△私と左は同室の橋本さん~ソ連船ハバロスク号にて・昭和44年(1969年)7月6日(日)晴れ(私の旅はここに終る)朝食を済ませ、出立準備を整えてから女将に勘定をお願いした。彼等に「ここの旅館代は私も払う」と言ったが、彼等は「Yoshiにはお世話になったから。」と言って私の分を払わしてくれず、6人で割って各自出し合って払ってしまった。一昨日も昨夜も、「Yoshiにはお世話になっているから。」と言って飲み代は彼等が払っていた。今日、彼等はこれから日光見物へ出掛けるのでした。「私も付き合う、行かせてくれ。」と言ったのに、彼等は「Yoshiは1年振りの故国、家族が待っているので早く帰って上げなさい。」と言って、私の同行を許してくれなかった。私の気持としては、彼等といつまでも旅をしたかったが、実を言うと私にはもう日光へ行...私の旅はここに終る~日本の旅
△熱田神社前にて~左からエバンス、私、タン、メアリー、ベンドレィそしてフレッド・昭和44年7月5日(土)小雨後曇り(名古屋、東京見物)16日間航海したチルワ号ともこれで永遠の別れとなり、私は昨日、鳥羽へ行った〝乗船仲間6人〟(オーストラリア人のMrs.ElaineEvansエバンス夫人、Mr.DoneBendleyベンドレィ氏、アメリカ人のメアリー、中国系香港人のフレッド、中国系マレーシア人のタンとフィリップ)と共に名古屋へ行った。私の案内で名古屋城や熱田神社を見物後、新幹線ひかりで東京に来た。日本の新幹線は彼等にとってその速さ、鉄道技術の高さ、施設にビックリするやら、感心するやらの新幹線の旅であった。曇りの為、富士山を見る事が出来ず、彼等は本当に残念がっていた。東京駅観光案内所で今夜のホテルを予約しようと思っ...名古屋、東京見物~日本の旅
・昭和44年(1969年)7月4日(金)小雨(四日市入港と鳥羽見物)朝起きて、日本本土が見えるか、甲板に出てみた。小雨が降っていて視界が悪く、まだ何も見えなかった。南太平洋の海は紺碧の色をしていたのに、日本近海の海は、余りにも濁っていた。日本経済の発展の裏で環境や自然が破壊され、海や河川が汚染されていたのだ。何も見えなかったが、暫くの間甲板に佇んでいると、何処かの島か本土が遠くぼんやりと見える様になって来た。何日も何日も見えるのは大海原だけであったのに、行き交う船も見られる様になって来た。『日本だ!日本に近づきつつあるのだ!嬉しい!やっと帰れるのだ!』という気持と、『私はもう旅人ではなくなるのだ。』と言う一抹の寂しさが入り混じった、おかしな気分になって来た。朝食が済み、間もなくしてから日本船が横付けされ、税関・...四日市入港と鳥羽見物~日本の旅
△船内の食事風景(一番右が私)~私の右隣から若夫婦(男は髭を生やした26歳前後)、おじさん、おじさんの娘、高級船員、おばさん、そして私の左隣はアメリカ人のメアリー・昭和44年6月24日(火)~7月3日(木)(船旅を楽しむ)最初の頃、救命袋の着用方、及びBoatStation(救命ボートが格納されている所)へ集まり、ボートへの人員、並びに割り当等を確認し、異常時に於ける脱出訓練が3回あった。船旅で一番の楽しみ、それは食事であった。朝は8時30分から、昼食は午後1時から、そして夕食は午後7時からであった。昼食と夕食の基本的な料理を紹介すると、スープに始まり魚料理、肉料理、パン、アイス・クリーム、果物、そしてティー若しくはコーヒーであった。日によって料理の種類は変わり、料理については満足であった。しかし、食事の時のテ...船旅を楽しむ~船内の様子
・昭和44年6月23日(月)晴れ(黄金色に染まった港を出港)本日12時に出航予定であったが、午後の5時に変更された。そして太陽の沈む頃、ブリスベン港に黄金色の光景を残し、船は静かに出港した。これでオーストラリア連邦国、そしてオーストラリア大陸の本当の見納めになるので、その想いは一塩の物があった。私はデッキに佇み、黄金色に染まったブリスベン港、そして日が沈んでからもモートン湾の光景を虚ろに見ながら、いつまでオーストラリアの日々に思いを馳せた。シドニーと同じくブリスベンも内陸まで湾が入りこみ(河口まで20km程)、外洋に出るまで1時間余り要した。黄金色に染まった港を出港~心残りでオーストラリアを去る
