chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
「円空の冒険」追跡ノート https://shiryoushitsu.jugem.jp/

「円空仏」で知られる山岳修行僧円空は、冒険家・登山家としてもヒーローだった! 山馬鹿岐阜県民ぼっちがその足跡を5年計画で追跡する記録

ぼっち
フォロー
住所
大垣市
出身
未設定
ブログ村参加

2015/12/14

  • 北海道の円空像分析から推定する蝦夷巡錫ルート

    いよいよ、「円空の冒険」追跡前半のハイライト、北海道の踏査を今夏に控え、調査計画を策定する段階に。現在残る円空像と過去に円空像があったとする文献を基礎に、像の様式なども含めて考察し、蝦夷巡錫ルートを想定。 1 北海道の円空像所在一

  • Y師匠に伺ったこと

    先日伺った美濃市慧照院でお知り合いになった円空学会のMさんに、同会員のYさんをご紹介いただいた。Yさんは、20歳で仏師に弟子入りされて以来、永年彫技を磨かれ、円空彫刻の研究会も主宰されておられる。彫師の立場から円空仏の鑑定を依頼されることも

  • 現地調査から浮かび上がった円空蝦夷渡航ルート

    2022年9月、2023年3月の青森・北海道・滋賀の踏査の結果、円空の陸奥〜蝦夷への旅の目的は、松前藩の要請によるもので、その旅を近江商人が支えたこと、そして往復のルートもおおよそ浮かび上がってきたので、以下に拠りどころとなる文献名をあげ私

  • 【特報】『再発見の恐山史料』に円空新資料発見!

    東北・北海道の円空の足取りを文献調査していて、「青森県立郷土館研究紀要」第46号(2021年3月)に『恐山史料の再発見』(佐藤良宜・小山隆秀)という論文を見つけた。同論文は、円空が訪れた当時の恐山がどのようだったか知る上で参考になり、また、

  • 東北・北海道の十一面観音立像制作順考察

    円空は、東北・北海道の旅で、現在分かっている限り10体の十一面観音立像を残している(弘前藩3体、盛岡藩2体、松前藩1体、久保田藩4体)。それらの像の様式には、共通点と相違点があり、そのうち試行錯誤の跡がみられる相違点は、最後に一定の姿に落ち

  • 近江商人と円空の関わりを探る

    円空が、弘前を経由して蝦夷に渡った寛文5〜6(1665〜1666)年は、全国的に宗門改めが行われ、行動の制約が大きかった時期。そのような時、円空のように身元の定かでない僧(注)が、弘前城下を追われるというアクシデントも経ながら、旅を続けるこ

  • 冬の津軽・下北・函館調査行(4)ー津軽半島正法院

    調査行4日目最終日の7日(火)は、青森空港発14:50まで、津軽半島側の調査を計画。朝の散歩に、青森港まで。下北半島側から日が昇る。津軽半島の入口にあるのが青森市油川。羽州街道の終点であり、松前街道の起点となる古い港町。円空が弘前城下から青

  • 冬の津軽・下北・函館調査行(3)ー下北佐井・大間

    調査行3日目の6日(月)は、�盛岡藩領下北半島の佐井または大間から松前に向かうルート(佐井村長福寺の円空作十一面観音の様式から推定されるルート)に関する調査。昨年9月に伺った佐井村長福寺を再訪し、前回お会いできなかったご住職に、いろいろお話

  • 冬の津軽・下北・函館調査行(2)ー青森〜函館

    今回の調査行の目的その2は、円空の蝦夷渡航ルート推定のため、地理的イメージを掴み、当時の交通事情に関する文献を集めること。円空の蝦夷渡航について、考えられるルートは次の3つ。➀弘前藩領青森港から松前に向かうルート(『弘前藩庁日

  • 冬の津軽・下北・函館調査行(1)ー弘前

    津軽藩の公式日記である『津軽藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の記述、次のとおり、円空が登場する。「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」弘前城下の長町にいた円

  • 【特報】美濃市前野慧照院 円空仏「新発見」!

