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むぎの城さんぽ https://blog.goo.ne.jp/mugiide

日本百名城や史跡・城郭めぐりの旅の記録と日本城郭検定の問題でお城の勉強をしよう!という日記です。

日本城郭検定準1級〈武者返級〉合格。1級合格目指しブログを通して予習復習しながら勉強中。

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2016/02/20

  • 孫根城(愛知県)

    【孫根城】まごねじょう【別名】ー【構造】山城【築城者】梶信勝【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市梶町横大地図孫根城は、梶金平信勝により築城され七代にわたり梶氏が居城。1536年(天文5年)梶与吉信家が足利氏に攻められ、落城すると本多忠知が入城しました。その後、梶一族はは本多氏の家老となっていたことが梶一族の墓(古石塔群)から推測されています。1571年(元亀2年)に武田氏に攻め入られ、落城しています。案内看板大沼足助線から大横に向けて曲がったところに案内看板があります。春日神社まで舗装路が伸びているので、神社までは車で行くことが出来ます。春日神社春日神社の周辺でも堀切らしきものを見ることが出来ます。舗装路脇にある孫根城への入口には看板があるのでそれに従って林の中へと進みます。尾根を進むルート...孫根城(愛知県)

  • 増山城(富山県)

    【増山城】ますやまじょう【別名】和田城【構造】山城【築城者】二宮円阿【築城年代】1363年(貞治2年)以前【指定史跡】国指定史跡【場所】砺波市増山地図【スタンプ設置場所】砺波市埋蔵文化センター(9:00~17:00)【御城印】砺波市埋蔵文化財センター窓口【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun公式日本城郭検定過去問題集改訂新版公益財団法人日本城郭協会ワン・パブリッシング続日本100名城公式ガイドブック(歴史群像シリーズ特別編集)公益財団法人日本城郭協会学研プラス増山城(富山県)

  • 横手城(秋田県)

    【横手城】よこてじょう【別名】朝倉城・阿櫻城・韮城・龍ヶ崎城・衝城【構造】山城【築城者】小野寺氏【築城年代】1532~1537(弘治年間)【指定史跡】ー【場所】秋田県横手市城山町29-1地図横手城は、城主の小野寺義道が反徳川方にあったため岩見国(島根県)へ配流され1602年(慶長7年)に佐竹氏が城主になると、久保田城の支城として伊達氏、須田氏、戸村氏と城代が置かれていました。戊辰戦争では庄内藩・仙台藩・山形藩からの攻撃に遭い、城は炎上し廃城となりました。三の丸横手城の登城口としての古道「七曲」を登って来るのが本来ですが、歩かずに三の丸まで車が乗り入れ出来るので、車で来てしまいました。武者溜り三の丸にある武者溜りです。駐車場途中にも駐車場がありますが、三の丸まで車で来ることが出来ます。この先二の丸には、天守...横手城(秋田県)

  • 三河亀山城(愛知県)

    【亀山城】かめやまじょう【別名】作手城【構造】平山城【築城者】奥平貞俊【築城年代】1424年(応永31年)【指定史跡】―【場所】新城市作手清岳地図【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun亀山城は、奥平貞俊によって1424年(応永31年)に築城されました。貞俊は、天授年間(1375~1380)に現在の群馬県からこの地に移り住んで川尻城を築いた後、亀山城を築城してここに居城したとされています。1575年(天正3年)に徳川方となって長篠城の城主となった奥平貞(信)昌の長篠の戦いで功績をあげ、奥平氏は歴史に名を残すこととなった。入口周囲にいくつかの駐車場が完備されていますがここからの登城がいちばん歩きやすく便利です。案内図入口で縄張り図を確認!本丸までは近いのですがその間にもいくつかの曲輪を見るこ...三河亀山城(愛知県)

  • 丸子城(神奈川県)

    【丸子城】まるこじょう【別名】丸子陣場【構造】平城【築城者】豊島氏【築城年代】1478年(文明10年)【指定史跡】ー【場所】神奈川県川崎市中原区上丸子地図丸子城は、現在の日枝神社から上丸子小学校に付近にかけてあったと伝えられていますが詳細はわかっておらず、1476年(文明8年)の「長尾景春の乱」の際に、豊島氏が石神井城や平塚城に籠り、上杉方の太田道灌に攻められると小机城で籠城。この時豊島氏の残党がこの地に陣場を置いたのが丸子城と伝わります。日枝神社社務所に車を停めたので、神社の裏から境内に入ろうとしてしまい改めて朱色の鳥居のある表へ。案内看板川崎市の重要歴史記念物に指定されている古文書についての看板です。北条氏が発給した二通と徳川奉公人連署奉書が日枝神社に残っているようです。次は日枝神社の建造物についての...丸子城(神奈川県)

  • 藤沢城(長野県)

    【藤沢城】ふじさわじょう【別名】蛇山【構造】山城【築城者】藤沢盛景【築城年代】【指定史跡】市指定史跡【場所】長野県伊那市高遠町藤沢4080地図藤沢城は蛇山とも呼ばれ、松倉峠と杖突峠の合流する古来から交通の要衝に築かれていました。城主は、諏訪の社領に属していた藤沢盛景、後に保科正直が居住したと伝えられていますが、詳しいことははっきりしていません。国道152号線を走っていると、峠の茶屋の看板近くに藤沢城跡の矢印看板があります。矢印看板に従って行くと城址に到着します。ちなみに、周辺に駐車場はありません。獣柵石橋を渡ると獣柵があるので、自分で開閉して進んで行きます。この辺りはとにかく鹿が多く、夜になると車を恐れることなく国道に出て来ているのでご注意ください。入山口蛇山の麓では石垣が見られます。はたして、城に使われ...藤沢城(長野県)

  • 馬込城(東京都)

    【馬込城】まごめじょう【別名】梶原城・馬篭城【構造】平山城【築城者】梶原助五郎【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】東京都大田区南馬込5丁目地図馬込城は、「小田原衆所領役帳」によると旧馬込村は後北条氏の家臣である梶原助五郎の所領となっていて、城の範囲は、東は北野神社(南馬込二丁目)、西は湯殿神社(南馬込五丁目)、南は臼田坂下(中央一丁目、中央四丁目)、北は大田区立馬込図書館(中馬込二丁目)までと縄張は広く、居館は台地の西の末端に築かれていたと推定されます。湯殿神社居館跡は湯殿神社と湯殿公園になっています。城主の梶原助五郎は、昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した中村獅童さん演じる梶原景時の末裔ではないかとも云われています。拝殿まずは神社の神様にご挨拶です。両脇から背後が着物の襟のように高くな...馬込城(東京都)

  • 石田会館(滋賀県)

    【石田屋敷跡】いしだやしきあと【別名】石田三成屋敷跡【指定史跡】―【場所】長浜市石田町滋賀県長浜市石田町地図石田三成が生まれ育った屋敷跡地です。その生家跡に建てられたのが石田会館で、こちらには石田三成の生立ちや足跡などの資料が展示されています。石田治部少輔三成屋敷跡石碑県道243号線と県道509号線がぶつかる交差点に石碑と看板があります。石田会館8年ほど前に一度訪れているのですが、写真の入ったデータを失くしてしまったため再び訪れてみたのですが、この日は新型コロナウィルス感染拡大防止のため閉館していました。調べて来なかったため、資料館が見学出来なかったので周辺を散策することにしました。石田三成公史跡案内図近くに石田三成ゆかりの地がいろいろあります。今回、山城に登る時間はないのですが、気になるところにちょっと...石田会館(滋賀県)

  • 大洲城(愛媛県)

    【大洲城】おおずじょう【別名】-【構造】平山城【築城者】宇都宮豊房、脇坂安治【築城年代】14世紀前半、1610年(慶長15年)【指定史跡】県指定史跡国重要文化財【場所】大洲市大洲903地図【スタンプ設置場所】台所櫓入口(大洲城内入口)【城郭検定】出題あり守護宇都宮氏の時代には大洲は以前大津と呼ばれていたが、脇坂安治の時代に近せ城郭として改修、地名も大洲と改められた。暗り門跡かつてここにあった櫓門は天守に至る最後の城門で、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていたことが暗り門の名の由来である。サザンカの落ち花で作られたハート型。もちろん、ここで二人で記念の写真を撮ったのですが恥ずかしいのでお見せできません(^^ゞ「幸せになれますように。。。」井戸井戸丸の井戸は国内でも本丸井戸...大洲城(愛媛県)

  • 今村城(愛知県)

    【今村城】いまむらじょう【別名】松原城【構造】平城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】愛知県瀬戸市共栄通5丁目66地図今村城は、1473年(文明5年)に松原下総守廣長が八王子神社の本殿の改修を行っており城、神社ともそれ以前の造営のものと思われますが、詳しいことは解っていません。廣長が1482年(文明14年)に桑下城主である永井氏との戦乱で敗れ、廃城となりました。八王子神社今村城築城時と創建が一緒と推定されており、文明五年癸巳年九月初五日大檀那松原下総守広長と書かれた棟札がみつかっていたようですが、現在その棟札は行方知れずとなっています。神社境内の配置図左上を見ると、お城の堀跡とされている池があります。県道61号線(瀬戸街道)を北限として、八王子神社の池(堀跡)までが城域であったと推定されて...今村城(愛知県)

