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  • レストランの仕事を見付ける~シドニー滞在

    ・昭和44年4月9日(水)晴れ(レストランの仕事を見付ける)今日、EmploymentOffice(公営の雇用事務所)へ行って見た。大勢の白人外国人労働者が職を求めて来ていた。私も一応、申込書に必要事項を記入し順番を待った。「労働許可証を持っていますか。」と私の番が来て担当係から尋ねられた。「持っていません。」と答えた。「それでは移民局へ行って、労働許可申請書を提出して、労働許可証を貰って来て下さい。」と担当者。しかし査証延長も侭(まま)にならないのに我々日本人が、観光ビジター用の査証で労働許可証が下りるとは考えられなかったので、申請しに移民局へ行かなかった。仕方なくロンドンの様に自分で見つける事にした。レストランでの仕事を求め、シドニーで一番の繁華街・ジョージストリートを中心に20軒程回った。ロンドンの時は恥...レストランの仕事を見付ける~シドニー滞在

  • YMCAでゆっくり過ごす。仕事探しを始める~シドニー滞在

    ・昭和44年4月4(金)~7日(月)晴れ(YMCAでゆっくり過ごす)シドニーに昨日(4月3日)やっと着いたが、今日の4日から4日間イースターで公官庁を初め主な商店やレストランは休みで、街全体が静かであった。野宿が続いた為か、今日は風邪を引いた様で体調がすぐれなかったが、お陰様で寝込む程ではなかった。私はゆっくりとYMCAで過ごした。このYMCAで日本へ2度も行った事があると言うオーストラリア人のピーターと知り合った。彼はグッドガイであった。4月6日(日)、日本人の岡本さん(仮称、以後敬称省略)と出逢った。・昭和44年4月8日(火)晴れ(仕事探しを始める)やっとイースターが明けたので、仕事探しの行動に移らなければならなかった。と言うのはアメリカやカナダへ行くにしろ、帰国するにしろそこまでの航空券、若しくは乗船券を...YMCAでゆっくり過ごす。仕事探しを始める~シドニー滞在