△ブリスベンの絵葉書(寄港した時に買ったもの)・昭和44年6月22日(日)晴れ(ブリスベンの日曜日の様子)船はブリスベン港に1日中、停泊していた。退屈で仕方ないので午後、映画でも見に行こうと街へ出掛けたが、3軒ある映画館全てが日曜の為、閉まっていた。1軒ぐらい営業しているであろうと思ったが、オーストラリアの徹底した日曜日のあり方を再確認した思いであった。無人となった街をぶらついて、船に戻りボンヤリと過した。ブリスベンの街は、閉まっているのは何も映画館だけではなく、シドニーより徹底して全ての店が閉まっていた。街から人々が居なくなり、まるでゴーストタウンの様に静かであった。市民は郊外のゴールドコーストヘ行って過しているのであろうか。出掛けない人は何もする事がないので奥さんの手伝い、或いは庭や家の手入れをするぐらいし...ブリスベンの日曜日の様子~心残りでオーストラリアを去る
・昭和44年6月21日(土)晴れ(スケベなフレッド)一昨日夜から昨日、船はかなりローリングしたので気持が悪かった。お陰で昨日の昼食は、喉を通らなかった。 チルワ149号は、今日の朝方の早い時間にブリスベンに入港した。昨日知り合ったFreadKelly(私は「フレッド」と呼んでいた)と共に朝食後、バスでブリスベンの街へ出掛けた。ブリスベンは、クィーンズランド州の州都。ここはシドニーよりとても温かく(少し暑いぐらい)、通りに椰子の木の繁るのが見られ、南国の風情を感じた。今日は土曜日で、街は静かであった。特に何処かへ行った、或は見学したと言う事ではなく、我々はブラット街を一回りして、再び船に戻って来だけであった。 クィーンズランド州に足を踏み入れたのは、これで2度目であった。地図を見ると、このブリスベンから真っ直ぐ西...スケベなフレッド~心残りでオーストラリアを去る
仲間達との別れ、そして出航の様子~心残りでオーストラリアを去る
・昭和44年6月19日(木)曇り(仲間達との別れ、そして出航の様子)4月14日からルームメイトの栗田と共に住み始めたこのキングスクロスのレントルームを去る日が来た。9時頃起きて出発の準備をしていたら、岡本と杉本が見送りの為に来てくれた。10時半頃、大屋のミセズ・ジャクソンおばさんにお世話になったお礼と共に別れの挨拶をし、大通りのウィリアムズ通りから栗田と共に4人はバスに乗った。私はシドニーに来て以来、初めてバスに乗ったのが、シドニーの最後の日であった。 バスは思い出のあるキングスクロス地区を後にし、博物館を左に見てハイド・パークを横切り、ダーリング港(WharfofOceanTerminal,SydneyCove)まで行った。杉本はカメラを取りに途中下車し又、後から来てくれた。私の乗船するローヤル・インターオー...仲間達との別れ、そして出航の様子~心残りでオーストラリアを去る
博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅
・昭和44年6月18日(水)晴れ(博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ)昨日、家族や友達の為に何かちょっとした物でも良いからオーストラリアの記念となるお土産(カンガルーの毛皮、ブーメラン等)をジョージストリートのシドニー・ケイブ寄りに買いに行った。そして今日、岡本と共にAustralianMuseum(オーストライア博物館)へ行った。この博物館はハイド・パークの東側ウィリアムズ・ストリートに面して、いつも貨物駅とステーキハウスのレストランへの勤めの行き帰りに見ていたが、入ったのは今日が初めてであった。この博物館はオーストラリアの自然、古生物、動植物、鉱物、人種等に関する展示品があった。その中でポリネシア、メラネシア及びアボリジニの美術、彫刻、生活様式、道具、調度品等が印象深かった。特に、メラネシア諸島の...博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅
タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛~キャンベラ、シドニーの旅
