遙かなる透明という幻影の言語を尋ね彷徨う
住所
出身
台東区
ハンドル名
遙かなる透明という幻影の言語を尋ね彷徨うさん
ブログタイトル
遙かなる透明という幻影の言語を尋ね彷徨う
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/ekimae05
ブログ紹介文
タイトルはかなり気取ってますが要は現代詩及短詩系文学(短歌俳句)の愛好の皆さんと楽しみいのです。
自由文
-
更新頻度(1年)

60回 / 365日(平均1.2回/週)

ブログ村参加:2017/09/10

遙かなる透明という幻影の言語を尋ね彷徨うさんの人気ランキング

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遙かなる透明という幻影の言語を尋ね彷徨うさんのブログ記事

  • 中原中也ノート15

    ゆきてかへらぬー京都ー僕は此の世の果てにゐた、日は温暖に降り酒ぎ、風は花々揺つてゐた。木橋の、誇りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を附けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。住む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常常食すに適してゐた。たばこくらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけにぼくとしたことが、戸外でしかふかさなかつた。さてわが親しき所有物は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団ときたらば影だになく、歯刷子くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何にも書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。女たちは、げに慕わしいのではあつた...中原中也ノート15

  • 中原中也ノート14

    中也が一九二二(大正十一)年、中学の先輩と防長新聞の若手記者との共著で合同歌集「末黒野」を刊行。ここには(初版本、部数二〇〇部、頒価二十銭。)中也が二年二学期から三学期にかけて制作した作品二八首を「温泉集」と題して収録する。学校の成績はすっかり落ちて、ついに山口中学三学年を落第という結果になるのだが。(一家が一時、騒然とし、やがて沈鬱になったと、弟がのちに述べている。)それでも落第した当人は「ひと月読んだらわかる教科書を、中学校というところは一年もかかって教える、そんなばからしい勉強はせん」といって学校へはいかないという、そんな中也に、父の謙助がもと家庭教師の京大生(井尻)に京都へ連れて行ってくれるように頼んだという。一九二三(大正十二)年四月、京都・立命館中学校に補欠合格、第三学年に編入が決まり、中也は山口を...中原中也ノート14

  • 中原中也ノート13

    さらに{防長新聞」短歌欄に掲載された歌をここに記していきたい。この頃はまだ定型とは出合っていなかった。三年後の定型詩と出合う前の短歌を拾い集めてみる。(およそ一九二十年から二十三年にかけての歌)子供心菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ小芸術家芸術を遊びごとだと思つているその心こそあはれなりけれ春の日心にもあらざることを人にいひ偽りて笑ふ友を哀れむ日去年今頃の歌一段と高きとこより凡人の愛みて嗤ふ我が悪魔心いずれの歌も中学生が自己の内面を見つめようと、真剣できまじめな姿がよみとれるであろう。晩年の詩《曇天》が発表されたのは昭和十一年七月。先にそれを書き写したい。ある朝僕は空の中に、黒い旗がはためくを見た。はたはたそれははためいてゐたが、音はきこえぬ高来がゆゑに。手繰り下ろうとぼくはしたが、...中原中也ノート13

  • 中原中也ノート12

    中也が三歳の記憶を二十代の終わりに書いているが、子供の頃は親の期待に応えようと、何でもよくやった優等生でそして早熟だったようだ。前回につづき子供の頃の中也について小学生の頃から中学生の頃について、みていくことにする。一九二〇(大正九)年、小学六年の時には雑誌や新聞に短歌を投稿。{婦人画報二月号)に次の歌を自薦として掲載。「筆捕りて手習いさせし我母は今は我より拙しと云ふ」。地元の「坊長新聞」二月十七日に短歌三首が掲載。しかし両親は中学入試の勉強に集中させる。中也は「大正四年のはじめの頃だったかおわりころであったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を唄ったのが抑抑(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。」と〈詩的履歴書〉に書いている。一九二〇...中原中也ノート12