  • オーストラリア人の〝開拓者魂〟(マイトシップ)の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・オーストラリア人の〝開拓者魂〟(マイトシップ)の話18世紀に始まったこの国の開拓は、決して生易しいものではなかった。過酷な気候風土の中、個人や家族など少人数では到底開拓を進める事等、出来なかったはずである。その様な状況下、見ず知らずであっても荒野で出会った時には助け合う、そうでないと人は生きて行けなかったのだ。「助け合う」と言っても荒野での事、再び出会うことなどまずあり得ない。お返しの助けを期待するのは、無理な事だ。しかしいつか何処かで困った時に、全く別の人に助けられる事だってあるかもしれないのだ。開拓を志す人々にとって、それこそが「助け合う」と言う事が、生きるうえで大切な事であったのだ。要するに、人は荒野に於いて、他の人に優しくなれないと、生きて行けないのだ。開拓者にとって荒野で出会う人は、〝Mate〟(「...オーストラリア人の〝開拓者魂〟(マイトシップ)の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 「オーストラリア大陸横断をヒッチして」の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・「オーストラリア大陸横断をヒッチして」の話3月25日に『ヒッチでシドニーへ行こう』と決断した時、10~12日位は掛かるであろう、と予想していた。ダーウィン出発前、人の住んでない広大な原野や砂漠・土漠地帯を行くので効率良くヒッチが出来るのか、寝る場所、或は食料調達をどうするのか等々について非常に不安があった。『とりあえずその日、その時、その場所で判断すれば良いではないか』と言う、実にいい加減な結論に達した。しかもホテル、モーテルでの宿泊は最初から考えていなかった。結果的に気候は寒くなく、行った先々の空き地に廃車や駐車の車があったので、運良くその中で泊まれた。ダーウィン出発する前、車の中で寝られるとは想像もしていなかった。と言いますのは、あれほどヨーロッパでヒッチをしたが、1度も車の中で一晩過ごした事が無かったか...「オーストラリア大陸横断をヒッチして」の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 大陸横断に成功~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年4月3日(木)曇り(大陸横断に成功)今朝、狭い車の中で寝た所為か、腰が痛かった。今日中にシドニーへ着けるのか否か、それが問題であった。と言うのも車の中で寝るのは、いささか嫌になって来たからのだ。この辺り(バーク)まで来ると2時間に1台、或は1時間に1台の割でしか走っていない、と言う事はなかった。お蔭さまで順次6台の車に時間を費やさず乗せてもらった。中でも記憶に残ったのは、Girilambone(ジリランボーン)~Nyngan(ナインガン)間を乗った車であった。このドライバーの名は、Mr.StevePayton(ペイトンさん)と言って朝鮮戦争に従軍し、日本にも行った事のある人だった。叉、彼は日本語をほんの少し話せた。そんな彼からお昼を御馳走になってしまった。貧乏人根性だから奢ってくれる人は大歓迎で大好...大陸横断に成功~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 老兵が日本女性の思い出を語る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年4月2日(水)晴れ(老兵が日本女性の思い出を語る)毎日良く晴れて、本当に助かる。ここまで来ると日差しは、秋であった。そして朝晩は涼しくなって、それなりに着ていても野宿は寒さを感じた。昨夜は久し振りにベッドで横になれたのに、返って良く寝られなかった。むしろ狭い車の中の方が寝られる様になっているとは、不思議なものだ。ヒッチは早発ちの方が良いであろうと、6時に起きた。奥さんもご主人もまだ寝ていたので、起こさなかった。申し訳ないが、勝手に朝食兼昼食用のパンをいただき、感謝の置手紙を書き、スコット家を後にした。後から考えたらもう少しゆっくり起きて、奥さんの作った朝食を済ませ、感謝の言葉を述べ、そしてゆっくり出立すれば良かったと後悔した。如何してこうも先を急ぎすぎているのであろうか。カンガルー狩りの誘いがあった...老兵が日本女性の思い出を語る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • チャールヴィルの心温まる一般家庭に宿泊~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年4月1日(火)晴(チャールヴィルの心温まる一般家庭に宿泊)ウィントンのその辺の空き地に駐車されていたトラックの運転席で寝ていたら5時30頃、この車の持主に起こされてしまった。「黙って車の中に寝て、申し訳ありませんでした。」私は素直に謝った。「いいのだよ。これからカンガルー狩りにこの車で行くのだが、一緒に行くか。」とおじさんに誘われた。「急ぎ旅なので、行きたいが駄目なのです。」と断ってしまった。今回のヒッチの旅は、以前と違って如何も心にゆとりがない、ただシドニーを目指して急いでいる、そんな感じの旅であった。その訳は査証期間が短いので期間延長しなければ、所持金不足の為、早くシドニーへ行って早く仕事を探さねば、と焦っていたからであった。しかし、シドニーに着いてから『カンガルー狩りなんて2度と経験が出来ない...チャールヴィルの心温まる一般家庭に宿泊~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 砂漠を荷台に揺られて行く~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月31日(月)曇り(砂漠を荷台に揺られて行く)早朝、私は変な夢を見た。自分で自分の首を絞め、苦しくなって目が覚めた。気が付いたら額から冷汗が流れ落ちていた。それにしても変な夢であった。これもダーウィン滞在中、同部屋のアボリジニに首を絞められそうになった事があったから、と思った。6時30分に起きて、クロンカリーの町はずれから今日もヒッチを開始した。3時間待っても駄目で、今日も車は全く通らなかった。10時頃、1台目がやっと止まってくれたが、500m先の交差点までであった。それから間もなくして日の丸を振って遣って来たトラックを停めた。10マイル程走った砂漠で降ろされた。トラックは左折し、道無き道をモウモウと砂煙を巻き上げ地平線のかなたへ消えて行った。降ろされた場所は見渡す限りの砂漠であった。そして私の進...