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  • 黄金のバルト海~ヘルシンキの旅

    △ヘルシンキ港にて出港前の私(右)と鈴木・昭和43年(1968年)7月21日(日)晴れ(黄金のバルト海)パン、ミルク、キュウリ、そして、トマトで朝食を取った。ソ連の旅行は、ホテルでナイフとフォークを使ってのコンチネンタル・ブレックファーストであったが、個人の旅になると食事内容も貧しくなった。船でストックホルムへ行く為、タクシーで港の船会社へ行った。私と鈴木は既に日本でヘルシンキ~ストックホルム間の船切符を買ってあったが、照井と鶴島さんは、まだ買ってなかったので買う事になった。その鶴島さんは、四国の松山で個人商店を営んでいる人で今回、ストックホルムのホテルでボーイをしている弟さんに8年振りに会いに来たと言う事であった。鶴島さんは英語が分らないので私に、「明日、船で行くから弟に迎えに来て貰いたいので、電報文を...黄金のバルト海~ヘルシンキの旅

  • 白夜を楽しむ~レニングラードの旅

    △レニングラードのネヴァ川の畔にて~案内してくれたガイドと・昭和43年7月19日(金)曇り(白夜を楽しむ)目を覚ますと、広大な草原の中を列車はひた走っていた。その景色は変わらない緑一色の世界、改めてソ連の国土の広さを感じた。車中の居心地はまぁまぁで、良く寝られた。7時30分、レニングラードのモスクワ駅に到着した。レニングラードは、ソ連第2位の都市(帝政ロシア時代の首都・ペトログラード)であった。ホテルに到着し、荷物を置いて直ぐにバスで市内観光になった。ガイドさんは、美人のロシア人で数々の名所・旧跡を案内してくれて、忘れる事が出来ない旅の1ページになった。彼女はいつも説明の最後に「Thisisoneofthemostfamousandbeautifulbuildings」と言って終るのが口癖と言うか、案内の...白夜を楽しむ~レニングラードの旅

  • バルト海船上で17歳の若者と口論

    △ストックホルム入港前で生粋な彼と仲直り記念写真・昭和43年7月22日(月)晴れ(・昭和43年7月22日(月)晴れ(バルト海船上で17歳の若者と口論)*参考=スウェーデンの1クローネ(Krona)は、約70円(1オーレは、70銭)。昨夜、私を含めて2等キャビンの人達は、毛布なしで直に床に寝た。非常に寒く、そして長い夜であった。こんなに寒い中を一晩過ごした経験は過ってなかった。勿論、船員に毛布を貸してくれるよう尋ねたのですが、2等用には備えがないとの事で、ブルブルと震えながら一晩過したのでした。やっと朝の5時頃になったので、私は体を温めようとシャワー浴びた。しかし、その時は温まったので良かったが、後になって反って寒くなってしった。体が丈夫の方ではないので風邪を引くのでは、と心配してしまった。日本の夏は夜でも...バルト海船上で17歳の若者と口論

  • 私の旅はここに終る~日本の旅

    △私と左は同室の橋本さん~ソ連船ハバロスク号にて・昭和44年(1969年)7月6日(日)晴れ(私の旅はここに終る)朝食を済ませ、出立準備を整えてから女将に勘定をお願いした。彼等に「ここの旅館代は私も払う」と言ったが、彼等は「Yoshiにはお世話になったから。」と言って私の分を払わしてくれず、6人で割って各自出し合って払ってしまった。一昨日も昨夜も、「Yoshiにはお世話になっているから。」と言って飲み代は彼等が払っていた。今日、彼等はこれから日光見物へ出掛けるのでした。「私も付き合う、行かせてくれ。」と言ったのに、彼等は「Yoshiは1年振りの故国、家族が待っているので早く帰って上げなさい。」と言って、私の同行を許してくれなかった。私の気持としては、彼等といつまでも旅をしたかったが、実を言うと私にはもう日光へ行...私の旅はここに終る~日本の旅

  • 名古屋、東京見物~日本の旅

    △熱田神社前にて~左からエバンス、私、タン、メアリー、ベンドレィそしてフレッド・昭和44年7月5日(土)小雨後曇り(名古屋、東京見物)16日間航海したチルワ号ともこれで永遠の別れとなり、私は昨日、鳥羽へ行った〝乗船仲間6人〟(オーストラリア人のMrs.ElaineEvansエバンス夫人、Mr.DoneBendleyベンドレィ氏、アメリカ人のメアリー、中国系香港人のフレッド、中国系マレーシア人のタンとフィリップ)と共に名古屋へ行った。私の案内で名古屋城や熱田神社を見物後、新幹線ひかりで東京に来た。日本の新幹線は彼等にとってその速さ、鉄道技術の高さ、施設にビックリするやら、感心するやらの新幹線の旅であった。曇りの為、富士山を見る事が出来ず、彼等は本当に残念がっていた。東京駅観光案内所で今夜のホテルを予約しようと思っ...名古屋、東京見物~日本の旅

  • 四日市入港と鳥羽見物~日本の旅

    ・昭和44年(1969年)7月4日(金)小雨(四日市入港と鳥羽見物)朝起きて、日本本土が見えるか、甲板に出てみた。小雨が降っていて視界が悪く、まだ何も見えなかった。南太平洋の海は紺碧の色をしていたのに、日本近海の海は、余りにも濁っていた。日本経済の発展の裏で環境や自然が破壊され、海や河川が汚染されていたのだ。何も見えなかったが、暫くの間甲板に佇んでいると、何処かの島か本土が遠くぼんやりと見える様になって来た。何日も何日も見えるのは大海原だけであったのに、行き交う船も見られる様になって来た。『日本だ!日本に近づきつつあるのだ!嬉しい!やっと帰れるのだ!』という気持と、『私はもう旅人ではなくなるのだ。』と言う一抹の寂しさが入り混じった、おかしな気分になって来た。朝食が済み、間もなくしてから日本船が横付けされ、税関・...四日市入港と鳥羽見物~日本の旅

  • 船旅を楽しむ~船内の様子

    △船内の食事風景(一番右が私)~私の右隣から若夫婦(男は髭を生やした26歳前後)、おじさん、おじさんの娘、高級船員、おばさん、そして私の左隣はアメリカ人のメアリー・昭和44年6月24日(火)~7月3日(木)(船旅を楽しむ)最初の頃、救命袋の着用方、及びBoatStation(救命ボートが格納されている所)へ集まり、ボートへの人員、並びに割り当等を確認し、異常時に於ける脱出訓練が3回あった。船旅で一番の楽しみ、それは食事であった。朝は8時30分から、昼食は午後1時から、そして夕食は午後7時からであった。昼食と夕食の基本的な料理を紹介すると、スープに始まり魚料理、肉料理、パン、アイス・クリーム、果物、そしてティー若しくはコーヒーであった。日によって料理の種類は変わり、料理については満足であった。しかし、食事の時のテ...船旅を楽しむ~船内の様子

  • 黄金色に染まった港を出港~心残りでオーストラリアを去る

    ・昭和44年6月23日(月)晴れ(黄金色に染まった港を出港)本日12時に出航予定であったが、午後の5時に変更された。そして太陽の沈む頃、ブリスベン港に黄金色の光景を残し、船は静かに出港した。これでオーストラリア連邦国、そしてオーストラリア大陸の本当の見納めになるので、その想いは一塩の物があった。私はデッキに佇み、黄金色に染まったブリスベン港、そして日が沈んでからもモートン湾の光景を虚ろに見ながら、いつまでオーストラリアの日々に思いを馳せた。シドニーと同じくブリスベンも内陸まで湾が入りこみ(河口まで20km程)、外洋に出るまで1時間余り要した。黄金色に染まった港を出港~心残りでオーストラリアを去る

  • ブリスベンの日曜日の様子~心残りでオーストラリアを去る

    △ブリスベンの絵葉書(寄港した時に買ったもの)・昭和44年6月22日(日)晴れ(ブリスベンの日曜日の様子)船はブリスベン港に1日中、停泊していた。退屈で仕方ないので午後、映画でも見に行こうと街へ出掛けたが、3軒ある映画館全てが日曜の為、閉まっていた。1軒ぐらい営業しているであろうと思ったが、オーストラリアの徹底した日曜日のあり方を再確認した思いであった。無人となった街をぶらついて、船に戻りボンヤリと過した。ブリスベンの街は、閉まっているのは何も映画館だけではなく、シドニーより徹底して全ての店が閉まっていた。街から人々が居なくなり、まるでゴーストタウンの様に静かであった。市民は郊外のゴールドコーストヘ行って過しているのであろうか。出掛けない人は何もする事がないので奥さんの手伝い、或いは庭や家の手入れをするぐらいし...ブリスベンの日曜日の様子~心残りでオーストラリアを去る

  • スケベなフレッド~心残りでオーストラリアを去る

    ・昭和44年6月21日(土)晴れ(スケベなフレッド)一昨日夜から昨日、船はかなりローリングしたので気持が悪かった。お陰で昨日の昼食は、喉を通らなかった。 チルワ149号は、今日の朝方の早い時間にブリスベンに入港した。昨日知り合ったFreadKelly(私は「フレッド」と呼んでいた)と共に朝食後、バスでブリスベンの街へ出掛けた。ブリスベンは、クィーンズランド州の州都。ここはシドニーよりとても温かく(少し暑いぐらい)、通りに椰子の木の繁るのが見られ、南国の風情を感じた。今日は土曜日で、街は静かであった。特に何処かへ行った、或は見学したと言う事ではなく、我々はブラット街を一回りして、再び船に戻って来だけであった。 クィーンズランド州に足を踏み入れたのは、これで2度目であった。地図を見ると、このブリスベンから真っ直ぐ西...スケベなフレッド~心残りでオーストラリアを去る

  • 仲間達との別れ、そして出航の様子~心残りでオーストラリアを去る

    ・昭和44年6月19日(木)曇り(仲間達との別れ、そして出航の様子)4月14日からルームメイトの栗田と共に住み始めたこのキングスクロスのレントルームを去る日が来た。9時頃起きて出発の準備をしていたら、岡本と杉本が見送りの為に来てくれた。10時半頃、大屋のミセズ・ジャクソンおばさんにお世話になったお礼と共に別れの挨拶をし、大通りのウィリアムズ通りから栗田と共に4人はバスに乗った。私はシドニーに来て以来、初めてバスに乗ったのが、シドニーの最後の日であった。 バスは思い出のあるキングスクロス地区を後にし、博物館を左に見てハイド・パークを横切り、ダーリング港(WharfofOceanTerminal,SydneyCove)まで行った。杉本はカメラを取りに途中下車し又、後から来てくれた。私の乗船するローヤル・インターオー...仲間達との別れ、そして出航の様子~心残りでオーストラリアを去る

  • 博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅

    ・昭和44年6月18日(水)晴れ(博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ)昨日、家族や友達の為に何かちょっとした物でも良いからオーストラリアの記念となるお土産(カンガルーの毛皮、ブーメラン等)をジョージストリートのシドニー・ケイブ寄りに買いに行った。そして今日、岡本と共にAustralianMuseum(オーストライア博物館)へ行った。この博物館はハイド・パークの東側ウィリアムズ・ストリートに面して、いつも貨物駅とステーキハウスのレストランへの勤めの行き帰りに見ていたが、入ったのは今日が初めてであった。この博物館はオーストラリアの自然、古生物、動植物、鉱物、人種等に関する展示品があった。その中でポリネシア、メラネシア及びアボリジニの美術、彫刻、生活様式、道具、調度品等が印象深かった。特に、メラネシア諸島の...博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅

  • タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛~キャンベラ、シドニーの旅

    △1969年(S44年)当時のシドニーの全景(ほとんどの建物はイギリスの様にレンガ造りであった)~絵葉書より△今の(2015年)シドニーの全景~CFN・昭和44年6月15日(日)曇り(タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛)午後3時頃、最近知り合った牛丸さん(仮称、以後敬称省略)の所へ行ったら、動物園へ行く事になった。我々2人はポート・ジャクソン湾(通称シドニー湾)のサーキュラー波止場NO5からフェリー(船賃往復30セント)に乗った。因みにサーキュラー波止場は、オーストラリアへ最初に移住者が上陸した地点であった。私は船上からオペラハウス、ハーバーブリッジ、そして対岸の街並み等の光景を眺めていたら、改めてシドニー湾の美しさを再認識した。   15分程で対岸のタロンガ動物園(入園料60セント)に着いた。動物園側から見る...タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛~キャンベラ、シドニーの旅

  • マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う~キャンベラ、シドニーの旅

    ・昭和44年6月13日(金)晴れ(マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う)7時に起きてシャワーを浴び、自炊の朝食を取った。今日、シドニーへ帰る日であった。ユースを出る際、マイケルとブレインに別れを告げた。「昨日、Yoshiに会えて本当に良かったよ。無事、帰国出来る様祈っています。」とマイケル。「パースで仕事を見付けた後、何処へ旅するの?」「ヨーロッパへ行こうと思っています。」「マイケル、良い仕事が見付かり、良いヨーロッパの旅が出来るよう祈っているよ。それでは元気で、グッドラック。」とマイケルと握手した。「ブレイン、昨日君とキャンベラ観光が出来て楽しかったよ。有り難う。」と彼に手を差し伸べ、ガッチリ握手を交わした。親しくしてくれた貨物駅の友・マイケル、そして気さくな旅人・ブレインとの...マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う~キャンベラ、シドニーの旅

  • キャンベラ観光とマイケルとの再会~キャンベラ、シドニーの旅

    ・昭和44年6月12日(木)晴れ(キャンベラ観光とマイケルとの再会)今日、ブレインと共に市内見物に出掛けた。最初、我々は戦争記念館(オーストラリア人戦没者の慰霊の為に国が建てた記念館)へ行った。館前にドイツの列車砲(貨物車に長砲身・大重量の大砲が備えられている列車)と旧日本海軍の2人乗り用特殊潜航艇が我々を迎えてくれた。館内は戦争絵画、ジオラマ、その他展示物があるが、数としては少ない感じであった。目立つものとして、オーストラリアのアンザック作戦の物が多かった。日本関係として、1945年ボルネオ島で獲得した日本軍の豆戦車2台、各種兵器、軍刀、日の丸の寄せ書き等が展示されていた。私はその寄せ書きの一つに、『米英なんぞ怖れるな。男だ度胸だやっつけろ』と言う文言が印象に残った。絵画には幾つかの原爆投下後の広島や東京の焼...キャンベラ観光とマイケルとの再会~キャンベラ、シドニーの旅

  • キャンベラへ最後のヒッチの旅 、そしてホテル付きのパブの話~キャンベラ、シドニーの旅

    ・昭和44年(1969年)6月11日(水)曇り(キャンベラへ最後のヒッチの旅)私は6月9日に貨物駅(正式名はNSW州有鉄道ダーリング・ハーバー貨物駅『DaringHarborGoodsStation』)の仕事を辞めた。その夜から10日未明に掛けて凄い雷雨があった。稲光と共に響き渡る雷鳴に驚かされてしまった。冬(こちらでは6、7、8月が冬)でも、こんな雷雨があるのかと思うほどであった。オーストラリア滞在も残り僅かになって来たので、この国の連邦の首都・キャンベラまで、最後のヒッチの旅へ出掛ける事にした。6時に起きて、シドニー郊外のBankstown(バンクスタウン)まで電車で行き、そこからヒッチを開始した。リュックを背負っての旅は、大陸横断以来で『旅はやはり良いなぁ』としみじみと身体で感じた。でも若しかしたらこれが...キャンベラへ最後のヒッチの旅、そしてホテル付きのパブの話~キャンベラ、シドニーの旅

  • シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話~シドニー滞在

    ・シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話ダーウィンで稼いだ30豪ドルは、4月13日になくなった。私はレストランと貨物駅の仕事を見付け又、K氏との共同生活も始まった。その4月13日から6月18日までの収支の大雑把な纏めである。*1豪ドル=405円1米ドル=360円○手持ち金の部(4月13日現在)~トラベラーズチェック89豪ドル(米$100)。現金聖徳太子3枚74豪ドル=合計163豪ドル○収入の部・レストラン4月13日、20日、27日は6ドル25セントで合計18ドル75セント。5月4日は9ドルで合計9ドル。5月11日、18日、25日、6月1日、8日は12ドルで合計60ドル。レストランの稼ぎは87豪ドル。・貨物駅4月14日~24日分は74ドル。4月28日~5月2日(4月30日休む)分は33ドル60セント。5月5日...シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話~シドニー滞在

  • 無気力状態に陥る~シドニー滞在

    ・昭和44年6月3日(火)雨(無気力状態に陥る)今日、仕事に出掛けるのが億劫に感じた。それに雨が降っているのに傘が無かった。面倒くさくなったのでズル休みをし、10時まで寝ていた。5月28日のK氏(同居人)との意見相違は、良い教訓になった。最近、彼とは話をしなくなっていた。と言うより、今まで語り過ぎていた。話は変わるが、後2週間でオーストラリアを去り、帰国の途に着くのだ。私の旅も終りになり、現実の社会、生活が待っていると言う事だ。今までは、『外国へ行く』と言う事が私の生きがいであった。そしてそれが実現し、日本を脱出してからは旅を続ける事が私の一つの目標であり、又それに向けて色々と遣って来た。しかしその帰国が近づくにつれて、その張りも失せ、全てが終った感じになって最近、無気力になっていた。あれ程心配していた仕事も見...無気力状態に陥る~シドニー滞在

  • 空手の先生と出会う~シドニー滞在

    ・昭和44年5月14日(水)晴れ(空手の先生と出会う)貨物駅の仕事帰りは、ジョージストリートを横切るか、その通りを少し歩いてウィリアム・ストリートの交差点を右折して帰るのが、私の通常のルートでした。私がジョージストリートを歩いていたら、スポーツセンタージム(585GeorgeSt)があった。外からジムの様子を見していたら、4~5人の男性が色々な運動器具を使って身体を鍛えていた。又、ジムにはボクシングのリングもあった。すると中から、「どうぞ中に入って見て下さい。」とオーナーらしき人が招いた。ジムの中に入るとその彼が、「貴方は日本人ですか。」と聞いて来た。「そうです。」「こちらに来てコーヒーでも飲んで下さい。」と言って私を奥の応接室へ招いた。「この辺りで働いているのですか。」「そこの貨物駅で働いています。」「帰りは...空手の先生と出会う~シドニー滞在

  • 乗船券購入と滞在期間再々延長~シドニー滞在

    ・昭和44年5月5日(月)曇り~12日(月)晴れ(乗船券購入と滞在期間再々延長)・5月5日~今日、船会社へ行ったら、運良く1人分のキャンセルがあった。それが最後の乗船券であると言うので、その乗船券購入の予約をした。・5月7日~運良く乗船券が買えるのは、『早く帰国した方が良い』と言う神のお導きなのか。私は所持金を掻き集め、足りない分はルームシェアをしているK氏から一時借りて、船会社へ買いに行った。(参考)1A$=403円、1U$=360円、100U$=89A$、3万円=74A$、船会社名~RoyalInteroceanLines、乗船区間~シドニーから四日市、船名~Tjiluwah(チルワ149号)、クラス~ツーリスト、グレード~“TB”TBH40、出航予定日~1969年6月19日船賃~268A$=300US$=...乗船券購入と滞在期間再々延長~シドニー滞在

  • 義姉の死、そして帰国を決心~シドニー滞在

    ・昭和44年5月1日(木)晴れ(義姉の死、そして帰国を決心)貨物駅の仕事が終え、家族や友達から手紙が来ていないかと思い、以前宿泊していたYMCAに立ち寄って見た。そうしたら私の妹、昨年の12月18日に帰国していた最初の頃に共に旅をしていた鈴木、そしてロンドンのレント・ルームに住んでいた頃の階下の女性マリアンから手紙が来ていた。鈴木が無事に帰国した事は嬉しかったし、マリアンからの手紙も嬉しかった。しかし妹からの手紙は悪い知らせであった。【妹の手紙の内容】・・・前文省略・・・。兄さんが日本を去ってから9ヶ月間が経ちました。その間、兄さんは色々な事に出会い、経験し、又色々な事を感じて来られたでしょうね。こちらは悲しい事が起こりました。どうか驚かないで下さい。とても信じられない事です。2月8日(私はこの日、ニューデリー...義姉の死、そして帰国を決心~シドニー滞在

  • 滞在期間延長しに移民局へ~シドニー滞在

    ・昭和44年4月30日(水)(滞在期間延長しに移民局へ)滞在期間を延長して貰う為、仕事を休んで移民局へ行った。朝、バスに入りサッパリして、私の全ての所持金、ならびに岡本から前もって借りた見せ金の100ドルを持参し、背広を着て出掛けた。Gパンにジャンバースタイルでは心証を損なうと思い、背広も岡本から借りたのであった。今まで服装には構わず、Gパンやジャンバースタイルでやって来たが、ここに来て如何してと思うが、やはり今回の滞在期間延長は、『非常に大事である』と捉えていた。因みに私の背広はダーウィン滞在中、実家へ送ってしまったのだ。移民局係官は滞在期間延長申請の際、オーストラリアから出国する為の航空券又は乗船券の所持を重要視していた。この国から一番近い外国は、ポルトガル領チモールであった。そんな訳で取り敢えずダーウィン...滞在期間延長しに移民局へ~シドニー滞在

  • シドニー貨物駅の話(その2)~シドニー滞在

    ・5月16日(金)~6時15分に起きた。味噌や醤油ラーメン等の日本食を売っている店が郊外にあり、そこで買った即席ラーメンを作って食べ、それから25分掛けて、歩いて職場へ行った。着いたら、今日10時から我々NSW州有鉄道労働組合はストライキを実施する事を初めて知らされた。今日も又、ドライバーの横に座っての補助的な仕事をした。10時になった途端、仕事がまだ残っているのにスパッと一斉に仕事を止めてしまった。その統率が取れているのは、見事であった。確かに我々の賃金は安い、しかし我々荷役労働者は大した仕事をしていない、なのに『賃上げ要求は少し虫が良すぎる』と私は疑問を感じた。職場放棄後、午後2時から仕事を再開する、と言う事であった。4時間ばかり間があるので、私は一旦家に帰って出直した。職場に戻ったら、今日はもう仕事をしな...シドニー貨物駅の話(その2)~シドニー滞在

  • シドニー貨物駅の話(その1)~シドニー滞在

    ・シドニー貨物駅の話(4月14日~6月6日まで)こちらも週給制で1週間に一度、賃金は支払われていた。入ったばかりで、先週は支払われなかったが、今日4月29日、2週間分(4月14日~4月24日分まで。但し休みの土、日、祝日は除く)として74ドル貰った。1日7時間労働で8ドルとチョットとは余りにも賃金が安かったが、仕事は非常に楽で、何とも言え無かった。因みにダーウィンでは1日8時間労働で12ドル貰っていた。私の職場はシドニーの西側にあり、『ダーリング・ハーバー』と言う港近くの貨物駅(正式名『DaringHarborGoodsStation』)でした。キング・クロスの家から歩いて25分で職場へ行けた。通勤は電車賃を節約する為、大通りのウィリアム通りを使うか、裏通りを使って毎日歩いて往復していた。勤務時間は、普通8時0...シドニー貨物駅の話(その1)~シドニー滞在

  • 祝日と最近の状況~シドニー滞在

    ・昭和44年4月14日(月)小雨(初出勤の貨物駅の仕事)今日は珍しく雨が降った。右も左も分らない貨物駅での初仕事であったが、何とか1日無事に終った。他の仲間がたくさんいるし、仕事はきつくなく、まぁまぁであった。後ほどその仕事の内容を纏めて書きたい。・昭和44年4月25日(金)(祝日と最近の状況)今日は、アンザック・デー(第一次世界大戦戦勝記念日)で、国民祝日であった。働いていると久し振りの休みの日は、やはり良いものだ。朝寝坊をした後、洗濯(電気洗濯機が無く手洗い)をしたり、シーラ、家族、そして友達へ近況報告の手紙を書いたり、溜まった日記を書いたりして過ごした。今日以降の私の休日は、土曜日だけであるが、とにかく月曜日から金曜日までシドニー貨物駅の仕事、そして日曜日のレストランの仕事が見付かり、経済的にずっと安定し...祝日と最近の状況~シドニー滞在

