【備後蔀山城主・多賀山通続、攻略戦】3月、元就は、敵対する勢力の一つ、備北の三吉氏を攻め、さらに北進して尼子方の備後蔀山城主・多賀山通続(久意)を攻めた。多賀山通続(久意)は、備後国人で、妻は山内直通の娘、山内氏の分家である。初め尼子家に属すも、大内
趣味で毛利元就を調べております。興味のある方は、是非足を運んで頂ければと思います。よろしくお願いいたします。
素人が趣味で研究しているブログです。宜しく願います。
【雨を祈って政を正す】ある年、元就の領国に日照りが続き、百姓が集まって毎日雨を祈った。元就は百姓の雨乞いを制止して、自ら潔斎して天に祈った。戦死者の跡を手厚く弔い、忠節の臣に加禄し、軍功の家に新しく物を贈って、3日の施行をした。施行終わって2日目に大雨
【少年の大志】 『江譜拾遺』、『名将言行録』に掲載された逸話に「規模」というのがある。「少輔次郎が12歳のとき、家来たちとともに安芸の厳島神社に参詣した。参詣がおわって帰りがけに、元就は家来たちに、今日お前たちは何を祈ったかと聞いた。家来たちは、みん
【大内軍の上洛と大内傘下の興元の従軍】永正5年(1508)6月、この時期の京都は、室町幕府を支えていた畠山政長が、擁立した室町幕府第10代将軍・足利義稙(義材、義尹)に、細川政元がクーデターを起こし、足利義澄を擁立したことで、将軍足利家の分裂と畠山・細
【井上氏との関わり①】 ここで、松寿丸が大方殿とともに訪れたのが、井上光兼の屋敷であったことに注目したい。この井上一族は郡山城下の有力者だった。この一族は吉田の交通の要衝を握り市場の管理権を持つ実力派で、しかも他の国人領主とも親しく、譜代の臣下とはいえ
【日輪信仰と元就と宗教】11歳の時、井上光兼の屋敷に一人の客僧が訪れた。客僧は人々に念仏を説き、光兼の所から、旅の僧が来ていて念仏の大事を授けるから、という案内があった。杉の大方殿は、松寿丸を伴って、光兼の屋敷に向かった。そこで一緒に聴聞し、念仏の
【兄の元服・毛利興元の誕生】 永正四年(1507)1月17日、安芸高田原で宍戸軍と合戦。4月3日、甲立で、宍戸軍と合戦。11月16日、15歳になった兄の幸千代丸は、大内家に対して忠誠を誓い、大内義興を烏帽子親として、「興」の偏諱を受けて毛利興元と名
「ブログリーダー」を活用して、佐近下野守さんをフォローしませんか?
【備後蔀山城主・多賀山通続、攻略戦】3月、元就は、敵対する勢力の一つ、備北の三吉氏を攻め、さらに北進して尼子方の備後蔀山城主・多賀山通続(久意)を攻めた。多賀山通続(久意)は、備後国人で、妻は山内直通の娘、山内氏の分家である。初め尼子家に属すも、大内
【毛利一族と共に生きた禅僧の軍師・安国寺恵瓊】 よく、「世が世ならば」という言い方をする事があるが、安国寺恵瓊にも、その言い方は当てはまる。 恵瓊は毛利氏の使僧であったが、本来、その主従関係は逆であった。正に世が世ならば、毛利氏が恵瓊に仕えるという事態も
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)(1539、37?~1600)【列伝】毛利家臣、秀吉直臣、立雪斎の弟子、安芸安国寺の住持、京都東福寺退耕庵主、伊予大名。竹若丸・辰王丸。父武田信重の子(伴繁清の子)。廟は建仁寺。宗派は臨済宗東福寺派。道号(字)は瑶甫、法諱
村上武吉(むらかみ たけよし)(1533~1604)【列伝】能島村上氏当主。父村上義忠、母平岡左近将監の娘。妻来島通康の娘。子元吉、景親。通称少輔太郎、武慶。官位掃部頭、大和守。居城伊予能島城主。村上氏は、瀬戸内海に浮かぶ島々を拠点とした豪族。海岸地帯