△1969年(S44年)当時のシドニーの全景(ほとんどの建物はイギリスの様にレンガ造りであった)~絵葉書より△今の(2015年)シドニーの全景~CFN・昭和44年6月15日(日)曇り(タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛)午後3時頃、最近知り合った牛丸さん(仮称、以後敬称省略)の所へ行ったら、動物園へ行く事になった。我々2人はポート・ジャクソン湾(通称シドニー湾)のサーキュラー波止場NO5からフェリー(船賃往復30セント)に乗った。因みにサーキュラー波止場は、オーストラリアへ最初に移住者が上陸した地点であった。私は船上からオペラハウス、ハーバーブリッジ、そして対岸の街並み等の光景を眺めていたら、改めてシドニー湾の美しさを再認識した。 15分程で対岸のタロンガ動物園(入園料60セント)に着いた。動物園側から見る...タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛~キャンベラ、シドニーの旅
マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う~キャンベラ、シドニーの旅
・昭和44年6月13日(金)晴れ(マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う)7時に起きてシャワーを浴び、自炊の朝食を取った。今日、シドニーへ帰る日であった。ユースを出る際、マイケルとブレインに別れを告げた。「昨日、Yoshiに会えて本当に良かったよ。無事、帰国出来る様祈っています。」とマイケル。「パースで仕事を見付けた後、何処へ旅するの?」「ヨーロッパへ行こうと思っています。」「マイケル、良い仕事が見付かり、良いヨーロッパの旅が出来るよう祈っているよ。それでは元気で、グッドラック。」とマイケルと握手した。「ブレイン、昨日君とキャンベラ観光が出来て楽しかったよ。有り難う。」と彼に手を差し伸べ、ガッチリ握手を交わした。親しくしてくれた貨物駅の友・マイケル、そして気さくな旅人・ブレインとの...マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う~キャンベラ、シドニーの旅
・昭和44年6月12日(木)晴れ(キャンベラ観光とマイケルとの再会)今日、ブレインと共に市内見物に出掛けた。最初、我々は戦争記念館(オーストラリア人戦没者の慰霊の為に国が建てた記念館)へ行った。館前にドイツの列車砲(貨物車に長砲身・大重量の大砲が備えられている列車)と旧日本海軍の2人乗り用特殊潜航艇が我々を迎えてくれた。館内は戦争絵画、ジオラマ、その他展示物があるが、数としては少ない感じであった。目立つものとして、オーストラリアのアンザック作戦の物が多かった。日本関係として、1945年ボルネオ島で獲得した日本軍の豆戦車2台、各種兵器、軍刀、日の丸の寄せ書き等が展示されていた。私はその寄せ書きの一つに、『米英なんぞ怖れるな。男だ度胸だやっつけろ』と言う文言が印象に残った。絵画には幾つかの原爆投下後の広島や東京の焼...キャンベラ観光とマイケルとの再会~キャンベラ、シドニーの旅
キャンベラへ最後のヒッチの旅 、そしてホテル付きのパブの話~キャンベラ、シドニーの旅
・昭和44年(1969年)6月11日(水)曇り(キャンベラへ最後のヒッチの旅)私は6月9日に貨物駅(正式名はNSW州有鉄道ダーリング・ハーバー貨物駅『DaringHarborGoodsStation』)の仕事を辞めた。その夜から10日未明に掛けて凄い雷雨があった。稲光と共に響き渡る雷鳴に驚かされてしまった。冬(こちらでは6、7、8月が冬)でも、こんな雷雨があるのかと思うほどであった。オーストラリア滞在も残り僅かになって来たので、この国の連邦の首都・キャンベラまで、最後のヒッチの旅へ出掛ける事にした。6時に起きて、シドニー郊外のBankstown(バンクスタウン)まで電車で行き、そこからヒッチを開始した。リュックを背負っての旅は、大陸横断以来で『旅はやはり良いなぁ』としみじみと身体で感じた。でも若しかしたらこれが...キャンベラへ最後のヒッチの旅、そしてホテル付きのパブの話~キャンベラ、シドニーの旅
・シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話ダーウィンで稼いだ30豪ドルは、4月13日になくなった。私はレストランと貨物駅の仕事を見付け又、K氏との共同生活も始まった。その4月13日から6月18日までの収支の大雑把な纏めである。*1豪ドル=405円1米ドル=360円○手持ち金の部(4月13日現在)~トラベラーズチェック89豪ドル(米$100)。現金聖徳太子3枚74豪ドル=合計163豪ドル○収入の部・レストラン4月13日、20日、27日は6ドル25セントで合計18ドル75セント。5月4日は9ドルで合計9ドル。5月11日、18日、25日、6月1日、8日は12ドルで合計60ドル。レストランの稼ぎは87豪ドル。・貨物駅4月14日~24日分は74ドル。4月28日~5月2日(4月30日休む)分は33ドル60セント。5月5日...シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話~シドニー滞在
・昭和44年6月3日(火)雨(無気力状態に陥る)今日、仕事に出掛けるのが億劫に感じた。それに雨が降っているのに傘が無かった。面倒くさくなったのでズル休みをし、10時まで寝ていた。5月28日のK氏(同居人)との意見相違は、良い教訓になった。最近、彼とは話をしなくなっていた。と言うより、今まで語り過ぎていた。話は変わるが、後2週間でオーストラリアを去り、帰国の途に着くのだ。私の旅も終りになり、現実の社会、生活が待っていると言う事だ。今までは、『外国へ行く』と言う事が私の生きがいであった。そしてそれが実現し、日本を脱出してからは旅を続ける事が私の一つの目標であり、又それに向けて色々と遣って来た。しかしその帰国が近づくにつれて、その張りも失せ、全てが終った感じになって最近、無気力になっていた。あれ程心配していた仕事も見...無気力状態に陥る~シドニー滞在
・昭和44年5月14日(水)晴れ(空手の先生と出会う)貨物駅の仕事帰りは、ジョージストリートを横切るか、その通りを少し歩いてウィリアム・ストリートの交差点を右折して帰るのが、私の通常のルートでした。私がジョージストリートを歩いていたら、スポーツセンタージム(585GeorgeSt)があった。外からジムの様子を見していたら、4~5人の男性が色々な運動器具を使って身体を鍛えていた。又、ジムにはボクシングのリングもあった。すると中から、「どうぞ中に入って見て下さい。」とオーナーらしき人が招いた。ジムの中に入るとその彼が、「貴方は日本人ですか。」と聞いて来た。「そうです。」「こちらに来てコーヒーでも飲んで下さい。」と言って私を奥の応接室へ招いた。「この辺りで働いているのですか。」「そこの貨物駅で働いています。」「帰りは...空手の先生と出会う~シドニー滞在
・昭和44年5月5日(月)曇り~12日(月)晴れ(乗船券購入と滞在期間再々延長)・5月5日~今日、船会社へ行ったら、運良く1人分のキャンセルがあった。それが最後の乗船券であると言うので、その乗船券購入の予約をした。・5月7日~運良く乗船券が買えるのは、『早く帰国した方が良い』と言う神のお導きなのか。私は所持金を掻き集め、足りない分はルームシェアをしているK氏から一時借りて、船会社へ買いに行った。(参考)1A$=403円、1U$=360円、100U$=89A$、3万円=74A$、船会社名~RoyalInteroceanLines、乗船区間~シドニーから四日市、船名~Tjiluwah(チルワ149号)、クラス~ツーリスト、グレード~“TB”TBH40、出航予定日~1969年6月19日船賃~268A$=300US$=...乗船券購入と滞在期間再々延長~シドニー滞在
・昭和44年5月1日(木)晴れ(義姉の死、そして帰国を決心)貨物駅の仕事が終え、家族や友達から手紙が来ていないかと思い、以前宿泊していたYMCAに立ち寄って見た。そうしたら私の妹、昨年の12月18日に帰国していた最初の頃に共に旅をしていた鈴木、そしてロンドンのレント・ルームに住んでいた頃の階下の女性マリアンから手紙が来ていた。鈴木が無事に帰国した事は嬉しかったし、マリアンからの手紙も嬉しかった。しかし妹からの手紙は悪い知らせであった。【妹の手紙の内容】・・・前文省略・・・。兄さんが日本を去ってから9ヶ月間が経ちました。その間、兄さんは色々な事に出会い、経験し、又色々な事を感じて来られたでしょうね。こちらは悲しい事が起こりました。どうか驚かないで下さい。とても信じられない事です。2月8日(私はこの日、ニューデリー...義姉の死、そして帰国を決心~シドニー滞在
