タイトルはかなり気取ってますが要は現代詩及短詩系文学(短歌俳句)の愛好の皆さんと楽しみいのです。
今日 | 04/07 | 04/06 | 04/05 | 04/04 | 04/03 | 04/02 | 全参加数 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
総合ランキング(IN) | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 1,040,155サイト |
INポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
OUTポイント | 0 | 0 | 4 | 2 | 2 | 2 | 2 | 12/週 |
PVポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
本ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 14,828サイト |
詩集・歌集・句集 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 46サイト |
哲学・思想ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 14,825サイト |
哲学 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 628サイト |
ポエムブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 5,650サイト |
現代詩 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 160サイト |
今日 | 04/07 | 04/06 | 04/05 | 04/04 | 04/03 | 04/02 | 全参加数 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
総合ランキング(OUT) | 71,428位 | 66,218位 | 65,349位 | 72,869位 | 81,175位 | 92,410位 | 77,551位 | 1,040,155サイト |
INポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
OUTポイント | 0 | 0 | 4 | 2 | 2 | 2 | 2 | 12/週 |
PVポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
本ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 14,828サイト |
詩集・歌集・句集 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 46サイト |
哲学・思想ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 14,825サイト |
哲学 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 628サイト |
ポエムブログ | 475位 | 414位 | 401位 | 450位 | 499位 | 520位 | 466位 | 5,650サイト |
現代詩 | 15位 | 12位 | 12位 | 13位 | 12位 | 14位 | 12位 | 160サイト |
今日 | 04/07 | 04/06 | 04/05 | 04/04 | 04/03 | 04/02 | 全参加数 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
総合ランキング(PV) | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 1,040,155サイト |
INポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
OUTポイント | 0 | 0 | 4 | 2 | 2 | 2 | 2 | 12/週 |
PVポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
本ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 14,828サイト |