    2月4日(土)、ご厚意で拝ませていただいた美濃市前野慧照院の地蔵菩薩はじめ三体の円空仏。その画像を、円空学会のK先生にお送りしたところ、➀左側の観音座像は新発見、➁地蔵菩薩像は、背面赤外線を見ると、今まで存在が確

  • 美濃市前野慧照院訪問記

    2021年10月15日、日本山岳会京都・滋賀支部で「野生の山へー北海道の山・奥美濃の山」と題する講演会でご一緒させていただいたイグルスキー米山さんとは、ありがたいことに、その後もお付き合いさせていただいている。そのイグルスキー氏から、「美濃

  • 円空の冒険蝦夷ルート考察(1):当時の蝦夷事情

    寛文6(1666)年1月26日、円空は弘前城下を追われた後蝦夷に渡り、同年6月、松前藩の家老蠣崎蔵人のために観音菩薩像を造っている(背銘「願主 蠣崎蔵人 武田氏源広林 敬白 寛文六丙午天六月吉日」)。いよいよ『円空の冒険』追跡の舞台は、津軽

  • 蝦夷からの帰還ルート考察ー野村論文をヒントに

    「『円空の冒険』追跡」2年目は、いよいよ陸奥から蝦夷へと円空の足取りを追いかけていく予定。そのためには、円空の行脚したルートを、残された手掛かりから想定してみる必要がある。そのうち、岐阜大学野村幸弘教授の論文『円空の彫刻芸術(3):東北・北

  • 「美濃地方の円空像分布地図」から浮かび上がること

    山馬鹿に加え、最近は円空馬鹿にもなりつつある、岐阜県民ぼっちです。2023年、本年も「『円空の冒険』追跡ノート」お付き合いいただきますよう、よろしくお願いします。 それではさっそく追跡開始! といきたいところ、あいにく年末から新型

  • 「『円空の冒険』追跡ノート」 2022年ダイジェスト

    円空(寛永9(1632)年〜 元禄8(1695)年)は、荒々しい彫りあとをみせる「円空仏」で知られる、江戸前期の山岳修行僧。実はこの円空、江戸時代には、ベストセラー伴蒿蹊著『近世畸人伝』(下図)や、百科事典寺島良安編『和漢三才図絵

  • 『弘前藩庁日記』から(5)ー蝦夷渡航ルートは?

    5 円空は陸奥国(弘前藩または盛岡藩)からどのように蝦夷に向かったのか 円空の蝦夷への渡航ルートについて、現存する円空仏の様式を分析することにより、➀下北半島先端部の佐井あるいは大間から蝦夷に渡り、津軽半島の三厩あたりに戻った

  • 『弘前藩庁日記』から(4)ー弘前城下追放の理由

    4 円空は、なぜ津軽城下を追われたのか 『弘前藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」という短い記述だけを読むと気にならない

  • 『弘前藩庁日記』から(3)ー陸奥国での足取り

    3 円空は、陸奥国(弘前藩・盛岡藩領内)でどのような行動をとっていたと想定されるのか 円空の足取りを確認できる手がかりは次の⑴⑵のとおり、わずかである。 ⑴弘前藩領および盛岡藩領に残る円空仏のうち、様式か

  • 『弘前藩庁日記』から(2)ー陸奥国〜蝦夷訪問目的

    2 円空は、なぜ陸奥国(弘前藩・盛岡藩)〜蝦夷を訪れたのか 円空が青森県:当時の陸奥国(弘前藩・盛岡藩)や蝦夷(和人地である松前藩およびアイヌの地である蝦夷地)を訪れた理由は何だったのだろうか? 円空が弘前城下を追われていることや、盛岡藩領

  • 『弘前藩庁日記』から(1)ー弘前藩入国ルート考察

    <はじめに>『弘前藩庁日記』は、寛文元(1661)年から慶応4(1868)年に至る弘前藩の膨大な公式記録。日記は、津軽信政(1646〜1710)が四代藩主として初めて国入りした日に始まる。日記は、「御日記方」という役人が編集・清書し、法令の

  • 円空初期修行の地ー太平寺集落跡〜不動の滝踏査

    北海道の洞爺湖観音島観音堂にあった円空作の観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺安置)の背中には次の銘文が彫られている。「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」この銘文によって、円空は、寛文6(16

  • 円空の龍ー「三重の円空」展 後期展示から

    11月23日(祝)は、津市の三重県総合博物館に『三重の円空』展の後期展示を観に。今回の展覧会の目玉は、➀近年発見の極初期像を含む三重県の円空仏の大半が展示されること。そして、➁円空の最大の絵画作品である志摩市の片

