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  • 私が見た事・感じた事 in London~パブの話

    ・パブの話パブ(PublicHouse)には、PublicBar(パブリックバー)、LoungeBar(ラウンジバー)、そしてSalonBar(サロンバー)があった。ただ単に「パブ」と言った場合は、パブリックバーを指す。パブを強いて日本語に訳せば大衆酒場、或は、居酒屋が適当な言い方となる。ロンドン郊外や下町に点在し、一般民衆や労働者を対象にした酒場が、パブリックバーであった。そのパブリックバーへ入ると、内部の床はコンクリート、テーブルは粗末な作り、そして室内は何の飾りっ気もなかった。タバコの煙が充満している中で、労働者や周辺の一般市民がビールを飲み、そして会話を楽しんでいる、そんな感じがするのが特徴であった。ラウンジバー或いはサロンバーは、ロンドンの繁華街界隈に点在し、上品な雰囲気の中で高級感を楽しみながら、静...私が見た事・感じた事inLondon~パブの話

  • ウィンピーレストランの収入と生活支出の収支決算の話

    ・ウィンピーレストランの収入と生活支出の収支決算の話オックスフォード店=9月21日から10月2日まで計10日間(午後4時から11時まで。9月23日、30日は月曜日で休み。週6ポンド)。従って合計10ポンドヴィクトリア店=10月4日の計1日(正確の労働時間不明で2時間程度かな)。アールスコート店=10月5日から6日まで計2日間(正確の労働時間不明で2時間以下)。但し、9月29日から10月5日までの1週間分は、無断欠勤や出張で労働時間が不確定の為、賃金は非常に少なかった。・ボンドストリート店=10月8日から11月2日まで計23日間(11時から午後7時まで。10月14日、21日、28日は月曜日で休み。週約10ポンド12シリング)。従って合計約42ポンド8シリング。☆ボンドストリート店の賃金明細を示すと週基本給~£13...ウィンピーレストランの収入と生活支出の収支決算の話

  • ウィンピー ハウス レストランの仕事~ボンド ストリートのウッドストック店の話(その2)

    *ボンドストリートのウッドストック店の話(その1)からの続きです。このレストランで感心させられるのは、労働時間が本当に厳守されていた事であった。午後7時の終りの時間になると、仕事がまだ残っていてもマダムが、「フィニッシュ」と言って、皆の仕事を終らせていた。あと何枚か洗えば、翌日に持ち越す必要がないのに、7時になると切り上げていた。お店の方でも7時に終えるように準備し、又その時間帯まで居そうなお客さんには前もって承知していただき、7時になった途端切り上げ、7時10分に全従業員は店から退出していた。日本では考えられない程、時間が守られていた。私を含めて時間にルーズな日本人には、この状態を理解出来るであろうか、と思った。勤務時間は11時から午後7時までだから、レストランで昼食と夕食の2食分が食べられ、前より食事代や作...ウィンピーハウスレストランの仕事~ボンドストリートのウッドストック店の話(その2)

  • ウィンピー ハウス レストランの仕事~ボンド ストリートのウッドストック店の話(その1)

    ・ボンドストリートのウッドストック店の話・10月7日(月)~休みの日。・1968年10月8日(火)~久し振りにオックスフォード店へ午前9時に行った。マネージャーから「本社の方へ行ってくれ」と言われた。私は『何であろうか』とチョット不安を感じながら、通りの向こう側にある事務所(ウィンピー社)へ行った。そうしましたら男性社員から今後の仕事場を命ぜられた。やはり同系のレストランのWoodstockWimpyHouseRestaurant(ウッドストックウィンピーハウスレストラン)であった。その場所はボンドストリート(オックスフォードストリートからピカデリーストリートへ結ぶ道)にあって、前の店からポンドストリートを50~60m入った所で割かし近い職場を割り当ててくれた。私は以後11月2日の辞めるまで、ここで働く事が出来...ウィンピーハウスレストランの仕事~ボンドストリートのウッドストック店の話(その1)

  • ウィンピー ハウス レストランの仕事~オックスフォード ストリート店の話(その4)

