このブログは、主に私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話します。
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こんにちは。現在、「みんなのディスカッション広場-ダベルポスト」で、「あるモダニスト漫画家の「帰郷」-水木しげると妖怪漫画-」という論考を連載させていただいております。現在、第3回まで書いております。ご関心をお持ちの方は、ご一読ください。よろしくお願い申し上げます。(1)https://daberupost.com/articles/subculture/shigeru-mizuki-yokai-manga-1/(2)https://daberupost.com/articles/subculture/shigeru-mizuki-yokai-manga-2/(3)https://daberupost.com/articles/subculture/shigeru-mizuki-yokai-manga-3/水木しげる論の連載しています。
好古園は姫路市の市政百周年を記念して、城主の屋敷跡に造営されたものです。私は、てっきり江戸時代の城主屋敷の庭園が整備されてそのまま残っているのかなと思っていたので多少苦笑いが出てしまいました。とはいえ、一万坪と言われる回遊式庭園内はまるでタイムスリップしたような感覚になります。庭園内には技師の方がいて、庭の手入れをしていました。こういうものを維持するというのは大変なんですね。私ではたちまち草むらのようになってしまうでしょう。好古園は時代劇のロケーションにもたびたび使われているそうです。言われてみればこの風景はどこかで見たような気がしますね。例えば、侍が不逞浪人の襲撃を受けるシーン・・・・この下の門などはどうでしょうか。誰かが襲われていた気がしますね。園内は春夏秋冬何時でも楽しめるよう設計がなされているそうです。...番外編姫路城好古園(西御屋敷跡庭園)③
姫路城天守閣のある姫山天守閣背後は手つかずの「姫山原生林」が残っており、その斜面下には内堀が残っています。ここは広場となっており、姫山公園と言います。姫山原生林が残ったのは、姫路城内ということもありますが、最大の理由は急斜面という開発に不向きな地形によると思われます(この辺りの考え方については糞虫研究で著名な生態学者の塚本珪一先生の著書から取り入れたものです)。内堀には現在大きな鯉がたくさん泳いでいます。とって食べる人もいないせいでかなりの大鯉です。この辺りから西の丸だと思います。この丘には姫山とは別に鷺山と名付けられています。ここには南勢隠門跡です。石垣は野面積みに近い打ち込みハギというか、かなり野趣の溢れる積み方です。虎口としての機能も持っていたと見え、食違がつくられています。この辺りは本当に鷺山部分です。...番外編姫路城好古園(西御屋敷跡庭園)②
1月30日に姫路城周辺を歩き回りすぎてしまいました。予定では男山まで行って終わりの予定だったのですが、とにかくむやみに歩き回る習性のある私は、予定外の場所を延々と歩き回ってしまいました。昔は多少疲れても気力で、写真だけは撮影したのですが、現在はかなりいい加減になってしまいました。31日には帰る予定だったのですが、30日に刑部明神の御朱印がいただけるという噂に誘われて、姫路城の管理事務局に伺ったところ、「ございません」という御答えでした。個人的には「怪しい神社の御朱印」を少しですが集めている私はがっくりです。ところがそこで「2月1日に期間限定で登城印を頒布いたします」と伺いました。そこで、2月1日に再び訪問をすることにしました。しかし、登城印をもらうだけの目的で再訪するのは恥ずかしいものです。そこで、夏場に暑さの...番外編姫路城好古園(西御屋敷跡庭園)