  • 中原中也ノート⒒

    「私が金沢にゐいたのは大正元年の末から大正三年の春迄である。住んでいたのは野田寺町の照月寺(字は違ってゐるかも知れない)の真ン前、犀川に臨む庭に、大きな松の樹のある家であった。其の末の樹には、今は亡き弟と或る時叱られて吊り下げられたことがある。幹は太く、枝は拡がってゐたが、丈は高くない松だつた。」(中略)ーさらにつづける。「金沢に着いた夜は寒かった。駅から旅館までの俥の上で自分の息が見知らぬ町の暗闇の中に、白く立昇つたことを夢のやうに覚えている。翌日は父と弟と祖母とで、金沢の町を見て廻つた。威勢よく流れる小川だけがその日の記憶として残っている。十日ばかりして家が決まると旅館を出てその方へ超した。それが野田寺町の先刻云つた家であつた。夕方弟と二人で近所の子供があつまつて遊んでいる寺の庭に行つた。却却みんなちかづか...中原中也ノート⒒

  • 中原中也ノート⒑

    中也のふるさとは古くから温泉地としられている山口の湯田である。医院であった中也の生家は現在後をとどめていない。生家があったところに近い井上公園には詩碑が建っている小林秀雄の筆によって中也の詩「帰郷」からとった詩句がきざまれている。私は二十数年前に一度ある研修会で当地を訪れそれを拝見した。当時はさっととおりすぎただけだった気がする。これが私の古里ださやかに風も吹いているあゝおまへはなにをして来たのだと吹き来る風がわたしにいふ原詩は昭和五年の「するや」第五集と昭和七月の「四季」第二刷とに二度発表され、詩集『山羊の歌』の「初期詩編」に収められている作品だが、四節十四行の後半部分によっている。「さやかに風も吹いている」の次に「心置くなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」の二行があるが、小林の配慮だろうか、削除されている...中原中也ノート⒑

  • 中原中也ノート8

    中也は、生まれて半年後には旅順に渡り柳樹屯へ移っ後、山口に半年ほどいて広島へ行く。二歳になるすこし前のことである。軍医である父謙助は広島の病院付きになったからである。「その年の暮れの頃よりのこと大概記憶す」と後年語っている。記憶力のいい人だと思うが、先に記した詩編では、「なんだか怖かったと」当時を振り返っている。一九一一(明治四十四)年四歳、で広島の女学校付属幼稚園(現広島女学院ゲーンズ幼稚園)に入園。「幼稚園では、中也はみんなから好かれたようです」と母フクは語っている。翌年、父健助の転任によって金沢にひっこすことになったとき、幼稚園で別れを惜しみ、先生や友達とともに泣いたという感受性の強い子だったのだろう。金沢に向かう途中汽車のなかでも「広島の幼稚園は良かったね」と中也は母フクに語っている。「あのころ、中也は...中原中也ノート8

  • 現代詩「泥む、脳髄」(ナズム、ノウズイ)

    泥む、脳髄ー入江まで(ナズム、ノウズイ)……許せないことがある許すべきだという人がいて不遜の傷みに強靱な憤りは抑えがきかない夢なら時またずして醒めるはずが喉の奥深く滞留し泥む、脳髄がある……入江のひと(たち)よその苦悶を代弁するのではないが許せざるものの根拠は排砂の滞積によるものかどうかおそらく比類のないダムの死に水の答えなき循環性にも泥む、魚群の屍があるというのか渚にしかしそれでもうさん臭い異界からの漂流物は椰子の実ばかりではない洗剤用のポリの容器にバケツすり減った歯ブラシや破れたポーチ必死で脱出する意志を波打ち際にひけらかされ男はひとりあてない海沿いの仮定空間という波間の霧ふかい夢隣りを走ってみることは愚の骨頂なんだとまるで行旅死亡人になりそこなって惜しまれるばかりの夜行列車「北陸」や「能登」号が急に冥土に...現代詩「泥む、脳髄」(ナズム、ノウズイ)

