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  • 黄金のバルト海~ヘルシンキの旅

    黄金のバルト海~ヘルシンキの旅

    △ヘルシンキ港にて出港前の私(右)と鈴木・昭和43年(1968年)7月21日(日)晴れ(黄金のバルト海)パン、ミルク、キュウリ、そして、トマトで朝食を取った。ソ連の旅行は、ホテルでナイフとフォークを使ってのコンチネンタル・ブレックファーストであったが、個人の旅になると食事内容も貧しくなった。船でストックホルムへ行く為、タクシーで港の船会社へ行った。私と鈴木は既に日本でヘルシンキ~ストックホルム間の船切符を買ってあったが、照井と鶴島さんは、まだ買ってなかったので買う事になった。その鶴島さんは、四国の松山で個人商店を営んでいる人で今回、ストックホルムのホテルでボーイをしている弟さんに8年振りに会いに来たと言う事であった。鶴島さんは英語が分らないので私に、「明日、船で行くから弟に迎えに来て貰いたいので、電報文を...黄金のバルト海~ヘルシンキの旅

  • 白夜を楽しむ~レニングラードの旅

    白夜を楽しむ~レニングラードの旅

    △レニングラードのネヴァ川の畔にて~案内してくれたガイドと・昭和43年7月19日(金)曇り(白夜を楽しむ)目を覚ますと、広大な草原の中を列車はひた走っていた。その景色は変わらない緑一色の世界、改めてソ連の国土の広さを感じた。車中の居心地はまぁまぁで、良く寝られた。7時30分、レニングラードのモスクワ駅に到着した。レニングラードは、ソ連第2位の都市(帝政ロシア時代の首都・ペトログラード)であった。ホテルに到着し、荷物を置いて直ぐにバスで市内観光になった。ガイドさんは、美人のロシア人で数々の名所・旧跡を案内してくれて、忘れる事が出来ない旅の1ページになった。彼女はいつも説明の最後に「Thisisoneofthemostfamousandbeautifulbuildings」と言って終るのが口癖と言うか、案内の...白夜を楽しむ~レニングラードの旅

  • バルト海船上で17歳の若者と口論

    バルト海船上で17歳の若者と口論

    △ストックホルム入港前で生粋な彼と仲直り記念写真・昭和43年7月22日(月)晴れ(・昭和43年7月22日(月)晴れ(バルト海船上で17歳の若者と口論)*参考=スウェーデンの1クローネ(Krona)は、約70円(1オーレは、70銭)。昨夜、私を含めて2等キャビンの人達は、毛布なしで直に床に寝た。非常に寒く、そして長い夜であった。こんなに寒い中を一晩過ごした経験は過ってなかった。勿論、船員に毛布を貸してくれるよう尋ねたのですが、2等用には備えがないとの事で、ブルブルと震えながら一晩過したのでした。やっと朝の5時頃になったので、私は体を温めようとシャワー浴びた。しかし、その時は温まったので良かったが、後になって反って寒くなってしった。体が丈夫の方ではないので風邪を引くのでは、と心配してしまった。日本の夏は夜でも...バルト海船上で17歳の若者と口論

  • 私の旅はここに終る~日本の旅

    私の旅はここに終る~日本の旅

    △私と左は同室の橋本さん~ソ連船ハバロスク号にて・昭和44年(1969年)7月6日(日)晴れ(私の旅はここに終る)朝食を済ませ、出立準備を整えてから女将に勘定をお願いした。彼等に「ここの旅館代は私も払う」と言ったが、彼等は「Yoshiにはお世話になったから。」と言って私の分を払わしてくれず、6人で割って各自出し合って払ってしまった。一昨日も昨夜も、「Yoshiにはお世話になっているから。」と言って飲み代は彼等が払っていた。今日、彼等はこれから日光見物へ出掛けるのでした。「私も付き合う、行かせてくれ。」と言ったのに、彼等は「Yoshiは1年振りの故国、家族が待っているので早く帰って上げなさい。」と言って、私の同行を許してくれなかった。私の気持としては、彼等といつまでも旅をしたかったが、実を言うと私にはもう日光へ行...私の旅はここに終る~日本の旅