    ・・・学生時代にイギリスは、「ゆりかごから墓場まで」と言われるほど社会保障が充実している国であると教わった。労働党が強い、労働者意識が高い、労働条件が整っているイギリスであっても、私の様な皿洗い如きの仕事人は、労働者としての身分、資格、労働条件等、何も保証されていないのであった~ウィンピーハウスレストランの仕事~オックスフォードストリート店の話(その3)の続きです。オックスフォードストリート店の話(その4)ロンドンの街で多くの黒人、パキスタン人、インド人、アラブ人その他の国の人々が、危険、辛い、重労働等の仕事に従事しているのを見掛けた。彼等も同じように低賃金、低労働条件で何の保証もされず働いている様であった。そこには明らかに差別待遇が存在し、私はこれらがイギリスの社会・政治問題に発展する危惧を感じ得なかった。ア...ウィンピーハウスレストランの仕事~オックスフォードストリート店の話(その4)

  • ウィンピー ハウス レストランの仕事~オックスフォード ストリート店の話(その3)

    (その2)の最後のあらすじ・・・10月3日(木)、私は疲れ果ててしまい、無断で休んでしまった。責任感も何もあったものでなかった。私が担当している仕事がどれだけ忙しいか、「見せしめも時には必要だ。ストライキだ」とそれ程まで思った。(その3)・10月4日(金)~いつもの様に午後4時にレストランへ行った。マネージャーから、「昨日はどうして休んだのだ」と言われた。「頭が痛かった」と言い訳をして逃れたが、既に私のポジションは剥奪されていた。オックスフォード店には9月21日から10月2日まで、月曜日を除いて10日間働いただけであった。幸いにも首にならず、直ぐにヴィクトリア地区の同系レストランへ出張を命じられた。住所を教えて貰ったが、その場所への行き方、交通地理が分らず、何回も聞きながらやっと辿り着いた。地下鉄やバスを使って...ウィンピーハウスレストランの仕事~オックスフォードストリート店の話(その3)

  • ウィンピー ハウス レストランの仕事~オックスフォード ストリート店の話(その2)

    *オックスフォードストリート店の話(その1)からの続き皿洗いの仕事は相変わらずバカ忙しく、クレージィ気味であった。各自の仕事は分担されていて、忙しいからと言って私の仕事の手助けは、してくれなかった。だからと言って、他の仕事が暇であると言う訳ではなく、同様に忙しかった。しかし特に皿洗いの私の仕事は、忙しさが違った。ウェイター、ウェイトレスは注文を取り、それらをテーブルへ運び、そして後は私の所へ片付けるだけ。ジュースやコーヒーを作る人は、出来上がったジュース類をレバー操作してコップに注ぐだけの仕事(これが一番楽な仕事)。調理人は、出来上がっている物を大きいオーブンで温めるだけの仕事。相棒の皿洗い人は、皿洗い機の中に皿を並べ、ボタン一つでそれらを自動的に洗い、乾燥までして、後は取り出すだけであった。この作業は、同じ皿...ウィンピーハウスレストランの仕事~オックスフォードストリート店の話(その2)

  • ウィンピー ハウス レストランの仕事~オックスフォード ストリート店の話(その1)

    △フィッシュアンドチップスウィンピーハウスレストランの仕事・オックスフォードストリート店の話9月21日に色々あったが結局、仕事に就いた。最初の話の中で労働時間は、午後の5時から11時まで、1日1ポンド4シリングと言う条件であった。しかし最初の出勤日に、私が早く仕事に慣れるように4時から仕事を始めた為、そしてマネージャーの要請により、翌日からも午後4時から11時までする事になった。1週間遅れで賃金を貰った時、1日に付き税金等で4シリング差し引かれていた。それにしても、安いアルバイト代に税金を徴収されるとは、私は全く知らなかったし、支配人も何も言ってくれなかった。1日〝7時間勤務〟(その内の1時間休憩の6時間労働。休みは月曜日)で1日1ポンド(週6ポンド)になっていた。本当に低賃金で頭に来た。それで又何か言ったら、...ウィンピーハウスレストランの仕事~オックスフォードストリート店の話(その1)