  • 詩集の表紙に使えそうなので、

    群星の写真です。詩集のタイトルにつかえそうなので取り出しました。詩集の表紙に使えそうなので、

  • 伊東静雄ノートⅡ-2

    「伊東君の抒情詩には、もはや青春の悦びは何処にもない。たしかにそこには藤村氏を思わせるやうな若さとリリシズムが流れて居る。だがその『若さ』は春の野に萌へる草のうららかな若さではなく地下に堅く踏みつけられ、ねじ曲げられ、岩石の間に芽を吹かうとして、痛手に傷つき歪められた若さである。……これは残忍な恋愛詩である。なぜなら彼は、その恋のイメージと郷愁とを氷の彫刻する岩石の中に氷結させ、いつも冷たい孤独の場所で、死の墓のやうに考え込んで居るからである。」この、詩評をてがかりのように、原田憲雄は「伊東静雄私記」のなかで、「冷たい場所で」にうたわれている〈昔のひと〉とは藤村であるという独自の視点を展開した。(このことをはじめてしったのは、「詩人伊東静雄」小高根次郎〈新潮選書)によるものであることを記しておかなければならない...伊東静雄ノートⅡ-2

  • 伊東静雄ノートⅡ-1

    「彼は詩集を出す時、いつも題名に非常に苦心するのが常だった。『夏草』のもとの名は「朝顔・その他」だし、河出書房の現代詩人全集に入れる時、考えた名は「光耀」「拒絶」「夜の葦」である。」と、述べているのは富士正晴である。伊東のよき理解者でもあった富士氏が簡単な年譜を書いている。ここで写しておきたい。伊東静雄は明治三九年一二月一〇日長崎県の諫早に生まれ、昭和二八年三月十二日国立大阪病院長野分院で死亡した。その著書は詩集『わが人に与ふる哀歌』(昭和一〇年一〇月コギト発行所)詩集『夏草』(昭和十五年三月子文書房)詩集『春のいそぎ』(昭和十八年九月弘文堂書房)詩集『反響』(昭和二二年一一月創元社)以上が生前、そして生前に出るようにと思ってはいたが、彼の死が先立ったものに『伊東静雄詩集』(昭和二八年七月創元社))これですべて...伊東静雄ノートⅡ-1

  • 立原道造ノート②

    立原道造ノート(二)習作期の短歌のころ立原道造が四季派の詩人と喚ばれることもあるがこの系統は、鮎川信夫によれば「永年にわたり伝統詩によってつちかわれた私的情操を基底としたものだが、本質的な隠遁主義だとおもう。」隠遁というのは俗世界から逃れるという意味もあるのだろうが、「なるべく『人間臭くない』方向、あるいは『人工的文明から少しでも遠ざかった』方向へと向かっていこうとする傾きがみられる。」ということだが、一般にいわれる詩の純粋性の譬えか、それとも時代の風の影響によるものだったのだろうか。ここに四季派といわれた詩人の作品をならべてみる。この詩に至るまでの立原道造の詩的出発が短歌であったことからはじめたい。あはれな僕の魂よおそい秋の午後には行くがいい建築と建築とがさびしい影を曳いていゐる人どほりのすくない裏道を〈立原...立原道造ノート②

  • 立原道造ノ-ト①

    再掲になります。(以前に投稿した文章です。)立原道造の詩に初めてふれたときに感じた「哀切」なもの。その裏側には滅びの予感が漂っていて、死のにおいに敏感な若い頃は、一時夢中で読みながらもいつしか離れていった。時間に縛られた読者の身勝手さは誰にも咎める事は出来ないが、あらためて詩集を読んでみることはけっして無駄な行為ではないだろう。あの頃には感じなかった詩の裏側にはりついている死のにおいや残酷な生の苦悩について、ここで見つめ直してみたいと思う。それは一編の詩のまえで立ちすくんだかつての不本意な意志が重なり合って囚われるものかげであれ、いつかは消えゆく儚い現象のものかげであれ、その喪失の輪郭を抱きしめるというのではない、しかし、夭折した詩人の短期間に開花したまぶしい光芒を感じるとき、己の失った若さをいとおしむこともあ...立原道造ノ-ト①

