△コンコルド広場のオベリスク*パリの街角の話パリでも観光は、基本的に歩いて回った。それによって楽しい事、新しい発見や色々な風物に接する事が出来た。保守的とも伝統的とも言えるフランスの心と誇りを、今でも脈々と受け継いでいる何が感じられた。彼等が住んでいる建物は、何処へ行っても歴史を感じ、非合理性であっても旨く生活に調和させ、合理的に使っているようであった。又、通りのウィンドー・デスプレィーは、実に美しく、感心した。店を遅くまで開けて儲け主義に走らず、殆どのお店は午後7時頃で店を閉じるが、ショーウィンドーだけはシャッターを降ろさず、しかも、明かりをつけて夜の散歩する人を楽しませてくれていた。メトロの入口や橋の上、或は、ちょっとした所に新聞・雑誌の売店(キオスク)があったりした。市内には、大小の公園、広場、或は、門(...パリの旅~私が見た事、感じた事その2、パリの街角の話
△エトワール広場にある凱旋門(PFN)私のパリ滞在は、7月30日(午後到着)・31日・8月1日・2日・3日(午後マドリードへ出発)、8月19日(午後到着)・20日・21日・22日・23日・24日(正午ロンドンへ出発)、11月13日(夕方到着)・14日・15日(イタリアへ出発)と言う事で、足掛け14日間滞在し、正味1日中パリに滞在したのは、8日であった。滞在期間中、全てを見物に費やした訳ではなかった。強いて言えば、パリは私のヨーロッパ旅行の中継基地と言う感じで、休養したり、次の準備をしたり、日記や手紙を書いたりして過した時間の方が多かった。しかし、そんな中でも極力、私は観光へ出掛けた。そして、パリについて私が見た事、感じた事、体験した事をここに纏めた。*パリの観光巡りの話パリは、セーヌ川によって南北に2分されてい...パリの旅~私が見た事、感じた事その1、パリの観光巡りの話
△エッフェル塔とパリの町並み(PFN)・昭和43年7月31日(水)晴れ(ホテルでゆっくり過ごす)―――日記や手紙を書いて過ごした。―――パリの旅~ホテルでゆっくり過ごす
△ノートルダム寺院(PFN)・昭和43年7月30日(火)晴れ(国際急行列車の旅)*参考=フランスの1フランは、約70円(1センチムは70銭)。夜の闇の中を列車は、一路パリへとひた走った。コペンハーゲン~パリ間は、デンマーク、ドイツ、オランダ、ベルギー、そしてフランスの5ヶ国が存在して、列車(我々)が入出国の度に夜中にも拘らず、各国の係官が旅券の提示を求めに来た。その上更に、1つの国で2回程、乗車券の検札に来たので、睡眠が取れる状態ではなかった。夜行列車なので、もう少し考えて貰いたかった。フランス領内は田園の中をひた走り、パリに着いたのは午後3時20分であった。乗車時間は18時間から19時間、睡眠不足が加わり疲れた旅であった。所で、麦畑の中から急に都市になり、パリは田園の中にドカーンとあった。東京や他の大都市は、...パリの旅~国際急行列車の旅
△人魚姫(PFN)にて~観光客は我々二人だけであった。有名な割に何か寂しい感じであった。・昭和43年7月29日(月)晴れ(コペン見物とヌード写真集)今夜、20時55分の列車でパリへ行く事にした。充分な時間があるので、今日も我々はコペンハーゲンの観光を楽しんだ。―――見物の話は省略―――市内見物後、我々は特に目的意識もなく街を散策していたら、1つ発見した事があった。それは、フリーセックスの国・スウェーデンのストックホルムより、ここのコペンハーゲンの方がヌード写真集の本屋がたくさんあった。その写真集の中身も大事な部分に透かしがなく(無修正)、良くあそこが拝めて、男性にとって嬉しい限りであった。日本のヌード写真はパンティ着用、修正でリアルさがないので、『北欧のお土産』にと思う人がいるかも知れません。しかし、税関で発見...コペンハーゲンの旅~コペン見物とヌード写真集
*我々の市内見物の話私と鈴木の市内観光は、地図を片手に自分の足で多少遠くても、歩いて回るのが原則であった。旅行会社主催の団体旅行は、見所から次の見所へと時間的に無駄なくバス等で移動し楽である。又、見所に於いてもガイドによる日本語の説明があるので歴史的、或いは美術的について良く理解出来る利点がある。それに反して団体旅行は途中の過程が空白であり、観光箇所を後で思い出しても何処を見物したのか覚えていない、或は忘れてしまったと言う事が多いのではないか。如何してなのか。理由は簡単、他人任せの楽な観光は、何も思い出として残らないのだ。我々の市内見物は、団体旅行と違って、何かにつけて時間的な無駄と苦労があった。しかし、自分の見たい所へ行けたし又、時間的制約を受けずじっくり見る事も出来た。そして、何よりも他の人が居ないので、非...コペンハーゲンの旅~我々の市内見物の話
