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  • 東西パキスタンの話~ シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

    ・東西パキスタンの話 「パキスタン」と言っても、私が居るラホールは西パキスタンです。インドを挟んだ東側にも東パキスタンがあります。如何して東西に分かれているのであろうか。そもそもイギリスの植民地であったインドは、1946年に独立した。独立の父・ガンジーは、全ての宗教・民族を統合した「統一インド」を主張していた。それに反し、イスラム教徒連盟のリーダーだったジンナーは、ヒンドゥ教徒とイスラム教徒はまったく異なる「二つの民族」であると言う、宗教の違いに基づいた「二民族論」を主張した。ジンナーのイスラムの指導者達は、もしガンジー達が主張する統一インドが実現されれば、国民の大多数を占めるヒンドゥ教徒がイスラム教徒を支配する事になる、と恐れていたのだ。   宗教、主張の違いから対立は激化し、終に武力衝突(『独立戦争』又は『...東西パキスタンの話~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

  • パキスタンのトラックの話~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

    △パキスタンのカラフルなトラックーPFN・パキスタンのトラックの話トラックで気が付いた事なのだが、パキスタンのトラック(インドのトラックも同じ)はカラフルで、しかも絢爛(けんらん)であった。何がそんなにカラフル・絢爛なのか。それはトラックの周りにペンキで綺麗に色々な装飾模様を描き、相撲取りの化粧回しの様に煌びやかな色で飾り立て、運転席下(ナンバー板下)に綺麗な暖簾を施し、最後に運転席屋根の上にトラや大鷲、或は美女を描いた大きな絵を掲げて、トラック全体を飾り立てていた。それはあたかもお祭りの屋台や山車の様であった。トラックは高いであろう、その飾り立て費用も相当掛かるであろう。それに反比例して、トラック運転手の収入は低いであろうし、彼らの着ている物もみすぼらしく、パキスタン人の生活も貧しい感じであった。それでも自分...パキスタンのトラックの話~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

  • 苦難の末に出したウンコと横暴な警察軍~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

    ・昭和44年1月29日(水)晴れ(苦難の末に出したウンコと横暴な警察軍)我々は昨日の夕方に到着したばかりなので、もう1泊する事にした。旅の疲れもあり、お昼近くまで寝ていた。とは言っても私は早朝5時、既に目が覚めていた。『覚めた』と言うより、拡声器からのアーザン(サラート=礼拝への呼び掛け)の大音響で起こされてしまった。イスラム教徒は時間になると、お祈りをする義務がある。従って人々は寺院へ行ってお祈りし、或は寺院へ行けない人は、自宅の一定の場所(自宅内に狭い囲いの礼拝の為の場所)でお祈りをする。午後、ラホールは学生、市民、労働者によるアユブ大統領の軍事的政策に対する反政府デモがあるので、宿の主人から「外出禁止令が出されている。外へ出ないほうが良い」と注意を受けていた。しかし駅近くの安宿(ドミトリー)に泊まっていた...苦難の末に出したウンコと横暴な警察軍~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

  • 車内を威圧する武装警官~ シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

    ・昭和44年1月28日(火)晴れ(車内を威圧する武装警官)日本に居た時、パキスタンは森林が生い茂った国と想像していた。いつ列車がインダス川を渡ったのか、夜間で気が付かなかった。実際に列車はこのインダス川流域に沿って走っていたが、車窓からの光景は荒れ果てた大地が、クエッタからラホールまで続いていた。如何して田畑が無いのであろうか。そして町や村の様子は、イランより貧しい様に見受けられた。昨夜、屈強の警察官7~8人が我々の車両に乗り込んで来た。そして彼等は、今日もまだ乗っていた。この車両だけではなく、他の車両にも分乗して乗っていた。彼等は緑のベレー帽子、カーキ色のシャツに黄色のベスト、それにカーキ色のズボンを身にまとっていた。彼等の武装は、日本の警察官が携行している短い警棒や拳銃ではなく、2m程の長い警棒と鉄砲であっ...車内を威圧する武装警官~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

