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  • キブツを去り、エルサレムへ~聖地・エルサレムの旅

    △しばしば出会って来たアーロンだがエルサレムが最後になったー写真はヴェネチアにて。・昭和44年1月14日(火)曇り時々雨(キブツを去り、エルサレムへ)晴れていたら、死海へ再挑戦で行くつもりであったが、やはり天候が怪しく、断念した。イスラエルは雨季に入ったのか、ここ3日間、悪天候が続いた。色々な思い出や体験が出来、そして多くの友達にも知り会えた。又私に対するキブツの持て成しは、同国人や色々な国の一時滞在者と変わりなく扱ってくれた。食事内容も良く、労働していると三度の食事がとても楽しみであった。そんな仲間達やキブツを去る事は本当に辛く、そして寂しい感じがした。しかし私は旅人であり、17日にイスラエルからイランへの航空予約をしてあるので、いつまでもここに居られなかった。昼時、農作業から帰って来た仲間達に別れの挨拶をし...キブツを去り、エルサレムへ~聖地・エルサレムの旅

  • 最後の農作業~ハッゼリムキブツ滞在

    ・昭和44年1月12日(日)曇り(最後の農作業と小田君からの手紙)7時にボンに起こされ、彼と食堂へ行った。朝食はいつもと変わらなかったが、朝から卵、野菜サラダ、ヨーグルトや果物が食べられ、私にとって贅沢であった。私のジャガイモ収穫農作業は、今日で最後となった。風があったので、顔中が泥埃だらけになってしまった。ここ何日間は晴れていても以前より暖かくなく、裸になれなかった。段々と寒くなって来たようだ。4時に一日の作業、そして私のキブツの仕事も終り、ホッとした。いつもの様に食堂からオレンジを貰って部屋で食べた。そして昨年の12月23日にキブツから支給された残りのブランディーを全部飲んでから、シャワーを浴びた。それにしても、今日は落ち着かない日であった。『去る』と言う事は、いつもながら寂しさと、今後の旅の不安を感じた。...最後の農作業~ハッゼリムキブツ滞在

  • 死海へヒッチで行こうとしたら・・・~ハッゼリムキブツ滞在

    △ラクダ、ロバ、そして羊の群れが行き交う~ベエルシェバの郊外にて。・昭和44年1月11日(土)晴れ(死海へヒッチで行こうとしたら・・・)昨日、仕事が終ってからエンディとDeadSea(死海)へ行く予定であったが、取り止めたので今日、私1人で行く事にした。6時半に起き、朝食を軽く取ってキブツ前からヒッチをした。キブツ前の道は、日中でもポツンポツンと車が走っている程度であった。この道の左方面はネゲヴ砂漠へ、そしてアカバ湾に面するイスラエルでも南の重要な港Eilat(エイラト)へ通じる道であった。20分位待って右方面の車をゲットし、ベエルシェバに着いたのは8時であった。歩いて町の郊外へ出た。死海への道は未舗装(土漠の道)であった。イスラエルは人々、建物、社会生活、そして雰囲気も西洋的な感じがするが、ここは確かにアジア...死海へヒッチで行こうとしたら・・・~ハッゼリムキブツ滞在

  • 同部屋のフランクと喧嘩~ハッゼリムキブツ滞在

    △同部屋のフランコと喧嘩~キブツにてPaintedbyM.Yoshida・昭和43年12月29日(日)晴れ(同部屋のフランクと喧嘩)今日、同部屋で北アイルランド人24歳のフランクと喧嘩をした。何日か前に、「そうですか」(Isthatso?)と言う日本語をフランクに教えました。そうしたらここ2・3日、フランクは朝から晩まで私と話をする度に、そして私の顔を見る度に、「そうですか」とそればっかり言っていた。多分、彼からすれば初めて覚えた日本語が珍しいのか、或いはふざけて言っているのであろうと、最初は私もその様に受け取っていた。でも今日は度重なるので『もうバカにされている』、と感じて来て少し腹が立っていた。キブツでは、オレンジをいつでも食べられる様にと、食堂入口付近に山盛りで置いてあった。ジャガイモ畑の農作業が終り、食...同部屋のフランクと喧嘩~ハッゼリムキブツ滞在

