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  • ウェールズのシーラの実家にて~モーガン家の周りの様子

    △ヘンドリッドの滝(PFN)・昭和43年8月31日(土)晴れ(モーガン家の周りの様子)今朝、起きて暫らくしても腹痛がなかった。1週間振りに平常状態になった。一時はその痛みで苦しみ悩んだが、治って本当に良かった。そして1週間振りに朝食が取れた。モーガン家の朝食は、目玉焼きにベーコン、キュウリ、トマト、チーズ、バター、そして紅茶で昨夜と同じであった。食事の後、シーラの案内でケネスと共に近所へ散策に出掛けた。周りの様子や景色は、昨日書いたので省略します。家から10分位行った所にHendrydFalls(ヘンドリッドの滝)があるので、そこへ行った。彼女は落差100フィート(30m)あると言ったが、私の見た目では20m(約70フィート)位の落差しか見えなかった。冬には滝が凍って氷柱が出来て、その景観は美しいと言っていた。...ウェールズのシーラの実家にて~モーガン家の周りの様子

  • ウェールズのシーラの実家にて~シーラの実家へ

    △シーラの実家(コロブレン)の絵になる様な牧歌的風景~ByM.Yoshida・昭和43年8月30日(金)曇り(シーラの実家へ)今日は、ウェールズのシーラの実家へ行く日であった。「イギリスへ行った際、ウェールズに是非2週間程滞在したい」と前もって彼女の父に手紙を書いたら、歓迎するとの返事があった。彼女が生まれ育った所、ウェールズに大変興味を持って何日か共に暮らして、ウェールズの生活を肌で感じてみたかったのでした。そんな訳で今日、私はわくわくした、そしてチョッピリ不安な気持ちもあった。Pardington(国鉄パディントン駅)に午後2時30分、彼女と待ち合わせをした。今朝も食事前、胃が痛かった。胃の具合が治まりユースを去ろうとしたら、ペアレントから芝刈りの仕事を頼まれたが、15分で終わった。ユース利用者は清掃等を頼...ウェールズのシーラの実家にて~シーラの実家へ

  • ロンドンの旅~垣間見たイギリスの失業者達の話

    ・垣間見たイギリスの失業者達の話今日(1968年8月29日)、ロンドンブリッジへ行く途中、シティの趣を変えた下町(周りに工場や労働者の住宅があった)を散策中、その地域の図書館が目に入った。私は興味本位で中に入って見た。その図書館の中には失業者らしき50人程の中高年齢者が居て、図書館なのに誰も本・新聞等を読んでいる人は、居なかった。大部分の人は椅子に座り机に顔を乗せ、うたた寝を貪っていた。又ある者は、少人数で何組かがお喋りをしていた。ただそれだけの光景であった。ここが何処なのか、一瞬錯覚する程であった。彼等は皆、薄汚れた服を着ていて、中には生活苦らしい顔さえ浮かべ、居眠り、或いはお喋りだけで、ナッシングの状態であった。この光景は、私にとって奇奇怪怪・唖然とした感じであった。日本では普通、図書館と言ったら主体は、若...ロンドンの旅~垣間見たイギリスの失業者達の話

  • ロンドンの旅~ロンドン見物

    △TheTowerタワー(NotPFN)・昭和43年8月29日(木)曇り時々強風(ロンドン見物)今朝も同じ時刻に腹が痛くなって来た。これで5日間連続であった。朝が来るのが恐ろしくなって来た。明日こそ治っているであろうと朝食を申し込んでおいたが、三度朝食は、取れなかった。今朝もベッドで40分間位、激痛が治まるのを我慢した。最近、満足に食事が取れない状態になってしまった。取れたのは、シーラやジャネットの家の夕食だけであった。近頃は日本に居た時の一食分のカロリー摂取量であろう。食べたくても食べられないのだから、仕方なかった。今日はウェールズへ行く前の日であり、彼女と会う約束はなかった。今日は何処へ行こうか、市内地図を広げて思案した。そしてピカデリーサーカスやトラファルガースクウェア等のある繁華街の東側、テムズ川の左岸...ロンドンの旅~ロンドン見物

  • ロンドンの旅~シーラの友人宅訪問とキスの見解

    △夜10時過ぎ、ヘンドンセントラル駅へ腕を組んで歩く私とシーラByM.Yoshida・昭和43年8月28日(水)曇り(シーラの友人宅訪問とキスの見解)3日間続いて、又今朝も胃が痛くなって来た。異国の地でいつまでもこんな状態では、非常に心配、不安であった。『日本へ帰ろうか。帰らなければいけないのか』とも考えた程であった。しかし、やっとここに来たばかりで、もっと旅をしたいし、もっと自由を満喫したいのだ。『その内に腹の調子も良くなる。ここは我慢のしどころ』と1時間ばかり、ユースのベッドで痛みが和らぐのを「ウー、ウー」唸りながらじっと耐えた。今日、私は彼女の友達のMrs.JanetTomlin(ジャネット・トムリンさん。以後「ジャネット」と言う)の家へ、彼女と共に遊びに行く予定であった。午後5時30分、WembleyP...ロンドンの旅~シーラの友人宅訪問とキスの見解

