・昭和44年3月4日(火)晴れ(ヒッピーから紳士に変身?)午前中、部屋でゆっくり休んだ。オーストラリアへ行って、職探しをしなければならないので、『少し容姿を整えなければ』と思い出した。午後、近所で目に付いた床屋へ行った。ここの宿泊所(YMCA)は、表通りから少し裏通りへ入った所にあった。宿泊所の前は広くないが、餓鬼どもの遊び場として適度な広さがあった。広場右手の方は、古ぼけた汚い民家が並んでいた。出掛けようと表に出たら昨日と同様、餓鬼ども数十人が頭からつま先まで色々な色に染まりながら又、粉を掛け合っていた。私は粉を掛けられない様にソット行ったが、餓鬼どもに見つかってしまった。「ヒッピー、ヒッピー」と餓鬼どもは、はしゃぎながら粉をぶつけようと、私を追って来た。『掛けられてたまるか』と素早く表通りへ逃げ出した。それ...ヒッピーから紳士に変身?~カルカッタの旅
・昭和44年3月3日(月)晴れ(オーストラリアへはBOACに決定)カルカッタからオーストラリアへの行き方で、私は2つのルート選択で悩んでいた。①カルカッタからバンコクへ飛んで、それからマレー半島を南下しシンガポールへ。シンガポールで自分の旅への気持、手持金、その他の状況を考え、『帰国した方が良い』と判断したら、船(M&M)で帰国する。『オーストラリアへ行きたい』と判断したら飛行機で行く方法。②ここからダイレクトにオーストラリアへ飛行機で行く、この場合一番安く行ける航空会社と空路はと言う事であった。悩んだ末に①を選択した為、タイの査証を直ぐ取る必要があった。今日も又、JALへ行きその後、タイの領事館へ査証を取りにタクシーで行った。降りる時、メーターが2.5ルピーを示していた。いつもの様に「高い、まけろ。」と言った...オーストラリアへはBOACに決定~カルカッタの旅
・昭和44年3月1日(土)曇り(YMCAに宿泊のネパール人とJALで相談)このYMCAに旅人は私1人だけであった。昨日からカルカッタを去る日まで6日間宿泊したが、誰も旅人は来なかった。これは珍しい現象であった。何故だろう、不思議であった。私の部屋は階段を上って2階の右手一番手前の部屋で、そこから先は空室であった。左手側には10部屋程あった。各部屋はネパール人留学生が宿泊していた。最初に彼等に会ったのは、私が2階の窓から景色を眺めていた時でした。日本人が向こうから来たと思い話し掛けたが、フンでもスンでもないので英語で話した。話をしたら彼らはネパール人で3ヶ月間ここに滞在して、カルカッタ大学で勉強しているとの事でした。それにしてもネパール人は、本当に日本人に良く似ている、と感心する程であった。YMCAでゆっくりして...YMCAに宿泊のネパール人とJALで相談~カルカッタの旅
・昭和44年(1969年)2月28日(金)曇り後雨(パトナーからカルカッタへ)6時30分に起き、渡辺と共にドミトリーを出た。渡辺はネパールへ行くのでガンジス川を渡る船着場の方へ、私はパトナー駅へ行くので宿泊近くの大通りで各々左右に別れた。振り返ると彼は、船着場の方への坂をトボトボと歩いて行った。彼の旅愁を帯びた後ろ姿は、終に見えなくなった。「お互い元気で旅を続けよう。さようなら。」と別れ際に言ったが、真にそう思った。本当は私も出来れば彼と共にネパールへ行って見たい心境であったが、金銭的な事、ネパールの査証の事、そしてオーストラリアへの入国時期が迫っている等で、彼と共に行く事が出来なかった。駅へ行くのにリキシャを拾った。着いて60パイサ払った。リキシャのおじさんは、「少ない」と言っている様であったが時間の無駄、交...パトナーからカルカッタへ~カルカッタの旅
浮浪者の子供との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
△浮浪者の子供との別れ-PaintedbyM.Yoshida・昭和44年2月27日(木)晴れ(浮浪者の子供との別れ) 列車は1時間30分遅れで朝の8時頃、パトナー駅に到着した。まだ例の子供は私の後方に付いて来た。アラーハーバード駅から私が何処へ行くのか、ずっと見張っていたのだ。『私の後を追い掛けても、食べ物はもうあり付けないぞ。私だっていつまでも君にかまっていられないのだ。』と彼に言いたかった。私と渡辺は駅の食堂へ入った。2人で5ルピー。食事に満足したので、ボーイ(ウェイター)にインドで初めて50パイサのチップをした。 我々は駅を出て、リキシャを使ってホテル探しをする事にした。子供はまだ私の後から付いて来た。彼の目を見ると、『僕を見捨てないでくれ。』と悲しい目で訴えているかの様であった。『頼むから、もう付い...浮浪者の子供との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
浮浪者の子供との出逢い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