  • ジョンの誕生日パーティ~ハッゼリムキブツ滞在

    △左からナンシー、私そしてジョアン~私の部屋の前にて(建物の後ろ側は土漠の小高い山が連なっている。)・昭和43年12月27日(金)晴れ(ジョンの誕生日パーティ)穏やかな日、今日もジャガイモの収穫作業であった。夜、ジョンの所でパーティがあると言うので、行って見たら皆が集まっていた。聞けば、ジョンの誕生日だとの事。それではと思い、オリンピックの100円記念硬貨を持っているので、部屋に取りに行って彼にプレゼントした。彼は大変喜んで受け取った。このパーティでの飲み物は瓶ビールであった。これは仲間がベエルシェバまで買いに行ったのである。同じ部屋のフランクも参加していた。一時滞在者の我々だけのグループで、何度かこの様なパーティ(集まり)があった。ビールだけで、いつもツマミは無かった。パーティは飲むのが目的ではなく、お喋りを...ジョンの誕生日パーティ~ハッゼリムキブツ滞在

  • キブツ仲間と相撲を取る~ハッゼリムキブツ滞在

    ・昭和43年12月26日(木)雨後曇り(鶏小屋の清掃作業)6時に起きた。雨が降っていたので、今日のジャガイモ収穫作業は中止になった。その代わり朝食後、作業は鶏小屋の清掃作業になった。臭かったが、我々は小屋をきれいにした。作業後、私は相撲のルールを仲間に教え、相撲を取った。勿論、私は皆に勝ったが、馬鹿力のあるジョンだけには上から羽交締めされ、相撲ルールにない技でギブアップして負けた。キブツ仲間と相撲を取る~ハッゼリムキブツ滞在

  • キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その2)~ハッゼリムキブツ滞在

    ・昭和43年12月24日(火)晴れ(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問)(その1)からの続きです。その1はキブツの仲間達とキリスト降誕の地・ベツレヘムに来ました。降誕キリスト教会とキリストの生れた洞窟室を見物しました。以後(その2)になります。この後、我々キブツ仲間はレストランへ行ってビールを飲もうと言う事で、ある店に入った。店は大勢の人で混んでいたが、「小瓶1本1ポンドは高い」と言う事でその店を出て、60アゴロ(52円)で飲める他の店を見付けた。ここの店と最初の店とは大して変わらないのに、どうして値段が余りにも違うのか。アラブ人は人を見て値段を替える、油断出来ない民族の様であった。ベツレヘムは、六日戦争(第三次中東戦争)前までヨルダン領であったので、顔を白い布で覆った多くのヨルダ人を見掛けた。レストラン経営者や...キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その2)~ハッゼリムキブツ滞在

  • キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その1)~ハッゼリムキブツ滞在

    ・昭和43年12月24日(火)晴れ(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問)今日はクリスマスイヴであった。所がイスラエルはキリスト誕生の地・聖地にも拘らず、休みどころか普通と変わりなく、我々はジャガイモ収穫作業をしなければならなかった。ガッカリしたのは私だけでなく、他の仲間達も同じであった。お昼に食堂へ行くと、「夕方、Bethlehem(ベツレヘム)へ連れて行って貰えるから、午後の農作業は早めに終り」の情報が届いた。皆大いに喜びで、午後の農作業に従事した。作業は3時前に終った。シャワーを浴びた後、他の仲間と共に食堂前に集合した。キブツから1人6ポンドのお小遣い(原則キブツは無賃金で、この様な事は最初で最後)、そしてイスラエル軍及びベツレヘム陸軍総督のクリスマスセレモニーの招待状が手渡された。管理者から「招待状は、身分...キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その1)~ハッゼリムキブツ滞在

  • ジャガイモの収穫作業~ハッゼリムキブツ滞在

    ・昭和43年12月15日(日)晴れ~23日(月)晴れ(ジャガイモの収穫作業)7時前に起き、食事をしてからジープに乗ってジャガイモの収穫作業に行った。9人も一緒にジープに乗ったので、ぎゅうぎゅう詰の状態であった。ジャガイモ畑は広く、そしてその向こうは、木一本もない半砂漠の小高い山並みが幾重にも連なっていた。ジャガイモ収穫作業は、キブツ人が大きなトラクターを運転し、掘削機見たいな機械でジャガイモを掘り起こし、振いに掛けてベルトコンベアーで運ばれて来たジャガイモと共に泥の塊や石ころが混ざって来るので、我々の作業は左右に分かれ、その泥の塊や石ころを手で取り除く作業であった。そしてベルトコンベアーの先に麻袋が設置されていて、ジャガイモだけが袋の中へ入って行く様になっていた。従って我々が手を抜くと、泥の塊や石が混ざってジャ...ジャガイモの収穫作業~ハッゼリムキブツ滞在