  • ロンドンの旅~腹痛に耐えて1人ロンドン見物

    △タワーブリッジ(PFN)・昭和43年8月27日(火)曇り時々雨(腹痛に耐えて1人ロンドン見物)明日こそ腹の調子は大丈夫であろうと思って、昨日、前払いで朝食を申し込んでおいた。食事内容は、コーンフレーク、ベーコンとエッグ(soft-roast-egg半熟目玉焼き)、パン、ティーの〝コンチネンタル的な食事〟(朝のイギリス代表的な食事。所謂、日本の味噌汁、ご飯、卵か納豆に漬物)であった。しかし、1口か2口食べ始めたら又、昨日と同じように今朝も腹が痛くなって来た。折角頼んだのに、朝食代が無駄になってしまった。ベッドに横になって1時間ばかり、「うーうー」唸りながら腹痛の治まるのを我慢した。同じ部屋のホステラー達は、「如何したのか」と心配してくれたが、「お腹が痛いが直に治るから、心配しないで」と感謝するも干渉を断った。や...ロンドンの旅~腹痛に耐えて1人ロンドン見物

  • ロンドンの旅~腹痛に耐える。夜はシーラと過ごす。

    △私とシーラは腕を組み、静寂した街に2人の足音だけが響いた。挿絵ByM.Yoshida・昭和43年8月26日(月)曇り時々晴れ(腹痛に耐える。夜はシーラと)一泊食事なしの宿泊代1ポンド以上は、高かったので、ユースへ移る事にした。私は世界各国ユースの住所録の本を持っているので、市内地図を頼りに移動するのであるが、この移動が今日、腹痛の為、非常に辛かった。私が泊まろうとしたユースは、郊外のピカデリーラインにあった。そのユースへ行こうとして、地下鉄パディントン駅から電車に乗ろうと切符を購入していたら、急に腹が痛くなって来た。昨日は、8時から9時頃の間、少し腹の調子が悪かった。しかし今日は非常に痛く、私は改札口前附近の片隅でうずくまってしまった。イタリア旅行中の2日間、腹痛で悩まされた事があったが、今日はそれを上回る痛...ロンドンの旅~腹痛に耐える。夜はシーラと過ごす。

  • ロンドンの旅~ロンドン観光とシーラの手料理

    △トラファルガー広場とシーラ・昭和43年8月25日(日)晴れ(ロンドン観光とシーラの手料理)興奮の一夜が明けた。今日は、シーラの案内でロンドン見物がとても楽しみであった。これは、私の今回の旅行に於ける最大イベントでもあった。朝食を取らずペンションを出た。昨夜のカフェ店前へ歩いて4分程、9時40分に着いて暫らく待った。私の聞き違いで、この場所にシーラが果たして来るのかちょっと心配であった。しかし、それは取り越し苦労で、彼女は丁度、10時に遣って来た。「イギリス人は時間を守る国民である」と言われているが、まさにその通り、きっかり10時に着いたので驚きであり、不思議であった。彼女が近寄って来たら香水の香りがして来て、心地良かった。そして彼女の白系のジーパンスタイルがとても似合っていた。彼女がジーパンを履いて来たのは昨...ロンドンの旅~ロンドン観光とシーラの手料理

  • ロンドンの旅~(その2)ヴィクトリア駅で捜し回る

    △ロンドンのヴィクトリア駅にてシーラと会う挿絵ByM.Yoshida(その1)からの続きです。Dover(ドーバー)駅から再び列車に乗り換えた。列車はロンドンのVictoria(ヴィクトリア)駅に向かって田園の中をひた走った。私は乗車中、シーラに会えるのか如何か、どんな出逢いになるか、思案しているとハートがバクバクするのでした。そして終に、ほぼ定刻通りの午後7時35分、ロンドンのヴィクトリア駅に到着した。シーラには既に知らせてあるように、私は列車から下車したらその場を動かず、万が一の為に昨日作った『SheilaMorgan』と書いたプラカードを高く掲げ、胸をドキドキさせながら彼女が現れるのを待った。彼女は必ず私の手紙を受け取っているはず、そしてきっと迎えに来ている、と信じていた。お互いに初めて会うのだから、写真...ロンドンの旅~(その2)ヴィクトリア駅で捜し回る

  • ロンドンの旅~ヴィクトリア駅で捜し回る(その1)

    △シーラの自宅にて~1961年、15歳で高校1年の時の写真ロンドンの旅・昭和43年8月24日(土)晴れ(ヴィクトリア駅で捜し回る)朝、早めに起きた。身体を拭いて頭を洗い、そして髭も剃った。今日、7年間文通を続けているSheilaMorgan(シーラ・モーガン)に会う為、イギリスへ行く日であった。午後0時30分の列車であるが、早めに出立する事にした。マサオの好意より部屋を無料で使わせてもらった上、とてもフレンドリーに接してくれて本当に有り難かった。そんな彼と別れるのは、名残惜しかったが、行かねばならなかった。別れる際に彼は、「私はもう少し経ったらこの部屋を去り、スペイン領の〝ある島〟(ヒッピーのユートピアの島)に行くが、良かったらヨシ(私の愛称)も来いよ。そこは別天地だ。モロッコも面白い所だから、行ければ行った方...ロンドンの旅~ヴィクトリア駅で捜し回る(その1)