砂漠を荷台に揺られて行く~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 先へ進めない厳しいヒッチの旅、そして死のオーストラリア横断の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    △オーストラリアの砂漠ーCFN・昭和44年3月30日(日)晴れ(先へ進めない厳しいヒッチの旅)6時半に起き、マウント・アイザ郊外からヒッチを始めた。1台目の車は20マイルばかり走ったら、「車の調子がおかしい」と言って停まってしまった。オーストラリア横断ヒッチ中、これで2回目であった。車検や整備体制が確立してないのか、オーストラリアの車はよく故障する様であった。そしてそのドライバーは、「修理の為、引き返す。」と言って私を荒野に置き去りにして、来た道を引き返しマウント・アイザへ行ってしまった。昨日もそうであったが、今日も歩いていたり、道路端で立っていたりすると、私の回りに蝿が集まって来て鬱陶(うっとう)しかった。それ程に私の身体は異臭を発散し、不潔になってしまったのか。3日間、野宿しながらの旅で、確かに清潔な体では...先へ進めない厳しいヒッチの旅、そして死のオーストラリア横断の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 荒野の道を突っ走る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月29日(土)晴れ(荒野の道を突っ走る)この辺り(テナント・クリーク)まで来ると、朝晩は涼しかった。星空の下で寝る(野宿する)には、既に適さない気候になって来た。ここはスリー・ウェイズと言って、レストランとホテル兼用の店とガソリン・スタンド、その住民の住宅2~3軒があるだけの所であった。朝食は『TheWayThouHouse』と言うレストランの外で知り会った奥さん(昨夜、このホテルに夫婦で宿泊していた)に、コーヒーとパンを御馳走になった。今、私にとって1セントでも大事なので、御馳走になれるのは本当に有り難かった。ついでにお昼用にサンドウィッチを注文したが、これは自分で払った。奥さんにお礼を言ってレストランを出た。すぐ近くの交差点のクロンカリー方面の道でヒッチを始めた。直ぐに先程奢ってくれた奥さんの...荒野の道を突っ走る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • 消える川と地下の大水源の話、そしてオーストラリアの広さの話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・消える川と地下の大水源の話オーストラリアの東海岸沿いに〝一本の山脈〟(大分水嶺山脈)がある。その山脈の東側に降った雨は、川となり海に流れ込む。日本人の概念として『川は海に流れ込む』と当然、思っている。しかし、その西側に降った雨は川となるが、如何せん高低差がなく、しかも海まで遠い。その為、広大な地域を流れる内に、その川は自然に無くなってしまう。要するに多くの水が伏流水となって地下に潜ってしまうのだ。オーストラリアにはそんな川がたくさんあり、その川を「リバー」と言わないで、「クリーク(Creek)」と言っている。所で、その伏流水はクィーンズランド州南西部からノーザン・テリトリー、ニュー・サウス・ウェールズ州の北西部、更に南オーストラリア州にまで広がる巨大な盆地の地下深くに蓄えられる。この世界一の規模を誇る盆地をT...消える川と地下の大水源の話、そしてオーストラリアの広さの話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • カンガルーと競争だ~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    △カンガルーと競争だ!(実際は荷台の上でなく、乗用車)ーPaintedbyMihoYoshida・昭和44年3月28日(金)晴れ(カンガルーと競争だ)6時半に起きて、パンをかじっただけの朝食を済ませた。7時に昨日、車から降りた場所でヒッチを開始した。1時間過ぎた頃、トラックが止まり、7マイル程乗せて貰った。そこで30分過ぎたら、2台目の若者が運転する車に乗って、32マイル進んだ所でパンクしてしまった。そのドライバーは、「修理の為、時間がどのくらいかかるか分らないので、他の車に乗せて貰いな。」と言ってくれた。私は乗せて貰って何の手助けをしないで行ってしまう事に、心苦しかった。しかし例え居ても、彼の為に何ら手伝いも出来ず、反って足手まといと思い、彼の言葉に従った。 そこから3台目に乗って、20マイル程走った所で降ろ...カンガルーと競争だ~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • アボリジニ達との最後の出会い~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月27日(木)晴れ(アボリジニ達との最後の出会い)今日こそシドニーへヒッチで行こうと決めていたので、7時に起きた。良く晴れていたので有難かった。出発する前、2日分の宿泊代を余計に払ってあったので、払い戻して貰おうと、マダムに頼んだが駄目であった。2度とダーウィンに来る可能性はゼロに近かったが、「又来た時にはここに泊めて下さい。」とお願いした。そうしたらマダムは「2日分はただで泊めさせて上げる。」と言ってくれた。ロンドンでも同じ様な台詞があった。「それでは」と言ってゲスト・ハウスを去り、歩き出したら水筒(ペット・ボトル)を持って来るのを忘れ、取りに戻った。再び街をトボトボ歩いて郊外へ。その途中、仕事中に手を切ってしまい、お世話になった会社(Dalgety)の親切にしてくれた人が、車で向こうから遣って...アボリジニ達との最後の出会い~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • ダーウィン最後の日~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月26日(水)曇り(ダーウィン最後の日)今日、保険会社で休業補償手当金として、小切手で20ドル28セント受け取り、現金化しに銀行へ行った。 それにしてもまだヒッチで行くか、バスで行くか、まだ迷いがあった。エイジェンシィへ行って仕事をしようかと思ったが、仕事は無かった。それなら昼までに晴れて来たら、ヒッチでシドニーへ行こうと決心し、一旦ゲスト・ハウスに戻った。しかし午後は雨雲が垂れ下がり、今にも降り出しそうな空模様の為、今日シドニーへ行くのを断念した。明日行く事にして、午後は一日中ベッドに居た。   夜、2本立て西部劇の映画を見に行った。野外で入場料は25セント(100円)、意外に安かった。・ダーウィンでの収入・支出総決算収入~74ドル。支出~44ドル内訳(宿泊費3週間分で30ドル、・食料品・小包輸...ダーウィン最後の日~ダーウィンの旅