  • イスラエルの休日の日~ハッゼリムキブツ滞在

    ・昭和43年12月14日(土)晴れ(イスラエルの休日の日)今日はユダヤ教の教えから来るユダヤ人のシャバス(安息日)の日で、公官庁、商店、レストラン等も休みの日であった。しかし、休みの日でもキブツの食事担当の人は働いていた。その代わり振り替えて休める。日曜日は労働する日で、一週間で土曜日だけが休みであった。従って、一時的滞在者にとってもキブツ人にとっても土曜日は、貴重な日であった。その最初の休みは一日中、本(深田久弥の「中東の砂漠を自動車で走破」)を読んだり、日記を書いたり、イギリスの友達(シーラ、マリアン、ジャネット)、日本の友達そして家族に手紙を書いたりして過ごした。手紙を書くのは1ヶ月振り、否それ以上であった。後日、N君の手紙によると、私がイスラエルのキブツに居るとは想像外の様であったらしく、彼は私が船で帰...イスラエルの休日の日~ハッゼリムキブツ滞在

  • シーラ亡くなる

    私のプログ「徒然の旅の話」の第1章プロローグ、第5章イギリスの旅、そして第6章ロンドン滞在の各章の中で度々名前が出てきたシーラ(SheilaMorgan)は、私が1961年の高校2年(彼女は高校1年生)から今年(2021年)の3月まで文通を続けてきた友達(penfriend)でした。シーラは昨年癌を患い、それにも拘らず今年の3月まで手紙(3・4年前から電子メール)が来ました。しかしそれ以後から彼女からの手紙が届かなくなりました。シーラの家の隣のダフニ(DaphneWilks)やシーラの長男のリチャード(RichardMiller)から亡くなったとのメールが無いので、私はまだカーディフの病院で闘病中(治療生活中)と思い、治るのを願って待っていました。しかし60年以上続いた文通はここに終わりました。そして私とシーラ...シーラ亡くなる

  • キブツでの最初の労働~ハッゼリムキブツ滞在

    ・昭和43年12月13日(金)晴れ(キブツに来て、初めての農作業)昨日の午後にキブツに入り、今朝、早々キブツの人に6時前に起こされ、食事前から温室内の穴掘り作業をキブツ人と共にした。午後は鶏小屋で鶏の糞や小屋の清掃作業に従事した。私と同年配位のキブツ人との作業で、言葉が通じ合わず、気疲れと久し振りの労働で疲れた。夜、深田久弥の「中東の砂漠を自動車で走破」の本を読んで過ごした。この本は先日、長倉から貰った本だが、後日何処かに紛失してしまった。キブツでの最初の労働~ハッゼリムキブツ滞在

  • 共に働いたキブツの仲間達の話~ハッゼリムキブツ滞在

    △ハッゼリムキブツの私の部屋の前にて~左からナンシー、私、そしてジョアン。木が見えるその後方は何も無い砂漠であった。・共に働いたキブツの仲間達の話私の部屋の仲間は2人居た。1人はFrank(フランク)、もう1人はPeder(ピーター)と言う人でした。フランクは、北アイルランド出身の田舎者、髭を生やし、少し太り気味、海賊バイキングに似ていた。彼はイギリス人であるが、アイルランド系なので訛りのある英語を話していた。彼は読書が好きなのか、よく本を読んでいた。少し意地が悪く、私はフランクを好かなかった。ある日、フランクと話をしている時、何度か「Isthatso?」と言ったら、彼が「Isthatso?は日本語で何と言うのか教えてくれ」と聞くので、日本語で「『(あ、)そうですか』と言う意味です」と教えた。その後、彼は事ある...共に働いたキブツの仲間達の話~ハッゼリムキブツ滞在