  • ロンドンの旅~ペンフレンド・シーラの話

    △1961年16歳のペンフレンドのSheilaMorganとkenneth~彼女の自宅にて。ロンドンの旅*ペンフレンド・シーラの話(注)この話は53年前の実話です。第1章の項で述べたが、私が高校2年の時に彼女と文通を始めた。彼女から最初に来た手紙は、1961年(昭和36年)9月2日付でした。彼女(SheilaMorgan~シーラモーガン)はウェールズのスウォンジーやニースから近いColobren(コロブレン)に両親と弟の4人で住んでいました。彼女は当時15歳、私は16歳でした。送ってくれた彼女の写真は美しかった。「ダークヘアーにグリーンの目をしている」と自身言ってました。彼女の父は文通を始めた最初の頃、炭鉱労働者であったが、閉山になり1968年現在は無職の年金暮らし、名はIvor(アイボー)でした。そして母の名...ロンドンの旅~ペンフレンド・シーラの話

  • ロンドンの旅~ペンフレンド・シーラの話

    △1961年16歳のペンフレンドのSheilaMorganとkenneth~彼女の自宅にて。第5章イギリスの旅ロンドンの旅*ペンフレンド・シーラの話(注)この話は53年前の実話です。第1章の項で述べたが、私が高校2年の時に彼女と文通を始めた。彼女から最初に来た手紙は、1961年(昭和36年)9月2日付でした。彼女(SheilaMorgan~シーラモーガン)はウェールズのスウォンジーやニースから近いColobren(コロブレン)に両親と弟の4人で住んでいました。彼女は当時15歳、私は16歳でした。送ってくれた彼女の写真は美しかった。「ダークヘアーにグリーンの目をしている」と自身言ってました。彼女の父は文通を始めた最初の頃、炭鉱労働者であったが、閉山になり1968年現在は無職の年金暮らし、名はIvor(アイボー)で...ロンドンの旅~ペンフレンド・シーラの話

  • 二度目のパリにて~友達への西欧を旅して1ヶ月間、その取留めのない感想の手紙の話

    ・昭和43年8月20日(火)晴れ(シーラへ会いに行く旨の手紙を出す)今日はマサオの部屋でゆっくり休んでいた。*友達への西欧を旅して1ヶ月間、その取留めのない感想の手紙の話今、私はパリに戻って来ました。共産圏のソ連を出て、自由に旅が出来るようになって1ヶ月が経ちました。私はパリに来てフレンドリーなマサオに会って本当に彼にお世話になりましてその後、西欧列車の旅をしました。その間に2度、腹痛に悩み苦しみましたが、無事に再びパリに戻って来られて、本当に良かった思います。この列車の旅で、私が使った金額は100ドルでした。1日平均3.3ドル、勿論ビールやタバコも買いました。観光はなるべく歩いて行き、市電やバスはあまり使いませんでした。それでも1日約千円で西欧一回り旅をする事が出来ました。倹約旅行するが私の持論ですので、1度...二度目のパリにて~友達への西欧を旅して1ヶ月間、その取留めのない感想の手紙の話

  • 二度目のパリにて~知日家のオランダ人

    二度目のパリにて・昭和43年8月19日(月)晴れ(知日家のオランダ人)ユースを出て中央駅まで歩いて行った。自転車通勤の人々で街は、忙しかった。列車はアムステルダム発パリ-行き、8時54分フランスのTEEエトワールド・ノール号の全席座席指定であった。列車の旅は5時間位の予定、ドアは全自動、座席は綺麗な4人掛け、前のテーブルには真っ白い布で覆われていて、高級感がある列車であった。車掌の制服が、又カッコ良かった。TEE国際列車の車掌は、大概年配のベテランが担当していた。4人掛け用の座席には私の他、年配のアメリカ人夫婦と40歳台のオランダ人紳士であった。4人でトランプをして車中の一時を過ごした。このオランダ人は中々の知日家、江戸時代の長崎の出島も知っていて、日本経済の事も詳しかった。パリに到着したのは、午後2時頃であっ...二度目のパリにて~知日家のオランダ人

  • アムステルの旅~アムステルダムで感じた事の話

    △アムステルダム中央駅前の風景(PFN)*アムステルダムで感じた事の話昨日、今日とアムステルダム観光して、感じた事を纏めてみた。アムステルダムは、運河と橋の多さが特に印象的であった。レンガ造りの古い家並みの合間を静かに運河が流れ、独特のハネ橋の下を上り下りの観光船や荷物運搬船が行き交う風景は、まさに絵の様であった。まだ、ヴェネチア(ヴェニス)へ行った事がないが、まるで『水の都』の雰囲気が漂っていた。そんな光景を見ながら、何処からか教会の鐘が辺り一帯に響き渡ると、一層旅情を醸し出してくれた。アムステルダムは歴史感が漂い、そして旅人の心を癒してくれる、そんな感じがする街であった。又、街角のあちこちの花屋さんがチューリップを始めたくさんの花を売っている光景や、そして街で民族衣装を着て『木靴』を履いている女性を見掛ける...アムステルの旅~アムステルダムで感じた事の話

