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  • 歴史の回想「厳島の戦いの変遷」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛利氏に挑発、大内氏の旧臣を引き継ぎ拡大路線で戦線をを広げる安芸の厳島に進駐した陶晴賢軍を急襲して全滅させた戦い。天文20年(1551)大内義隆を倒した陶晴賢は、内海交通の要所の厳島を支配下に収めた。元就は当初晴賢に協力したが、1554年陶氏と絶ち、安芸西南部の諸城から陶軍を追い占領した。晴賢は1555年9月厳島に上陸、塔岡に本陣を置き、毛利軍が拠守する同島北部の宮尾城を攻撃した。毛利氏は同月晦日夜、暴風雨に乗じて反撃を決行、元就の本隊が島の北部包浦に上陸、山越えして背後から晴賢の本陣を急襲し、小早川隆景の水軍が鳥居沖で晴賢の水軍を破り、退路を断ったので、晴賢は敗走して山中で自刃し、陶軍は完敗した。歴史の回想「厳島の戦いの変遷」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「明智光秀の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    明智光秀(?~1582)安土桃山時代の武将。美濃氏土岐氏の庶流と伝えらえるが、確かなものではない。「永禄六年諸役人付」足軽衆明智とあるので、足利義輝の代から幕臣と思われる。1565年(永禄8)義輝が殺害されたのち、越前朝倉義景に仕えたらしい。68年足利義昭が義景のもとを去って織田信長に頼った際に、細川藤孝とともに仲介工作をしたと伝えられ、以降光秀は幕臣であるとともに、信長にも仕えることになった。同年義昭・信長の上洛に従い、信長に認められて、公家・寺社領の仕置きなど京都の近辺の政務を1575年(天正3)頃まで担当した。他方、武将としても、1570年(元亀元)信長の朝倉・浅井攻めに参加、翌年近江南部のの一向一揆や延暦寺との戦いに従軍し、信長による延暦寺の焼き討ち後に、その旧領近江国志賀郡を与えらえて坂本城を築城した...歴史の回想「明智光秀の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「高僧名僧伝・以心崇伝」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    以心崇伝(1569年~1633年)江戸初期の臨済宗の僧侶。円照本光国師。京都南禅寺の塔頭金地院に住したので金地院崇伝ともいう。室町幕府四職家の一色氏の出身。室町幕府滅亡後に南禅寺の玄圃霊三に師事、1605年(慶長10)に建長寺住持、ついに同年の内南禅寺住持となる。鹿苑僧録の西笑承兌の推挙で1608年駿府で徳川家康に面謁し、以降外交文書の起草に従事。1610年以降は板倉勝重らとともに諸寺院の取り締まりになど宗教関係の行政にあたった。また家康の指示で内外の古典を収集・調査し、伴天連追放令や禁中並公家諸法度、武家諸法度をきそうした。家康の死後は江戸に移り、1619年(元和5)禅宗寺院の住職の任命を管轄する僧録に任命された。1626年(寛永3)国師号を受ける。翌年紫衣事件では沢庵宗信彭らの厳罰を幕府に進言した。幕政にお...「高僧名僧伝・以心崇伝」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「宝亀の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    宝亀11年(780年)3月、突如として呰麻呂は反乱を引き起こすこととなる。当時、政府による東北地方経営を現地で取り仕切っていたのは陸奥按察使兼鎮守副将軍の紀広純であった。按察使とは複数の令制国を管轄して国司を監察する律令国家の地方行政の最高官である。その紀広純が山道蝦夷の本拠であった胆沢攻略のための前進基地として覚鱉城(かくべつじょう)造営を計画し、工事に着手するため呰麻呂と陸奥介大伴真綱、そして牡鹿郡大領の道嶋大楯を率いて伊治城に入った折、呰麻呂は自ら内応して俘軍を率い、まず道嶋大楯を殺害、次いで紀広純も殺害するに至ったものである。大伴真綱のみ多賀城まで護送したが、これは多賀城の明け渡しを求めてのこととみられる。多賀城には城下の人民が保護を求めて押し寄せたが、真綱は陸奥掾石川浄足とともに逃亡してしまった。この...歴史の回想「宝亀の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「宝亀の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    宝亀11年(780年)3月、突如として呰麻呂は反乱を引き起こすこととなる。当時、政府による東北地方経営を現地で取り仕切っていたのは陸奥按察使兼鎮守副将軍の紀広純であった。按察使とは複数の令制国を管轄して国司を監察する律令国家の地方行政の最高官である。その紀広純が山道蝦夷の本拠であった胆沢攻略のための前進基地として覚鱉城(かくべつじょう)造営を計画し、工事に着手するため呰麻呂と陸奥介大伴真綱、そして牡鹿郡大領の道嶋大楯を率いて伊治城に入った折、呰麻呂は自ら内応して俘軍を率い、まず道嶋大楯を殺害、次いで紀広純も殺害するに至ったものである。大伴真綱のみ多賀城まで護送したが、これは多賀城の明け渡しを求めてのこととみられる。多賀城には城下の人民が保護を求めて押し寄せたが、真綱は陸奥掾石川浄足とともに逃亡してしまった。この...歴史の回想「宝亀の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「雑賀衆と一向一揆」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角和。