  • 本佐倉城(千葉県)

    【本佐倉城】もとさくらじょう【別名】将門山城【構造】平山城【築城者】千葉輔胤【築城年代】1469年〜1486年(文明年間)【指定史跡】国指定史跡【場所】印旛郡酒々井町本佐倉地図【スタンプ設置場所】酒々井町中央公民館(8:30~17:00)京成本線大佐倉駅【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun本佐倉城は千葉氏代々の居城であった千葉城が内紛により戦場となり荒廃したため新たに築いた城で豊臣秀吉によって滅ぼされるまで居城とした城です。城の周囲には酒々井宿、本佐倉宿、鹿島宿、浜宿湊と東西南北に城下町が広がっていました。酒々井町中央公民館まずは酒々井町中央公民館で続100名城のスタンプを押しに来ました。玄関を入るとわかりやすい看板があります。右奥のトイレの前にあります。スタンプ設置場所スタンプ設置場...本佐倉城(千葉県)

  • 高天神城(静岡県)

    【高天神城】たかてんじんじょう【別名】土方城【構造】山城【築城者】不明【築城年代】1416年【指定史跡】国指定史跡【場所】掛川市上土方嶺向3136地図【スタンプ設置場所】大東北公民館(9:00~17:00)【城郭検定】出題あり桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、今川家は衰退しました。その後、徳川と武田が攻防を繰り返し、1574年(天正2年)高天神城は武田勝頼により落城しました。高天神城奪還のために徳川家康は、横須賀に砦として横須賀城を作り、さらに高天神城を孤立させるために周辺を囲んで攻撃しようと6つの砦を築きました。この6つの砦は「高天神六砦」と呼ばれ、「小笠山砦」・「能ヶ坂砦」・「火ヶ峰砦」・「獅子ヶ鼻砦」・「中村砦」・「三井山砦」がありました。この砦により、高天神城への補給路が断たれ、高天神城...高天神城(静岡県)

  • 岩櫃城(群馬県)

    【岩櫃城】いわびつじょう【別名】吾妻城【構造】山城【築城者】斎藤憲行【築城年代】1405年(応永12年)【指定史跡】―【場所】吾妻郡東吾妻町原町地図【スタンプ設置場所】平沢登山口観光案内所(4月~11月)・東吾妻町観光案内所(12月~3月)【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun【御城印】平沢登山口観光案内所・東吾妻町観光協会1521年~1528年(大永年間)には斎藤氏が城主となり吾妻一帯を支配していました。甲斐の武田信玄は真田幸隆に岩櫃城攻撃を命じるも、二度失敗。その後1565年(永禄8年)真田幸隆は得意とする調略と奇襲で落し、以後上田城、沼田城の支城として真田氏の拠点となります。岩櫃山大河ドラマ「真田丸」オープニングでCG編集されて出てくる岩櫃山です。てっぺんにお城や手前に滝などはあり...岩櫃城(群馬県)

  • 黒井城(兵庫県)

    【黒井城】くろいじょう【別名】保月城【構造】山城【築城者】赤松貞範【築城年代】1334年~1338年(建武年間)【指定史跡】国指定史跡【場所】丹波市春日町黒井地図【スタンプ設置場所】春日住民センター【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun【城郭検定】出題あり黒井城は、赤井氏の居城で織田信長の丹波攻略の際に、二度にわたり明智光秀の攻撃を支えた城です。また、光秀の重臣斎藤内蔵助利三は下館を陣屋とし、この陣屋で利三の末娘として生まれています。その末娘の名はお福と言い、後の春日局と伝承されています。続日本100名城公式ガイドブック(歴史群像シリーズ特別編集)公益財団法人日本城郭協会学研プラスぶらり明智光秀の城&史跡めぐり(ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)佐藤強志マコト出版黒井城(兵庫県)

  • 一宮城(千葉県)

    【一宮城】いちのみやじょう【別名】山城【構造】丘城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】町指定史跡【場所】千葉県長生郡一宮町一宮地図一宮城は、詳細は不明ですが1562年(永禄5年)9月に館山城主の里見氏、万木城主土岐氏、大多喜城主正木氏らに攻められ落城しています。(諸説あり)そして1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の際にも再び落城しています。その後は本多忠勝の領土となり、脇坂安元、加納久儔により陣屋が造られ明治維新を迎えます。大手門加納藩当時に、ここには大手門が造られていました。現在城山公園入口のシンボルとして大手門が再現されています。案内看板大手門の脇には一宮城址の看板と城山公園の案内図の看板があります。駐車場公園になっているので無料の駐車場が完備されています。こちらに駐車して城さんぽ開始...一宮城(千葉県)

  • 杉山城(埼玉県)

    【杉山城】すぎやまじょう【別名】―【構造】山城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】国指定史跡【場所】比企郡嵐山町杉山地図【スタンプ設置場所】嵐山町役場(午前8時30分~午後5時15分)【空撮】USHISUNAerichan提供ushisun杉山城は土造りの城の見本とも言われている城で、この城ひとつで多くの基本的防御の策が見ることのできる城です。杉山城・菅谷城・松山城・小倉城をはじめ中世城館の遺跡群が形成され「比企城館跡群」として国史跡に指定されています。嵐山町役場続日本100名城に選定されたことで、スタンプ設置場所になりました。まずはこちらでスタンプとパンフレットを収集します。駐車場久しぶりに来ました。別の趣味で何度も訪れている場所ですが、城郭訪問で来ることになるとは思ってませんでした。少し歩きます...杉山城(埼玉県)

  • 松露饅頭(佐賀県)

    🍡唐津の松露饅頭1850年(嘉永3年)に佐賀県の唐津で創業。豊臣秀吉が、朝鮮出兵で高麗から陶器と一緒に渡ってきた文化のひとつに「焼饅頭」がありました。江戸時代に大原家の阿わび屋惣兵衛が焼饅頭に創意工夫をこらし、唐津藩主小笠原侯に献上したところ、日本三大松原のひとつでもある「虹の松原」の松の根元の砂から年春、秋に自生する、球状の高級キノコ「松露」に似ていることから「松露饅頭」と名付けられました。ふるさと納税の返礼品にもなっている唐津の老舗大原松露饅頭ということで唐津の老舗和菓子を買ってみました。中はこしあんで程よい甘さ。疲れた時に、お茶と一緒にいただくととても癒されます。昨年訪れた唐津城を思い浮かべながら、美味しく頂きました。令和5年1月23日九州諸藩という歴史地元九州からみた江戸二六五年富原勇史株式会社ド...松露饅頭(佐賀県)

  • 勝浦城(千葉県)

    【勝浦城】かつうらじょう【別名】ー【構造】海城【築城者】真里谷信興【築城年代】1521年(大永元年)【指定史跡】ー【場所】千葉県勝浦市浜勝浦地図勝浦城は、真里谷氏の時代の砦に勝浦正木氏が入城しています。しかし天正18年、豊臣秀吉によって里見氏は領地を一部没収され、里見氏と親交が深かった三代目勝浦城主頼忠も城を明け渡し、安房へと逃れました。頼忠の娘は徳川家康の側室で、水戸光圀の祖母にあたるお万の方です。主郭にはお万の方の銅像が、城址を見守っています。トンネルを抜けた先が駐車場です。駐車場日の出前に到着し、一休みしていました。釣り人が居たり、けっこう人気のある場所です。見晴台郭?と思いきや、見晴台なんだそうです。城址碑八幡神社の入口に勝浦城の城址碑があります。案内看板八幡神社の入口にに立てられた勝浦城の案内板...勝浦城(千葉県)

  • 謙信一夜城(千葉県)

    【謙信一夜城】けんしんいちやじょう【別名】一夜城・王子台砦【構造】平城【築城者】上杉謙信【築城年代】1566年(永禄9年)【指定史跡】ー【場所】千葉県佐倉市王子台3丁目12地図この地は、上杉謙信が兵馬を進めた城跡です。関東管領上杉憲政に頼まれ関東進出を決意し、関東の各地に参陣しました。謙信が臼井城を攻撃するも、臼井城主原胤定は佐倉城主千葉胤富の援護を得て両軍満を持して動くことなくひと月余、そこへ上杉軍の陣営に足利将軍の上洛を促す書状が着し、翌四月越後へ引揚げることになりました。一夜城公園現在、こちらは公園になっています。ここから北へ約1.5Kmほどの場所に臼井城があります。臼井駅南土地区画整理組合は工事の一環としてこの城址の発掘調査を行い、中世城郭の遺構も確認されています。城址碑城址碑はとても立派なものが...謙信一夜城(千葉県)

  • 小竹城(千葉県)

    【小竹城】おたけじょう【別名】ー【構造】丘城【築城者】小竹高胤【築城年代】明徳年間(1390年~1394年)【指定史跡】ー【場所】千葉県佐倉市小竹913地図小竹城は、小竹氏の築いた居館で臼井城の支城であったと伝わります。高さ約3mの土塁を周囲に巡らせた居館には、土塁の外側に堀を設け、東南に入口が設けられています。築城時期は1390年頃と推定されているものの、遺構は16世紀初期と推定され、詳しいことはまだ解明されていません。山崎産業株式会社付近の道路沿いに案内看板が見えて来たので確認すると、ここが小竹城の入口でした。案内看板「民有地ですので、許可なく立ち入ることはおやめください」と書いてあります。道路から脇道を入ったところに小竹城はあるようですが、どうやら私有地のようです。小竹五郎之墓案内看板の裏手の小竹に...小竹城(千葉県)