  • アムステルの旅~オランダの生意気な子供達

    △ダム広場(PFN)・昭和43年8月18日(日)曇り時々雨(オランダの生意気な子供達)アムステルダム2日目の今日、私は市内観光へ出掛けた。昨日、列車から降りた『アムステルダム中央駅』は、赤レンガ作りで東京駅に似ているので驚いた。東京駅がこの中央駅を真似して作った、と言う事なので、無理はなかった。この中央駅前から幾つも観光船が発着していた。市内運河巡りもあれば、アムステルダム港巡りもある。私は、後者の港巡りの観光船に乗った。客は私の他、地元の子供2人であった。どんよりして霧がかかり周りの景色はぼやけて、良くなかった。乗船して来たオランダの子供が非常に人懐っこく、直ぐに仲良くなった。私が日本人であると分ると、余計であった。彼等は日本のカメラやオートバイの良さ、そしてサッカーやその他のスポーツの事も良く知っているので...アムステルの旅~オランダの生意気な子供達

  • アムステルダムの旅~外国で散髪して貰う

    △アムステルダム中央駅(PFN)アムステルダムの旅・昭和43年8月17日(土)雨(外国で散髪して貰う)*参考=オランダの1ギルダーは、約99円(1セントは、約99銭)。9時間の旅で列車はアムステルダムに定刻通り、午前8時に到着した。欧州の列車は時間がルーズであると本で読んだ事があるが、私の乗った全ての列車は、ほぼ定刻通りに発着し、事故等で遅れた事はなかった。所で、オランダの本当の呼び方は、Netherlands(ネザーランド)又はNederland(ネーデルランド)であり、Holland(オランダ)は、俗称であるとは知らなかった。ユースに着くと既に、多くのホステラーが受付に列をなして並んでいた。昼前なのに泊まる人が大勢いた。私も並んだ。1時間ぐらい待って運良く泊まる事が出来た。しかし、宿泊場所はこちらのユースで...アムステルダムの旅~外国で散髪して貰う

  • ミュンヘンの旅~西ドイツの鉄道員と美味しいビール

    △ブーフローエ停車場(PFR)*当時と全く構内が狭くなった。・昭和43年8月16日(金)晴れ(西ドイツの鉄道員と美味しいビール)*参考=西ドイツの1マルクは90円(1Pfennigは90銭)照井と折角再会したが、別れて旅をする事にした。何も彼と喧嘩別れ、或は気まずい思いをして別れるのでもなかった。照井はもう少し私と共に旅をしたかったようであったが、ただ、『お互いに1人旅の方が良いのでは』と私が判断したまでの事であった。理由は、「私には私の旅があり、照井には照井の旅がある」と言う、ただそれだけの事であった。彼はもう1日か2日、ここに滞在する予定だ。私はユースを去った。別れ際に、「照井さん、元気で旅を続けて下さい。昨夜は取って置きのラーメン、本当にご馳走様でした」と私は礼を述べた。「中里さんも元気で。縁があったら、...ミュンヘンの旅~西ドイツの鉄道員と美味しいビール

  • オーストリアの旅~即席ラーメンをご馳走になったが

    △ボーデン湖(PFN)・昭和43年8月15日(木)雨後晴れ(即席ラーメンをご馳走になったが)6時に起きた。車窓から外を見ると、列車は高い山間部を縫うように走っていた。いつInnsbruck(インスブルック)に停車したのか分らなかったが、いつのまにかTirol(チロル)地方を走っていた。列車の両側は3,000m以上の山々が幾重にも連なり、真夏なのに残雪もかなりあった。本当に車窓からの景色は最高で、私はその眺めに首っ丈であった。私と照井はリンダウ(西ドイツ領)の一つ手前の駅、オーストリアの最西端Bregenz(ブレゲンツ)で下車した。この町の近くにLake-Boden(ボーデン湖)があり、観光地化された町であった。駅を出てユースが何処にあるのか分からなかったので、駅前の観光案内版を見ていた若者達にユースへの行き方を...オーストリアの旅~即席ラーメンをご馳走になったが

