本ブログ「『円空の冒険』追跡ノート」は、2022年から2026年までの5カ年をかけ、円空の足取りを<原則時系列順で>追跡するのが、基本方針。しかし、展覧会で、この機会を逃すと、2026年までに拝観不可能という場合も結構あるので、そこは筋を曲
「円空仏」で知られる山岳修行僧円空は、冒険家・登山家としてもヒーローだった! 山馬鹿岐阜県民ぼっちがその足跡を5年計画で追跡する記録
いよいよ、「円空の冒険」追跡前半のハイライト、北海道の踏査を今夏に控え、調査計画を策定する段階に。現在残る円空像と過去に円空像があったとする文献を基礎に、像の様式なども含めて考察し、蝦夷巡錫ルートを想定。 1 北海道の円空像所在一
先日伺った美濃市慧照院でお知り合いになった円空学会のMさんに、同会員のYさんをご紹介いただいた。Yさんは、20歳で仏師に弟子入りされて以来、永年彫技を磨かれ、円空彫刻の研究会も主宰されておられる。彫師の立場から円空仏の鑑定を依頼されることも
2022年9月、2023年3月の青森・北海道・滋賀の踏査の結果、円空の陸奥〜蝦夷への旅の目的は、松前藩の要請によるもので、その旅を近江商人が支えたこと、そして往復のルートもおおよそ浮かび上がってきたので、以下に拠りどころとなる文献名をあげ私
東北・北海道の円空の足取りを文献調査していて、「青森県立郷土館研究紀要」第46号(2021年3月)に『恐山史料の再発見』(佐藤良宜・小山隆秀)という論文を見つけた。同論文は、円空が訪れた当時の恐山がどのようだったか知る上で参考になり、また、
円空は、東北・北海道の旅で、現在分かっている限り10体の十一面観音立像を残している(弘前藩3体、盛岡藩2体、松前藩1体、久保田藩4体)。それらの像の様式には、共通点と相違点があり、そのうち試行錯誤の跡がみられる相違点は、最後に一定の姿に落ち
円空が、弘前を経由して蝦夷に渡った寛文5〜6(1665〜1666)年は、全国的に宗門改めが行われ、行動の制約が大きかった時期。そのような時、円空のように身元の定かでない僧(注)が、弘前城下を追われるというアクシデントも経ながら、旅を続けるこ
調査行4日目最終日の7日(火)は、青森空港発14:50まで、津軽半島側の調査を計画。朝の散歩に、青森港まで。下北半島側から日が昇る。津軽半島の入口にあるのが青森市油川。羽州街道の終点であり、松前街道の起点となる古い港町。円空が弘前城下から青
調査行3日目の6日(月)は、�盛岡藩領下北半島の佐井または大間から松前に向かうルート(佐井村長福寺の円空作十一面観音の様式から推定されるルート)に関する調査。昨年9月に伺った佐井村長福寺を再訪し、前回お会いできなかったご住職に、いろいろお話
今回の調査行の目的その2は、円空の蝦夷渡航ルート推定のため、地理的イメージを掴み、当時の交通事情に関する文献を集めること。円空の蝦夷渡航について、考えられるルートは次の3つ。➀弘前藩領青森港から松前に向かうルート(『弘前藩庁日
津軽藩の公式日記である『津軽藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の記述、次のとおり、円空が登場する。「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」弘前城下の長町にいた円
2月4日(土)、ご厚意で拝ませていただいた美濃市前野慧照院の地蔵菩薩はじめ三体の円空仏。その画像を、円空学会のK先生にお送りしたところ、➀左側の観音座像は新発見、➁地蔵菩薩像は、背面赤外線を見ると、今まで存在が確
2021年10月15日、日本山岳会京都・滋賀支部で「野生の山へー北海道の山・奥美濃の山」と題する講演会でご一緒させていただいたイグルスキー米山さんとは、ありがたいことに、その後もお付き合いさせていただいている。そのイグルスキー氏から、「美濃
寛文6(1666)年1月26日、円空は弘前城下を追われた後蝦夷に渡り、同年6月、松前藩の家老蠣崎蔵人のために観音菩薩像を造っている(背銘「願主 蠣崎蔵人 武田氏源広林 敬白 寛文六丙午天六月吉日」)。いよいよ『円空の冒険』追跡の舞台は、津軽