  • ヒッチでシドニーへ行く決心をする~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月25日(火)晴れ(ヒッチでシドニーへ行く決心をする)ダーウィンは本当に小さな町、稼ぐ為にも、他の国へ旅する為にも、結局シドニーへ行かなければならない様な町であった。シドニーへはヒッチで行くか、それともバスで行くか、私は迷っていた。同部屋のロスの話によると、バス運賃は65ドル、日数は4日間掛かると言う。それにしても65ドルは、私に出せる額でなかった。ヒッチと言えば、3月8日(土)に南オーストラリア州へ行こうと思い、ダーウィン郊外でヒッチをしてみたが、全く車が走ってなく、町に戻って来た経緯があり、そのヒッチ率の悪さ、そして暑さと空腹で参った事があった。オーストラリアは国土が広く、殆んど砂漠の様な所で人も住んでいないし、何と言っても車が走ってない、それに地域によって気候の違いもある。従って、今回のオー...ヒッチでシドニーへ行く決心をする~ダーウィンの旅

  • 「病院と保険会社へ」と「小言を言われ、ばか呼ばわりされての大工仕事」~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月21日(金)晴れ(病院と保険会社へ行った)今日は抜糸の為、病院へ行く日で、美人ナースに会えるのを楽しみにしていた。しかし今日はあの美人ナースに会えなかった。他のナースから包帯を取り替えながら「大分良くなって来たから、もう来る必要はありません。」と言われ、私は美人ナースに2度と会えなくなってしまった。病院から治療証明を貰って、保険会社へ休業補償手当の申請に行った。「来週の水曜日に支払われる。」との事であった。私の滞在期間は4月7日まであるが、何にも出来ないで半月が過ぎてしまった。滞在期間延長して貰いにダーウィンの政府移民局へ期間延長しに行った。もっと長い滞在期間をお願いしたのであったが、1ヶ月間延長のみの『5月7日まで』であった。それでもダーウィンで期間延長が出来て一安心、まずは良かった。でもダー...「病院と保険会社へ」と「小言を言われ、ばか呼ばわりされての大工仕事」~ダーウィンの旅

  • 草刈作業で負傷と美人のナースさん~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月17日(月)晴れ(草刈作業で負傷をする)早々、エイジェンシィへ行ったら草刈作業を紹介され、その現場へ行った。会社事務所裏の庭が草ぼうぼうで、電動のこぎり付き草刈機で草を刈る仕事であった。作業を始めて15分過ぎた頃であろうか、草を刈る目の前に有刺鉄線があった。電動草刈機を自分の脇に置き、その有刺鉄線を手で取り除こうとしたその次の瞬間、置いた草刈機が動いて有刺鉄線に触れ、その有刺鉄線が私の手と足に襲い掛かって来た。手に痺れを感じ、見たら手の数ヶ所から出血していた。痛いやら、驚くやら、電動草刈機は暴れまくっているやら、もう大変であった。「助けてくれ!誰か来てくれ!」と事務所の方へ向かって大声を出し、助けを求めた。私に作業の説明をした男性スタッフが直ぐ現れ、草刈機を止めた。私の手は痺れを感じ、多量の血が...草刈作業で負傷と美人のナースさん~ダーウィンの旅