  • 小高城(福島県)

    【小高城】おだかじょう【別名】紅梅山浮舟城・浮舟城【構造】平山城【築城者】相馬重胤【築城年代】1611年(慶長16年)【指定史跡】県指定史跡【場所】福島県南相馬市地図小高城は、相馬重胤が1326年(嘉暦元年)下総国から移り、以後相馬氏の本拠地としていました。1597年(慶長2年)原町の牛越城に移り、小高城を支城としましたが、慶長7年に再び小高城へと戻ることになりました。慶長16年、拠点を中村城に移すと小高城は廃城となりました。小高神社現在、相馬小高神社がある場所がかつての小高城です。境内案内図「相馬野馬追」でも知られている神社で、駐車場もあるのでとても訪れやすい城址です。駐車場の入口、大きな鳥居井脇に境内の案内図が設置されています。城址碑南二の曲輪の登り口にある城址碑です。この階段を登ると南二の曲輪です。...小高城(福島県)

  • 世良田東照宮(群馬県)

    【世良田東照宮】せらだとうしょうぐう【別名】ー【構造】神社【年代】1644年(江戸時代)【指定史跡】国指定史跡【場所】群馬県太田市世良田町3119−1地図三代将軍徳川家光により、日光東照宮の元社殿や宝物などを移築したもので、徳川氏発祥の地の東照宮として知られています。鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたる源義家の孫の源義重が上野国新田荘を治めるようになり、新田義重と名乗りました。義重の死後は義重の子である義季が、徳川郷・世良田郷・他4郷を受け継ぎ、徳川義季・世良田義季と称したのが徳川氏の始まりです。その後、足利氏の討伐により世良田郷を追われた、九代目の親氏は諸国を流浪の末、松平信重の娘を娶り、愛知県豊田市の松平郷に土着して松平親氏と名乗りました。後に生まれた松平信康は、祖父清康が新田源氏徳川氏庶流世良田姓を...世良田東照宮(群馬県)

  • 岩崎陣屋(秋田県)

    【岩崎陣屋】いわさきじんや【別名】ー【構造】陣屋【築城者】佐竹義理【築城年代】1869年(明治2年)【指定史跡】ー【場所】秋田県湯沢市地図1868年(慶応4年)佐竹義諶は拠点を椿台城から移して、岩崎城址南麓に岩崎藩陣屋を構えて岩崎藩を置きました。その後、廃藩置県以降は岩崎藩を岩崎県と改め秋田県になったため、岩崎陣屋は1873年(明治6年)に消滅しました。いわさきこども園重機がある、お奥にある建物が「いわさきこども園」です。この辺りが陣屋地であったようですが遺構は消滅しています。羽州街道の東方の山手寄りに藩庁や学館、武館があり、それらを中心に米蔵、弾薬庫、家臣の屋敷が立ち並ぶ城下町が作られていました。明治3年2月、佐竹義諶は岩崎藩の藩主となりました。義諶は近くの椿台陣屋(岩崎城)から移転し、戊辰戦争戦いぬき...岩崎陣屋(秋田県)

  • 森下城(群馬県)

    【森下城】もりしたじょう【別名】鎌田城・天神城【構造】崖端城【築城者】森下氏【築城年代】1558年ー1570年(永禄年間)【指定史跡】ー【場所】群馬県昭和村森下甲354地図鎌田城とも呼ばれ、沼田城団の一つとして造られたといわれています。1582年(天正10年)に真田氏・北条氏によって前衛の砦として利用され、北条氏邦に攻められた加藤丹波守は奮闘するも、北条の大軍勢に押され城を出て、ここより約500mほど離れた石の上で切腹し果てたという場所が今でも残っています。また、反町大膳亮幸定に討たれたという説もあり、その後北条氏の沼田城攻めの際の拠点になったとも伝わります。駐車スペースが無いので、近くで車から降ろしてもらい、徒歩で様子を見に来ました。この先、正面が郭のようですが足元にはロープが張られていて中に入って行く...森下城(群馬県)

  • 川田城(群馬県)

    【川田城】かわだじょう【別名】下川田城【構造】崖端城【築城者】川田四郎景信【築城年代】不明【指定史跡】市指定史跡【場所】群馬県沼田市下川田町792地図川田城は三浦系沼田氏6代景久の4男である川田四郎景信が分家した際に築いたと伝えられます。川田公民館から北は遷流寺、東は薬師堂にまでまたがる広大な地域で、本丸は五角形で堀を巡らせ、帯曲輪が構築された特徴的な構造でした。沼田城の西の守りとして真田軍と北条軍の激戦地であったとされ、多くの地侍が討死しています。後に、一国一城令により川田城は廃城となりました。三浦系沼田氏の祖は1247年(宝治元年)の執権北条氏・安達氏と三浦氏の争い「宝治合戦」で北条氏に追われこの地に逃れてきた三浦泰村の次男景泰と伝わります。遠景北東側から見た川田城の東先端です。半月型の小郭が突き出て...川田城(群馬県)

  • 江尻城(静岡県)

    【江尻城】えじりじょう【別名】小芝城【構造】平城【築城者】武田信玄【築城年代】1570年(永禄13年)【指定史跡】ー【場所】静岡県静岡市清水区江尻町地図江尻城は、駿河に侵攻した武田信玄が1570年(永禄13年)に築いた城です。その後、穴山梅雪は天守を築き、「観国楼」と名付け城や城下町を本格的に大改修しています。天正10年徳川家康に攻め込まれ、穴山梅雪は降伏し、江尻城は徳川の手に渡りました。その後、1600年(慶長5年)廃城となりました。本丸門「本丸門」と書かれた江尻小学校の門です。江尻小学校がある場所が本丸になります。二の丸町看板本丸門から北に向かって進むと、「二の丸町」の看板があります。二の丸はそのまま町の名前になったんですね。とりあえず学校の周りを巡ってみました。この道は堀の名残かな?案内看板小学校の...江尻城(静岡県)

  • 幕岩城(群馬県)

    【幕岩城】まくいわじょう【別名】ー【構造】崖端城【築城者】沼田泰輝【築城年代】1519年(永正16年)【指定史跡】ー【場所】群馬県沼田市柳町地図幕岩城は、1544年(天文13年)に三浦系沼田泰輝の子顕泰が沼田城を築いて移るまでの居城でした。沼田氏発祥の荘田城から小沢城へ移り、その後幕岩城での13年間を経て、沼田城へ。城域はほぼ宅地と畑になっており、あまり撮影出来る場所がみつからず、それでも先にリサーチしておいたので城址碑探しをしておりました。一度ここを通り過ぎてしまったので、戻ってここのはずだよなあと、石を覗き込んでみるとうっすら文字が見えたので「ここだあ!」と車を停めてもらい、慌てて撮影。城址碑文字が見ずらいですが「幕岩城二の丸跡」の石碑があります。遺構は無いですが、延いて言うなら今立っているこの場所に...幕岩城(群馬県)

  • 大堀山城(埼玉県)

    【大堀山城】おおほりやまじょう【別名】大堀山館【構造】平山城【築城者】扇谷上杉氏【築城年代】室町時代【指定史跡】県指定史跡【場所】埼玉県川越市下広谷332地図大堀山城は、東には南関東と北関東を結ぶ鎌倉街道と西には扇谷上杉氏の川越城と鉢形城、山内上杉氏の五十子陣をつなぐ当時のルートが交差する重要な地点に築かれた城館です。入口南側にある入口です。ここをまっすぐ入って行くと主郭です。案内看板案内看板はここの他に、ここから真裏の三の郭側にもうひとつ立てられています。主郭郭の中は竹林になっています。が、しっかり遺構が残っているのでそれなりに見ごたえあるので進んで行こう!中は広い竹林です。土塁と堀が巡っているので当時は良い感じの館があったのだと思います。西側を見ると、奥の方が一段高くなっているのが見えます。天守台でも...大堀山城(埼玉県)

  • 城峰城(群馬県)

    【城峰城】じょうみねじょう【別名】城峰塁・西中条城・西中庄要害・新域【構造】丘城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】町指定史跡【場所】群馬県中之条町西中之条604地図城峰城は、胡桃沢川と枯木沢川に挟まれた丘陵上に築かれ、嵩山城の支城であったと推定されています。しかし、城について詳しいことはわかっておらず、嵩山城が落城するとその役割も終え、存在意義が無くなった城峰城は廃城となりました。「城峰城址」の矢印看板に従ってこの道を山に向かって進んで行きます。「ほほえみ工舎」を目標に「城峰城址」の矢印看板に従ってそのまま素直に進んで行けば迷うことはありません。終点が「ほほえみ工舎」で東側が「城峰城址」です。ちなみにこの道路部分はかつて堀切になっていたと思われます。標柱と看板道路から真っすぐに見えて来るのでここが...城峰城(群馬県)

  • 嵩山城(群馬県)

