わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。 –Ps 19:14 邦語訳訳では原語に含まれる豊かな意味が抜け落ちることは常に指摘している。時にはまったく邦誤訳であるが。ここの「思い」と訳された単語は、KJVなどの英訳はほとんど”meditation”と訳している。CLVは”soliloquy ”、すなわち「独り言」である。 実はこのヘブライ語は”הגּיון”であり、英語表記では”higgâyôn”となる。そしてその意味は- Strong-a murmuring sound, that is, a musical notation (probably similar to the moder affettuoso to indicate solemnity of movement); by implication a machination: - device, Higgaion, meditation, solemn sound. では、つぶやき、あるいは独白であるが、音楽、音響を伴うのだ。 EBD-in Ps. 92:3 means
このポストは先のこの記事の続編として具体的事例を紹介する。天下のニッポンキリスト教の象徴たる日本基督教団の歴史である。 https://www.dr-luke.com/blog/2022/11/16/%e3%83%90%e3%83%93%e3%83%ad%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e6%95%99%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%ae%e3%82%bb%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%83%89%e3%83%bb/ ここで主はあえてどんな野菜よりも大きくなると指摘する。考えてみよ、なぜあえてどんな野菜よりもと言われるのか。比較対象として野菜はまことにふさわしくない。なぜなら野菜は決して巨大化はしないからだ。ここで主が指摘されたいことは巨大な木へと変質することである。その木には鳥が安全な場所、つまり自己の生存の担保を求めて集まるのだ。John Darbyは次のようにコメントする: That which had been sown as a grain of mustard-seed becomes a great tree; a symbol that represents a great power in the earth. The Assyrian, Pharaoh, Nebuchadnezzar, are set before us in the
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ見ていないことのエヴィデンス(証拠・現出)である。-ヘブ11:1(私訳)※「こと」はpragma、その意味は「成し遂げられた事」である。— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) October 20, 2022
https://www.youtube.com/watch?v=hoxHXA-BPSg わたしたちには、神が"霊"によってそのことを明らかに示してくださいました。"霊"は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。-2Cor 2:10-11 神は人の内に霊を造られた(Job 33:4)。霊は内なる神の光。その霊は人の心の奥深くも知る。実は自分の霊は自分のことをよく知っている。が、人の心は歪んでいる(Jer 17:9)。その真実から逃れるために、実にいろいろな企てをする。自分が満たされていること、自分には信仰があることなどを、自分で証明しようとして・・・・。ああ、それ自体、自分の内なる空虚を証明しているではないか。そのような作為は、自分の真実から逃れるための哀しきもがきなのだ。自分が霊的に空虚であることを認め、あらゆる取り繕いを放棄して、真に頭を垂れた者は幸いだ。 聖書で「良心」(これは現代用語である)と訳された単語はsuneidesis、sun(with)+eido(percept)、つまり「共同知覚」だ。英語ではco-perceptionである。私の霊と御霊が共に証しすることだ(Rom 8:16)。岩波訳では「内奥の意識」と訳している。マラキ書では「霊の名残」とも(Mal 2:15)。それは聖霊と共なる知覚であり、霊の感覚である。よってヘブル書では「感覚により善と悪を識別する」とあるのだ(Heb 5:11)。感覚はもちろん生命現象である。 ちなみに、新改訳(訳のバイアスが多すぎる)ではpneumaをほぼすべて「御霊」と訳すが、pneumaが聖霊と明示されている箇所は20数か所であり、他は人の霊か聖霊かの判別が難しい。新共同訳は聖霊と思われるものを”霊”と表現しているが、それは訳者にとって「思された」だけだから要注意。真理は、両者は区別ができない、のだ。 例えば、2コリント4:13(2Cor 4:13)の"spirit of faith"についてVincentは Spirit of faith: not distinctly the Holy Spirit, nor, on the other hand, a human faculty or disposition, but blending both;