  • オーストリアの旅~あの照井さんとウィーン駅で再会

    △ヘルシンキ港にて~右が私、左はソ連からマドリードまでの旅の友の鈴木・昭和43年8月14日(水)晴れ(あの照井さんとウィーン駅で再会)翌朝、顔を洗っていたら騒いでいた彼等に、「貴方は何人か」と聞かれた。「私は日本人だ」と言ったら、彼等はそれ以上の事は言わず、黙って行ってしまった。又、何人かの人に、「昨夜はよく言ってくれた」と握手を求められた。昨夜の様に外国に来て、英語で5~6人のドイツ人に注意を言えるようになった事に、私自身が驚いた。どこからそんな勇気が沸いて来たのであろうか。『私も随分成長した者だ』と自分で感心してしまった。2日間滞在しようかと考えていたが、ユーレイルパスの有効期限の事を考えると、ゆっくりも出来ないので、ウィーンを1泊滞在しただけで、ユースを去った。ウィーン中央駅構内で時刻表を探していたら、モ...オーストリアの旅~あの照井さんとウィーン駅で再会

  • オーストリアの旅~ドイツ人を唸り飛ばす

    ・昭和43年8月13日(火)晴れ(ドイツ人を唸り飛ばす)*参考=オーストリアの1シリングは約14円(1Gloschenは約14銭)夜の車中、半袖シャツにカーデガンでは、とても冷えた。セーターを日本から持って来るか、或は、物価の安いスペインかイタリアでセーターを買えば良かった、とつくづく思った。始発のローマから一緒に乗った金髪の女性は他の男性と知り合って他の車両へ移動してしまったが、その代わりに途中駅から乗車して来たアメリカ人女性が同じ座席に座るようになった。前の女性よりこのテキサス女性の方が気安く、好みのタイプであった。夜、座席で寝る事になった私が彼女の足を抱く様な状態になり、寒いので都合よかったし、彼女も強いて拒否しなかった。ウィーン駅到着後、私は列車時刻表が何処にあるのか、駅構内をうろついていたらトイレへ行...オーストリアの旅~ドイツ人を唸り飛ばす

  • ウィーンの旅~ローマからウィーンへ

    △テルミニ中央駅PFN)ウィーンの旅・昭和43年8月12日(月)晴れ(ローマからウィーンへ)ペンションを去る時、400リラ余計請求された。よく聞くと、「昨日の朝、バスを使用したから」と言うのだ。本当に頭に来るペンションだった。トイレとバスは同じ場所(ユニットになっている)にあるので、私がトイレに入った時、ここの主人はバスに入るのではないかと、バスとトイレに面した通路の前を宿泊客がバスを使っているか如何か、うろうろして監視していたのであった。昨日の朝は、トイレ使用が長くなり、主人はバスを使用したと思って請求したのだ。一昨日、宿泊料金を吹っ掛けたり、又バス使用をいちいち監視していたり、最後の最後まで感じが悪い嫌なペンションであった。勿論、400リラは払わなかった。正午のローマ発ウィーン行きの列車に乗った。間もなくし...ウィーンの旅~ローマからウィーンへ

  • ローマの旅~日本人の団体行動と団体旅行の話

    △トレビの泉にて~アメリカ女性と肩を組んで再びローマに来られるよう祈って・昭和43年8月11日(日)晴れ(ローマ見物)――観光の話は省略――*日本人の団体行動と団体旅行の話「日本人は集団にならなければ、何も行動出来ない」とある本に書かれていたことを思い出した。私はコペンハーゲン市庁舎前広場の若者の集団、ロンドンの日本レストランの地下で見た異様な集団(P144)、そしてパリやローマの団体旅行者の集団を見掛けた事があったが、これらは本当に印象的であった。旗を掲げてJTBのガイドに導かれ、忙しそうに観光名所から次の観光名所へと時間に追われて見学していたそれらの団体は、一見善良そうな大人達であったが大声を出し、或はバカ笑いをしながら見物していた。その幼稚的な行動は、日本人である私も恥ずかしい感じがした。他の国の団体旅行...ローマの旅~日本人の団体行動と団体旅行の話

  • ローマの旅~苦しみに耐えローマへ

    △私の目の前を辻馬車が『パカパカ』と蹄の音を残して夕闇に消えて・・・ローマの旅・昭和43年8月10日(土)晴れ(苦しみに耐えローマへ)ピサは、ピサの斜塔で誰でも知っているが、私は大聖堂の鐘楼であるとは知らなかった。ペンションから近くにあり、午前中の早い時間に見物に行った。10時05分、ローマ行き急行列車に乗った。朝、水を飲んだ所為なのか、急いで駅へ来て乗り込んだ所為なのか、或いは、昨日からの胃の具合が治っていないのか、再び腹が痛くなって来た。言葉が通じぬ異国での体調不良は、最悪であった。直接の原因か如何かはっきり分らないが、昨日から腹が痛かったにも拘らず、そしてあれ程に注意していたにも拘らず、水道水を空腹と喉の渇きで我慢しきれずに今朝、飲んでしまったのだ。車中で2時間近く、「ウーウー」唸って我慢して治るのを待つ...ローマの旅~苦しみに耐えローマへ