  • レントルームとK氏の話~シドニー滞在

    ・レントルームとKさんの話レントルーム(大家はMrs.Jackson)の場所は、シドニーでも有名な地区、そして一番の歓楽街キングス・クロスから歩いて5分以内の閑静な所であった。又、ポート・ジャクソン湾をハーバーブリッジで渡ったシドニーの北部以外、シドニーの主な場所へはここから殆んど歩いて行けた。住所は1RosebankStKings-CrossSydneyで、65歳前後のジャクソンおばさんの持ち部屋を借りて滞在した。広さは10畳程と4畳半程の部屋、それに狭いがキッチンとバスルームが付いていた。ベッドは10畳程の部屋と4畳半程部屋に各一つあった。Kに奢ってもらった事もあるし、歳上なので敬意を表す形で、私が狭い部屋の方のベッドを使用した。各々の部屋は特に独立しておらず、ちょっとした仕切りがあるだけであった。ロンドン...レントルームとK氏の話~シドニー滞在

  • ステーキ・ハウスの仕事の話(その2)~シドニー滞在

    ・ステーキ・ハウスの仕事の話(その2)○4月27日(日)~私はシドニーのジョージストリートにある、ステーキ・ハウスで週一の日曜日だけの仕事を見付け、今日は3回目の仕事日であった。この日の終了時に、「5月4日の日曜日は11時45分に来てくれ。」とボスに言われた。仕事の時間が向こうの都合で変わる様になって来た。○5月4日(日)~今日は11時45分から午後2時頃まで仕事をし、それから一旦帰宅した。シャワーを浴びて時間を見計らって、再び夕方5時からステーキ・ハウスへ出掛けた。仕事が終り、私はボスに「話があります。」と言って、私とボスは店のテーブルを挟んで席についた。「日曜日はホリデーで働く者の休みの日なのです。しかし、私はホリデーに働いているのです。その割に私の賃金は安すぎる。ホリデーを加味した割増金が欲しい。それに労...ステーキ・ハウスの仕事の話(その2)~シドニー滞在

  • ステーキハウスの仕事の話(その1)~シドニー滞在

    ・ステーキハウスの仕事の話(その1)○4月13日(日)~私はシドニーのジョージストリートにある、ステーキハウスで週一の日曜日だけの仕事を見付け、今日から皿洗いの仕事をする事にした。時間は午後5時から9時45分までであった。この仕事はロンドンで既に経験済み、行ったその日から1人でこなした。本番の従業員がいるが、日曜日が彼の休みの日なので、私はその代わりであった。皿洗いと言っても、ほとんど皿洗い機があるのでその操作と、食器類を拭くのが主な仕事であった。この店は月曜日から日曜日まで休まず営業していた。店の規模は4人掛けのテーブルが20程、他と比較して大きくないが、小さくもなかった。店の奥に調理室があり、その脇を通って更に奥へ行くと、私の仕事場になっていた。そこは、食器洗い場とビールやワインの貯蔵庫があり、ウェイトレス...ステーキハウスの仕事の話(その1)~シドニー滞在

  • 生まれて初めて『ナニ』の検査を受けた~シドニー滞在

    △性病検査の様子(本当は一列に並んで)ーPaintedbyM.Yoshida・昭和44年4月11日(金)曇り(生まれて初めて『ナニ』の検査を受けた)昨日、職業紹介所から紹介されたNSW州有鉄道シドニー本社のEmploymentInquiryOffice(雇用受付所)へ、指定された時間に行った。私の他に10人程が集まって来た。 所定の説明後、別の部屋にて身体検査があった。体重や身長測定から一通りの検査が終って、ある検査係の所に来たら、「全員服を脱いで下さい。」と言った。皆が脱ぎだしたので私も上着、下着、ズボンを脱いでパンツ一丁になった。他の人達を見ると全員フルチン(何も付けない素っ裸の状態)で、驚くほど脱ぎっぷりがよかった。私はと言えばパンツを履いていたので、「パンツも脱ぐのだ。」と言われてしまった。身体検査でオ...生まれて初めて『ナニ』の検査を受けた~シドニー滞在

  • シドニー貨物駅の仕事を見付ける~シドニー滞在

    ・昭和44年4月10日(木)晴れ(シドニー貨物駅の仕事を見付ける)今日も仕事探しに、早めに例の個人が経営している職業紹介所へ行って見た。スタッフは電器クリーナーでビルデングの床を清掃する仕事を斡旋してくれたので、私は早速、その会社事務所を訪ねた。そこの事務所のスタッフから私の国籍、住所、名前、この仕事の経験の有無、どのくらい長く努められるのか等、簡単な質問を受けた。「採用の可否は、もう少し経ってから来てくれ。」と質問された後、この様に言われた。「もう少しとは何時間後ですか。」「30分から1時間後です。」そしてそれから早めの30分後に再び事務所へ行ったら、「既に他の人にお願いしました。」と言われ、断られてしまった。「如何して私は駄目なのですか。」と聞いた。「貴方の査証関係で長く働いて貰えそうもないので、他のギリシ...シドニー貨物駅の仕事を見付ける~シドニー滞在

  • レストランの仕事を見付ける~シドニー滞在

    ・昭和44年4月9日(水)晴れ(レストランの仕事を見付ける)今日、EmploymentOffice(公営の雇用事務所)へ行って見た。大勢の白人外国人労働者が職を求めて来ていた。私も一応、申込書に必要事項を記入し順番を待った。「労働許可証を持っていますか。」と私の番が来て担当係から尋ねられた。「持っていません。」と答えた。「それでは移民局へ行って、労働許可申請書を提出して、労働許可証を貰って来て下さい。」と担当者。しかし査証延長も侭(まま)にならないのに我々日本人が、観光ビジター用の査証で労働許可証が下りるとは考えられなかったので、申請しに移民局へ行かなかった。仕方なくロンドンの様に自分で見つける事にした。レストランでの仕事を求め、シドニーで一番の繁華街・ジョージストリートを中心に20軒程回った。ロンドンの時は恥...レストランの仕事を見付ける~シドニー滞在

  • YMCAでゆっくり過ごす。仕事探しを始める~シドニー滞在

    ・昭和44年4月4(金)~7日(月)晴れ(YMCAでゆっくり過ごす)シドニーに昨日(4月3日)やっと着いたが、今日の4日から4日間イースターで公官庁を初め主な商店やレストランは休みで、街全体が静かであった。野宿が続いた為か、今日は風邪を引いた様で体調がすぐれなかったが、お陰様で寝込む程ではなかった。私はゆっくりとYMCAで過ごした。このYMCAで日本へ2度も行った事があると言うオーストラリア人のピーターと知り合った。彼はグッドガイであった。4月6日(日)、日本人の岡本さん(仮称、以後敬称省略)と出逢った。・昭和44年4月8日(火)晴れ(仕事探しを始める)やっとイースターが明けたので、仕事探しの行動に移らなければならなかった。と言うのはアメリカやカナダへ行くにしろ、帰国するにしろそこまでの航空券、若しくは乗船券を...YMCAでゆっくり過ごす。仕事探しを始める~シドニー滞在