「『円空の冒険』追跡」2年目は、いよいよ陸奥から蝦夷へと円空の足取りを追いかけていく予定。そのためには、円空の行脚したルートを、残された手掛かりから想定してみる必要がある。そのうち、岐阜大学野村幸弘教授の論文『円空の彫刻芸術(3):東北・北
山馬鹿に加え、最近は円空馬鹿にもなりつつある、岐阜県民ぼっちです。2023年、本年も「『円空の冒険』追跡ノート」お付き合いいただきますよう、よろしくお願いします。 それではさっそく追跡開始! といきたいところ、あいにく年末から新型
円空(寛永9(1632)年〜 元禄8(1695)年)は、荒々しい彫りあとをみせる「円空仏」で知られる、江戸前期の山岳修行僧。実はこの円空、江戸時代には、ベストセラー伴蒿蹊著『近世畸人伝』(下図)や、百科事典寺島良安編『和漢三才図絵
5 円空は陸奥国(弘前藩または盛岡藩)からどのように蝦夷に向かったのか 円空の蝦夷への渡航ルートについて、現存する円空仏の様式を分析することにより、➀下北半島先端部の佐井あるいは大間から蝦夷に渡り、津軽半島の三厩あたりに戻った
4 円空は、なぜ津軽城下を追われたのか 『弘前藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」という短い記述だけを読むと気にならない
3 円空は、陸奥国(弘前藩・盛岡藩領内)でどのような行動をとっていたと想定されるのか 円空の足取りを確認できる手がかりは次の⑴⑵のとおり、わずかである。 ⑴弘前藩領および盛岡藩領に残る円空仏のうち、様式か
2 円空は、なぜ陸奥国(弘前藩・盛岡藩)〜蝦夷を訪れたのか 円空が青森県:当時の陸奥国(弘前藩・盛岡藩)や蝦夷(和人地である松前藩およびアイヌの地である蝦夷地)を訪れた理由は何だったのだろうか? 円空が弘前城下を追われていることや、盛岡藩領
<はじめに>『弘前藩庁日記』は、寛文元(1661)年から慶応4(1868)年に至る弘前藩の膨大な公式記録。日記は、津軽信政(1646〜1710)が四代藩主として初めて国入りした日に始まる。日記は、「御日記方」という役人が編集・清書し、法令の
北海道の洞爺湖観音島観音堂にあった円空作の観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺安置)の背中には次の銘文が彫られている。「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」この銘文によって、円空は、寛文6(16
11月23日(祝)は、津市の三重県総合博物館に『三重の円空』展の後期展示を観に。今回の展覧会の目玉は、➀近年発見の極初期像を含む三重県の円空仏の大半が展示されること。そして、➁円空の最大の絵画作品である志摩市の片
北名古屋市(旧西春日井郡師勝町)にある天台宗の医王山高田寺は、薬師如来を本尊とする尾張地方を代表する古寺のひとつ。寺伝では、720年(養老2年)行基によって開かれ、大同年間(806年 - 810年)最澄が来山して寺号を高田寺としたという。以
天下の名峰富士山は、静岡県(駿河国)と山梨県(甲斐国)にまたがる。1790(寛政2)年刊の『近世畸人伝』には、「僧円空は、美濃国竹が鼻といふ所の人也。稚きより出家し、某の寺にありしが、廿三にて遁れ出、富士山に籠り、又加賀白山にこもる。」とあ
先行の記事「『弘前藩庁日記』に円空の足取りを追う(2)」のとおり、「➁円空は、どのようなルートで弘前藩領に入ったのか」調査・検討した結果、「寛文5(1665)年の海運事情からすると、円空は、修行の地伊吹山にほど近い敦賀から弘前
三重県総合博物館では、「三重の円空」展横の小展示室で「三重の歴史公文書 神仏分離令」展も開催していた。まったく関係のないように見えて、実はこの二つの展示会、両方合わせてみると実に興味深かったので、ご紹介。 三重県三重郡菰野町明福寺