  • 仕事と部屋探し~ミルスおじさんのお陰で部屋が見付かる

    ・昭和43年9月22日(日)曇り(ミルスおじさんのお陰で部屋が見付かる)恐怖の一夜が明けたが、何も起こらなかった。2人とも同時に起きた。彼は尿瓶を持ってトイレへ行き、その排尿を流した。昨夜の『チュル、チュル』と言う異様な音は、トイレが家の中にあるにも拘らず、彼はそこまで行かないで、私の頭の上で尿瓶の中に大きな音がしないよう、少しずつ『チュル、チュル』と用を足していた。その音が恐怖心を抱いていたとは、まったく滑稽であり、親切にしてくれた彼に疑いを抱いたとは、恥ずかしい限りであった。彼の話しによると、「夜中にトイレで用を足すと、排水音で隣人に迷惑を掛けるから、いつも枕元に尿瓶を置いて、用を足したくなったらそれを使っている」との事であった。イギリス人は隣近所に迷惑を掛けないよう、生活音には常に注意しているのであった。...仕事と部屋探し~ミルスおじさんのお陰で部屋が見付かる

  • 仕事と部屋探し~寝る所がなく、深夜の街を彷徨う

    △真夜中のロンドン郊外でミルスおじさんと出逢う・昭和43年9月21日(土)曇り(寝る所がなく、深夜の街を彷徨う)ユースを去り、トランクを提げてアルチュウェイの貸し部屋を訪ねた。家主が出て来て色々と説明してくれた。部屋代は週7ポンドであるが、週給幾らなのか分からず、迷って直ぐに決められなかった。3箇所の内一番安くても7ポンド、しかし良く考えたら高いと思った。レストランの仕事が5時から11時迄で週幾らくれるのか、分ってから決めても遅くないと思った。家主に考える猶予とトランクを預かってくれるようお願いし、その場を去った。{決断のなさが自分に振りかかり、深夜の1時になっても泊まる所がなく街を、そんな羽目になろうとは、この時は分らなかった・・・}5時から仕事なので近くの公園でよく考え、そして幾ら貰えるのか確認する必要があ...仕事と部屋探し~寝る所がなく、深夜の街を彷徨う

  • 仕事と部屋探し~自分で仕事を探す

    ・昭和43年9月20日(金)晴れ(自分で仕事を探す)今日も昨日行った例のスタッフエイジェンスィ(職業斡旋所)へ行ったが、返って来る言葉は、「仕事は無い」であった。受付係は「午後、又来なさい」と言ってくれたが、イギリスは経済不況の為、イギリス人さえ失業者が多いのだ。例の図書館の光景や街のあちこちで失業者が目立った。そんな状況下で、言葉が上手く話せない、何の技術もない、しかもイギリス人にとって私は得体の知れない外国人、そんな私に仕事がある筈がない、と思い始めた。そして自分で直接職を探すのが一番だと思い、レストランを当たる事にした。いざ直接レストランにトライしようと思っても、恥ずかしさや勇気がいるもので中々店に飛び込めず、店の前をウロウロするばかりであった。心臓がドキドキするのが自分でも分る程であった。「羞恥心など糞...仕事と部屋探し~自分で仕事を探す

  • 仕事と部屋探し~ホテルの仕事を断られる

    ・昭和43年9月19日(木)晴れ(ホテルの仕事を断られる)今日、体調がかんばしくなかった。微熱があるようで、しかも寒気を感じて、気分は冴えなかった。これは多分、ウェールズから戻って色んな事を心配し不安が広がり、そしてここ2日間、お昼も食べていなかった。緊張の中、職探しに歩き回ったり、大使館、移民局やホテルへ行ったりして、肉体的、精神的にストレスが蓄積されたのが原因ではないかと思われた。しかしロンドンに来たばかりの時に、腹痛で悩まされた事よりは、まだましであった。コンディションは良くなかったが、4時前にホテルへ行った。少し部屋で待たされた後、マスターが対応してくれた。マスターに「君は英語が下手だから駄目だ。このホテルは日本人旅行者がよく来るので日本人の君に働いて貰おうと思ったが、他の外国人も来るし、フロントの仕事...仕事と部屋探し~ホテルの仕事を断られる

