(<1>よりつづく)4 「イ」と「ウ」、「金剛界五仏種子」と「胎蔵界大日如来三種真言」による制作年代の分類について小島氏は、円空像の背面に書かれた梵字を、大別すれば三つの時期に分類できるとされる。� 「六種種子」の時期(⑴の2、
「円空仏」で知られる山岳修行僧円空は、冒険家・登山家としてもヒーローだった! 山馬鹿岐阜県民ぼっちがその足跡を5年計画で追跡する記録
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(<1>よりつづく)4 「イ」と「ウ」、「金剛界五仏種子」と「胎蔵界大日如来三種真言」による制作年代の分類について小島氏は、円空像の背面に書かれた梵字を、大別すれば三つの時期に分類できるとされる。� 「六種種子」の時期(⑴の2、
円空の像には、背面に梵字が墨書されている像が多い。梵字は、古代インドの言語、サンスクリット語を表記するために用いられた文字で、古くは仏教の経典を記述するのに用いられ、仏教とともに中国や日本に伝わり、密教によって文字そのものが神格化されたもの
全国山の日協議会のHPに今年2月から連載させてもらっている「『円空の冒険』諸国山岳追跡記」。2024年分を総集編としてまとめてご覧ください。緑色の行をクリックしてもらうと本文にリンクします。 『円空の冒険』諸国山岳追跡記—はじめに
地泉院は、稲沢市祖父江町神明津にある真言宗智山派の寺院。地図でご覧いただければわかるように、愛知県と岐阜県の県境ともなる木曽川に面し、川を挟んで羽島市と隣り合う位置にある。手抜きでごめんなさいですが、同寺のHPによると次のような由緒となって
茨城県円空踏査(3)では、⑴⑵を踏まえ、円空の常陸国での足取りを追いかけてみたい。〇常陸国までの足取り・延宝7(1679)年6月15日、円空は、白山の神より託宣を受けたことを、郡上市美並町の杉原熊野神社十一面観音像と
茨城県円空踏査その2は、同県に3体確認されている円空像のうち2体がある古河市へ。古河市が、「ふるかわし」ではなく「こがし」であることも、当地が江戸時代常陸国ではなく下総国であることも、今回の踏査まで知らなかった、無知な岐阜県民ぼっちでありま
茨城県には、現在3体の円空像が確認されている。2体は県西部日光街道(奥州街道重複区間)沿いの古河市にあり、あと1体は県央部結城街道沿いの笠間市の月崇寺に伝わる。月崇寺の像は、観音菩薩とされ、その背銘に「萬山護法諸天神 御木地土作大明神 観世
栃木県に伝わる円空像で最も大作なのが、鹿沼市廣濟寺に伝わる千手観音立像(像高155.8�)。しかも、この像には重要な背銘もあるので、円空の足取り調査のためにはぜひとも拝観したかった。毎月第3土曜日の13:30〜16:00に拝観できるというこ
愛知県には、円空像が、3200体近くと全国で最も多く伝わる。これは、荒子観音寺の千面菩薩、龍泉寺の570体余りの木端仏、津島神社門前の千体地蔵が残されていることにもよるのだけれども、それを除いても、600体あまりの像がある。円空像の伝わる主
10月30日、上野国(群馬県)を中心とした円空踏査の最後に、円空の不動明王坐像が伝わる埼玉県春日部市の香林寺にお伺い。こちらには、、今年6月、第3回の埼玉遠征の折に伺いたかったけれど、あいにく法要中で断念。Y師匠がこちらのご住職と懇意とのこ
群馬県の温泉というと、草津温泉とともに名前のあがるのが、榛名山の山ふところに抱かれた渋川市の伊香保温泉。有名な石段の温泉街がの原型が形成されたのは戦国時代で、当時西上野を支配していた武田勝頼が、大敗した長篠の戦いで負傷した兵士に湯治させたと
吠瑠璃山正法院延養寺は、高崎市のあら町(新町)にある真言宗の寺院。同寺は、室町時代の至徳年間(1384〜1387年)に、法印慶覚によって開山された。慶覚は、足利尊氏から、弘法大師空海が刻んだと伝わる薬師如来像を賜り、これを道場に祀ったと伝え
