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  • そろそろ

    本来の新土佐錦魚日記に戻ってみたいと思う。冬囲いから水替えして餌を与えるのは1週間先だが。今年は例年に比べても少し早く冬が到来した。年末から年明けにかけては非常に寒さが厳しくて、部屋の中でクロスワードをしてみたり、パソコンをいじって見たりと暇な日常を、「早く気温が上昇してくれないかなーー」と思っていたのだが、予想以上に気温の上昇が大寒を過ぎてからが早かった。2月など例年に比べても2,3度高くて、日によっては5,6度以上も気温が高いと言う状況だ。今日も平年より1,2度高い状況なので、水替えを早くしたいという思いはあったが、2月と言う事で、断腸の思いで断念した、と言うのはいささか大袈裟だが。まあ来週の土曜日に多分冬囲いを外すだろうから、1週間の天気予報を新聞駄見ても最高気温が13度から15度とかなり高い状況なので、...そろそろ

  • 私が標準語で話す

    理由は、元々大阪にいた頃は無理矢理関西弁で話していたが、社会人になってそれも東京本社勤務が決まってからは、「これで、思う存分標準語がしゃべれるぞ」と言う気持ちになったからだ。入社して2週間が経った頃にアルバイトのおじさんが、「君は本当に地方出身なのか?東京出身じゃないのか?」60を等に過ぎている銀行上がりのおじさんに言われたことがある。他にも数名の東京出身のおじさんにも同じ事を言われたことがある。「だってほとんどの人が関西出身だと分かるのに、小川君はなまりが全く無い、東京出身だろ?」。関西以西では東北出身の人はほとんどいない。だが東京では珍しくも何とも無い。東京本社には東北出身の人が結構いる。だがやはり東京出身の人がほとんどだ。そんな中で東急吉祥寺店に出向している販売の竹本さんは極めておしゃれだった。彼もまた企...私が標準語で話す

  • 東側の窓は

    隣の家の塀に囲まれており、ほぼ見えない。西側の窓も日差しが5,6時間程度で環境が良いとは言えない。おまけにトイレが汲み取りと来ているから女性の人はほぼ入居しない。学生の時に入っていた葵荘は水洗トイレだったが、このアパートは築50年以上建っていると思われ、「そりゃ中々住人が入らないはずだ」と思った。思ったが、ファッションメーカー故アパートを出る時は8時前、帰る時間は10時前後でほぼ寝るだけ。大阪勤務なら営業部しかないので諦めていたのだが、東京本社には全部門がある。私は企画志望だったので好都合ではあったが、世の中そうは行かない。プレスも選択肢の1つだが、あくまで企画を志望し続けた。その間は商管で営業部を手伝っていたのだが、いつまで経ってもお呼びがかからない。営業部の皆さんからは、「企画部に行くのはお前しかいない」と...東側の窓は

  • 卒業式近くに

    なって、「君を東京本社勤務に命ずる」と言う文書での知らせが届いた。てっきり大阪勤務と思っていたが、東京本社勤務と聞いて内心わくわくしていた。後で聞いた話だが、東京本社勤務の者はゼロで、(実質東京本社では新入社員の試験は行われていなかった)京都産業大卒の人や関大卒、桃山学院大卒の人は珍しく無く、関西弁が横行していた。私が知っている限りでは、京産卒が4名、関大卒と桃山学院大卒がそれそれ1名づつと後は途中入社がほとんどだった。同期の顔ぶれを見ても、関大卒、関学大卒、立命館大卒などと1流の大学だ。だが、その謎は徐々に解けた。7月までに辞める者が数名と辞める社員が続出した。ファツションメーカーだから辞めるのは必然と言えばそれまでだが、とにかく給料は安かった。私は都内では無く隣の埼玉県の蕨市に会社が借りた借家住まいだったが...卒業式近くに

  • ヨーロッパ旅行が終わってからは

    伊丹空港に着いて、その後に今里のアパートに到着した訳だが、どうにか大荷物を部屋に持ち込んでからは飯も食べずにただただ眠り込んだ。翌日の目が覚めたのは夕方の5時過ぎで、前日の午後6時過ぎから23時間も寝ていたことになる。それ程疲れていた訳だ。ヨーロッパ旅行は17日間と言う長い期間で、7か国を回っていた。アテネ、ローマ、フィレンツェ、ジュネーブ、パリ、ベルギー、アムステルダム、最後はホバークラフトに乗ってロンドンと大学生のみの旅行だった。どちらかと言えば男性よりも女性の方が多く関西中心と言えばそうではなく、名古屋の大学生も含まれていた。77年に行ったので、その時はKLMで南回り、帰りはアンカレジ経由で滅茶苦茶寒い中を帰途に着いた。あっ、話の途中だが三卯養魚場に糸ミミズが届いたらしい。1月24日のことだが。昨年は全然...ヨーロッパ旅行が終わってからは