・昭和44年2月26日(水)晴れ(浮浪者の子供との出逢い)昨夜、インド人の話し声、列車の振動、盗難の心配等で当然良く寝られなかった。夜間の3等客車の旅はしんどかった。10時頃、タリー(インドのカレー定食)で朝食を取った。前の座席の子供は腹を空かしているのか、食べたそうに私の方をじっと見ていた。その子供は9~10歳位であろうか、裸足で汚れたヨレヨレのシャツと擦り切れたズボンを履いていた。明らかに浮浪者か乞食だ。どうせ汽車賃も払ってないで乗っているのであろう。カレーは辛すぎて余り食べられないし、他におかずが無いので、殆んどご飯も食べられず、当然残った。その残ったカレー、ご飯、チャパティ、その他を盆ごと子供に示し、「食べるか」と聞いた。彼は分ったのか、盆を受け取った。彼はかぶりついてタリーを食べた。そして彼は満足し、...浮浪者の子供との出逢い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
駅員の盥回しと田舎の臭い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
・昭和44年2月25日(火)晴れ(駅員の盥回しと田舎の臭い)Manmad(マンマード)駅へ早く行けば、カルカッタ行きの3等寝台車を予約出来ると思って、6時半に起きた。アウランガーバード7時30分の列車でマンマード(切符代3.30ルピー)へ行った。ボンベイとジャルガウンのほぼ中間のマンマード駅に到着し、お問合せ・予約窓口で、カルカッタまでの寝台券について尋ねた。そうすると係員は「2番ホームへ行け」と案内した。2番ホームへ行ったら、そこは切符集札所であった。乗車券、寝台券の事でどうして切符集札事務室を案内したのか、不審に思った。又、『インド国有鉄道の盥回しが始まったな』と思った。とりあえず尋ねたら、「出札窓口へ行け」と言われた。出札係は何の説明も無く、再び2番ホームの事務所を案内した。完全に盥回しであった。私はつい...駅員の盥回しと田舎の臭い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
渡辺も去り一人ぼっちになる~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
・昭和44年2月24日(月)晴れ(渡辺も去り一人ぼっちになる)渡辺は午前7時に去って行った。2人が去って私1人になってしまい、ドミトリーの部屋に取り残された感じで、何か『ポカーン』となった様な、そんな心境になった。二人が去ってから私は、カルカッタに着いたらオーストラリアへ行くのであるが、そのオーストラリア行きに不安、心配が生じて来てしまった。『行って見なければ分らない』と思っていたが、荻や渡辺が去って、その不安が私の心に湧いて来た。1人寂しく近くの食堂へ昼食を食べに行った。渡辺も去り一人ぼっちになる~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
コーラ、バナナ事件と荻との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
・昭和44年2月23日(日)晴れ(コーラ、バナナ事件と荻との別れ)久し振りに10時までユックリ寝ていた。今日も昼食時、インド人と張り合った。食堂で私と荻はコカ・コーラを頼んだ。いつも食堂ではビンのまま持って来たが、この店はコップに入れて持って来た。飲んでみると水っぽい感じがした。『インド人め、人のコーラを飲んでその分量だけ水で薄めたな。』と我々は1口飲んで直ぐ分った。しかし私と荻は全部飲んでしまって、これが失敗であった。しかも生水を飲まない様にしていた私は、飲んでしまった。これは、油断であった。払う時になって、「貴方達は注文した我々のコーラを半分飲んだから、半分の代金しか払わんぞ。」と我々は言った。「コーラ全部飲んで、如何して半分だけなのだ。」と店員。「人のコーラを飲んで、その分、水を入れたコーラなんか全部払え...コーラ、バナナ事件と荻との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
エローラの遺跡見学と食堂での水の出し方~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
△エローラ石窟群の中の一部、カイラーサナータ寺院)-CFN・昭和44年2月22日(土)晴れ(エローラの遺跡見学と食堂での水の出し方)6時30分に起きて、駅前から7時30分の『一日周遊観光バス』に乗り込んだ。このバス代は3.4ルピーで安かったが、本当はこれぐらいが妥当な運賃であった。昨日のアジャンタ石窟群前の停留所からアウランガーバードまでのバス代4.2ルピーは『ヤラレタ』と言う事だった。周遊観光バスが最初の寄った箇所は、アウランガーバードから直ぐ近くの小高い山の上にある『ダウラタバード城』と呼ばれ、11世紀頃の自然の地形を利用したイスラム系最古の城であった。△イスラム最古のダウラタバード城-CFN次に1時間半位でElora(エローラ)に到着した。AD580年から850年までの間に造られたエローラ遺跡は、ヒンドゥ...エローラの遺跡見学と食堂での水の出し方~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
