さて今週は比較的に取材ネタが多かったのですが、このブログでテーマにして行きたい木造建築技術の原初期を探る探究。きょうは、木造技術の周辺領域についてです。日本は東アジア世界の文化圏に長く位置してきてこの歴史経緯のなかで揺籃された模範的な「仏教国」ですが、他国ではその信仰対象としての仏像は石造や金属製、粘土加工などが主流であるのに対して、圧倒的に「木像」が多いのが特徴とされる。写真は木でつくる仏像制作のプロセスの様子と、この仏像制作の技術者たちの「道具」が下の写真なのですが、まず一見して、そのまま建築技術に転用可能なものばかり。たぶん「造作大工」の道具だと言われても疑問は湧かない。あきらかに相互に緊密に影響し合っていただろうと思えます。日本史では聖徳太子の「四天王寺」建設を嚆矢として、当時の世界宗教の本格的導入が始...【木彫仏の隆盛と木造建築技術進化の相関】
こちらの写真も、地域工務店グループ・アース21の見学会から。住宅にはどんどんと便利な設備が導入されてくる。玄関先に来る訪問者との応答対話、各種設備機器の調整コントロール。太陽光発電での発電状況把握、いちばん身近な照明スイッチなど、電気設備の制御パネルというものは増えていく一方。で、こういう設備は配線の関係などもあるので、一般的には「壁付け」という方法が多いだろうと思います。無意識的に「面倒なものだから、隠しておこう」みたいな心理かと。ところがこちらのモデル住宅では、あえて、家での暮らしやデザイン性の中心の階段・吹き抜けに面してコントロールボックスがニョッキリと自立しているではありませんか。ふつうであれば、視界の抜けが優先されてこういう場所に設置させるという発想は出てこないでしょう。この設置場所は2階階段を上がっ...【家を操作するスマホ?「自立的」タッチパネル】
もう5−6年経っているのですが、国が「長期優良住宅」事業を行ってその「補助金制度」を利用しての北海道での受け皿的な制度設計として「北海道R住宅」というリフォームシステムを作りました。内容については、WEBで検索していただければ、道庁のHPや、当社ReplanのHPなどの詳細説明ページも上位で閲覧可能になっていますので、ご確認ください。一昨日、北海道の地域工務店ネットワーク・アース21例会でこの制度を利用して札幌市内の古い家を改造した店舗を見学しました。札幌市西部の手稲山系からのなだらかな丘陵傾斜地の住宅街に幹線道路に面することもなく、手作りケーキとカフェを提供している。どうやら「わざわざ店」的な口コミだけで頑張っているようでした。敷地は旗竿的ですが駐車場も含めるとけっこうな大きさのようです。駐車場はたぶん全部で...【北海道R住宅利用古家「昭和」風改装】
北海道では「開拓期」移民・移住が、止むにやまれぬ本土社会で行き詰まった生活上の困窮からの苦渋の決断だったことで、その必然的な貧しさゆえ住居がより始原のカタチに戻らざるを得なかった。わたしたちのほんの2−3世代前の先人のスタートはそこからだった。しかしこの地が積雪寒冷という極限地域だったことで、そこから母体の「ニッポン住宅」とはまったく別の発展〜高断熱高気密が始まったという事実がある。開拓から150年近い年月が経過してその間で北海道がその「経験したこと」をふり返って見て、さらに一歩進めて日本社会に還元していくべきことというのも、心がけて行かなければならないのだろうと思います。まぁ基本的には、開拓から日が浅いので地味が他地域以上に豊かでより自然に近しく、日本全体の食料生産拠点として地の利がある。IT化が進行する現代...【開拓の歴史「石山軟石」を現代住宅で生かす】