    【嵩山城】たけやまじょう【別名】ー【構造】山城【築城者】不明【築城年代】室町時代【指定史跡】町指定史跡【場所】群馬県中之条町五反田地図嵩山城の築城者は不明ですが信仰の場、霊場であることが知られています。1563年(永禄6年)に、岩櫃城が真田幸隆に攻められ落城。岩櫃城主吾妻太郎斉藤越前守の子・城虎丸や吾妻衆が、上杉謙信の支援を受けて嵩山城に籠城しました。しかし1565年(永禄8年)、激戦の末に城虎丸をはじめ一族(女子供も)は大天狗の岩から飛び込んで自決し、嵩山城は落城しました。江戸期には山伏の道場として利用され神聖の場として名高い霊山です。案内看板登山道入り口、鳥居の隣に立てられた案内看板です。表登山口ここが大手道で木戸になります。神社の入口から神社までの間に城下の集落があったものと伝わります。親都神社北側...嵩山城(群馬県)

  • 古瀬間城(愛知県)

    【古瀬間城】こせまじょう【別名】巴城【構造】平山城【築城者】松平宗忠【築城年代】1506年(永正3年)【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市志賀町城山地図古瀬間城は、新城街道を見下ろす丘の上に築かれていました。浄願寺に残る位牌から、丸根城とともに松平一族の城であったと考えられています。徳川家の祖とする松平三家の織田・今川・武田と対峙する要の城でした。浄願寺駐車場浄願寺の駐車場です。こちらに駐車させて頂きました。案内看板城址公園やハイキングコースになっているので案内の看板が設置されています。城址公園にハイキングコースの南口の出入口があります。城址碑と案内看板浄願寺入口にある城址碑と看板です。ここに城があったことが一目瞭然になっています。山門お寺と公園の共同の入口となっています。表から見た時は気が付かなかったので...古瀬間城(愛知県)

  • 勝保沢城(群馬県)

    【勝保沢城】かつほさわじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】斎藤氏【築城年代】戦国期【指定史跡】ー【場所】群馬県渋川市赤城町勝保沢地図築城年代は不明ですが、城域内にある宗玄寺を開基した斎藤加賀守真氏が1590年(天正18年)に前田・上杉軍に攻略され、白井城とともに落城した後は城域の一部を寄進して宗玄寺を建立したと伝わります。勝保沢城の城主であったと思われる斎藤氏は、北条氏の勇猛な武士であり、「加沢記」では、1580年(天正8年)に真田氏の攻略を受けており、戦国期の戦乱の中、勝保沢城は居館や砦として利用されていたものと思われます。渋川市赤城歴史資料館勝保沢城の中にある渋川市赤城歴史資料館へやって来ました。駐車場もあり、資料館もあり、しかも平城なのでとにかく見学しやすい城址です。駐車場とりあえず「駐車場」の看...勝保沢城(群馬県)

  • 賤ケ岳城(滋賀県)

    【賤ケ岳城】しずがたけじょう【別名】賤ケ岳砦【構造】山城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】滋賀県長浜市地図本能寺の変により織田信長の死を知らされた羽柴秀吉は中国大返しを敢行、山崎の戦いで首謀者の明智光秀を討つと、織田家では羽柴秀吉と柴田勝家が対立し賤ケ岳の合戦へと発展。賤ケ岳城は、賤ケ岳の戦いよりも以前に築かれていた城であることが「信長公記」にみられます。山頂近くまでリフトで登ることが出来ます。遠景正面に見える山が賤ケ岳です。頂上の樹が伐採されていて、山に一直線にリフトのラインが見えています。駐車場麓のリフト乗り場駐車場に到着。リフトが午前9時から稼働ということで、9時になる前に他の城に寄り道をしてからやって来ました。この日は天気も良かったので、この後すぐに満車になりました。リフト乗り場...賤ケ岳城(滋賀県)

  • 丸根城(愛知県)

    【丸根城】まるねじょう【別名】牛野城【構造】平山城【築城者】不明【築城年代】室町時代末期【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市野見町7丁目地図丸根城は、室町時代末期の城と推定されています。城は三つの郭から成り、堀・土塁・井戸などの遺構が良好に残っています。築城主は不明ですが、周囲を治める松平氏の一族の城とも考えられています。駐車場右の側道に入ってすぐに駐車場があります。ここに車を置いて公園の方へ。城址碑道下に城址碑がありました。空掘城址碑の隣には空堀があります。結構な幅があり、しっかり形が残ってます。虎口現在はアスファルトで舗装がされていますが、両側に空堀があるということはかつては土橋か木橋が架けられていたものと想像します。空堀このように掘り込んであります。ちなみにこの堀底は下の県道から登って来る通路にもなっ...丸根城(愛知県)

  • 諏訪原城(静岡県)

    【諏訪原城】すわはらじょう【別名】諏訪之原城・牧野城・牧野原城・扇城・金谷城【構造】山城【築城者】馬場信春【築城年代】1573年【指定史跡】国指定史跡【場所】島田市金谷地図【スタンプ設置場所】諏訪原城第一駐車場パンフレット置き場(終日利用可)【城郭検定】出題あり諏訪原城跡は、武田信玄が砦を築き、その後1573年(天正元年)、徳川家康に対する備えとして、武田方の家臣である馬場美濃守信房に命じて、築いた城郭です。城内に諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」と名付けられました。1575年(天正3年)、徳川家康によって落城すると牧野城(牧野原城)と改名され武田方に渡った高天神城を攻略するための拠点となりました。1581年(天正9年)高天神城が落城、武田氏が滅亡すると諏訪原城も役目を終え、1590年(天正18年)頃...諏訪原城(静岡県)

  • 大草城(愛知県)

    【大草城】おおくさじょう【別名】ー【構造】平山城【築城者】山田重忠【築城年代】鎌倉時代【指定史跡】ー【場所】愛知県長久手市郷前地図大草城は、山田荘の地頭山田重忠氏が築城したと伝わります。その後、天正期に森長可が城の改築を行い、福岡新助を城代としています。小牧長久手の戦いでは、秀吉軍の池田恒興と森長可が家康軍に敗れ、秀吉軍の兵、1000人ほどが大草城まで逃げて籠城したことでも知られています。駐車場城址碑の案内看板に従って行くと、熊野社への入り口を入ったところに2台ほどの駐車スペースがあります。城址碑駐車場に車を停めた正面に城址碑があります。大草城は「尾張志」に「大草村西之島といふ地にあり西北二方は山を垣とし東南は二方ともに深谷を境とす、右城内城内東西廿間、南北廿間あり城主は福岡新助也と土人いへり此界内も城之...大草城(愛知県)

  • 桜城(愛知県)

    【桜城】さくらじょう【別名】挙母城・衣城・佐久良城・七州城【構造】平城【築城者】三宅康長【築城年代】1614年(慶長19年)【指定史跡】市指定史跡【場所】愛知県豊田市元城町1丁目51地図桜城は3回城が築かれ、最初に三宅康長が金谷城を廃して桜城を築城しました。その後廃藩となり破却となった城跡に、1683年(天和3年)本多忠利が陣屋を築きました。1756年(宝暦6年)になると、上野国安中藩3代目藩主内藤政苗が築城を開始しますが矢作川が氾濫し、水害に躊躇われたため七州城へ移転しました。桜城には沢山の桜の木が植えられたことから「桜城」と呼ばれるようになりました。桜城址公園現在桜城址公園となっているこの場所は、内藤氏時代の頃の二の丸にあたる場所です。内藤氏は二万石で入封し、幕府より4千両得て工事を開始しました。度重...桜城(愛知県)

  • 金谷城(愛知県)

    【金谷城】かなやじょう【別名】衣城【構造】平山城【築城者】中条景長【築城年代】1308年(延慶元年)【指定史跡】市指定史跡【場所】愛知県豊田市金谷町1丁目地図金谷城は、室町幕府奉行衆であった中条景長が築いた城と伝わります。井田野合戦で敗北すると、急速に衰退し中条氏は織田信長によって滅ぼされました。その後三宅康貞が入城し、桜城を築くと金谷城は廃城となりました。金谷勝手神社城址碑があるという金谷勝手神社へやって来ました。この神社も城域の一部ではあるのですが、主な城跡はここより東側にある林の中です。城址を横断するように名鉄三河線が通っているのでその部分の遺構は破壊されています。金谷勝手神社は、鎌倉時代中期に中条氏の鎮守として建立されました。総本社は、奈良県吉野町にある勝手神社で全国に28の分社があるうちのひとつ...金谷城(愛知県)

  • 岩作城(愛知県)

    【岩作城】やざこじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】不明【築城年代】14世紀頃【指定史跡】ー【場所】愛知県長久手市岩作城の内地図岩作城は、発掘調査により14世紀から17世紀にかけて存在したものと推定され、長久手の戦いで岩崎城に籠城し、戦死した今井氏の居館であったと考えられています。城址碑ここは、長久手市役所です。長久手市役所のあるこの場所は、城の内という地名が残っています。石碑の裏に説明文がありますが、ざっくりとしていて結局のところ、詳しいことは分からないです。場所が市役所ということで駐車場をお借りしました。周囲を見ると川や池があるので、湿地帯を堀として利用していたのかなあとも想像します。やっぱり城跡って学校や公共の施設が建ってしまうのですね。仕方のないことですが。令和4年10月30日登城愛知の教科書(...岩作城(愛知県)

  • 狩宿城(愛知県)