  • 名古屋、東京見物~日本の旅

    名古屋、東京見物~日本の旅

    △熱田神社前にて~左からエバンス、私、タン、メアリー、ベンドレィそしてフレッド・昭和44年7月5日(土)小雨後曇り(名古屋、東京見物)16日間航海したチルワ号ともこれで永遠の別れとなり、私は昨日、鳥羽へ行った〝乗船仲間6人〟(オーストラリア人のMrs.ElaineEvansエバンス夫人、Mr.DoneBendleyベンドレィ氏、アメリカ人のメアリー、中国系香港人のフレッド、中国系マレーシア人のタンとフィリップ)と共に名古屋へ行った。私の案内で名古屋城や熱田神社を見物後、新幹線ひかりで東京に来た。日本の新幹線は彼等にとってその速さ、鉄道技術の高さ、施設にビックリするやら、感心するやらの新幹線の旅であった。曇りの為、富士山を見る事が出来ず、彼等は本当に残念がっていた。東京駅観光案内所で今夜のホテルを予約しようと思っ...名古屋、東京見物~日本の旅

  • 四日市入港と鳥羽見物~日本の旅

    四日市入港と鳥羽見物~日本の旅

    ・昭和44年(1969年)7月4日(金)小雨(四日市入港と鳥羽見物)朝起きて、日本本土が見えるか、甲板に出てみた。小雨が降っていて視界が悪く、まだ何も見えなかった。南太平洋の海は紺碧の色をしていたのに、日本近海の海は、余りにも濁っていた。日本経済の発展の裏で環境や自然が破壊され、海や河川が汚染されていたのだ。何も見えなかったが、暫くの間甲板に佇んでいると、何処かの島か本土が遠くぼんやりと見える様になって来た。何日も何日も見えるのは大海原だけであったのに、行き交う船も見られる様になって来た。『日本だ!日本に近づきつつあるのだ!嬉しい!やっと帰れるのだ!』という気持と、『私はもう旅人ではなくなるのだ。』と言う一抹の寂しさが入り混じった、おかしな気分になって来た。朝食が済み、間もなくしてから日本船が横付けされ、税関・...四日市入港と鳥羽見物~日本の旅

  • 船旅を楽しむ~船内の様子

    船旅を楽しむ~船内の様子

    △船内の食事風景(一番右が私)~私の右隣から若夫婦(男は髭を生やした26歳前後)、おじさん、おじさんの娘、高級船員、おばさん、そして私の左隣はアメリカ人のメアリー・昭和44年6月24日(火)~7月3日(木)(船旅を楽しむ)最初の頃、救命袋の着用方、及びBoatStation(救命ボートが格納されている所)へ集まり、ボートへの人員、並びに割り当等を確認し、異常時に於ける脱出訓練が3回あった。船旅で一番の楽しみ、それは食事であった。朝は8時30分から、昼食は午後1時から、そして夕食は午後7時からであった。昼食と夕食の基本的な料理を紹介すると、スープに始まり魚料理、肉料理、パン、アイス・クリーム、果物、そしてティー若しくはコーヒーであった。日によって料理の種類は変わり、料理については満足であった。しかし、食事の時のテ...船旅を楽しむ~船内の様子

  • 黄金色に染まった港を出港~心残りでオーストラリアを去る

    黄金色に染まった港を出港~心残りでオーストラリアを去る

    ・昭和44年6月23日(月)晴れ(黄金色に染まった港を出港)本日12時に出航予定であったが、午後の5時に変更された。そして太陽の沈む頃、ブリスベン港に黄金色の光景を残し、船は静かに出港した。これでオーストラリア連邦国、そしてオーストラリア大陸の本当の見納めになるので、その想いは一塩の物があった。私はデッキに佇み、黄金色に染まったブリスベン港、そして日が沈んでからもモートン湾の光景を虚ろに見ながら、いつまでオーストラリアの日々に思いを馳せた。シドニーと同じくブリスベンも内陸まで湾が入りこみ(河口まで20km程)、外洋に出るまで1時間余り要した。黄金色に染まった港を出港~心残りでオーストラリアを去る