「仕口」は、構造部材である柱や梁、桁など2つ以上の部材を組み合わせ接合する方法。またはその接合箇所。仕口はかかった力の伝達が的確に行われるようそれぞれに「ほぞ」(突起)と「ほぞ穴」をつくり組み合わされる。ここのところ、ライフワークの住宅取材について過去20年間近い「遺跡復元建築」「古民家(移築や復元)」などの追体験的な取材写真・整理整頓をしてきております。そうすると見学取材撮影時に気付いていたけれど、それほどには立ち止まって考えるのを忘却していたことがあらためて盛り上がる。表題のようなことについて、根源的な疑問が湧いてきています。きのうも書いた次第ですが、秋田の西方設計さんから「吉野ヶ里を見ましたが、貫の復元が出土例がなく問題視されています。」という指摘。興味を強く持たれたコメントをいただきました。氏もこの「仕...【「仕口」接合以前の木造架構を考える】
どうもこのテーマ周辺のことが頭からなかなか離れません(笑)。人文系の歴史とかが好きなタイプの人間が、理系の建築技術について興味を持つと、このあたりの自然の知恵から「建築工学」への過渡期に意識が集中するのか。きっと納得するには、ある種の発想の「飛躍」が必要なのかも(笑)。一昨日も触れていた「与那国の家」では、柱梁の基本構造部分で縄で「縛り上げる」構法が使われていた。たぶん100年前くらいまでは南方での「民家」として初源的な「家の建て方」としてふつうに存在していたのでしょう。それも、人口も少ない離島社会での伝統的家づくりとして専門職が関与しない「家づくり」の「伝統工法」だったのだと思います。写真は、下が先日もご紹介した「三内丸山と吉野ヶ里」の構造部分詳細。で、この間には3000年ほどの時間差があり吉野ヶ里は3世紀推...【縄組み構法から「木組み」への木造技術過渡期】
北海道で住宅の情報を扱う仕事をしていると逆に南方での家の成り立ちとか、発展形態とかに興味を持ちます。いろいろな機縁が重なって、沖縄にはたびたび訪問「取材」してきた。古民家として、中村家住宅などは5-6回見学している。写真の「おきなわ郷土村」の古民家群も数回見学して来ています。もちろん現代住宅も見学していますが、現代住宅は衣食住すべてにおいてグローバル化が進んでいて地域オリジナルの基底的「文化様式」とは変容している部分がある。やはり地域固有のありようは、古民家から浮き彫りになってくる。少なくとも、そこで暮らす人間のライフスタイルとしての重要な要素が見られる。そういうものが知らず知らずに、現代住宅にも「色づく」ものでしょう。この家は年代特定はなかったのですが、与那国島で「かつて建てられていた」住宅の移築という説明。...【与那国の家「分棟」という南方的イエ概念】
きのうは「たたみ」の発展過程の探究を考えましたが、写真は同じ、おきなわ郷土村に建てられている復元古民家・与那国の家。で、本日はほとんど製材していない柱と梁を縄、もしくはつる性植物で結束させている「架構」を見たいと。先日も、三内丸山の縄文復元建築と吉野ヶ里の弥生復元建築の「木組み構法」の違いを見たのですが、あれは年代的にはそれぞれ、5,000年前とか1,800年前とかの想定。それに対してこちらの建物は、基本的には移築復元とされているので、ごく近年まで実際に建っていた住宅ということ。どんなに古く考えても、100-200年程度の過去ということになる。であるのに、木組みの構法として結束がつる性植物。しかも構造の建材・木も未製材の自然木が使われていました。壁や床、屋根の骨格についても、竹を組み上げて造作していた。製材した...【柱梁をつる性植物で結束する架構】
見学していたそのときに、ふと気付いていたことってたくさんある。そういうことはしかし、通常の仕事の流れの中で、あるいはスケジュール的な時間進行に埋もれてしまって、その場だけの気付きに留まってしまうことが多い。取材写真の再整理によって、そうした「点」が「線」になることがある。提示した写真は、上の写真が2006年沖縄の「おきなわ郷土村」で見学した「王国時代の民家」の室内の一隅に置かれていた「敷物」。琉球王国時代(1737~1889年の間)の住宅ということなので約200年前ころ。下の写真は、2005年に見学した吉野ヶ里の「権力層の人間の家」寝室。吉野ヶ里は、だいたい3世紀(200~300年)頃を復元想定しているよう。その両方で見た、畳の祖形とおぼしき敷物であります。どうもその「類似性」に気付かされていた次第なのです。し...【畳の祖形?吉野ヶ里と200年前の沖縄】