詩集・歌集・句集 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 46サイト |
哲学・思想ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 14,825サイト |
哲学 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 628サイト |
ポエムブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 5,650サイト |
現代詩 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 160サイト |
原田は次のように述べる。「だが、なぜ、それを詩のなかでやらなかったのだろう。藤村だけではない。日本の詩人は,伊東のやってくまで、『冷たい場所で』うたうことこそ、詩の任務であることに思い及ばなかった。朔太郎はそれを識っていた稀な一人で、さればこそ伊東を発見し,高く評価しえたのだ。」原田のように「冷たい場所」を詩の任務としてつまり詩人の身の置き所としてとらえているようだが、先述の富士正晴の文章には伊東の詩の理解度が深く刻まれているようにみられる。「現在の日本の詩壇の人で真に確乎とした世界を生きていると思われる人はあまり多くないよう思う。〈略〉その人の性の規律がひとつであるような人こそ詩人という名で呼ばれるべきだ。伊東静雄詩集『わがひとに与ふる哀歌』を偶然の機会で人から借りて読むことが出来私の心の中に詩人を一人くわえ...伊東静雄ノートⅡ-3
鶴彬(つる・あきら)は、石川県高松町(現、かほく町)に生まれた。一九〇九年一月一日のこと。(実際には前年一二月といわれている)ー一九三八年九月十四日没)わずか二十九歳の生涯、日本のプロレタリア文学の影響を強く受けた反戦川柳作家といわれている。手と足をもいだ丸太にしてかへしもう綿くずも吸えない肺でクビになる屍のゐないニュースで勇ましい「そうなのです。戦争中にこのような川柳を発表し、若くして獄中病死したのが鶴彬という川柳人でした。『ツルは偉い、口を閉ざされた民衆に代わってわずか十七文字の川柳で戦った。よくやった』。鶴彬に対する評価はこれもあなたの自由です。ただ川柳の流れのなかに、このような人のもいいたのだということ記憶してくださばよいと思います。」と、これは川柳作家・時実新子の「鶴彬」評である。また、作家の田辺聖子...〈鶴彬〉ノート-反戦川柳作家の〈淋しい影よ母よ〉
拓次が詩を志したといわれるのが明治三十八、九年だとすると、明治三十八年には上田敏の訳詩集『海潮音』が刊行されている。この詩集の出現は当時、新体詩から近代詩へと歩み始めた多くの詩人に驚くほどの影響を与えたと言われている。この詩集の序文には「伊太利亜に三人、英吉利に四人、独逸に七人、プロヴァンスに一人、而して仏欄西に十四人の多きに達し、さきの高踏派と今の印象派とに属する者其大部分を含む」というように上田敏はそのフランスサンボリズムの詩人達(ボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌ等)の解説を書いている。その解説は次のようである。「近代の仏詩は高騰派の名編に於いて発表の極に達し、彫心鏤骨の技巧美に燦爛の美をほしいままにす、今茲に一転機を生是無場あらざるなりマラルメ、ヴェルレーヌの名家之に観る所ありて清新の機運を促成し、終...大手拓次再読6
そら豆の殻一せいに鳴る夕べははにつんがるわれのソネット国土を蹴って駆けゆくラクビーのひとりのためにシャツを編む母と言った母についての少年時代の短歌は、すべて事実ではなかった。「私と母とは、私が小学生のとき生き別れになり、ついに一緒に暮らすことはなかった。したがって、母とのエッセイおすべて、は私の作りものである。」寺山修司はなぜありもしないことばかりかいてきたのか。寺山自身、母について書く度に「いつのまにか、勝手に筆がすすんでしまう」ということを奇異に思わぬわけにはいかなかった、と書いている。母を深く愛していた証しだろう。寺山は、「一度、自分の〈思い出を捏造する〉習癖を分析してみよう、と思い立った。それが、『田園に死す』の動機だというわけである。「未来の修正は出来ないが、過去の修正なら出来る、実際に怒らなかったこ...寺山修司私論6田中勲