清水宗治 (1537~1582)【列伝】備中国人衆。父清水宗則。妻石川久孝娘。子宗之、景治、難波宗定、女子(中島元行室)、女子(駒木根清右衛門室)。兄弟宗知(月清入道)、難波宗忠。幼名才太郎、通称長左衛門尉。官位左衛門。居城備中清水城主、備中都窪郡幸山城
吉川広家(きっかわ ひろいえ)(1561~1625)【列伝】吉川家一門衆、初代岩国藩主。父吉川元春の三男、母新庄局。子広正、毛利就頼、益田就宣正室、天野元嘉正室。幼名才寿丸。通称次郎五郎・又次郎。初名経言(つねとき)経信(つねのぶ)とする説もある。別姓宮
吉川経家(きっかわ つねいえ)(1547~1581)【列伝】父吉川経安の嫡男、母吉川経典女。妻境経輝(境氏吉川)。子経実、家種、家好、あちゃこ(都野家頼室、後武安十兵衛室)、女(粟屋加賀守室)、女(福富晴方室)。通称千熊丸、小太郎。官位式部少輔。居城石見
【宍戸氏との和解②・婚姻政策】宍戸氏は毛利氏と並ぶ名家で、安芸の代表的国人である。しかも両家は領土が隣接していたので抗争が絶えなかった。郡山城と五龍城は一里程しか離れておらず、父・弘元は臨終の際、兄・興元に対して、宍戸氏と和解することを遺言するほどだっ
第92話【天文二年(1533)】 【徳寿丸の誕生】郡山城内で、元就と妙玖夫人の三男として徳寿丸が誕生した。隆元より11歳、次男元春より4歳下である。 【熊谷信直の加入 下部横川合戦】 3月、尼子派の安芸武田家は、元繁の討死により、嫡男の光和が継
第91話【天文元年(享禄五)(1532)】 【互いの利害関係の調停を要請した家臣団の連署起請文】 家督を継いだ義隆も、独占した日明貿易を通じて国力を強化。各地に軍勢を派遣して分国の維持・拡大に努めた。 まず豊前・豊後・筑前・筑後で大友義鑑と、肥前・筑
第90話【享禄四年(1531)】【石見国人衆・出羽氏の加入】2月、元就は、高橋氏を滅亡させて手に入れた出羽の領地の内、出羽450貫は元来、二ツ山城主出羽祐盛のものであったから石見国人衆の出羽祐盛に返還し、祐盛は毛利氏の与力となることを誓約する起請文を提
第89話【享禄三年(1530)】【塩冶興久の乱 前編】3月8日元々出雲の強豪国人衆塩冶氏は貞慶の代に至って一族内に紛争が起こったらしい。経久はそこにつけ入って、貞慶を追い出し、代わって自分の三男興久を養子に送り込んで塩冶氏を乗っ取っとり、出雲平野の獲
第88話【享禄二年(1529)】【石見高橋氏の滅亡 前編】元就は、毛利領のすぐ北方に蟠踞する高橋氏攻略を目論んでいた。この一族は、この地方に一大勢力を有していて、元就の多治比時代から、忌まわしき存在であった。毛利幸松丸の外戚として専権を振るい、尼子家に
第87話【享禄元(大永八)年(1528)】 【大内義興の死】 7月、大内義興が重病になり大内軍は備後から撤退。8月20日、年号を「享禄」と改元。 10月、大内家に服属した元就は、家臣の井上新三郎を人質として山口に送り、嫡男の少輔太郎を差し出すことを
【安芸諸城の降伏】3月18日、毛利軍は、大内軍の安芸進出に強力し、大内・毛利連合軍は尼子方に寝返った阿曽沼氏を攻めるため、陶興房は、元就と共に広島湾東岸の瀬野川河口に蟠踞する阿曽沼氏の本拠地安芸鳥籠山城を攻め、新城も攻めたことにより、阿曽沼家重臣野村氏
【備後和泉氏の降伏】 尼子家の侵攻に対して大内家も勢力挽回を策し、義隆は元就に備後の攻略を命じた。元就はまず備後の和泉氏に目を向けた。 備後の和泉氏の出自は明らかでないが『芸藩通志』によれば、初代信正(久勝)、信行、久正の三代の在所として黒岩城が記さ