ブログ執筆を通して自分の興味分野を再度、探訪しようと考えています。デジタルデータに残っている取材「写真類」は膨大でとりあえずはその写真データの点検、チェックから徐々に進めている。おおまかに時間経過、探訪年順に整理整頓しようとしていますが、少なくとも18年分くらいあるので、まことに膨大なチェックが必要です。たぶん写真店数は数万点あるのでは。お盆休みを利用して集中的に時間を掛けたのですが、なんと、その作業をしていると、パソコンに向かい続けるので背中中央部に痛みが発生してしまった(泣)。どうも猫背っぽく姿勢が固定されてしまうので、その注意信号でしょう。人間は住宅というものをどう作ってきたのか、その興味に即していろいろな取材をしてきていることが再確認できる。いろいろな学究のみなさんの知見を知りながら、具体的な「見える化...【古絵画から建築のオドロキを追体験する】
大好きできわめて貴重な民族資産だと思っているものに「春日権現験記」があります。1309年(延慶2年)に時の左大臣・西園寺公衡の発案で、宮廷絵所の長・高階隆兼によって描かれ、春日大社に奉納された。<最高峰の大和絵で描かれた社寺縁起絵巻の代表作であると同時に、全巻が揃い、制作者が判明していることや、当時の風俗が細かく描かれていることなどから、日本の中世を知る貴重な歴史的資料とみなされている>というものです。その目的は、<藤原氏一門の繁栄を祈願するために春日明神から受けた加護と霊験を綴った絵巻物であり、詞書の執筆は鷹司基忠とその息子・冬平、良信(興福寺学僧)冬基の3兄弟が担当し、編集は興福寺の学僧・覚円(西園寺公衡の弟)>絹本著色、巻子装、全20巻(他に目録1巻)、三の丸尚蔵館所蔵。春日大社なので、藤原氏一族の繁栄ぶ...【鎌倉時代の建築仕事を伝えるメディア】
本日はわたしの「歴史好き」の機縁になっている家系伝承テーマ。本来の住宅ネタはお休み。あしからずお許しください。写真はわたしの家系に伝わっている希少な「書き物」。文化12年乙亥4月という日付が記載されているので、1815年4月というように特定できる。今から204年前。世情は幕末で、活発に外国船が日本に来るようになっている時期で、北前船交易で高田屋嘉兵衛さんが活躍した時代。わたしのご先祖さまは尾道周辺で商家として活動していた。で、わたしはいまは「三木」姓ですが、江戸期までの日本社会は「家」は必ずしも血縁関係がすべてではない。むしろ家の存続のために活発に「養子」とか「縁組み」がされていた。なんと、1742年頃に原氏から「三木氏」に縁組みされているようです。そういった経緯から、著述者である「三木寛蔵」さんが、その血族と...【204〜419年前ご先祖さまからのメッセージ】
表題のようなことが、いま大きなテーマになって来ていると思います。WEBの生成・発展のプロセスはそれこそリアルタイムでわたしのビジネス環境として経験してきたことです。業務にパソコンが導入されて、そのように仕事環境が再構築されていった、そういった「導入期」を経て、その後はWEBという情報流通手段が発達した。そういう環境にいち早く対応したいということで、わたしは、既存の新聞やテレビという情報摂取スタイルからWEBでの情報接触を中心にして、体感的に対応しようと考えた。早々に新聞の購読をやめたり、テレビについてはもっと前からそういう情報接触手段としては時間を大きく減らしてきた。たぶんそういう「情報環境」になってからでも20年近くなっている。こういう環境になってみていちばん気付くのは、少なくとも日々の情報の中で大きな領域で...【WEB時代の「情報とメディア」変化の必然】