アジャンタの遺跡見物~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
△アジャンタの石窟群-CFN・昭和44年2月21日(金)晴れ(アジャンタの遺跡見物)列車は予定より1時間30分遅れて、午前6時30分Jalgaon(ジャルガウン)駅に到着した。ここからAjanta(アジャンタ)行きのバス(2.5ルピー)に乗り換えた。1時間半位で着いたのであろうか、バスは遺跡入口前の停留場に到着した。停留場前にホテルがあり、そのホテル前でウロウロしていたら、上の方から日本語が聞こえて来た。見上げたら日本人のお坊さんであった。彼は2週間前からここに滞在して、仏教の勉強をしているとの事でした。私と荻はお坊さんが宿泊している部屋に荷物を置かせて貰い、3人で遺跡近くの食堂で朝食を取った後、見物に出掛けた。【アジャンタ遺跡は、黒紫色の断崖に横穴を28掘って造られた仏教石窟寺院群であった。BC2世紀からAD...アジャンタの遺跡見物~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
ロンとの別れと座席の奪い合い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
△テヘランから共に旅をして来たロン(右)~サルベーションアーミーにて・昭和44年(1969年)2月20日(木)晴れ(ロンとの別れと座席の奪い合い) 今日、仕事があると思ってサルベーションアーミーの前に行ったら、誰もいなかった。ロンに聞いたら、「今日も休み」との事であった。今日の休みについては私の耳に入ってなかった。荻が今日、「アジャンタ、エローラを見てからマドラスへ行く」と言うので、いつまでもボンベイに滞在していても意味が無いと思い、私も荻と共にそこを見物して、それからカルカッタへ行く事にした。本当に急遽な話で、決断も行動も早かった。 午前中、私は早速StudentConcession(学生割引許可証)を取りに駅へ行き、午後、カルカッタまでの学生割引3等切符を買った(私は偽の学生証を持っていた)。午後6時30分...ロンとの別れと座席の奪い合い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅
ボンベイを去る日が近付く、そして最近の収入の纏め~ボンベイの旅
・昭和44年2月17日(月)晴れ~19日(水)晴れ(ボンベイを去る日が近付く、そして最近の収入の纏め)17日~8時に4人で相乗りしてタクシーで撮影所へ行った。運賃は10ルピーで、割り勘して払った。エキストラの仕事は相変わらずで、席に座ってワイワイやっていればそれで済んだ。楽な仕事だ。昨日、値上げ交渉したお陰で、今日は60ルピー貰った。撮影所で今日も又、ロンは何処かでコカ・コーラ2本ゲットして来て、1本私にくれた。どうせ何処かでくすねて来たのであろう。彼はこの様な事が上手いのであった。帰りもタクシーで帰って来た。夕食に又、1人で中華レストランへ行ったら、今日は休みであった。『新年(中国の正月)の為、3日間休む』と張り紙に書いてあった。シーサイドホテルに私と荻の他に渡部と言う日本人(仮名、以後敬称省略、26歳)が宿...ボンベイを去る日が近付く、そして最近の収入の纏め~ボンベイの旅
・昭和44年2月16日(日)晴れ(宿泊所についてとバイト代値上げ交渉)ここのシーサイドホテル(安宿)は、『インドへの門』へ12~13分で行かれ、市の南端に位置していた。他の場所と比較したら割と清潔で静かな、そして路上生活者や乞食を余り見掛けらえない所であった。暑い所為か夜、外にベッドを出して寝ている多くの人々が居た。ホテルの名前は格好良いが、大部屋(ドミトリー)でベッドも部屋も汚く、いろんな臭いがした。そんな部屋にベッドが1階に15台程あった。私のベッドは2階へ上る階段脇にあり、2階にも部屋があった。1階は勿論、2階の話し声も直に聞こえて来た。インド人は寝るのが遅いし、ペチャペチャといつまでも話をしていた。大体、12時(0時)近くにならないと寝ないのだ。そして朝は遅くとも、7時頃に起きていた。いずれにしてもこの...宿泊所についてとバイト代値上げ交渉~ボンベイの旅
・昭和44年2月15日(土)晴れ(ショーを見に行く)エキストラのバイトは、昨日と同じであった。夜、荻とKhartoum(ハルツーム)のショーを見に行った。開演は9時30分(インドは夜の部のショーや映画上映時間が遅い)、入場料金は3ルピーであった。ショーを見に行く~ボンベイの旅