    「雑賀衆と一揆の概略」戦国期の地域的な結合体。雑賀荘(しょう)・十ヶ郷・中郷・宮郷・南郷の5郷(郷は組・緘・クサリともいわれた)から構成され、その範囲は和歌山市・海南市の大部分を占める。構成員には神官・浄土宗徒もおり、従来いわれてきたような本願寺の門徒組織とは考えられない。1542年(天文11)に河内に進発する守護畠山稙長の軍勢中にあるのが初見で、以後も畠山氏の軍勢として活動している。1562年(永禄5)に、代々室町幕府奉公衆で御坊市に本拠を置く湯河氏と取り交わした起請文などから、1534年(天文3)以降同氏と一揆を結び、「惣国」と称し、守護畠山氏を推戴していたことがわかる。当地には本願寺門徒も多く、守護代遊佐氏に畠山昭高が殺された1573年(天正1)以後、織田信長方(中郷・宮郷・南郷)と反信長方の本願寺に結ぶ...「雑賀衆と一向一揆」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角和。

  • 「歴史の回想・観応の擾乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「観応の擾乱は、南北朝の内乱の際、1349年(貞和2・正平4)から1352年(文和元年)にかけて起こった室町幕府中枢部の分裂と、それによる惹き起こされた全国的争乱。室町幕府の将軍権力は、主従制的支配権を持つ足利尊氏と統治権支配権を有する弟の足利直義によって分権的に担われていた。しかし内乱の過程において、尊氏の執事高師直が機内近国の悪党的在地武士たちを掌握して勢力を伸長させると、幕府政治の主導権をめぐって、師直派と、鎌倉以来の有力御家人を基盤とする直義派権力間で熾烈な闘争が繰り広げられた。一方、吉野の南朝は、幕府の内訌を見逃さず1347年8月に、各地に南朝軍に蜂起を命令した。南朝軍と幕府軍とは、機内各地で合戦を展開したが、直義派の細川顕氏、山名時氏の軍勢は完敗して京都へと逃げ帰った。意気上がる南朝軍は楠正行を大将...「歴史の回想・観応の擾乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「畠山氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    畠山氏には二系統ある。一つに、畠山氏(桓武平氏)平安末から鎌倉前期の豪族。桓武平氏、秩父重弘の子重能が武蔵国畠山荘(現、埼玉県深谷市)の荘司となったのが始まる。畠山氏(清和源氏)足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家、足利義兼の子義純はは畠山重忠の死後その妻(北条時政の女)結婚し、その子泰国が畠山氏の家名を継いだ。一族は数流に分かれる。①畠山国氏(?~1351)は奥州管領となる、その子国詮は戦国大名二本松氏の祖となる。②畠山直顕は日向守護となったが振るわず、その甥直宗は足利直義の近臣となるが高師直に殺された。③畠山国清は直義方から将軍尊氏方に帰順、関東執事になってのちに没落し、その弟義深が赦されて越前守護となる。その子畠山基国は将軍義満に重用され、越中・能登・河内・紀伊守護を兼ね、応永5年(1398)管領に...歴史の回想「畠山氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「蒲生氏郷の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    蒲生氏郷(1556年~1595年)安土桃山時代の武将。蒲生氏。近江日野城主、伊勢亀山・松ヶ島城主、会津若松城主。近江六角氏家臣日野城主蒲生賢秀の第一子よして生まれる。幼名鶴千代、幼名教秀、賦秀、通称忠三郎。1568年(永禄11)織田信長に降伏した賢秀の人質として美濃国岐阜に差し出される。その後岐阜城にて元服。1569年信長の娘を娶り日野に帰還する。以後信長に従って多くの戦功をあげる一方、1582年(天正10)には城下町日野に対して12か条の掟をだして経済発展を図っている。信長の死後の翌年1583年には羽柴秀吉と結んで滝川一益を攻めて、その戦功をみとられ伊勢亀山城を与えられ、またこの年飛騨守に任じられた。1584年小牧・長久手の戦の功により南伊勢に12万石を与えられて松が城に移る。よく588年には紀州攻めや越中の...歴史の回想「蒲生氏郷の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「蒲生氏郷の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    蒲生氏郷(1556年~1595年)安土桃山時代の武将。蒲生氏。近江日野城主、伊勢亀山・松ヶ島城主、会津若松城主。近江六角氏家臣日野城主蒲生賢秀の第一子よして生まれる。幼名鶴千代、幼名教秀、賦秀、通称忠三郎。1568年(永禄11)織田信長に降伏した賢秀の人質として美濃国岐阜に差し出される。その後岐阜城にて元服。1569年信長の娘を娶り日野に帰還する。以後信長に従って多くの戦功をあげる一方、1582年(天正10)には城下町日野に対して12か条の掟をだして経済発展を図っている。信長の死後の翌年1583年には羽柴秀吉と結んで滝川一益を攻めて、その戦功をみとられ伊勢亀山城を与えられ、またこの年飛騨守に任じられた。1584年小牧・長久手の戦の功により南伊勢に12万石を与えられて松が城に移る。よく588年には紀州攻めや越中の...歴史の回想「蒲生氏郷の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・越後騒動」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    越後国高田藩で、藩士が二派に分かれて争った御家騒動。1665年(寛文5)の大地震後、藩財政窮迫打開のために家老小栗美作は諸施策を進め成果をあげたが、同時に小栗と配下吏僚に権力が集中し譜代藩士大多数が反感を持った。1679年(延宝7)正月、藩主松平光長の異母妹を妻とする小栗の子、大六を藩主とする陰謀が露見したとして騒動が始まる。幕府は美作を引退させ家老たちが合議制をとるべき調停を命じたが、反対派は納得せず誓紙を集めて一層団結した。大老酒井忠清は、藩主の弟氷見大蔵家老荻田主馬ら反対派を処罰し各藩に預けた。反対派は承服せず、多数が浪人した。農民は度々巡検使に小栗に悪性を訴えた。幕府は両派首脳を再度取り調べ、結局将軍綱吉の親裁により、1681年(延宝9)6月小栗美作・大六は切腹、氷見・荻田ら八丈島へ、ほかにも流罪やお預...「歴史の回想・越後騒動」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・板垣征四郎」電子書籍紹介・・グーグル・角川。