景福寺は1369年の創建で、元は姫路城下坂田町にあったものを、姫路藩主が酒井家に代わるとともに、当地に移転し、菩提寺にしたものだそうですが、藩主の墓所は全所領の前橋にあり、景福寺には藩主正室の墓所があるということです。境内内には石橋がありその他もとには大きな黒松があります。山門の仁王像は鎌倉期の古いものです。境内内には地蔵堂があり、地蔵が奉納され祀られています。酒井家墓所は山門の外側にあります。墓石が非常に大きなものだったので驚きました。このあと、道に迷い途方にくれながらもなんとか姫路駅まで到達し、遅い昼食を食べたのでした。番外編景福寺(兵庫県姫路市)
見星寺一帯は材木町と呼ばれています。この一帯に材木商が集まっていたそうです。ここから、酒井家の墓所がある景福寺にむかって歩きます。材木町は古い家屋が多く残っています。関東ではこんな木の格子のある家なんて本当に見かけなくなりましたが、姫路ではいまだに良く残されています。外壁の何気ない意匠を発見するのも楽しいですね。景福寺参道にたどり着きました。番外編姫路城下材木町(兵庫県姫路市)
鷹匠町は姫路城の外堀沿いに展開していました。大通り(書写街道)に出るとすぐに外堀と船場川があります。ここには市野橋門があったそうです。ここで、姫路城内には戻らず、点在する段丘を目指して歩くことにしました。そうも、姫路には段丘の下にはお寺があるという法則のようなものがある気がします。書写街道を渡ると、高田稲荷神社という小さな神社がありました。1つに見えた鳥居ですが近くによると4本ありました。この近くには見星寺というお寺があります。本多政朝が祖母の徳姫(見星院)の菩提を弔うために創建したものだそうです。このお寺の入口には寛延2年大洪水流死菩提所碑という供養の地蔵があります。正直、歩き疲れてきていますが、まだ歩きます。番外編高田稲荷神社、見星寺
男山のふもとには、姫路藩の鷹匠が住んでいた地域があり、鷹匠町と呼ばれています。路地を歩いていると、雰囲気のある古い家が残っています。さらに、細い路地に入ります。お医者さんが多いのでしょうか。処方箋薬局が目立ちます。町内掲示板には男山八幡宮のお祭りの告示が張られていました。鷹匠町(兵庫県姫路市)
男山は姫路城の隣にある山です。姫路城のある山を姫山と呼んでいる所から、男女一対の山だったのかもしれません。男山は元々砦で、そうした匂いがプンプンしてくる場所です。男山には男山八幡宮、千姫天満宮、水尾神社の三社が鎮座しております。不動院から歩いたので男山の裏から登ることになりました。男山の頂上まで登りました。ここからの姫路城の眺望はすばらしいものがあります。ここから山を下って男山八幡宮に入りました。八幡宮の石鳥居は榊原政邦の寄進によります。本殿は昭和62年放火によって焼失したそうです。ここで、下山をしながら千姫天満宮、水尾(みお)神社に参拝しました。千姫天満宮は千姫の信仰していた天神・菅原道真の木像を祀ったものです。八幡宮から降りる長い階段です。千姫天満宮の本殿です。千姫天満宮の裏には不明の行者の祀った小祠があり...番外編男山八幡宮、千姫天満宮、水尾神社(兵庫県姫路市)
姫路城の天守閣を出て裏の方に鷺の清水という井戸があります。外堀の外側に大野川と船場川の合流点があります。合流点におもしろいものがあります。これは大野川への逆流洪水を防ぐための棒出しだと思います。コンクリートに直してもよいはずですが、それをしないところを見ると治水遺跡の一つなのだと思います。棒出しの上のかかった橋は筋違橋という名前。言いえて妙です。ここに寺院があります。ここは池田輝政公の菩提寺、不動院です。結構歩いたので、多少疲労があるのと下調べ不足で、男山八幡に行こうとしか決めていなかったので予定外の行動です。池田公菩提寺にしては新しい感じがしましたが明治3年にこの地に移されたものだそうです。石造物が豊富で、本堂背後の墓地内に多くがあるそうですが、今回は残念ながらそこまで気が回りませんでした。ここから、延々と歩...番外編不動院:池田輝政公菩提寺(兵庫県姫路市)