  • マタロ、セルベール、サボーナ、ピサの旅~おばさんに怒鳴られるし、腹痛に苦しむしし、もう最悪

    △ピサ大聖堂の鐘楼(PFN)・昭和43年8月9日(金)晴れ(おばさんに怒鳴られるし、腹痛に苦しむしし、もう最悪)サボーナの街へ散策に出掛けた。朝食(パン、野菜サラダ、コヒー)を取ったばかりなのに、お腹が空いていた。それは当然であった。昨日の朝、軽食を食べてから夕食にパンと果物を食べた以外、今朝まで満足に食べていなかったのだ。街に出かけ途中、屋台で売っていた果物を買って食べながら歩いていたら、今度はスイカを切り売りしている屋台があった。1切れ70リラ(42円)なので、試しに買ってみた。冷たくて美味しかった。その屋台のおじさんに、安いレストランを尋ねたら場所を教えてくれた。そろそろお昼になったので、教えて貰ったその店に入った。店内は感じが良く、600リラで野菜料理、スパゲテ、肉料理、パンの料理を注文した。イタリアで...マタロ、セルベール、サボーナ、ピサの旅~おばさんに怒鳴られるし、腹痛に苦しむしし、もう最悪

  • マタロ、セルベール、サボーナ、ピサの旅~ホテル捜しに街を彷徨う

    △サボーナの浜辺(PFN)・昭和43年8月8日(木)晴れ(ホテル捜しに街を彷徨う)*参考=イタリアの1リラは、約60銭(10Centesimoは6銭)チェックアウトして旅券を戻して貰おうとしたら、マネージャーが居ないので20分位待たせられた。待っている間、私はブローチと話をした。折角彼女と友達になったのに別れの時が来た。残念だし、何か寂しかった。しかし私は旅人、行かなければならなかった。彼女と話をするのもこれが最後、お互いの住所を交換し、手紙を書く事を約束し合って別れた。セルベールを午後1時04分、マルセイユ行き2両編成のジーゼル列車に乗った。マルセイユからミラノ行きTEE国際急行列車に乗り換えた。Savona(イタリアのサボーナ)に到着したのは、既に午後8時をとっくに過ぎていた。宿泊捜しにあちこちのホテルを当...マタロ、セルベール、サボーナ、ピサの旅~ホテル捜しに街を彷徨う

  • マタロ、セルベール、サヴォーナ、ピサの旅~フランス人高校生と出逢う

    ・昭和43年8月7日(水)曇り(フランス人高校生と出逢う)朝食を海辺に面した大広間の食堂で取った。そこから青い海、回りの山々、そして山の中腹にあるキャンプ場が見えて、展望はとても良かった。こんなに素晴らしい場所が余り観光地化されていない、正に穴場であった。昨日、ホテル代が安かったので朝の食事は付かないと思っていたのだが、付いて良かった。朝食は、軽食(トースト2枚のマーガリンとマーマレード付き、野菜サラダ、そしてコーヒー)であったが、私は量的に充分であったし、素晴らしい景色を眺めながら食べたので、余計に美味しかった。今日、家族や友達へ手紙を書いたり、日記を付けたりして過ごした。書き終わって手紙を出しに街へ出た。郵便局の場所が分らないので向こうから遣って来た若い女性に尋ねた。そうしたら彼女は私をわざわざ郵便局まで案...マタロ、セルベール、サヴォーナ、ピサの旅~フランス人高校生と出逢う

  • マタロ、セルベール、サヴォーナ、ピサの旅~相棒の鈴木、そしてリターとの別れ

    △現在のマタロの海岸(PFN)・昭和43年8月6日(火)晴れ(相棒の鈴木、そしてリターとの別れ)昨日、私と鈴木は話し合って、別々に別れて旅をする事になった。彼が私の気持を傷つける事を言ってしまっては、私としても一緒に旅をする気持にはなれなかった。我々2人はどうやら外国にも慣れて来たし、別々に旅が出来ると考えた。ただモスクワで意気投合し、「共に旅をしよう」とそれでここまで一緒に旅を続けて来た。本当に楽しい日々であったし、彼が居るだけで寂しさも紛れたし、心強さもあった。しかし、旅の途中で出逢った人は、必ずいずれかは別れる日が来た。人それぞれ自分に合った旅をすれば良いし。2人一緒だとどちらかが妥協しなければならないし又、相手を頼る事にもなった。それは、自分の為にも決して良くない事であった。この辺で別れて、自分の旅をす...マタロ、セルベール、サヴォーナ、ピサの旅~相棒の鈴木、そしてリターとの別れ

  • マドリードの旅~鈴木との別れ、そしてリターとの出逢い

    △ユース近くの公園でスペインの美女達に囲まれて・昭和43年8月5日(月)晴れ(鈴木との別れ、そしてリターとの出逢い)早めに起きてバルセロナ行きの座席予約の為、中央駅へ行った。鉄砲を持った兵隊や警官が駅構内にうようよいた。我々はあっちへ行ったり、こっちへ来たりして時刻表を捜し求めた。言葉が分らず、時刻表が何処にあるのか分らなかった。又あちこちと駅構内を歩き回った。全く嫌になってしまった。『どこそこ行きは何番から何時に出発』と言う発車時刻表が見付らなかった。8時40分頃駅に来て、12時00分のBarcelona(バルセロナ)行きがあるのが分るまで、かなりの時間を費やしてしまった。それでは12時のバルセロナ行きに乗ろうとして出札窓口へ行ったら、全部予約が一杯で駄目だった。他の列車の予約を取る為、また列に並ばなければな...マドリードの旅~鈴木との別れ、そしてリターとの出逢い