  • せこい旅仲間と客の奪い合いの駅弁屋~ シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

    ・昭和44年1月27日(月)晴れ(せこい旅仲間と客の奪い合いの駅弁屋)我々6人は朝寝坊をして、ゆっくりと食事を取り、それからレストラン(ドミトリー併設)を出た。「よしなさい」と私は言ったのに店を出る際、ロンとジェーンはレストランのテーブルの上に置いてあったオリエンタル風の金属製灰皿等を、ポケットにしまい込んでしまった。その店の主人は無くなった事に気が付いたのか、直ぐに大声を発しながら我々を追って来た。彼は我々に捲くし立てた。2人は渋々盗った物を返した。共に旅をしている仲間がこんな事をするなんて恥ずかしく、嫌な感じがした。後で分ったのだが、私と違ってロンは貧乏旅行者でなかった。ニューデリーへ行った時、彼はアメリカから送金されて来た2,000ドルを受け取っていた。私にとっては羨ましい限りであった。それにしてもロンと...せこい旅仲間と客の奪い合いの駅弁屋~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

  • シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

    ・昭和44年1月26日(日)晴れ(偽学生証で学割切符を購入)我々(アメリカ人のロン、フランス人のジェーン、カップルのミシェルとカトリーヌ、ザーヘダーンの郊外から乗って来た竹谷そして私の6人)は、ラホールまでの3等車の切符を買いに駅へ行った。運賃は大人25ルピー、学生12.6ルピー(約958円)であった。私は学生証を持っていたので、学割運賃で切符を買った。「Yoshiは学生でないのに、如何して学生割引で買えたのか。」と言うと、私はアテネのユースに滞在していた時、「これからインド方面に旅をする場合、学生証を持っていると何かと便利である。」とあるアメリカ人に言われ、その彼から2ドルで偽の学生証を作って貰った。多少後ろめたさがあったが、今日その偽学生証を提示したら学割切符が買えた。確かに偽学生証で切符を買うのは、良い事...シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

  • 海の様な大蜃気楼を見る~ シルクロードの旅その2(パキスタンバスの旅)

    ・昭和44年1月25日(土)晴れ(海の様な大蜃気楼を見る)朝食は又々ナンとチャイであった。飽きた。テヘランを発ってからこればかりであった。何か食べ物がこの他に無いのか。砂漠の島には無かった。栄養が摂れない、腹も満たされない、充分な水分も摂れなかった。お陰で一昨日、昨日、そして今日と、オシッコもウンコも出なかった。それもその筈、水分、食料を余り取っていないから、出ないのも無理なかった。今日も天(空)と地(砂漠)だけの旅が始まった。砂漠には、ルート(砂)砂漠とカヴィール(塩)砂漠がある。この見渡す限りの茫洋たる砂漠は、砂砂漠の様であった。今日もこの砂漠と灰褐色の世界が相変わらず続いた。窓はきっちりと閉まらないオンボロ・マイクロバスの為、砂埃で車内も我々も既に真っ白、そして終に口の中までジャリジャリして来た。砂漠と道...海の様な大蜃気楼を見る~シルクロードの旅その2(パキスタンバスの旅)

  • 満天の星空下、砂塵を巻き上げ砂漠の旅を行く~ シルクロードの旅その2(パキスタンバスの旅)

    △満天の星空の下、大海原の様な砂漠の中を小舟が行く-PaintedbyM.Yoshida「星の砂漠を♪♪遥々と♪♪オンボロのバスで♪♪行きました♪♪――ナンとチャイとの♪♪食事だけで♪♪腹を空かして♪♪行きました♪♪」(童謡「月の砂漠」の替え歌)・昭和44年1月24日(金)晴れ(満天の星空下、砂塵を巻き上げ砂漠の旅を行く)昨夜、家の中とは言え直に地面で寝たので、ぐっすり寝られたとは言えなかった。そしてここ3日間、余り寝ていないので旅の疲れも溜まって来た感じであった。朝食は例の不味いナンとチャイであった。我々が食事をしている前で、子供や大人達が動物のウンコを手で拾って集めているのを見た。何に使うのであろうか。肥料にするには村の周辺は見渡す限りの砂漠で、畑など見当たらなかった。それでは乾かして燃料にするのか。この時...満天の星空下、砂塵を巻き上げ砂漠の旅を行く~シルクロードの旅その2(パキスタンバスの旅)

