一枚。堀の底です。この盛り上がりは、土塁なのでしょうか。北西の稜線は、延々と山道、途中に堀切がある程度です。山道もなだらかです。ここにもう一つ堀切状の構造がありますが、むしろ急な...御嶽城(神川町)⑤

  • 御嶽城(神川町)④

    御嶽城の探索では、梅沢太久夫先生の埼玉の城所収の地図をベースに行動していますが、今回は、二の郭東側の尾根から北側の尾根に行ってみたいと思いました。東側尾根を二の丸下に戻りながら写真を撮影します。尾根伝いに降りていくときは周囲の様子もよく見えないもので、夢中になっておりていきましたが、戻るときにはずいぶん開けているような気がします。前を見たり後を振り返ったりしながら写真を撮影します。岩盤が虎口状になっていますね。二の郭下の堀切です。右側には石積が見られます。時間をかけて調査を重ねれば相当石積み遺構が見つかると思われます。北側の尾根に降りていきます。こちらの腰郭は狭いです。足場が悪いので、結局、北側に降りられずに困ってしまいました。結局、二の郭に戻ります。図によれば、この岸壁が、二の郭と北尾根を分断しているもののよ...御嶽城(神川町)④

  • 御嶽城(神川町)③

    昨日は、この石積みまで見ました。あと、念のため申上げておきますが、写真の整理がどうもうまくいっていないので、メモを見ながら誤認や不足があった際には、記事に修正や、加筆をしております。さて、こちらの方がはっきり石積みだとわかりますね。この先にはさらに、腰郭がありますが。この辺り、東端が近いようです。これ以上は、下に行けそうもないのですが。これは堀切です。とにかくむき出しの岩石が多く、こうしたものの一つ一つが防衛機能を担っていたのでしょう。御嶽城(神川町)③

  • 御嶽城(神川町)②

    さて、御嶽城本丸までたどつきました。さて、御嶽城はかなり起伏に富んでいます。本郭から、帯郭に降りようとしますが、かなりダイナミックな悪路です。露出した岩盤です。こういった天然の要害が随所に見られます。2の郭に向って進んでいるはずですが、一人の労力では山城調査も簡単ではないです。これは本郭と二の郭の間にある堀切です。この堀切がかなり強烈に深くて危ないと思いました。ここで、私は思いっきり滑ってしまいました。もう、ほとんど、ドリフのバナナの皮状態で、すってーん!!おかげで、堀底に転落しました。メガネがどこかに吹っ飛んでなくなってしまいました。私は、用途に応じたメガネのスペアを3本くらい持っているので、とりあえずそれを掛けました。山城の場合、ルートがはっきりしているとはいいがたい部分もあります。楽な方に回ろうとするとい...御嶽城(神川町)②

  • 御嶽城(神川町)①

    本日から、数回に分けて御嶽城(神川町)について書きたいと思います。調査日は2019.02.12です。御嶽城は武蔵三之宮金讃神社の背後にある御嶽山の山上に展開する山城です。金讃神社は二之宮であるという説もあります。まあ、それはともかく、御嶽山は修験の行場でもあり、岩塊がむき出しの山です。御嶽城は峻険な山であるにもかかわらず、縄張りはかなり広範囲に展開しており、今回は、100枚以上の写真を撮影しました。峻険な岩山であり、足場はかなり悪く危険です。ここには一度行きたかった。というのも、この御嶽城は妻沼の長井斎藤氏の手になるものと言われており、私の先祖にも縁がある城だからです。北条氏の勢力伸長に伴って、勢力を失った長井斎藤氏は、妻沼に残された領地に戻って、長井姓も斎藤姓も名乗らず歓喜院の別当職を継いでいます。ともあれ、...御嶽城(神川町)①

  • 2019.02.09 境稲荷神社と弁慶鏡が井戸

    今回は、境稲荷神社と弁慶鏡が井戸について紹介いたします。訪問日は2019.02.09です。境稲荷神社と弁慶鏡が井戸は、不忍池近く、池之端の東大医学部下にあります。酒井稲荷神社の創建時期については不明だそうですが、室町幕府九代将軍義尚によって、再建されたのだそうです。巨大な鳥居で目立ちます。鳥居の巨大さに圧倒されますが、社殿はこじんまりしています。社務所もありますが、人の気配はありませんでした。社殿の裏には、義経が欧州に向かう際に、立ち寄りのどを潤したといわれる弁慶鏡が井戸があります。ただし、この井戸は一度埋められてしまったそうで、昭和15年に再度掘り出されたものなのだそうです。まあ、埋めるとは何とも手荒なものですが、それを掘り出すのもものすごいことだと思います。2019.02.09境稲荷神社と弁慶鏡が井戸

  • 源範頼館跡息障院(吉見町)