    板垣征四郎いたがきせいしろう(1885―1948)陸軍軍人(大将)、陸軍大臣。明治18年1月21日岩手県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。参謀本部員のあと北京(ペキン)公使館付陸軍武官本庄繁(ほんじょうしげる)の補佐官となる。本庄が関東軍司令官になるとその下で高級参謀、奉天(ほうてん)特務機関長に就任し、作戦参謀石原莞爾(いしわらかんじ)とともに1931年(昭和6)満州事変を引き起こし、「満州国」創設後は満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、師団長を歴任した。この間、「満州国」を「五族協和」「王道楽土」にすると主張し、満州拓殖株式会社を設立して、20年間に100万戸、500万人という移民計画を推進し、これを「日本民族の大陸移動」と名づけた。1938年(昭和13)5月、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の...「歴史の回想・板垣征四郎」電子書籍紹介・・グーグル・角川。

  • 歴史の回想「北条氏政の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    北条氏政(1538年~1590年)戦国・安土桃山時代の武将。戦国大名北条氏第四当主。父は北条氏康。母は今川氏親の娘。通称新九郎、左京大夫、隠居後は相模守。北条・武田・今川氏も三国同盟の一環として、1554年(天文23)に、武田晴信の娘と結婚。1559年(永禄2)に家督を継ぐ。翌年徳政令を発して年貢減免を実施するなど、民政の安定に努めた。また、1561年の上杉景虎の侵攻を契機に、関東諸国の平定に取り掛かり、まず、下総国国府台で里見氏を破り、引き続き岩付城の太田氏や上野国由良氏や北条氏など屈服させ、支城体制を整えた。上杉氏との同盟後は、武田氏との抗争となり、三増峠での敗戦などを経験、そのために家臣にたいする軍役改定や郷村に対して農民徴発令を出し、軍事力を強化した。また検地の実施や、段銭徴収の増額など領国経営にも精を...歴史の回想「北条氏政の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・嘉吉の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    室町時代6代将軍「足利義教」が赤松満祐の自邸に招かれて暗殺した事件。義教は鎌倉公方足利持氏や、一色義貫、土岐持頼らの有力守護大名を圧迫する専制政治を続けるとともに山名氏、斯波氏、京極氏らの相続問題にも積極的に干渉したり、比叡山に対して弾圧を加えた。「万人恐怖」と言われた義教のこの政策は、四職家の一つ赤松氏についても例外でなく、領国の播磨・美作2か国没収の噂が流れ、実際に満祐は、機先を制して1441年(嘉吉元年)6月24日、結城合戦祝いと称して義教を自邸に招いて謀殺した。同席した管領は細川持之、斯波義康らは逃走したが、山名煕貴、京極高数、大内持世らがその場で殺された。事件後、赤松追討軍がなかなか派遣されず、満祐は自宅に火を放ち、一族を率いて領国播磨に引き上げた。その後、7月に至って、大手に細川持常、赤松貞村、武田...「歴史の回想・嘉吉の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「八幡太郎の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。。