・昭和43年7月28日(日)晴れ(コペンの中央駅にビックリ)*参考=デンマークの1クローネは52円(1オーレは52銭)スウェーデンのヘルシングボルから、今度は連絡船に乗り換え、Denmark(デンマーク)のHelsingor(ヘルシンゲル)へ渡った。ホールデン~Copenhagen(コペンハーゲン)間は、列車から他の列車へ、列車から連絡船へ、連絡船から又、列車への乗り換えの為、不案内、言葉の不自由さ、肌寒いし、夜中で眠いし、鈴木と一緒でも何か寂しい辛い旅であった。ブルガリアの女性が泣いてしまうのも理解出来るのでした。国境での出入国手続きは、旅券に出入国証明の押印だけで簡単であった。列車は、デンマークのヘルシンゲルから2時間程でコペンハーゲンに到着した。朝の7時、コペンハーゲンの駅は、やっと眠りから覚めたようであ...コペンハーゲンの旅~コペンの中央駅にビックリ
*鉄道の案内放送の話日本の鉄道、特にある鉄道会社は過剰な程にホームや車内放送をしているように感じた。車掌によっては車内に居たたまれない程の大きな音量で、何度も同じ事を放送する人がいた。何度も放送する事、或は決まりきった事を放送する事が、『旅客サービスを提供している』と私は思わなかった。ましてや大きな音量で、しかもしつこい放送は止めて貰いたいだけであった。ヨーロッパの鉄道(パリやロンドンの地下鉄を含む)は、何処へ行っても、到着、発車、乗り換え、終点到着、忘れ物注意喚起等の一切の車内放送、或はホーム案内放送をしていなかった。旅客が列車行き先名、時刻表、駅名表示板等を見て、旅客の責任で乗り降りしていた。したがって車内や駅構内は、とても静かであった。私は、『案内放送は、無用である』と言っているのではない。もう少し案内放...サルプスボルの旅~鉄道の案内放送の話
・昭和43年7月27日(土)晴れ(ホールデン城で美女に出逢う)近所の銀行へ行って両替をして、ユース代を払って出た。今日、何処へ行くかまだ決まっていなかった。駅に着いたらHolden(ホールデン)行きの列車が来たので、それに乗った。ホールデンは国境の町、向こう側はスウェーデン領である。ホールデンはサルプスボルの隣町、キロにして15km程度であるから直ぐに着いた。我々は、コペンハーゲンへ行く事にした。そこへ行くにはHalsingborg(ヘルシングボル)へ行かねばならなかった。駅員に尋ねると、午後8時40分にヘルシングボル接続の列車を教えてくれた。その列車の時間までは、まだ充分あった。そこで、「何処か観光をしたいので、良い所を教えて下さい」と駅員に尋ねたら、彼はホールデン城を教えてくれた。我々はそこへ見学しに出掛け...サルプスボルの旅~ホールデン城で美女に出逢う
*リュックの話都会や田舎を歩き回る旅になる事は、出発前から考えられていた。しかし、山登りやハイキングをするのではないから、『リュックを背負って海外旅行する』と言う発想は、日本出発前、なかった。事実、ソ連経由グループ35~40人程の内、リュックの人は1人であった。勿論、その人は若者であった。彼の服装は普段着(ジーパンにラフなシャツ)で、周りの日本人からは異質な存在であった。彼はそんな格好をしていたので、『日本人の面汚し』と言った様な目で見られていたのは、事実であった。本当は、彼の様なラフな服装が一番旅がし易いスタイルであったのだ。地域、農協、或は職場旅行に於いて年配の方は勿論、若い人も背広で旅行し、ラフなスタイルはいなかった。当然、背広スタイルであるからリュックを背負っての旅行は、考えられなかった。ましてや外国旅...サルプスボルの旅~リュックの話
△自然と調和した家並み(PFN)・昭和44年7月26日(金)晴れ(旅人の荻さんに出逢う)オスロを北上してフィヨルドを見たいが、物価の高い北欧から早く脱出したいので、我々は南下する事にした。東駅に着いて時刻表を見ていたら、1人の日本女性に出逢った。彼女は、「イギリスで英文速記を学ぶ為、こちらに来た」と言った。私は高校1年の時に半年ばかり、早稲田式速記クラブに入部していた事があるので分るが、日本語でも大変なのに英文速記を習うとは、大した目的を持っている女性がいるものだ、と感心した。成功を祈るのみだ。外国で勉強し、その目的を達成するのは、容易でない、と思った。そして、努力しても多くの者が色々な諸事情で途中断念するのであろう事は、想像に難くなかった。最初、我々はBergen(ベルゲン)へ行く予定であったが、13時40分...サルプスボルの旅~旅人の荻さんに出逢う