    本日は、源範頼館跡、息障院について書きたいと思います。調査日は、2019.02.14です。源範頼館跡、息障院については、これまでたくさんの方にブログで取り上げられておりますし、私自身も、度々訪ねております。まあ、せっかくですから今回は、ちょっと変わった方法をとることにしました。源範頼の館跡は、現在、息障院と幼稚園になっています。調査日には、ちょうど梅の花が6分咲きくらいの状態で、日の当たり具合で、咲き方が違います。まあ、梅の花はこれくらいにして、息障院の山門です。息障院の周囲は堀で囲まれており、これが館の遺構となるわけです。門前から続く堀跡の曲がり角です。源範頼館跡は、空堀以外に目立った遺構はありませんが、よく見ると。西側には土塁の面影を残す土の盛り上がりが残されています。堀跡の残り方は非常によく、南側、西側は...源範頼館跡息障院(吉見町)

  • 中条堤(熊谷市)

    本日は、中条堤(熊谷市)についてご紹介したいと思います。訪問日は、2019.01.29です。中条堤は、中条氏館跡常光院の北、自動車で3分ほどのところにあります。中条堤は、既に古墳時代からその原型がつくられたといわれ、築堤には秦氏一族が技術者として動員されたようです。妻沼地域は秦氏一族に源流をもつ人たちが多く、小さな田舎町ですが、学問好きや技術者が多い土地柄です。私も秦氏一族の出なので、まあ、ご先祖様の遺跡ということになります。鎌倉期、室町期にかけて整備が進み、さらに江戸期になると忍藩一帯を洪水から守るために維持管理がされましたが、守るのはあくまで堤内地(川の無い方)で、堤外地(川のある方)は惨憺たる目にあったそうです。この堤防は、政府からも忘れ去られ、戦後に再発見されたそうで、なんだか不思議な堤防です。堤防は緩...中条堤(熊谷市)

  • 橋(小川町)

    2019.02.03、腰越城に登った帰途、城郭の向かい側の鉄橋を撮影しました。なかなかいかした鉄製の歩道橋です。こげ茶色の塗りが良いです。鉄橋の下の槻川です。水が澄んで綺麗です。釣り好きの私としては、寒バヤ釣りでもして、夜の肴にしたいところです。わずかな滞在でしたが、寒い季節のしみじみとした良さを感じました。橋(小川町)

  • 上田氏供養題目石塔婆(東秩父村)

    本日は、東秩父村にある上田氏供養板石塔婆について書きたいと思います。この板石塔婆は、安戸城の登り口近くの小高い丘にあり、県道沿い第霊神社に5本の大きな板碑があるので非常に目立ちます。大霊神社はどうも、戦没者の慰霊のために建てられたもののようで、新しい神社で戦没者慰霊関連の石碑が多い印象です。板碑は非常に大きなものです。、欠損を補強するため鉄枠で補強されています。この板碑の特徴はなんといっても、題目が刻まれていることです。この大きな板碑の背後に、おなじみの種字を刻んだ小さな板碑がありました。上田氏供養題目石塔婆(東秩父村)

  • 浄蓮寺上田一族の墓(東秩父村)

    今日は、浄蓮寺上田一族の廟所について書きたいと思います。2019.02.03にお参りに行きました。浄蓮寺の南側に墓地がありますが、上田一族の廟所はのほ墓地の奥、山の中の沢沿いにあります。谷川沿いのためか、ものすごい冷気が流れてきます。墓地は斜面中腹に作られています。石塔がありました。しかし、松山城を抑えていた武将の一族だけあって、苔むしたような廟所の発する有無を言わさぬ迫力には圧倒されます。しかし、ここには夜は来られませんな。浄蓮寺上田一族の墓(東秩父村)

  • 浄蓮寺大河原氏館跡(東秩父村)

    本日は、東秩父村の浄蓮寺大河原氏館跡について書きたいと思います。調査日は2019.02.03です。大河原氏は丹党の武士です。現在の館跡は浄蓮寺一帯とされていますが、ある種突き詰めにくい雰囲気があるというか・・・。まあ、その突き詰めにくいものの正体をまずお見せしましょう。それは、これです。この立派な石垣は、大河原氏時代よりもかなり後になって組まれたものとされているのですが、上田氏の廟所があるお寺なので、上田氏の庇護を受けている時代に組まれたものなのか?この通路は堀跡とされています。まあ普通の感覚だと、2枚目の写真辺りで打ち切りですな・・・。しかし、それでは、何のために来たのやらということにもなります。そこでバリバリと行くことにしました。大河原氏の館を見にきて浄蓮寺本堂裏を見る奴っていうのは少ないでしょう。ちょっと...浄蓮寺大河原氏館跡(東秩父村)

  • 安戸城(東秩父村)③

    本日は安戸城の城内に入ってみましょう。城内主郭には金属製の城址碑が立っています。城址内は杉林になっていますが、思いのほか広々としています。主郭の西側が高くなっています。解説板もあります。この解説図に明瞭に示されている通り、最初に歩き回ったのは帯郭だったのですね。東に向かって傾斜があります。この主郭に突き出た列石は遺構になるのでしょうかね?それに土の盛り上がり・・・。これは櫓台跡なのか?ここから下り傾斜がきつくなります。主郭の東端です。次に、二の郭に降りてみましょう。二の郭は主郭の北側にあります。主郭から降りやすいように木枠のついた道があります。二の郭から、主郭を見上げてみました。二の郭は狭いです。ここが堀切です・・・あまりはっきりしませんが。二の郭からも、主郭の台の岩盤がむき出しになった場所があります。二の郭か...安戸城(東秩父村)③