妙義山は、標高1,104mと、上野国(群馬県)においてそれほど高い山ではない。しかし、その姿を目の当たりにすると、標高でははかり知れない峩々たる岩峰群に畏敬の念が湧きおこる。この山が山岳信仰の対象とされてきたのも、修験の山であったことも一目
円空の十一面千手観音像のある黒川不動堂は、貫前神社から約1.5�北の丘陵地帯の裾に位置する。群馬県立博物館長だった池田秀夫氏は、『円空研究』の論文「円空と上野国一ノ宮貫前神社」の中で、「おそらく円空が貫前神社滞在中に周辺の村々に巡礼、布教に
上野国一之宮・貫前神社(ぬきさきじんじゃ:富岡市)にあった明徳4(1393)年11月5日に写経された大般若経の残欠の末尾には、円空自筆で次のように記されている。十八年中動法輪 諸天晝夜 守奉身 刹那轉讀心般若 上野ノ一ノ宮 今古新いくたひも
吉井町弘福寺から、次は甘楽町(かんらまち)へ。甘楽郡甘楽町は、群馬県南西部に位置し、東を高崎市、西を富岡市に挟まれた人口1万2千人ほどの町で、その中心がかつて小幡藩の城下町だった小幡。小幡にある甘楽町歴史民俗資料館に、小幡八幡宮所有の円空像
埼玉県華蔵寺を後に、いよいよ想定ルート�の群馬県側踏査に入ります。想定ルート�:幸手不動院方向から中山道で深谷宿を経由し中山道の脇街道である下仁田道で貫前神社に至る。そこを拠点に、妙義山、榛名山、赤城山に巡錫 想定ルート�周辺の地
上野国の円空踏査と言いつつ、⑵の栃木県(下野国)足利市の永宝寺に続いて、⑷は埼玉県(武蔵国)深谷市の華蔵寺であります。それは、以下の想定ルート�の最初の調査地点となるため。想定ルート�:幸手不動院方向から中山道で深谷
足利市永宝寺の次は、渡良瀬川右岸沿いにみどり市大間々町(旧勢多郡大間々町)をめざす。現在は、国道50号線から日光に向かう国道122号線が通じている。図1:「上野国(上州)の街道と円空像の分布図」には、足利と大間々を直接結ぶ街道は記されていな
上野国(群馬県)の円空踏査、最初は、観音菩薩立像の伝わる栃木県足利市永宝寺から。なぜ上野国の踏査なのに、栃木県足利市から始まるのかは、まず図1をご覧ください。栃木県の円空像は、移入像をのぞいて16体確認されており、そのほとんどが日光に集中し
(鉈薬師訪問記(2)より続く)2024年まで年越ししてしまった、鉈薬師訪問記(3)。新年だから、少々想像をふくらませることをご容赦頂き、様々な状況証拠を積み上げながら、鉈薬師二大疑問について考察してみたいと思います。疑問� どのように明の帰
(鉈薬師訪問記(1)より続く)本尊薬師如来などの中央須弥壇を護るように、両脇の壇には十二神将および合掌像が並ぶ。 十二神将は、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護する十二尊で、仏法の守護神・福徳神の「天部」に位置づけられる。薬師
名古屋市千種区に「振甫町(しんぽちょう)」という一風変わった町名がある。その地名は、明王朝から日本に亡命した帰化人で、今回訪問する鉈薬師を建立した張振甫にちなむという。 張振甫が日本に来るまでの来歴には諸説あり、名古屋県立図書館で
良寛(宝暦8年〜 天保2年)という、江戸後期の曹洞宗の僧にして、歌人、漢詩人、書家であるお坊さんをご存知でしょうか?Wikipediaからの抜粋・要約で恐縮ながら、その伝記は以下のとおり。越後国出雲崎の名主で神社の祠職の長男として
円空が、寛永9(1632)年美濃国生まれであることは、群馬県貫前神社旧蔵『大般若経』奥書に自筆で「壬申年生美濃国圓空」とあるので、定説となっている。しかし、美濃といっても広く、その出生地については、�現羽島市説と、�現郡上市美並町説があるこ
円空は、寛文6(1666)年に蝦夷で観音菩薩坐像を中心に多くの像を造顕し、その帰路、観音菩薩・釈迦如来・阿弥陀如来の坐像や十一面観音立像を中心に造顕しながら青森、秋田、松島を経由して、寛文7年頃には尾張・美濃方面に戻ったと考えられる。そして