*トイレの話オスロのフログナー公園散策中、私はトイレに行きたくなったので有料でも仕方ないと思い、園内のトイレに入った。先に入った人がドアを閉めなかったので、無料で使用が出来てラッキーであった。使った後、ドアを閉めると鍵がかかり、お金を入れないとドアは開かないのだ。ヨーロッパでは公衆トイレが少なく、あっても有料が多かった。市内観光巡りは、トイレ探し(有料・無料問わず)で苦労するので、出掛ける前に必ず、出なくてもトイレへ行っておく事が懸命であった。トイレ探しの秘訣は、大きい公園、観光名所、博物館、美術館、駅(パリ、ロンドンの地下鉄駅にはない)、公共建物等に普通ある。観光中や散策中、トイレへ行きたくなくても、気が付いたらそれらの場所を頭に入れておく事が大切であった。パリやロンドンに居た時、トイレへ行きたくなったが、近...オスロの旅~トイレの話
△オスロの街角にて~民族衣装着た女性と私Yoshi・昭和43年7月25日(木)晴れ(オスロ観光)私のノルウェーの知識・イメージは、海賊バイキング、フィヨルド、漁業・捕鯨の国、それに、船舶製造で、これ位しかこの国に対する知識はなかった。そんな私であるが、地図を頼りに市内観光に出掛けた。―――観光巡りは省略―――夜、ユースでアメリカ人、フランス人、白人の南アフリカ人とトランプをして過ごした。国際色で楽しい時間であった。旅をしていると色々な人々に出逢えるから楽しみのひとつであった。ユースの娯楽室でちょび髭を生やし、旅慣れたある日本人を見掛けた。この時、私は彼が荻正弘さん(大阪府出身。以後、敬称省略)であるとは、知らなかった。勿論この時、私達は互いに話もしなかった。今夜は部屋のベッドで寝られて良かった。△バイキングの船...オスロの旅~オスロ観光
・昭和43年7月24日(水)晴れ(女は強い)*全記事からの続き*参考=ノルウェーの1クローネは、約50円(1オーレは、約50銭)。オスロ駅前にて、この国のお金が全くないので両替した。その後4人で相談し、ユースに宿泊出来るか電話で問い合わせを私がする事になった。所で私は欧州ユース・ホステルの所在地・電話番号一覧表の本を持参していた。私が電話をしたら、空いているベッドがなく、断られた。駅前で待っている彼女達に「宿泊出来ない」旨を話したら、「ダメですネ。無理してもお願いするものよ。1つや2つ空いているものなのよ」とアイ子に言われてしまった。今度は、私と鈴木が荷物番をして、女性2人が電話を掛けに行った。それは、『全く日本の男性はだらしないのだから』と言う感じであった。それに、『女と言うものは、いざと言う時は強いものだ。...オスロの旅~女は強い
ストックホルム・オスロ間ヒッチハイクの旅~「腹が空いたなぁ」と日本語で言ったら・・
・昭和43年7月24日(水)晴れ(「腹が空いたなぁ」と日本語で言ったら・・)7時に起き、ユースの外にあるフードスタンドでソーセイジ入りパンとコーヒーで軽い朝食を取った。それからオスロ方面の街道に出て、9時30分からヒッチを始めた。130~150台程の車が通り過ぎて行き、乗せてくれそうなドライヴァはいなかった。暫くたって1台目が停まってくれた。しかし乗った距離は4~5km、ストア前で降ろされてしまった。降りた場所に例の黒人学生がいた。一緒にユースを出たのであるが、彼はまだこんな所にいたのだ。2台目の車に乗せてもらったが、20km程で降ろされた。そこに距離表があった。ここは、カールスタードから30km、ストックホルムから346km、オスロまで後198kmの地点であった。この辺りは田園風景が広がり、何の変哲もない場所...ストックホルム・オスロ間ヒッチハイクの旅~「腹が空いたなぁ」と日本語で言ったら・・
*ヒッチ・ハイクの話ヒッチとは、「ヒッチハイキング、又はヒッチハイク」とも言う。車を停めて無料で乗せてもらう、誠に図々しい旅行の方法あり、相手の親切心だけが頼りなのだ。最近、ヨーロッパでは若者旅行者の間で流行っていた。ヒッチの仕方として、ドライヴァから見て遠く前方に、『ヒッチをしているな』と言う認識と、『乗せて上げよう』と決断するまでの時間的、距離的な空間が大事であった。そして、ヒッチをしている場所が車を停められる余地があるのか、停まった時に後方車に追突されず、且つ安全であるのか、その場所選びが非常に重要であった。ヒッチ合図は、親指を延ばし(残り4本の指は折り曲げた状態)、親指の先を行き先方向に指し、左側通行の国は右から左へ、右側通行の国は左から右へ車が来たら腕を数回移動させる。スウェーデン、ノルウェー、イギリ...ストックホルム・オスロ間ヒッチハイクの旅~ヒッチハイクの話
ストックホルム・オスロ間ヒッチハイクの旅~ヒッチでストックホルムからオスロまで大野・山下と競争