天守閣から出ると、備前丸曲輪に出てきてしまいました。なんだかあっけない気持ちがしました。ここに出てくるとものすごく広く感じます。備前丸にも井戸があります。長期間の籠城を念頭に置いたのか井戸が多いです。順路に復帰します。これは「備前門」ですね。ここは腰曲輪、帯曲輪に相当するスペースでしょうが、ここにも井戸があります。井戸櫓だそうです。帯郭櫓(腹切丸)に向かう門ですが、ここは通行止めになっていました。写真にもところどころ写っていますが、修復工事が様々なところで進められていました。「りノ門」ですね。そして、山里曲輪に出てきました。まあ、非常にざっとですが、姫路城内を一周してきたわけです。改めてお菊井戸を撮影します。往路よりもお客さんが減っていました。行きには撮影できなかったので菱の門を撮影しました。番外編:姫路城⑦(兵庫県姫路市)
「ほノ門」をくぐると天守閣の足元に到達します。ここに至って本丸内に入ったわけです。ここまで来ると、お客さんの濃度も煮詰まったような感じで混雑していると感じます。下の写真は倉庫で、塩櫓だそうです。ここは城兵最後の生命線で、並びに井戸もあります。ここで、天守閣の石垣の中に姥が石呼ばれる石があります。これは、天守建設の檻城下に住む老婆が石臼を持って来て建設に用いてくれと供出をしたものであると言われています。しかし、どれなんだろう。下の写真の、金網で保護されているのがそうですね。水二門。これもまるで裏木戸のようです。ここで、ようやく天守閣に到達です。だれもいないように見えますが、団体さんの途切れた一瞬を狙いました。お客さんは少な目とはいえ、じっくりカメラを構えるのは難しかったです。意外に中は質素な作りで、二条城のような...番外編:姫路城⑥(兵庫県姫路市)
「にの門」に到達しました。ここに至りまでの塀にも、銃撃用の穴が開いています。この「にの門」は変わった構造をしております。「にの門」は櫓門で、門の中は通過しにくいようにか、柱が低く張り出してあたかも洞穴のようになっています。後ろを振り返ると真っ暗です。この櫓門を通過すると、西北腰曲輪という場所に出ます。天守閣がそびえています。天守に向かうには、木戸のように小さな門をくぐります。これが、「ほの門」です。敵の軍勢をたやすく入れないための作りなのでしょうが、江戸時代の安定した治世下では、ここをくぐる人々はおかしな気持ちになったのではないでしょうか。番外編:姫路城⑤(兵庫県姫路市)
お菊井戸を見た後、見学順路に復帰します。ろの門です。もうお気づきになられたと思いますが、姫路城内の門は「いろは」の名前が付けられています。ここは、映画撮影で実際の爆薬を使っての撮影が行われた時、火薬の量を間違えて誤爆破されてしまった過去を持つそうです。ここまで来ると大分、天守閣が近くなって気がします。このあと、ろの門西南方土塀が続いています。この時は、中国の旧正月の休み明け直後で、思ったよりも観光客が少なかったです。ただ中国系の観光客が多かった気がします。ガイド付きで団体さんもいて、解説を聞いている団体さんをじっとやり過ごしたり、華麗にスルーしているので、写真枚数が異様に多い場所と、肝心なところが全く撮影されていないというちぐはぐな状態です。この壁の穴から鉄砲を撃つんですね。次に、「はの門」が現れます。櫓には袴...番外編:姫路城④(兵庫県姫路市)
姫路城内で「切り込みはぎ」の石垣は意外に少ないようです。「切り込みはぎ」は時代的には一番新しいものだそうです。「をの門」跡付近には低い石垣が残っています。この石垣も大きな石を使って非常に立派なのですが、よくみると隙間に細かな石片が楔のように打ち込んであるのがわかります。「打ち込みはぎ」なのでしょう。下の石垣はをの門の土台ですが、部分的には下の写真のように荒っぽい積み方をしています。石垣を見上げると大きな石の間に石片が打ち込まれ模様のように見えてきます。この石垣の傾斜は「扇の勾配」と呼ばれているそうです。お菊井戸のある上山里曲輪にはいる「ぬの門」の扉です。鉄の板が打ち付けられておりいかめしく見えます。まず、今回の目的地のお菊井戸です。姫路城下にはお菊神社がまつられており、昨年の夏にお参りいたしました。番外編:姫路城③(兵庫県姫路市)