  • ハッゼリム キブツの話~ハッゼリム キブツ滞在

    ・ハッゼリムキブツの話私は前記の条件を承諾して、テルアビブのキブツ事務所からこのキブツを紹介され、遣って来た。このキブツの周囲は、鉄条網で囲まれていた。1日数回、銃を片手に管理人の方2名が、その鉄条網に沿って巡回、警備をしていた。私の家(時に「部屋」とも言う)は、ゲートから一番奥にあった。そこからの光景は、木一本も生えていない、赤茶けた半砂漠的な小高い台地が幾重にも連なり、荒涼とした大地が広がっていた。15キロ~20キロ先はヨルダン川西岸地域で旧ヨルダン領であった。ヨルダン兵やゲリラがキブツに潜入し、攻撃して来てもおかしくない地理的な状況を思うと、『少しも不安を感じない』と言う訳にはいかなかった。私の様な一時的滞在者の為の家も、何件もあった。共用のトイレは、キブツ内に何ヶ所かあった。私の部屋の右の奥まった鉄条網...ハッゼリムキブツの話~ハッゼリムキブツ滞在

  • キブツ入所条件の話~ハッゼリム キブツ滞在

    ・キブツ入所条件の話こちらのハッゼリムキブツに来る前に、テルアビブのキブツ事務所である条件を提示され、それに署名したので、こちらのキブツを紹介され来たのでした。その提示された入所条件は英文であった。日本語にして、ここに書き留めて置く事にした。キブツとは集団農業共同体、若しくは集団農業共同組織、英語ではaCollectiveagriculturalcommunityであろう。ソ連のコルホーズ、中共の人民公社に似ている様であるが異なります。イスラエルのキブツは自主、運営、管理、平等を基本として政府から独立した組織ですキブツ事務所からの提示条件【一時滞在労働者へ簡単に貴方が働くキブツが見付かる様に、この紙面を読んで頂きたいのです。キブツは、貴方にとって不思議な、或は全く理に合わない様に思われるかもしれませんが、習慣や...キブツ入所条件の話~ハッゼリムキブツ滞在

  • ・パレスチナ人、ヨルダン人そしてユダヤ人の見分け方(私感)の話~ハッゼリム キブツ滞在

    ・パレスチナ人、ヨルダン人そしてユダヤ人の見分け方(私感)の話所で、六日戦争(第3次中東戦争)でエルサレムの旧市街地を含むヨルダン川西岸地域やシナイ半島をイスラエルが占領したので、私が訪れたベエルシェバ、エルサレム、そしてベツレヘムの一帯はパレスチナ人の他に、多くのヨルダン系のアラブ人も住んでいた。イスラエルは又、複雑な地域であった。イスラエル人(ユダヤ人)、パレスチナ人、そしてアラブ人(ヨルダン人)の見分けは、そんなに難しくなかった。彼等の顔は三者とも似ているが、外見はどこかが違って、見分けが出来た。パレスチナ人男性はズボンを履いて、長い手ぬぐい(クーフィーヤ=パレスチナの代表であるアラファタ議長が頭に被っている物)を頭に巻いていた。パレスチナ女性は、ワンピースの様な服で、頭に頬被りをしていた。アラブ人(ヨル...・パレスチナ人、ヨルダン人そしてユダヤ人の見分け方(私感)の話~ハッゼリムキブツ滞在

  • キブツへ行く~ハッゼリム キブツ滞在

    ・昭和43年12月12日(木)曇り後雨後曇り(キブツへ行く)長倉はハイファへ旅立った。青山は、2・3日後に何処かのキブツに入ると言う。私もキブツへ行く為、ベエルシェバへヒッチで行く事にした。ベエルシェバは、テルアビブから110キロ程行った所で、ハッゼリムキブツはその町からさらにネゲヴ砂漠へ10キロから20キロ位行った所であった。私の持っている道路地図には、「ハッゼリム」と言う地名は載っていなかった。私は歩いて郊外へ出た。途中、基地へ行くのか、それとも軍服姿(多くは迷彩服)のまま職場へ行くのか、自動小銃を肩から提げている多くの男女の兵士を見掛けた。街の中央では見掛けなかったが、郊外へ出ると古い家並みが沢山あった。そこはアラブの雰囲気が感じられ、パレスチナ人達が住んでいた。町の片隅にひっそりと暮らしている彼等は、ス...キブツへ行く~ハッゼリムキブツ滞在