    【狩宿城】かりじゅくじょう【別名】狩宿古村城【構造】平城【築城者】林弥助【築城年代】1324年~1326年(正中年間)【指定史跡】ー【場所】愛知県尾張旭市狩宿町4丁目17地図狩宿城は尾張旭七城のひとつで、詳しいことはわかっていませんが林弥助の城と伝わります。1661年~1673年(寛文年間)には既に古城とされ、江戸時代には百姓屋敷になっていました。農民の中でも裕福な階層の人が居住していたのではないかと推測されています。狩宿第2ちびっ子広場狩宿第2ちびっ子広場に案内看板があるということでこの公園にやって来ました。公園では親子で遊んでいるところにお邪魔しました。案内看板公園内にある案内看板。狩宿村絵図この絵図から見ると位置的には、城域はこの場所よりもう少し南にあったようです。狩宿観音堂絵図に描かれていた「観世...狩宿城(愛知県)

  • 田代城(愛知県)

    【田代城】たしろじょう【別名】ー【構造】丘城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市下山田代町入北切地図田代城は足助七城のひとつで、ここ田代城は居館とし、戦時の拠点は「京ヶ峰」にありました。大沼城と同様に1574年(天正2年)、または1571年(元亀2年)に甲斐の武田軍に攻め落とされています。そのほか、城の歴史に関しては詳しいことはわかっていません。案内看板また城址の真下の道でGoogleマップにリリースされたのですが、よくあることなので、なんとなく匂いのする方へ来てみたら案内看板がありました。矢印の看板に従って行くと行けるようです。見落とさないようにここで曲がりましょう。登城口さて、矢印はどうやらこのすすきの中へと案内しているようです。道…よ~く見るとあるんですよ。(来たことある...田代城(愛知県)

  • 瀬戸川城(愛知県)

    【瀬戸川城】せとがわじょう【別名】しろんど城【構造】平城【築城者】浅井源四郎【築城年代】13世紀頃【指定史跡】ー【場所】愛知県尾張旭市瀬戸川町1丁目地図江戸時代(天保12年)の瀬戸川村絵図には古城と記されたものが残っています。城主の浅井氏は井田城城主の一族で、浅井玄蕃允の弟である浅井源四郎の居城だと伝わります。発掘調査により、東西約45m、南北約55mの平城跡が確認されています。出土したものから推測すると16世紀中頃まで使用されていたものと思われます。また、尾張旭七城のひとつとされていますが、現在遺構は残っていません。城址碑と案内看板尾張旭市立三郷小学校の南西角にある城址碑と案内看板です。手掛かりとなりそうな愛知用水を探したのですが、近くに見当たらず縄張もわからないほどに地面はアスファルト化していて名残す...瀬戸川城(愛知県)

  • 大沼城(愛知県)

    【大沼城】おおぬまじょう【別名】ー【構造】山城【築城者】木村安信【築城年代】1469年~1487年(文明年間)【指定史跡】ー【場所】愛知県豊田市大沼町八沢地図大沼城は、足助七城のひとつとされる城です。初代城主木村安信は信仰が厚く、麓に入宝山神宮寺を建立しています。二代目新九郎信元は甲斐の武田軍に攻め落とされ、討死しています。その後、大給城城主松平乗元の二男松平親清が城主となり、跡を継いだ近正は徳川家康の旗本で武功をたて、上州三の倉に五千石を賜り上州へと移りました。登城口道が整備されているのを見ると、登りやすそうにみえるのですが、とにかく暗くなってきているので今回は見送ることにします。奥に見える看板には「本丸跡まで130mガンバッテ登ってね」と書いてあるのが微笑ましい。しかし、距離は短いが急な登りを想像して...大沼城(愛知県)

  • 井田城(愛知県)

    【井田城】いだじょう【別名】尾張井田城【構造】平城【築城者】浅井玄蕃充【築城年代】1390年~1394年(明徳年間)【指定史跡】ー【場所】愛知県尾張旭市井田町4丁目地図井田城は、寛文年間にまとめられた「寛文村々覚書」に古城跡とされており、既にこの頃には廃城になっていました。発掘調査では堀と土塁、井戸跡やかまど跡などがみつかっており、瀬戸焼、美濃焼などの室町時代以降の茶碗なども多く出土しています。八反田公園城跡は公園化し、遺構は残っていません。トイレトイレの方を見ると、少し盛り上がっているのが見えます。古くから城山と呼ばれていたように、周囲の田畑より城域は高くなっていたと思われます。その当時の名残なわけではないのでしょうが、そこには城址碑が立てられています。案内看板看板や城址碑が見える位置にやって来ました。...井田城(愛知県)

  • 新庄城(山形県)

    【新庄城】しんじょうじょう【別名】沼田城・鵜沼城【構造】平城【築城者】戸沢政盛【築城年代】1625年(寛永2年)【指定史跡】市指定史跡【場所】山形県新庄市堀端町地図新庄盆地のほぼ中央に位置し、江戸時代初期に最上氏が領地を没収されると新庄に6万石で入った戸沢政盛が羽州街道の西にある湿地帯に新庄城を築城しました。創建当時は三重の天守を持つ近世城郭でしたが、1629年(寛永6年)に火災によって焼失。すぐに再建するも、1636年(寛永13年)に再び火災により天守を含む本丸、二の丸が炎に包まれてしまいました。その後、城は再建されましたが天守が再建されることはありませんでした。二の丸跡駐車場が本丸にあるので、二の丸側から乗り入れることになります。こちらは二ノ丸内屋敷になり、西の丸とも呼ばれていました。虎口本丸と二の丸...新庄城(山形県)

  • 漆窪城(群馬県)

    【漆窪城】うるくぼじょう【別名】ー【構造】平山城【築城者】長尾氏【築城年代】1558年~1570年(永禄年間)【指定史跡】ー【場所】群馬県前橋市富士見町漆窪地図漆窪城は、舌状台地の先端に築かれた城です。永禄年代に長尾大膳が居城したと伝わり、現在も遺構が良好に残っています。大膳は石倉城主である長尾景善の弟で、大膳の養子となって石倉から移住して大膳を襲名したと伝わります。道になっている部分が堀跡になります。櫓台のような高まりのあった場所に城址碑と看板が立っています。堀跡再び城址碑のところまで戻って来ました。城址碑の西側にある道もまた堀跡です。舌状台地の先端の方へと延びる二の郭。城域にあるソーラー。主郭頂上ではなく、中間に位置しています。追手虎口一番長い堀の東先端に着く追手の虎口。三の郭を覗きに行って見ましょう...漆窪城(群馬県)

  • 津久田城(群馬県)

    【津久田城】つくだじょう【別名】ー【構造】崖端城【築城者】狩野氏【築城年代】室町時代後期【指定史跡】ー【場所】群馬県渋川市赤城町津久田地図津久田城は、加沢記によると代々狩野氏の居城であったと考えられます。白井城の支城で、「つなぎの城」として利根川沿いに侵攻する敵に対しての守備の役割を果していました。元亀・天正の戦乱期には上杉・武田・北条の戦乱の渦に巻込まれ、天正18年、豊臣秀吉の配下にある前田利家・上杉景勝による白井城攻略に際し、本城の白井城とともに落城し、廃城となりました。看板を探してみたのですが、どうやら本丸にある住宅の裏手の方にあるらしくGoogleマップでは住宅の裏の方にそれらしきものが見えるのですが、到底入って行けない…。残念ですけどここで暮らす方々の身になってみると、それは致し方ないことです。...津久田城(群馬県)

  • 入沢城(群馬県)

    【入沢城】いりさわじょう【別名】渋川城【構造】丘城【築城者】足利義顕【築城年代】鎌倉時代【指定史跡】ー【場所】群馬県渋川市渋川入沢地図入沢城は、鎌倉時代に渋川氏の祖足利義顕がこの地を領して城を築いたとことでかつては渋川城と呼ばれていました。天文13年豪族入沢氏が信州から移住して本丸跡に館を築き、入沢の地名を起こしたことで入沢城とされます。弘治3年入沢氏は吾妻大戸城主より軍功により渋川の西北を拝領し元亀・天正年間に武田信玄・勝頼二代の家臣となり仕えます。天正末期には武田氏滅亡から北条氏に仕えるも、北条氏も滅亡すると入沢城を廃城とし、慶長の初めに帰農しました。東(渋川市街方面)から西へ登り始め、畑が見える台地にさしかかると左手に城址碑が見えました。元屋敷山崎一氏の縄張図によると元屋敷と記されている場所です。こ...入沢城(群馬県)

  • 井出館(静岡県)

    【井出館】いでやかた【別名】井出代官屋敷【構造】館跡【築城者】井出氏【築城年代】鎌倉期【指定史跡】市指定文化財【場所】静岡県富士宮市借宿91地図井出氏は鎌倉時代この地に居住した小土豪でしたが、富士大宮司家に仕え、今川、武田氏に従属。今川義元から代官を命じられ、大宮宮中奉行職を安堵しています。武田信玄の駿河侵攻時には、今川・武田・北条の戦乱に巻き込まれ、一族はそれぞれに分散ししました。井出館は、1193年(建久4年)に源頼朝が富士の巻狩りに立ち寄ったことが「吾妻鏡」に記されていることが知られています。今年は大河ドラマでも話題になった場所です。ここに駐車場もあります。狩宿の下馬ザクラ桜が有名らしく、以前テレビで見て以来ずっと来よう!と思っていた場所です。ならば、桜の時期に来いよ!となるところですが、私の目的は...井出館(静岡県)