  • 安戸城(東秩父村)②

    安戸城の南側は自然の岩盤を巧みに利用して、石垣のように利用しています。このように迫力のある天然の石垣が続きます。主郭の東端も岩が張り出しています。この東の尾根道も、加工が施されている気がします。主郭東端には虎口が確認できます。ここから主郭に入ってみました。正直足場が悪く、こんなところ登っていたら、相手にやりたい放題にされてしまうでしょう。主郭の北側に回ってみましょう。木が結構邪魔です。北側に移動するのは厳しいですが。平場がありました。それでは、次には主郭に登りましょう。安戸城(東秩父村)②

  • 安戸城(東秩父村)①

    今回は、東秩⽗村唯⼀の城郭である安⼾城について書きたいと思います。調査⽇は、2019.02.10です。安⼾城は上⽥⽒の城郭であるとも、中世村落が⾃衛のために設けた城ともいわれています。城郭は東秩⽗村⽴城⼭保育園の裏⼭にあります。これは⽔⽥の中まで引いて撮影した遠景です。もう少し近づいてみました。城⼭保育園の看板です。県道沿いの⾼台に⼤きな題目を刻んだ板⽯塔婆群がありますが、そこから少し⼩川町寄りの場所に、保育園に向かう坂道がありその前を通り過ぎると、城⼭にぶつかります。⼊⼝はこんな感じになっています。⼲上がってはいるものの、どうも⽔場のように⾒えます。どうでしょうか。ここは帰路に再チェックします。この⼭道はつづら折れで、腰越城ほどではないですが、その分距離があり、おまけに⼭中に⾏くほど気温が下がるため、ひどく応...安戸城(東秩父村)①

  • 八幡神社(小川町)

    本日は、増尾氏関連遺跡の一つ、小川町の八幡神社について書きたいと思います。調査日は2019.02.03です。八幡神社は中城跡の西側にあります。この台地は梅香岡と呼ばれており、眺望に優れています。八幡神社は1333年、鎌倉幕府の滅亡に際して、当時、将軍の座にあった守邦親王が増尾氏を頼ってこの地に仮寓した際の館跡で、守邦親王が勧請したものとされています。ただ、守邦親王は幕府瓦解後、3か月で崩御されたといわれているため、この地が終焉の地だったのかもしれません。ただ、この地では守邦親王は流鏑馬をしたと伝えられてもいることから、必ずしも身体を壊していたとも思われず、謎の多いことであります。親王の墓所もあるいはこの地に隠されているのかもしれません。このような特別な重みをもつ八幡神社ですが、祭礼の日以外はどなたもいらっしゃら...八幡神社(小川町)

  • 中城跡(小川町)

    今回は、小川町の中城跡について書きたいと思います。調査日は2019.02.10です。中城跡は東上線小川町駅の西側、小川町市街地の真ん中につきだした台地上の「梅香岡」にあります。ちょうど、小川町の町営運動場の固まっているところです。この台地上は当地に勢力をもった増尾氏の根拠地らしく、中城跡は台地の東側先端部分にあります。また、鎌倉幕府最後の将軍守邦親王が、幕府滅亡に際して増尾氏の庇護を受け、仮寓した館跡でもあり、守邦親王の勧請したといわれる八幡神社は中城跡の西側にあります。中城跡はやや見つけにくく、対戦戦死者慰霊塔の向かい側にある民家のわき道を入っていかなければなりません。小道を直進すれば、テニスコートのある郭内に入ることができますが、これは後知恵です。普通ならば、民家前を通ってそのまま空堀と土塁に到達します。中...中城跡(小川町)

  • 山田氏館跡(東秩父村)

    今回は、東秩父の雄、上田氏の家老を務めていたといわれる山田氏館跡を紹介いたします。訪問日は2019.02.10です。小川町から切通しを越えて、東秩父村に入るとすぐ旧街道沿いに安土の宿があります。いい雰囲気の古い町並みですが、この宿場の郵便局がある付近の山側に旧家があり、そちらのお宅が山田氏のご子孫のお宅です。ご主人に御挨拶をして、館跡を見せていただきたいとお願いすると、快く許可してくださいました。どうも、見学に訪れる方が大変多いのだそうです。まず、山田氏が勧請した山田稲荷から見せていただきました。普段は祠の扉はしめられているのですが、開けてくださいました。この、稲荷社はもともと、館跡内にあったのだそうです。下の写真が、稲荷社のあとです。さて、館跡は稲荷社のある耕地で、段が設けられています。遺構は斜面を削平して作...山田氏館跡(東秩父村)

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