・昭和44年2月14日(金)晴れ(エキストラの仕事とカメラを売る)私と荻は欧米人と共にサルベーションアーミー前に9時集合し、映画会社が手配したバスに乗り込んだ。間もなくバスは出発した。歩道は多くの寝ている乞食、路上生活者や歩行者、そして道路は車とリキシャで相変わらず溢れていた。間もなくしてボンベイ島を出たら、バラックの貧しい家々が延々と続いた。ボンベイはもう何から何まで凄く、そしてあらゆる面で雑多な都市であった。40分位で撮影所に到着した。そこは市内から25キロ程(タクシーで10ルピーの区間)の郊外へ出た所であった。(*1ルピーは約50円、闇両替は39円)午前中、我々は何もする事はなかった。昼過ぎから1時間30分程エキストラの練習をした。練習は難しいものでなかった。エキストラの撮影現場は、日本のキャバレーの雰囲...映画のエキストラの仕事とカメラを売る~ボンベイの旅
△ボンベイの偽物の万年筆屋さん~「撮るな」、と言って手を出した瞬間・昭和44年2月13日(木)晴れ(エレファンタ島の石窟寺院見物) 私、ロン、竹谷、そして竹谷の知り合いの日本人と共に4人で、『インドへの門』付近から8時30分発のモーター・ボートに乗って〝ElephantaIsland〟(エレファンタ島、ヒンドゥ教の石窟寺院があり、ボンベイの観光名所の一つ。)へ行った。 海は穏やかで、島まで東海上10キロ、約1時間半のクルージングを楽しんだ。この船賃は往復で3.20ルピーであった。島は亜熱帯風の小さな島であった。船着場から長い石段を昇って行くと、そこに石窟郡があった。パンフレットによると7つの石窟があるが、1番手前の石窟がメインで、ヒンドゥ教の彫刻の宝庫となっていた。壁面いっぱいにシヴァ神に関係する神々が彫られて...エレファンタ島の石窟寺院見物~ボンベイの旅
路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨~ボンベイの旅
・昭和44年2月12日(水)晴れ(路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨)ボンベイの街も通りには、路上生活者や乞食が多かった。実際に彼等の区別は出来ないのだ。「バクシーシ」と言って金を乞われれば乞食だし、ただそこにいれば路上生活者だ。彼等は似た様な人達であった。大半の彼等は、生気を失った表情でうずくまっているか、何も敷かずに寝転がっているだけであった。中には寝転がったままで身動きしない、まるで死人の様な人もいた。彼等の内で、弱衰死をしていても不思議でなかった。又、乳呑み児を抱えて、しゃがみ込んでいる母親達もいた。母親の栄養状態が悪いのか、萎んだオッパイを吸っても乳が出ないので「オギャ、オギャ」と力無く、やっと泣いている赤ん坊もいた。或は栄養状態の悪い乳児の顔に群がっている蝿を追い払おうともしない、何の気...路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨~ボンベイの旅
・昭和44年2月11日(火)晴れ(一日中カメラ売りと荻さんとの再会)朝から暑かった。朝食を食べて、サルベーションアーミー(救世軍)へ泊まれるか如何か行ってみたが又、駄目であった。所で、オーストラリアへは3月19日までに入国すれば良いのだ。まだ1ヶ月以上、インドに滞在出来るのだ。しかし1ヶ月間滞在に必要な所持金は、オーストラリアへの旅費の事を考えると、余り手持のお金を使いたくなかった。私の売れる物、と言ったら腕時計かカメラであった。腕時計は旅をするに何かと必要だ。後は売れるものと言ったらカメラだけであった。インドは不潔だ、衛生面が悪い、乞食が多い、カレーは非常に辛く満足に食べられない、それに口に合った食べ物が無い。そんなインドで手持のお金を使いたくなければ、早くインドを出れば良いではないか、と思うのだ。しかしその...一日中カメラ売りと荻さんとの再会~ボンベイの旅
・昭和44年2月10日(月)晴れ(ボンベイの洗濯屋さん) 朝や夜のニューデリーは、寒かった。だがかなり南下して来たのか、夏の気候の様にマハーラーシュトラ州は列車に乗っているだけで汗が額からポタポタ落ち、暑かった。 朝食は食べたが、昼食は抜いた。列車はボンベイ駅に近づきつつあるらしく、速度を落として走っていた。バラックの家々が直ぐ線路脇まで建てられ、それらの家々が延々と続いた。そして線路内を大勢の人が構わず歩いていた。何とも形容し難い光景であった。投石されても怪我をしない様、乗客各自が窓の木製のカーテンを閉めた。インドでは大都市周辺では投石があるらしく、列車がデリーに近づいた時も、乗客が一斉にカーテンを閉めていた。列車は、2時30分頃に到着した。ボンベイのターミナル駅は、ロンドンのヴィクトリア駅に似ていて、街の建...ボンベイの洗濯屋さん~ボンベイの旅
・インドのカレー定食の話インドの大衆食堂や列車の食堂では、カレーセットと言うか、カレー定食があった。普通、カレーと言えば「タリー」と言うこのカレー定食を指す。カレーの種類は野菜カレー、マトン・カレー、チキン・カレーがあったが、豚肉や牛肉の入ったカレーは無かった。インド人は宗教上ベジタリアンが多いので、特にマトンやチキンのカレーを注文しなければ、野菜カレーが出る。今日(1969年2月9日)、食堂車へ行ってタリーを注文したら野菜カレー(1.5ルピー)であった。出された野菜カレーは、お盆にアルミ製のボールが5つ(値段によってボールの数が異なる)載せてあり、その内の3つのボールに強烈に香辛料やスパイスがきいた、種類の異なったカレーが入っていた。残りの2つのボールには、ヨーグルトと豆のスープが入っていた。叉そのお盆の上に...インドのカレー定食の話~ボンベイの旅