・昭和43年7月23日(火)晴れ後時々雨後曇り(ヒッチでオスロまで競争)8時30分頃、大野さんから電話で、「今からオスロに向けてヒッチハイクで旅発つ」と連絡があった。私と鈴木もヒッチでオスロへ行く事にした。照井は列車でスウェーデンを北上するとの事で、我々(私と鈴木)は照井と別れなければならなかった。振り返れば照井とは、ソ連経由の一団でモスクワ滞在中に知り合い、メトロホテルへ飲みに行き、鈴木と共に意気投合した間柄であった。それ以来6日間、共に旅をして来た仲間であった。旅とは、人との出逢いであり、又、別れる運命であった。寂しいが、それが旅であった。彼の今後の旅の幸運を祈った。ヒッチするのには、郊外に出ての方がやり易いと判断、地下鉄に乗った。地下鉄の駅のホーム側壁は、カラフルで色々な絵が描かれ、各駅によってそれが異な...ストックホルム・オスロ間ヒッチハイクの旅~ヒッチでストックホルムからオスロまで大野・山下と競争
△上の写真はストックホルム市庁舎前でヒッピーまがいの人達と日光浴*ヒッピーの話西ヨーロッパの大都会では、至る所ヒッピーの姿が目に付いた。このストックホルムも例外ではなく、街を歩いていると、あちこちと屯(たむろ)しているヒッピー達を見掛けた。しかしここのヒッピーは、他の国のヒッピーと比べて上から下までファッション的でセンスが良かった。女性は特に美人ぞろいで、さすが〝スウェーデン〟(日本では当時この国を『フリー・セックスの国』と言うイメージを抱いていた)だと思った。私は最初、ヒッピーに対し少し違和感があった。しかしその内に何も感じなくなり、ヨーロッパに来て1ヶ月後には親しみを感じて来た程であった。そして最後は、私もヒッピー気取をするようになってしまった。そんな事で、私の感じたヒッピーについて話をしてみようと思う。彼...ストックホルムの旅~ヒッピーの話
・昭和43年7月22日(月)晴れ(バルト海船上で17歳の若者と口論)*参考=スウェーデンの1クローネ(Krona)は、約70円(1オーレは、70銭)。昨夜、私を含めて2等キャビンの人達は、毛布なしで直に床に寝た。非常に寒く、そして長い夜であった。こんなに寒い中を一晩過ごした経験は過ってなかった。勿論、船員に毛布を貸してくれるよう尋ねたのですが、2等用には備えがないとの事で、ブルブルと震えながら一晩過したのでした。やっと朝の5時頃になったので、私は体を温めようとシャワー浴びた。しかし、その時は温まったので良かったが、後になって反って寒くなってしった。体が丈夫の方ではないので風邪を引くのでは、と心配してしまった。日本の夏は夜でも非常に蒸し暑いので、『いくら北欧でもカーデガンがあれば大丈夫であろう』と思い込んでいた。...ストックホルムの旅~バルト海船上で17歳の若者と口論
・昭和43年7月21日(日)晴れ(黄金のバルト海)パン、ミルク、キュウリ、そして、トマトで朝食を取った。ソ連の旅行は、ホテルでナイフとフォークを使ってのコンチネンタル・ブレックファーストであったが、個人の旅になると食事内容も貧しくなった。船でストックホルムへ行く為、タクシーで港の船会社へ行った。私と鈴木は既に日本でヘルシンキ~ストックホルム間の船切符を買ってあったが、照井と鶴島さんは、まだ買ってなかったので買う事になった。その鶴島さんは、四国の松山で個人商店を営んでいる人で今回、ストックホルムのホテルでボーイをしている弟さんに8年振りに会いに来たと言う事であった。鶴島さんは英語が分らないので私に、「明日、船で行くから弟に迎えに来て貰いたいので、電報文を書いてもらいたい」とお願いされてしまった。そこで、私が英文を...ヘルシンキの旅~黄金のバルト海
・昭和43年7月20日(土)晴れ(倹約旅行の始まり)*参考=フィンランドの1マルカは、約113円(1ペニアは、約1.1円)5時半に起きた。ここ8日間、5時間以上寝た事がないのに、如何言う訳か体には何ら影響がなかった。旅をしている緊張感からであろうか。それとも楽しい日々を送っているから仕事とは違って持ち堪えているのであろうか。とにかく自分の体は、遊び用に出来ているのだ。ホテルでの朝食はなく、バスは6時に出発し、駅へ向かった。6時頃のレニングラードの街は、太陽がかなり高く昇って真昼の様なのに、まだ眠っていた。広い通りには、人っ子1人おらず、静寂さを保ち、経済活動は全く停止していた。あたかも街全体が死んでいる様な感じであった。しかし、後1時間か2時間で活動しだすのだ。そして、楽しかったソ連の旅も終った。私は車窓から移...ヘルシンキの旅~倹約旅行の始まり