  • 仕事と部屋探し~ホテルの仕事及び労働許可証と滞在期間延長

    昭和43年9月18日(水)曇時々雨(ホテルの仕事及び労働許可証と滞在期間延長)昨日、カナダ人に教えて貰った職業斡旋所を探したが見付からなかった。しかし今日は直ぐに見付かった。外国人である私が、労働許可証が無くても仕事を斡旋してくれるのか、仕事があるのか、不安であったが、思い切って中へ入った。受付の若い女性に、「私は何でもしますから、仕事がありますか」と尋ねたら、「ありません」の一言であった。5~6人の他の求職者が、手持無沙汰で椅子に座っていた。こんな状況では無理だな、と判断した。昨日は気が付かなかったが、よく探し回るとスタッフエイジェンシィ(職業斡旋所)は、ここだけでなく、他にもあったのだ。『犬も歩けば棒に当たる』式で、あちこちの職業斡旋所を3~4件探し当て、聞いてみたが、何処も皆、「仕事は無い」と断られた。こ...仕事と部屋探し~ホテルの仕事及び労働許可証と滞在期間延長

  • 仕事と部屋探し~日本大使館は行き辛い所だ

    ・昭和43年9月17日(火)曇り(日本大使館は行き辛い所だ)ウェールズ滞在中、ダディに、「ワークパミッション(労働許可証)の取得や滞在期間延長をしてもらうには如何したらよいか」尋ねたら、「日本大使館へ行ったら良いのでは」と教えてくれた。私は、両方とも日本大使館と関係ないと思ったが、取り敢えず行って尋ねる事にした。そうしたら大使館員は、「労働許可証や滞在期間延長は、日本大使館ではしていない」と素っ気ない返事が返って来た。それはあたかも、『貧乏旅行者が大使館に迷惑を掛けに来るな』と言った様な顔色、露骨な態度がありありであった。「それでは如何したら、何処へいったら労働許可証や滞在期間延長をして貰えるのですか」と私は尋ねた。「雇い主の労働証明書と労働許可申請書をイギリス政府(移民局)に提出し、労働許可と滞在期間を延長し...仕事と部屋探し~日本大使館は行き辛い所だ

  • 仕事と部屋探し~車中で今後の事を考える(その2)

    △1666年のロンドン大火記念塔(PFN)第6章ロンドン滞在仕事と部屋探し*その1からの続きです・昭和43年9月16日(月)曇り後小雨(車中で今後の事を考える)その2日本までの帰りの切符は、フランスのマルセイユ~横浜間のフランス商船(M&M)で、予定通りなら出航は、10月中旬となっていた。色々悩み考えた末、折角日本を出たのであるから、『もう少し色々な経験をしてみよう』との結論に達したのでした。従って『この乗船券』をいつでも使えるように、その乗船券代金分(150,000円)に相当する『航空券併用』に変える必要があった。その変更手続きをOさん(会社の先輩)がJTBに知り合いが居ると言う事で、彼を通してお願いをする予定であった。それで私の持っているM&Mの乗船券をOさんへ送り、JTBで変更手続きをして、再度私の所へ返...仕事と部屋探し~車中で今後の事を考える(その2)

  • ウェールズの旅~哀愁を帯びて汽車はロンドンへ(その1)

    △ニース駅でダディ、ケネスとの別れ(PaintedbyM.Yoshida)・昭和43年9月16日(月)曇り後小雨(哀愁を帯びて汽車はロンドンへ)(その1)長い様で短かったウェールズの滞在が終った。文通を通して夢にまで見たシーラの生まれ育ったサウスウェールズ、その山河、故郷コロブレン、そしてシーラの家族達と別れの日が終に来てしまった。私を温かく迎い入れ親切にしてくれたシーラの家族達、楽しかったクラブやウェールズの旅、そして旅先で車に乗せてくれた親切なウェールズの人達。忘れ難い楽しい数々の思い出を残して今日、私は去ろうとしていた。ケネスは私の見送りの為に学校を休んでしまった。どうしようもない寂しさ悲しさが私の胸に、心に襲って来るのを堪えていた。モーガン家の最後の昼食をゆっくり済ませた。そして午後2時頃、ダディの運転...ウェールズの旅~哀愁を帯びて汽車はロンドンへ(その1)