  • 上村萍論(詩集「野がかすむころ」)①

    上村萍と『野がかすむころ』(1)高島順吾の前衛詩誌「骨の火」は富山県下の若い詩人をあっという間に火につつんだ。はじめは故里保養園(国立療養所)から上村萍が「SEIN」を創刊。ついで石動町(現小矢部市)の埴野吉郎が「謝肉祭」を、魚津の島崎和敏が「BUBU]を、滑川町(現滑川市)から神保恵介が「ガラスの灰」を続いて発刊する。後に、上村、埴野、神保は「VOU」に入る。中でも著しい活動を展開したのが、上村萍(1928ー1975)であった。上村は下新川郡山崎村(現朝日町)の生まれで父は医師。上村は武道専門学校に学ぶ。昭和24年に胸を患い国立療養所の故里保養園にはいり、そこの文芸サークルに関わり、詩誌「三角座「SEIN」などを主宰する。そのあとはデザインの仕事に就きながら詩活動を展開する。昭和37年富山県現代詩人会が発足す...上村萍論(詩集「野がかすむころ」)①

  • 山村暮鳥の初期詩編をめぐって④

    明治四十二年に自由詩社から「自然と印象」が創刊。人見東明の「酒場と夢見る女」が発表され、その第九号には暮鳥の作品が掲載されている。福田夕咲「春の午後」、今井博楊「Deatyonly日の歿しゆく時」にならんで、暮鳥の「航海の前夜」の総タイトルのもと四編の詩が掲載されている。そのうちの二編を次に掲げる。鉛の如(やう)に重く、ゆく方無き夕べの底。織りは大(おほひ)なる悲哀に飛廻り、さ迷ふ。三階の窓よりsよおまえの胸にもたれて滅びゆく日のかがやきを見た。五月、その五月の青い夕べしずかに静かに黄昏れゆく。(「病めるsに」部分)秋風よ、わが師のためにその弾奏の手を止め。聴くに堪へざる汝の悲しい恋歌見よ、野の鳥の歓楽を泪ぐませほろほろと夢より憂愁の落葉をすべるさては悲しいわが秋風よ。ああ、やせ衰ふけれども心あるものに弾奏の音...山村暮鳥の初期詩編をめぐって④

  • 山村暮鳥③ー初期詩編まで

    山村暮鳥が群馬での生活を離れて東京築地聖三一神学校に入学したのは明治三十六年。入学の経緯については曖昧ながら、親しかったウオールの世話であったようだ。本人の「半面自伝」によれば「(進学校に入るまで)に自殺を図ること前後三回。学校では乾燥無味なギリシャ、ヘブライの古語学より寧ろ文学の方面により多くの生けるものを感じ、その研究に傾いた。」と述べている。暮鳥は明治三十七年に岩野泡明、前田林外、相馬御風が創刊した短歌雑誌「白百合」に短歌を発表。これが文学活動の第一歩をしるすことになる。当時は木暮流星の筆名で掲載していた。その作品を右に記してみる。さらば君白衣さきてわれゆかん野にはいなごの餓のあるまじ名は知らず柩かく人髪白く泣く子にしむき竹の杖とるうけたまへわが霊神よかへしまつる落穂に足らふ鳥もある世ぞ秋が乗る天馬にやら...山村暮鳥③ー初期詩編まで

  • 伊東静雄ノート2

    「発想は暑く烈しく無ければなりませんが表現においては沈着暢達でなければいけないと思います。〈略〉私自身『わがひとに与ふる哀歌』から『春のいそぎ』へたどった道を思い浮べ個性の宿命といふのを不思議なものに思っております。「読書新聞」というのに『春のいそぎ』を評して「作者の温厚篤実な人柄のままにうたはれた云々」とありましたが、哀歌の当時誰が渡しを温厚篤実だなどと評しましたらう。〈略〉」これは戦争も敗色の濃い真木昭和十九年に、伊東を私淑している一女性に当てた詩集のお礼と思われる手紙の一部分である。ここでかれは発想を語り、その詩業をかえりみている。詩的出発は伊東のことば通りであろう。たしかに熱く烈しかったが、晩年にちかづくにつれてれて沈着暢達へと深く沈んだ表現をとった。というよりも、たぶんとらざるを得なくなってしまってい...伊東静雄ノート2