  • テルアビブの様子~テルアビブの旅

    ・昭和43年12月11日(水)曇り(テルアビブの様子)昨日は私の誕生日、長倉とレストランでお喋りしたり、午後ボーリング場へ行って過ごしたりした。遊ぶ程の金がある訳ではなかったが、誕生日なので彼に付き合った。今日キブツへ行く予定であったが、取り止めて明日にする事にした。長倉もHaifa(ハイファ)へ旅立予定であったが、明日行くことになった。テルアビブはイスラエルの首都であるが、イスラエル人の雰囲気として、或は心情として、Jerusalem(エルサレム)を首都にしたいらしい。テルアビブの建物は、建国してから建てたから、殆んど新しかった。個人の住宅は皆、高床式になっていたのが特徴的であった。6日戦争でテルアビブの街が攻撃させた様な痕は、ロッド空港を除いて私の見た範囲内で全く無かった。イスラエルに入国した時の乗合タクシ...テルアビブの様子~テルアビブの旅

  • 日本の10大ニュースと長倉は強かった~テルアビブの旅

    ・昭和43年12月9日(月)晴れ(日本の10大ニュースと長倉は強かった)昨日、キブツで働く所をテルアビブから余り離れてない所を希望していたが、キブツ事務所の係りの方から「そこは一杯で希望に添えませんでした。明日又、来て下さい」と言われ、今日再び事務所に立ち寄った。そうしたらHazzerimKibbutz(ハッゼリムキブツ)に決定した。係りの方からそこの住所と行き方を教わった。そのハッゼリムキブツは、テルアビブから100キロ以上のBeersheba(ベエルシェバ)の町からさらに南下したNegev(ネゲヴ砂漠)の北端に位置する所であった。Sinai(シナイ半島)とDeadSea(死海)の中間地点で、まさに何にもない様な所であった。国境付近では現時点、休戦協定が成立している状態であるが、依然として小競り合いが起きてい...日本の10大ニュースと長倉は強かった~テルアビブの旅

  • キブツ探し、そして長倉君との再会~テルアビブの旅

    ・昭和43年12月8日(日)晴れ(キブツ探し、そして長倉君との再会)今日未明、雷を伴った凄い雨が降り、目が覚めた。今朝方もヒョウ交じりの物凄い雨が降った。朝食を取ってから主人に、「キブツに入所したいのだが、如何したら良いのか」と尋ねたら、キブツ事務所の場所を教えてくれた。朝食後、そのキブツ事務所へ行った。その事務所(IchudHakvutzotVehakibbutzim)の方は、私が「キブツへ入所したい」と言ったら、友好的に迎い入れてくれた。入所申込用紙に名前等必要事項を記入したが、この時点ではまだ何処のキブツになるのか、決まらなかった。キブツはたくさんある様で、自分が『何処のキブツへ行きたい』ではなく、事務所側の『何処のキブツで人が足りないので、そちらへ行って下さい』と言う様な関係であった。暫らくすると、日本...キブツ探し、そして長倉君との再会~テルアビブの旅

  • イスラエルの簡単な歴史の話~テルアビブの旅

    △オマールイスラム寺院・イスラエルの簡単な歴史の話イスラエルに滞在するにあたって、この国の歴史について少し記して置く事にした。そもそもこの国は、4,000年の歴史があり、紀元前(BC)のソロモン時代、既に最盛期を迎えた。[その基礎を作ったのが、BC1,020年頃の初代の王・サウルであり、その跡を引継いだのがダビデ王であった。ダビデは王国をより徹底して統治する為、BC997年、エルサレムに都を移した。又その息子ソロモンによって〝エルサレム神殿〟(「第一神殿」と言われ、今ではその跡に黄金のオマールイスラム寺院が聳え建っていた。)が築造され、その中に十戒石板を入れた契約の箱が収められた。その事によって聖都として、エルサレムの地位が確立した。ダビデは、バビロニアによるエルサレム滅亡(BC586年)までのイスラエルの王国...イスラエルの簡単な歴史の話~テルアビブの旅