  • ウェールズの旅~クラブの舞台にもう一度立つ

    △モーガン家から近いヘンドリッドの滝(PFN)・昭和43年9月15日(日)曇り(クラブの舞台にもう一度立つ)ウェールズ最後の日になってしまった。あれ程に来て見たかったウェールズ、8月30日に来て早2週間、矢の如く過ぎてしまった。今後の私の旅について、ウェールズをヒッチしながら考え、迷った末にある方向性を見出した。それは「私の旅の原則を行動、実行に移す」と言う事であった。具体的に④⑤を実行する為、そしてM&M乗船券を航空券購入にも併用出来るようにするため、もう少しロンドンに滞在する事に決めた。午前、午後、私はモーガン家で静かに過し、そして夜はコロブレンの社交場のクラブで過した。司会者の指名により再度、私は舞台に上がった。誰か大戦中に日本兵から聞いた事があるかもしれないと思い、「同期のサクラ」を歌った。反応はなかっ...ウェールズの旅~クラブの舞台にもう一度立つ

  • ウェールズの旅~旅の心構え

    △1961年16歳のペンフレンドSheilaMorgan、自宅にて*シーラがロンドンに戻り不安になり、そして今後の私の旅はどうあるべきか大変迷いました。ウェールズをヒッチに出かけ考えようと思ったのです。結論として、日本を出発前日の私の旅にあたっての原則に至りました。ここにその原則を再度掲載します。・昭和43年(1968年)7月12日(金)愈々明日、外国への旅立ちだ。私は旅をするに当たって、『下記の原則』を心に秘めた。①家族、友達、そして人様に決して迷惑を掛けないようにする事。②『旅の苦労は買ってでも』と言う意気込みを持つ事。③多くの人と接し、出来れば友達を作る事。④出来れば長く滞在、或は、働いてその国の内側と生活を肌で感じる事。⑤出来る限り多くの国を巡り、色々な経験や体験をする事。*自己紹介・名前~Yoshi・...ウェールズの旅~旅の心構え

  • ウェールズの旅~ウェールズを旅して見た事、感じた事

    △コロブレンのヘンドリッドの滝(HendrydFalls)の裏側から・ウェールズを旅して見た事、感じた事ウェールズの旅は今日で終った。ウェールズについて私が見た事、思った事等を纏めてみた。ウェールズは、四国と比べてやや広い面積で、13世紀まで独立国としてローカル色豊かな国作りをしていたらしく、風景や街並みもイングランド本国と異なった佇まいをしていた。交通や案内に関してはウェールズ語と英語で書かれ、商店の看板もウェールズ語で書いてある店があったし又、至る所にローカル的な存在が見られた。地域的、文化的に見ても南北に分かれているように感じられ、彼等の住む地方で「北の人」、「南の人」と区別して、地理的にも区別していた。ウェールズ語は、北の人に聞くと「南の方がよく使っている」と言うし、南の人に聞くと「北の方が使っているよ...ウェールズの旅~ウェールズを旅して見た事、感じた事

  • ウェールズの旅~ウェールズのビールは不味い?

    △コロブレンの牧歌的な風景(ByM.Yoshida)・昭和43年9月12日(木)晴れ(ウェールズのビールは不味い?)ユースを出て、コロブレン方面の山道(舗装道路)をとぼとぼ歩いていたら、ユースのペアレントが私をコロブレン近くまで乗せてくれた。今日は良く晴れた。モーガン家方面への田舎道を歩くのも気持が良かった。この辺りから歩いて行くには、家までまだ遠かった。車の通っていない田舎道をトボトボと歩いた。昼頃になって道路脇の芝生の上で1時間ばかり、昼寝をした。その後、再び「小樽の人よ」の歌など歌いながら、コロブレンへ向けて歩いた。そして今日最後の車の2台目で、コロブレンまで乗せて貰った。所で、私はウェールズの旅でよく鶴岡雅義と東京ロマンチカの「小樽の人よ」を歌っていた。歩いていたら、あのクラブが目に入った。ウェールズの...ウェールズの旅~ウェールズのビールは不味い?

  • ウェールズの旅~ウェールズのビールは不味い?

    △コロブレンの牧歌的な風景(ByM.Yoshida)・昭和43年9月12日(木)晴れ(ウェールズのビールは不味い?)ユースを出て、コロブレン方面の山道(舗装道路)をとぼとぼ歩いていたら、ユースのペアレントが私をコロブレン近くまで乗せてくれた。今日は良く晴れた。モーガン家方面への田舎道を歩くのも気持が良かった。この辺りから歩いて行くには、家までまだ遠かった。車の通っていない田舎道をトボトボと歩いた。昼頃になって道路脇の芝生の上で1時間ばかり、昼寝をした。その後、再び「小樽の人よ」の歌など歌いながら、コロブレンへ向けて歩いた。そして今日最後の車の2台目で、コロブレンまで乗せて貰った。所で、私はウェールズの旅でよく鶴岡雅義と東京ロマンチカの「小樽の人よ」を歌っていた。歩いていたら、あのクラブが目に入った。ウェールズの...ウェールズの旅~ウェールズのビールは不味い?