  • オーストラリア人の〝開拓者魂〟(マイトシップ)の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・オーストラリア人の〝開拓者魂〟(マイトシップ)の話18世紀に始まったこの国の開拓は、決して生易しいものではなかった。過酷な気候風土の中、個人や家族など少人数では到底開拓を進める事等、出来なかったはずである。その様な状況下、見ず知らずであっても荒野で出会った時には助け合う、そうでないと人は生きて行けなかったのだ。「助け合う」と言っても荒野での事、再び出会うことなどまずあり得ない。お返しの助けを期待するのは、無理な事だ。しかしいつか何処かで困った時に、全く別の人に助けられる事だってあるかもしれないのだ。開拓を志す人々にとって、それこそが「助け合う」と言う事が、生きるうえで大切な事であったのだ。要するに、人は荒野に於いて、他の人に優しくなれないと、生きて行けないのだ。開拓者にとって荒野で出会う人は、〝Mate〟(「...オーストラリア人の〝開拓者魂〟(マイトシップ)の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 「オーストラリア大陸横断をヒッチして」の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・「オーストラリア大陸横断をヒッチして」の話3月25日に『ヒッチでシドニーへ行こう』と決断した時、10~12日位は掛かるであろう、と予想していた。ダーウィン出発前、人の住んでない広大な原野や砂漠・土漠地帯を行くので効率良くヒッチが出来るのか、寝る場所、或は食料調達をどうするのか等々について非常に不安があった。『とりあえずその日、その時、その場所で判断すれば良いではないか』と言う、実にいい加減な結論に達した。しかもホテル、モーテルでの宿泊は最初から考えていなかった。結果的に気候は寒くなく、行った先々の空き地に廃車や駐車の車があったので、運良くその中で泊まれた。ダーウィン出発する前、車の中で寝られるとは想像もしていなかった。と言いますのは、あれほどヨーロッパでヒッチをしたが、1度も車の中で一晩過ごした事が無かったか...「オーストラリア大陸横断をヒッチして」の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 大陸横断に成功~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年4月3日(木)曇り(大陸横断に成功)今朝、狭い車の中で寝た所為か、腰が痛かった。今日中にシドニーへ着けるのか否か、それが問題であった。と言うのも車の中で寝るのは、いささか嫌になって来たからのだ。この辺り(バーク)まで来ると2時間に1台、或は1時間に1台の割でしか走っていない、と言う事はなかった。お蔭さまで順次6台の車に時間を費やさず乗せてもらった。中でも記憶に残ったのは、Girilambone(ジリランボーン)~Nyngan(ナインガン)間を乗った車であった。このドライバーの名は、Mr.StevePayton(ペイトンさん)と言って朝鮮戦争に従軍し、日本にも行った事のある人だった。叉、彼は日本語をほんの少し話せた。そんな彼からお昼を御馳走になってしまった。貧乏人根性だから奢ってくれる人は大歓迎で大好...大陸横断に成功~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 老兵が日本女性の思い出を語る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年4月2日(水)晴れ(老兵が日本女性の思い出を語る)毎日良く晴れて、本当に助かる。ここまで来ると日差しは、秋であった。そして朝晩は涼しくなって、それなりに着ていても野宿は寒さを感じた。昨夜は久し振りにベッドで横になれたのに、返って良く寝られなかった。むしろ狭い車の中の方が寝られる様になっているとは、不思議なものだ。ヒッチは早発ちの方が良いであろうと、6時に起きた。奥さんもご主人もまだ寝ていたので、起こさなかった。申し訳ないが、勝手に朝食兼昼食用のパンをいただき、感謝の置手紙を書き、スコット家を後にした。後から考えたらもう少しゆっくり起きて、奥さんの作った朝食を済ませ、感謝の言葉を述べ、そしてゆっくり出立すれば良かったと後悔した。如何してこうも先を急ぎすぎているのであろうか。カンガルー狩りの誘いがあった...老兵が日本女性の思い出を語る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • チャールヴィルの心温まる一般家庭に宿泊~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年4月1日(火)晴(チャールヴィルの心温まる一般家庭に宿泊)ウィントンのその辺の空き地に駐車されていたトラックの運転席で寝ていたら5時30頃、この車の持主に起こされてしまった。「黙って車の中に寝て、申し訳ありませんでした。」私は素直に謝った。「いいのだよ。これからカンガルー狩りにこの車で行くのだが、一緒に行くか。」とおじさんに誘われた。「急ぎ旅なので、行きたいが駄目なのです。」と断ってしまった。今回のヒッチの旅は、以前と違って如何も心にゆとりがない、ただシドニーを目指して急いでいる、そんな感じの旅であった。その訳は査証期間が短いので期間延長しなければ、所持金不足の為、早くシドニーへ行って早く仕事を探さねば、と焦っていたからであった。しかし、シドニーに着いてから『カンガルー狩りなんて2度と経験が出来ない...チャールヴィルの心温まる一般家庭に宿泊~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 砂漠を荷台に揺られて行く~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月31日(月)曇り(砂漠を荷台に揺られて行く)早朝、私は変な夢を見た。自分で自分の首を絞め、苦しくなって目が覚めた。気が付いたら額から冷汗が流れ落ちていた。それにしても変な夢であった。これもダーウィン滞在中、同部屋のアボリジニに首を絞められそうになった事があったから、と思った。6時30分に起きて、クロンカリーの町はずれから今日もヒッチを開始した。3時間待っても駄目で、今日も車は全く通らなかった。10時頃、1台目がやっと止まってくれたが、500m先の交差点までであった。それから間もなくして日の丸を振って遣って来たトラックを停めた。10マイル程走った砂漠で降ろされた。トラックは左折し、道無き道をモウモウと砂煙を巻き上げ地平線のかなたへ消えて行った。降ろされた場所は見渡す限りの砂漠であった。そして私の進...砂漠を荷台に揺られて行く~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 先へ進めない厳しいヒッチの旅、そして死のオーストラリア横断の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    △オーストラリアの砂漠ーCFN・昭和44年3月30日(日)晴れ(先へ進めない厳しいヒッチの旅)6時半に起き、マウント・アイザ郊外からヒッチを始めた。1台目の車は20マイルばかり走ったら、「車の調子がおかしい」と言って停まってしまった。オーストラリア横断ヒッチ中、これで2回目であった。車検や整備体制が確立してないのか、オーストラリアの車はよく故障する様であった。そしてそのドライバーは、「修理の為、引き返す。」と言って私を荒野に置き去りにして、来た道を引き返しマウント・アイザへ行ってしまった。昨日もそうであったが、今日も歩いていたり、道路端で立っていたりすると、私の回りに蝿が集まって来て鬱陶(うっとう)しかった。それ程に私の身体は異臭を発散し、不潔になってしまったのか。3日間、野宿しながらの旅で、確かに清潔な体では...先へ進めない厳しいヒッチの旅、そして死のオーストラリア横断の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 荒野の道を突っ走る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月29日(土)晴れ(荒野の道を突っ走る)この辺り(テナント・クリーク)まで来ると、朝晩は涼しかった。星空の下で寝る(野宿する)には、既に適さない気候になって来た。ここはスリー・ウェイズと言って、レストランとホテル兼用の店とガソリン・スタンド、その住民の住宅2~3軒があるだけの所であった。朝食は『TheWayThouHouse』と言うレストランの外で知り会った奥さん(昨夜、このホテルに夫婦で宿泊していた)に、コーヒーとパンを御馳走になった。今、私にとって1セントでも大事なので、御馳走になれるのは本当に有り難かった。ついでにお昼用にサンドウィッチを注文したが、これは自分で払った。奥さんにお礼を言ってレストランを出た。すぐ近くの交差点のクロンカリー方面の道でヒッチを始めた。直ぐに先程奢ってくれた奥さんの...荒野の道を突っ走る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 消える川と地下の大水源の話、そしてオーストラリアの広さの話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・消える川と地下の大水源の話オーストラリアの東海岸沿いに〝一本の山脈〟(大分水嶺山脈)がある。その山脈の東側に降った雨は、川となり海に流れ込む。日本人の概念として『川は海に流れ込む』と当然、思っている。しかし、その西側に降った雨は川となるが、如何せん高低差がなく、しかも海まで遠い。その為、広大な地域を流れる内に、その川は自然に無くなってしまう。要するに多くの水が伏流水となって地下に潜ってしまうのだ。オーストラリアにはそんな川がたくさんあり、その川を「リバー」と言わないで、「クリーク(Creek)」と言っている。所で、その伏流水はクィーンズランド州南西部からノーザン・テリトリー、ニュー・サウス・ウェールズ州の北西部、更に南オーストラリア州にまで広がる巨大な盆地の地下深くに蓄えられる。この世界一の規模を誇る盆地をT...消える川と地下の大水源の話、そしてオーストラリアの広さの話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • カンガルーと競争だ~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    △カンガルーと競争だ!(実際は荷台の上でなく、乗用車)ーPaintedbyMihoYoshida・昭和44年3月28日(金)晴れ(カンガルーと競争だ)6時半に起きて、パンをかじっただけの朝食を済ませた。7時に昨日、車から降りた場所でヒッチを開始した。1時間過ぎた頃、トラックが止まり、7マイル程乗せて貰った。そこで30分過ぎたら、2台目の若者が運転する車に乗って、32マイル進んだ所でパンクしてしまった。そのドライバーは、「修理の為、時間がどのくらいかかるか分らないので、他の車に乗せて貰いな。」と言ってくれた。私は乗せて貰って何の手助けをしないで行ってしまう事に、心苦しかった。しかし例え居ても、彼の為に何ら手伝いも出来ず、反って足手まといと思い、彼の言葉に従った。 そこから3台目に乗って、20マイル程走った所で降ろ...カンガルーと競争だ~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • アボリジニ達との最後の出会い~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月27日(木)晴れ(アボリジニ達との最後の出会い)今日こそシドニーへヒッチで行こうと決めていたので、7時に起きた。良く晴れていたので有難かった。出発する前、2日分の宿泊代を余計に払ってあったので、払い戻して貰おうと、マダムに頼んだが駄目であった。2度とダーウィンに来る可能性はゼロに近かったが、「又来た時にはここに泊めて下さい。」とお願いした。そうしたらマダムは「2日分はただで泊めさせて上げる。」と言ってくれた。ロンドンでも同じ様な台詞があった。「それでは」と言ってゲスト・ハウスを去り、歩き出したら水筒(ペット・ボトル)を持って来るのを忘れ、取りに戻った。再び街をトボトボ歩いて郊外へ。その途中、仕事中に手を切ってしまい、お世話になった会社(Dalgety)の親切にしてくれた人が、車で向こうから遣って...アボリジニ達との最後の出会い~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • ダーウィン最後の日~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月26日(水)曇り(ダーウィン最後の日)今日、保険会社で休業補償手当金として、小切手で20ドル28セント受け取り、現金化しに銀行へ行った。 それにしてもまだヒッチで行くか、バスで行くか、まだ迷いがあった。エイジェンシィへ行って仕事をしようかと思ったが、仕事は無かった。それなら昼までに晴れて来たら、ヒッチでシドニーへ行こうと決心し、一旦ゲスト・ハウスに戻った。しかし午後は雨雲が垂れ下がり、今にも降り出しそうな空模様の為、今日シドニーへ行くのを断念した。明日行く事にして、午後は一日中ベッドに居た。   夜、2本立て西部劇の映画を見に行った。野外で入場料は25セント(100円)、意外に安かった。・ダーウィンでの収入・支出総決算収入~74ドル。支出~44ドル内訳(宿泊費3週間分で30ドル、・食料品・小包輸...ダーウィン最後の日~ダーウィンの旅

  • ヒッチでシドニーへ行く決心をする~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月25日(火)晴れ(ヒッチでシドニーへ行く決心をする)ダーウィンは本当に小さな町、稼ぐ為にも、他の国へ旅する為にも、結局シドニーへ行かなければならない様な町であった。シドニーへはヒッチで行くか、それともバスで行くか、私は迷っていた。同部屋のロスの話によると、バス運賃は65ドル、日数は4日間掛かると言う。それにしても65ドルは、私に出せる額でなかった。ヒッチと言えば、3月8日(土)に南オーストラリア州へ行こうと思い、ダーウィン郊外でヒッチをしてみたが、全く車が走ってなく、町に戻って来た経緯があり、そのヒッチ率の悪さ、そして暑さと空腹で参った事があった。オーストラリアは国土が広く、殆んど砂漠の様な所で人も住んでいないし、何と言っても車が走ってない、それに地域によって気候の違いもある。従って、今回のオー...ヒッチでシドニーへ行く決心をする~ダーウィンの旅

  • 「病院と保険会社へ」と「小言を言われ、ばか呼ばわりされての大工仕事」~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月21日(金)晴れ(病院と保険会社へ行った)今日は抜糸の為、病院へ行く日で、美人ナースに会えるのを楽しみにしていた。しかし今日はあの美人ナースに会えなかった。他のナースから包帯を取り替えながら「大分良くなって来たから、もう来る必要はありません。」と言われ、私は美人ナースに2度と会えなくなってしまった。病院から治療証明を貰って、保険会社へ休業補償手当の申請に行った。「来週の水曜日に支払われる。」との事であった。私の滞在期間は4月7日まであるが、何にも出来ないで半月が過ぎてしまった。滞在期間延長して貰いにダーウィンの政府移民局へ期間延長しに行った。もっと長い滞在期間をお願いしたのであったが、1ヶ月間延長のみの『5月7日まで』であった。それでもダーウィンで期間延長が出来て一安心、まずは良かった。でもダー...「病院と保険会社へ」と「小言を言われ、ばか呼ばわりされての大工仕事」~ダーウィンの旅

  • 草刈作業で負傷と美人のナースさん~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月17日(月)晴れ(草刈作業で負傷をする)早々、エイジェンシィへ行ったら草刈作業を紹介され、その現場へ行った。会社事務所裏の庭が草ぼうぼうで、電動のこぎり付き草刈機で草を刈る仕事であった。作業を始めて15分過ぎた頃であろうか、草を刈る目の前に有刺鉄線があった。電動草刈機を自分の脇に置き、その有刺鉄線を手で取り除こうとしたその次の瞬間、置いた草刈機が動いて有刺鉄線に触れ、その有刺鉄線が私の手と足に襲い掛かって来た。手に痺れを感じ、見たら手の数ヶ所から出血していた。痛いやら、驚くやら、電動草刈機は暴れまくっているやら、もう大変であった。「助けてくれ!誰か来てくれ!」と事務所の方へ向かって大声を出し、助けを求めた。私に作業の説明をした男性スタッフが直ぐ現れ、草刈機を止めた。私の手は痺れを感じ、多量の血が...草刈作業で負傷と美人のナースさん~ダーウィンの旅

  • 電線敷設作業、その他~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月12日(水)晴れ一時スコール(仕事無し、今度の部屋)昨日は一昨日の倉庫の労務をこなした。そして今日エイジェンシィへ行ったが、仕事は無かった。しかし、明日の建設現場の電線敷設作業の仕事を紹介された。今日、インドのお土産や不必要の背広等の衣類関係を段ボールに詰めて航空便で実家へ送った。10日の夜に怖い思いをしたが、結果的に落ち着ける別の建物の2階の部屋へ移動が出来、本当に良かった。部屋は綺麗で、私の他に西洋人2人が居た。その内の1人は、RossSmith(ロス)と言って、ロンドンから来ているイギリス人の彼と仲良くなった。この部屋には、チョッとしたキッチンがあり、テラスで食事も出来た。それで宿泊代は、変わらなかった。・昭和44年3月13日(木)曇り(電線敷設作業)今日、電線敷設の仕事があった。電線は重...電線敷設作業、その他~ダーウィンの旅

  • 原住民のアボリジニに危うく殺されそうになった~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月10日(月)晴れ後スコール(原住民に危うく殺されそうになった)午前中エイジェンシィへ行ったが、仕事は見付からなかった。私は仕事がないと困るのだ。他国へ行く為の、或いは帰国の為の航空券、若しくは乗船券を買うお金が既に無くなっていた。その様な訳で、月曜日から金曜日まで定期的に働ける仕事が欲しかった。午後、再び行った。街外れにある倉庫の荷物運びの仕事を紹介してくれた。現場まで歩いて行き、その仕事をこなした。明日又、7時に来てくれと頼まれた。3時間の労働で「4ドルは、明日分と併せて支払う」と言ってくれた。私が仕事から帰ってきた時、アボサンは部屋に居なかったが、暫らくしてから帰って来た。彼は何処かで飲んで来た様で、少し酔っていた。私はシャワーを浴び、明日早めに出掛けなければならないので、午後9時過ぎにベッ...原住民のアボリジニに危うく殺されそうになった~ダーウィンの旅

