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  • シーラとの日々、そして、別れ~シーラ、ジャネットとの永遠の別れ(その2)

    △昭和44年か45年に送られてきたシーラの水着写真(イギリスへ折角行ってシーラの写真は一枚しか撮れなかった、と言ったら)・昭和43年11月6日(水)曇り(シーラ、ジャネットとの永遠の別れ)その2私はハイドパークを散策後、シーラの所へ行った。ジャネットも来ていて、3人で最後の食事となった。最後の食事の他、今日もう1つ悲しい事は、シーラが勤めている会社(マックスファクター化粧品の子会社)が倒産し、明日を持って最後の出社になり、今後の仕事はまだ見付かってない、との事であった。勤勉な彼女は、ここ1ヶ月間、落ち着いて仕事が出来ないようであった。そして今日の彼女は、いつもより悲しい様子であった。彼女が苦労しているのに、私はロンドンに長居をして彼女に迷惑や気苦労を掛けてしまって、大変申し訳ないと思った。しかし最後の最後まで彼...シーラとの日々、そして、別れ~シーラ、ジャネットとの永遠の別れ(その2)

  • シーラとの日々、そして、別れ~詩 題名「旅」

    △挿絵PaintedbyM.Yoshida詩題名「旅」旅は、人生に生き甲斐を与える。旅は、楽しい。それは、春の訪れのように。旅は、寂しい。それは、晩秋の落葉のように。旅は、出逢いであり、又、別れである。旅は、人生であり、人生は、又、旅である。人生は、旅で始まり、そして、旅で終る。作者YOSHI(昭和43年11月6日、ロンドンのハイド・パークを散策中に突然、この詩が閃いた)シーラとの日々、そして、別れ~詩題名「旅」

  • シーラとの日々、そして、別れ~シーラ、ジャネットとの永遠の別れ

    △トラファルガー広場にて(折角イギリスへ行ってシーラの写真はこれ一枚だけ、しかもピンボケ、非常に残念であった)・昭和43年11月6日(水)曇り(シーラ、ジャネットとの永遠の別れ)その1イランの査証が出来ているので、大使館へ取りに行った。その帰りに、誰もいないHydePark(ハイドパーク)を散策した。もうすっかり晩秋になっていた。公園内の落ち葉は深く、ザックザックと歩くと音がした。公園脇の道路は車が忙しそうに往来しているが、ここは別世界、まるで山奥に居るように静寂であった。ロンドンは毎日重苦しい厚い雲に覆われ、時には咽び泣く様な小雨が続いた。太陽は昨日か一昨日拝んだ以外、何ヶ月も拝んでいなかった。そんな天候が影響してか、孤独な生活と相乗して、寂しさが一層込み上げて来る今日この頃であった。思えば、旅を通して色々な...シーラとの日々、そして、別れ~シーラ、ジャネットとの永遠の別れ

  • シーラとの日々、そして、別れ~日本食レストランで食事を楽しむ

    △昭和44年か45年に送られてきたシーラの写真(イギリスへ折角行ってシーラの写真は一枚しか撮れなかった、と言ったら)・昭和43年9月30日(月)曇り(日本食レストランで食事を楽しむ)今日、仕事は休みの日であった。午後7時、ボンドストリート駅でシーラと待ち合わせをして、日本レストランへ行く事になっていた。『いつもご馳走になって申し訳ないし、日本食を是非、彼女に食べさせてあげたい』と言う想いもあったのでした。駅を出て、オクッスフォードストリートの向こう側、狭い道を入った所に日本レストランHiroko(ひろこ)があるのを前もって調べておいた。我々が7時過ぎに行ったら、「只今満員で、8時過ぎに席が空く」と言うので、その時間帯に予約を取った。カフェ店でコーヒーを飲んだり、街を散策したりして、1時間程過してから8時過ぎに、...シーラとの日々、そして、別れ~日本食レストランで食事を楽しむ

  • シーラとの日々、そして、別れ~シーラの悲しそうな顔

    △1961年自宅にての16歳のSheilaMorgan、シーラとの日々、そして、別れ・昭和43年9月23日(月)曇り(シーラの悲しそうな顔)今日は月曜日で私の休みの日、そして部屋も見付かり、久し振りに心身共にゆったりとした気分で過すことが出来た。昼間、家族や友達へ手紙を書いて過した。特に先輩のOさんへ、大事なM&M乗船券変更手続きのお願いの手紙を書いた。M&M乗船券は、別途書留で送る事にした。夜、シーラの所へ遊びに行った。彼女はマミと同じ働き者で、会社の休みの土曜と日曜に、ロンドン郊外へアルバイトとして、オナーの馬のお世話をしに出掛けていた。私と彼女の仕事の関係で、会える都合の良い日は月曜日だけであった。誰も友達や知人がいない約50日間のロンドン生活が出来たのも、彼女に毎週月曜日に会える楽しみがあったからこそと...シーラとの日々、そして、別れ~シーラの悲しそうな顔