  • 不愉快なイスラエルの初日~テルアビブの旅

    ・昭和43年12月7日(1968年)(土)曇り後晴れ後雨(シーラおばさんと出逢う)*参考=イスラエルの1ポンドは約86円、1アゴロは約86銭アテネを去る日が来た。出発まで私は和田、そしてインテリの日本人と共にアラブ大使館(現エジプト)へ行ったり、行き付けでない食堂で昼食を取ったりして過ごした。いつも20ドラクマ(200円)以内で食事を済ませていたが、アテネ最後の食事なので2人に合わせ、普段より奢ってしまった。食事後、1人45ドラクマを請求されビックリした。他の2人も一応、『高い』と認識し、店主に抗議した。しかし言葉が通用せず、埒(らち)が開かなかった。この様な状況下、4ヶ国語も5ヶ国語も知っているインテリも所詮、私と同じであった。そこで和田が主人の見ている前で店の名前をメモした。店を出る際、私は100ドラクマ紙...不愉快なイスラエルの初日~テルアビブの旅

  • アテネの人々の話~ギリシャのヒッチの旅

    ・アテネの人々の話(古代文明の栄光とあの美男美女は何処へ)ギリシャは、スペインやイタリアと同様にシエスターがあり、12時から午後の4時頃まで店を閉めていた。街を歩いていると、アテネ市民の内のかなり多くの人は、何の為なのか、数珠をジャラジャラと弄んでいた。その光景は不思議であった。結婚について、女の人が持参金を多く持って行かないと結婚が出来ないとか、男もそれを目当てに結婚をする、と言う話を聞いた。旧街や裏通りの茶店は薄暗い雰囲気で、汚れた安物のテーブルと椅子が店の中や外に置いてあり、それに座って、或いは道端で人々は『水たばこ』と言う30cm程の長さの瓶の中にボコボコと煙(泡のように見える)が出ているのを、太いゴムホースを使って、物思いに耽る様に吸っていた。その光景はまるでアヘンを吸っているかの様に見えた。又、人々...アテネの人々の話~ギリシャのヒッチの旅

  • 旅をしていると色んな人と出逢うものだ~ギリシャのヒッチの旅

    ・昭和43年11月29日(金)~12月6日(金)(アテネ滞在と今後の旅程)私は今後の旅について、来た道を戻ってテッサロニキからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、マレーシア、タイを経由してシンガポールへ旅立つべきか、或いは寄り道してIsrael(イスラエル)へ行こうか、迷っていた。アテネに着いてから今後の旅程について悩んでいると、ある日本人から「イスラエルのキブツは良いぞ。食事は好きなだけ食べられるし、部屋は勿論、生活必需品全て与えられる。仕事は農業関係だが、ただお金は貰えない」と言う話であった。『手持金を減らさないで一つの所でゆっくり過ごせたら良いなぁ』と思ったし、又次の理由でイスラエルへ行く事にした。ロンドンに居る時、陸続きでイスラエル行きを考え、シリアやレバノンの査証収得に動いていたが、「...旅をしていると色んな人と出逢うものだ~ギリシャのヒッチの旅

  • 美術品の話~ギリシャのヒッチの旅

    ・美術品の話ギリシャは、アテネのみならず国中のあちこちに、又エーゲ海の島々や地中海のクレタ島に数多く遺跡があり、まさに遺跡と美術の宝庫なのだ。それにも拘わらず、その方面の知識も関心も無く、私が尋ねたのは、アクロポリスの丘とアテネの国立博物館だけであった。興味、関心がある人にとっては、折角そこまで行ったのに、『勿体ない』と思うでしょう。しかし、私にとっては、『それらは猫に小判』なのだ。もっとこの国の歴史や美術を勉強しておけば良かった、とつくづく思った。そんな私はアテネの国立博物館へ行ってた。古代の彫刻が主であり、中には幾つかの模写もあった。しかし、誰もが足を止める様な有名な物は無かった(私が知らないだけ)。以下、私の独り言・・・古代パルテノン神殿に飾ってあった数々の彫刻が、ロンドンの大英博物館に陳列されていたし、...美術品の話~ギリシャのヒッチの旅