10月26日(日)は、津市の三重総合博物館に「三重の円空」展(10月8日〜12月4日)を観に行ってきました。現在確認されている円空仏は、愛知県に3,200体・岐阜県に1,700体近く集中しているのに対し、三重県は30体あまりと少ない。したが
<『津軽藩庁日記』にみる寛文5年の弘前藩と円空(つづき)>�円空は、陸奥国(弘前藩・盛岡藩領内)でどのような行動をとっていたと想定されるのか行動を想定する手がかりは次のとおり。⑴弘前藩領および盛岡藩領に残る円空仏のうち、その様式
<『津軽藩庁日記』にみる寛文5年の弘前藩と円空(つづき)>➁円空は、どのようなルートで弘前藩領に入国したのか寛文5年の新年早々から弘前藩をあげて行われた吉利支丹穿鑿も一段落した4月から5月にかけて、敦賀廻り御船に上乗り(乗船)
<『津軽藩庁日記』について>『弘前藩庁日記』は、寛文元(1661)年から慶応4(1868)年に至る弘前藩(津軽藩)の公式記録。弘前城中の記録である「国日記」3,308冊と江戸屋敷の記録である「江戸日記」1,226冊からなる。江戸時代前期から
青森での円空の行動を知る手掛かりを探すには、町や村レベルの細かさで、当時の歴史を調べる必要がある。幸い日本は1999年から2010年にかけて実施された平成の市町村合併(平成の大合併)以前、町や村がまだ元気な頃、郷土史編纂ブームがあり、ほぼ当
日没直前に青森市に何とかたどり着き、一日の最後に合浦(がっぽ)公園に立ち寄る。青森市民が短い夏、海水浴を楽しむ海浜公園だという。ここも円空ゆかりの場所。 円空が、奥羽〜蝦夷の旅で残した和歌は次の3首で、そのうち、かつ浦が合浦のこと
今回の青森踏査の大事な目的のひとつに、青森市と下北半島の佐井村を結ぶ連絡船「シィライン」に乗ること。円空が佐井に行ったとすると、船の可能性が高いのではと思われる。しかし、シィラインは採算の問題などから2022年度末で廃止されることが決まって
むつ市大湊の常楽寺から、恐山への県道は、かつての信仰の道に重なる。一本杉の根元に、赤い前掛けの石仏がたたずむ。「恐山」といいながら、このあたりから火口湖の宇曽利湖畔まで、ずっと地の底に向かうように下り道が続くのが、独特なところ。宇曽利湖の太
24日(土)は、台風15号の余波で青森の天気はぐずつき気味。本日は弘前のホテルを出発、下北半島のむつ市の大湊常楽寺と恐山菩提寺を訪問、青森市まで戻り、フェリーで佐井に向かう計画。青森県は、弘前市や青森市のある西半分は旧弘前藩領、下北半島や八
23日、弘前市の➀普門院、➁西福寺、�長町を踏査、弘前市立図書館で文献調査後、午後は10�ほど西の田舎館村に移動。ここにも円空の松前に渡る前と想定される、胸肩神社弁天堂の十一面観音像がおられる。田舎館村は明治22
9月22日(木)仕事が引けてすぐ新幹線に飛び乗り、円空の足跡を追って青森へ遠征。今回は、『弘前藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の記載「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷
美濃国生まれの円空が、寛文6(1666)年突如として奥羽国弘前藩城下に姿を現し、同年蝦夷地に渡り、多くの仏像を残す。そこに、どのような理由・どのような経緯があったのかは、彼が日記などを残していないため、謎に包まれている。まず、最初期の像が確
伴蒿蹊著の伝記集『近世畸人伝』に、円空は「富士山に籠り、又加賀白山にこもる。」と記される。円空が生きた時代の富士山の信仰事情、登山事情について「富士山興法寺訪問記」で調べたので、次は白山を。 白山は、都に最も近い高山として古くから
江戸後期の伴蒿蹊著の伝記集『近世畸人伝』に、円空は「富士山に籠り、又加賀白山にこもる。」と記される。白山は、美濃禅定道の起点白山中宮長瀧寺の別当寺阿名院に十一面観音像を、石徹白に観音小像を残しているので登っているはず。富士山周辺で円空仏は確