写真は2011年、オープンしたての頃に撮影していたJR旭川駅舎の内部。平成29年度の統計では1日乗降客数が10,558人とのこと。ちなみに北海道内のベスト15駅は以下で、旭川は全体の15位。順位駅名乗降客数(人/日)1位札幌19万5304人2位新千歳空港3万2242人3位手稲3万1178人4位新札幌2万8534人5位琴似2万3354人6位桑園2万0590人7位小樽1万8112人8位千歳1万7498人9位白石1万6154人10位北広島1万5154人11位大麻1万4470人12位恵庭1万4460人13位野幌1万3256人14位星置1万2552人15位旭川1万0558人<「国土数値情報(駅別乗降客数データ)」(国土交通省国土政策局・平成29年度)>単純に乗降客数だけが交通路線の重要度を表すものではないけれど、経営とし...【人が映らない駅写真が撮れる「地域材タモ壁」の旭川】
きのうの続篇ブログであります。この写真の「英賀神社」については、数回取り上げてきています。播州のこの「英賀」は、夢前川河口に位置していて地域一帯がわたしの家系の伝承に連なっていると考えています。ときどき出張や旅行で訪れる機会があり、そのたびにこの「拝殿」をたのしく見学させていただいています。いまは、たぶん建築基準法上からの判断で不適と見なされ、建て替え工事が行われ、先日「建前」が行われたと地元の議員さんのブログで紹介されておりました。秋の例大祭でのお披露目を目指して急ピッチで工事進捗しているようです。北海道人というのは、こういった「産土神」というような生活文化をほとんど感じないで育ってきている。神さまというのが、もともとその地を開拓した伝承に基づいている産土信仰、そういった感覚からはまったくほど遠い。神社もそれ...【ニッポン的な公共空間産土神・拝殿建築】
きのうも1日、義母の遺品の整理整頓作業をやっておりました。っていうか、こういう作業は男はほとんど役に立たず、ひたすらカミさんと娘の女子軍団。で、わたしは付き添い&食事作り役に専念しておりました。で、その間、前からやらなければと考えて休み期間中継続している大量の「取材写真」類の大整理を継続しておりました。デジカメやiPhoneのカメラ機能に写真撮影ということが移行してそれからでももう20年近く経っていますが、だいたい年に20〜30箇所以上で自分自身の「強い興味」のままに写真を撮り続けてきています。ありがたいことに、そういう写真類がパソコンというツールで保存され続けているワケですね。写真類を一部は修正などもかけて整理整頓しているのです。そういった記録が可能になってきて、それで気付くことというのがある。そうです、自分...【風洞型建築2題旭川駅と姫路英賀神社拝殿】
ことしの札幌・北海道の夏は比較的に好転に恵まれています。8月の大2週からやや涼しくなってきて、高温はやや落ち着いてきましたが、それでも今年の夏は久しぶりの暑さに恵まれている。ということで畑の作物は順調な生育状況のようです。わが家でもことしは夕張メロンとか楽しんでおります。価格が安くて、おいしいというウレシイ夏なのであります。そんなある日、郊外の長沼町を走っていてふと、畑の中に大きなドームを発見しました。職業柄か、一見してこれぞ「自然派住宅」の究極ではないかと一瞬にして強い感動に包まれてしまっていた・・・。しかしそんなバカなことがあるワケはないだろう、じゃぁなんだあれ?わたしは3歳までは農家を営む家に育っていたとはいえ、そこから先はずっと札幌の街育ち。丸3年程度の「体験」では記憶に刷り込まれるまでは行っていない。...【畑の中に葉っぱのドーム住宅発見!】