  • 電線敷設作業、その他~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月12日(水)晴れ一時スコール(仕事無し、今度の部屋)昨日は一昨日の倉庫の労務をこなした。そして今日エイジェンシィへ行ったが、仕事は無かった。しかし、明日の建設現場の電線敷設作業の仕事を紹介された。今日、インドのお土産や不必要の背広等の衣類関係を段ボールに詰めて航空便で実家へ送った。10日の夜に怖い思いをしたが、結果的に落ち着ける別の建物の2階の部屋へ移動が出来、本当に良かった。部屋は綺麗で、私の他に西洋人2人が居た。その内の1人は、RossSmith(ロス)と言って、ロンドンから来ているイギリス人の彼と仲良くなった。この部屋には、チョッとしたキッチンがあり、テラスで食事も出来た。それで宿泊代は、変わらなかった。・昭和44年3月13日(木)曇り(電線敷設作業)今日、電線敷設の仕事があった。電線は重...電線敷設作業、その他~ダーウィンの旅

  • 原住民のアボリジニに危うく殺されそうになった~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月10日(月)晴れ後スコール(原住民に危うく殺されそうになった)午前中エイジェンシィへ行ったが、仕事は見付からなかった。私は仕事がないと困るのだ。他国へ行く為の、或いは帰国の為の航空券、若しくは乗船券を買うお金が既に無くなっていた。その様な訳で、月曜日から金曜日まで定期的に働ける仕事が欲しかった。午後、再び行った。街外れにある倉庫の荷物運びの仕事を紹介してくれた。現場まで歩いて行き、その仕事をこなした。明日又、7時に来てくれと頼まれた。3時間の労働で「4ドルは、明日分と併せて支払う」と言ってくれた。私が仕事から帰ってきた時、アボサンは部屋に居なかったが、暫らくしてから帰って来た。彼は何処かで飲んで来た様で、少し酔っていた。私はシャワーを浴び、明日早めに出掛けなければならないので、午後9時過ぎにベッ...原住民のアボリジニに危うく殺されそうになった~ダーウィンの旅

  • アボリジニとの相部屋の様子~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月9日(日)晴れ(アボリジニとの相部屋の様子)今日は日曜日、エイジェンシィは休みで仕事にあり付けず、店も休みで食料は買えず、私は一日中、腹をすかした状態であった。夜、港の方へ散歩に出掛けた。この港は小さいので中型、小型の漁船が数隻停泊しているだけで、大型船は1隻も停泊していなかった。静かなもので、誰一人いなかった。あれから原住民のアボさんとは話をしていないし、どうも彼は薄気味が悪かった。私の部屋の様子は、裸電球が部屋の中央からぶら下がっていたが、本が読める明るさでなかった。ベッドがあるだけで、テーブルや洋服ダンス等の家具類は無かった。本当に殺風景な、人が生活する部屋ではなかった。私は警察に御厄介掛けた事がないが、例えて言うなら『監獄部屋』の感じであった。部屋の壁板を足で蹴った跡が3ヶ所、パカッと割...アボリジニとの相部屋の様子~ダーウィンの旅

  • アボリジニ(原住民)と相部屋になる~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月8日(土)晴れ(アボリジニ(原住民)と相部屋になる)昨夜は一昨夜より蚊の来襲が酷く、あちこちと喰われ寝られなかった。2日連続、まともに寝ていないので参った。私の妹は1年前にサウス・オーストラリア州(S・A)の『Miss.ChristineNutt』と言う高校生と文通をしていて、彼女のお父さんは農業を営んでいるとの事でした。私は農場も大きく仕事があると自分勝手に思い、住所は分かっていたのでS・Aへヒッチで行こうと思い付いた。ダーウィン郊外に出て、車の来るのを待った。ここは亜熱帯地域、そしてS・Aへ行く道路は木々が生い茂り、密林(ジャングル)の中を一直線に密林の彼方へまで伸びていた。まさに無限の大地、と言った光景であった。シーンと静まり返ったジャングルからライオンやヒョウが出現してもおかしくない、そ...アボリジニ(原住民)と相部屋になる~ダーウィンの旅