  • 私のロンドン生活~暇な時の話

    △ハイドパーク(PFN)・暇な時の話“私の休みの日”(毎週月曜日)は、近所の公園やロンドン中央へ、よく散策に出掛けた。陰うつな天候で暗い部屋に居ると、余計に寂しさを感じたので、外出したのもその為であった。外へ出掛けると、必ず何処かの公園、“広場”(スクウェア)に辿り着いた。それ程ロンドンは大都会にも拘らず、公園が多かった。ロンドンは、『公園都市』と言っても過言ではなかった。それに、皆立派でよく手入れもされていたし、ゴミも落ちていなかった。イギリス人は、公共道徳がある証なのであると感じた。ロンドンの代表的な公園は、リージェント・パーク、ハイド・パークやケンジントン・パーク等がある。これらの公園は、広いので一回りするのにかなりの時間が必要である。余ほど暇人かジョキングをする人以外、一回りする人はいないであろう。ロン...私のロンドン生活~暇な時の話

  • 私のロンドン生活~買い物の話

    ・買い物の話八百屋、魚屋、そして雑貨屋も近くのHighburyStreet(ハイバリー通り)にあるので、買物は不便でなかった。しかし野菜や魚の種類は日本より少なかった。特に野菜の種類は顕著であった。イギリスは、〝アメリカ式ストア〟(スーパーマーケット)の近代的な店ではなく、個人経営の従来の店舗型であった。スーパーマーケットは北欧やドイツで見掛けたが、その他の国では見掛けなかった。買物は1人生活なので量に於いて不便さがあった。1度何かを買うと何日も残った。特に食パン(一斤。こちらは防腐剤が入っていない)を買うと2・3日でカビが発生し、勿体ないが捨てた事も度々あった。買物時の失敗談と言うか、チョットした事があった。それは・・・・。下町の郵便局へ行った時、マッチが売っているので、私はそれを買おうと思った。局員のおばさ...私のロンドン生活~買い物の話

  • 私のロンドン生活~ミルスおじさんの話

    ・ミルスおじさんの話あの日(1968年9月21日)の深夜、泊まる所が無く困り果てて通りを歩いている時、ミルスさんに会わなかったら、今頃はどうなっていたか分らなかった。彼はシングルベッド一つにも拘らず私を泊め、朝食を作ってくれて、直ぐに今の部屋を探してくれた。命の恩人に値する程に恩があり、私のロンドン生活が出来たのも、彼のお陰であった。彼に親切、恩を受けておきながら、仕事や生活が落ち着かなかった理由があったがその後、直ぐにお礼に行かなかったのは、本当に私の怠慢であった。決して忘れていた訳ではなく、『近い内にお礼に行こう』といつも思っていた。11月11日頃、ロンドンを去る予定であったので、11月に入って直ぐ、食料品を買って、それを手土産に彼の所へ行った。しかし、折角行ったのに留守であった。隣の部屋に住んでいるおばさ...私のロンドン生活~ミルスおじさんの話

  • 私のロンドン生活~食事作りの話

    ・食事作りの話1人生活では、何と言っても億劫なのが食事作りであった。オックスフォードストリートのレストランで働いていた時は、お店で夕食が食べられたので、部屋で朝昼兼用の食事で済ませていた。又、ボンドストリートのレストランの時は、昼食と夕食が食べられたので、部屋で軽朝食を食べてから出掛けていた。「朝昼兼用」や「軽い朝食」と言っても、それは貧しい食事であった。ジャガイモを煮て、皮を剥き、マーガリンを塗り、それにパンとコーヒー、時にゆで卵を付けた食事が主であった。偏った栄養だが『量と栄養はレストランで』と言う考えでしたので、それで充分であると思っていた。仕事が休みの月曜日は、いつも10時過ぎまで寝ていて、それから朝昼兼用の食事を作っていた。その休日の兼用の食事は、少し豪華にして〝スペイン風お好み焼き料理〟(スペインで...私のロンドン生活~食事作りの話