瀧口修造は戦後まもなく美術評論を再開。新人作家の支援にあけくれたり、五ヶ月間の渡欧旅行で、ダリ、デュシャン、ブルトンらに会う。ところで私には瀧口氏の履歴を読みながら、なぜ詩をかかなくなったのか。なぜ詩から遠ざかったのだろうという疑問がずっとあった。詩集では『寸秒夢』(思潮社刊、七五年二月)『三夢三話』(書肆山田刊、八〇年二月)が刊行されたが、書法も当然初期の詩とは違ったものであった。『三夢三話』のなかの最後の夢の中では、二十歳前に二度ほど黒部の上流の鐘釣あたりにきたことが書いてあるが、これもどこまでが事実かわからない。ただ、造形作家の戸村浩夫妻の最初の子供の名付け親になって「虹」となづけたが、区役所で「人名漢字」にないということで断られることから「虹の石または石の虹」という夢によって償われたという作者のおもいこ...瀧口修造の美術評論について
寺山修司は他人からあれこれと批判されることが大嫌いなひとだったという。寺山修司は家族のことをよく書いている。寺山の父は警察官でアル中の対面恐怖症でどうしょうもない男だった。此も真実かどうかあいまいなのだが、「父は酔っては気持気が悪くなると、鉄道の線路まででかけていって嘔吐した。…私は車輪の下にへばりついて、遠い他国の町まではこばれていった「父の吐瀉物」を思い、なんだか胸が熱くなってくるのだった。」と書いている。このネット上の文章はまた「小学生担った頃、自分のへその緒をみせてもらった。貝殻のようなへその緒の入っている木の箱は、二月二十七日付けの朝日新聞につつまれていて、二・二六事件の記事のすぐその下には「誰でせう?」と大きな見出しの広告があり男装の麗人の写真が載っていた。二・二六事件の犯人は水の江滝子に間違いない...寺山修司私論5田中勲
立原道造ノート(三)短歌から詩へ立原道造が短歌の道をすて口語自由律短歌をえらんだのはなぜか。彼の詩意識が、短歌形式そのものをのりこえて己表現をなしおえようとする方向にはすすまなかった、といえよう。短歌の季節から、やがて、ソネット形式の西洋詩を踏襲していくのだが、詩という形式上の移行というより言語規範の移行といってよいだろう。このことは郷原宏がその長編評論でさっらと述べている。つまり「文語定型という規範のかわりに口語自由律という規範を選らんのであって、古い形式を捨てたのでもなければ、新しい形式をつくりだしたのでもなかった。形式などというものは他者がつくればいいのであって、それは彼の仕事ではなかった。というより、他者が作った形式に寄りそって、その中で精いっぱい自己表現をはかることが、彼にとって唯一の表現形式だったの...立原道造ノート③
名詞の扱ひにロジックを忘れた象徴さ俺の詩は宣言と作品との関係は有機的抽象と無機的具象との関係だ物質名詞と印象と関係だ。ダダ、つてんだよ木馬、つてんだ原始人のドモリ、でも好い歴史は材料にはなるさだが問題にはならぬさ此のダダイストには《以下省略》右のダダの詩は通常の言葉の理論など無視して無機的世界の永遠性を直感的な印象としてとらえればよいというのである。歴史的説明によって認識される世界とは本質的に違うという主張でもあった。中原中也ノート22
恋いを知らない街上の笑ひ者なる爺やんは赤ちゃけた麦藁帽をアミダにかぶりハッハツハツ「夢魔」てことがあるものかその日蝶々の落ちるのを夕の風がみてゐました思ひのほかでありました恋だけは――恋だけは「想像力の悲歌」とだいされている。恋を知らない「笑ひ者なる爺やん」とからかわれているのは永井で、「蝶々」である泰子を手にいれた恋の勝利感を唄ったものか。併し二人の関係はそれほど安定したものではなく、泰子の元に撮影所関係の男が出入りし、中也は嫉妬に苦しめられることになる。「ノート1924」で恋愛詩よりも重要なものとして注意すべきは、ダダ主張を書きつけたと思われる幾編かの詩編がある。中原中也ノート21
京都に来て、その年の暮れに、バイオリンを弾きながら全国を放浪していた永井伯叔に遭遇。中也から声をかけて下宿に招く。永井をきっかけに長谷川泰子に出合うわけだが二人の同棲生活が始まるのは大正十三年四月である。泰子は中也より三歳年長であり、当時マキノ・プロダクションの大部屋女優であった。広島女学校卒業、当時広島にいた永井に同行し女優になるため上京。併し関東大震災に遭い、永井と共に京都に移ってきていた。永井は余り詩史には現れることはないが、キリスト教的無政府主義系統の詩人でその頃は『大空詩人』と称し、マンドリンを弾きながら、あちこちの盛り場を流して歩く一種の名物男であった。(大岡昇平解説より)中也は前年の暮れ路上で永井を知り親しくなり、泰子を紹介されたという。中也からダダの詩の書きためたノートを見せられて、泰子は「ダダ...中原中也ノート⒛