  • 円空ゆかりの高田寺 50年に一度の御開帳

    北名古屋市(旧西春日井郡師勝町)にある天台宗の医王山高田寺は、薬師如来を本尊とする尾張地方を代表する古寺のひとつ。寺伝では、720年(養老2年)行基によって開かれ、大同年間(806年 - 810年)最澄が来山して寺号を高田寺としたという。以

  • 駿河の円空追跡ー建穂寺観音堂訪問記

    天下の名峰富士山は、静岡県(駿河国)と山梨県(甲斐国)にまたがる。1790(寛政2)年刊の『近世畸人伝』には、「僧円空は、美濃国竹が鼻といふ所の人也。稚きより出家し、某の寺にありしが、廿三にて遁れ出、富士山に籠り、又加賀白山にこもる。」とあ

  • 円空船出の推定地 弘前藩敦賀屋敷跡を訪ねる

    先行の記事「『弘前藩庁日記』に円空の足取りを追う(2)」のとおり、「➁円空は、どのようなルートで弘前藩領に入ったのか」調査・検討した結果、「寛文5(1665)年の海運事情からすると、円空は、修行の地伊吹山にほど近い敦賀から弘前

  • 「三重の歴史公文書 神仏分離令」展

    三重県総合博物館では、「三重の円空」展横の小展示室で「三重の歴史公文書 神仏分離令」展も開催していた。まったく関係のないように見えて、実はこの二つの展示会、両方合わせてみると実に興味深かったので、ご紹介。 三重県三重郡菰野町明福寺

  • 一期一会の「三重の円空」展

    10月26日(日)は、津市の三重総合博物館に「三重の円空」展(10月8日〜12月4日)を観に行ってきました。現在確認されている円空仏は、愛知県に3,200体・岐阜県に1,700体近く集中しているのに対し、三重県は30体あまりと少ない。したが

  • 『弘前藩庁日記』に円空の足取りを追う(3)

    <『津軽藩庁日記』にみる寛文5年の弘前藩と円空(つづき)>�円空は、陸奥国(弘前藩・盛岡藩領内)でどのような行動をとっていたと想定されるのか行動を想定する手がかりは次のとおり。⑴弘前藩領および盛岡藩領に残る円空仏のうち、その様式

  • 『弘前藩庁日記』に円空の足取りを追う(2)

    <『津軽藩庁日記』にみる寛文5年の弘前藩と円空(つづき)>➁円空は、どのようなルートで弘前藩領に入国したのか寛文5年の新年早々から弘前藩をあげて行われた吉利支丹穿鑿も一段落した4月から5月にかけて、敦賀廻り御船に上乗り(乗船)

  • 『弘前藩庁日記』に円空の足取りを追う(1)

    <『津軽藩庁日記』について>『弘前藩庁日記』は、寛文元(1661)年から慶応4(1868)年に至る弘前藩(津軽藩)の公式記録。弘前城中の記録である「国日記」3,308冊と江戸屋敷の記録である「江戸日記」1,226冊からなる。江戸時代前期から

  • 円空を追って青森へ(6)ー図書館巡り

    青森での円空の行動を知る手掛かりを探すには、町や村レベルの細かさで、当時の歴史を調べる必要がある。幸い日本は1999年から2010年にかけて実施された平成の市町村合併(平成の大合併)以前、町や村がまだ元気な頃、郷土史編纂ブームがあり、ほぼ当

  • 円空を追って青森へ(6)ー合浦(がっぽ)

    日没直前に青森市に何とかたどり着き、一日の最後に合浦(がっぽ)公園に立ち寄る。青森市民が短い夏、海水浴を楽しむ海浜公園だという。ここも円空ゆかりの場所。 円空が、奥羽〜蝦夷の旅で残した和歌は次の3首で、そのうち、かつ浦が合浦のこと

  • 円空を追って青森へ(5)ー下北半島佐井村長福寺

    今回の青森踏査の大事な目的のひとつに、青森市と下北半島の佐井村を結ぶ連絡船「シィライン」に乗ること。円空が佐井に行ったとすると、船の可能性が高いのではと思われる。しかし、シィラインは採算の問題などから2022年度末で廃止されることが決まって

  • 円空を追って青森へ(4)ー恐山菩提寺の円空仏2像

    むつ市大湊の常楽寺から、恐山への県道は、かつての信仰の道に重なる。一本杉の根元に、赤い前掛けの石仏がたたずむ。「恐山」といいながら、このあたりから火口湖の宇曽利湖畔まで、ずっと地の底に向かうように下り道が続くのが、独特なところ。宇曽利湖の太