  • 伊東静雄ノート①

    今日から伊東静雄について連載になりますが始めます。よろしくご愛読ください。伊東静雄の詩業が近代詩の流れの中でどのような位置におかれているのか、について私はしらない。で、始まるかなり古い文章(一九七九年三月発行・「ルパン詩通信」)がみつかったので、今回はそれをここに書き移したいとおもう。今年になって書いた詩人論で山村暮鳥①②、立原道造①~④、大手拓次①、の小さな論文に比べて、少し言葉も古いが、それほど考えは変わっていないようにも思えるので、あえて書きうつそうとおもう。そのまえに次の詩についてここに挿入しておきたい。堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。この水中花はわたしも夜店で見た記憶がぼんやり浮かんでくる。このことに関して菅谷規矩雄は「わが国の近代における「市井の詩」のさいごの残照でもあるだろう。伊東静雄が水中...伊東静雄ノート①

  • 中原中也ノート13

    前回は一ページを作品の引用に資したようだが、唯一の散文詩と言うことでゆるしていただきたい。それにしても今号は中也が大学に行くまでの作品の紹介におわりそうだが、むろん大方の批評は書かれおり目あたらしいものなどなにもないのだから、こうして京都で過ごした短い間の思い出を書いた作品を読み返す。新しい場所での学生生活が不安と希望に満ちていたことがよく分かる詩である。大正十二年九月一日、関東一円をマグ二チュウード七・九の激震が襲った関東大震災の日である。首都としての東京は横浜とともに壊滅的な打撃を受けた。首都東京が完全に回復するのは帝都復興祭(昭和五年)まで待たなくてはならない。中原中也は、当時京都の立命館中学の三年生。この震災には直接であってはいないが、この未曾有の大混乱である関東大震災は、当時十六歳の中也には大きな転機...中原中也ノート13

  • 中原中也ノート11

    さらに{防長新聞」短歌欄に掲載された歌をここに記していきたい。この頃はまだ定型とは出合っていなかった。三年後の定型詩と出合う前の短歌を拾い集めてみる。(およそ一九二十年から二十三年にかけての歌)子供心菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ小芸術家芸術を遊びごとだと思つているその心こそあはれなりけれ春の日心にもあらざることを人にいひ偽りて笑ふ友を哀れむ日去年今頃の歌一段と高きとこより凡人の愛みて嗤ふ我が悪魔心いずれの歌も中学生が自己の内面を見つめようと、真剣できまじめな姿がよみとれるであろう。晩年の詩《曇天》が発表されたのは昭和十一年七月。先にそれを書き写したい。ある朝僕は空の中に、黒い旗がはためくを見た。はたはたそれははためいてゐたが、音はきこえぬ高来がゆゑに。手繰り下ろうとぼくはしたが、...中原中也ノート11

  • 中原中也ノート⒑

    中也が三歳の記憶を二十代の終わりに書いているが、子供の頃は親の期待に応えようと、何でもよくやった優等生でそして早熟だったようだ。前回につづき子供の頃の中也について小学生の頃から中学生の頃について、みていくことにする。一九二〇(大正九)年、小学六年の時には雑誌や新聞に短歌を投稿。{婦人画報二月号)に次の歌を自薦として掲載。「筆捕りて手習いさせし我母は今は我より拙しと云ふ」。地元の「坊長新聞」二月十七日に短歌三首が掲載。しかし両親は中学入試の勉強に集中させる。中也は「大正四年のはじめの頃だったかおわりころであったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を唄ったのが抑抑(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。」と〈詩的履歴書〉に書いている。一九二〇...中原中也ノート⒑