・昭和43年7月19日(金)曇り(白夜を楽しむ)目を覚ますと、広大な草原の中を列車はひた走っていた。その景色は変わらない緑一色の世界、改めてソ連の国土の広さを感じた。車中の居心地はまぁまぁで、良く寝られた。7時30分、レニングラードのモスクワ駅に到着した。レニングラード(現在は『サンクトペテルブルグ』と改称)は、ソ連第2位の都市、帝政ロシア時代の首都(ペトログラード)でもあった。ホテルに到着し、荷物を置いて直ぐにバスで市内観光になった。ガイドさんは、美人のロシア人で数々の名所・旧跡を案内してくれて、忘れる事が出来ない旅の1ページになった。彼女はいつも説明の最後に「Thisisoneofthemostfamousandbeautifulbuildings」と言って終るのが口癖と言うか、案内の一つの形式であった。モ...レニングラードの旅~白夜を楽しむ
*モスクワの乗合いバスの話バスの運転手は、これ又例外ではなく、太った中年女性が殆ど占めていた。しかも運転手一人で車掌が居ないバス、それが珍しかった。東京含む関東ではまだ、運転手一人(ワンマン運転)による運行はなく、必ずバスガール(車掌)が乗車して、切符の発売・回収や停留場の案内をしていた。乗客は車中の所定位置にある発券機にコインを入れて小さい切符(国鉄の乗車券位の大きさ)を買って自ら改札(入鋏)していた。前もって買ってある大き目の切符は乗車してから自ら鋏を入れていた。不正乗車する人は、モスクワにはいないのだ、と私はそう見た。皆、乗車マナーが良く、混んで切符を買えない時など、発券機の傍に居る人に頼んで切符を買って貰ったりしていた。私は、社会主義社会の一つの縮図を見た様な思いがした。地下鉄もそんな感じであった。乗る...モスクワで見た事・感じた事~モスクワの乗合いバスの話
*モスクワの女性達の話モスクワ性は、均整の取れた美しい子が多かった。その反面、中年になったおばさんは、殆ど恰幅がよかった。多分、脂っこい物を多く食するからであろう。それとも民族性なのであろうか。ソ連の女性は、結婚しても共稼ぎが原則になっているのか、あらゆる方面に進出していた。タクシー、大型バス、トロリーバスの運転手は勿論の事、地下鉄の電車運転士も彼女達が占めているのに驚いた。貫禄ある女性の運転士を見ると頼もしさを感じた。しかし、その反面よく観察すると、男性は兵役に回されているのか、その労働力不足を女性達が補っていると思われる程、街に軍服を着た軍人達を多く見掛けた。気付いた点ですが、何処へ行っても婦人達(若い女性やおばさん)は、皆スカート(欧米で流行っているミニスカートは見受けなかった)を履いていて、ズボン(スラ...モスクワで見た事・感じた事~モスクワの女性達の話
*モスクワの地下鉄の話モスクワの地下鉄(Metroメトロ)は、全線均一の5コペイカ(20円)でした。利用者(社会主義国だから「乗客」とは言わない~私の私見))は改札を入る時に5コペイカの硬貨を投入口に入れるだけで入場が出来た。入れないでそのまま改札口を通ろうとすると、鉄の棒が横から出て来て、改札通路を遮断する仕組みになっていた。大きな駅の何通路もある改札口でも改札係員は一人で、ただ利用者が通過するその状況を見ているだけでよかった。改札の合理化はモスクワが最初であろう。叉、全線均一であるからこそ出来るこのシステムに、私は率直に感銘した。*日本の大きい駅・ターミナル駅では鋏(改鋏=かいきょう)を持った何十人もの改札係員や集札係員が配置されている。改札を入ってホームへ行くのに地下深く(100メートルから200メートル...モスクワで見た事・感じた事~モスクワの地下鉄の話
・昭和43年7月18日(木)晴れ(置いてけぼりになる)△赤の広場にて今日も観光バス(愛称カモメ号)で市内観光をした。案内役は昨日の女性であった。市内観光が終り、午後0時30分頃に赤の広場の指定集合場所に戻ると私と橋本さんを残し、バスは既に行ってしまった。2人で如何しようか話をしていたら、暫らくしてJTB現地付添人の清水さんが戻って来た。そして3人は市内循環バスでホテルに戻った。お陰様で私はモスクワのバスに乗車する事が出来て、良い体験をした。ホテルに戻った後、私と橋本さんは遅い昼食を取った。グループの仲間は、日本とソ連の社会の仕組みについて話し合っていた。「ソ連は車に優先権があるので、車に轢かれないように十分注意して下さい」と出発前の説明会で注意を受けていた。従ってこの国では、歩行者が車に注意を払うので返って事故...モスクワの旅~置いてけぼりになる