昨日はことし亡くなった義母の供養、墓参り。ごく近親だけでしたが、ワイワイと都合6回ほどわたしが「私度僧」役で般若心経を唱え上げておりました。わたしの父母が死んだ,30年前くらいによく唱えているウチに自然と暗唱できるようになったのであります。そういうことなので、小さいときから墓参りで耳にしていた娘などは「人間は大人になったら般若心経は自然と唱えられるようになる」と固く信じていたのだそうです(笑)。誤解させた身の不始末を嘆いている次第(笑)。なんですが、本日のテーマはトウキビであります。面倒なので標準語の「トウモロコシ」ではなく「トウキビ」にします。先般一度、ほっかいどうの味覚として取り上げて、けっこうな(笑)反響をいただきましたが、先日ふと市場で、いろいろな品種のトウキビが売られていたので、「おお、こんなにあるの...【ほっかいどう夏の味覚「トウキビ」4品種味比べ】
石器時代までの狩猟採集生活から、定住が始められたのは農耕の開始時期が措定され、日本列島では縄文時代からとされる。縄文時代は約16,000年前ころからというのがほぼ定説。住居の歴史と考えれば定住以降を基本ととらえるべきでしょう。この長い人類の「定住生活」にとって竪穴住居は基本的な住環境。平安期くらい、つい1000年前までは基本的に竪穴住宅。16,000年前以降のライフスタイルのなかでは、竪穴のなかで暮らしてきたのが一般的だといえる。そのなかでのくらしで囲炉裏は生き延びてきた最重要な設備。囲炉裏は暖房装置であり、同時に煮炊きの基本装置。人類の空間適温環境と食という生活の屋台骨を支えてきた。写真は上から1000年前のオホーツク遺跡、1,800年前の吉野ヶ里、そして一番下は江戸期の福島県いわき市の古民家。吉野ヶ里の方は...【ムダなくエネルギー利用囲炉裏上の「火棚」】
北海道の考古遺跡群はDNA的には縄文の残滓が色濃い。縄文の人々は、アジアに進出した人類の中でもいまから4万年前くらいに古層で枝分かれした人々という説がある。この縄文の人々が日本人のベースを作って、いまでも12%ほどのDNAを日本人に残しているとされる。それに対して大陸から渡来しただろう弥生文化様式の人々は、日本列島への渡来としては、第3波を形成する人々という。だいたい3千年前くらいから列島にきて、弥生的生産様式、コメ生産に特化した社会を形成した人々だったのでしょう。その掉尾を飾るのが、百済国家からの列島への集団渡来なのだと。で、九州・吉野ヶ里では「環濠」で他と明瞭に区切られた支配ー被支配という関係が明瞭な社会として出現している。建築としては、高床式の「敷居の高い」建築が支配も表現していた。ただし、日常生活の住居...【1800年前・吉野ヶ里支配層の始原の「畳」ベッド?】
人間の基本的な感受性に「帰巣本能」があるでしょう。なぜかWikipediaにはこの項目がない。で、アンサイクロペディアによると〜帰巣本能(きそうほんのう)とは、生まれた場所や過去に過ごした場所へと戻ろうとする本能的行動。人間の帰巣本能は雌雄で大きく異なり、基本的には男性の方が強い傾向にある。また年代によっても左右され、十代半ば以降で強まるが六十代以降は弱体化するとされている。ただしこれはあくまで帰巣衝動の弱体化であり、機能自体はほぼ残るという説もある。〜というように書かれている。住宅ということを主要テーマにして生きてきた心理の奥底にこの「帰巣本能」ということが根深くあるのではないかと思っている。で、とくに住宅の外観について考えるとき、いつもこの「帰巣本能」という無意識の「基準」を考えている気がする。やっぱり住宅...【帰りたくなる家。帰巣本能刺激という性能条件】
人類が洞窟住居とか、移動狩猟生活でのキャンプ生活から定住的なライフスタイルを採用し始めたのは、日本列島での縄文期というのが最古層ではと思っています。だいたい16,000年前というように言われているようです。では定住を始めるのにどういう住居に住んでいたかと言えば、それは当然竪穴住居だったのでしょう。地面に穴を掘って、その地域の年平均気温程度の室温確保が可能な地熱利用できる深度まで掘り下げた。その上で自然環境から得られるもっとも身近な素材として木を切って屋根材として、あるいは柱材として利用しようと考えた。そのときに、それらの木を「組み合わせる」技法、いわゆる「木組み」について、相当研究開発したに違いない。木を利用する動機としては、舟を作ることが先行したのでしょうが、その技術はやがて建築に援用されるようになった。船大...【縄文と弥生復元建築の木組みの相違】