  • 私のロンドン生活~寂しさの話

    △ハイドパークのスピーカーズコーナー(PFN)・寂しさの話私のロンドンでの生活は、話し相手がシーラ以外、誰も友人知人が居なかったので、孤独であり、寂しさもあった。又、必要最低限以外、お金を使えないので娯楽や食事も楽しめず、おまけにテレビやラジオも無いので、虚しかった。それに輪を掛けて毎日、陰うつな天候が続き、孤独と寂しさに拍車を駈けていた。私の寂しさを癒してくれたのは、時たまパブへ行ってビールを飲んだ事、シーラの心使いで週に1度、彼女の所へ遊びに行けた事、そして日本から来る先輩のOさんや友達の手紙でした。私もまた手紙を送ってもらえるよう、まめに手紙を書きました。返事の手紙がそろそろ来る頃の9時半前後、1階の郵便受けに手紙が配達されているかどうか、ちょくちょく見に行ったものでした。手紙が来ていると本当に嬉しく、日...私のロンドン生活~寂しさの話

  • 私のロンドン生活~「霧の都ロンドン」の話

    ・「霧の都ロンドン」の話ロンドンの天候は、毎日どんよりした曇りの日が多く、時々、小雨が降った。晴れた日は、私がロンドンに滞在するようになってから1・2度だけであった。毎日毎日、曇りか小雨では憂鬱(ゆううつ)で、心も晴れなかった。しかしロンドンは例え雨が降っても小雨のなで、余り傘の必要性は無く、そして降っても1日中降り続く事はなかった。ロンドンは、よく「霧の都」と呼ばれていた。私も当地に来るまで、霧の日が多いと思っていたが、霧の日はなかった。シーラの話では昔、fireplace(暖炉)に薪や石炭を使用して暖を取っていたので、その煤煙の影響で霧が発生した様な空模様になった、と言っていた。確かに厚い雲が建物の屋上まで垂れ下がった様な状態で、若しくは小雨で各家庭や会社・公共の建物から出される煤煙が加わったら、正に濃霧の...私のロンドン生活~「霧の都ロンドン」の話

  • 私のロンドン生活~私の部屋の話

    △2階に住んでいたMarianWatts(マリアンワッツ)MylifeinLondon(私のロンドン生活)・私の部屋の話9月21日の深夜、アルベートミルスさんに出逢えたお陰で彼が翌日、週3ポンドの部屋(住所は5ArvonRoadHighburyLondonN5)を探してくれました。その部屋は、地下鉄ピカデリーラインのHollowayRoad(ホロウェイロード)駅を下車し、駅前のホロウェイ通りを右方面へ、暫らくすると左側にアーボン通り(ロンドンはどんなに短い、狭い通りでも名称がある)があり、その通りの住宅街の一画、四階建て建物(建物の名称はAnticipateAngel)の3階、駅から10分であった。ロンドン中心地まで電車で23分程、アクセスは良かった。部屋には洋服ダンスから鍋や食器類まで揃っていて、その日から直...私のロンドン生活~私の部屋の話

  • 私が見た事・感じた事 in London~ロンドンのバスの話

    △ロンドンのダブルデッカーバス(PFN)・ロンドンのバスの話ロンドンにはアンダーグラウンド(地下鉄)の他に、もう一つ足の便がある。それは例の「ダブルデッカーバス」と言って、赤い二階建てのバスの事です。古い歴史的な建造物の間を縫うように走る赤いバスは、一際目立ち、正に絵になる様な光景であった。私は10数回程度しか乗車経験がないが、ロンドン名物の赤い二階建てのバスについて、その感想を書いて見る事にした。地下鉄と違って、私はバスの乗車はいつも不安であった。行き先が分らず、例え分っていても自分の降りる停留場が分からなかった。叉、日本の様に車掌の案内もなかった。地下鉄すら放送をしていないので、バス車掌の案内などあり得ないのだ。私の場合は、地理不案内の為、いつも車掌(大柄のアフリカ人男性が殆どであった)の傍に座って、「どこ...私が見た事・感じた事inLondon~ロンドンのバスの話