  • ギリシャ、アテネの印象の話~ギリシャのヒッチの旅

    ・ギリシャ、アテネの印象の話ユーゴスラビアからアテネへ来る途中の車の中から、或はアテネに滞在してギリシャ人の着ている物、生活実態、道路、交通事情、街の商業の様子等を見て、先ず感じた事は、想像していたより人々の暮らしは、貧しそうであった。物価は安く、旅行者にとって大変有り難いが、経済が停滞している証なのか。外国に来てから私は分ったのであるが、物価が安い国は、一般的に経済が停滞して、人々の暮らしは貧しいのであった。それから、私が見たギリシャの国境からアテネまでは、全体的に木々(森林)が無かった。山々は石ころだけで、禿山になっていた。自然保護林、森林がなければ、大雨による防災は如何なのか、或いは飲料水の確保は如何なのか、等々の疑問があった。アテネは、私が想像していたよりこじんまりした都市であった。ヨーロッパの一都市に...ギリシャ、アテネの印象の話~ギリシャのヒッチの旅

  • アクロポリスの丘とパルテノン神殿の話~ギリシャのヒッチの旅

    △アクロポリスの丘にて(左が私)・アクロポリスの丘とパルテノン神殿の話私はアテネに着いた翌日の11月29日、市内地図を片手に持ち1人パルテノン神殿を見に出掛けた。アテネはロンドンやパリの様な大都会と言う程ではなく、主な観光史跡や観光に関する施設は、殆んど歩いて行ける範囲にあり、バスを使う程ではなかった。そして、この都市はアクロポリスの丘を中心に形成され、何処からでもアクロポリスの丘とパルテノン神殿を望む事が出来た。地図を頼りに街を散策しながら、アクロポリス方面へ向かった。その丘の少し急坂な小道と石段を上ると、忽然目の前に巨大な神殿が飛び込んで来た。しかし、2,000有余年の風雪の為か、ローマ帝国やトルコ帝国の略奪、破壊の為か、残っているのは屋根を支える一部の枠組みと建物を支える巨大な石柱のみであった。そして、神...アクロポリスの丘とパルテノン神殿の話~ギリシャのヒッチの旅

  • ギリシャの歴史の話~ギリシャのヒッチの旅

    ・ギリシャの歴史の話ギリシャ、アテネを理解する上で、その歴史を簡単に記しておく事にする。アテネは、古代ギリシャの数あるポリス(都市国家)の中でも良好な港を持ち、エーゲ海を始め地中海の貿易、交通の拠点として富を築き栄えて来た。その繁栄の基に、紀元前776年古代オリンピック大会が行なわれるようになった。紀元前5世紀に入るとエジプトからインドまで支配下に置いていたペルシャ大帝国の侵入を受け、ペルシャ戦争になった。アテネの兵士は果敢に戦った。特にマラトンの戦い、サラミスの海戦に於いて勝利をもたらした。Marathon(マラトン)は、アテネの東北約40キロの所に位置した古戦場地で、ペルシャ軍が上陸したがアテネ軍が撃破した所なのだ。この戦いの勝利をアテネに知らせる為、使者が一気に40キロ程(42.195km)を走り続け、報...ギリシャの歴史の話~ギリシャのヒッチの旅

  • チェコ スロヴァキア人と「プラハの春」後を話し合う~ギリシアのヒッチの旅

    △アテネ市内に入ると、アクロポリスの丘とその丘の頂にある古代遺跡・パルテノン神殿が我々を迎えてくれた。ギリシャのヒッチの旅(古代文明の栄光と現実)・昭和43年11月28日(木)晴後曇り(国境から一気にアテネへ)*参考=ギリシャの1ドラクマは、約10円(10レプタは、1円)。昨夜泊まった場所は、マケドニアのGevgelija(ゲヴゲリヤ)と言う、国境の町の郊外であった。今日、このモーテルから国境を歩いて越えようと思い、出立した。30分以上歩いていたら、ユーゴのカスタムオフィス(出入国管理事務所)の検問が設けられていた。そこを何の問題なく、通過した。その管理事務所を過ぎたら、上り坂になって来た。この辺りは、小高い山が幾つか連なっていた。道はトラックが通れる幅があったが、チョットしたハイキングコース(道は舗装されてな...チェコスロヴァキア人と「プラハの春」後を話し合う~ギリシアのヒッチの旅

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