  • アボリジニとの相部屋の様子~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月9日(日)晴れ(アボリジニとの相部屋の様子)今日は日曜日、エイジェンシィは休みで仕事にあり付けず、店も休みで食料は買えず、私は一日中、腹をすかした状態であった。夜、港の方へ散歩に出掛けた。この港は小さいので中型、小型の漁船が数隻停泊しているだけで、大型船は1隻も停泊していなかった。静かなもので、誰一人いなかった。あれから原住民のアボさんとは話をしていないし、どうも彼は薄気味が悪かった。私の部屋の様子は、裸電球が部屋の中央からぶら下がっていたが、本が読める明るさでなかった。ベッドがあるだけで、テーブルや洋服ダンス等の家具類は無かった。本当に殺風景な、人が生活する部屋ではなかった。私は警察に御厄介掛けた事がないが、例えて言うなら『監獄部屋』の感じであった。部屋の壁板を足で蹴った跡が3ヶ所、パカッと割...アボリジニとの相部屋の様子~ダーウィンの旅

  • アボリジニ(原住民)と相部屋になる~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月8日(土)晴れ(アボリジニ(原住民)と相部屋になる)昨夜は一昨夜より蚊の来襲が酷く、あちこちと喰われ寝られなかった。2日連続、まともに寝ていないので参った。私の妹は1年前にサウス・オーストラリア州(S・A)の『Miss.ChristineNutt』と言う高校生と文通をしていて、彼女のお父さんは農業を営んでいるとの事でした。私は農場も大きく仕事があると自分勝手に思い、住所は分かっていたのでS・Aへヒッチで行こうと思い付いた。ダーウィン郊外に出て、車の来るのを待った。ここは亜熱帯地域、そしてS・Aへ行く道路は木々が生い茂り、密林(ジャングル)の中を一直線に密林の彼方へまで伸びていた。まさに無限の大地、と言った光景であった。シーンと静まり返ったジャングルからライオンやヒョウが出現してもおかしくない、そ...アボリジニ(原住民)と相部屋になる~ダーウィンの旅

  • ダーウィンの話と対日感情嫌悪の理由の話~ダーウィンの旅

    *ダーウィンの話Darwin(ダーウィン)の人口は8,000人弱だが、2千~3千人位しか住んでいない感じがした。それでもダーウィンはNorthernTerritory(『ノーザン・テリトリー』と言って、連邦政府の直轄地で特別区)の中で一番大きい町、しかも州都の機能も兼ねていた。それにも関らず、ダーウィンに各国大使館や領事館は無かった。ダーウィンは小さい町なので、何処へでも歩いて用が足せた。市内バスなんて走っていないし、タクシーも見掛けなかった。鉄道も貨物専用で、キャサリンまでしか敷設されてなかった。ホテルなんて洒落た宿泊施設は無いし、観光する所も無いので当然、観光客が来る所ではなかった。何しろ不便な所で、見るべき物は原住民(アボリジニ)と大自然だけであった。この様な所だと知らず、オーストラリアへ安く行けると思っ...ダーウィンの話と対日感情嫌悪の理由の話~ダーウィンの旅

  • 初めての仕事は日本船荷役作業~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月7日(金)晴れ(初めての仕事は日本船荷役作業)8時30分、Darwin(ダーウィン)の町まで6~7km程であろうか、ヒッチして行った。太陽が燦々と降り注ぎ、夏の気候(ここは亜熱帯地域)で暑かった。ダーウィンは、明るい感じのする静かな町であった。家と家の空間も広く取られ、庭の芝生が美しかった。そんな家並みの道路を歩いている人は、人っ子1人、見当たらなかった。昨日までゴチャゴチャ(超過密状態)したインドに居た事を思うと、この光景が返って奇妙に感じられた。すると向こうから私と同じ年齢位の労働者風の男が歩いて来た。「グッド・モーニング。」と私。「グッド・モーニング。」挨拶が返って来た。「私は仕事を探しているのですが、何処へ行ったら探せますか。」と躊躇なく彼に尋ねた。「それならPublicEmployme...初めての仕事は日本船荷役作業~ダーウィンの旅

  • 偉い所へ来てしまったぞ・・・~ダーウィンの旅

    ・昭和44年(1969年)3月6日(木)晴れ(偉い所へ来てしまったぞ・・・)*参考=オーストラリアの1ドルは、403円(1セントは、約4円)。 『寝坊してはいけない』と思い昨夜、YMCAの下働きの少女に言葉が通じないが、時計の針を指差しジェスチャで「明日の朝7時に起こしてくれ。」と頼んだ。しかし彼女は6時に来て、1時間も早く起こされてしまった。彼女は最下層の部類に入るのか、いつも入口付近で下働きをしていた。その彼女は私が滞在中、決して2階へ上がって来なかったし勿論、部屋へも入れなかったのだ。きつく言われているのであろうその彼女が、〝掟を破る行為〟(インドでは決められた仕事以外、出来ない)で、起こしに来てくれた。怒る気はなく、彼女にとっては高額過ぎるのであるが、感謝の気持で1ルピー上げた。彼女はニコニコして部屋か...偉い所へ来てしまったぞ・・・~ダーウィンの旅

  • 私が選んだインドの10大名物の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・私が選んだインドの10大名物の話インドは西ヨーロッパ諸国、社会主義諸国、或いはイスラム諸国と比べて色んな風習や文化の相違があり、そう言う違った面で色々な凄さと面白さがあった。その結果、カルチャーショックを受けたり、感動したり、悲しくなったり、色んな事を感じたり、体験したりした。とにかくインドは、今まで旅した国の中で、一番印象に残った。インド滞在も後1日、『やっとインドから逃れられる』と言う思いと同時に、『何か名残惜しい感じ』がした。如何してなのであろうか。インドの都市のあの異常な雑踏、街の不潔や路上生活者、乞食の群れ、リキシャに乗ればトラブルがあったし、列車を乗ろうとすれば駅員の盥回しの洗礼を受けた。まるで良い所が無い様なインドであったが、帰国してから誰かに尋ねられれば、「私は、又インドへ行きたい」そう答える...私が選んだインドの10大名物の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • インド人との取引の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・インド人との取引の話2万円で買ったカメラは、6年過ぎると幾らで売れるのであろうか。良く分らないが、日本の質屋では3千円から4千円程で売れるのか。 それがインドでは170ルピー(8,330円)で売れた。『儲かった』と思うべきなのに後から考えたら、それがその様に思えなかった。如何してなのか・・・。インドの映画会社は儲かっている様で、(助)監督はポケットから無造作に厚い札束を取り出し、その中からポンと惜しげもなく170ルピーの大金を払った。後で考えたら『もう少し高値で売れば良かった』と後悔した。私は何だか、最初から交渉に負けた気がしてならなかった。カルカッタを去る日が近づいた3月5日、テント張りの屋台のお土産屋で、買う目的で眺めていた。15㎝から20㎝程の大きさの象の木彫り物、珍しい石の指輪、その他たくさんインドの...インド人との取引の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • カルカッタのさらに輪をかけて人口過剰になった話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・カルカッタのさらに輪をかけて人口過剰になった話1971年(私が訪れた2年後)、〝バングラデシュ独立戦争に伴うインド・パキスタン戦争〟(第3次印パ戦争)が勃発し、再び800万人の難民が東パキスタンからカルカッタへ流れ込んだ。大カルカッタ圏の人口の内、その4割が難民であると言う。2001年の年次調査によると、カルカッタの市域人口は460万人、郊外を含む人口は1330万人である。そしてインドの人口は10臆6600万人であると言う(「国際地学協会」参考)。そして2006年9月のNHKニュースによると、『インドの人口は12億人』と発表された。因みに私が訪れた1968年は、『インドの人口は6億人』と言われていた。あれ程に〝産児制限運動〟(街の至る所に看板があった)を展開していたにも拘らず、この爆発的な人口増加はどうなって...カルカッタのさらに輪をかけて人口過剰になった話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • カルカッタの人口過剰の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・カルカッタの人口過剰の話今日(1969.3.1)、YMCAから歩いて街へ行って帰って来たが、それにしても人の数が凄かった。デリーやボンベイの大都市でその凄さに慣れていたが、カルカッタの凄さは、正に一級品であった。それはインド独特の臭いがする中、人人人又人、男男男又男が途切れる事なく街の全ての通り(裏通りも含む)を溢れんばかり(物凄い雑踏、超過密状態)に歩いていた。更に通りにはそんな人々と共にこれ又、大勢の物乞いをする乞食や浮浪者、家を持たない路上生活者達がそれに輪を加えていた。通りに女性が見掛けられないと言う事は、その男性の数だけ女性は家に閉じこもっている、と言う事なのだ。街の中で数少ない女性、特に綺麗なサリーを纏った女性を見かけると、その部分だけパット花が咲いた様な華やかさを感じた。街へチョッと出掛けただけ...カルカッタの人口過剰の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • シーク教徒の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・シーク教徒の話インド旅行中に於いてトラブルがあった時、よく助けて貰ったのが英語を話せるシーク教徒の人達であった。シーク教とはヒンドゥ教とイスラム教の融合をめざした宗教で、インドの中では2%の少数派、禁酒禁煙、不殺生を規則に持つ宗教であると言う。彼等はカースト制度の古い仕来りに縛られた伝統的なヒンドゥ教徒に比べて進取(職業の積極的な姿勢、取組)の気性が強く、近代化に対する適応も早かった。従って彼等は海外への商業活動も盛んに行なっていた。その影響か海外で見掛けたインド人は、大抵シーク教徒であった。特にロンドンで多くお見受した。  カーストの職業よる身分差別を受けないから、色んな職業に進出しているのだが、彼等の中にはバスやタクシーの運転手、闇両替屋、或はストリートボーイの元締めのオッサン達もいた。シーク教徒のシンボ...シーク教徒の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • リキシャマン(リキシャのおじさん)の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・リキシャマン(リキシャのおじさん)の話(注)1ルピーは49円(公定)、39円(闇取引)リキシャとは、リヤカーに似た2人用の座席がある二輪車を自転車で牽引する乗り物で、人力車の自転車番である。リキシャ・マン(以下「おじさん」と呼ぶ)は、そのリキシャの運転手の事です。リキシャはインド中、至る所で走っていた。都会の駅前はリキシャでいっぱいであった。大通りをリキシャが車の合間を縫って走っていた。便利で安く、大衆向けの乗り物であった。しかし、私はタクシーより必ずしも安いと思わなかった。リキシャの料金はキロ制で、1キロまで60パイサ、以後1キロ毎に50パイサであった(たぶん)。しかし別に料金メーターが取り付けてある訳でないので、交渉次第で値段はいくらでも変わった。黙っていれば何倍もの料金を請求(通常4~5倍吹っ掛けられる...リキシャマン(リキシャのおじさん)の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • 多民族・多言語と子供達の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・多民族・多言語と子供達の話インドは、一つの国に色々な人種の人々が住み、色々な言語を話す人々が住んでいた。そして、州や地域が異なれば人種や言語も違って来て、インド人にとっても他の州・地域は、まるで他国の様になるのだ。従ってインドの紙幣には、15の言語で『10ルピー』とその紙幣の額面を表示してあり、又公共的な鉄道の案内板には5~7の言語で書かれた案内表示があった。ヒンディー語は小学校の高学年から、英語は中学校から教えられている、と言われる。しかし、カーストの下層階級(シュードラや不可触民)、そしてバイシャでも身分が低い層の子供達はどうも学校へ行っていない様であった。この様な小・中学校へ行ってない多くの子供達は、昼間から商店、食堂等で大人よりキリキリとして働いていた。そして働く職場が見付けられない子供達は、自分達自...多民族・多言語と子供達の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • 人や牛のウンコ、トイレ及びゴミの臭い話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    △2015年○月○日の読売新聞記事・人や牛のウンコ、トイレ及びゴミの臭い話列車がニューデリーを出発後、私は暫らくの間、車窓から密集したバラックの家々、人々の様子等を見ていた。そうすると又、線路端のあちこちで人々が尻を出し、こちらを向いてしゃがんでいる姿が見えた。ニューデリーに到着する時もそうであったので、「ハハン、ウンコをしているな」と直ぐに分った。バラックの家にはトイレが無いのか、彼等は線路端で、或は空き地で構わずウンコをしていた。これもインドらしい光景の一つであった。私はアムリッツァルの国境でインドの入国手続きを済ませた後、ウンコがしたくなったので、そこの係官に「トイレは何処ですか。」と尋ねた。そうすると係官は「あちらです。」と言って、指でその方向を示した。そこは出入国管理事務所(実際は掘立小屋の建物)の裏...人や牛のウンコ、トイレ及びゴミの臭い話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • 貧しさの話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・貧しさの話バラックの家々に住んで居る多くのインド人、数多くの路上生活者や乞食で溢れている街。そんなインドがいかに貧しいか、いかに厳しいか。FAO(国連食料農業機構)の統計(1973年現在)で次の様に報告されていた。1日1人の最低必要カロリーの1,900カロリーに達しない栄養不足を調査した所、86カ国の開発途上国で5億1,000万人が栄養不足状態。この内インドが何と2億5,000万人以上を占めていたと言う。インドの人口7億だから10人中4人近くは栄養失調なのだ。世界銀行によると、インド人の年収は平均226ドル。全体としては「絶対的貧困」を免れているが、全人口に於ける5分の1弱の都市人口が総所得の半分を占めているので、残りの5分の4強の人達は極端に貧しいのだ。要するにインドでは、極端に金持ちの一部の人間と極端に貧...貧しさの話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • カースト制度の話~インドで見た・感じた・経験した話