  • 私が見た事・感じた事 in London~女性の社会進出の話、接客の話、そして最近の社会情勢の話

    △市民の憩いの場のハイドパーク(PFN)・女性の社会進出の話ロンドンの街には、多くの婦人労働者が目立った。駅員、バスの車掌や運転手、店員、事務員、マネージャー等々、女性達が色々な分野で活躍していた。彼女達は労働が好きなのであろうか。日本では結婚すると主婦業に専念するが、イギリスは社会機構が違って女性に働き易い環境になっているのでしょう。社会福祉と男女同権が確立され、家に閉じこもる必要がないのであろう。しかし、現実は一般労働者にとって共稼ぎをしないと生活は楽ではないから、と私は感じた。いずれにしても、彼女達の働いている姿を見ていると、頼もしさを感じた。・接客の話イギリス人は、ソ連人程ではないが接客は眞にスローモーであった。レストラン(ウィンピーハウスレストランの従業員はテキパキとやっていた)へ入って何か注文しても...私が見た事・感じた事inLondon~女性の社会進出の話、接客の話、そして最近の社会情勢の話

  • 私が見た事・感じた事 in London~「私はイギリス人か」の話とギリス人の質素・経済的(ケチ)な話

    △タワーロンドン・「私はイギリス人か」の話日本での異国人(この場合、白人を指す)は、見立つ存在であった。しかしロンドンに於ける日本人である私は、そんなに目立つ存在に感じられなかった。ロンドンには色々な人種が住んでいた。特に目立ったのがアフリカ人(どこのアフリカ人分らなかった)、インド人、パキスタン人等であった。やはり多くの植民地を獲得していた、或は、七つの海を征服した過去の栄光の影響なのであろう。そのお陰か、私に対し最初から、「何人か」と聞かれた事は1度もなかったし、私も意識して日本人である、と言う事もなかった。そんな理由からか街を歩いていると、私の顔、意識も自分自身イギリス人であるかの様に錯覚する時もあった。部屋に帰って鏡に映る自分の顔を見たら、どことなくイギリス人の顔に成りつつあると感じられた。・ギリス人の...私が見た事・感じた事inLondon~「私はイギリス人か」の話とギリス人の質素・経済的(ケチ)な話

  • 私が見た事・感じた事 in London~テレビの話と酒場の種類の話

    ・テレビの話イギリスのテレビ(TV)は、3チャンネルしかなかった。その内の2チャンネルは国営放送である。従って民間放送は、1チャンネルだけであった。それに引き換え日本は、1~12チャンネルまでの間に6~8チャンネルもある。選択幅が出来て見たい番組が多くなったその分、視聴者にとって有益になっているのであろうか。否、逆になって来ているように私には感じられた。私が会社の寮に入った当時(昭和38・9年)は、食堂に1台TVがあっただけで、そのTVを皆で仲良く見ていた。当然、個々のチャンネル権はないので、現在映し出されている番組を皆で見て楽しんだ。しかし個人的に夜7時から○○がある場合で是非見たい時は、「皆さん、7時から○○があるのでチャンネルを回したいのですが、宜しいでしょうか」と他の寮生にお伺いを立て、皆の意向でチャン...私が見た事・感じた事inLondon~テレビの話と酒場の種類の話

  • 私が見た事・感じた事 in London~テレビの話と酒場の種類の話

    ・テレビの話イギリスのテレビ(TV)は、3チャンネルしかなかった。その内の2チャンネルは国営放送である。従って民間放送は、1チャンネルだけであった。それに引き換え日本は、1~12チャンネルまでの間に6~8チャンネルもある。選択幅が出来て見たい番組が多くなったその分、視聴者にとって有益になっているのであろうか。否、逆になって来ているように私には感じられた。私が会社の寮に入った当時(昭和38・9年)は、食堂に1台TVがあっただけで、そのTVを皆で仲良く見ていた。当然、個々のチャンネル権はないので、現在映し出されている番組を皆で見て楽しんだ。しかし個人的に夜7時から○○がある場合で是非見たい時は、「皆さん、7時から○○があるのでチャンネルを回したいのですが、宜しいでしょうか」と他の寮生にお伺いを立て、皆の意向でチャン...私が見た事・感じた事inLondon~テレビの話と酒場の種類の話

  • 私が見た事・感じた事 in London~トイレの話と交通マナーの話

    △ロンドンのハイドパークのアヒル・トイレの話ロンドンでは、街の中、地下鉄の駅や国鉄のターミナル以外の駅、又はレストランでもトイレが無かった。私が働いていた有名で客席が多いいウィピーハウスオックスフォード店でもトイレは無かった(でもスタッフ用のトイレはあった)。従って街に出かけた場合は実に不便であり、出たくなってからのトイレ探しはもう大変であった。イギリス人はおしっこ、うんこをしない国民なのか。そんな事はない。それでは必要がないのか。日本では公共的施設はもちろん、デパート、レストランやラーメン店さえ必ずトイレはある。だから日本人(私)は出掛ける際、出そうな感じがしなければトイレへ行かないが、出たくなったら辺り構わず、動物的にその辺りのトイレへ駆け込む。シーラにこの件について話をしたら、彼女は「私達は出そうな感じが...私が見た事・感じた事inLondon~トイレの話と交通マナーの話