  • 長峰城(新潟県)

    【長峰城】ながみねじょう【別名】雁子城【構造】平山城【築城者】那須氏【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】新潟県上越市吉川区長峰地図1616年(元和2年)高田藩主松平忠輝が改易後に上野国2万石の大胡城主牧野忠成が5万石で入封し、この地に長峰城を築城しました。その2年後には、6万2千石で長岡城へ移封となり長峰城は廃城となりました。駐車場長峰池繁船広場の駐車場へ車を停めて、散策です。右手の林が城址となっています。案内看板駐車場と隣接して、高い土塁と足元には空堀があります。西土塁の高さは約14mもあり、群馬の大胡城を思い出させる造りになっています。空堀現在は浅いですが、かつてはもっと深かったであろう空堀です。深い堀と高い土塁を組み合わせて圧倒させるような造りになっていたことが想像出来ます。道路脇から堀と土塁をセ...長峰城(新潟県)

  • 群馬御城印サミット第二弾

    群馬御城印サミット10月8日(土)・9日(日)の2日間、ホテル1-2-3前橋マーキュリーにおいて「群馬戦国御城印サミット第二弾」が開催されました。私の地元群馬で攻城団ブース初出店ということで、団員として二日間お手伝いに行ってまいりました。ホテル1-2-3前橋マーキュリー地元圏内なので宿泊したことが無く初めて来ました。と言っても、ホテルの周辺には多くの城址(大友城・村山城・蒼海城・石倉城など)があるので近くは城さんぽしています。会場では甲冑着用体験やVR武将体験、武将隊演舞や太鼓、真剣を使ったパフォーマンス、茶会など、賑やかに披露されました。先着記念印の整理券配布は9:30ということで、入口では整理券をもらう行列が出来ていました。行列を見ると、御城印ブームを実感しました。私もそうなんですが、「限定」とか「特...群馬御城印サミット第二弾

  • 國友城(滋賀県)

    【國友城】くにともじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】滋賀県長浜市国友町地図國友城は、小谷城の最前線を守る地侍の居館跡でした。国友鉄砲ミュージアムにやって来たのですが、近くに城址があることに気付き、周囲を探し回ると住宅地の入り組んだ場所に城址碑がありました。城址碑資料も無く、縄張りもよくわからないのですが、城址碑があるこの場所がどうやら城の中心部であろうと想像します。国友鉄砲ミュージアム館内での写真撮影は、撮影禁止のサインがあるもの以外は撮影可能です。ということでしたが、SNSなど大歓迎ということなので、のちほど別枠で「国友鉄砲ミュージアム」を紹介したいと思っています。沢山の屋敷跡が紹介されているので、国友町を歩いて散策する方が面白いと思われます。そんな中にある...國友城(滋賀県)

  • 三田村城(滋賀県)

    【三田村城】みたむらじょう【別名】三田村氏館【構造】平城【築城者】三田村氏【築城年代】不明【指定史跡】国指定史跡【場所】滋賀県長浜市三田町地図三田村城は、800年前から土豪の館があった場所で戦国期には京極・浅井氏の家臣三田村氏の城館がありました。姉川の合戦では、朝倉景健の本陣としても使用されています。二期に分かれて増築された土塁は、今でもしっかりのこされており、北近江城館群のひとつとして国指定史跡に指定されています。案内看板表の看板のある場所はかつて堀があった場所です。土塁があるのは見てすぐにお分かりになると思いますが、その土塁の外側に堀があったようです。虎口土塁か切られていて、伝正寺の入り口となる虎口。そして、鐘楼のある場所にはかつて櫓がありました。土塁伝正寺の内側から見た土塁。伝正寺本堂には郵便受けと...三田村城(滋賀県)

  • 熊本城(熊本県)

    【熊本城】くまもとじょう【別名】銀杏城【構造】平城【築城者】加藤清正【築城年代】1607年(慶長12年)【指定史跡】国指定史跡国重要文化財【場所】熊本市中央区本丸地図【スタンプ設置場所】頬当御門・櫖方門・須戸門・不開門【御城印】熊本城二の丸無料休憩所【城郭検定】出題あり熊本城は1607年(慶長12年)加藤清正が茶臼山と呼ばれる丘陵地に加藤清正が当時の最先端技術で城熊本城を築城しました。その後、二代続いた加藤家が改易されると後豊前小倉城の城主だった細川忠利が肥後に入国しました。二ノ丸駐車場天守から一番近い二ノ丸駐車場へ駐車出来ました。公式ホームページより入園券事前購入で日時指定して購入しておいたのでスマホを見せてQRコードを提示して入城しました。平左衛門丸入城~♪入口は小天守側にあり、出口は大天守にあります...熊本城(熊本県)

  • 駿府城(静岡県)

    【駿府城】すんぷじょう【別名】―【構造】平城【築城者】徳川家康【築城年代】1585年(天正13年)、1607年(慶長12年)【指定史跡】―【場所】静岡市葵区追手町地図【スタンプ設置場所】東御門券売所(月曜日休館祝日、休日にあたる場合は営業。12月29日~1月3日は休館)【御城印】駿府城公園東御門・巽櫓・坤櫓・紅葉山庭園の各施設入場券販売窓口【城郭検定】出題あり駿府城は、徳川家康が幼少時代から多くの時間を過ごした城です。天下統一後将軍職を息子の秀忠に譲り、1607年(慶長12年)駿府城の普請を諸国に命じて、三重の掘に五重七階の天守を築き、立派な城が完成すると、江戸城から駿府城へと移りました。その後家康の隠居とする駿府は、政治・経済・文化と発展し、大御所時代の居城として城と町が栄えていきました。入口は東西南北...駿府城(静岡県)

  • 銅像コレクション

    あ行か行さ行た行徳川家康な行は行ま行や行ら行わ行銅像コレクション

  • 久能山城(静岡城)

    【久能山城】くのうざんじょう【別名】久能寺城・久能城【構造】山城【築城者】武田信玄【築城年代】1569年(永禄12年)【指定史跡】国指定史跡【場所】静岡市駿河区根古屋地図【城郭検定】出題あり久能山城は、甲斐の武田信玄が山頂にあった久能寺を別の場所(清水市)へ移し、その跡地に城郭を築きました。袋城と持舟城の水軍を置き、駿河湾を一望できる久能山城で伊豆の北条水軍を監視していました。後に徳川家康の侵攻を受け、徳川氏の城となりました。徳川家康没後に、遺言により城郭内に家康の廟所として久能山東照宮が創建されています。駐車場ここに来たのは3回目。しかし、久能山東照宮へは一度も行ったことがありませんでした。今度こそはやって来たのですが、やはり下から歩いて登る気はなく、ロープウェイに乗ることにしました。ロープウェイと聞い...久能山城(静岡城)

  • 城郭検定出題の城

    北海道・東北北海道五稜郭松前城志苔城上ノ国勝山館根室半島チャシ跡群青森県弘前城浪岡城堀越城根城三戸城岩手県盛岡城志波城胆沢城九戸城宮城県仙台城多賀城白石城船岡城秋田県久保田城秋田城脇本城山形県山形城長谷堂城米沢城舘山城福島県会津若松城二本松城白河小峰城向羽黒山城三春城神指城霊山城桑折西山城棚倉城関東・甲信越茨城県水戸城土浦城栃木県足利氏館唐沢山城宇都宮城黒羽城群馬県箕輪城金山城名胡桃城岩櫃城沼田城前橋城高崎城館林城埼玉県川越城鉢形城忍城菅谷城武蔵松山城千葉県佐倉城大多喜城関宿城千葉城東京都江戸城八王子城品川台場滝山城神奈川県小田原城石垣山城津久井城新井城山梨県甲府城武田氏館要害山城新府城長野県松本城松代城上田城小諸城高遠城龍岡城高島城飯田城新潟県新発田城春日山城高田城村上城水原城長岡城北陸・東海富山県高岡...城郭検定出題の城

  • 接待館(岩手県)

    【接待館】せったいだて【別名】古館・衣河館【構造】館跡【築城者】不明【築城年代】平安時代【指定史跡】国指定史跡【場所】岩手県奥州市衣川七日市場地図接待館は、中尊寺の北側にある衣川の対岸に位置し、藤原秀衡の母の居館と伝わります。遺構からは大量のかわらけが発見されていることから、12世紀頃に接待館として規模の大きな儀礼や宴会が行われたと推定され、奥州藤原氏の祖先である安倍氏の政庁跡と伝わります。また、平泉府の迎賓館であったとも伝わります。案内看板国の史跡「柳之御所・平泉遺跡群」に追加指定されているだけに他の柵や舘と違って大きくて写真入りの看板が設置されています。近年の発掘調査から区画内部に建物跡や井戸、厠などの生活に重要な部分がみつかっておらず、館であったかどうかは断定できないのではないかという話もあります。...接待館(岩手県)

  • 泉ヶ城(岩手県)