  • ウェールズの旅~カーディフ城見物

    △11世紀に造られた古城・昭和43年9月11日(水)晴れ(カーディフ城見物)1台目は、ユースに泊まっていた大学生が、「スウォンジーまで行く」と言うので、その車に便乗させて貰った。そして彼はカーディフへ行く街道で私を降ろしてくれた。スウォンジーの街は勤め人が忙しそうに往来していた。2台目は、その場で20分位してお爺さんが運転する車をゲットし、この車でいっきにカーディフ郊外まで行った。カーディフはウェールズの首都であり、港湾都市(ひと昔までは石炭の積出港としても栄えた)、重工業として栄え、現在ウェールズの経済、工業の中心地である。カーディフは又、カーディフ城でも有名であるらしく、私は郊外から何回も尋ね、城へ行った。その城は市の中央にあった。城内へ入るのに6ペンス(24円)払い、敷地内に入ると全く時代の違う2つの城に...ウェールズの旅~カーディフ城見物

  • ウェールズの旅~助平な若者とミニ スカート論議

    △南ウェールズのニースの海岸にてのシーラ・昭和43年9月10日(火)雨後晴れ(助平な若者とミニスカート論議)Swansea(スウォンジー)、Cardiff(カージフ)へ行こうと、7時30分に起きた。しかし雨が降っていて出鼻を挫かれてしまった。テレビの今日の天気予報は、雨時々曇りであった。降雨時のヒッチ率は落ちるし、雨の中で道路端に立ちっぱなしは辛い。そんな訳で、雨の日のヒッチは、気分も冴えない。しかしダディもマミも親切にしてくれるが、する事がないのに食べてばかりでは、どうも居心地が悪かった。そんなこんなで、「出立しようか、今日は止めようか」迷っていると、雨は止んでしまった。ヒッチの旅に出掛ける気分は失せていた。「本当は1日中降ってくれれば良かったのに。そうすれば明日にしたのに」と思いつつ、雨が止んだので思い切っ...ウェールズの旅~助平な若者とミニスカート論議

  • ウェールズの旅~如何してコロブレンへ行くの?

    △ウェールズの街は谷間にあった・昭和43年9月9日(月)晴れ(如何してコロブレンへ行くの?)昨夜泊まったユースは、山の中であった。昨日のおじさんが、捜し出すのに苦労したのも無理なかった。ユースを出て、ウェールズの美しい山々の景観を楽しみながら山道を1人、街道の方へトボトボと歩いた。ウェールズはどんな山の中の小道でも、アスハルトで整備されていた。今日は晴天となり、昨日とうって変わって気分も良かった。歩いていたらウンコをしたくなった。山道が幸いし道路端で、美しい山々を眺望しながら用を足すのは、最高に気持が良かった。山道と街道が交差する左箇所で、村民5~6人が焚き火をしていた。朝晩は、既に寒さを感じる時期になっていた。『毛色の変わった外人がこんな所を歩いている』と言った感じで私の方を皆が見ていた。私が無視して彼等の前...ウェールズの旅~如何してコロブレンへ行くの?

  • ウェールズの旅~初めの頃の蒸気機関車と客車を見る

    △スノードン山と湖(PFN)・昭和43年9月8日(日)曇り時々雨(明治初め頃の蒸気機関車と客車を見る)『若しかしたら簡単に登れるかも』と思い、スノードン山に登ろうとしたが、諦めた。昨夜、雨が降ったのか登山道は濡れていたし、山に登る様な服装・履物ではなかった。しかも標高差が分らないし、空模様も心配であった。仕事が終ってからユースを出た。左手にスノードン、右手に湖を見ながら自然のど真ん中を歩いていると、自然と心も弾み、歌を口ずさんだ。今朝は最高に気分が良かった。ヒッチの旅は、天候しだいで良くもなるし悪くもなった。高級車には8:2の割りで乗せてくれないが、1台目はこの確率から外れ、夫婦連れの立派な車に便乗出来た。それから間もなくしてある町で降ろされると、やはり雨が降って来た。雨が降ると極端にヒッチ率は落ちた。家の軒下...ウェールズの旅~初めの頃の蒸気機関車と客車を見る