・昭和44年4月30日(水)(滞在期間延長しに移民局へ)滞在期間を延長して貰う為、仕事を休んで移民局へ行った。朝、バスに入りサッパリして、私の全ての所持金、ならびに岡本から前もって借りた見せ金の100ドルを持参し、背広を着て出掛けた。Gパンにジャンバースタイルでは心証を損なうと思い、背広も岡本から借りたのであった。今まで服装には構わず、Gパンやジャンバースタイルでやって来たが、ここに来て如何してと思うが、やはり今回の滞在期間延長は、『非常に大事である』と捉えていた。因みに私の背広はダーウィン滞在中、実家へ送ってしまったのだ。移民局係官は滞在期間延長申請の際、オーストラリアから出国する為の航空券又は乗船券の所持を重要視していた。この国から一番近い外国は、ポルトガル領チモールであった。そんな訳で取り敢えずダーウィン...滞在期間延長しに移民局へ~シドニー滞在
・5月16日(金)~6時15分に起きた。味噌や醤油ラーメン等の日本食を売っている店が郊外にあり、そこで買った即席ラーメンを作って食べ、それから25分掛けて、歩いて職場へ行った。着いたら、今日10時から我々NSW州有鉄道労働組合はストライキを実施する事を初めて知らされた。今日も又、ドライバーの横に座っての補助的な仕事をした。10時になった途端、仕事がまだ残っているのにスパッと一斉に仕事を止めてしまった。その統率が取れているのは、見事であった。確かに我々の賃金は安い、しかし我々荷役労働者は大した仕事をしていない、なのに『賃上げ要求は少し虫が良すぎる』と私は疑問を感じた。職場放棄後、午後2時から仕事を再開する、と言う事であった。4時間ばかり間があるので、私は一旦家に帰って出直した。職場に戻ったら、今日はもう仕事をしな...シドニー貨物駅の話(その2)~シドニー滞在
・シドニー貨物駅の話(4月14日~6月6日まで)こちらも週給制で1週間に一度、賃金は支払われていた。入ったばかりで、先週は支払われなかったが、今日4月29日、2週間分(4月14日~4月24日分まで。但し休みの土、日、祝日は除く)として74ドル貰った。1日7時間労働で8ドルとチョットとは余りにも賃金が安かったが、仕事は非常に楽で、何とも言え無かった。因みにダーウィンでは1日8時間労働で12ドル貰っていた。私の職場はシドニーの西側にあり、『ダーリング・ハーバー』と言う港近くの貨物駅(正式名『DaringHarborGoodsStation』)でした。キング・クロスの家から歩いて25分で職場へ行けた。通勤は電車賃を節約する為、大通りのウィリアム通りを使うか、裏通りを使って毎日歩いて往復していた。勤務時間は、普通8時0...シドニー貨物駅の話(その1)~シドニー滞在
・昭和44年4月14日(月)小雨(初出勤の貨物駅の仕事)今日は珍しく雨が降った。右も左も分らない貨物駅での初仕事であったが、何とか1日無事に終った。他の仲間がたくさんいるし、仕事はきつくなく、まぁまぁであった。後ほどその仕事の内容を纏めて書きたい。・昭和44年4月25日(金)(祝日と最近の状況)今日は、アンザック・デー(第一次世界大戦戦勝記念日)で、国民祝日であった。働いていると久し振りの休みの日は、やはり良いものだ。朝寝坊をした後、洗濯(電気洗濯機が無く手洗い)をしたり、シーラ、家族、そして友達へ近況報告の手紙を書いたり、溜まった日記を書いたりして過ごした。今日以降の私の休日は、土曜日だけであるが、とにかく月曜日から金曜日までシドニー貨物駅の仕事、そして日曜日のレストランの仕事が見付かり、経済的にずっと安定し...祝日と最近の状況~シドニー滞在