・昭和44年2月9日(日)晴れ(列車転覆事故を見る)ロスは、「後1泊してデリーへ戻る」と言う事で、私とロンは彼と別れた。我々がリキシャで駅へ向かう途中、馬車に乗った日本人2人が向こうからやって来た。ロンが、「もしもし」と日本語で話しかけたが、知らん振りして行ってしまった。我々はアグラ駅からBombay(ボンベイ=改名し現在はムンバイ)行きの列車に乗り込んだ。我々は1人4.5ルピーの3等の寝台車を取った。私にとって3等寝台車は混雑している3等客車より余程良かった。この寝台は身体を横に出来る十分なスペースがあり、それは良いのであるが、毛布が無く、又ベッドはインド人が裸足のまま使用し、鉄道側はカバーを取替えないし、洗濯もしないから極めて汚れていて、不潔さを感じた。そして鉄格子の窓になっていて、まるで牢屋の様であった。...列車転覆事故を見る~ボンベイの旅
・お酒とタバコの話インドはイスラム圏の様に飲酒についてそれ程厳しくないが、州によって法律で禁酒されている所もあるそうです。いずれにせよインド人は、お酒(アルコール類)を飲まない習慣になっている様であった。そんな関係か、街にはお酒を売っている酒屋が無かったし、街の食堂(高級レストランは除く)でも、お酒は置いていなかった。外国人が泊まる高級ホテル(外人観光客用。我々が泊まるドミトリーでは飲めなかった)ではお客さんの為に用意されていた。飲みたい時は今日(1969.2.8)みたいに高級ホテルへ行って飲む事(小瓶のビール1本が5~6ルピー)が出来た。しかしこの国の低所得者は、1日働いても2~3ルピーの稼ぎで、ビール1本すら飲む事が出来ないのだ。高い、インドは国民にとってお酒が非常に高いのであった。所で、ニューデリーやボン...お酒とタバコの話~アグラの旅
△可愛い子供とカラフルで美しいサリーを纏った婦人達―アグラ城にて・サリーとインド美人の話 アグラ城見学の時、サリーを着た美人のご婦人達が印象的であった。さすがにインドのみならず、世界的にも有名な観光地へ来る様なインド人は、上流階級を感じさせる人達であった。特にご婦人達が着ているサリーは、色々な柄や模様が描かれ、艶やかで、街で見慣れた汚らしいサリーとは断然違っていたのが印象的であった。サリーとは、インド女性が纏う民族衣装の事だ。美しい色鮮なサリーは、男性が頭からスッポリ被って着る白のシャツ(汚れて茶色に近い)をだらりと裾に出して、白のパジャマの様なだぶだぶなラッパズボンとは対照的であった。私は『サリーは着る』とばかり思っていたのであるが、『巻く』のが本当なのだ。サリーは、幅1m長さ5m程の1枚の布で出来ていて、そ...サリーとインド美人の話~アグラの旅
△私と右は同行者の中村(仮名)。王様が王妃の死を悲しんで建てられた墓宮、調和の取れた白大理石造りが美しかったータジ・マハールにて・昭和44(1969)年2月8日(土)晴れ(アグラ見物と元インド国民軍兵士) 今日、アグラへ行くので6時に起きた。私とロンは、ニューデリー駅までタクシーで行った。着いて運賃が「1ルピー」と言うので、ロンは「高い」と言って怒ったが、まぁ妥当な運賃であった。インドのタクシー運賃は、『最初の1.5キロまで80パイサ、以後1キロ増すごとに50パイサ加算』と言う計算から行くと、我々が乗った距離はそんなになかったので、80パイサか1ルピー30パイサでなければならなかった。運賃が丁度1ルピー、と言う事は無いので、ドライバーは半端な運賃は切り上げて請求するのが常であった。インドのタクシーは、メーターも...アグラ見物と元インド国民軍兵士~アグラの旅
△ニューデリーの路上の床屋さん(一番左)、その左隣は歯医者さん・昭和44年2月7日(金)晴れ(ニューデリー最後の日)今日、私とロンはアグラへ行く事になっていたので、6時に起きた。しかしロンはまだ寝ていた。「ロン、起きろ。6時過ぎだぞ。アグラへ行くのだろう」と私。「午前3時に帰って来たのだ。眠いよ。明日行こう、Yoshi」と言って彼は又、寝てしまった。そんなに急ぐ旅でないので、明日でも私は一向に構わなかった。今日は本当に何もする事がなかった。映画「007」でも見に行こうと思ったが又、超満員で入れなかった。インドは自国のインド映画も洋画も繁盛していた。夕方、食事にインデア・コーヒ・ハウスへ行ったらロンが居た。暫らくすると昨夜のアメリカ女性も来た。どうも2人は示し合わせていた感じであった。私が来てしまったからロンも仕...ニューデリー最後の日~ニューデリーの旅
デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話~ニューデリーの旅
・デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話デリーは、オールドデリーとニューデリーを合わせて総称として呼ばれている。オールドデリーはニューデリー駅北方に位置し、レッドフォート(赤い城塞)の城壁に囲まれた、所謂『城郭都市』です。ニューデリーは、オールドデリーの南方に隣接され、イギリス統治時代に新しい都市造りとして出来た都市です。当然、都市造りは近代イギリス様式が取り入れら、そしてニューデリーのみならず、インドの大都市の建物は、イギリス建築様式に似ていて、何処へ行ってもまるでイギリスに居る様な感じがした。ニューデリーの中心は、ConnaughtPlace(コンノート広場)で、そこから四方八方に道路が延びていた。広場の周囲には、事務所、映画館、レストラン、商店等が軒を連ねていた。その中心の円形の広場は、芝生と花のある...デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話~ニューデリーの旅
・インドの現状の話所で、2月6日(木)「駅で盥回しにされる」の文中に「訳の分らない」と「何でもあり」と言う語句を使ったが、それについて私がその様に思っている、或いは感じているだけで、他の人々(外国人旅行者や現地インド人)は特に思っていないかも知れません。しかしあえて言うならば、次の事を指摘しておきます。それらは、一国のインドで多言語、多民族、カースト制度と不可触民の存在(憲法下では廃止されているが、確かに根強く現存している)、人口過多(街のあちこちで産児制限奨励のポスターや看板が目立つ)、貧富の格差、圧倒的に貧乏人の多さ、路上生活者や乞食の多さ、都市の超人口過密、宗教の雑多、原始社会から近代社会の存在、都市と農村のあらゆる格差等々であり、それらが混然一体となっている現状の事です。そして訳の分らない、或はなんでも...インドの現状の話~ニューデリーの旅
・インドの鉄道の話私とロンはニューデリー駅で乗車券を買うのに、軽くインド人にあしらわれてしまった。この様に乗客を盥回しにする様な案内、或は態度・接客の悪さを駅長やもっと上層部に訴えても埒(らち)が開かないし、加えて私の語学力の無さでは充分に訴える事が出来ないであろうと思った。例え英語で充分に話が出来たとしても、『何でもあり』のインドでは、1人1人の乗客否、乗客ではなく、如何でも良い利用者の声・意見等を一々聞いてくれる様なインド国有鉄道組織でないのだと理解した。駅員の態度、言葉の悪さ、非能率、無責任、自分の窓口しか感心がない縄張り主義、偉ぶっている権威主義等、インドの鉄道には問題が色々あった。インドの鉄道は国有なので、駅員はお役人様なのだ。カースト制度でも上級クラスに入るのであろう。上級クラスのお役人様だから利用...インドの鉄道の話~ニューデリーの旅
・昭和44年2月6日(木)晴れ(駅で盥回しにされる)明日、私とロンはAgra(アグラ)見物してからBombay(ボンベイ)へ行く事にしたので、私一人で切符2枚を買いにロンと私の旅客運賃学生割引証を持ってニューデリー駅へ行った。インドは州や地域が違うと言葉も人種も違い(多言語、多民族国家)、言語は15以上、方言は100以上あると言う。その様な理由で駅の案内板には、英語やヒンディー語の他、5~6の言語で書かれていた。しかし私の知りたい情報・案内は見当たらなかった。従ってボンベイまでの乗車券を買うのに、何処の窓口へ並べば良いのか分らなかった。駅員(インドの鉄道員は制服を着ていないので、駅員と一般人との見分けが分らない。)に聞きたいが、窓口以外見当たらないので、困惑状態であった。とりあえず1階の適当な窓口に並んだ。各窓...駅で盥回しにされる~ニューデリーの旅
・昭和44年2月5日(水)晴れ(オーストラリアの査証を取得)午前中、査証が出来ていると思い、オーストラリア大使館へ行ったが、館員は午後2時半頃に出来ると言うので一旦戻った。インデア・コーヒ・ハウスでチャイを飲みながら時間を潰し、2時半頃に再び行った。しかし査証は出来ておらず、1時間30分も大使館で待たねばならなかった。そして午後4時、やっと出来た。査証はビジター、滞在期間1ヶ月間、3月19日まで入国、取得料金7ルピーであった。ロンは日本大使館で査証を20分か30分程で取れたのに、オーストラリアは日数・時間が随分掛かった。ロンは2,000ドル以上持っていたが、私は120ドルと少々しか持ってなかった。国別の大使館、所有のドル額、或は人によって随分違いがあった。ニューデリー滞在中でも一般的な食事は、やはりチャイとチャ...オーストラリアの査証を取得~ニューデリーの旅
・ストリートボーイとブラックマーケットの話「ストリートボーイ」とは、我々旅行者がインドの都市の何処でも街を歩いていると呼び掛け、主に闇両替、或は時計、カメラ、万年筆等の高級品からシャツやジーパンまでの売り買いを元締めに斡旋してくれる「両替・売買仲介人」の事である。彼等は、仲介料を元締めから貰って生活しているのだ。したがってストリートボーイを通さないで、元締めと直接交渉した方が高く買い取ってくれる場合があった。一方列車やその他の所で知り合ったインド人と直接に取引した方が有利であった。2月4日の夜、関が「時計を売りに行きたい」と言うので、彼に付き合った。彼は国境で時計6個を没収されたはずなのに、まだ4個位持っていたのだ。彼も中々の食わせ者(?)であった。我々はそのストリートボーイを介して交渉したが、交渉は成立せず結...ストリートボーイとブラックマーケットの話~ニューデリーの旅