  • 中原中也ノート9

    これが私の古里ださやかに風も吹いているあゝおまへはなにをして来たのだと吹き来る風がわたしにいふ原詩は昭和五年の「するや」第五集と昭和七月の{四季」第二刷とに二度発表され、詩集『山羊の歌』の{初期詩編」に収められている作品だが、四節十四行の後半部分によっている。「さやかに風も吹いている」の次に「心置くなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」の二行があるが、小林の配慮だろうか、削除されている。古里のさわやかな風を唄い、後の二行では東京での無為無頼の生活を自責する可のようにつらい思いを風にたくしている。いま、私が中也ノートをつづっているのも、別段新しい発見や多くの著書に対する個人的な主張があるというわけでもない。学生の頃に近代詩を読むようになってから中也を知ったのだから、その魅力に引かれたのは年齢的にもおそい方なのかも...中原中也ノート9

  • 中原中也ノート8

    ここに「一つの境涯」の抜粋をかきうつしていきたい。一つの境涯=世の母びと達に捧ぐ==寒い、乾燥した砂混じりの風が吹いている。湾も港市――其の家々も、ただ一様にドス黒く見えてゐる。沖は、あまりに希薄に見える其処では何もかもが、たちどころに発散してしまふやうに思はれる。その沖の可なり此方と思はれるあたりに、海の中からマストがのぞいてゐる。そのマストは黒い、それも煤煙のやうに黒い、――黒い、黒い、黒い……それこそはあの有名な旅順閉塞隊が、沈めた船のマストなのである。(中略)つまり私は当時猶赤ン坊であつた。私の此の眼も、慥かにに一度は、其のマストを映したことであったろうが、もとより記憶してゐる由もない。それなのに何時も私の心にはキチッと決つた風景が浮かぶところをみれば、或ひは潜在記憶とでもいふものがあつて、それが然らし...中原中也ノート8

  • 中原中也ノート7

    このノートでは中原中也の晩年から(千葉寺の入院)書きはじめたので(①、②で)あらためて幼い頃の記憶をもとに書かれたという詩等と生い立ちについてみてゆきたいと思う。数え年満二歳で山口に居た頃の中也は「その年の暮れ頃よりのこと大概記憶ス」と、自身で記してもいるのだが、中原家の中庭には大きな柿の木があったという。先の詩の「三歳の記憶」の初出は{文芸汎論」一九三六(昭和十一)年六月号。たぶん二九歳頃の作と推定される。三歳の記憶縁側に陽があたつてて、樹脂が五彩に眠る時、柿の木いっぽんある中庭は、土は枇杷いろはえが唸(な)く稚厠の上に抱えられてた、すると尻から蛔虫(むし)が下がった。その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので、動くので、私は驚愕(びっくり)しちまった。あゝあ、ほんとに怖かったなんだか不思議に怖かった、それでわたしはひ...中原中也ノート7

  • 中原中也ノート6

    雨がふるぞえー病棟挽歌雨が、降るぞえ、雨が、降る。今宵は、雨が、降るぞえ、な。俺はかうして、病院に、しがねえ暮らしをしては、ゐる。雨が、降るぞえ、雨が、降る。今宵は、雨が、降るぞえ、な。らんたら、らららら、らららら、ら今宵は、雨が、降るぞえ、な。人の、声さえ、もうしない。まくらくらの、冬の、宵。隣の、牛も、もう寝たか。ちつとも、藁のさ、音もせぬ。と、何号かの病室で、硝子戸、開ける、音が、する。空気を、換へると、いふぢやんか。それとも、庭でも、見るぢやんか。いや、そんなこと、分るけえ。いづれ、侘しい、患者の、こと、ただ、気まぐれと、いはば気まぐれ、庭でも、見ると、いはばいふまで。たんたら、らららら、雨が、降る。たんたら、らららら、雨が、降る。牛も、寝たよな、病院の、宵、たんたら、らららら、雨が、降る。(了)中也は...中原中也ノート6

  • 中原中也ノート5

    自戒(戒律ヺ守ル)五悪十悪十前の戒律身・口・意二悪ガアル身(折衝、偸盗、邪淫)口(悪口、両下、綺語、妄語)意(食欲、䐜恚、愚痴)精神衰弱の治療方の一環なのだろうが私にはまったく意味がわからない。どんな効果があって筆記させるのかも。だから中也はどんな思いでノートにかきうつしていたんだろうとおもう。「雑記」には中也自身によって病因を分析し、報告する形をとっている。*中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。「『先日、中原中也が死んだ。夭折した彼が一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬...中原中也ノート5