【大内家の再従属①】 この頃、元就は盛んに尼子領に間者を送り込んでいた。その結果、尼子家の実権が、経久から孫の晴久に移りつつあることが明らかになった。経久はすでに67歳、嫡子の政久が戦死し、孫の晴久が後継者となっている。 経久は元就の資質を警戒して、
第83話【大永四年(1524)②】【大内軍の安芸侵攻】5月20日 尼子経久が伯耆に侵攻している間隙を狙って、大内義興・義隆父子が豊前、筑前、周防、長門、安芸、石見の全領国から動員された軍勢25000の兵余を率いて周防山口を発ち岩国の永興寺に到着。尼子家
第82話【大永四年(1524)①】 【相合少輔三郎元綱と北(相合)四郎就勝】 弘元が側室・家女房に産ませたのが、元綱と就勝である。つまり元就の異母弟である。この兄弟の事は、毛利家の記録や後世の史料でも不明な所が多い。『毛利弘元子女系譜書』によると、元綱は
【井上党の誕生】元就に宗家の家督相続を要請した宿老15人の連署状には元兼、弟の元盛、元貞、就在、元吉の井上一族が5人も署名しているが、井上氏の惣領家である井上元兼は、井上一族の中で最後に署名していることから、当時はまだ元兼個人の力は無かったと推測できる
【元就初期の軍事力】 毛利氏は、安芸国人領主の1人に過ぎず、毛利氏と同等の領主は、安芸国内に30数家あったという。それら国人領主は、平均で数百人くらいの動員力であったと思われる。元就の初期の頃の軍事力は、それより若干大きく、500~800人くらいの動員
【高橋元光の戦死】永正十二年(1515)3月、石見の豪族高橋久光は、領境を接し永年紛争を繰り返している備後三吉氏の支城加井妻城攻めを行うも、嫡子・元光が戦死。この元光の戦死は、強大を誇っていた高橋氏にとって没落の要因となってしまったのである。この元光の
【武田元繁の帰国と侵略】安芸佐東銀山城主の武田家は鎌倉時代、安芸の安南・佐東・山県三郡の安芸分郡守護に任ぜられた家柄で、甲斐源氏の武田家と同族で、若狭武田家の安芸分郡守護代として、安芸銀山城を拠点として太田川下流域を支配し、川之内衆と呼ぶ水軍を勢力下に
【隆元の弱点】 隆元は、いまだに合戦の経験に乏しく、人質生活から帰還した直後の初陣の出雲遠征は大敗し挫折感を味わっていた。その後も元就に従って備後方面で尼子軍と戦うも、思うような戦功をあげることはできず、元就の嫡男でありながら、内外ともに周囲が認めるよう
【元就の家督相続①】 天文十五年(1546)年5月27日付で、元就が宿老志道広良に宛てた書状(『毛利家文書 58、588』)。「自分は、やや家中の者達に飽きられておるし、重なる戦闘で家臣たちに与える賞与や扶持も、必ずしも公平でないかもしれない。だから
【妾のもとに忍ぶ男を誅殺】元就の囲う妾のもとに、忍んで通う男があった。名を木原兵部少輔といって、世に聞こえた大力の剛の者だ。これを知った元就は、木原を誅殺しようと画策したが、誰にやらせるかが問題である。木原も手練れ、しかも主君の女に手を出している負い目
【毛利家臣団と軍事力の総括】毛利軍の軍事力を担った圧倒的大多数の家臣は、在郷の土豪層、即ち兵農未分離の武士でもあり百姓でもある下層家臣であった。ちなみに、寄親寄子制という仕組みは、寄親も寄子も毛利氏の家臣である点に変わりはないが、寄親は土豪とか地侍と
【毛利家臣団の構成】大名と国衆との間の不安定な関係を解決するためには、何といっても秩序だった家臣団制度をつくりだすことが必要だった。毛利家の軍事力を構成する家臣団は、その系譜や毛利家との歴史的な関係によって「家来」と「国衆」に区分されている。家来(家人