・昭和44年2月4日(火)晴れ(大使館員を怒鳴りつける)毎日、良い天気が続く。炎天下は暑いが、日陰に入ると涼しかった。微熱の方も完全に良くなった。今日早速、日本大使館へ行った。大使館に雇われている案内係のインド人職員に来館目的を告げた。彼は立ち去り、そして直ぐに戻って来て、ある日本人大使館員の所へ私を案内した。そこはつい立で仕切られていたが、個室ではなかった。インド人職員を含めて、周りで働いている何人かの日本人職員の姿も見えた。〝40~45歳位のその大使館員〟(以下「T氏」と言う)は、両手を後ろに回して枕代わりにして、イスに踏ん反り返り、しかも靴を履いたままテーブルの上に足を投げ出して私を迎えた。多分インド人職員は、「ヒッピー紛いの貧乏旅行者が来た」とT氏に告げたのであろう。T氏は、『若者の貧乏旅行者が又、金か...大使館員を怒鳴りつける~ニューデリーの旅
・昭和44年2月3日(月)晴れ(あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う)私、ロン、竹谷の3人でInformationOfficeへ行き、その帰りにインデア・コーヒ・ハウス附近を歩いていたら、「?(はてな)どうも何処かで会った事のある日本人が向こうから歩いて来るではないか。誰だろう・・・」とチョッと訝った。近くに来たら、それは和田(アテネで会って、私のイスラエル行きを見送ってくれて、トニー・タニーに似ている人)と寺島(旅の途中、ユースで2~3度会っている。最後に逢ったのがアテネ)の2人ではないか。「和田さんと寺島さんでしょう。」と私は呼び掛けた。「ビックリした。そう言えば、貴方はYoshiさんではありませんか。再び会えて嬉しいなぁ。アテネ以来ですね。」と和田。「Yoshiさんとはアテネの前に、何処か会っていますよね...あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う~ニューデリーの旅
・チャイの話〝チャイ〟(インドの紅茶)について記しておく事にする。インドでは街の至る所に〝チャイハナ〟(茶店)があり、チャイが気楽に1杯20パイサから30パイサ(約10円~15円。この様な所は立飲みのお店)で飲めた。イギリス人も顔負けする程インド人はチャイを好んで飲んでいた。イギリスのティーとインドのチャイは如何違うのか、私の知っている範囲内で纏めてみた。イギリスのティーは、ティーポットから紅茶をティーカップに注ぎ、好みに応じてミルク(牛乳)と砂糖を加え、上品に飲むのがイギリス流だ。これにケーキやクッキーが添えてあれば、最高の持て成しとなるのだ。勿論、場所、雰囲気、紅茶の種類・品質、上等なティーカップ等で持て成しの度合いは違って来る。インドのチャイハナのチャイは、紅茶にミルクと砂糖をタップリ加え、グツグツ煮込む...チャイの話~ニューデリーの旅
・昭和44年2月2日(日)晴れ(洋服を買おうと思ったが)午前中、頭が痛く気分も良くなかったが、午後少し良くなった。ニューデリーにある〝IndiaCoffeeHouse〟(インデア・コーヒ・ハウス。所謂チャイハナ、インドの大衆喫茶店)は各国の貧乏旅行者の溜まり場になっていた。ここの春巻きの様な物が割りと美味しく、私はチャイを飲みながら食事替わりにした。ほとんどの客は店の前で立ち飲みをしていた。今日、私はこの喫茶店で寛いだり、その周辺を散策したりして過ごした。入場料1.8ルピー(約54円)で『007のドクターノー』を上映しているので、入場しようと思ったら、満員で入れなかった。インドは映画が人気であった。夜、私、ロン、ロス、そして関の4人でオールド・デリーの方へ散策に出掛けた。通りは大勢の乞食や路上生活者が寝ていて、...洋服を買おうと思ったが~ニューデリーの旅
・昭和44年(1969年)2月1日(土)晴れ(体調悪し)一昨夜の夜行列車は寒かった。昨夜も寒いので、ジーパンを履きジャンバーを着たまま毛布1枚掛けて寝たが、それでも寒かった。お陰で今朝、微熱がある感じがして、頭も重たかった。少し風邪を引いたのか体調は良くなく、一日中、憂鬱であった。本当に病気になって寝込んでは大変なので、今夜は1ルピー余計に払って、もう1枚毛布を借りて寝る事にした。体調悪し~ニューデリーの旅
・乞食の話インドを訪れた途端、あらゆる面で旅行者はカルチャーショックを受けるであろう。特に日本や欧米から直接インドに来て、群れをなすその乞食の数を見ると、その悲惨さに身震いし、驚愕しない人は居ないであろう。だが日が経つにしたがって、その悲惨さに慣れて来るのか、インドはこれが現実なのだと認識し、あたりまえの光景になっていた。私はイギリス、フランスから中東の経済的に発展してない国へと旅をして来たので、身震いや驚愕はしなかったが、それでもカルチャーショックを受け、驚いたのは確かであった。私がニューデリーに着いたその日に、ある体験に出くわしてしまった。1人の子供が「バクシーシ(お恵みを)、バクシーシ」と五月蝿(うるさい)いので、10パイサ(5円)を恵んだら、いつの間にか20~30人以上の大人や子供の乞食に取り囲まれ、「...・乞食の話~ニューデリーの旅