北海道内の人跡、遺跡を訪ね歩くと、あんまり都市化されていないので、自然のなかをさまよい歩くといった経験をよくする。写真はきのう紹介した北海道オホーツク海岸側の標津のオホーツク文化遺跡・カリカリウス遺跡にいたる道周辺の様子。この一帯は、古代からの人跡が絶えない地域のようで、たくさんの遺跡が集中する地域です。地元標津町HPには、以下のような記述。〜標津遺跡群は、国指定史跡である伊茶仁カリカリウス遺跡、古道遺跡、三本木遺跡の3つの遺跡と、伊茶仁川沿いに残された国指定級の遺跡群から成っている。標津遺跡群の最大の特徴は、現在の地表面から数千年も昔の竪穴住居跡が窪みとして確認でき、しかもその数が日本最大の規模を誇ることである。現在、同様の遺跡である北見市常呂遺跡群と共に、「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」として世...【幻想的な湿原自然美カリカリウス遺跡への道】
みなさんは「オホーツク文化(人)」って、ご存知でしょうか?たぶん北海道に住んでいて考古学に興味のある人くらいしか、知識を持っているヒトはいないのではないかと思います。日本列島にはさまざまな人々が去来した。最新の核DNA解析を信じれば渡来の波はおおむね3波に分かれる。縄文のひとびとが2万年−4万年前ころに渡来して基層を形成した。きわめて人類古層のアジア展開人種のDNAとされているそうです。かれらが旧石器の様式文化も遺跡に遺しながらこの列島に姿を現し、15.000年前くらいからは縄文文化を形成した。それまでのキャンプ移動・狩猟中心から、定住的な漁撈+自然採集が生業になった。その後、第2波の渡来民は縄文の末期で、『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないかとされる。そして第3波は弥生時代以降...【ヒカリゴケに彩られたオホーツク人遺跡住居】
先日、社内スタッフのお父さんの葬儀に参列させていただいた。わたしよりも8−9歳年上ということですが、イマドキにしてみるとやや若い年齢での死と思えた。その経歴などを聞きながら、自分自身の経験とも共鳴するような事跡が語られていくウチに、ふと、重ね合わせて考える瞬間もあった。生きることをどう使って、役に立つ、なにを残せるのかと考えるようになる。まぁいわば、ライフワークということへの思い。人間というのは現代では、そこそこの教育を受けることができる。教育というのは、どういう「意義」があるかと考えれば近代の資本主義社会の中で、それを発展させるために「人材」として働いて生きていくための基盤を構成するものでしょう。そしてそのなかで、どういう分野を選択するのかは、各個人がそれぞれ自由に選択していくように社会が構成されている。人類...【日本人の住まいとくらしの探究】
江戸期における芝増上寺というのは、一種の国家施設的な存在であって、いまの皇居からも4kmほどの近さに広大な境内地を構えて存続してきている。けれども、この寺院は東京空襲で焼かれて、江戸期の貴重な工芸的建築であった、徳川秀忠霊廟「台徳院殿霊廟」も消失されたということだそうです。しかし、実はこの工芸建築の1/10模型が明治期にイギリス王室にプレゼントされていて、それが近年里帰りして増上寺の「大殿」地下の宝物展示室にある。江戸期の建築というと、日光東照宮が想起されますが、その東照宮に先行して建てられた幕府の威信を賭けた工芸建築だということで、見学して参りました。こちらは、写真撮影などは許諾されていませんので、写真は増上寺「大殿」。先日の東京出張の折、アポの時間合間に見学して来ました。この模型は100年前にロンドンで開か...【芝増上寺の徳川秀忠霊廟1/10模型】