    平安後期の武将。源義家は河内源氏。父は源頼義、母は平直方の女。石清水八幡宮で元服し八幡太郎と号す。1051年(永承6)に始まった「前九年の役」に父に従って参戦、1062年(康平5)同乱平定の功により出羽守となる。1070年(延久2)に陸奥で藤原基通を、1079年(承暦3)には美濃で源重宗を追討、また京都でも悪僧の防禦・追補にあたる。1083年(永保3)陸奥守に就任、豪族清原氏内紛である「後三年の役」に介入。義家の調停に反抗した清原家衡・武衡を討ち清衡を助けたが、朝廷の停戦命令を無視し、砂金等官物の納入も怠ったため、合戦は私戦とみなされて恩賞もなかった。以降、摂関家に近侍した弟義綱と対立、1091年(寛治5)には義綱との合戦を企て朝廷から処罰される。1098年(聖徳2)白河院の昇段を許され1104年(長治元)延暦...歴史の回想「八幡太郎の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。。

  • 歴史の回想「義民の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「義民とは義を実行した民を意味するが、一般的に百姓一揆の指導者の内、後世英雄物語が作られ、地蔵尊や神社に、あるいは石碑を立てて検証されている人々を指す。義人ともいう。18世紀後半に百姓一揆の増大を受けて全国的に検証活動が行われた。検証活動の目的は過去の一揆で獲得した先例を確認して行くことにあるが、同時にそれを獲得したのが村役人である義民の行為であることを強調し、打毀しに象徴される村落内の対立激化による秩序の解体を、村役人を中心に立て直す役割を果たした。嘉永4年(1851)佐倉惣五郎の物語である「東山桜壮子」が江戸で上演され大ヒットし、惣五郎は義民と呼ばれた。この物語は各地に急速に流布され、各地の一揆指導者も義民と呼ばれるようになり、また物語は惣五郎に同化した。また幕末から明治初年の一揆は、惣五郎ら義民の影響を受...歴史の回想「義民の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「源頼朝の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    源頼朝(1147年建久3年・~1199年)在職。源義朝の三男。母は熱田神宮の大宮司藤原季範の女。1158年(保元3)初めて皇后権少進に任官する。藤原信頼と義朝が結んで、藤原通憲(信西)・平清盛に対決した平治の乱で初陣。乱では当初清盛不在の虚を衝いて信西を討った信頼方が優勢であったが、後白河天皇が熊野参詣から戻った清盛方についたことによって形成は逆転。義朝一党は、再起を期して東国に逃れようとしたが失敗し、途中で義朝とはぐれた頼朝は美濃で平氏方捕らわれ京都に送られた。本来なら斬られるべきところを、伊豆に流罪になったが、これが清盛の義母池禅尼の口添えによるものと伝えらえる。伊豆で流人生活を送る間に、現地の豪族北条時政の女(北条政子)と結婚。1180年(治承4)後白河法皇の皇子以仁王が平氏打倒の令旨が伝えらえた。これを...歴史の回想「源頼朝の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「森氏の一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    森氏は美作国の津山藩主であったが、その祖の源流は清和源氏と言う。その後美濃国の土豪で、戦国時代には土岐氏に仕えたが、その滅亡後は斎藤・織田氏の家臣となった。森長可の代に信濃国海津城主となるが、小牧・長久手の戦に戦死したために、森忠政が家督を継ぎ金山城主となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康から海津城(松代城)を与えられが、関ケ原の戦いでの功により美作一国を与えられ、津山藩18万6000石城主となったが改易となった。理由に4代目長成に後継者がなく、衆利を養子としたが、乱心したため断絶となった。その後、幕府は長継に備中国西江原万石を与えて森家の再興を許し、長直の代に播磨国赤穂城2万石藩主に移され廃藩まで存続した。領地の分与を受けていた森長俊、関長治は、本家断絶後それぞれ播磨国三日月城、備中中国新見藩に移され、廃藩まで存続...歴史の回想「森氏の一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「明王・諸天の功徳」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    仏教界では諸仏を四部に分けられる。釈迦如来や阿弥陀如来は悟りを開いた仏様として最高位にある。次に菩薩尊は如来物に成るために修行中にある仏さんである。一番馴染み深い観音菩薩さんや地蔵菩薩など人間に近く親しみやすい仏さんである。次に、明王さんと諸天善神である。不動明王(ふどうみょうおう)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で、庶民の願いの願掛けに、信仰されている。五大明王の一員である、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王らと共に祀られる。明王は密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動...歴史の回想「明王・諸天の功徳」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「頭山氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「遠山氏」(とうやまし)美濃の中・近世の武家。加藤景廉が源頼朝より勲功賞として美濃遠山荘地頭職を与えられ,その子景朝が荘内岩村に拠って遠山を称したのに始まる。遠山荘はほぼ現在の岐阜県恵那郡全域,および木曾馬籠辺に及ぶ広大な荘園である。景朝を本宗として一族が荘内を分領し,やがて土岐氏と並ぶ美濃の名族となった。