  • イランとパキスタンの国境の様子~ シルク・ロードの旅その2(パキスタン・バスの旅)

    ・昭和44年1月23日(木)晴れ(イランとパキスタンの国境の様子)*参考=パキスタンの1ルピーは約76円(1パイサは約76銭)。かなり南下して来たので、今朝は寒くなかった。我々5人はザーヘダーンから国境までのマイクロバス(料金イランのお金で80リアル、10人乗り)に乗り込んだ。それから直にある場所から日本人旅人(仮称「竹谷さん」と言う学生。以下敬称省略)が乗り込んで来た。我々仲間は6人となり、共に旅をする事になった。国境まで約80キロから90キロ先であるのに、街外れに出入国管理事務所(事務所と言っても小屋であった)があった。我々はイランを出なくても、出国手続きを済ませた。事務所まで舗装されていたが、此処から先は未舗装の砂漠の道で、バスはひたすら走った。そしてイランの国境に着いたのか、我々は2階建て鉄筋コンクリー...イランとパキスタンの国境の様子~シルク・ロードの旅その2(パキスタン・バスの旅)

  • ホテル(ドミトリー)の値引き交渉~イラン・バスの旅

    ・昭和44年1月22日(水)晴れ(迷路の様なケルマーンの街)昨夜、バスの中で一睡も出来なかった。大分南に下って来たが、ここケルマーンも朝方、とても寒かった。我々はバスターミナル広場で露天商いしている店へチャイを飲みに行った。まだ5時過ぎたばかりだが、バスの乗客目当てか、既に店は営業していた。イランに来る前まで、イランはイスラム諸国の一つであり、当然お茶はコーヒーで、パリ滞在中、マサオに連れて行って貰ったアラブ風の喫茶店で飲んだ、あの粒々がカップに残るアラビアン・コーヒを飲んでいるとばかり思っていた。所がパキスタンやインドと同様にイランは、イギリスの植民地であった影響からか、チャイ(お茶)はイギリスのティーと同様、紅茶にミルクと砂糖入りであった。『バスは11時に発車』と言うので、我々はその店でゆっくり、ゆでたまご...ホテル(ドミトリー)の値引き交渉~イラン・バスの旅

  • 廃墟になったキャラバン・サライ~シルク・ロードの旅その1(イラン・バスの旅)

    △チャドルを纏った女性達(CFN)・昭和44(1969)年1月21日(火)晴れ(廃墟になったキャラバン・サライ)シルクロード(絹の道)は、有史以前からアジアとヨーロッパを結んでいる東西交易路の総称であり、幾筋もの道から成り立っていると学校で教わり、又その様に認識していた。ある時代にどの道が栄えたかは、その時代の勢力の隆替(りゅうたい)によって目まぐるしく変貌したようだ。日本にシルクロードの事が伝わったのは、マルコポーロの東方見聞録による。彼は1271年のまだ17歳の時にヴェネチアを出発し、25年間かけての大旅行をして西安の都に辿り着いたそうだ。そしていよいよ私のシルク・ロード、砂漠の旅が始まった。7時30分に起き、部屋を出ようとしたらドアの前に財布が落ちていた。拾い上げ中を見るとイラン紙幣やドル紙幣がかなりの額...廃墟になったキャラバン・サライ~シルク・ロードの旅その1(イラン・バスの旅)