タバコとマントが恋をしたその筈だタバコとマントは同類でタバコが男でマントが女だ或時二人が投身心中したがマントは重いが風を含みタバコは細いが軽かったので崖の上から海面に到着するまでの時間が同じだつた神様がそれをみて全く相対界のノーマル事件だといつて天国でビラマイタ二人がそれをみてお互いの幸福であつたことを知つた時恋は永久に破れてしまつた。(「タバコとマントの恋」)({ダダ手帖}所収。*現存せず。川上徹太郎の著書に引用して残った詩。)後の手帖で注目したのは「恋の公開」{(恋の世界で人間は)」「(天才が一度恋をすると)」「幼き濃いの回顧など、恋愛詩が多いことである。中原中也ノート19
帝都東京を中心とする文化が、関東大震災でいったん崩壊した。それまでの文壇で権力を持っていた人々も無名の若者たちも、瓦礫の上では横一線に並んだ風景を想像させてくるれるだろう。中原中也が「ダダ手帖」と読んでいたノートがあった筈だが(二冊)現存しない。だが京都時代の作と推定されている未発表小説「分からないもの」に「夏の晝」がまた川上徹太郎の評論{中原中也の手紙」(「文学界「昭和十三年十月号)に「たばことマントの恋」「ダダ音楽の歌詞」の二編が引用されている。ほかに中也の〝ダダ時代〟の詩編は「ノート1924」二八ページに残っている。ウハキはハミガキウハバミはウロコ太陽が落ちて太陽の世界が始つたテッポーは戸袋ヒョータンはキンチャク太陽が上つて夜の世界が始つたオハグロは妖怪下痢はトブロクレイメイと日暮が直径を描いてダダの世界...中原中也ノート18
中也の「詩的履歴書」には「秋の暮れ寒い夜には丸太橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む、中の数編に「感激」と書いている。高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』の「ダダイズム」とは第一次大戦渦中の一九一六年頃から戦後に架けて興った文芸運動で、それまでの価値観を覆す先鋭的な主張は、チューリッヒに端を発しヨーロッパの各都市とニューヨークに連鎖したとされている。「イズム」と名付けられているが主義主張があるわけではなく、芸術の側から既成の価値観を否定しようとした、いわゆる半芸術、半文学の表現運動ととらえる方がいいかもしれない。スイスのチューリッヒ、トリスタン・ツアラを中心とする前衛芸術家たちが幼児言葉の「dada」({お馬}を意味するフランス語)を発見し自分たちの言語破戒の表現運動の名称したもの。この表現運動は詩にだけでは...中原中也ノート17
一ページを作品の引用に資したようだが、唯一の散文詩と言うことでゆるしていただきたい。それにしても今号は中也が大学に行くまでの作品の紹介におわりそうだが、むろん大方の批評は書かれおり目あたらしいものなどなにもないのだから、こうして京都で過ごした短い間の思い出を書いた作品を読み返す。新しい場所での学生生活が不安と希望に満ちていたことがよく分かる詩である。大正十二年九月一日、関東一円をマグ二チュウード七・九の激震が襲った関東大震災の日である。首都としての東京は横浜とともに壊滅的な打撃を受けた。首都東京が完全に回復するのは帝都復興祭(昭和五年)まで待たなくてはならない。中原中也は、当時京都の立命館中学の三年生。この震災には直接であってはいないが、この未曾有の大混乱である関東大震災は、当時十六歳の中也には大きな転機をもた...中原中也ノート16
ゆきてかへらぬー京都ー僕は此の世の果てにゐた、日は温暖に降り酒ぎ、風は花々揺つてゐた。木橋の、誇りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を附けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。住む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常常食すに適してゐた。たばこくらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけにぼくとしたことが、戸外でしかふかさなかつた。さてわが親しき所有物は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団ときたらば影だになく、歯刷子くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何にも書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。女たちは、げに慕わしいのではあつた...中原中也ノート15