  • ダーウィンの話と対日感情嫌悪の理由の話~ダーウィンの旅

    *ダーウィンの話Darwin(ダーウィン)の人口は8,000人弱だが、2千~3千人位しか住んでいない感じがした。それでもダーウィンはNorthernTerritory(『ノーザン・テリトリー』と言って、連邦政府の直轄地で特別区)の中で一番大きい町、しかも州都の機能も兼ねていた。それにも関らず、ダーウィンに各国大使館や領事館は無かった。ダーウィンは小さい町なので、何処へでも歩いて用が足せた。市内バスなんて走っていないし、タクシーも見掛けなかった。鉄道も貨物専用で、キャサリンまでしか敷設されてなかった。ホテルなんて洒落た宿泊施設は無いし、観光する所も無いので当然、観光客が来る所ではなかった。何しろ不便な所で、見るべき物は原住民(アボリジニ)と大自然だけであった。この様な所だと知らず、オーストラリアへ安く行けると思っ...ダーウィンの話と対日感情嫌悪の理由の話~ダーウィンの旅

  • 初めての仕事は日本船荷役作業~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月7日(金)晴れ(初めての仕事は日本船荷役作業)8時30分、Darwin(ダーウィン)の町まで6~7km程であろうか、ヒッチして行った。太陽が燦々と降り注ぎ、夏の気候(ここは亜熱帯地域)で暑かった。ダーウィンは、明るい感じのする静かな町であった。家と家の空間も広く取られ、庭の芝生が美しかった。そんな家並みの道路を歩いている人は、人っ子1人、見当たらなかった。昨日までゴチャゴチャ(超過密状態)したインドに居た事を思うと、この光景が返って奇妙に感じられた。すると向こうから私と同じ年齢位の労働者風の男が歩いて来た。「グッド・モーニング。」と私。「グッド・モーニング。」挨拶が返って来た。「私は仕事を探しているのですが、何処へ行ったら探せますか。」と躊躇なく彼に尋ねた。「それならPublicEmployme...初めての仕事は日本船荷役作業~ダーウィンの旅

  • 偉い所へ来てしまったぞ・・・~ダーウィンの旅

    ・昭和44年(1969年)3月6日(木)晴れ(偉い所へ来てしまったぞ・・・)*参考=オーストラリアの1ドルは、403円(1セントは、約4円)。 『寝坊してはいけない』と思い昨夜、YMCAの下働きの少女に言葉が通じないが、時計の針を指差しジェスチャで「明日の朝7時に起こしてくれ。」と頼んだ。しかし彼女は6時に来て、1時間も早く起こされてしまった。彼女は最下層の部類に入るのか、いつも入口付近で下働きをしていた。その彼女は私が滞在中、決して2階へ上がって来なかったし勿論、部屋へも入れなかったのだ。きつく言われているのであろうその彼女が、〝掟を破る行為〟(インドでは決められた仕事以外、出来ない)で、起こしに来てくれた。怒る気はなく、彼女にとっては高額過ぎるのであるが、感謝の気持で1ルピー上げた。彼女はニコニコして部屋か...偉い所へ来てしまったぞ・・・~ダーウィンの旅