  • ブリスベンの日曜日の様子~心残りでオーストラリアを去る

    ブリスベンの日曜日の様子~心残りでオーストラリアを去る

    △ブリスベンの絵葉書(寄港した時に買ったもの)・昭和44年6月22日(日)晴れ(ブリスベンの日曜日の様子)船はブリスベン港に1日中、停泊していた。退屈で仕方ないので午後、映画でも見に行こうと街へ出掛けたが、3軒ある映画館全てが日曜の為、閉まっていた。1軒ぐらい営業しているであろうと思ったが、オーストラリアの徹底した日曜日のあり方を再確認した思いであった。無人となった街をぶらついて、船に戻りボンヤリと過した。ブリスベンの街は、閉まっているのは何も映画館だけではなく、シドニーより徹底して全ての店が閉まっていた。街から人々が居なくなり、まるでゴーストタウンの様に静かであった。市民は郊外のゴールドコーストヘ行って過しているのであろうか。出掛けない人は何もする事がないので奥さんの手伝い、或いは庭や家の手入れをするぐらいし...ブリスベンの日曜日の様子~心残りでオーストラリアを去る

  • スケベなフレッド~心残りでオーストラリアを去る

    スケベなフレッド~心残りでオーストラリアを去る

    ・昭和44年6月21日(土)晴れ(スケベなフレッド)一昨日夜から昨日、船はかなりローリングしたので気持が悪かった。お陰で昨日の昼食は、喉を通らなかった。 チルワ149号は、今日の朝方の早い時間にブリスベンに入港した。昨日知り合ったFreadKelly(私は「フレッド」と呼んでいた)と共に朝食後、バスでブリスベンの街へ出掛けた。ブリスベンは、クィーンズランド州の州都。ここはシドニーよりとても温かく(少し暑いぐらい)、通りに椰子の木の繁るのが見られ、南国の風情を感じた。今日は土曜日で、街は静かであった。特に何処かへ行った、或は見学したと言う事ではなく、我々はブラット街を一回りして、再び船に戻って来だけであった。 クィーンズランド州に足を踏み入れたのは、これで2度目であった。地図を見ると、このブリスベンから真っ直ぐ西...スケベなフレッド~心残りでオーストラリアを去る

  • 仲間達との別れ、そして出航の様子~心残りでオーストラリアを去る

    仲間達との別れ、そして出航の様子~心残りでオーストラリアを去る

    ・昭和44年6月19日(木)曇り(仲間達との別れ、そして出航の様子)4月14日からルームメイトの栗田と共に住み始めたこのキングスクロスのレントルームを去る日が来た。9時頃起きて出発の準備をしていたら、岡本と杉本が見送りの為に来てくれた。10時半頃、大屋のミセズ・ジャクソンおばさんにお世話になったお礼と共に別れの挨拶をし、大通りのウィリアムズ通りから栗田と共に4人はバスに乗った。私はシドニーに来て以来、初めてバスに乗ったのが、シドニーの最後の日であった。 バスは思い出のあるキングスクロス地区を後にし、博物館を左に見てハイド・パークを横切り、ダーリング港(WharfofOceanTerminal,SydneyCove)まで行った。杉本はカメラを取りに途中下車し又、後から来てくれた。私の乗船するローヤル・インターオー...仲間達との別れ、そして出航の様子~心残りでオーストラリアを去る

  • 博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅

    博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅

    ・昭和44年6月18日(水)晴れ(博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ)昨日、家族や友達の為に何かちょっとした物でも良いからオーストラリアの記念となるお土産(カンガルーの毛皮、ブーメラン等)をジョージストリートのシドニー・ケイブ寄りに買いに行った。そして今日、岡本と共にAustralianMuseum(オーストライア博物館)へ行った。この博物館はハイド・パークの東側ウィリアムズ・ストリートに面して、いつも貨物駅とステーキハウスのレストランへの勤めの行き帰りに見ていたが、入ったのは今日が初めてであった。この博物館はオーストラリアの自然、古生物、動植物、鉱物、人種等に関する展示品があった。その中でポリネシア、メラネシア及びアボリジニの美術、彫刻、生活様式、道具、調度品等が印象深かった。特に、メラネシア諸島の...博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅

  • タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛~キャンベラ、シドニーの旅

    タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛~キャンベラ、シドニーの旅

    △1969年(S44年)当時のシドニーの全景(ほとんどの建物はイギリスの様にレンガ造りであった)~絵葉書より△今の(2015年)シドニーの全景~CFN・昭和44年6月15日(日)曇り(タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛)午後3時頃、最近知り合った牛丸さん(仮称、以後敬称省略)の所へ行ったら、動物園へ行く事になった。我々2人はポート・ジャクソン湾(通称シドニー湾)のサーキュラー波止場NO5からフェリー(船賃往復30セント)に乗った。因みにサーキュラー波止場は、オーストラリアへ最初に移住者が上陸した地点であった。私は船上からオペラハウス、ハーバーブリッジ、そして対岸の街並み等の光景を眺めていたら、改めてシドニー湾の美しさを再認識した。   15分程で対岸のタロンガ動物園(入園料60セント)に着いた。動物園側から見る...タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛~キャンベラ、シドニーの旅

  • マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う~キャンベラ、シドニーの旅

    マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う~キャンベラ、シドニーの旅

    ・昭和44年6月13日(金)晴れ(マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う)7時に起きてシャワーを浴び、自炊の朝食を取った。今日、シドニーへ帰る日であった。ユースを出る際、マイケルとブレインに別れを告げた。「昨日、Yoshiに会えて本当に良かったよ。無事、帰国出来る様祈っています。」とマイケル。「パースで仕事を見付けた後、何処へ旅するの?」「ヨーロッパへ行こうと思っています。」「マイケル、良い仕事が見付かり、良いヨーロッパの旅が出来るよう祈っているよ。それでは元気で、グッドラック。」とマイケルと握手した。「ブレイン、昨日君とキャンベラ観光が出来て楽しかったよ。有り難う。」と彼に手を差し伸べ、ガッチリ握手を交わした。親しくしてくれた貨物駅の友・マイケル、そして気さくな旅人・ブレインとの...マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う~キャンベラ、シドニーの旅

  • キャンベラ観光とマイケルとの再会~キャンベラ、シドニーの旅

    キャンベラ観光とマイケルとの再会~キャンベラ、シドニーの旅

    ・昭和44年6月12日(木)晴れ(キャンベラ観光とマイケルとの再会)今日、ブレインと共に市内見物に出掛けた。最初、我々は戦争記念館(オーストラリア人戦没者の慰霊の為に国が建てた記念館)へ行った。館前にドイツの列車砲(貨物車に長砲身・大重量の大砲が備えられている列車)と旧日本海軍の2人乗り用特殊潜航艇が我々を迎えてくれた。館内は戦争絵画、ジオラマ、その他展示物があるが、数としては少ない感じであった。目立つものとして、オーストラリアのアンザック作戦の物が多かった。日本関係として、1945年ボルネオ島で獲得した日本軍の豆戦車2台、各種兵器、軍刀、日の丸の寄せ書き等が展示されていた。私はその寄せ書きの一つに、『米英なんぞ怖れるな。男だ度胸だやっつけろ』と言う文言が印象に残った。絵画には幾つかの原爆投下後の広島や東京の焼...キャンベラ観光とマイケルとの再会~キャンベラ、シドニーの旅

  • キャンベラへ最後のヒッチの旅 、そしてホテル付きのパブの話~キャンベラ、シドニーの旅

    キャンベラへ最後のヒッチの旅 、そしてホテル付きのパブの話~キャンベラ、シドニーの旅

    ・昭和44年(1969年)6月11日(水)曇り(キャンベラへ最後のヒッチの旅)私は6月9日に貨物駅(正式名はNSW州有鉄道ダーリング・ハーバー貨物駅『DaringHarborGoodsStation』)の仕事を辞めた。その夜から10日未明に掛けて凄い雷雨があった。稲光と共に響き渡る雷鳴に驚かされてしまった。冬(こちらでは6、7、8月が冬)でも、こんな雷雨があるのかと思うほどであった。オーストラリア滞在も残り僅かになって来たので、この国の連邦の首都・キャンベラまで、最後のヒッチの旅へ出掛ける事にした。6時に起きて、シドニー郊外のBankstown(バンクスタウン)まで電車で行き、そこからヒッチを開始した。リュックを背負っての旅は、大陸横断以来で『旅はやはり良いなぁ』としみじみと身体で感じた。でも若しかしたらこれが...キャンベラへ最後のヒッチの旅、そしてホテル付きのパブの話~キャンベラ、シドニーの旅

  • シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話~シドニー滞在

    シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話~シドニー滞在

    ・シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話ダーウィンで稼いだ30豪ドルは、4月13日になくなった。私はレストランと貨物駅の仕事を見付け又、K氏との共同生活も始まった。その4月13日から6月18日までの収支の大雑把な纏めである。*1豪ドル=405円1米ドル=360円○手持ち金の部(4月13日現在)~トラベラーズチェック89豪ドル(米$100)。現金聖徳太子3枚74豪ドル=合計163豪ドル○収入の部・レストラン4月13日、20日、27日は6ドル25セントで合計18ドル75セント。5月4日は9ドルで合計9ドル。5月11日、18日、25日、6月1日、8日は12ドルで合計60ドル。レストランの稼ぎは87豪ドル。・貨物駅4月14日~24日分は74ドル。4月28日~5月2日(4月30日休む)分は33ドル60セント。5月5日...シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話~シドニー滞在

  • 無気力状態に陥る~シドニー滞在

    無気力状態に陥る~シドニー滞在

    ・昭和44年6月3日(火)雨(無気力状態に陥る)今日、仕事に出掛けるのが億劫に感じた。それに雨が降っているのに傘が無かった。面倒くさくなったのでズル休みをし、10時まで寝ていた。5月28日のK氏(同居人)との意見相違は、良い教訓になった。最近、彼とは話をしなくなっていた。と言うより、今まで語り過ぎていた。話は変わるが、後2週間でオーストラリアを去り、帰国の途に着くのだ。私の旅も終りになり、現実の社会、生活が待っていると言う事だ。今までは、『外国へ行く』と言う事が私の生きがいであった。そしてそれが実現し、日本を脱出してからは旅を続ける事が私の一つの目標であり、又それに向けて色々と遣って来た。しかしその帰国が近づくにつれて、その張りも失せ、全てが終った感じになって最近、無気力になっていた。あれ程心配していた仕事も見...無気力状態に陥る~シドニー滞在

  • 空手の先生と出会う~シドニー滞在

    空手の先生と出会う~シドニー滞在

    ・昭和44年5月14日(水)晴れ(空手の先生と出会う)貨物駅の仕事帰りは、ジョージストリートを横切るか、その通りを少し歩いてウィリアム・ストリートの交差点を右折して帰るのが、私の通常のルートでした。私がジョージストリートを歩いていたら、スポーツセンタージム(585GeorgeSt)があった。外からジムの様子を見していたら、4~5人の男性が色々な運動器具を使って身体を鍛えていた。又、ジムにはボクシングのリングもあった。すると中から、「どうぞ中に入って見て下さい。」とオーナーらしき人が招いた。ジムの中に入るとその彼が、「貴方は日本人ですか。」と聞いて来た。「そうです。」「こちらに来てコーヒーでも飲んで下さい。」と言って私を奥の応接室へ招いた。「この辺りで働いているのですか。」「そこの貨物駅で働いています。」「帰りは...空手の先生と出会う~シドニー滞在

  • 乗船券購入と滞在期間再々延長~シドニー滞在

    乗船券購入と滞在期間再々延長~シドニー滞在

    ・昭和44年5月5日(月)曇り~12日(月)晴れ(乗船券購入と滞在期間再々延長)・5月5日~今日、船会社へ行ったら、運良く1人分のキャンセルがあった。それが最後の乗船券であると言うので、その乗船券購入の予約をした。・5月7日~運良く乗船券が買えるのは、『早く帰国した方が良い』と言う神のお導きなのか。私は所持金を掻き集め、足りない分はルームシェアをしているK氏から一時借りて、船会社へ買いに行った。(参考)1A$=403円、1U$=360円、100U$=89A$、3万円=74A$、船会社名~RoyalInteroceanLines、乗船区間~シドニーから四日市、船名~Tjiluwah(チルワ149号)、クラス~ツーリスト、グレード~“TB”TBH40、出航予定日~1969年6月19日船賃~268A$=300US$=...乗船券購入と滞在期間再々延長~シドニー滞在

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