    ・カースト制度の話日記の中で、『上流階級』、或は『下層階級』の言い回しを書いて来たが、インドでは身分制度、所謂カースト制度が実際に存在していた。*以下、いくつかの参考文献を参考に纏めました。カーストには基本的に4つの身分がある。1番偉いのがブラーマン(司祭)、2番目がクシャトリア(武士)、3番目がバイシャ(平民)、1番下がシュードラ(奴隷)である。更にその下にハリア、又はアチュータ(英語でUntouchable、日本語で不可触民)が大勢いる。しかし実際には職業そのものがカーストになっていて、職業の数だけ身分があると言う。現代風的職業を大まかに分ければ、1番偉いのはブラーマン(僧侶)、2番目はクシャトリア(軍人、実業家)、3番目はバイシャ(一般庶民)、1番下はシュードラ(洗濯人、掃除人等)である。身分制度に入らな...カースト制度の話~インドで見た・感じた・経験した話

  • インド最後の日~カルカッタの旅

    ・昭和44年3月5日(水)曇り(インド最後の日) BOACの営業所へ行って、ダーウィンまでの航空券(336米ドル)を買った。M&M券では足らず、10ドルばかりをトラベラーズチェックで支払った。あれ程悩んでいたオーストラリア行きはこれで決定し、明日いよいよオーストラリアへ行く事になった。ルピーが残りそうなので〝インドのお土産〟(インド人との取引の話を参照)を買いに行った。夕食は中華レストランで食事をして、インドの最後の夜を過ごした。インド最後の日~カルカッタの旅

  • ヒッピーから紳士に変身?~カルカッタの旅

    ・昭和44年3月4日(火)晴れ(ヒッピーから紳士に変身?)午前中、部屋でゆっくり休んだ。オーストラリアへ行って、職探しをしなければならないので、『少し容姿を整えなければ』と思い出した。午後、近所で目に付いた床屋へ行った。ここの宿泊所(YMCA)は、表通りから少し裏通りへ入った所にあった。宿泊所の前は広くないが、餓鬼どもの遊び場として適度な広さがあった。広場右手の方は、古ぼけた汚い民家が並んでいた。出掛けようと表に出たら昨日と同様、餓鬼ども数十人が頭からつま先まで色々な色に染まりながら又、粉を掛け合っていた。私は粉を掛けられない様にソット行ったが、餓鬼どもに見つかってしまった。「ヒッピー、ヒッピー」と餓鬼どもは、はしゃぎながら粉をぶつけようと、私を追って来た。『掛けられてたまるか』と素早く表通りへ逃げ出した。それ...ヒッピーから紳士に変身?~カルカッタの旅

  • オーストラリアへはBOACに決定~カルカッタの旅

    ・昭和44年3月3日(月)晴れ(オーストラリアへはBOACに決定)カルカッタからオーストラリアへの行き方で、私は2つのルート選択で悩んでいた。①カルカッタからバンコクへ飛んで、それからマレー半島を南下しシンガポールへ。シンガポールで自分の旅への気持、手持金、その他の状況を考え、『帰国した方が良い』と判断したら、船(M&M)で帰国する。『オーストラリアへ行きたい』と判断したら飛行機で行く方法。②ここからダイレクトにオーストラリアへ飛行機で行く、この場合一番安く行ける航空会社と空路はと言う事であった。悩んだ末に①を選択した為、タイの査証を直ぐ取る必要があった。今日も又、JALへ行きその後、タイの領事館へ査証を取りにタクシーで行った。降りる時、メーターが2.5ルピーを示していた。いつもの様に「高い、まけろ。」と言った...オーストラリアへはBOACに決定~カルカッタの旅

  • YMCAに宿泊のネパール人とJALで相談~カルカッタの旅

    ・昭和44年3月1日(土)曇り(YMCAに宿泊のネパール人とJALで相談)このYMCAに旅人は私1人だけであった。昨日からカルカッタを去る日まで6日間宿泊したが、誰も旅人は来なかった。これは珍しい現象であった。何故だろう、不思議であった。私の部屋は階段を上って2階の右手一番手前の部屋で、そこから先は空室であった。左手側には10部屋程あった。各部屋はネパール人留学生が宿泊していた。最初に彼等に会ったのは、私が2階の窓から景色を眺めていた時でした。日本人が向こうから来たと思い話し掛けたが、フンでもスンでもないので英語で話した。話をしたら彼らはネパール人で3ヶ月間ここに滞在して、カルカッタ大学で勉強しているとの事でした。それにしてもネパール人は、本当に日本人に良く似ている、と感心する程であった。YMCAでゆっくりして...YMCAに宿泊のネパール人とJALで相談~カルカッタの旅

  • パトナーからカルカッタへ~カルカッタの旅

    ・昭和44年(1969年)2月28日(金)曇り後雨(パトナーからカルカッタへ)6時30分に起き、渡辺と共にドミトリーを出た。渡辺はネパールへ行くのでガンジス川を渡る船着場の方へ、私はパトナー駅へ行くので宿泊近くの大通りで各々左右に別れた。振り返ると彼は、船着場の方への坂をトボトボと歩いて行った。彼の旅愁を帯びた後ろ姿は、終に見えなくなった。「お互い元気で旅を続けよう。さようなら。」と別れ際に言ったが、真にそう思った。本当は私も出来れば彼と共にネパールへ行って見たい心境であったが、金銭的な事、ネパールの査証の事、そしてオーストラリアへの入国時期が迫っている等で、彼と共に行く事が出来なかった。駅へ行くのにリキシャを拾った。着いて60パイサ払った。リキシャのおじさんは、「少ない」と言っている様であったが時間の無駄、交...パトナーからカルカッタへ~カルカッタの旅

  • 浮浪者の子供との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    △浮浪者の子供との別れ-PaintedbyM.Yoshida・昭和44年2月27日(木)晴れ(浮浪者の子供との別れ)   列車は1時間30分遅れで朝の8時頃、パトナー駅に到着した。まだ例の子供は私の後方に付いて来た。アラーハーバード駅から私が何処へ行くのか、ずっと見張っていたのだ。『私の後を追い掛けても、食べ物はもうあり付けないぞ。私だっていつまでも君にかまっていられないのだ。』と彼に言いたかった。私と渡辺は駅の食堂へ入った。2人で5ルピー。食事に満足したので、ボーイ(ウェイター)にインドで初めて50パイサのチップをした。 我々は駅を出て、リキシャを使ってホテル探しをする事にした。子供はまだ私の後から付いて来た。彼の目を見ると、『僕を見捨てないでくれ。』と悲しい目で訴えているかの様であった。『頼むから、もう付い...浮浪者の子供との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • 浮浪者の子供との出逢い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月26日(水)晴れ(浮浪者の子供との出逢い)昨夜、インド人の話し声、列車の振動、盗難の心配等で当然良く寝られなかった。夜間の3等客車の旅はしんどかった。10時頃、タリー(インドのカレー定食)で朝食を取った。前の座席の子供は腹を空かしているのか、食べたそうに私の方をじっと見ていた。その子供は9~10歳位であろうか、裸足で汚れたヨレヨレのシャツと擦り切れたズボンを履いていた。明らかに浮浪者か乞食だ。どうせ汽車賃も払ってないで乗っているのであろう。カレーは辛すぎて余り食べられないし、他におかずが無いので、殆んどご飯も食べられず、当然残った。その残ったカレー、ご飯、チャパティ、その他を盆ごと子供に示し、「食べるか」と聞いた。彼は分ったのか、盆を受け取った。彼はかぶりついてタリーを食べた。そして彼は満足し、...浮浪者の子供との出逢い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • 駅員の盥回しと田舎の臭い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月25日(火)晴れ(駅員の盥回しと田舎の臭い)Manmad(マンマード)駅へ早く行けば、カルカッタ行きの3等寝台車を予約出来ると思って、6時半に起きた。アウランガーバード7時30分の列車でマンマード(切符代3.30ルピー)へ行った。ボンベイとジャルガウンのほぼ中間のマンマード駅に到着し、お問合せ・予約窓口で、カルカッタまでの寝台券について尋ねた。そうすると係員は「2番ホームへ行け」と案内した。2番ホームへ行ったら、そこは切符集札所であった。乗車券、寝台券の事でどうして切符集札事務室を案内したのか、不審に思った。又、『インド国有鉄道の盥回しが始まったな』と思った。とりあえず尋ねたら、「出札窓口へ行け」と言われた。出札係は何の説明も無く、再び2番ホームの事務所を案内した。完全に盥回しであった。私はつい...駅員の盥回しと田舎の臭い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • 渡辺も去り一人ぼっちになる~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月24日(月)晴れ(渡辺も去り一人ぼっちになる)渡辺は午前7時に去って行った。2人が去って私1人になってしまい、ドミトリーの部屋に取り残された感じで、何か『ポカーン』となった様な、そんな心境になった。二人が去ってから私は、カルカッタに着いたらオーストラリアへ行くのであるが、そのオーストラリア行きに不安、心配が生じて来てしまった。『行って見なければ分らない』と思っていたが、荻や渡辺が去って、その不安が私の心に湧いて来た。1人寂しく近くの食堂へ昼食を食べに行った。渡辺も去り一人ぼっちになる~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • コーラ、バナナ事件と荻との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月23日(日)晴れ(コーラ、バナナ事件と荻との別れ)久し振りに10時までユックリ寝ていた。今日も昼食時、インド人と張り合った。食堂で私と荻はコカ・コーラを頼んだ。いつも食堂ではビンのまま持って来たが、この店はコップに入れて持って来た。飲んでみると水っぽい感じがした。『インド人め、人のコーラを飲んでその分量だけ水で薄めたな。』と我々は1口飲んで直ぐ分った。しかし私と荻は全部飲んでしまって、これが失敗であった。しかも生水を飲まない様にしていた私は、飲んでしまった。これは、油断であった。払う時になって、「貴方達は注文した我々のコーラを半分飲んだから、半分の代金しか払わんぞ。」と我々は言った。「コーラ全部飲んで、如何して半分だけなのだ。」と店員。「人のコーラを飲んで、その分、水を入れたコーラなんか全部払え...コーラ、バナナ事件と荻との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • エローラの遺跡見学と食堂での水の出し方~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    △エローラ石窟群の中の一部、カイラーサナータ寺院)-CFN・昭和44年2月22日(土)晴れ(エローラの遺跡見学と食堂での水の出し方)6時30分に起きて、駅前から7時30分の『一日周遊観光バス』に乗り込んだ。このバス代は3.4ルピーで安かったが、本当はこれぐらいが妥当な運賃であった。昨日のアジャンタ石窟群前の停留所からアウランガーバードまでのバス代4.2ルピーは『ヤラレタ』と言う事だった。周遊観光バスが最初の寄った箇所は、アウランガーバードから直ぐ近くの小高い山の上にある『ダウラタバード城』と呼ばれ、11世紀頃の自然の地形を利用したイスラム系最古の城であった。△イスラム最古のダウラタバード城-CFN次に1時間半位でElora(エローラ)に到着した。AD580年から850年までの間に造られたエローラ遺跡は、ヒンドゥ...エローラの遺跡見学と食堂での水の出し方~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • アジャンタの遺跡見物~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    △アジャンタの石窟群-CFN・昭和44年2月21日(金)晴れ(アジャンタの遺跡見物)列車は予定より1時間30分遅れて、午前6時30分Jalgaon(ジャルガウン)駅に到着した。ここからAjanta(アジャンタ)行きのバス(2.5ルピー)に乗り換えた。1時間半位で着いたのであろうか、バスは遺跡入口前の停留場に到着した。停留場前にホテルがあり、そのホテル前でウロウロしていたら、上の方から日本語が聞こえて来た。見上げたら日本人のお坊さんであった。彼は2週間前からここに滞在して、仏教の勉強をしているとの事でした。私と荻はお坊さんが宿泊している部屋に荷物を置かせて貰い、3人で遺跡近くの食堂で朝食を取った後、見物に出掛けた。【アジャンタ遺跡は、黒紫色の断崖に横穴を28掘って造られた仏教石窟寺院群であった。BC2世紀からAD...アジャンタの遺跡見物~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • ロンとの別れと座席の奪い合い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    △テヘランから共に旅をして来たロン(右)~サルベーションアーミーにて・昭和44年(1969年)2月20日(木)晴れ(ロンとの別れと座席の奪い合い) 今日、仕事があると思ってサルベーションアーミーの前に行ったら、誰もいなかった。ロンに聞いたら、「今日も休み」との事であった。今日の休みについては私の耳に入ってなかった。荻が今日、「アジャンタ、エローラを見てからマドラスへ行く」と言うので、いつまでもボンベイに滞在していても意味が無いと思い、私も荻と共にそこを見物して、それからカルカッタへ行く事にした。本当に急遽な話で、決断も行動も早かった。 午前中、私は早速StudentConcession(学生割引許可証)を取りに駅へ行き、午後、カルカッタまでの学生割引3等切符を買った(私は偽の学生証を持っていた)。午後6時30分...ロンとの別れと座席の奪い合い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • ボンベイを去る日が近付く、そして最近の収入の纏め~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月17日(月)晴れ~19日(水)晴れ(ボンベイを去る日が近付く、そして最近の収入の纏め)17日~8時に4人で相乗りしてタクシーで撮影所へ行った。運賃は10ルピーで、割り勘して払った。エキストラの仕事は相変わらずで、席に座ってワイワイやっていればそれで済んだ。楽な仕事だ。昨日、値上げ交渉したお陰で、今日は60ルピー貰った。撮影所で今日も又、ロンは何処かでコカ・コーラ2本ゲットして来て、1本私にくれた。どうせ何処かでくすねて来たのであろう。彼はこの様な事が上手いのであった。帰りもタクシーで帰って来た。夕食に又、1人で中華レストランへ行ったら、今日は休みであった。『新年(中国の正月)の為、3日間休む』と張り紙に書いてあった。シーサイドホテルに私と荻の他に渡部と言う日本人(仮名、以後敬称省略、26歳)が宿...ボンベイを去る日が近付く、そして最近の収入の纏め~ボンベイの旅