室町時代には将軍家奉公衆となる者が輩出した。7流に分かれ,戦国の争乱には織田・武田両勢力に圧せられた。遠山友政は1583年(天正11)森長可に父祖伝来の苗木城を奪われたが,関ヶ原の功賞として1600年(慶長5)苗木城1万500石余を与えられ,以後苗木藩として明治維新に至る。またテレビ、芝居のあの遠山の金さんは実際にこの家系から生まれた。歴史の回想「頭山氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「安国寺恵瓊の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    安国寺恵瓊(?~1600)安土桃山時代の禅僧、大名。恵瓊は法諱、瑶甫と号す。安芸国銀山城主武田重信の遺孤という。1541年(天文10)銀山落城の時、竹若丸(恵瓊の幼名)は逃れて安国寺の不動院に入り出家。1553年安国寺の上寺の縁で東福寺の竺雲恵心を頼り法弟となる。その後、恵瓊は1569年(永禄12)に安芸国安国寺の住持をも兼ね、さらに1579年(天正7)東福寺退耕庵主、1598年(慶長3)には東福寺住持となった。その間、不動院金堂・鐘楼・山門や厳島の大経堂、建仁寺方丈など、時代を代表豪壮絢爛な建造物の新築・修復に尽くした。一方、恵瓊はその師恵心が毛利氏の使僧としていたのを受け継いで、外交僧になって活躍した。1573年将軍足利義昭と織田信長の不和調停のために上洛した際、信長没落刀伊木下藤吉郎の将来を予言したことが...歴史の回想「安国寺恵瓊の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「備中松山城の水攻め」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「備中高松城の戦いの概略」高松城の水攻めは、三木の干殺し、鳥取の飢え殺しと併せて、秀吉三攻めと称さる事も。備中国高松(現在の岡山県岡山市)にあった備中高松城を巡る、主清水宗治と包囲者羽柴秀吉の戦い。水攻めの最中に本能寺の変で織田信長が明智光秀にたれた為、自体は講和によって終結している。備中国は守護大名・細川氏が衰退した後、複数の国人領主によって支配が争われるという、文字通り麻の如く乱れた状態にあった。このうち三村家親は毛利氏に接近して勢力を拡大したが、当時備前を支配していた浦上氏傘下にあった宇喜多直家によって暗殺されたのをきっかけに衰退した。三村氏傘下にあった清水宗治は先んじて毛利氏に帰順し、小早川隆景配下となって中国平定に尽力、信任を得ていた。経過天正10年(1582年)、並び立つ政敵のほとんどを排除した織田...歴史の回想「備中松山城の水攻め」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史のお回想「井伊氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    江戸時代の普代大名。遠江国引佐郡井伊谷(現、静岡引佐町井伊谷)を本貫地とする氏族。藤原冬嗣の末裔とする氏族、藤原共資が平安時代後期に遠江守に任じられ敷知郡村櫛に来往、その子、共保が井伊谷に住み井伊氏を称したとする。「吾妻鏡」などに「井伊介」として記されるのがその子孫とみられるが、鎌倉時代以降、多くの分家を発生。江戸時代の井伊氏につながる一派は、室町期に遠江守護斯波氏の配下にあり勢力をもった井伊直貞・直秀・直幸らで渋川を拠点とした井伊氏が滅亡したのちに台頭。歴史上、井伊谷の井伊氏の活動が具体的になるのには、戦国時代に今川氏に仕えた直平以降で、直宗、直盛は今川氏に従軍し戦死。直盛の養子直親は家臣小野氏の讒言により今川氏により謀殺され、家督を女子の治郎法師直虎が継ぎ、直親の幼子虎松(直政)は親類の新野親矩らによりかく...歴史のお回想「井伊氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「藤原頼長の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    藤原頼長(1120年~1156年)平安後期の公卿。関白藤原盛実の次男。母は忠実の養子となる。異母兄忠通の養子となる。1130年(大字)元服にあたって正五位下に叙せられ、翌年従三位、以降中納言、権大納言と進み、1136年(保延2)にわずか17歳で内大臣となる。1147年(久安3)左大臣有仁の死後、一上の宣旨を賜わり、蔵人所別当となるや、外記日記・殿上日記の筆録を督励し、上月月奏官人の出勤日数を天皇に上奏する、励行・官政などの朝議の復興に尽力を尽くした。1149年に左大臣となり、翌年天皇の外戚の地位を目指して近衛天皇に養女の多子を入内させた。頼長の博覧と公事に精励する姿に、摂関家の将来を期待した父忠実は、多子立后を終えると、兄忠通に頼長へ摂政を譲るように説得した。しかし忠通はこれを拒否したため、忠実は忠通を義絶氏長...歴史の回想「藤原頼長の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・乃木希典」電子書籍紹介・角川・グーグル・

    乃木希典(1849~1912)明治期の代表的陸軍軍人。長府藩(長州藩の支藩)藩士乃木希次の3男。幼名は無人。文を志し吉田松陰の叔父玉木文之進の塾をめざしたが,文武両道を諭され入門を許された。明治4(1871)年陸軍少佐。西南戦争では歩兵第14連隊長心得を務め,田原坂の激戦で連隊旗を失う。これが終生乃木を苦しめたといわれている。母寿子は妻帯を勧め,11年8月27日薩摩(鹿児島)藩士湯地定之の4女お七(結婚後,静子)と結婚させたが,鬱屈の情を酒にまぎらす日々は続いた。しかし,19年川上操六とドイツに留学し戦術を研究したことが転機となった。帰国後,軍紀確立などに関する意見書を提出する一方,自らは常に軍服で身を律した。日清戦争では第1旅団長として旅順を占領した。28年中将に進み,翌年台湾総督に就任。日露戦争では大将,第...「歴史の回想・乃木希典」電子書籍紹介・角川・グーグル・