  • 中原中也ノート4

    前略、ご無沙汰しました實は最後におあいしたましたあと神経衰弱はだんだん昴じ、「一寸診察して貰ひにゆかう」といひますので従いてゆきました所、入院しなければならぬといふので、病室に連れてゆかれることと思ひて看護人に従いてゆきますと,ガチャンと鍵をかけられ、そしてそこにゐるのは見るからに狂人である御連中なのです。頭ばかり洗ってゐるものもゐれば,終日呟いているものもゐれば、夜通し泣いてゐるものも笑っているものもゐるといふ風です。ーーそこで僕は先づとんだ誤診をされたものと思ひました。子供を亡くした矢先であり、うちの者と離れた、それら狂人の中にゐることはやりきれないことでした。{四月六日安原喜弘への書簡)中也が千葉寺療養所に入院したのは一月七日。千葉県にある中村古峡療養所であった。友人の安原に差し出した手紙からは精神病とは...中原中也ノート4

  • 伊東静雄ノート5

    私が愛しそのために私につらいひとに太陽が幸福にする未知の野の彼方を信ぜしめよそして真白い花を私の憩いに咲かしめよ昔のひとの堪え難く望郷の歌であゆみすぎた荒々しい冷たいこの岩石の場所にこそ(「冷たい場所で」全行)みぎの「冷たい場所で」は、「わがひとに与ふる哀歌」のすぐ後に書かれた作品である。「曠野の歌」までは、すこし距離があり、詩臭『哀歌』の中では、かなり異質な作品であるといえる。太陽は美しく輝きあるひは太陽の美しく輝くことを希ひ手をかたくくみあはせしづかに私たちは歩いて行った(「わがひとに与ふる哀歌」部分)「わがひとに与ふる哀歌」の相愛の仮構の作品とくらべるまでもなく「冷たい場所では一転して愛するもののための自己犠牲を、それは片恋の真実を提示するかのように歌っているここでは愛の苦行のように冷たい岩石の場所に自ら...伊東静雄ノート5

  • 伊東静雄ノート4

    いかなれば今歳の盛夏のかがらきもうちにありて、なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末をえらぶかの蜩の哀音を、いかなればかくもきみが歌はひびかする。いかなれば葉広き夏の蔓草のはなを愛して會てそをきみの蒔かざる。會て飾らざる水中花と養はざる金魚をきみの愛するはいかに。(「いかなれば」全行)「いかなれば」という詩にも仮定の以外の負性のようなものを感じられるだろうか。そしてそれは日本の近代詩が負性のようにかかえている,言い換えれば詩人を取り巻く宿命のようなものの側面を時代的にとらえているものではないかと思えてしかたがない。いま伊東のやってくるまでの詩人に思いをいたしてみよう。伊東以前の詩人自らがその思想を詩のなかで表現というよりも、そこには時代的な大きな壁...伊東静雄ノート4

  • 伊東静雄ノート3

    川村二郎はあるところで、なぜ伊東静雄に惹かれたかと云えば認識を追求する詩人という印象が、認識を追い求めるというその姿勢によってだと語っていたのを読んだ記憶がある。伊東静雄ほど鋭い形では現れているものがほかに見当たらなかったということらしかった。いづれにしろ『哀歌では』〈意識の暗黒部との必死な戦い〉によって、かれの〈個性〉が現実と激しく切り結ぶところに拠ってあったが、『春のいそぎ』の〈平明な思案〉は現実とほぼ重なり合ってしまうのである。〈あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!〉の純白の世界へはもはや帰れないのでありあまりにもみじかい期間をはげしく燃焼しつくしたその一瞬の光芒のような〈個性〉のうちに、抒情詩の成立する根拠を問うことができるかもしれない。いま、伊東の熱く烈しく燃焼させた表現主体の根拠とはどこに求められたの...伊東静雄ノート3