  • 話は3回生の12月頃に

    戻るが、友人のW君が「ヨーロッパに行かへんか」「親父に聞いてみるよ」。親父は直ぐに「ええよ、なんぼするんじゃ」「とりあえず100万」「----」「まあええじゃろ」。40年以上の100万円だからかなりの金額だ。だが当時の親父は会社は株式会社でも有限会社でも無く、個人の経営する会社だった。だから月収は300万以上と言う人物だ。だからすんなりと出してくれた。刀は私が中2の時に銃刀法違反で(登録してあると言われたが、無登録だった)で書類送検されて、「辞めた、2度と刀は買わんぞ」と刀は全部売り払ってしまう。オプショナルツアーにかなり参加したが、ツアーの経費が約40万。他は全部私の物だ。両親と妹に約5万のお土産を買ってもかなり余る。伊丹空港からフィリピン、ニューデリー、ドバイ経由でギリシャのアテネ入り。30時間の中では1,...話は3回生の12月頃に

  • 4回生になると

    いよいよ就職活動をしなければならないのだが、私の場合は活動をしたのは8月からだった。大阪での就職を希望していた私だが、周りの人が紺のスーツで会社訪問をする中で、オフホワイトのポロシャツにベージュのパンツと言ういで立ちで、まあ名も無い会社なのでどうでもいいとは思ったが、9月に紺のサキソニーのストライプのスーツを買って、JUNの面接に挑んだ。面接の場所はやっていないボーリング場で、5名づつで行われたのだが、「小川君は今回が初めてですね、じゃあいいです」とあっさりと落とされた。数日後直接電話が掛かってきて、「君が小川君か、とにかく会社に来い」とその日の午後に会社面接。「いきなり面接もせずに送って来るなんて前代未聞だ」「まあ一応会社説明するから」。試験当日は東京からわざわざ社長が出てきて、「小川君、君は長男だろ、跡を継...4回生になると

  • W 君とは

    同じゼミで、寿荘の中でも優秀な同級生だった。1回生の時は多分私より多く授業に出ていたと思うが、お陰で必修科目の英語とドイツ語はクリアしていた。身長が低かったのとオリエンテーションに出なかったのが、功を奏したのではないかと。隣のクラスで授業を受けていたので、気付かなかったのだが、2回生の5月頃に気付いた訳だ。2回生になれば応援団の勧誘も無い。その頃「漫画アクション」の「嗚呼、花の応援団」が大人気で青田赤道と言う大男が主役で、しかもその主人公は3回生の人ではなかったのではと思う。その3回生は野球部の応援のみ応援し、他の応援には一切行かない。ある時その人が大学近くのパチンコ店で打っていたところを見かけたが、2M近くの巨漢で、両サイドは誰も近づかなかった。で、同じゼミに入W君も「君は最低やで」と同じ事を言われ、何とかゼ...W君とは

  • 私が

    住んでいる場所は、東成区の大今里で、今里駅前は生野区、駅裏は東成区と分かれていた。W君とは自転車で5分と同じ東成区でも随分と離れていて彼が住んでいる寿荘は大学生がほとんど(住んでいる人は全部D大生)で、多分桃谷駅からも10分以上離れている。多分大学からの斡旋だったと思うが、そのアパートは随分古くて家賃もかなり安いのではと思う。普通大阪のD大学に進学するのは附属高の生徒やスポーツ推薦が多いが、一般入学はそう多くは無い。だかW君や愛媛県の今治西高のY君などどうしてD大に入らなきゃ行けなかったのか、理解に苦しむ。まあかくいう私も大学にほとんど授業に出なかった部類なのだが。私も3回生の時から寿荘に入り浸った。勉強はからっきしだが、何故かマージャンの腕は一級品だ。ほとんど負けない。3回生になってからはゼミがあった。私が選...私が

  • 2回生の時

    それまで西成区の叔母のところに下宿していたが、南海電鉄から環状線を乗り継ぎ、鶴橋で近鉄奈良線で通っていたのだが、如何にも時間が掛かりすぎたので、鶴橋駅の次の近鉄今里駅にアパートを借りた。駅から約5分で道路を隔てた向かいには外国車専門の駐車場があった。そこには当時でも珍しいフランスの2CV(ドゥシーボウ)が4台も置かれており、私のアパートの窓辺には501が干してあった。当時の501は未洗いで購入を促され、私もそれに従った。501を買ったのは1回生の12月頃だったと思うが、買って直ぐに風呂に履いたまま入った。その後は裏干ししたが、注意書き通り10%ちじんだ。MADEINUSAが流行っている時だが、大阪ではすっかりIVYも廃れて501では無く、LEEのブーカットが流行っていた。今里駅から程近いジーンズショップで度々購...2回生の時

  • 大学を

    推薦試験で合格してからは、2学期の期末テストがあったにも関わらず、試験勉強は全くしなかった。例え全部が赤点だったとしても、追試は免れているので。D大学は私の高校から2,3回生は10名以上は進学しているが、私の時に限って普通科からの進学は私だけだ。応援団の勧誘に嫌気がさした私は、前期のほとんどは学校に行かなかった。英語で出席が3分の2以上なら可で通すと言う教授もいたが、前期はほとんど授業に出なかったので必修科目だが出席数が足りていないので2回生の時に繰り延べ。バスケットの授業も同じ理由で2回生の時に後回し。フランス語も必修科目科目だったが、「あほ、ドイツ語やったら楽勝やったのに」「多分フランス語は難しいから今から授業に出ても通らんで」と3回生の先輩に言われた。12月の始めに2回目のフランス語の授業に出た時に、「あ...大学を

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