  • マドリードの旅~マドリードの印象の話

    △繁華街にての私~シエスタ時で人も車もまばら*マドリードの印象の話マドリードに来て驚いたのは、駅や街で警察官や兵隊がやたら目に付いた事であった。スペインにとって悲しい事だが、まぁ今日になってもフランコの様な独裁政治を続けている国は、西ヨーロッパでスペイン(ギリシャは軍事政権)だけであった。大きな通りの全ての十字路では土のうを積んで機関銃を備え、主要な箇所・建物、中央駅の各出札口、或はホームに警察官や兵隊が鉄砲を担いで警備しているのは、民衆や乗客を威圧していて、権力・武力によって抑え付けている感じが良く分った。学生や若者による暴動が起こり、スペインは近い将来、情勢が変わり民主国家になるであろう、と今まで各国を見聞して来た過程で、容易に想像が出来た。スペイン人の背の高さは、一般的に私と同じか、或はチョッと高いぐらい...マドリードの旅~マドリードの印象の話

  • マドリードの旅~フランコの独裁国家

    △ユース近くの公園でスペインの美女達に囲まれる・昭和43年8月4日(日)晴れ(フランコの独裁国家)目が覚め、起きて外を見た。それは素晴らしい光景であった。半砂漠化の様な木が生えていない山岳地帯を、列車は縫うように走っていた。山々が幾重にも連なり、そして列車はそれを越えて行った。マドリードに着いて、地下鉄を使ってユースへ行く事にした。マドリードの地下鉄の電車は古く、速度は遅く、車内は本も読めない暗さ、おまけに座席は木製、駅構内は暗く、汚い感じであった。ユースがある駅まで最初、3ペセタ(15円)払って切符を買ったが、乗換駅出口で駅係員が切符を回収しているので渡してしまった。その乗換駅改札口を入るのに又、2ペセタの切符を買って入った。次の乗換駅で新たに買った乗車券を又、渡してしまった。3度乗換駅で3度2ペセタ払って切...マドリードの旅~フランコの独裁国家

  • マドリードの旅~陽気なスペイン人

    △ドン・キホーテの像(PFN)・昭和43年8月3日(土)晴れ(陽気なスペイン人)*参考=スペインの1ペセタは、約5円(10センチモは、50銭)。トランクは持ち運びが大変なのでマサオの部屋に置いて(8月20日頃、戻って来る予定)、私と鈴木はマドリードに向けて出発した。必要最低限の荷物は、軽い手提げ用バッグを昨日買って、その中に入れた。前もって座席予約したIrun(イルーン)行き列車は、モンパルナス駅を午後2時05分、余裕を持って出て来たので充分、時間があった。我々は時間が来るまで駅前のカフェで、ゆっくりコーヒーを飲んで時間を過した。イルーンは、大西洋側のスペイン領でフランスとの国境の町、近くにSanSebastian(サンセバスチャン)と言う大きな町がある所であったイルーンには午後9時に到着した。Madrid(マ...マドリードの旅~陽気なスペイン人

  • パリの旅~語り合いとアラビアコーヒー

    △セーヌ川に掛かる橋にて~後ろの建物はノートルダム大聖堂・昭和43年8月2日(金)晴れ(語り合いとアラビアコーヒー)9時~10時頃まで寝ていた。私と鈴木が起きたらマサオは、温かいコーヒーを煎れてくれた。我々3人は、コーヒーを飲みながら色々な事を語り合った。その後、昼食用の買物に3人で出掛けた。近所の商店は結構買い物客で賑わっていた。マサオは我々の為に魚を買い、それを料理してくれた。昼食はフランスパン、トマトとレタスの野菜サラダ、魚料理、そしてワインであった。久し振りに豪華な食事で、魚料理は味付けが良く、非常に旨かった。「我々に食事代を出させて下さい」と言ってもマサオは、頑として聞き入れなかった。彼の生活は、ゆとりがあるように見えなかった。むしろ最低な生活状態にも拘らず、私と鈴木を持て成してくれたのだ。そんな彼の...パリの旅~語り合いとアラビアコーヒー

  • パリの旅~私が見た事、感じた事その8、メトロの話

    8、メトロの話パリの地下鉄(メトロ)について感じた事を書いておく事にした。言葉が分らなくても、パリのメトロは本当に利用し易かった。ドアは手動式であるから、乗る時、降りる時は自分で開ける仕組みになっていた。開けたドアは出発する前に自働的に閉まるので、自分で閉める必要はなかった。ドアを開ける場合、チョッと重いので、かよわい女性が乗降する時に手を貸してあげるのが、ここでのエチケットであった。美しい女性に、「メルシー」と言われると良い気分がした。行き先、又は乗換駅が分らない場合は、各駅に電光行き先表示板の駅案内があった。ボタンを押せば経路、乗換駅が点滅され、不案内旅客にはとても便利だ、と感心した。駅構内は、電車を乗る通路(乗車通路)と駅を出る通路(出口通路)が別個に分かれていて、通路で乗る人と降りる人がぶつかり合う事は...パリの旅~私が見た事、感じた事その8、メトロの話