  • イスラム教の話~テヘランの旅

    ・イスラム教の話所で、私はイスラムの国に来たと言うのに、恥ずかしながらイスラム教について殆んど知らなかった。それではいけないので、又この日記(イラン・パキスタンの旅)を纏める為にも、『イスラム教とはこんな感じ』と言うアバウトでも良いから知る必要があり、少し記述する事にした。[イスラム教の人々を「ムスリム」と言う。ムスリムはイスラムの教えであるイスラムの戒律(へジャブ)の中で生活している。そのヘジャブの基本的な信条として、①唯一の神アッラー(アラー)とムハンマド(マホメット)のみを信じる事。これを『シャハーダ』と言う。但しイランのシーア派は異なり、イマーム(聖人)を信じている。②礼拝の義務(サラート)。③3月の断食の義務(サウム)。④メッカ巡礼の義務(ハッジ)。⑤喜び、快楽を捨てる義務(ザカート)、の5行がありま...イスラム教の話~テヘランの旅

  • テヘランの簡単な印象の話~テヘランの旅

    ・テヘランの簡単な印象の話テヘランは、私が思っていたより物価が高かった。物によっては、日本よりも高かった。今まで色々な国を旅して来た経験から、物価の高い国は豊かであったが、この国はそうでなかった。政府の政策が悪いのか、これをどう判断したら良いのか、分らなかった。イスラム諸国の中でもイランは比較的欧米化が計られている、と言うがまだまだの感じであった。テヘランの人々の着ている服装は、貧しそうであったし、紳士らしき人は見当たらなかった。そして街には女性が余り歩いていなかった。歩いていても皆チャルドを被っていた。その光景は私にとって不思議でもあった。そして侘しい、怪しい商売をしている大人や子供達、そして乞食も多かった。私が街を歩いていると、大人も子供も意味もなく、「ジャポネ、ジャポネ」と五月蝿く(うるさく)、余り良い感...テヘランの簡単な印象の話~テヘランの旅

  • テヘランに到着し、そして滞在して思った事の話~テヘランの旅

    ・テヘランに到着し、そして滞在して思った事の話テルアビブやテヘランで飛行機で到着すると、その国やその都市の様子、方向感覚、お金の価値(換算)、交通の便、或いは地理等が全く分らないので、それで困った経験をした。テヘランの場合は空港から鉄道やバスのアクセスが無く、全くの陸の孤島であり、どうしてもタクシーを頼るしかなかった。そして例えタクシーに乗ったとしても、その料金が本当に正当なのか、乗る前に他の運転手にも聞けば良いのであるが、言葉も通じないので、簡単に聞けなかった。しかも料金メーターが頼れるのは、先進諸国の西ヨーロッパと日本だけなのだ。飛行機から降りて来た外国人は、『ネギを背負った鴨に等しい』と言う事を、肝に銘じるべきだと思った。イスラエルに入国した時の乗り合いタクシー(シェルート)もおかしかった。イランはタクシ...テヘランに到着し、そして滞在して思った事の話~テヘランの旅

  • 通行許可書を取得~テヘランの旅

    ・昭和44年1月20日(月)雪後小雨(通行許可書を取得)雪の降る中、パキスタン大使館へ通行許可証を取りに行った。大使館員が、「チョッと待ってくれ」と言うので、私は待った。1時間程で通行許可証(ロード・パ-ミッション)を手に入れた。時間にルーズなイスラム人と言うよりは、大陸的な感覚を持った人にとって1時間位で出来たのは、早い方かもしれなかった。午後、小雨になった。ジェーン、ロンそして私の3人は、バザールへ行き、ザーヘダーンまでのバスの切符(350リアル、約1,680円)を買った。夜、このホテルで出逢った大西さん(仮称)から、普通サイズの日本の国旗を貰った。今日は寒い1日であった。明日、SilkRoad(シルクロード=絹の道)の旅に出るので早めに寝る事にした。通行許可書を取得~テヘランの旅

  • インドへの旅の準備~テヘランの旅

    ・昭和44年1月19日(日)曇り(インドへの旅の準備)朝食は昨日の朝に買った食べ残しのパン、チーズ、そしてオレンジジュースで済ませた。ホテルでゆっくり寛いでから11時30分頃、インドの査証を取りに出掛けた。途中、店に安そうなサンドイッチが売っていたので、昼食用に買った。12リアルであったがパンの大きさと中身の質を考えると、やはり割高感があった。インド大使館へ行ったら査証は出来あがっていた。それを受け取り、ホテルに戻った。夕方、談話室でロンに会った。彼から「パキスタンの通行許可証を持っているか」と聞かれ、「持ってない」と言った。彼の話だと、パキスタンを通過して他国へ行く場合、査証より取得が簡単なRoadPermission(通行許可証)の方が良いと聞かされた。査証はその国の滞在許可証であり、滞在期間は目的によって...インドへの旅の準備~テヘランの旅