・昭和43年7月17日(水)小雨後曇り(社会主義に思う事)―観光の話は省略。―午後は自由時間となり、自分の好きな所へグループを作って出掛けた。私は橋本さんと大学准教授の森本敏さん(野田政権当時の防衛大臣)の3人で、有名なゴーリキ通り(モスクワの銀座)へ出掛けた。外国での散策と言うか、ブラブラと街を歩くだけでも物珍しい物を発見したり出逢ったり、とにかく色々な物に対して新鮮さを感じ、とても楽しかった。その足で我々は革命博物館へ行った。ロシアの第1、第2革命、及び10月革命等に於けるレーニンの革命の記述、それから彼が使った椅子、机、ノート等日用品が展示され、革命が起こるべきして起こった印象を得、偉大なレーニンの再発見でもあった。なお、この館の中での写真撮影は禁止であった。帰り際に道に迷った我々は、博物館の中で出会った...モスクワの旅~社会主義に思う事
・昭和43年7月16日(火)晴れ(原野のシベリアを列車と空の旅)朝起きると、列車はシベリアの原野を走っていた。私にとって生まれて初めて見るソ連の雄大な景色と大地。行けども行けども家は見当たらなかった。延々と続く白樺の森、それを過ぎると草原が広がる地平線であった。果てしなく続く大地、その光景は尽きる事がなかった。食堂車で朝食を取った後、乗船仲間達と通路に出て、又この景色を眺めていた。すると昨夜の女性乗客係2人がやって来た。誰かが彼女達にロシア民謡を歌ってくれるようお願いしたら、彼女達は嫌がる素振りもせず、カチューシャ、トロイカ、トモシビ等を歌ってくれた。大変上手で、しかもその歌と景色がマッチして、皆の心の奥深くジーンと来るものがあった。我々も彼女達と一緒に日本語でそれらのロシア民謡を歌って列車の旅を楽しんだ。この...初めての鉄道と空の旅~原野のシベリアを列車と空の旅
・昭和43年7月15日(月)晴れ(初めて見る外国と鉄道技師との出逢い)*参考=ソ連の1ルーブルは、約400円(1コペイカは約4円)早朝から晴れていた。旅にとって天気が良いのは一番、身も心も晴れ晴れであった。海も穏やかで、ハバロスク号は一路ナホトカ港へ向かっていた。船旅は3日目になり、航海も終りに近づきつつあった。船酔いも治り、体調は良かった。午前中、デッキで大海原を眺めていたり、日光浴をしたり、写真を撮ったりして過した。午後1時30分頃、遥かかなたに陸地が見えて来た。段々近づくにつれて山脈が連なり、山々が真っ白な雪で覆っているのが確認できた。何と言う山脈であろうか、知る由もなかった。空は青々と何処までも続き、山脈とのコントラストが美しかった。『ようこそソ連へ』と言ってくれている様で、ソ連の旅が楽しみであった。午...初めての鉄道と空の旅~初めて見る外国と鉄道技師との出逢い
・昭和43年7月14日(日)曇り(船旅を楽しむ)船旅2日目だ。船酔いも和らぎ、船内の生活も慣れつつあった。船の仲間達も落ち着きが出て来たように感じられた。私はデッキで海原を眺めていたり、娯楽室で過したり、読書をしたり、又船の仲間達と話をしたりして、のんびりした時間を過した。船旅の楽しみは、なんと言っても食事でした。我々のテーブル係りの20歳ぐらいの女性とロシア語で「ドーブラェウートラ」で始まり、食事が出されると「スパシーバー」、そして、食事の終りは「ダスビダ‐ニャ」で終わった。それはたわいもない言葉であるが、彼女も愛くるしく言ってくれるので、同席の仲間も大喜び、そして和やかな雰囲気でいつも食事が終わった。不安を抱いた初めての海外旅行であり、初めて接するソ連人とこの様に楽しく過せる事が出来て、皆の心も本当に和んだ...船旅~船旅を楽しむ
・昭和43年(1968年)7月13日(土)晴れ(出発前の出来事と出航)いよいよ出発の日だ。この旅路に何年想いを馳せて来た事か。私の大事な1歩が今、始まった。狭山ヶ丘駅1番電車に乗る為、4時30分に起きた。天候は晴れで、幸先は良かった。それにしても今日は眠かった。それは無理もなかった。昨日、私は職場へ挨拶に行って、その足で丸の内のJTBへ行き、ヘルシンキ~ストックホルム間の乗船券および傷害保険証を受け取った。その後、丸の内ホテルへ行って最後の打ち合わせの“集会”(ソ連は自由民主主義国と違って、色々な制限・制約があり、行動においても注意すべき点等の申し合わせ)に参加した。帰寮してから最終のチェック・準備等々で、1日中忙しかった。10時頃に床に着いたが、色々な事が頭に浮かんで寝られず、モンモンとしていると、同部屋のM...船旅~出発前の出来事と出航
△1961年16歳のペンフレンドSheilaMorgan、自宅にて。愈々明日、イギリスへの旅立ち。私は旅に出るに当たって、『下記の原則』を心に秘めた。①家族、友達、そして人様に決して迷惑を掛けないようにする事。②『旅の苦労は買ってでも』と言う意気込みを持つ事。③多くの人と接し、出来れば友達を作る事。④出来れば長く滞在、或は、働いてその国の内側と生活を肌で感じる事。⑤出来る限り多くの国を巡り、色々な経験や体験をする事。*自己紹介・名前~Yoshi・年齢~23歳・身長・体重~167㎝・64㎏・国籍・住所~日本・明日から住所不定・学歴~高卒・渡航歴~初めての海外旅行・英会話力~中学の英語程度・手持ち金~430米ドルと聖徳太子2枚・旅が何か月又は何年になるのか~不明・旅の旅程~不明(行き当たりばったり)旅の心構え