わたしの好きなBS-NHKの番組に「英雄たちの選択」があります。日本史を題材に、歴史家の磯田道史さんがMCを勤め歴史周辺関係のゲストたちと面白く日本民族の深層に迫ってくれる。先週は「万葉集」についての特集でした。万葉集の編纂は、奈良・聖武天皇の頃に開始された。東アジア世界との活発な交流・戦争の時代であった天智天皇(大王)の時代から白村江の敗戦を経験し、その後朝鮮半島から百済の国家的流入があって、やがて中国の王権との平和共存が実現していって、本格的な「国家」が樹立されていった時代なのだと思います。天智の弟である天武がはじめて「天皇」の即位して、中国王朝との外交を展開しそれまでの倭国から「日本」に国号を国際的に認めさせ変更させたとされている。たぶんこの間の戦争から国号変更に至る過程は、日本の根幹形成期。そういう時代...【万葉集編纂日本語の成立・進化】
本日は、住宅ネタ休日。三国志世界の戦争ネタ。悲しいかな戦争は、人類の進化と常に随伴して「発展」してきた。他人を殺すという目的がなによりも権力獲得の最有力手段でありその目的完遂のために、兵器は進化してきた。中国は、人口集積・文化発展において日本にはるかに先行してこの三国時代には、人口760万人程度なのに、その戦争スケールでは、常に十数万という多数が参加して殺し合いを行っている。そういうなかでも「赤壁」はその後、魏・蜀・呉の3国が鼎立する最大の契機になった揚子江を舞台とした大水上戦争としてのクライマックス。この水上戦では、矢いくさが多様に展開したとされる。その「花形」になっていたのが、ほぼ自動化した矢の射出装置「弩弓」。今回の国立博物館展示でも、海上の1/4を独占して写真上のような矢戦の様子が天井一杯に展開していた...【三国志「赤壁」戦争と「弩弓」兵器】
日本文化の深層変化を見る意味で東京上野の国立博物館企画展は東京出張時、時間を見てチェックするのですが、最近の展示では中国にちなんだ、というか、政治的に改善傾向を謳っている日中関係に配慮したそういった企画展が相次いでいますね。中国政府側の「微笑外交」米中貿易戦争の副作用ということがあきらかで、日本側としては付き合っている程度で、あまり実質的とは思えないけれど。顔真卿の書の展示であるとか、訪日中国人が好きそうな展示が目立つ。今回も「三国志」についての展示ということで、日本人来場者以上に中国人訪問者が多い印象。さらに全展示写真撮影許諾。だいたい、国立博物館展示では主要な展示を除いて撮影許諾はありますが、さすがに全展示OKというのは珍しかった。中国ではいわゆる「国宝」的な位置付けになるものは「1級文物」と呼ばれるそうで...【1800年前中国三国志時代「食料丸抱え」住宅】
きのうは「住宅・建築生産性向上促進事業」検討会議に参加。そのなかで「2次インスペクション」という聞き慣れない概念についてそのガイドライン化検討委員というような役割でした。わたしは、北海道で「北海道R住宅」という地域独自の住宅施策の制度設計から立ち上げ、スタートアップ、組織作りなどに関与した経緯があって、その「北海道R住宅」の施策の「先導性」が国レベルでは評価されているそうで、そういった経緯からの要請のようでした。昨日がそのスタートアップということで、関係する委員・参加者のみなさん、名刺交換させていただいた方が26名。その他、旧知の方が6名と言うことでした。事務局は一般社団法人・住宅瑕疵担保責任保険協会、という組織。ほとんど初めて知り合うみなさんとの会議ということで、まずはどんな状況と問題意識であるのか、情報収集...【国と北海道の住宅施策審議「交流」キックオフ】
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