  • スチュワーデスとデート~テヘランの旅

    △スチュワーデスのMさんと私―テヘラン市内にて・昭和44年1月18日(土)晴れ(スチュワーデスとデート)昨夜宿泊したアミルカビルホテルは、テヘラン中心部からそれ程遠くなく、又日本大使館やインド大使館、或はバザールへ歩いて行ける距離であった。昨夜は寝てからもエールフランスのスチュワーデスのMさんの事が気になって仕方がなかった。今日、彼女は休みでテヘランに滞在との事、そしてエールフランスの乗務員が宿泊するホテルは決まっているとの事であった。この2点は昨夜、彼女の話から分っていた。『彼女ともう一度、会って話がしたい』そう言う一途な想いが、私をエールフランス営業所へ行かせた。最近雪が降ったのか所々、日陰に残雪があった。私は市内マップを頼りに、その営業所へ行った。「昨夜、テルアビブからテヘランに着いた○○便のスチュワーデ...スチュワーデスとデート~テヘランの旅

  • スチュワーデスとの出逢い~テヘランの旅

    ・昭和44年(1969年)1月17日(金)晴れ(スチュワーデスとの出逢い)*参考=イランの1リアルは、4.8円(10ディナールは、48銭)住み良い国?イスラエルを去る日が来た。今朝、キブツ・フレンド・ホステルにキブツ仲間のアメリカ娘のジョアンがバートと共に尋ねて来た。再びキブツの仲間に逢えた事は嬉しかった。ジョアンとバートに再び出逢えた記念に、日本の絵葉書を2枚プレゼントした。ジョアン、バート、そして私の3人は、例のフランス風のレストランへお茶を飲みに行った。我々はお互いに何ヶ月も遠い故郷を離れ、旅愁を感じていたのか、余り語らなかった。否、何も語らずとも胸の内はお互い分っていた。我々はハッゼリム・キブツで共に農作業をしたり、楽しいパーティをしたり、相撲をとったり、ボクシングをしたり、そして楽しい食事したりして共...スチュワーデスとの出逢い~テヘランの旅

  • 第4次中東戦争(10月戦争)の話し、及び平成18年(2006年)現在の状況の話~エルサレムの旅

    △古都・エルサレムの全容で中央の黄金のドームがイスラムオマール寺院(CFN)・第4次中東戦争(10月戦争)の話しテルアビブ空港乱射事件の翌年の昭和48年(1973年)10月、第4次中東戦争が勃発した。ナセルの死後、エジプト大統領になったサダトによって企てられ、第3次中東戦争の敗北で失ったシナイ半島の奪還を目指したものだった。戦闘は当初、アラブ側が有利であったがイスラエル軍が反撃し、膠着状態になった。ここでサウジアラビアを始めとするアラブ産油国は石油戦略を用いた。彼等はOAPEC(アラブ石油輸出機構)を結成し、原油価格を一気に70%も引き上げた。さらにイスラエルを支援するアメリカへの石油輸出を禁止し、又アラブ諸国に協力的でないとみなした国家にも同様の処置を取ると宣言した。これが『石油危機』(第1次オイルショック)...第4次中東戦争(10月戦争)の話し、及び平成18年(2006年)現在の状況の話~エルサレムの旅