・オーストラリアへの想いの話最近になって私は、今後の旅について悩んでいた。Madras(マドラス)から船でPinang(マレーシアのペナン)へ渡り、Singapore(シンガポール)、若しくはBangkok(タイのバンコク)からM&Mフランス商船で帰国すべきか。或いはオーストラリアへ行き、そこで旅費を稼いでアメリカへ行くべきかと。自分の気持としては折角退職してフリーの身になったので、もっと旅をしたい。アメリカへも行って見たい、と言う希望があった。しかしその反面、既に足掛け8ヶ月間旅をしているので、旅の初め頃と違って、外国に対する新鮮味や旅に対する想いも薄れて来ていた。そして私の旅は、放浪の旅の様に感じられる、今日この頃でもあった。こんな状態では、私の旅の意義も薄れるし、放浪の旅を続けていたら今後の人生に於ける生...オーストラリアへの想いの話~ニューデリーの旅
△私とロンーアメリカ大使館裏庭にて・昭和44年1月31日(金)晴れ(足に錘付きの鎖を嵌められた女奴隷達)昨夜の列車の旅は寒かった。インドは暑いイメージを持っていたが、この時季の北インドは、夜まだ冷えた。私は寝心地の悪い網棚で、リックと手提げバックの盗難に注意していたから、余計に寝られなかった。列車は朝の6時半頃、ニューデリーに到着した。下車した乗客目掛けて殺到して行く、多くのポーター達にビックリした。彼等は皆、素足で長身、痩せこけ、そして纏っているのは腰巻一丁であった。我々はリックを背負っていたので、有り難い事に彼等から免れた。駅構内は乗降客、ポーター、目的不明の人々や乞食・浮浪者でごった返していた。我々は朝食を取る為、駅構内のレストランへ入った。ここで1つの事件が起きた。「首都の駅構内レストラン」と言えば、格...足に錘付きの鎖を嵌められた女奴隷達~ニューデリーの旅
・1ルピーとその価値の話インドは、〝人口6億人以上〟(実際には統計されない、出来ない人々が居て、7億とも言う)の人々が住んでいて、凌ぎを削って生きていた。そこには人を騙す様な行為が蔓延し、色々な場面、場所で激しいお金の遣り取りがあった。従って、「1ルピーの攻防」はインド滞在中、常にあった。「人を騙す様な行為」と言ったが、実際にこの言い方が、本当に正しいとは思っていない。商品と言う物の値打ちが政府によって統制されてない、若しくは需要・供給のバランス関係がなく、値段が決まってないインドに於いて、商品の値段は売り手の値のまま買い手がその値で買えば、その売買は成立する。ようするに買い手は実際の物の価値を分からないが、お金を払えば「買い手は、その価値があった」と判断される。しかし買い手が売り手の値で納得しなければ、そこか...1ルピーとその価値の話~ニューデリーの旅
・闇売買の話関から話を聞いたのだが実際、彼はスイスで安い時計を買って、インドで高く売るつもりで持ち込もうとしたのだ。その背景として、インドは自国の製品保護の為に電化製品、自動車、高級品等(カメラ、時計、トランジスターラジオ、万年筆等)を輸入していなかった。従って、インド製品は直ぐ壊れる粗悪品である事を彼等インド人も承知していた。金持ちのインド人は、高くても優れた物を求めているので、そこで闇売買が広く存在していた。自分の身の回り品、旅行の為に携行しているカメラや時計等は、インド入国時に申告すれば不正持ち込みにならない。この場合に申告された物は、旅券に記入される。もし申告された物をインドで売れば、出国の際に旅券に記入された申告物を提示出来なければ、売った事が分かり犯罪者として逮捕される。インド国境で私はセイコーの時...闇売買の話~ニューデリーの旅
・昭和44年(1969年)1月30日(木)晴れ(国境での出来事)*参考=公式レート~1ドルは360円、1ドルは7.3ルピー、1ルピーは約49円、1パイサは49銭・日記を書くに当ってルピーは公式レートで表記した。*闇両替レート~1ドルは9.25ルピー、1ルピーは約39円、私は闇両替屋を利用した。デモは終り、ラホールにいつもの様な喧騒な街に戻った様であった。ラホールの街は汚く、通りには男達であふれ、その反面、女性は人っ子1人見当たらず、道路には自動車、自転車、馬車、そしてリキシャであふれていた。私、ロン、竹谷の3人は朝食も食べず、ボーダー(国境)行きバスに乗り込んだ。ラホールから国境まで25km程か、運賃は1.75ルピー(86円)であった。バス車内で〝それらしき旅人〟(大阪市出身の「関さん」仮称、以後敬称省略)と出...国境での出来事そして座席の奪い合い~ニューデリーの旅
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