  • 宿泊所についてとバイト代値上げ交渉~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月16日(日)晴れ(宿泊所についてとバイト代値上げ交渉)ここのシーサイドホテル(安宿)は、『インドへの門』へ12~13分で行かれ、市の南端に位置していた。他の場所と比較したら割と清潔で静かな、そして路上生活者や乞食を余り見掛けらえない所であった。暑い所為か夜、外にベッドを出して寝ている多くの人々が居た。ホテルの名前は格好良いが、大部屋(ドミトリー)でベッドも部屋も汚く、いろんな臭いがした。そんな部屋にベッドが1階に15台程あった。私のベッドは2階へ上る階段脇にあり、2階にも部屋があった。1階は勿論、2階の話し声も直に聞こえて来た。インド人は寝るのが遅いし、ペチャペチャといつまでも話をしていた。大体、12時(0時)近くにならないと寝ないのだ。そして朝は遅くとも、7時頃に起きていた。いずれにしてもこの...宿泊所についてとバイト代値上げ交渉~ボンベイの旅

  • ショーを見に行く~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月15日(土)晴れ(ショーを見に行く)エキストラのバイトは、昨日と同じであった。夜、荻とKhartoum(ハルツーム)のショーを見に行った。開演は9時30分(インドは夜の部のショーや映画上映時間が遅い)、入場料金は3ルピーであった。ショーを見に行く~ボンベイの旅

  • 映画のエキストラの仕事とカメラを売る~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月14日(金)晴れ(エキストラの仕事とカメラを売る)私と荻は欧米人と共にサルベーションアーミー前に9時集合し、映画会社が手配したバスに乗り込んだ。間もなくバスは出発した。歩道は多くの寝ている乞食、路上生活者や歩行者、そして道路は車とリキシャで相変わらず溢れていた。間もなくしてボンベイ島を出たら、バラックの貧しい家々が延々と続いた。ボンベイはもう何から何まで凄く、そしてあらゆる面で雑多な都市であった。40分位で撮影所に到着した。そこは市内から25キロ程(タクシーで10ルピーの区間)の郊外へ出た所であった。(*1ルピーは約50円、闇両替は39円)午前中、我々は何もする事はなかった。昼過ぎから1時間30分程エキストラの練習をした。練習は難しいものでなかった。エキストラの撮影現場は、日本のキャバレーの雰囲...映画のエキストラの仕事とカメラを売る~ボンベイの旅

  • エレファンタ島の石窟寺院見物~ボンベイの旅

    △ボンベイの偽物の万年筆屋さん~「撮るな」、と言って手を出した瞬間・昭和44年2月13日(木)晴れ(エレファンタ島の石窟寺院見物) 私、ロン、竹谷、そして竹谷の知り合いの日本人と共に4人で、『インドへの門』付近から8時30分発のモーター・ボートに乗って〝ElephantaIsland〟(エレファンタ島、ヒンドゥ教の石窟寺院があり、ボンベイの観光名所の一つ。)へ行った。 海は穏やかで、島まで東海上10キロ、約1時間半のクルージングを楽しんだ。この船賃は往復で3.20ルピーであった。島は亜熱帯風の小さな島であった。船着場から長い石段を昇って行くと、そこに石窟郡があった。パンフレットによると7つの石窟があるが、1番手前の石窟がメインで、ヒンドゥ教の彫刻の宝庫となっていた。壁面いっぱいにシヴァ神に関係する神々が彫られて...エレファンタ島の石窟寺院見物~ボンベイの旅

  • 路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月12日(水)晴れ(路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨)ボンベイの街も通りには、路上生活者や乞食が多かった。実際に彼等の区別は出来ないのだ。「バクシーシ」と言って金を乞われれば乞食だし、ただそこにいれば路上生活者だ。彼等は似た様な人達であった。大半の彼等は、生気を失った表情でうずくまっているか、何も敷かずに寝転がっているだけであった。中には寝転がったままで身動きしない、まるで死人の様な人もいた。彼等の内で、弱衰死をしていても不思議でなかった。又、乳呑み児を抱えて、しゃがみ込んでいる母親達もいた。母親の栄養状態が悪いのか、萎んだオッパイを吸っても乳が出ないので「オギャ、オギャ」と力無く、やっと泣いている赤ん坊もいた。或は栄養状態の悪い乳児の顔に群がっている蝿を追い払おうともしない、何の気...路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨~ボンベイの旅

  • 一日中カメラ売りと荻さんとの再会~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月11日(火)晴れ(一日中カメラ売りと荻さんとの再会)朝から暑かった。朝食を食べて、サルベーションアーミー(救世軍)へ泊まれるか如何か行ってみたが又、駄目であった。所で、オーストラリアへは3月19日までに入国すれば良いのだ。まだ1ヶ月以上、インドに滞在出来るのだ。しかし1ヶ月間滞在に必要な所持金は、オーストラリアへの旅費の事を考えると、余り手持のお金を使いたくなかった。私の売れる物、と言ったら腕時計かカメラであった。腕時計は旅をするに何かと必要だ。後は売れるものと言ったらカメラだけであった。インドは不潔だ、衛生面が悪い、乞食が多い、カレーは非常に辛く満足に食べられない、それに口に合った食べ物が無い。そんなインドで手持のお金を使いたくなければ、早くインドを出れば良いではないか、と思うのだ。しかしその...一日中カメラ売りと荻さんとの再会~ボンベイの旅

  • ボンベイの洗濯屋さん~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月10日(月)晴れ(ボンベイの洗濯屋さん) 朝や夜のニューデリーは、寒かった。だがかなり南下して来たのか、夏の気候の様にマハーラーシュトラ州は列車に乗っているだけで汗が額からポタポタ落ち、暑かった。 朝食は食べたが、昼食は抜いた。列車はボンベイ駅に近づきつつあるらしく、速度を落として走っていた。バラックの家々が直ぐ線路脇まで建てられ、それらの家々が延々と続いた。そして線路内を大勢の人が構わず歩いていた。何とも形容し難い光景であった。投石されても怪我をしない様、乗客各自が窓の木製のカーテンを閉めた。インドでは大都市周辺では投石があるらしく、列車がデリーに近づいた時も、乗客が一斉にカーテンを閉めていた。列車は、2時30分頃に到着した。ボンベイのターミナル駅は、ロンドンのヴィクトリア駅に似ていて、街の建...ボンベイの洗濯屋さん~ボンベイの旅

  • インドのカレー定食の話~ボンベイの旅

    ・インドのカレー定食の話インドの大衆食堂や列車の食堂では、カレーセットと言うか、カレー定食があった。普通、カレーと言えば「タリー」と言うこのカレー定食を指す。カレーの種類は野菜カレー、マトン・カレー、チキン・カレーがあったが、豚肉や牛肉の入ったカレーは無かった。インド人は宗教上ベジタリアンが多いので、特にマトンやチキンのカレーを注文しなければ、野菜カレーが出る。今日(1969年2月9日)、食堂車へ行ってタリーを注文したら野菜カレー(1.5ルピー)であった。出された野菜カレーは、お盆にアルミ製のボールが5つ(値段によってボールの数が異なる)載せてあり、その内の3つのボールに強烈に香辛料やスパイスがきいた、種類の異なったカレーが入っていた。残りの2つのボールには、ヨーグルトと豆のスープが入っていた。叉そのお盆の上に...インドのカレー定食の話~ボンベイの旅

  • 列車転覆事故を見る~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月9日(日)晴れ(列車転覆事故を見る)ロスは、「後1泊してデリーへ戻る」と言う事で、私とロンは彼と別れた。我々がリキシャで駅へ向かう途中、馬車に乗った日本人2人が向こうからやって来た。ロンが、「もしもし」と日本語で話しかけたが、知らん振りして行ってしまった。我々はアグラ駅からBombay(ボンベイ=改名し現在はムンバイ)行きの列車に乗り込んだ。我々は1人4.5ルピーの3等の寝台車を取った。私にとって3等寝台車は混雑している3等客車より余程良かった。この寝台は身体を横に出来る十分なスペースがあり、それは良いのであるが、毛布が無く、又ベッドはインド人が裸足のまま使用し、鉄道側はカバーを取替えないし、洗濯もしないから極めて汚れていて、不潔さを感じた。そして鉄格子の窓になっていて、まるで牢屋の様であった。...列車転覆事故を見る~ボンベイの旅

  • お酒とタバコの話~アグラの旅

    ・お酒とタバコの話インドはイスラム圏の様に飲酒についてそれ程厳しくないが、州によって法律で禁酒されている所もあるそうです。いずれにせよインド人は、お酒(アルコール類)を飲まない習慣になっている様であった。そんな関係か、街にはお酒を売っている酒屋が無かったし、街の食堂(高級レストランは除く)でも、お酒は置いていなかった。外国人が泊まる高級ホテル(外人観光客用。我々が泊まるドミトリーでは飲めなかった)ではお客さんの為に用意されていた。飲みたい時は今日(1969.2.8)みたいに高級ホテルへ行って飲む事(小瓶のビール1本が5~6ルピー)が出来た。しかしこの国の低所得者は、1日働いても2~3ルピーの稼ぎで、ビール1本すら飲む事が出来ないのだ。高い、インドは国民にとってお酒が非常に高いのであった。所で、ニューデリーやボン...お酒とタバコの話~アグラの旅