  • テルアビブ・ロッド空港乱射事件とシーラおばさん達からの手紙の話 ~エルサレムの旅

    ・テルアビブ・ロッド空港乱射事件とシーラおばさん達からの手紙の話私がイスラエルを去ってから3年後、昭和47年(1972年)5月31日(水)発行の夕刊の一面に次の様なセンセイショナルな記事が載った。[5月30日(火)夜、日本人ゲリラ3人(岡本公三、奥平剛士そして安田安之)がテルアビブ国際空港で軽機関銃を乱射、手投げ弾を数発投げ、乗降客に100人近い死傷者(実際は死者28名、重軽傷者78名)が出た。3人はローマから到着したエールフランス航空機に乗客として紛れ込んでいたもので、1人は流れ弾で死亡、1人は自殺、残る1人は逮捕された。逮捕された男は『赤軍派』と名乗っているが、日本赤軍派のメンバーなのか不明。しかし、アラブゲリラ組織の1つPFLP(パレスチナ人民解放戦線)はイスラエルに対する報復行為と発表しており、アラブゲ...テルアビブ・ロッド空港乱射事件とシーラおばさん達からの手紙の話~エルサレムの旅

  • デモ騒動と夕日の美しさ~エルサレムの旅

    ・昭和44年1月16日(木)晴れ(デモ騒動と夕日の美しさ)昨夜知り合ったイギリス人から靴を貰った。その靴は歩き易い感じがしたし、私も丁度欲しかったので戴いた。その彼が今朝になって「ベツレヘムへ行くから靴を返してくれ」と言うので返したが、私は考え直し「今日、私はテルアビブへ行くから駄目だ」と言って、彼に返した靴を取り返した。貰った物は既に私の物なのだ。可笑しな話であるが、人に物を与えてから今度返してと言うのである。又、貰った方の私も相手が必要なら返せば良いのであったが、これまた返さなかった。私は気まずい思いがした。エルサレムのユースを去り、テルアビブへヒッチで行った。ヒッチは容易であった。クリスマス・イヴの夜中のベツレヘムからハッゼリムキブツのヒッチは大変であったし、ベエルシェバから死海へのヒッチは、問題外であっ...デモ騒動と夕日の美しさ~エルサレムの旅

  • ユダヤ教の祈り(その2)~エルサレムの旅

    △正統派の女性の祈りー嘆きの壁にて(NO1からの続き)城壁内の旧市街、オマールイスラム寺院やユダヤ教の聖地である宮の山(モリア山)を見学して嘆きの壁へ・・・この後、私はWailingWall(嘆きの壁)を見に行った。嘆きの壁は、ユダヤ教神殿の唯一の遺物であり、それは中庭西側の壁だった。そして神殿唯一のこの壁は、ユダヤ人の苦難な放浪が始まってから2,000年間と言う長い間、彼等にとって最も神聖な霊場であった。嘆きの壁の前は、黒の長服・黒のズボン・黒の山高帽子を被り、揉み上げの髭をした何人ものユダヤ教信徒(正統派)が、壁に向かって泣く様な声で、しかも懸命に何かを訴えている様に祈っていた。彼等は一心不乱にユダヤ人同胞の祖国復帰と〝メシア来臨〟(救世主が現れる事)を祈り続けているのであろうか。[イスラエルの民は苦難の歴...ユダヤ教の祈り(その2)~エルサレムの旅

  • ムスリムの祈り(その1)~エルサレムの旅

    △壮麗、荘厳のオマール・イスラム寺院(CFN)・昭和44年1月15日(水)晴れ(エルサレム観光と異様なイスラムの祈り)今日、私は1人でJerusalem(エルサレム)観光に出掛けた。エルサレムはユダヤ教、キリスト教の聖地であると共に又、「マホメットが昇天した地」と言われ、イスラム教にとっても聖地である。三つの宗教が共に「エルサレムは、我々の聖地である」と言っているので、必然的に宗教争いが起こるのも頷けた。中世おいてはイスラム教からキリスト教を守るための十字軍の遠征、第二次世界大戦後はイスラエルの独立に伴う第一次から第三次中東戦争、又その裏にはユダヤ教対イスラム教と言う宗教戦争でもあった。そんな事を思いながらエルサレムの観光が始まった。エルサレムは、新市街(Newcity)と昔から存在する都市・旧市街(Oldci...ムスリムの祈り(その1)~エルサレムの旅

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