・レントルームとKさんの話レントルーム(大家はMrs.Jackson)の場所は、シドニーでも有名な地区、そして一番の歓楽街キングス・クロスから歩いて5分以内の閑静な所であった。又、ポート・ジャクソン湾をハーバーブリッジで渡ったシドニーの北部以外、シドニーの主な場所へはここから殆んど歩いて行けた。住所は1RosebankStKings-CrossSydneyで、65歳前後のジャクソンおばさんの持ち部屋を借りて滞在した。広さは10畳程と4畳半程の部屋、それに狭いがキッチンとバスルームが付いていた。ベッドは10畳程の部屋と4畳半程部屋に各一つあった。Kに奢ってもらった事もあるし、歳上なので敬意を表す形で、私が狭い部屋の方のベッドを使用した。各々の部屋は特に独立しておらず、ちょっとした仕切りがあるだけであった。ロンドン...レントルームとK氏の話~シドニー滞在
・ステーキ・ハウスの仕事の話(その2)○4月27日(日)~私はシドニーのジョージストリートにある、ステーキ・ハウスで週一の日曜日だけの仕事を見付け、今日は3回目の仕事日であった。この日の終了時に、「5月4日の日曜日は11時45分に来てくれ。」とボスに言われた。仕事の時間が向こうの都合で変わる様になって来た。○5月4日(日)~今日は11時45分から午後2時頃まで仕事をし、それから一旦帰宅した。シャワーを浴びて時間を見計らって、再び夕方5時からステーキ・ハウスへ出掛けた。仕事が終り、私はボスに「話があります。」と言って、私とボスは店のテーブルを挟んで席についた。「日曜日はホリデーで働く者の休みの日なのです。しかし、私はホリデーに働いているのです。その割に私の賃金は安すぎる。ホリデーを加味した割増金が欲しい。それに労...ステーキ・ハウスの仕事の話(その2)~シドニー滞在
・ステーキハウスの仕事の話(その1)○4月13日(日)~私はシドニーのジョージストリートにある、ステーキハウスで週一の日曜日だけの仕事を見付け、今日から皿洗いの仕事をする事にした。時間は午後5時から9時45分までであった。この仕事はロンドンで既に経験済み、行ったその日から1人でこなした。本番の従業員がいるが、日曜日が彼の休みの日なので、私はその代わりであった。皿洗いと言っても、ほとんど皿洗い機があるのでその操作と、食器類を拭くのが主な仕事であった。この店は月曜日から日曜日まで休まず営業していた。店の規模は4人掛けのテーブルが20程、他と比較して大きくないが、小さくもなかった。店の奥に調理室があり、その脇を通って更に奥へ行くと、私の仕事場になっていた。そこは、食器洗い場とビールやワインの貯蔵庫があり、ウェイトレス...ステーキハウスの仕事の話(その1)~シドニー滞在
△性病検査の様子(本当は一列に並んで)ーPaintedbyM.Yoshida・昭和44年4月11日(金)曇り(生まれて初めて『ナニ』の検査を受けた)昨日、職業紹介所から紹介されたNSW州有鉄道シドニー本社のEmploymentInquiryOffice(雇用受付所)へ、指定された時間に行った。私の他に10人程が集まって来た。 所定の説明後、別の部屋にて身体検査があった。体重や身長測定から一通りの検査が終って、ある検査係の所に来たら、「全員服を脱いで下さい。」と言った。皆が脱ぎだしたので私も上着、下着、ズボンを脱いでパンツ一丁になった。他の人達を見ると全員フルチン(何も付けない素っ裸の状態)で、驚くほど脱ぎっぷりがよかった。私はと言えばパンツを履いていたので、「パンツも脱ぐのだ。」と言われてしまった。身体検査でオ...生まれて初めて『ナニ』の検査を受けた~シドニー滞在
・昭和44年4月10日(木)晴れ(シドニー貨物駅の仕事を見付ける)今日も仕事探しに、早めに例の個人が経営している職業紹介所へ行って見た。スタッフは電器クリーナーでビルデングの床を清掃する仕事を斡旋してくれたので、私は早速、その会社事務所を訪ねた。そこの事務所のスタッフから私の国籍、住所、名前、この仕事の経験の有無、どのくらい長く努められるのか等、簡単な質問を受けた。「採用の可否は、もう少し経ってから来てくれ。」と質問された後、この様に言われた。「もう少しとは何時間後ですか。」「30分から1時間後です。」そしてそれから早めの30分後に再び事務所へ行ったら、「既に他の人にお願いしました。」と言われ、断られてしまった。「如何して私は駄目なのですか。」と聞いた。「貴方の査証関係で長く働いて貰えそうもないので、他のギリシ...シドニー貨物駅の仕事を見付ける~シドニー滞在
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