伊吹山下山後、姉川上流部へ向かい、円空ゆかりの太平寺集落のあった場所を遠望。太平寺集落(坂田郡伊吹町大字太平寺)は、標高450mと近江では特異な高地の集落で、太平寺を中心に山岳修験の拠点となっていた。「38豪雪」と呼ばれる昭和38(1963
<伊吹山「平等岩」調査にあたっての事前知識>北海道の洞爺湖観音島観音堂にあった円空作の観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺安置)の背中には次の銘文が彫られている。「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花
円空極初期像の中で、陸奥〜蝦夷への旅の直前に造られたと思われるのが、関市天徳町の曹洞宗天徳寺の釈迦如来像。江戸中期の曹洞宗の僧伝『日本洞上聨灯禄』によると、同寺は、在中宗宥開山(生没年不詳)、近江守護佐々木氏頼(1326〜1370年)開基と
臨済宗妙心寺派の中山寺に円空仏が伝わるのに疑問を感じたことをきっかけに、その所在地をきちんと把握・分析する必要を痛感。それは、「円空の冒険」を追跡するうえで、必須の作業となるはず。 まずは手始めに、『岐阜県の円空仏』(昭和63年
伊勢国に残る三体の円空極初期像探訪のラストは、文殊菩薩坐像の伝わる伊勢市の中山寺。同寺は、伊勢神宮の外宮と内宮の中間、やや外宮寄りの勢田町に位置する臨済宗妙心寺派の禅寺。由緒書きには、「当山は慶安4年(1651)、妙心寺137代住持愚堂東寔
高澤観音日龍峯寺から高沢古道を経て、関市藤谷集落最奥の藤谷白山神社に降り立つ。数少ない円空極初期像のおられる集落であります。※詳細はブログ「WALK あばうと 日本4000山」の「富野北アルプス(高沢山〜大仏〜本城山)周回」へ。(&larr
寛文3〜5(1663〜1665)年の円空極初期像は、長谷川公茂著『円空の生涯』(2015年)によると、「(郡上市)美並町に28体、関市に釈迦像など5体、岐阜市に5体、そして新発見として伊勢市勢田町中山寺から文殊菩薩像と三重県白山町の観音堂か
<真教寺閻魔堂十一面観音の造像時期>阿漕山真教寺は、津市下弁財町津興にある天台宗の寺で、寛永年間(注)、第二代津藩主藤堂高次によって開創された。本尊が閻魔王のため、「閻魔堂(えんまどう)」として親しまれている。ここに、像高236�と、数ある
<これまでのおさらい>円空の足どりが最初に明確になるのは、寛文3(1663)年11月6日、岐阜県郡上市美並町根村神明神社の、天照皇大神、阿賀多大権現、八幡大菩薩三体を造顕したこと(同社棟札)。当時円空は32歳。そして、同社をはじめ郡上四十九
「『円空の冒険』追跡」は、円空仏の年代や、和歌などを手掛かりに、5年計画でなるべく円空のたどった場所・時系列で進める予定。そんな時、宙に浮いてしまうのが、元来置かれた場所から切り離され、制作年代も分からなくなった、人為的に収集された円空仏。
『基礎資料 円空の和歌—一六〇〇余首の全て−』(以下「同書」)から洗い出した「地名一覧」。美濃国・飛騨国編に続いて、それ以外の諸国編、いってみます。 3.尾張国(現愛知県)円空仏の現存数(★)でいうと、愛知県は3,168体と最多で
『基礎資料 円空の和歌—一六〇〇余首の全て−』(以下「同書」)から洗い出した「山岳一覧」に続き、「地名一覧」を作成 。まずは、出生地とされる美濃国と、特に多くの和歌を残している飛騨国編から。 1.美濃国(現岐阜県美濃地方
((1)から続く) 3 円空が登っていた可能性のある山〇双六岳(2,860m) 穂高岳、笠ヶ岳(2898m)、焼岳(2,455m)双六岳は、長野県大町市と岐阜県高山市上宝町にまたがる飛騨山脈の主稜線に位置する標高2,8
「円空の冒険」を追跡する手掛かりを得るため、まずは、その和歌類が網羅された『基礎資料 円空の和歌—一六〇〇余首の全て−』(岐阜県教育文化財団歴史資料館編)から、詠まれた山名と地名を抽出。事前勉強(4):円空の和歌にみる山名・地名(データ編�
しばらく前まで、円空初期の足跡については、寛文3〜5年岐阜県郡上市美並町で西神頭家のもとで造仏した後、寛文6(1666)年1月26日津軽藩弘前城下を追われ、青森を経て蝦夷松前に渡ったとされていた(津軽藩『藩庁日記』)。梅原猛著『歓喜する円空
「円空の冒険」追跡は、円空の行動した(と思われる)時系列順でたどることで、彼の思想の深まりも追体験できるのではと考えている。ただしまず、円空の和歌から、その足跡を抽出する必要があり、そのためにはどうしても予備調査が必要になる。特に、丹生川町
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本ブログ「『円空の冒険』追跡ノート」は、2022年から2026年までの5カ年をかけ、円空の足取りを<原則時系列順で>追跡するのが、基本方針。しかし、展覧会で、この機会を逃すと、2026年までに拝観不可能という場合も結構あるので、そこは筋を曲
4月9日、美濃加茂市民ミュージアムで、撮影させていただいたもう一組の円空像は、蜂屋町北薬師堂の薬師三尊像。一体ずつ箱から出していただき、拝観しながら撮影をさせていただいた。まずは、主尊の薬師如来立像。像高84.5�、薬壺を持ち手は裳に隠して
美濃加茂市は、中山道太田宿のあった太田町をはじめ、古井町・山之上村・蜂屋村・加茂野村・伊深村・下米田村、および三和村・和知村の一部が合併してできた市で、その名の由来は美濃国加茂郡にちなむ。木曽川と飛騨川の合流地点に近く、太田宿と今戸宿の間は
4月8日花祭りの午後は、雨が降り出した。多治見普賢寺を後に、犬山市の妙感寺へ伺う時間調整のため、国宝犬山城天主閣を遠望する城下町を歩いてみる。犬山城主だった成瀬家は、徳川家康の命で尾張藩に付属された、家老より格上の「付家老」で、犬山城主とし
像内納入品のある円空像訪問その(3)は、多治見市大原町の普賢寺。象王山普賢寺は、普賢菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院。寛文12(1672)年に全久院13世了然玄超により、瑞光院という古寺の跡に建立されている。前身の瑞光院について、宗派など詳しい
像内納入品のある円空像訪問、その(2)は、関市広見の松見寺。松見寺は、「寺伝によれば足利尊氏の祖母である俗名千代野が開山した寺院である。がその創建年月日は明らかではない。(中略)慶長年間から暫く無住になっていたが、慶安年中(1648〜52)
「円空像内納入品の謎に迫る」考察を、さらに深めるため、未見の像内納入品のある円空像を集中して訪問。その(1)は、4月6日午前、北名古屋市鹿田院田屋敷にある院田薬師堂へ。鹿田は旧師勝町の古い集落で、道路も集落の中に自然発生した狭いうねうねした
「円空の冒険」追跡は、目下、鉈薬師の諸像を造った寛文9(1669)年から、同10年の法隆寺での修行、中観音堂諸像の造顕、大峯山の修行を経て、延宝2(1674)年に志摩の片田三蔵寺および立神薬師堂の『大般若経』を修復し、その扉に添絵を残した時
3月10日(日)の円空追跡は、美濃市の古城山と郡上市和良町の和良岳登山の間を使ってもの。雁曽礼白山神社からは、円空の足跡が色濃い津保川沿いを北上して和良岳をめざす。 途中通りかかったのが、津保川最上流部の集落、鳥屋市。有名な「尼僧
円空が、鉈薬師の諸像を造顕したと考えられる寛文9(1669)年に、雁曽礼(現在の関市富之保雁曽礼)集落の白山神社のご神体の白山三神も造顕している。同社の棟札に「時寛文九年己酉 拾月十八日 奉造立白山妙理大権現佛身躰所」とあり、さらに裏面には
一般財団法人全国山の日協議会は、次のような会であります(以下、谷垣禎一会長の挨拶の引用)。「10年ほど前、『山の日』を作ろうと立ち上がった民間団体の皆さまが、『山の日』制定協議会を構成し、祝日制定への取り組みを開始しました。そこに、超党派『