  • ウェールズの旅~ウェールズの美しい山河

    △イギリスで一番高い山、標高1085mのスノードン山~当時の絵葉*スコットランドのベンネビス山が一番高い山でした。・昭和43年9月7日(土)曇り(ウェールズの美しい山河)コーウェンのユースを出て、3km程歩いて街道へ出た。今日は車が多く走っている割に、ヒッチ率が非常に悪かった。20分、30分、50分とヒッチ合図を送り続けても、いっこうに停まってくれる車はなかった。どの車も定員状態であった。昨日は向こうから停まってくれる車があったのに、今日は如何してなのであろうか。いずれにしても気長に待つしかなかった。1台目にやっと1時間位過ぎてから乗せて貰う事が出来た。その若者の言う事には、「ホリデーはヒッチに適さない」と言うのだ。そう言えば今日は土曜日、道理で家族連れの車が多いと思った。家族でピクニックやドライヴに行くのであ...ウェールズの旅~ウェールズの美しい山河

  • ウェールズの旅~素朴なウェールズの人々との出逢い

    △南ウェールズの山並みと谷間の町並み(PFN)・昭和43年9月6日(金)晴れ(素朴なウェールズの人々との出逢い)久し振りに朝から晴れていた。今の時季のウェールズは一年で一番天候が悪いそうで、3日に2日は雨が降ると言う。良い天気が続く時期は、5月と6月であると言う。7時30分頃起きて、朝食を多めに取った。多少の雨が降っても濡れないようにジャンパーとコートをダディから借り、家を出た。最初日本にいた時の私の旅の目的は①列車でヨーロッパ旅行する事。②シーラに会う事。そして③ウェールズのシーラの家に滞在する事で、これらはほぼ目的が達成した。今度のヒッチ旅の目的は今後、私は如何なる行動、目的を取るべきか、ヒッチしながら考え、決断する為であった。それと付帯的な次のような理由もあった。コロブレンだけではなく、ウェールズをもう少...ウェールズの旅~素朴なウェールズの人々との出逢い

  • シーラの実家にて~シーラが居なくなって

    ・昭和43年9月3日(火)曇り~5日(木)曇り(シーラが居なくなって)ここ3日間の天気は、曇りで風の強い日もあったし、少し雨が降った日もあった。こちらに来て早1週間経つが、晴れた日は1日だけで、毎日どんよりした日の方が多かった。天候の影響とシーラが居なくなり、余計に寂しさが感じられた。それにダディやマミとは余り話が通じず、ケネスは学校で、平日の日中は居なかった。田舎だから何処も観光や散策する所も無く、私は家族や先輩の岡田さんや友達の中野や横沢へ手紙を書く以外、する事が無かった。そんな事で5日(木)は、午後1時まで寝ていた。2週間滞在予定で、1週間が過ぎた。後1週間、こんな状態ではいけないので明日、ヒッチハイクでウェールズの旅に出掛ける事にした。手紙と言えば、日本からイギリスへ出す場合は、航空便で115円したが、...シーラの実家にて~シーラが居なくなって

  • シーラの実家にて~モーガン家の食事の話

    ・モーガン家の食事の話モーガン家の朝食、昼食、ハイ・ティー、そして夕食の時に出される基本的な食べ物は、スィンプルであった。テーブルの中央の器の中にキュウリ、小さな一口サイズのトマト、パン、バター、チーズ、それと紅茶であった。その他に朝食時はベーコンエッグ(卵は目玉焼き)が、昼食時は日によってポークやチキン、或はビーフ料理が、ハイティー時は蒸かしたジャガイモやマミの手作りのケーキがそれぞれ出された。従って、モーガン家では昼食がデナー(その日の一番重たい食事)であった。HighTea(ハイティー)とは、昼食と夕食時の間に食事をするティータイム(午後のお茶の時間)の事です。モーガン家の様にイギリスでは、ハイティーの時、食事を取る家庭が一般的の様で、家によっては時間をずらして夕食の代わりにするそうです。モーガン家のハイ...シーラの実家にて~モーガン家の食事の話