  • サリーとインド美人の話~アグラの旅

    △可愛い子供とカラフルで美しいサリーを纏った婦人達―アグラ城にて・サリーとインド美人の話 アグラ城見学の時、サリーを着た美人のご婦人達が印象的であった。さすがにインドのみならず、世界的にも有名な観光地へ来る様なインド人は、上流階級を感じさせる人達であった。特にご婦人達が着ているサリーは、色々な柄や模様が描かれ、艶やかで、街で見慣れた汚らしいサリーとは断然違っていたのが印象的であった。サリーとは、インド女性が纏う民族衣装の事だ。美しい色鮮なサリーは、男性が頭からスッポリ被って着る白のシャツ(汚れて茶色に近い)をだらりと裾に出して、白のパジャマの様なだぶだぶなラッパズボンとは対照的であった。私は『サリーは着る』とばかり思っていたのであるが、『巻く』のが本当なのだ。サリーは、幅1m長さ5m程の1枚の布で出来ていて、そ...サリーとインド美人の話~アグラの旅

  • アグラ見物と元インド国民軍兵士~アグラの旅

    △私と右は同行者の中村(仮名)。王様が王妃の死を悲しんで建てられた墓宮、調和の取れた白大理石造りが美しかったータジ・マハールにて・昭和44(1969)年2月8日(土)晴れ(アグラ見物と元インド国民軍兵士) 今日、アグラへ行くので6時に起きた。私とロンは、ニューデリー駅までタクシーで行った。着いて運賃が「1ルピー」と言うので、ロンは「高い」と言って怒ったが、まぁ妥当な運賃であった。インドのタクシー運賃は、『最初の1.5キロまで80パイサ、以後1キロ増すごとに50パイサ加算』と言う計算から行くと、我々が乗った距離はそんなになかったので、80パイサか1ルピー30パイサでなければならなかった。運賃が丁度1ルピー、と言う事は無いので、ドライバーは半端な運賃は切り上げて請求するのが常であった。インドのタクシーは、メーターも...アグラ見物と元インド国民軍兵士~アグラの旅

  • ニューデリー最後の日~ニューデリーの旅

    △ニューデリーの路上の床屋さん(一番左)、その左隣は歯医者さん・昭和44年2月7日(金)晴れ(ニューデリー最後の日)今日、私とロンはアグラへ行く事になっていたので、6時に起きた。しかしロンはまだ寝ていた。「ロン、起きろ。6時過ぎだぞ。アグラへ行くのだろう」と私。「午前3時に帰って来たのだ。眠いよ。明日行こう、Yoshi」と言って彼は又、寝てしまった。そんなに急ぐ旅でないので、明日でも私は一向に構わなかった。今日は本当に何もする事がなかった。映画「007」でも見に行こうと思ったが又、超満員で入れなかった。インドは自国のインド映画も洋画も繁盛していた。夕方、食事にインデア・コーヒ・ハウスへ行ったらロンが居た。暫らくすると昨夜のアメリカ女性も来た。どうも2人は示し合わせていた感じであった。私が来てしまったからロンも仕...ニューデリー最後の日~ニューデリーの旅

  • デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話~ニューデリーの旅

    ・デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話デリーは、オールドデリーとニューデリーを合わせて総称として呼ばれている。オールドデリーはニューデリー駅北方に位置し、レッドフォート(赤い城塞)の城壁に囲まれた、所謂『城郭都市』です。ニューデリーは、オールドデリーの南方に隣接され、イギリス統治時代に新しい都市造りとして出来た都市です。当然、都市造りは近代イギリス様式が取り入れら、そしてニューデリーのみならず、インドの大都市の建物は、イギリス建築様式に似ていて、何処へ行ってもまるでイギリスに居る様な感じがした。ニューデリーの中心は、ConnaughtPlace(コンノート広場)で、そこから四方八方に道路が延びていた。広場の周囲には、事務所、映画館、レストラン、商店等が軒を連ねていた。その中心の円形の広場は、芝生と花のある...デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話~ニューデリーの旅

  • インドの現状の話~ニューデリーの旅

    ・インドの現状の話所で、2月6日(木)「駅で盥回しにされる」の文中に「訳の分らない」と「何でもあり」と言う語句を使ったが、それについて私がその様に思っている、或いは感じているだけで、他の人々(外国人旅行者や現地インド人)は特に思っていないかも知れません。しかしあえて言うならば、次の事を指摘しておきます。それらは、一国のインドで多言語、多民族、カースト制度と不可触民の存在(憲法下では廃止されているが、確かに根強く現存している)、人口過多(街のあちこちで産児制限奨励のポスターや看板が目立つ)、貧富の格差、圧倒的に貧乏人の多さ、路上生活者や乞食の多さ、都市の超人口過密、宗教の雑多、原始社会から近代社会の存在、都市と農村のあらゆる格差等々であり、それらが混然一体となっている現状の事です。そして訳の分らない、或はなんでも...インドの現状の話~ニューデリーの旅

  • インドの鉄道の話~ニューデリーの旅

    ・インドの鉄道の話私とロンはニューデリー駅で乗車券を買うのに、軽くインド人にあしらわれてしまった。この様に乗客を盥回しにする様な案内、或は態度・接客の悪さを駅長やもっと上層部に訴えても埒(らち)が開かないし、加えて私の語学力の無さでは充分に訴える事が出来ないであろうと思った。例え英語で充分に話が出来たとしても、『何でもあり』のインドでは、1人1人の乗客否、乗客ではなく、如何でも良い利用者の声・意見等を一々聞いてくれる様なインド国有鉄道組織でないのだと理解した。駅員の態度、言葉の悪さ、非能率、無責任、自分の窓口しか感心がない縄張り主義、偉ぶっている権威主義等、インドの鉄道には問題が色々あった。インドの鉄道は国有なので、駅員はお役人様なのだ。カースト制度でも上級クラスに入るのであろう。上級クラスのお役人様だから利用...インドの鉄道の話~ニューデリーの旅

  • 駅で盥回しにされる~ニューデリーの旅

    ・昭和44年2月6日(木)晴れ(駅で盥回しにされる)明日、私とロンはAgra(アグラ)見物してからBombay(ボンベイ)へ行く事にしたので、私一人で切符2枚を買いにロンと私の旅客運賃学生割引証を持ってニューデリー駅へ行った。インドは州や地域が違うと言葉も人種も違い(多言語、多民族国家)、言語は15以上、方言は100以上あると言う。その様な理由で駅の案内板には、英語やヒンディー語の他、5~6の言語で書かれていた。しかし私の知りたい情報・案内は見当たらなかった。従ってボンベイまでの乗車券を買うのに、何処の窓口へ並べば良いのか分らなかった。駅員(インドの鉄道員は制服を着ていないので、駅員と一般人との見分けが分らない。)に聞きたいが、窓口以外見当たらないので、困惑状態であった。とりあえず1階の適当な窓口に並んだ。各窓...駅で盥回しにされる~ニューデリーの旅

  • オーストラリアの査証を取得~ニューデリーの旅

    ・昭和44年2月5日(水)晴れ(オーストラリアの査証を取得)午前中、査証が出来ていると思い、オーストラリア大使館へ行ったが、館員は午後2時半頃に出来ると言うので一旦戻った。インデア・コーヒ・ハウスでチャイを飲みながら時間を潰し、2時半頃に再び行った。しかし査証は出来ておらず、1時間30分も大使館で待たねばならなかった。そして午後4時、やっと出来た。査証はビジター、滞在期間1ヶ月間、3月19日まで入国、取得料金7ルピーであった。ロンは日本大使館で査証を20分か30分程で取れたのに、オーストラリアは日数・時間が随分掛かった。ロンは2,000ドル以上持っていたが、私は120ドルと少々しか持ってなかった。国別の大使館、所有のドル額、或は人によって随分違いがあった。ニューデリー滞在中でも一般的な食事は、やはりチャイとチャ...オーストラリアの査証を取得~ニューデリーの旅

  • ストリートボーイとブラックマーケットの話~ニューデリーの旅

    ・ストリートボーイとブラックマーケットの話「ストリートボーイ」とは、我々旅行者がインドの都市の何処でも街を歩いていると呼び掛け、主に闇両替、或は時計、カメラ、万年筆等の高級品からシャツやジーパンまでの売り買いを元締めに斡旋してくれる「両替・売買仲介人」の事である。彼等は、仲介料を元締めから貰って生活しているのだ。したがってストリートボーイを通さないで、元締めと直接交渉した方が高く買い取ってくれる場合があった。一方列車やその他の所で知り合ったインド人と直接に取引した方が有利であった。2月4日の夜、関が「時計を売りに行きたい」と言うので、彼に付き合った。彼は国境で時計6個を没収されたはずなのに、まだ4個位持っていたのだ。彼も中々の食わせ者(?)であった。我々はそのストリートボーイを介して交渉したが、交渉は成立せず結...ストリートボーイとブラックマーケットの話~ニューデリーの旅

  • 大使館員を怒鳴りつける~ニューデリーの旅

    ・昭和44年2月4日(火)晴れ(大使館員を怒鳴りつける)毎日、良い天気が続く。炎天下は暑いが、日陰に入ると涼しかった。微熱の方も完全に良くなった。今日早速、日本大使館へ行った。大使館に雇われている案内係のインド人職員に来館目的を告げた。彼は立ち去り、そして直ぐに戻って来て、ある日本人大使館員の所へ私を案内した。そこはつい立で仕切られていたが、個室ではなかった。インド人職員を含めて、周りで働いている何人かの日本人職員の姿も見えた。〝40~45歳位のその大使館員〟(以下「T氏」と言う)は、両手を後ろに回して枕代わりにして、イスに踏ん反り返り、しかも靴を履いたままテーブルの上に足を投げ出して私を迎えた。多分インド人職員は、「ヒッピー紛いの貧乏旅行者が来た」とT氏に告げたのであろう。T氏は、『若者の貧乏旅行者が又、金か...大使館員を怒鳴りつける~ニューデリーの旅

  • あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う~ニューデリーの旅

    ・昭和44年2月3日(月)晴れ(あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う)私、ロン、竹谷の3人でInformationOfficeへ行き、その帰りにインデア・コーヒ・ハウス附近を歩いていたら、「?(はてな)どうも何処かで会った事のある日本人が向こうから歩いて来るではないか。誰だろう・・・」とチョッと訝った。近くに来たら、それは和田(アテネで会って、私のイスラエル行きを見送ってくれて、トニー・タニーに似ている人)と寺島(旅の途中、ユースで2~3度会っている。最後に逢ったのがアテネ)の2人ではないか。「和田さんと寺島さんでしょう。」と私は呼び掛けた。「ビックリした。そう言えば、貴方はYoshiさんではありませんか。再び会えて嬉しいなぁ。アテネ以来ですね。」と和田。「Yoshiさんとはアテネの前に、何処か会っていますよね...あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う~ニューデリーの旅

  • チャイの話~ニューデリーの旅

    ・チャイの話〝チャイ〟(インドの紅茶)について記しておく事にする。インドでは街の至る所に〝チャイハナ〟(茶店)があり、チャイが気楽に1杯20パイサから30パイサ(約10円~15円。この様な所は立飲みのお店)で飲めた。イギリス人も顔負けする程インド人はチャイを好んで飲んでいた。イギリスのティーとインドのチャイは如何違うのか、私の知っている範囲内で纏めてみた。イギリスのティーは、ティーポットから紅茶をティーカップに注ぎ、好みに応じてミルク(牛乳)と砂糖を加え、上品に飲むのがイギリス流だ。これにケーキやクッキーが添えてあれば、最高の持て成しとなるのだ。勿論、場所、雰囲気、紅茶の種類・品質、上等なティーカップ等で持て成しの度合いは違って来る。インドのチャイハナのチャイは、紅茶にミルクと砂糖をタップリ加え、グツグツ煮込む...チャイの話~ニューデリーの旅

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