円空の寛文年間後期に集中的に造顕された裳懸座の像について調べていくうち、尾張藩家老石川(いしこ)正光の存在が浮かび上がってきた。正光は中観音堂の創建にも大きく関わっていたのではと考えられるので、以下にまとめてみます。 1 尾張藩家
円空は、寛文年間後半頃を中心に「裳懸坐」という、あまり一般的ではない台座の坐像を集中的に制作している。大型の像もある一方、個人蔵の小像も多く伝わり、それら小像は、堂舎に祀られることを前提として造像していた円空が、庶民に像を分け与えるようにな
現在、大阪のあべのハルカス美術館で、開館10周年記念『円空—旅して、彫って、祈って—』展が開催中(2月2日〜 4月7日)。「円空仏」ではなく「円空の冒険」を追う身としては、ご神体などで拝観は叶わないにしても、時系列に現地に伺うのを旨として踏
北は盛岡、秋田、仙台からはじまって、南は鹿児島市まで、県庁所在地で城下町だった市は数多い。わが岐阜県の岐阜市もそうなのだけれど、斎藤道三と織田信長によって築かれた稲葉山(金華山)山麓の城下町が母体で、江戸時代、同地は城下町でなかったところが
「大峯」は、修験道の世界においては、大峰山脈の青根ヶ峰(858m)から南をいう(その北は吉野)。その中核となるのは、山上ヶ岳(1,719m)で、役行者が蔵王権現を感得したとされ、山岳修験の世界ではもっとも重要な霊場。さらに、山上ヶ岳の表行場
南知多町には、円空の像が残る寺が、三寺ある。内海港に面した浄土宗西山派臨海山慈光寺(宇賀弁財天像)、同じ内海の真言宗豊山派井際山如意輪寺(薬師如来立像)、そして片名港に近い曹洞宗神光山成願寺(善女竜王象)。慈光寺は、天文8(1539)年、恵
戸隠九頭龍権現の本地仏宇賀弁財天を、円空が中観音堂において造顕していることを知り、弁財天、宇賀弁財天、および宇賀神についてざっくり整理し、円空が宇賀弁財天をどのように残しているかを調べてみた。 〇弁財天について弁財天は、仏教の守護
浄土宗間宮山栖了院(せいりょういん)は、渥美半島の田原市福江町に位置し、寛文後期の円空作如来坐像と不動明王坐像を所蔵しておられる。少々長くなるけれど、この寺と、円空の関わりを整理すれば次のとおり。同寺は、戦国時代の永禄2(1559)年、当地
1月13日の裳懸坐の像訪問、午後は、大垣市上石津町一ノ瀬の天喜寺へ。上石津町は旧養老郡の養老山地と鈴鹿山脈に挟まれた山あいの町で、2006年に大垣市に墨俣町と共に編入されたのだが、同市と9町村との広域合併調整がうまくいかず、飛び地の「上石津
いよいよ、「円空の冒険」追跡前半のハイライト、北海道の踏査を今夏に控え、調査計画を策定する段階に。現在残る円空像と過去に円空像があったとする文献を基礎に、像の様式なども含めて考察し、蝦夷巡錫ルートを想定。 1 北海道の円空像所在一
先日伺った美濃市慧照院でお知り合いになった円空学会のMさんに、同会員のYさんをご紹介いただいた。Yさんは、20歳で仏師に弟子入りされて以来、永年彫技を磨かれ、円空彫刻の研究会も主宰されておられる。彫師の立場から円空仏の鑑定を依頼されることも
2022年9月、2023年3月の青森・北海道・滋賀の踏査の結果、円空の陸奥〜蝦夷への旅の目的は、松前藩の要請によるもので、その旅を近江商人が支えたこと、そして往復のルートもおおよそ浮かび上がってきたので、以下に拠りどころとなる文献名をあげ私
東北・北海道の円空の足取りを文献調査していて、「青森県立郷土館研究紀要」第46号(2021年3月)に『恐山史料の再発見』(佐藤良宜・小山隆秀)という論文を見つけた。同論文は、円空が訪れた当時の恐山がどのようだったか知る上で参考になり、また、
円空は、東北・北海道の旅で、現在分かっている限り10体の十一面観音立像を残している(弘前藩3体、盛岡藩2体、松前藩1体、久保田藩4体)。それらの像の様式には、共通点と相違点があり、そのうち試行錯誤の跡がみられる相違点は、最後に一定の姿に落ち