  • 歴史の回想「徳川四天王本多忠勝」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    本多忠勝は天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前に本多忠高の長子として生まれた。幼名を鍋之助、通称は平八郎である。本多氏は古くから「松平(後の徳川)氏」に仕えた譜代家臣の家柄である。忠勝は自分の代になって岡崎城東の洞(ほら)へ移住した。なお、本多家には5つの系譜、洞、伊那、大平、土井、小川があり「本多正信」は小川本多家である。忠勝の初陣は永禄3年(1560年)13歳のことで、家康が駿河遠江の大守「今川義元」の先鋒となって行った「尾張大高城の兵糧入れ」に加わった。15歳の時の戦では叔父の忠眞が、自分が倒した相手の首をとるよう命じたものの忠勝は「人の力を借りた功などいらぬ」と断った逸話が残っている。勇猛な忠勝らしい少年時代であったと言える。三河の国は「一向一揆」が多く発生し、家康は大変苦労したが、忠勝は常にこれ...歴史の回想「徳川四天王本多忠勝」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「有岡城の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

    「有岡城の戦いの概略」有岡城の戦いは、織田信長に重用されていたはずの荒木村重が、突如信長を裏切ったことによって起こった戦いである。あの信長に謀反を起こすことは、無事でいられるとは思われない。信長に背いた荒木村重は、その後どんな運命をたどることになったのか、意外な人生が待ち受けていたようである。天正元年(1573)3月(織田信長が足利義昭との対立を深めていた頃)より、信長に仕え始めた荒木村重。天正2年(1574)11月には、摂津の国の支配権を与えられるまでになっていた。他家(池田氏)の家臣出身でありながら、村重はかなり優遇されていたようである。有岡城の戦いの経過と結果同年11月9日、第二次木津川口の戦い勝利の報せを聞いた信長は、京都を出陣した。翌日10日には、織田信忠・滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らも、摂津に入り...歴史の回想「有岡城の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

  • 歴史の回想「筒井城の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

    筒井城は近鉄橿原線筒井駅より東北一帯にあり、おおよそ南北400m、東西500mあり、平地部に築かれた中世の城としては比較的規模が大きく、筒井の集落を囲む形で筒井城があった。現在の筒井城跡は、宅地、畑地、水田となっているが、内曲輪と外曲輪を巡った堀跡が点在している。その堀に囲まれた城内には筒井氏とその家臣団の屋敷があった。また、筒井には市場があったことが確認されており、筒井城の「市場も外堀内部にも設けられていた可能性が高いと思われる」と指摘されている。また筒井集落は、様々な場所で道が折れ曲がり直進できない構造になっている。これらの道や地割は筒井城が築かれた当時の様子をうかがい知る事が出来る。筒井城をはしる吉野街道(築城当時は更に鍵の手状に折れていたと考えられている)筒井城が築かれた時期については不明であるが、文献...歴史の回想「筒井城の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

  • 「歴史の回想・東条英機」電子書籍紹介・角川・グーグル・

    東条英機・とうじょうひでき(1884―1948)陸軍軍人、政治家。明治17年12月30日、陸軍中将東条英教(ひでのり)の子として東京に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを務め、1929年(昭和4)永田鉄山らと一夕会(いっせきかい)を結成して革新派の中堅将校として頭角を現した。満蒙(まんもう)の支配を主張し、「満州国」創設後の1935年、関東憲兵司令官となり、1937年には関東軍参謀長となった。盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起こると、国民政府との妥協に反対し、中央の統制派と結んで日中戦争の推進者となった。1938年板垣征四郎陸相のもとで陸軍次官となり、1940年7月第二次近衛文麿内閣の陸相に就任した。松岡洋右(まつおかようすけ)外相と組んで日独伊三国同盟の締結に努め...「歴史の回想・東条英機」電子書籍紹介・角川・グーグル・

  • 歴史の回想「富士川の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

    「富士川の戦いの概略」1180年(治承4)10月、駿河国富士川岸で行われた源平合戦の一つ。同年8月の石橋山の敗戦から再起し、相模国鎌倉を本拠として南関東に軍事政権を打ち立てた源頼朝を追討するため、9月末に京都を発進した平維盛を総大将とする平氏軍は10月18日富士川西岸に漂着した。これに対して頼朝軍は鎌倉を出陣20日富士川近くの賀島に至った。また富士川東岸には甲斐源氏軍が布陣しており、平氏は軍はまずこの軍勢と対戦することになった。所が、もともと兵力は・兵糧に不安有戦意は低かった。平氏軍は「山愾記」等によれば20日夜半富士川河口の浮島ケ原に群棲していた水鳥数万羽が飛び立ち羽音を源氏軍の襲来と誤認し一斉に退却、戦わずして敗北した。頼朝は平氏軍を追って西国へ攻め上がりうとしたが、諸将に引き留められて、東国の地固めに鎌倉...歴史の回想「富士川の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