  • パリの旅~私が見た事、感じた事その7、食べ物の話

    7、食べ物の話フランスは、食道楽の国と言われているが、下町の魚屋、八百屋等をのぞいて見ると、私が訪れたいずれの国よりもパリのお店は、商品の種類やその量が豊富であった。私は何度かカフェテリアに入った事があったが、その店の料理が意外と安く、しかも大変美味しかった。料理を自分の目で確かめられ、自分の好きなだけ取る事が出来た。ある時など、メトロに乗ってわざわざ食べに行った事もあった。一流レストランで本物のフランス料理が食べられれば良かったが、それは私にとって到底出来ない話であった。フランスはスペインやイタリアと同じくワインが安く、種類も豊富にあった。安いワインは1フラン(70円)からあった。私は2フランの白ワインを水替わりに飲みなが、パリの観光、散策を楽しんだ。パリの旅~私が見た事、感じた事その7、食べ物の話

  • パリの旅~私が見た事、感じた事その6、ファッションの話

    6、ファッションの話パリは、ファションの街であるが、フランス風のトップ・モードの女性は、意外と見掛けなかった。どちらかと言えば東京の方がファション的かなぁ、と言う一面もあった。しかしそこはフランス女性で田舎臭くなく、何処となくシックで洗練された感じがした。とは言っても、夏のパリは観光客が多く、パリジェンヌはバカンスに出掛け、私が見掛けた女性の多くは、他の国から来た観光客だったかもしれなかった。パリの旅~私が見た事、感じた事その6、ファッションの話

  • パリの旅~私が見た事、感じた事その5、フランス・パンの話

    5、フランス・パンの話日暮れともなれば、そのままのフランスパンを3つも4つも持ち抱え、通りを歩いている主婦や労働者を見掛けた。60~70㎝の長いパンを何も包まない(非衛生的と思えるかも)で持ち歩く姿は、日本人にとって変わった格好であり、大都会の真ん中で市民生活が丸見えであった。それはパリの食生活を嗅ぐ思いであった。このフランスパンはとても硬かった。私はなかなか噛み切れなくて、3日後に歯茎が痛くなってしまった。アハハハー・・・パリの旅~私が見た事、感じた事その5、フランス・パンの話

  • パリの旅~私が見た事、感じた事その4、お巡りさんの話

    *お巡りさんの話パリのお巡りさんは、特色、特徴があった。彼等は丸い帽子を被り、交通整理、パトロール、或は観光客の道案内をしたりして、市内のあちこちで見掛けた。彼等は一般の人達より背が高くスラットとしていて、皆ハンサムであった。お巡りさんは、パリのもう一つの『顔』とも言えた。パリの旅~私が見た事、感じた事その4、お巡りさんの話

  • パリの旅~私が見た事、感じた事その3、セーヌ川の辺(ほとり)の話

    *セーヌ川の辺(ほとり)の話パリ中央に流れるセーヌ川の辺は、人々が集い、色々な人の為のエリアになっていた。ギターに合わせて歌う若者達の為の場所だったり、ヒッピー達の屯する為の場所だったり、若い恋人達が愛を確かめ合う為の場所だったり、観光に疲れた我々の為の休憩所だったり、釣り人の為の場所だったり、日光浴をする為の場所だったり、芸術家達が絵を描く場所の為だったり、セーヌ川は多種多様な人々の為の場所であった。セーヌ川は、正にそのままパリの風物詩であった。そして、セーヌ川に沿って絵葉書や版画、或いは絵画等を観光客相手に売る店が結構多かった。又、ルーブル館近くのセーヌ川の橋にチョークで絵を描いている若者達が多く居た。パリは、まさに『芸術の都』、そんな雰囲気に溢れている街であった。パリの旅~私が見た事、感じた事その3、セーヌ川の辺(ほとり)の話

  • パリの旅~マサオは優しかった

    △マサオの部屋にて・・・IllustrationdrawnbyMihoYoshida(ByMYoshida)・昭和43年(1968年)8月1日(木)晴れ(マサオは優しかった)私と鈴木はホテルを出て、マサオの部屋へ行って見た。今日も居なかったが、ドアは施錠されていなかった。彼はイギリスから帰って来て、何処か用事で出掛けているのだと思った。彼から手紙で、『いつでも自由に使っても構わない』と言う承諾を得ていたから、私はそうする事にした。我々は階段を上って3階の10畳程の広さの部屋に入った。部屋には、床に足の無い使い古したベッドと薄汚い毛布2枚、そして壊れそうな箪笥に似た物入れが1つあるだけで、その他は部屋に何も無かった。天井からは裸電が細長い赤布と共に垂れ下がっていた。明かりを点けても薄暗い部屋、これでは本や新聞等が...パリの旅~マサオは優しかった

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