  • 私が選んだインドの10大名物の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・私が選んだインドの10大名物の話インドは西ヨーロッパ諸国、社会主義諸国、或いはイスラム諸国と比べて色んな風習や文化の相違があり、そう言う違った面で色々な凄さと面白さがあった。その結果、カルチャーショックを受けたり、感動したり、悲しくなったり、色んな事を感じたり、体験したりした。とにかくインドは、今まで旅した国の中で、一番印象に残った。インド滞在も後1日、『やっとインドから逃れられる』と言う思いと同時に、『何か名残惜しい感じ』がした。如何してなのであろうか。インドの都市のあの異常な雑踏、街の不潔や路上生活者、乞食の群れ、リキシャに乗ればトラブルがあったし、列車を乗ろうとすれば駅員の盥回しの洗礼を受けた。まるで良い所が無い様なインドであったが、帰国してから誰かに尋ねられれば、「私は、又インドへ行きたい」そう答える...私が選んだインドの10大名物の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • インド人との取引の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・インド人との取引の話2万円で買ったカメラは、6年過ぎると幾らで売れるのであろうか。良く分らないが、日本の質屋では3千円から4千円程で売れるのか。 それがインドでは170ルピー(8,330円)で売れた。『儲かった』と思うべきなのに後から考えたら、それがその様に思えなかった。如何してなのか・・・。インドの映画会社は儲かっている様で、(助)監督はポケットから無造作に厚い札束を取り出し、その中からポンと惜しげもなく170ルピーの大金を払った。後で考えたら『もう少し高値で売れば良かった』と後悔した。私は何だか、最初から交渉に負けた気がしてならなかった。カルカッタを去る日が近づいた3月5日、テント張りの屋台のお土産屋で、買う目的で眺めていた。15㎝から20㎝程の大きさの象の木彫り物、珍しい石の指輪、その他たくさんインドの...インド人との取引の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • カルカッタのさらに輪をかけて人口過剰になった話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・カルカッタのさらに輪をかけて人口過剰になった話1971年(私が訪れた2年後)、〝バングラデシュ独立戦争に伴うインド・パキスタン戦争〟(第3次印パ戦争)が勃発し、再び800万人の難民が東パキスタンからカルカッタへ流れ込んだ。大カルカッタ圏の人口の内、その4割が難民であると言う。2001年の年次調査によると、カルカッタの市域人口は460万人、郊外を含む人口は1330万人である。そしてインドの人口は10臆6600万人であると言う(「国際地学協会」参考)。そして2006年9月のNHKニュースによると、『インドの人口は12億人』と発表された。因みに私が訪れた1968年は、『インドの人口は6億人』と言われていた。あれ程に〝産児制限運動〟(街の至る所に看板があった)を展開していたにも拘らず、この爆発的な人口増加はどうなって...カルカッタのさらに輪をかけて人口過剰になった話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • カルカッタの人口過剰の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・カルカッタの人口過剰の話今日(1969.3.1)、YMCAから歩いて街へ行って帰って来たが、それにしても人の数が凄かった。デリーやボンベイの大都市でその凄さに慣れていたが、カルカッタの凄さは、正に一級品であった。それはインド独特の臭いがする中、人人人又人、男男男又男が途切れる事なく街の全ての通り(裏通りも含む)を溢れんばかり(物凄い雑踏、超過密状態)に歩いていた。更に通りにはそんな人々と共にこれ又、大勢の物乞いをする乞食や浮浪者、家を持たない路上生活者達がそれに輪を加えていた。通りに女性が見掛けられないと言う事は、その男性の数だけ女性は家に閉じこもっている、と言う事なのだ。街の中で数少ない女性、特に綺麗なサリーを纏った女性を見かけると、その部分だけパット花が咲いた様な華やかさを感じた。街へチョッと出掛けただけ...カルカッタの人口過剰の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • シーク教徒の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・シーク教徒の話インド旅行中に於いてトラブルがあった時、よく助けて貰ったのが英語を話せるシーク教徒の人達であった。シーク教とはヒンドゥ教とイスラム教の融合をめざした宗教で、インドの中では2%の少数派、禁酒禁煙、不殺生を規則に持つ宗教であると言う。彼等はカースト制度の古い仕来りに縛られた伝統的なヒンドゥ教徒に比べて進取(職業の積極的な姿勢、取組)の気性が強く、近代化に対する適応も早かった。従って彼等は海外への商業活動も盛んに行なっていた。その影響か海外で見掛けたインド人は、大抵シーク教徒であった。特にロンドンで多くお見受した。  カーストの職業よる身分差別を受けないから、色んな職業に進出しているのだが、彼等の中にはバスやタクシーの運転手、闇両替屋、或はストリートボーイの元締めのオッサン達もいた。シーク教徒のシンボ...シーク教徒の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • リキシャマン(リキシャのおじさん)の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・リキシャマン(リキシャのおじさん)の話(注)1ルピーは49円(公定)、39円(闇取引)リキシャとは、リヤカーに似た2人用の座席がある二輪車を自転車で牽引する乗り物で、人力車の自転車番である。リキシャ・マン(以下「おじさん」と呼ぶ)は、そのリキシャの運転手の事です。リキシャはインド中、至る所で走っていた。都会の駅前はリキシャでいっぱいであった。大通りをリキシャが車の合間を縫って走っていた。便利で安く、大衆向けの乗り物であった。しかし、私はタクシーより必ずしも安いと思わなかった。リキシャの料金はキロ制で、1キロまで60パイサ、以後1キロ毎に50パイサであった(たぶん)。しかし別に料金メーターが取り付けてある訳でないので、交渉次第で値段はいくらでも変わった。黙っていれば何倍もの料金を請求(通常4~5倍吹っ掛けられる...リキシャマン(リキシャのおじさん)の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • 多民族・多言語と子供達の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・多民族・多言語と子供達の話インドは、一つの国に色々な人種の人々が住み、色々な言語を話す人々が住んでいた。そして、州や地域が異なれば人種や言語も違って来て、インド人にとっても他の州・地域は、まるで他国の様になるのだ。従ってインドの紙幣には、15の言語で『10ルピー』とその紙幣の額面を表示してあり、又公共的な鉄道の案内板には5~7の言語で書かれた案内表示があった。ヒンディー語は小学校の高学年から、英語は中学校から教えられている、と言われる。しかし、カーストの下層階級(シュードラや不可触民)、そしてバイシャでも身分が低い層の子供達はどうも学校へ行っていない様であった。この様な小・中学校へ行ってない多くの子供達は、昼間から商店、食堂等で大人よりキリキリとして働いていた。そして働く職場が見付けられない子供達は、自分達自...多民族・多言語と子供達の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • 人や牛のウンコ、トイレ及びゴミの臭い話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    △2015年○月○日の読売新聞記事・人や牛のウンコ、トイレ及びゴミの臭い話列車がニューデリーを出発後、私は暫らくの間、車窓から密集したバラックの家々、人々の様子等を見ていた。そうすると又、線路端のあちこちで人々が尻を出し、こちらを向いてしゃがんでいる姿が見えた。ニューデリーに到着する時もそうであったので、「ハハン、ウンコをしているな」と直ぐに分った。バラックの家にはトイレが無いのか、彼等は線路端で、或は空き地で構わずウンコをしていた。これもインドらしい光景の一つであった。私はアムリッツァルの国境でインドの入国手続きを済ませた後、ウンコがしたくなったので、そこの係官に「トイレは何処ですか。」と尋ねた。そうすると係官は「あちらです。」と言って、指でその方向を示した。そこは出入国管理事務所(実際は掘立小屋の建物)の裏...人や牛のウンコ、トイレ及びゴミの臭い話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • 貧しさの話~インドで見た・感じた・経験した事の話