  • 「真田幸村の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    真田幸村(1567年~1615年)安土時代から江戸初期の武将。真田昌幸の次男。幼名御弁丸、後に源次郎。左衛門佐を名乗る。名は信繁、後年幸村の名で知られる。1587年(天正15年)父昌行が豊臣秀吉に属するに及んで幸村も出仕し、秀吉の配下の大谷吉継の娘を妻として豊臣家と縁故を深めた。1600年(慶長5年)上杉討伐のために会津に向かった徳川軍に父や兄に従ったが、途中石田三成の挙兵を知って父とともに引き返し、上田城に籠って反徳川の旗を挙げ、徳川秀忠の率いる大軍を引き付けて関ヶ原の戦いに参加させず、三成方(西軍)を助けた。西軍の敗北により命が危うくなったが、妻が本多忠勝の娘だったために東軍に味方した兄信之の戦功に免じて死は逃れ、父とともに高野山麓の九度山村に蟄居させられた。1614年大坂城で挙兵した豊臣秀頼の招きに応じて...「真田幸村の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「毛利元就の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    毛利元就(1497~1571)中国地方の戦国大名。毛利弘元の次男。兄沖本は十嫡子幸松丸が相次いで早世したために、重臣の合意により1523年(大永3)27歳で家督を継いだ。当時の毛利は出雲尼子氏と周防大内氏の一国人領主に過ぎず、家臣団も庶家や中小領主の一揆結合的性格を強く残し、毛利氏は秩序紊乱者への制裁を委任されてた立場だった。元就は尼子方の高橋氏を滅ぼし遺領を獲得、熊谷・宍戸氏ら有力国衆と同盟・婚姻関係を結び地位を強化、1541年(天文6)3万の大軍による尼子氏に吉田郡山城を包囲を大内氏も援軍も得て撃退したが、翌年の大内氏出雲遠征の失敗によりアマゴが勢力を盛り返した。元就は、妻妙玖の死後1546年に隠居し家督を嫡子隆元に譲るが、これを機に政治的手腕を発揮する。すでに1544年に三男隆景を竹原小早川氏の養子に入れ...歴史の回想「毛利元就の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・立憲政友会」電子書籍紹介・角川・グーグル・

    「立憲政友会」第二次世界大戦前の代表的な政党。1900年(明治33)9月15日伊藤博文(初代総裁)の下に憲政党や伊藤系官僚が無条件参加する形で結成された。藩閥との激しい対立から妥協、提携へと変化してきた政党の歴史に合同という新段階を画した。国家の帝国主義的発展を挙国一致によって図ろうとする国家政党の基本性格をもち、総裁専制を党運営の特徴とする。同年10月政友会を基礎とする第四次伊藤内閣が発足したが、財政方針をめぐる閣内対立で翌年倒れ、さらに第一次桂太郎内閣下の増税問題で党内は動揺した。その根底には国家利害を優先する伊藤ら官僚派と民衆利害を重視する党人派の対立があった。03年伊藤は総裁を辞任。動揺は後継西園寺公望総裁時代に収拾された。西園寺や実力者原敬(はらたかし)は藩閥勢力との巧妙な妥協によって政権を得、第一、...「歴史の回想・立憲政友会」電子書籍紹介・角川・グーグル・