    【泉ヶ城】いずみがじょう【別名】和泉ヶ城・業近柵【構造】平城【築城者】藤原業近【築城年代】平安時代末期【指定史跡】ー【場所】岩手県西磐井郡平泉町地図泉ヶ城は、安倍氏と源頼義との闘いが繰り広げられた前九年合戦の激戦地であり、後三年合戦後の奥州藤原氏の時代に、藤原秀衡の三男である泉三郎忠衡の居館と伝わります。この一帯が泉ヶ城で、川を自然の要害(堀)として、川を隔てて琵琶館が隣接しています。衣川を境界に泉ヶ城は平泉町、琵琶館は奥州市に分かれています。泉ヶ城は藤原氏の多賀国府、琵琶館は安倍氏の六奥郡で対立していました。接待館案内板より泉ヶ城目指して城域に入って来ると、城址碑がありました。近付いてみてみよう!石碑泉ヶ城は私有地であることがこの碑にしっかり記されています。ということは、これより先には立ち入らないで欲し...泉ヶ城(岩手県)

  • 琵琶館(岩手県)

    【琵琶館】びわだて【別名】成道館・琵琶の柵【構造】館跡【築城者】安倍成道【築城年代】平安時代後期【指定史跡】ー【場所】岩手県奥州市衣川並木前22地図琵琶館は、安倍貞任の庶兄成道の居舘と伝えられています。前九年合戦の激戦地となった場所です。琵琶の形の地形からこの名が呼ばれるようになったとされます。標柱琵琶館の標柱があり、案内看板は設置されていません。衣川柵の西南、大手先の前にあり。衣川の流域周囲を索回して、其地形琵琶の状をなせり。故に此の名ありという。貞任の庶兄成道の居城なり。其対岸に秀衡の三男泉三郎忠衡の居りし泉が城址あり。実に南北攻守の要扼の地と称すべきなり。~胆沢郡誌転記~この道の先が琵琶館なのですが、地図を見ると民家への私道のように見えるので突き進む勇気はない。現在も残る堀(川)を隔てて隣り合ってい...琵琶館(岩手県)

  • 小松館(岩手県)

    【小松館】こまつだて【別名】小松柵【構造】館跡【築城者】安倍則任【築城年代】平安時代【指定史跡】ー【場所】岩手県奥州市衣川横道下地図小松館は、前九年合戦の際安倍貞任の叔父良照(安倍則任)が守備した柵であるという伝承が残っています。安倍氏滅亡後、1366年(貞治5年)に葛西氏家臣の破石氏が居館とし、滅亡する1590年(天正18年)まで、この地を支配していました。北部に門跡が残っていたのですが、東北自動車道の建設のため破壊されました。案内看板康平五年(一〇六二)八月、磐井の小松柵において源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃った安倍貞任の叔父僧良照の居館であったと伝えられる。東側は衣川が南流して断崖になっており、西及び南側は小成沢(東北自動車道の建設のため側道として埋められた)の崖に囲まれ、北館から続く台地の突端部...小松館(岩手県)

  • 安倍館(岩手県)

    【安倍舘】あべたて【別名】舞鶴舘・落合舘・古舘【構造】館跡【築城者】安倍忠頼【築城年代】平安時代後期【指定史跡】ー【場所】岩手県奥州市衣川石神地図安倍舘は、北股川と南股川が合流する間にある丘の上に築かれていました。安倍頼良(頼時)、父忠良、祖父忠頼の三代の居舘で、約80年余りの間この舘に住んだと伝えられています。入口この案内看板隣の道を入って行くと遊歩道があり、展望台もあります。そのまま道なりに登って行くと郭にたどり着きます。展望台もあるようです。案内看板高さ三十丈(90m)の丘で、その構造は、東に向かって凹字形となり階段上になっている。東南北の三面は衣川(南股川と北股川の二つがこの舘の下で合流する)で、西は山岳が蜿蜒と続く頗る要害の地である。これは安倍氏累代の居城であって、その地勢から舞鶴舘、落合舘とも...安倍館(岩手県)

  • 石田三成(銅像)

    石田会館石田三成(銅像)

  • 上杉謙信(銅像)

    川中島古戦場上杉謙信(銅像)

  • 武田信玄(銅像)

    川中島古戦場武田信玄(銅像)

  • 山中鹿之助(銅像)

    月山富田城山中鹿之助(銅像)

  • 松尾芭蕉(銅像)

    黒羽城松尾芭蕉(銅像)

  • 蜂須賀家政(銅像)

    徳島城蜂須賀家政(銅像)

  • 別所長治(銅像)

    三木城別所長治(銅像)

  • 土井利忠(銅像)

    越前大野城土井利忠(銅像)

  • 柴田勝家(銅像)

    北ノ庄城柴田勝家(銅像)

  • お市の方(銅像)

    北ノ庄城お市の方(銅像)

  • 山内千代(銅像)

    高知城山内千代(銅像)

  • 上杉景勝(銅像)

    米沢城上杉景勝(銅像)

  • 上杉鷹山(銅像)

    米沢城上杉鷹山(銅像)

  • 伊達政宗(銅像)

    仙台城伊達政宗(銅像)

  • 土方歳三(銅像)

    五稜郭タワー土方歳三(銅像)

  • 溝口秀勝(銅像)

    新発田城溝口秀勝(銅像)

  • 徳川義親(銅像)

    小牧山城徳川義親(銅像)

  • 最上義光(銅像)

    山形城最上義光(銅像)

  • 前田利家(銅像)

    小丸山城前田利家(銅像)

  • 前田利長(銅像)

    高岡城前田利長(銅像)

  • 長宗我部元親(銅像)

    豊岡城長宗我部元親(銅像)

  • 徳川家康(銅像)

    駿府城徳川家康(銅像)

  • 銅像コレクション

    あ行か行さ行た行徳川家康な行は行ま行や行ら行わ行銅像コレクション

  • 相良城(静岡県)

    【相良城】さがらじょう【別名】相良陣屋【構造】平城【築城者】田沼意次【築城年代】1768年(明和5年)【指定史跡】ー【場所】静岡県牧之原市相良地図相良城は、9代将軍徳川家重が、田沼意次を相良1万石の大名に取り立て、この時はまだ相良陣屋だったのですが、10代将軍家治が城を築くことを許可し、12年かけて有力な大名のみに許される天守を持った城を築城しました。しかし、意次が失脚すると、松平定信の命により、相良城内の財産は没収され、相良城はわずか8年で廃城となり、壊滅的に破却されてしまいました。牧之原市資料館牧之原市資料館が建つこの場所が相良城の本丸跡です。現在は、相良小学校、相良中学校、相良高校、町役場などが立ち並ぶ場所が城域となっていました。城址碑牧之原市資料館が建つこの辺りが本丸ということで本丸碑があります。...相良城(静岡県)

  • 龍眼山城(静岡県)

    【龍眼山城】りゅうげんざんじょう【別名】植松城【構造】山城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】ー【場所】静岡県牧之原市静波龍眼地図龍眼山城は、勝間田氏の属城とされていますが定かではなく城の構造からみると武田氏の築いた城ではないかとの説もあり築城者は不明とされています。現在榛原公園として多くの市民が訪れています。榛原公園南側麓にある榛原公園入口へやってきました。公園の案内図があります。駐車場北側から車で上まで行くことが出来ますが、軽自動車の幅しか無いので普通車はこちらに車を置いて歩いて登ることをお勧めします。登山口ここから登って行きます。遊歩道として整備されていますので歩きやすく、意外に地元の皆さんが利用されているので容易に登ることが出来ます。頂上登り切った山頂が主郭です。主郭公園として整備されていて...龍眼山城(静岡県)

  • 清水袋城(静岡県)

    【清水袋城】しみずふくろじょう【別名】清水城・袋城・浜清水袋城【構造】海城【築城者】武田信玄【築城年代】1569年(永禄12年)【指定史跡】ー【場所】静岡県静岡市清水区本町地図清水袋城は武田信玄が築いた海城で、武田水軍の根拠地となった城です。巴川河中に扇状に突き出して築かれた珍しい縄張で、馬場美濃守信房がが担当したものと伝わります。1582年(天正10年)武田勝頼が滅亡すると、徳川家康の支配となり武田水軍は徳川水軍へと変わり、城も家康の持城となりました。慶長13年、家康が駿府城へ隠居するとこの城の存在価値を失い、本城の外堀を埋めて町屋を建てて廃城とし、清水における武田の支配はわずか14年でした。上総稲荷神社江戸時代初期には廃城となり、堀は埋め立てられ町屋にしているので現在は遺構も残っておらず、宅地になって...清水袋城(静岡県)

  • 小川城(静岡県)

    【小川城】こがわじょう【別名】法永長者屋敷【構造】平城【築城者】長谷川正憲【築城年代】1394~1428年(応永年間)【指定史跡】ー【場所】静岡県焼津市小川城内地図小川城は、堀と土塁で囲まれた「長者屋敷」と呼ばれる平城で焼津の海岸線から約1kmほど内陸に位置し、小川湊にも近いこともあり、海と陸を押さえるための要所として築かれました。城主は小説やドラマでお馴染みの「鬼平犯科帳」の鬼平こと長谷川平蔵の祖となる長谷川正宣で、今川氏と関係が深く小川城にて龍王丸(今川氏親)を匿ったこともあります。その後小川城は、武田信玄の駿河侵攻によって廃城となりました。城址碑と案内看板発掘調査後遺構は埋め戻され、宅地と化していて現在遺構を見ることは出来ません。しかし、長谷川氏が龍王丸を匿う間、次期今川家当主を担うことが出来るよう...小川城(静岡県)