  • 円空を追って青森へ(3)ー大湊・常楽寺

    24日(土)は、台風15号の余波で青森の天気はぐずつき気味。本日は弘前のホテルを出発、下北半島のむつ市の大湊常楽寺と恐山菩提寺を訪問、青森市まで戻り、フェリーで佐井に向かう計画。青森県は、弘前市や青森市のある西半分は旧弘前藩領、下北半島や八

  • 円空を追って青森へ(2)ー田舎館村胸肩神社弁天堂

    23日、弘前市の➀普門院、➁西福寺、�長町を踏査、弘前市立図書館で文献調査後、午後は10�ほど西の田舎館村に移動。ここにも円空の松前に渡る前と想定される、胸肩神社弁天堂の十一面観音像がおられる。田舎館村は明治22

  • 円空を追って青森へ(1)ー弘前城下普門院、西福寺

    9月22日(木)仕事が引けてすぐ新幹線に飛び乗り、円空の足跡を追って青森へ遠征。今回は、『弘前藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の記載「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷

  • 円空が奥羽〜蝦夷に向かった理由は?

    美濃国生まれの円空が、寛文6(1666)年突如として奥羽国弘前藩城下に姿を現し、同年蝦夷地に渡り、多くの仏像を残す。そこに、どのような理由・どのような経緯があったのかは、彼が日記などを残していないため、謎に包まれている。まず、最初期の像が確

  • 円空の時代 白山はどのようだったか

    伴蒿蹊著の伝記集『近世畸人伝』に、円空は「富士山に籠り、又加賀白山にこもる。」と記される。円空が生きた時代の富士山の信仰事情、登山事情について「富士山興法寺訪問記」で調べたので、次は白山を。 白山は、都に最も近い高山として古くから

  • 富士山興法寺訪問記

    江戸後期の伴蒿蹊著の伝記集『近世畸人伝』に、円空は「富士山に籠り、又加賀白山にこもる。」と記される。白山は、美濃禅定道の起点白山中宮長瀧寺の別当寺阿名院に十一面観音像を、石徹白に観音小像を残しているので登っているはず。富士山周辺で円空仏は確

  • 円空と山岳修験拠点太平寺

    伊吹山下山後、姉川上流部へ向かい、円空ゆかりの太平寺集落のあった場所を遠望。太平寺集落(坂田郡伊吹町大字太平寺)は、標高450mと近江では特異な高地の集落で、太平寺を中心に山岳修験の拠点となっていた。「38豪雪」と呼ばれる昭和38(1963

  • 円空初期修行の地 伊吹山「平等岩」踏査

    <伊吹山「平等岩」調査にあたっての事前知識>北海道の洞爺湖観音島観音堂にあった円空作の観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺安置)の背中には次の銘文が彫られている。「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花

  • 関市の極初期像探訪(3)−天徳寺釈迦如来坐像

    円空極初期像の中で、陸奥〜蝦夷への旅の直前に造られたと思われるのが、関市天徳町の曹洞宗天徳寺の釈迦如来像。江戸中期の曹洞宗の僧伝『日本洞上聨灯禄』によると、同寺は、在中宗宥開山(生没年不詳)、近江守護佐々木氏頼(1326〜1370年)開基と

  • 円空仏所在一覧(美濃・飛騨・尾張国)分析

    臨済宗妙心寺派の中山寺に円空仏が伝わるのに疑問を感じたことをきっかけに、その所在地をきちんと把握・分析する必要を痛感。それは、「円空の冒険」を追跡するうえで、必須の作業となるはず。 まずは手始めに、『岐阜県の円空仏』(昭和63年

  • 伊勢国の円空極初期像探訪(3)−中山寺文殊菩薩像

    伊勢国に残る三体の円空極初期像探訪のラストは、文殊菩薩坐像の伝わる伊勢市の中山寺。同寺は、伊勢神宮の外宮と内宮の中間、やや外宮寄りの勢田町に位置する臨済宗妙心寺派の禅寺。由緒書きには、「当山は慶安4年(1651)、妙心寺137代住持愚堂東寔