  • シーラの実家にて~シーラはロンドンへ

    △シーラの水着スタイル~南ウェールズのニースの海岸にて・昭和43年9月2日(月)曇り(シーラはロンドンへ)今日はBanksDay(銀行の日)で、イギリス国民の祝日の日であった。ケネスと例の滝のある川に魚釣りに行った。川は増水し少し濁っていたので、結果は1時間以上して、2人で一匹であった。帰りに滝を見に行って、そこで素晴らしい虹を見る事が出来た。今日の午後、彼女はロンドンへ帰る日であった。昼食を済ませ、ゆっくりした後、ダディ、ケネス、そして私の3人でニースの駅まで彼女を見送りに行った。「Yoshi、好きなだけ滞在して良いのだからね。でも、直ぐに滞在は飽きてしまうかな。コロブレンは何もないし」と彼女。「シーラに色々な所へ案内して貰ったり又、昨夜はクラブで歌ったり、シーラとダンスしたりして楽しかったよ。有り難う、シー...シーラの実家にて~シーラはロンドンへ

  • シーラの実家にて~マミの話

    ・マミの話マミは、とても忙しい人でした。彼女は家事をしながら近所のストア(田舎の店なので、切手を含め何でも売っていた)にパートとして働いていた。そんな訳で午前、午後とも何度も家とストアの間を往復していた。例えば、朝食の準備、後片付け、部屋の掃除、洗濯等して、それからパート労働に出掛けていた。お昼前に家に戻って昼食の準備と後片付けをし、又出掛けてパート労働。4時半頃戻ってハイ・ティー(説明は『食事の話』の中に記述します)の準備、後片付けをし、又またストアへ出掛けていた。マミは更に夜7時30分頃からクラブで給仕係の仕事もしていた。帰りはいつも10時過ぎであった。マミはそれから夕食と夜食を兼ねた様な感じの食事の準備と後片付けをしていた。この様にマミは、本当によく働いていた。否、彼女は過重労働気味で、身体を壊さなければ...シーラの実家にて~マミの話

  • シーラのj実家にて~モーガン家の様子の話

    ・モーガン家の様子の話モーガン家は、1階が6畳程の台所、12畳程のリビングルーム兼ダイニングルーム(新しい壁紙で綺麗にしてあった)、そして奥まった所に6畳程の部屋があり、そこにピアノが置いてあった。2階は、8畳程の寝室が2部屋、6畳程の寝室が1部屋、そしてバスとトイレが一緒になっている間取りになっていた。4LDKタイプで日本平均住宅より広かった。私の部屋として2階の6畳程の部屋を滞在中、使用させて貰った。私にとって不便な点が一つあった。それはバス(浴室)とトイレがユニット(2つで1つの空間になっている)になっているので、誰かがバスを使っている時はトイレが使用出来ず、トイレを使用中は、バスに入れなかった。家族同士ならいざ知らず、他人の私が滞在中、彼等にとっても不便であったに違いなかった。そんなある日、シーラがバス...シーラのj実家にて~モーガン家の様子の話

  • シーラの実家にて~クラブで三池炭鉱節を歌う

    △スウォンジー渓谷鍾乳洞(PFN)・昭和43年(1968年)9月1日(日)曇り(クラブで三池炭鉱節を歌う)午前中、私は妹の時子、今回の旅行でお世話になった先輩の岡田さん、そして友達へ私が元気にいることを含め、旅の様子やシーラに会った事等について手紙を書いて過した。又、私がこちらに滞在中、モーガン家宛てに時子、岡田さん、そして友達の中野から手紙が届いた。手紙の内容は、私の行動に対する感想、旅に対する励まし、彼等の状況、及び日本の状況等について書かれていた。日本を出てから2ヶ月近くになり、活字に飢えて来た頃であったので、彼等の手紙を受け取った時は大変嬉しく、そして日本を懐かしく感じた。午後、シーラ、マミ、ケネスと共に車で20分位行った所のSwanseaValleyCaves(スウォンジー渓谷鍾乳洞)へ見に行った。モ...シーラの実家にて~クラブで三池炭鉱節を歌う

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