会社へ休暇願を提出したが不許可昭和43年5月下旬のある日、休暇願を会社に提出した。内容は、『私は長い間、海外旅行をしたいと願っておりました。ここに現実の運びと成り、付きましては6ヶ月間の休暇を取りたいと思いますので許可をお願い致します。旅行予定計画は、出発前の準備その他1ヶ月間、ヨーロッパ旅行2ヶ月間、イギリス滞在1ヶ月間、帰国の為の乗船日数2ヶ月間、合計6ヶ月間です。』と言うものでした。勤務終了後にこの願い書を、「お願いします」と言って最初に職場(私の職場は保谷乗務区)の上司Aに渡した。彼は何を渡されたのか、不思議そうに封を開いて読み始めた。そして、「本当か、冗談だろう」と笑いながら言って、信じようとしなかった。「本当です。宜しくお願いします」と私は真面目な、本当の気持で言った。「そうか、分った。今日は既に区...会社へ提出した休暇願不許可
旅の目的地と出国準備両親の承諾を得て、第一関門は突破した。次は行き場所を何処にするか、という事であった。しかし、ここまで来たら余り迷わなかった。イギリスのロンドンに7年以上文通しているSheilaMorgan(シーラモーガン)が居るので渡航先は、“ヨーロッパ”(西欧)の事である)、そして最終目的地はイギリスと決めた。ヨーロッパは他の国へ比較的簡単に陸続きで行かれるし又、多くの国へ訪れる事も出来る。しかも、アメリカより歴史があるのでその点、見所もたくさんあるし、ヨーロッパの魅力の多くはそこにある、と思った。早速、イギリスの彼女に手紙を書き、ヨーロッパへ行く旨を伝えた。又、「イギリスへ行ったらウェールズの貴女の家に1・2週間泊まりたい」と言う事も書いたら、彼女から直ぐに返事が来た。最初、驚きの書き出しであったが、彼...旅の目的地と出国準備
旅への決断(両親の許し)単調な“仕事”(私の仕事は電車運転士)が2年程続いた。私は当時、寮生活をしていたので、寮生の親睦と寮生活の向上の為、自分が先頭になって寮の自治会規約を纏め、総会を開催し、会を設立して自ら自治会長になり、その活動をしたりして過しました。でも、仕事も寮生活も終りに近づきつつあった。昭和43年春頃、ヨーロッパ、又は、アメリカへ行って帰って来られる最低限の旅費50万円が貯まった。それは知らず知らずの内にと言う感じでした。そして、夢が実現しそうに成るにつれて、嬉しさに反比例して、『分らない、不安な、そして、心配な事』が湧いてきました。それらは、『①外国と言っても何処へ行くのか。ヨーロッパかアメリカか、その他何処へ回ろうか。②向こうで病気になったらどうしようか。行って無事に帰国出来るのか。③会社は如...旅への決断(両親の許し)
旅への誘い昭和40年3月に海外旅行の件で親父と相談する為、実家へ帰った。親父は、明治生まれの頑固な職人でした。酒が好きで毎晩晩酌をしていたので実家へ行く時は、いつも一升ビンをぶら下げて帰り、親父と飲んでいました。この日も飲みながら、「父さん。俺、ヨーロッパの方へ行って見たいのだが」と話を切り出した。「行って、帰って来る金があるのか」と親父。「船で行くだけの金はあるよ」と私。実はこの2年ほどで20万円位貯めていました。この額は、片道の船賃程度であった。「向こうでどの様にして旅行して、又、帰りは如何するのだ」と親父。「無銭旅行か働きながら旅行するヨ」と私。大きな声で、「駄目だ、許さん」親父の一喝が飛び出した。「行って帰って来るまでの必要な金を持っていなければ、承知しないぞ」と親父の凄い剣幕に、私は圧倒され気味であっ...旅への誘い
蒸気機関車の思い出の話汽車と言えば、蒸気機関車の思い出があります。私は幼い時から『シュシュ』と黒煙と白い蒸気を吐きながら、背よりも高い“丸い鉄の塊”(動輪と言う言葉を知らなかった)が回るその力強さ、『ボォー』と腹の底まで響く汽笛、そして何とも形容し難い煙の匂いが好きだった。又ある反面、蒸気機関車が近くを通り過ぎる時、引き込まれる様なある種の怖さを感じ、その機関車に対する凄さを感じた。私は幼稚園や小学校低学年頃は、よく蒸気機関車の絵を描いていた。又、両隣の幼友達のミコチャンとマコチャン(私より1つ年上)と3人で『停車場』(駅の事を『ていしゃば』と言っていた。)へ蒸気機関車を見に、よく行っていた。そんな冬のある日、深谷町(当時は埼玉県大里郡深谷町)は良く晴れて雪が無いのに、列車の屋根にたくさんの雪が積もっている、そ...「徒然の旅の話」第1章プロローグ