  • 関市の極初期像探訪(2)−藤谷上組の円空仏群

    高澤観音日龍峯寺から高沢古道を経て、関市藤谷集落最奥の藤谷白山神社に降り立つ。数少ない円空極初期像のおられる集落であります。※詳細はブログ「WALK あばうと 日本4000山」の「富野北アルプス(高沢山〜大仏〜本城山)周回」へ。(&larr

  • 関市の極初期像探訪と両面宿儺ゆかりの日龍峯寺

    寛文3〜5(1663〜1665)年の円空極初期像は、長谷川公茂著『円空の生涯』(2015年)によると、「(郡上市)美並町に28体、関市に釈迦像など5体、岐阜市に5体、そして新発見として伊勢市勢田町中山寺から文殊菩薩像と三重県白山町の観音堂か

  • 伊勢国の円空極初期像探訪(2)−真教寺十一面観音像

    <真教寺閻魔堂十一面観音の造像時期>阿漕山真教寺は、津市下弁財町津興にある天台宗の寺で、寛永年間(注)、第二代津藩主藤堂高次によって開創された。本尊が閻魔王のため、「閻魔堂(えんまどう)」として親しまれている。ここに、像高236�と、数ある

  • 伊勢国の円空極初期像探訪(1)−浜城観音堂大日如来坐像

    <これまでのおさらい>円空の足どりが最初に明確になるのは、寛文3(1663)年11月6日、岐阜県郡上市美並町根村神明神社の、天照皇大神、阿賀多大権現、八幡大菩薩三体を造顕したこと(同社棟札)。当時円空は32歳。そして、同社をはじめ郡上四十九

  • 「民芸館」の円空さん

    「『円空の冒険』追跡」は、円空仏の年代や、和歌などを手掛かりに、5年計画でなるべく円空のたどった場所・時系列で進める予定。そんな時、宙に浮いてしまうのが、元来置かれた場所から切り離され、制作年代も分からなくなった、人為的に収集された円空仏。

  • 円空の歌に詠まれた地名一覧(2)−諸国編

    『基礎資料 円空の和歌—一六〇〇余首の全て−』(以下「同書」)から洗い出した「地名一覧」。美濃国・飛騨国編に続いて、それ以外の諸国編、いってみます。 3.尾張国(現愛知県)円空仏の現存数(★)でいうと、愛知県は3,168体と最多で

  • 円空の歌に詠まれた地名一覧(1)ー美濃国・飛騨国編

    『基礎資料 円空の和歌—一六〇〇余首の全て−』(以下「同書」)から洗い出した「山岳一覧」に続き、「地名一覧」を作成 。まずは、出生地とされる美濃国と、特に多くの和歌を残している飛騨国編から。 1.美濃国(現岐阜県美濃地方

  • 円空の歌に詠まれた山岳一覧(2)

    ((1)から続く) 3 円空が登っていた可能性のある山〇双六岳(2,860m)  穂高岳、笠ヶ岳(2898m)、焼岳(2,455m)双六岳は、長野県大町市と岐阜県高山市上宝町にまたがる飛騨山脈の主稜線に位置する標高2,8

  • 円空の歌に詠まれた山岳一覧(1)

    「円空の冒険」を追跡する手掛かりを得るため、まずは、その和歌類が網羅された『基礎資料 円空の和歌—一六〇〇余首の全て−』(岐阜県教育文化財団歴史資料館編)から、詠まれた山名と地名を抽出。事前勉強(4):円空の和歌にみる山名・地名(データ編�

  • 「十一面観音来迎像」を追って

    しばらく前まで、円空初期の足跡については、寛文3〜5年岐阜県郡上市美並町で西神頭家のもとで造仏した後、寛文6(1666)年1月26日津軽藩弘前城下を追われ、青森を経て蝦夷松前に渡ったとされていた(津軽藩『藩庁日記』)。梅原猛著『歓喜する円空

  • 円空の見た飛騨の山々 予備調査

    「円空の冒険」追跡は、円空の行動した(と思われる)時系列順でたどることで、彼の思想の深まりも追体験できるのではと考えている。ただしまず、円空の和歌から、その足跡を抽出する必要があり、そのためにはどうしても予備調査が必要になる。特に、丹生川町

ブログリーダー」を活用して、ぼっちさんをフォローしませんか?

ハンドル名
ぼっちさん
ブログタイトル
「円空の冒険」追跡ノート
フォロー
「円空の冒険」追跡ノート

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用