  • 立川氏館(東京都)

    【立川氏館】たちかわしやかた【別名】立川城・立河氏館【構造】平城【築城者】立河宗恒【築城年代】鎌倉時代【指定史跡】都指定史跡【場所】東京都立川市柴崎町4‐20‐46地図立川氏館は、武蔵七党西党日奉氏の支族である立川氏の居館です。鎌倉時代に居館の中に寺を建立し、その後現在の普済寺となっています。中世以降は小田原北条氏に仕え、後北条氏が滅亡すると水戸藩徳川家へ仕官し常陸国へと移って行ったとされています。普済寺入口随分新しい立派なお寺が見えたと思いきや、1995年(平成7年)に火災で焼失してしまったため、本堂など新たに建て替えています。閻魔堂山門立派な山門があります。この山門は火災を逃れたもので江戸時代からの現存のようです。木像この日、門の上の扉が開いており、顔を覗かせていた木像は聖徳太子とのこと。堀跡この橋の...立川氏館(東京都)

  • 稲庭城(秋田県)

    【稲庭城】いなにわじょう【別名】早坂館・鶴ヶ城・貝館【構造】山城【築城者】小野寺重道【築城年代】1193年(建久4年)【指定史跡】ー【場所】秋田県湯沢市稲庭町梺地図稲庭城は、下総国出身の小野寺氏の本拠地で、源頼朝に戦の褒美としてこの地を賜りました。1600年(慶長5年)山形の最上義光の3千の兵に攻められ、自ら稲庭城に火をかけて背後の山から横手城逃れるも、関ヶ原の戦いで上杉景勝軍(西軍)に加勢したことで改易となり、石見国津和野へお預けの身になり稲庭城は廃城となりました。現在、二ノ丸に建つ稲庭のシンボル模擬天守は観光スポットとして建てられスロープカーが運航し、難儀することなく二の丸まで運んでくれます。稲庭城址入口国道398号線を走っていると稲庭城址入口が見えて来ました。ここからが本来の登城口と思われますが、こ...稲庭城(秋田県)

  • 名護屋城(佐賀県)

    【名護屋城】なごやじょう【別名】―【構造】平山城【築城者】豊臣秀吉【築城年代】1592年(天正20年)【指定史跡】国指定史跡【場所】唐津市鎮西町名護屋地図【スタンプ設置場所】佐賀県立名護屋城博物館【御城印】佐賀県立名護屋城博物館【攻城団チラシ】鎮西町観光案内所・唐津駅観光案内所豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に拠点として築いたのが名護屋城です。当時の大坂城に次ぐ規模ながら、たった5ヶ月で築城し、全国の大名の陣が周辺に置かれました。150以上とも云われる大名の陣には20万人もの人口で城下町が構成され大変賑わいました。1592年(文禄元年)の朝鮮侵攻から秀吉の病死により撤退するまでの7年間戦いは続き、名護屋城の役割を終えると、名古屋城は取り壊し、唐津城の資材となりました。駐車場一番近い、信号名「大手門...名護屋城(佐賀県)

  • 田沼街道

    起点:相良湊橋牧之原市資料館北側にある起点🏯相良城起点となる湊橋があるのは相良城があった場所です。⇓🍡島田宿⇓🍡金谷宿終点:藤枝勝草橋田沼街道

  • 近世念珠ヶ関址(山形県)

    【近世念珠ヶ関址】きんせねずがせきし【街道名】羽州浜街道【設置年代】1596年〜1615年(慶長年間)【廃止年代】1872年(明治5年)【指定史跡】市指定史跡【場所】山形県鶴岡市鼠ヶ関地図鼠ヶ関には二つの関所址があり、ここ近世念珠ヶ関址と南へ約1キロの県境に古代鼠ヶ関址と呼ばれる関所址があります。古代鼠ヶ関は、勿来関、白河関と並ぶ奥州三大関所のひとつとされていました。そして古代鼠ヶ関と区別するようにこの地には近世念珠ヶ関址が江戸時代に存在していました。この番所は沖を通る船の監視や港に入る船の取り締まりも行っていました。国道7号線を新潟方面から山形方面へと向かっていると、石碑と看板が目に留まりました。ストップ!戻れ~!と足軽ドライバーに命令、確認しに車を降りる。どうやらここは関所跡のようなので、止められたよ...近世念珠ヶ関址(山形県)

  • 鞠智城(熊本県)

    【鞠智城】きくちじょう【別名】久々知の城【構造】朝鮮式山城【築城者】ヤマト政権【築城年代】7世紀後半【指定史跡】国指定史跡【場所】山鹿市菊鹿町米原地図【スタンプ設置場所】歴史公園鞠智城・温故創生館鞠智城は、1350年前にヤマト政権が築いた城で、白村江の戦いで敗れた際、唐や新羅の侵攻に備えて築かれた日本書紀などに記された重要な拠点であると考えられています。九州を統治していた大宰府を守るために、大野城や基肄城に武器や食料を送る拠点として機能していました。歴史公園入口八角形の建物が見えて来るのですぐにわかると思います。駐車場無料の駐車場もあるのでゆっくり見学出来ます。…が、すでに夕暮れ時です。急がなくては続100名城のスタンプが押せません💦温故創生館到着した時にはすでに17を過ぎてしまっていました。9:30~1...鞠智城(熊本県)

  • 六郷城(秋田県)

    【六郷城】ろくごうじょう【別名】ー【構造】平城【築城者】六郷道行【築城年代】1558年~1569年(永禄年間)【指定史跡】町指定史跡【場所】秋田県仙北郡美郷町六郷地図六郷城は、六郷氏が永禄年間に築いて本拠地とした城です。関ケ原の戦いの後、徳川家康によって常陸へと国替えを命じられました。その後慶長7年佐竹義重が居城し、一国一城令により廃城となりました。六郷は六郷氏、佐竹氏両名によって城下町が形成されました。田岡神社田岡神社の周囲にはあちこちに標柱があります。神社があるということは、とりあえず城の中心部はここか!と攻めてみる。主郭神社の奥には立派な石碑があります。佐竹義重没後300年を記念して建てられた通庵佐竹公館阯碑です。二の丸跡本丸より東側にあるのが二の丸で、こちらも標柱があります。内濠跡交差点で信号待ち...六郷城(秋田県)

  • 富岡城(群馬県)

    【富岡城】とみおかじょう【別名】城山【構造】山城【築城者】富岡氏【築城年代】戦国期【指定史跡】ー【場所】群馬県富岡市上高尾地図【御城印】あり富岡城は丘陵頂部の斜面に盛り土して造成され、縦堀と横堀が配された戦国期の城郭です。高田川側からは急崖で、かつては西と北東に堀切があったとされますが簡単な造りであったことから現在は確認することが難しく現代の改変により原形はみられない。県道より西側にある城山公園にある十王山の砦がこの城の烽火台であったのではないかと考えられています。県道10号線から東に入ると、そこから更に南に入ります。入口軽自動車でも両サイド小枝で擦る状態ですが、とりあえず鉄塔までは車で突き進むことが出来ます。鉄塔先ず目標としていた鉄塔までやって来ました。道はまだ続いてますが、ひとまず車で入って来れるのは...富岡城(群馬県)

  • 広島城(広島県)

    【広島城】ひろしまじょう【別名】鯉城・在間城【構造】平城【築城者】毛利輝元【築城年代】1589年(天正17年)【指定史跡】国指定史跡【場所】広島市中区基町地図【スタンプ設置場所】1層ミュージアムショップ(休館日12/29~1/3)【城郭検定】出題あり広島城は、吉田郡山城を本拠としていた毛利輝元が1589年(天正17年)に築城を始め、築城前に訪れた豊臣秀吉の聚楽第に感銘し、参考にして本丸御殿が建てられました。天守、御殿の他に櫓88基、門10基、外観は下見板張に漆喰塗で統一された築城当初から大規模な築城がなされていました。築城中に豊臣秀吉による朝鮮出兵が行われ、この時名護屋城へ向かう秀吉が広島城へ立ち寄ったと伝わります。毛利氏が築き、福島氏、浅野氏と大大名に継がれ、浅野氏は12代(250年)続き、明治維新を迎...広島城(広島県)

  • 天神山城(福島県)

    【天神山城】てんじんやまじょう【別名】ー【構造】平山城【築城者】不明【築城年代】戦国時代末期【指定史跡】ー【場所】福島県双葉郡楢葉町北田天神地図天神山城は、岩城氏と相馬氏との間で激しい戦闘が行われた境目の地域に築かれた城館です。木戸川の急崖と太平洋の急崖の自然の要害を利用し、守りを強固にしています。築城時期は不明ながら縄張りの特徴から戦国時代末期と思われ、楢葉城と連動させるために築かれたのではと考えられ、当時楢葉城を預かっていた猪狩氏による築城も考えられますが定かではありません。北田天満宮北田天満宮のあるこの場所が主郭となります。虎口これより先が二の郭になります。案内看板二の郭に入ってすぐに看板があるので、ここで縄張図の確認をしました。外郭まで合わせると、かなりの広さがあります。二ノ郭しっかり土塁で四方を...天神山城(福島県)

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