小さな旅~その2、沼田への旅の話昭和38年8月上旬のある日、『今度はサイクリング自転車で、日本一周しよう』と思い付き、深谷を11時頃に出発した。このサイクリング車は、2番目の義兄の物でした。私が高校3年の時、市ヶ谷の海上自衛隊基地に勤務していた兄が、「不用なので使って良いから、取りに来なさい」と言ってくれました。往きは列車で、そして帰りはこの自転車で国道17号(中仙道)をひた走り6時間要してF市まで戻って来た。この時が私にとっての初めての小さな旅でした。田舎の高校生の私が東京の道路を知る訳もなく、ただ大宮・高崎方面の道路標識を頼りに、夢中でペダルを踏みました。大宮を過ぎた辺りから尻が痛くなって来て仕方なかったが、無事に戻れて本当に良かったことを覚えています。話は戻しますが、深谷市を発って本庄まではアスハルトの道...「徒然の旅の話」第1章プロローグ~沼田への旅の話
その1、浜松への旅の話高校卒業後の昭和38年3月○○会社に入社し、その4月下旬のある日、『外国へ行けないのなら日本国内だけでも無銭旅行しよう』と思い立った。持ち合わせは、1~2か月分の給料(卒業は3月中旬だが、2月から出社していた。)しか支給されてないから、1万円程であった。通勤にいつも利用している直江津発の深谷駅6時15分発の富士行き上り列車に乗り、私は会社や両親に無断でそのまま東京駅から下ってしまった。行く目的地もないので、横須賀線に乗り換え、その日は2番目の義兄のアパートに立ち寄る事にした。兄が帰るまで港を散歩して過ごし、その夜は兄のアパートで1泊した。『無銭旅行しよう』と思い付きで出て来たので、特に計画を立てた訳でも、行きたい場所もないので、次の日は目的もなく東海道線を下った。天気の良い日で暖かく、車窓...「徒然の旅の話」第1章プロローグ~小さな旅
学生時代『私が外国に憧れ、そして、旅に出たい』と漠然と想うようになったのは、いつ頃であったのであろうか。見知らぬ異国の旅、ふらっと小さな駅を1人列車から降りる。言葉も、方向も分らない静かな町。幸せそうな家々が建ち並び、そして、私など見向きもしないで人々が通り過ぎて行く。1人公園で物思いに深け、明日は何処へ行くのか宛てのない旅。感傷的に、そして、哀愁を感じるそんな旅を。確かそれは、昭和35年(1960年)の高等学校1年の秋頃であったであろうか、私のクラスの右後ろの席に居た“中村君”(G市から通学していて眼鏡を掛けていた人)が、フイリッピン人と文通しているのを知った。それに刺激された私は、『自分も異国の人と文通をして見たい、外国を肌で感じて見たい』と言う事から始まったのだと思う。所が、私は英語で手紙を書く能力は全く...「徒然の旅の話」第1章プロローグ~学生時代
昭和43年7月13日、私は横浜から船で出国し、昭和44年7月6日の実家へ帰るまでの1年間、多くの国を旅して来ました。私はそれぞれの国で見聞した事、体験した事、感じた事、思った事等を日記に書いていました。この本は、その日記帳に基づいて書いたものです。当時、私は23歳の若造で世間知らず、且つ、色々な事についての知識、能力、或いは常識等がありませんでした。従ってその行動は、突飛で考え方の面でも、幼稚な所が多くありました。その様な私でありますので、読者の皆様は、その辺りを十分ご理解して頂ければ、幸いです。私が就職した昭和38年の初任給は、1万2千円でした。夏季ボーナスは支給されず、暮れのボーナスは2万5千円支給されました。しかしそのボーナスも、キャノンカメラを購入したら、無くなりました。私が旅の為に退職する23歳の時の...「徒然の旅の話」第1章プロローグ~まえがき
昭和43年7月13日、私は横浜から船で出国し、昭和44年7月6日の実家へ帰るまでの1年間、多くの国を旅して来ました。私はそれぞれの国で見聞した事、体験した事、感じた事、思った事等を日記に書いていました。この本は、その日記帳に基づいて書いたものです。当時、私は20歳前半の若造で世間知らず、且つ、色々な事についての知識、能力、或いは常識等がありませんでした。従ってその行動は、突飛で考え方の面でも、幼稚な所が多くありました。その様な私でありますので、読者の皆様は、その辺りを十分ご理解して頂ければ、幸いです。私が就職した昭和38年の初任給は、1万2千円でした。夏季ボーナスは支給されず、暮れのボーナスは2万5千円支給されました。しかしそのボーナスも、キャノンカメラを購入したら、無くなりました。私が旅の為に退職する23歳の...「徒然の旅の話」~第1章プロローグーまえがきー
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