    ・貧しさの話バラックの家々に住んで居る多くのインド人、数多くの路上生活者や乞食で溢れている街。そんなインドがいかに貧しいか、いかに厳しいか。FAO(国連食料農業機構)の統計(1973年現在)で次の様に報告されていた。1日1人の最低必要カロリーの1,900カロリーに達しない栄養不足を調査した所、86カ国の開発途上国で5億1,000万人が栄養不足状態。この内インドが何と2億5,000万人以上を占めていたと言う。インドの人口7億だから10人中4人近くは栄養失調なのだ。世界銀行によると、インド人の年収は平均226ドル。全体としては「絶対的貧困」を免れているが、全人口に於ける5分の1弱の都市人口が総所得の半分を占めているので、残りの5分の4強の人達は極端に貧しいのだ。要するにインドでは、極端に金持ちの一部の人間と極端に貧...貧しさの話~インドで見た・感じた・経験した事の話

  • カースト制度の話~インドで見た・感じた・経験した話

    ・カースト制度の話日記の中で、『上流階級』、或は『下層階級』の言い回しを書いて来たが、インドでは身分制度、所謂カースト制度が実際に存在していた。*以下、いくつかの参考文献を参考に纏めました。カーストには基本的に4つの身分がある。1番偉いのがブラーマン(司祭)、2番目がクシャトリア(武士)、3番目がバイシャ(平民)、1番下がシュードラ(奴隷)である。更にその下にハリア、又はアチュータ(英語でUntouchable、日本語で不可触民)が大勢いる。しかし実際には職業そのものがカーストになっていて、職業の数だけ身分があると言う。現代風的職業を大まかに分ければ、1番偉いのはブラーマン(僧侶)、2番目はクシャトリア(軍人、実業家)、3番目はバイシャ(一般庶民)、1番下はシュードラ(洗濯人、掃除人等)である。身分制度に入らな...カースト制度の話~インドで見た・感じた・経験した話

  • インド最後の日~カルカッタの旅

    ・昭和44年3月5日(水)曇り(インド最後の日) BOACの営業所へ行って、ダーウィンまでの航空券(336米ドル)を買った。M&M券では足らず、10ドルばかりをトラベラーズチェックで支払った。あれ程悩んでいたオーストラリア行きはこれで決定し、明日いよいよオーストラリアへ行く事になった。ルピーが残りそうなので〝インドのお土産〟(インド人との取引の話を参照)を買いに行った。夕食は中華レストランで食事をして、インドの最後の夜を過ごした。インド最後の日~カルカッタの旅

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