城内に入ると、まず大きな池のようなものがあります。これは三国堀という堀です。普通は西の丸の方に入るらしいのですが、この日はそのまま人の流れに乗って「いの門」に直進しました。姫路城では、「野面積み」「打ち込みはぎ」「切り込みはぎ」3種類の積み方があるのだそうですが、この辺りの石垣は打ち込みはぎでよいのでしょうか。一見、びっしりと石を積み上げているようですが、よく見ると隙間に石を詰め込んでいるのがわかります。ただ、それほど細かな石ではありません。この写真、中央より少し左上の小さなすき間を埋める石には、何か文様が刻んであるように見えますが。こうした転用と思われる石を探すのが楽しいかもしれません。今回は初めてということもありますので、次回にそなえての資料収集です。ここからは二の丸に入りますが、ここの石垣は石が小さく、古...番外編:姫路城②(兵庫県姫路市)
本日は、姫路城とその周辺について書きたいと思います。姫路城・・・・正直言って、書くのが気恥ずかしいというか、基本的に埼玉県内の土の城を中心に回っている私にとって、姫路城はミーハーというか、城というよりも観光地に近いですから。しかし、過去、夏に一度行ったときにはあまりの暑さのために玉砕。チャンスは冬しかないということで、行ってまいりました。天下の名城姫路城ですが、私には秘めた目的があり、これが無ければ多分いかなかったと思います。それは、お菊井戸と天守に祀られた刑部明神神社です。さっそく、城内入り口に向かいますが、途中、入り口ゲート外の家老屋敷跡などによりみちをします。しかし、これほど完成度の高い城は、まともな場所を何度か撮影すると、もう何も撮影すべきものが見当たらないような気持ちになります。悔しいので石垣の写真ば...番外編:姫路城①(兵庫県姫路市)
熊谷市三尻に隣接する旧川本町地内に正福寺という古いお寺があります。『埼玉縣大里郡郷土誌』によれば、ここは瀬山地区の土豪だった瀬山将監行政の墓地があるそうです。堀の内(瀬山氏館跡:旧川本町)については、先日当ブログにおいてとりあげた通りです。https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=13155b243275c37201c1a9961ef77280&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD0xさて、上記のような下調べなしにぶらぶらしていて、私は正福寺にたどり着きました。正直に申し上げますが、私はここは何か無名の館跡なのではないかと思ったのでした。周囲にはそれとなく堀...正福寺(旧川本町)
本日は、大河原氏館跡について書きたいと思います。大河原氏は丹党の武士です。現在の館跡は浄蓮寺一帯とされています。以前、このブログでも取り上げたことがありますが、今回はその追加情報です。浄蓮寺大河原氏館跡(東秩父村)https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=8edafaea79edb9e69ebad89cb7657e9c&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD04さて、通常、大河原氏館跡は浄蓮寺周辺とされていますが、ちょっと思いがけないものを発見しました。東秩父村には、浄蓮寺に隣接する形で「紙漉きの里」という施設があり、大変人気を集めています。私もここにはよく立...大河原氏館跡(東秩父村)
御所屋敷のところまで戻ります。御所屋敷の切通しの道の少し先に行くと、民家の敷地(2号累跡)、商店の敷地内(1号塁跡)に大規模に土塁と空堀が残されています。商店横には路地があって、そこではフェンス越しに土塁と空堀が確認できます。次は2号塁跡のある民家脇の路地に入ってみます。この民家の敷地内は「城主別邸」と呼ばれているようです。言われてみれば、風格のある農家です。ここの敷地内には堀と土塁が長く残されています。土塁は段丘崖まで続いています。この下はテラス状になっており、この一帯も城の施設の一部だったのではないかと思います。城主別定北側のテラス状部分です。御所屋敷方面に向かって歩きますが、ここもテラス状の段が認められます。以上のように、東方城は結構広く、より詳しく遺構を見ようとすれば、かなり手間をかける必要があると思い...東方城④
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