【尼子詮久の誕生】永正十一年(1514)2月12日尼子経久が57歳の時、嫡男・政久の次男として、尼子詮久(晴久)が誕生。既に政久の嫡男・尼子某が夭折していた為、嫡男として育てられる。幼名が又四郎ではなく、三郎四郎なのはその為であった。 また同年から
【有田中井手の戦いにおける井上一族の功績】 永正十四年(1514)、有田中井手の戦いで、第一陣福原広俊が指揮する左翼に井上元兼・井上就兼ら400騎で従軍。 他に井上資忠(100騎)、井上元在(元光)、井上光俊、井上光政らも参戦。井上衆の戦闘力は毛利
【大器となる人相】元就の容貌は、英雄に相応しい、堂々たる風貌を備えていた。『陰徳記』、『陰徳太平記』の「丹比松寿丸元服、附明人相人(二)相事(一)」に出てくる元就の人相に関する逸話だが、これも『名将言行録』は、次の様に記している。永正十年癸酉6月18日、
【志道広良との起請文】永正十年(1513)3月19日、執権志道広良は、元就との間に起請文を取り交した。 広良は毛利家三代にわたっての重臣ので、興元と幸松丸の執政職を務めていた。興元の執権時に、元就に対して毛利家に奉公する際、必ず自分の援助を受けるよう
【井上党の活躍】大永四年(1524)元綱派を粛清後、坂氏庶家の志道広良は罪が及ぶと恐縮したが、元就は元兼を使者として、「このたび坂広秀が元綱の謀叛に一味したので、是非なくこれを討果たしたが、桂広澄・志道広良については多治比時代より忠勤を抽んで、今度の
【安芸八家一揆契約】永正九年(1512)3月3日、安芸には他国の守護権力に対抗するための、国人衆による一揆契約があった。つまり、安芸の分郡守護である武田氏の弱体につけ込んで領国内に侵入してくる、尼子家や大内家の外部権力に、共同で対処しようとする、安芸国
【宍戸氏との関係】興元は、帰国後に芸備の国人衆と連携を強め、安芸の天野氏、平賀氏、小早川氏、吉川氏ら8人の諸領主たちと、相互扶助の盟約を結んだ。また、中郡衆と呼ばれる三篠川流域の内藤元廉(祖父泰廉の父)、秋山親吉、井原元造らは、毛利氏に忠節を誓い、京
【興元の帰国】船岡山合戦において細川軍と戦った折、興元の部将・国司有相が、抜群の勲功を立て、後に安芸高田郡吉田村秋貞の地を興元から与えられた。興元の活躍もあり、細川澄元の軍勢を破って、京を奪還。足利義澄を追放して、義稙を再び将軍の座に据えることに成功
【15歳の松寿丸の元服「毛利元就」の誕生】永正八年(1511)、松寿丸が15歳の春を迎えると、杉の大方は佐藤某を使者に京に在陣している興元のところに向かわせ、松寿丸の元服について相談した。『陰徳太平記』のなかに、「永正八年、丹比松寿丸十五歳になり給へ
【坂氏について】坂氏は、『吉田物語』所載坂氏の系譜によると、坂氏の始祖は安芸吉田毛利家第4代元春の舎弟匡時で、大膳大夫を称した。この坂氏は代々毛利氏の執権職を務め、『毛利家文書』により分明なものは、坂氏第三代の広秋、第四代広明と続き、そのあとは広明の弟
【雨を祈って政を正す】ある年、元就の領国に日照りが続き、百姓が集まって毎日雨を祈った。元就は百姓の雨乞いを制止して、自ら潔斎して天に祈った。戦死者の跡を手厚く弔い、忠節の臣に加禄し、軍功の家に新しく物を贈って、3日の施行をした。施行終わって2日目に大雨
【少年の大志】 『江譜拾遺』、『名将言行録』に掲載された逸話に「規模」というのがある。「少輔次郎が12歳のとき、家来たちとともに安芸の厳島神社に参詣した。参詣がおわって帰りがけに、元就は家来たちに、今日お前たちは何を祈ったかと聞いた。家来たちは、みん