  • 私が見た事・感じた事 in London~女性優先の話と老夫婦の話

    △タワーブリッジ(PFN)・女性優先の話ロンドンの男性は、女性にとても親切にしていた。バスや電車内では優先的に女性を座らせるし、乳母車を引いた婦人がバスに乗車する時、或は街の中の階段を利用する時等、見知らぬ男性がサット乳母車を持って手助けしていた。なるべく婦人を労わるその立ち振る舞いは、立派であると感心した。ある時、私は乳母車を押して階段を利用しようとしている若い婦人を見掛けた。サット手を差し伸べ、彼女と一緒に乳母車を運んだ。「Thankyou」と言われ、何か良い事をした様な、爽やかな気持になった。・老夫婦の話公園でも、街の通りに於いても、老夫婦が仲睦まじく手を取り合って歩いている姿をよく見掛けた。その姿は若い男女がしているよりも、何かお互い人生を生き抜いて来た安らぎさがあり、人々に仄々(ほのぼの)とした印象を...私が見た事・感じた事inLondon~女性優先の話と老夫婦の話

  • 私が見た事・感じた事 in London~心のゆとりと感謝の心の話

    ・心のゆとりと感謝の心の話Londoner(ロンドン人)は、駅構内、列車内、バス車内、或は街を歩いている時、日本人と違って人を押し退けてでも先に行こう、と言ったせせこましさはなく、時間的余裕を持った人々の様に見うけられた。又、感謝の言葉を常に発していた。例えば、肩等が触れ合った時、彼らは素早く「Excuseme」と言っていた。それに引き換え、我々日本人は肩をぶつけても、知らん顔で行ってしまう。無礼千万が罷り通っているのが現状であった。感心する事は、乗車券を発売・改札してもらった時、バスを降りる時、乗客が駅員や車掌に「Thankyou」とお礼を言っている点であった。それから買物した時、レストランで注文の料理が出た時、お金を払って去る時、道を尋ねた時、人に何かをしてもらった時等、ロンドン人は自然と感謝の言葉を店員さ...私が見た事・感じた事inLondon~心のゆとりと感謝の心の話

  • 私が見た事・感じた事 in London~制服とイギリス紳士の話

    ・制服とイギリス紳士の話イギリス人は制服好きな国民のようであった。衛兵を始め、警察官、鉄道係員、バスの運転手や車掌、ウェイトレス、そして無断駐車を取り締まる婦人係員(女性警察官ではない。無断駐車をしている車に違反切符を発行している婦人)まで制服を着用していた。衛兵でも制服は異なるが、バッキンガム宮殿の衛兵、ホース・ガードの衛兵、そしてロンドン塔の警備兵(ビーフィーター)の制服は、特に格好が良かった。日本でも制服が統一化、平均化している様であるが、イギリスの彼等の制服の方が、何となく似合っていた。制服の本場、発祥地はイギリスであるから、それは仕方がなかった。「イギリス紳士の制服」と言えば、背広に山高帽子、そして手にステッキ(小雨が多い所為か、ステッキの変わりにコウモリ傘を代用)を握っている。そんなイギリス紳士のス...私が見た事・感じた事inLondon~制服とイギリス紳士の話

  • 私が見た事・感じた事 in London~アンダーグランド(ロンドンの地下鉄)の話

    ・アンダーグランド(ロンドンの地下鉄)の話ロンドンに来た日、シーラの案内で初めて乗った地下鉄の第一印象は、車内の色は茶色、車内灯は薄暗い電球なので、薄暗い感じがした。そして車内でタバコを吸って良いらしく、吸殻が床に散乱して汚い感じがした。私はウィンピーハウスレストランへ通っていた時、毎日地下鉄を利用していた。そんな事でアンダーグランドについて気が付いた点を一言、述べたいと思う。運賃は、パリやモスクワの地下鉄の様に全線均一でなく、駅ごとに異なる運賃形態(遠距離低減制)になっていた。そして乗車券は、日本と同じく出札口で目的駅名を言って買うか、自動券売機で買う事になっていた。乗車する場合は、改札入場の際に改札係に〝パンチを入れて貰う〟、これも日本と同じであったが、違うのは乗客の方から「サンキュー」と言って改札係にお礼...私が見た事・感じた事inLondon~アンダーグランド(ロンドンの地下鉄)の話

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