中也が一九二二(大正十一)年、中学の先輩と防長新聞の若手記者との共著で合同歌集「末黒野」を刊行。ここには(初版本、部数二〇〇部、頒価二十銭。)中也が二年二学期から三学期にかけて制作した作品二八首を「温泉集」と題して収録する。学校の成績はすっかり落ちて、ついに山口中学三学年を落第という結果になるのだが。(一家が一時、騒然とし、やがて沈鬱になったと、弟がのちに述べている。)それでも落第した当人は「ひと月読んだらわかる教科書を、中学校というところは一年もかかって教える、そんなばからしい勉強はせん」といって学校へはいかないという、そんな中也に、父の謙助がもと家庭教師の京大生(井尻)に京都へ連れて行ってくれるように頼んだという。一九二三(大正十二)年四月、京都・立命館中学校に補欠合格、第三学年に編入が決まり、中也は山口を...中原中也ノート14
さらに{防長新聞」短歌欄に掲載された歌をここに記していきたい。この頃はまだ定型とは出合っていなかった。三年後の定型詩と出合う前の短歌を拾い集めてみる。(およそ一九二十年から二十三年にかけての歌)子供心菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ小芸術家芸術を遊びごとだと思つているその心こそあはれなりけれ春の日心にもあらざることを人にいひ偽りて笑ふ友を哀れむ日去年今頃の歌一段と高きとこより凡人の愛みて嗤ふ我が悪魔心いずれの歌も中学生が自己の内面を見つめようと、真剣できまじめな姿がよみとれるであろう。晩年の詩《曇天》が発表されたのは昭和十一年七月。先にそれを書き写したい。ある朝僕は空の中に、黒い旗がはためくを見た。はたはたそれははためいてゐたが、音はきこえぬ高来がゆゑに。手繰り下ろうとぼくはしたが、...中原中也ノート13
中也が三歳の記憶を二十代の終わりに書いているが、子供の頃は親の期待に応えようと、何でもよくやった優等生でそして早熟だったようだ。前回につづき子供の頃の中也について小学生の頃から中学生の頃について、みていくことにする。一九二〇(大正九)年、小学六年の時には雑誌や新聞に短歌を投稿。{婦人画報二月号)に次の歌を自薦として掲載。「筆捕りて手習いさせし我母は今は我より拙しと云ふ」。地元の「坊長新聞」二月十七日に短歌三首が掲載。しかし両親は中学入試の勉強に集中させる。中也は「大正四年のはじめの頃だったかおわりころであったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を唄ったのが抑抑(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。」と〈詩的履歴書〉に書いている。一九二〇...中原中也ノート12
「私が金沢にゐいたのは大正元年の末から大正三年の春迄である。住んでいたのは野田寺町の照月寺(字は違ってゐるかも知れない)の真ン前、犀川に臨む庭に、大きな松の樹のある家であった。其の末の樹には、今は亡き弟と或る時叱られて吊り下げられたことがある。幹は太く、枝は拡がってゐたが、丈は高くない松だつた。」(中略)ーさらにつづける。「金沢に着いた夜は寒かった。駅から旅館までの俥の上で自分の息が見知らぬ町の暗闇の中に、白く立昇つたことを夢のやうに覚えている。翌日は父と弟と祖母とで、金沢の町を見て廻つた。威勢よく流れる小川だけがその日の記憶として残っている。十日ばかりして家が決まると旅館を出てその方へ超した。それが野田寺町の先刻云つた家であつた。夕方弟と二人で近所の子供があつまつて遊んでいる寺の庭に行つた。却却みんなちかづか...中原中也ノート⒒
中也のふるさとは古くから温泉地としられている山口の湯田である。医院であった中也の生家は現在後をとどめていない。生家があったところに近い井上公園には詩碑が建っている小林秀雄の筆によって中也の詩「帰郷」からとった詩句がきざまれている。私は二十数年前に一度ある研修会で当地を訪れそれを拝見した。当時はさっととおりすぎただけだった気がする。これが私の古里ださやかに風も吹いているあゝおまへはなにをして来たのだと吹き来る風がわたしにいふ原詩は昭和五年の「するや」第五集と昭和七月の「四季」第二刷とに二度発表され、詩集『山羊の歌』の「初期詩編」に収められている作品だが、四節十四行の後半部分によっている。「さやかに風も吹いている」の次に「心置くなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」の二行があるが、小林の配慮だろうか、削除されている...中原中也ノート⒑
「ブログリーダー」を活用して、遙かなる透明という幻影の言語を尋ね彷徨うさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。