11月17日(金)〜19日(日)の3日間限定で「白川町の円空」展が開催されるとの情報をキャッチ。時系列に踏査しようという方針には合わないけれど、なかなか拝観困難な個人蔵の像も含め17体もの円空の像が展示されるという。これは見逃すわけにはいか
5年計画で進めている「円空の冒険」追跡のうち、前半最大の難関、蝦夷地往復の踏査は今年無事終了。しかし、次なる難関が控えている。それは、円空の大峯山における修行はどのようなものだったのかの追体験的調査。 大峯山(大峰山)は、奈良県の
ぼっちの目が、どれほどのものか自信ないですが—岐阜・愛知両県の円空像をほぼ網羅した『岐阜県の円空仏』『愛知県の円空仏』の画像をじっくり見たところ、蝦夷からの帰還後、もっとも早い像は、羽島市竹鼻町狐穴の狐穴薬師堂の薬師如来坐像ではないかとおも
11月6日(月)、松島瑞巌寺を訪れた週末11日(土)は、美濃の同名の寺、瑞巌寺へ。 円空は、松島瑞巌寺を訪れた後、経路は不明ながら美濃・尾張地方に戻っている。この時期の像とされるものに、「寛文八丁未 圓空造」の刻字がある愛知県大治
昨年の9月から今年11月までに及ぶ、円空の蝦夷への往復追跡踏査も無事終了。江戸前期の寛文年間という時代背景を考えれば、円空の蝦夷往復は、想像を絶する大冒険だったはず。ここで、その記録をリンク付きで列挙し踏査の全容をご紹介し、➀
院内は、東は陸前の仙台藩、南は羽前の新庄藩に接する。Y師匠は、院内から仙台領の松島に向かうルートを何度も探索されたそうだが、円空の形跡は見つからなかったとのこと。院内から瑞巌寺まで、東に向け山越えの道が幾筋かあり、徒歩だといずれも140�内
11月5日(日)秋田市のホテルを後に、同市以南の調査に。土崎湊周辺から先の円空の帰還ルートの明確な手がかりは、湯沢市院内の愛宕神社に十一面観音立像、宮城県松島瑞巌寺に釈迦如来坐像が残されていることのみ。直線距離でも、土崎から院内は80�ほど
11月4日(日)は、青森県の西海岸唯一の円空像、鰺ヶ沢町延寿院の観音菩薩坐像を拝観させていただく予定。それに合わせて、秋田県能代〜青森県鰺ヶ沢までの日本海側の調査も行う計画。 まずは、秋田県北端の八峰町の白瀑神社へ。事前調査で、円
赤神神社五社堂を後に、徒歩だと東に10�ほどとなる増川集落(男鹿市船川港増川)の増川八幡神社へ。円空は、ここに薬師如来坐像を残している。文化元(1804)年8月25日に訪れた菅江真澄は、『男鹿の秋風』に以下のような記録を残している(現代語訳
第2回蝦夷帰還ルート踏査は、男鹿半島の赤神神社五社堂から。自宅から約800�、道の駅の巨大なまはげ像がお出迎え。実は、男鹿半島は遠い昔、「法社会ゼミ」で、地域と法の関りについて泊りがけでフィールドワークを行ったご縁のある土地。懐かしい、船越
「円空蝦夷からの帰還ルート「再」考察」を踏まえ、9月7日〜18日、第1回の踏査を津軽半島から本荘まで実施。そして、11月3日〜6日は、第2回目の踏査に向かう予定。踏査計画を立てるための事前調査の結果をご報告のうえ、計画をご紹介。
由利本荘市は、秋田県南部に位置し、2005年本荘市と由利郡矢島町・岩城町・由利町・西目町・鳥海町・東由利町・大内町が合併してできた。合併によって人口は7万人余あるけれど、神奈川県の半分くらいと面積がやたら広いので、山あいののんびりした里とい
米代川の河口に位置する能代市。最近ではバスケットボールで有名だが、秋田県北部を代表する都市で、古い湊町でもある。円空の十一面観音立像のある龍泉寺は、能代湊に近い日和山(ひよりやま)の山裾、今は能代公園の一角(北端)にある。日和山とは、北前船
矢立峠を越え、秋田県に入る。かつての出羽国、江戸時代には久保田藩(秋田藩)領だった土地。円空像は、北から大館市宗福寺の十一面観音立像、北秋田市綴子の阿弥陀如来坐像(集落有)、同市鷹巣の阿弥陀如来坐像(個人蔵)、能代市龍泉寺の十一面観音立像(