円空が、弘前を経由して蝦夷に渡った寛文5〜6(1665〜1666)年は、全国的に宗門改めが行われ、行動の制約が大きかった時期。そのような時、円空のように身元の定かでない僧(注)が、弘前城下を追われるというアクシデントも経ながら、旅を続けるこ
調査行4日目最終日の7日(火)は、青森空港発14:50まで、津軽半島側の調査を計画。朝の散歩に、青森港まで。下北半島側から日が昇る。津軽半島の入口にあるのが青森市油川。羽州街道の終点であり、松前街道の起点となる古い港町。円空が弘前城下から青
調査行3日目の6日(月)は、�盛岡藩領下北半島の佐井または大間から松前に向かうルート(佐井村長福寺の円空作十一面観音の様式から推定されるルート)に関する調査。昨年9月に伺った佐井村長福寺を再訪し、前回お会いできなかったご住職に、いろいろお話
今回の調査行の目的その2は、円空の蝦夷渡航ルート推定のため、地理的イメージを掴み、当時の交通事情に関する文献を集めること。円空の蝦夷渡航について、考えられるルートは次の3つ。➀弘前藩領青森港から松前に向かうルート(『弘前藩庁日
津軽藩の公式日記である『津軽藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の記述、次のとおり、円空が登場する。「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」弘前城下の長町にいた円
2月4日(土)、ご厚意で拝ませていただいた美濃市前野慧照院の地蔵菩薩はじめ三体の円空仏。その画像を、円空学会のK先生にお送りしたところ、➀左側の観音座像は新発見、➁地蔵菩薩像は、背面赤外線を見ると、今まで存在が確
2021年10月15日、日本山岳会京都・滋賀支部で「野生の山へー北海道の山・奥美濃の山」と題する講演会でご一緒させていただいたイグルスキー米山さんとは、ありがたいことに、その後もお付き合いさせていただいている。そのイグルスキー氏から、「美濃
寛文6(1666)年1月26日、円空は弘前城下を追われた後蝦夷に渡り、同年6月、松前藩の家老蠣崎蔵人のために観音菩薩像を造っている(背銘「願主 蠣崎蔵人 武田氏源広林 敬白 寛文六丙午天六月吉日」)。いよいよ『円空の冒険』追跡の舞台は、津軽
「『円空の冒険』追跡」2年目は、いよいよ陸奥から蝦夷へと円空の足取りを追いかけていく予定。そのためには、円空の行脚したルートを、残された手掛かりから想定してみる必要がある。そのうち、岐阜大学野村幸弘教授の論文『円空の彫刻芸術(3):東北・北
山馬鹿に加え、最近は円空馬鹿にもなりつつある、岐阜県民ぼっちです。2023年、本年も「『円空の冒険』追跡ノート」お付き合いいただきますよう、よろしくお願いします。 それではさっそく追跡開始! といきたいところ、あいにく年末から新型
円空(寛永9(1632)年〜 元禄8(1695)年)は、荒々しい彫りあとをみせる「円空仏」で知られる、江戸前期の山岳修行僧。実はこの円空、江戸時代には、ベストセラー伴蒿蹊著『近世畸人伝』(下図)や、百科事典寺島良安編『和漢三才図絵
5 円空は陸奥国(弘前藩または盛岡藩)からどのように蝦夷に向かったのか 円空の蝦夷への渡航ルートについて、現存する円空仏の様式を分析することにより、➀下北半島先端部の佐井あるいは大間から蝦夷に渡り、津軽半島の三厩あたりに戻った
4 円空は、なぜ津軽城下を追われたのか 『弘前藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」という短い記述だけを読むと気にならない
3 円空は、陸奥国(弘前藩・盛岡藩領内)でどのような行動をとっていたと想定されるのか 円空の足取りを確認できる手がかりは次の⑴⑵のとおり、わずかである。 ⑴弘前藩領および盛岡藩領に残る円空仏のうち、様式か
2 円空は、なぜ陸奥国(弘前藩・盛岡藩)〜蝦夷を訪れたのか 円空が青森県:当時の陸奥国(弘前藩・盛岡藩)や蝦夷(和人地である松前藩およびアイヌの地である蝦夷地)を訪れた理由は何だったのだろうか? 円空が弘前城下を追われていることや、盛岡藩領