  • 「源義朝の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「源義朝」(1123年~1160年)平安後期の武将。源為義の嫡男。「保元物語」に父為義の言として「義朝こそ坂東育ちの者にて、武勇のみちにたけて候へ」とある。1145年(久安元)官宣旨案「天養記」のなかに「上総曹司を伝える得る」とみえ、従者1,000騎を率いて相模国大庭御厨に乱入、また同じ頃、下総国相馬御厨を伊勢神宮領に寄進しようとした千葉氏に圧力をかけており、幼少より関東育ち、鎌倉の館を占拠して東国で武士を統合していたと考えられる。こうして、東国で武士を統合した義朝は1153年(任平3)東国経営を長子義平に任せて上洛し、父為義を超える従五位下・下野守に任官する。1156年(保元元)の保元の乱では、東国武士を結集し、平清盛とともに後白河天皇方について、父為義の属する崇徳上皇方について、その功で右馬権頭となり、昇段...「源義朝の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「保科氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    中世から近世の武家。平安末期に信濃国高井郡保科に発祥。養和元年(1181)横田河原の合戦で、保科権八が越後平氏方に、保科太郎が源義仲方に属した。その後、御家人になり、承久の乱に活躍した。中先代の乱では北条時行方の大将として船山守護所を攻撃した。室町時代には高井郡河田に保科長光・長経・信光、伊那郡藤沢に高遠諏訪継宗の代官として保科家親・貞親らが活躍。高遠諏訪氏が武田信玄に滅ぼされると、武田家臣だった保科正俊・正直らが台頭、徳川家康の下で大名化し、下総多古に移った。正光の代に高遠藩主となり将軍秀忠の子幸松を養育した。正之は出羽20万石から会津藩主となり、正直の三男正貞は上総飯野藩主になった。京都守護職就任し保科氏から「松平容〇」の改姓をするが、自身は保科氏として振る舞い、幕政の要職を求められる大名に変化していった。...「保科氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「北畠氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    北畠氏一族の群像・中世の武家。村上源氏。中院雅家(1215~1275)が京の北畠の地に住んで北畠の姓を称したのに始まる。鎌倉時代には正二位・大納言を極官とする公卿であったが、南北朝時代に北畠親房が出て後醍醐天皇の信任を受ける。その子北畠顕家・北畠顕信・北畠顕能も南朝側として活躍、顕能は伊勢国司となり、同国一志郡の多気城を本拠とする。その後も後南朝方の中心勢力になり、正長元年(1428)には北畠満雅が後亀山上皇の孫小倉宮を奉じて挙兵した。満雅は同年12月に戦死するが、室町幕府は弟北畠顕雅を赦免し一志・飯高両郡を安堵した。これ以降、北畠氏は南伊勢、志摩、伊賀、大和に勢力を持つ大名として発展する。一族には、大河内・木造・田丸をはじめとする庶民が分立し、その勢力は伊勢中心にも及んだ。戦国時代には、伊勢の有力国人長野氏と...「北畠氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・長州下関戦争」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    下関戦争は「四国連合艦隊下関砲撃事件」という。元治元年(1854)アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四か国艦隊による下関砲撃事件。下関事件。四か国連合艦隊が長州藩軍を破った事件。下関戦争、馬関戦争ともいう。前年(文久三年)5月10日、長州藩は下関海峡において攘夷を決行し、アメリカ商戦を砲撃、ついにフランス艦、オランダ艦を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカ、ついでフランスが下関を報復攻撃をした。さらに攘夷の急先鋒長州藩に打撃を与えておくことによる政治的効果を狙って、イギリス公使オールコックは列国の代表と協力体制を樹立した。また、太平天国の乱に鎮圧することにより、中国にいた極東イギリス軍の動員が可能になり、これを横浜に集結させた。1864年7月、イギリス9、フランス3、オランダ4、アメリカ1の総計17...「歴史の回想・長州下関戦争」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・保元の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    保元の乱(保元元)京都で起こった争乱。同年7月2日の鳥羽法皇の死去を契機として、天皇家では崇徳上皇と後白河天皇の兄弟、摂関家では藤原忠実・藤原頼長の父子と忠実の長子藤原忠通の対立が激化し、朝廷は崇徳・頼長の上皇方と後白河・忠通の天皇方に分かれた。上皇方は源為義・平忠正、天皇方は平清盛・源義朝・源義康らの武士を招き、都は武力衝突の緊張が高まった。このなかにあって、天皇方は天皇の近臣藤原通憲(信西)を中心に、禁中・京中の警固を固め、忠実・頼長父子の軍兵を招集を禁じる綸旨を発した。このような天皇方の挑発に追い詰められてた上皇は、同月10日に白河北殿に武士を招集して臨戦態勢にはいる。無勢を理由に為義らは退いて東国武士の来援を待つか、内裏に夜襲を行うか2案をていあんするが、大和の武士の来援を期待する頼長に退けられた。翌日...「歴史の回想・保元の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・盧溝橋事件」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)駐屯軍を増強、豊台(ほうだい)にも駐屯するなど、北平(ペイピン)(北京)に対する圧力を強めていた。盧溝橋は、北平の南西15キロメートル、豊台の西3キロメートル、平(京)漢線鉄橋のやや下流に位置し、中国軍の守る要衝の地であった。7日夜、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊(中隊長清水節郎大尉)は、盧溝橋北西約1キロメートルの永定河(えいていが)右岸竜王廟(りゅうおうびょう)付近で夜間演習中、10時半ごろ、日本軍の軽機関銃の発射(空砲)に続...「歴史の回想・盧溝橋事件」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

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    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)駐屯軍を増強、豊台(ほうだい)にも駐屯するなど、北平(ペイピン)(北京)に対する圧力を強めていた。盧溝橋は、北平の南西15キロメートル、豊台の西3キロメートル、平(京)漢線鉄橋のやや下流に位置し、中国軍の守る要衝の地であった。7日夜、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊(中隊長清水節郎大尉)は、盧溝橋北西約1キロメートルの永定河(えいていが)右岸竜王廟(りゅうおうびょう)付近で夜間演習中、10時半ごろ、日本軍の軽機関銃の発射(空砲)に続...「歴史の回想・盧溝橋事件」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

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