後漢 鄧禹の関中派遣 即位した劉秀は直ちにもっとも信頼する鄧禹を関中送る 鄧禹は軍紀を守らせたため、多くの者が鄧禹に降る
関中は魅力的な土地ではなくなっていたのですね。赤眉は漢を復興させようとは思っていたかも知れませんが、結局、国を立て直すだけの能力や気概は持ち合わせていなかったのです。 赤眉は関中を捨て、山東へ移動を開始します。このとき、20万の規模だったということですので、まだ大きな勢力を保っていました。 主の不在となった長安に入ったのは、劉秀の遣わした�ケ禹です。 �ケ禹は25年1月に箕関を落として関…
後漢 関中の荒廃 赤眉は関中で略奪を繰り返して荒廃させる 争っていた劉嘉と延岑は対赤眉で結びつき、赤眉を大敗させた
一方、関中の豪族にとって、長安に居座って略奪を繰り返す赤眉は災厄そのものでした。そこで、彼らは関中の外の勢力を招き入れます。 その中の1人が、漢中の延岑です。 延岑が関中に侵入したことを受け、赤眉の将軍逢安が延岑を攻撃します。赤眉は大勝し、延岑は退却して杜陵を根拠地とします。そして、それまで何度か干戈を交えてきた劉嘉と結びます。 劉嘉は南陽劉氏出身で、幼い頃に父を亡くしていたことから、…
後漢 糟糠の妻は堂より下さず 劉秀の姉で夫と死別していた湖陽公主は既婚の宋弘に思いを寄せるが、宋弘は妻を捨てる気は無かった
なお、この年は、王莽時代に多くの者が冤罪で下獄していたことを受けて3月に大赦が、5月には奴婢の解放が行われています。冤罪だけではなく、法に触れて奴婢に落とされる者もまた多くありました。また、困窮した農民は子供を奴婢に売っていました。売られて奴婢になった者のうち、父母の下に帰ることを望む者を解放したのです。さらに、6月には郭貴人を皇后に立てたことを祝して大赦を行いました。恤民政策を続けたのは農民反…
後漢 更始帝の死 略奪を繰り返して人心の離れた赤眉は更始帝を縊り殺して憂いを断つ 劉秀は功臣を封じ、漢の廟を建てて正統性を訴える
略奪が繰り返されるのを見た有力者たちは、当初の赤眉への期待が冷め、更始帝劉玄に近づきます。これを嫌った赤眉は、同年12月に劉玄を郊外に誘い出すと、縊り殺してしまいました。 更始帝政権で執金吾だった�ケ曄らは劉秀のもとへ身を投じました。 その後、赤眉の略奪は激しさを増します。翌年の1月には、長安の宮殿は全て焼き払われ、皇帝陵も盗掘を受ける有様でした。更始帝劉玄が長安に入った時には未央宮以外は…
後漢 更始政権の崩壊 クーデターが失敗に終わったため、張卬らは赤眉の軍に逃げ込み長安へ導く 9月、長安は陥落し、更始帝政権は崩壊した
劉玄は姻戚で右司馬の趙萌が駐屯する新豊へ逃げ、張卬らを攻撃します。 激戦の末、劉玄側が勝利を得ましたが、勝利は仮初のものとなりました。敗走した張卬らは長安に迫りつつあった赤眉のもとへ逃げ込み、長安へ導いたのです。 9月、赤眉は長安を攻撃します。劉玄を軍事的に支えていたのは緑林出身者でしたから、この時には劉玄軍の少なからずが離反していたことになります。赤眉の軍勢を見た劉玄は単騎長安を脱…
後漢 洛陽攻防戦 洛陽を守るのは劉秀にとって兄劉縯の仇に当たる朱鮪と李軼 劉秀は李軼の離反を語る書簡を公開し、朱鮪に李鉄を殺させる
劉玄は怒り、大司馬を三分割し、朱鮪を大司馬から左大司馬へ降格しました。その後、朱鮪は李軼らと共に30万の兵を率いて洛陽を守っていましたが、長安が騒がしくなると、劉玄の指示に従わなくなっていきます。 洛陽を攻撃している劉秀の部将の馮異は李軼へ離反工作を仕掛けます。 李軼は劉秀が旗揚げした時から付き従い、昆陽の戦いでは劉秀と共に夜間に包囲を脱した13騎の中の1人というように、劉秀の部下として活…
後漢 赤眉の皇帝擁立 赤眉は軍の中にいた式侯劉萌の子、劉盆子を皇帝として擁立する 劉秀、兄の仇の朱鮪が守る洛陽を攻撃する
皇帝が立てば、皇后も冊立されます。若い頃から「妻を取るなら陰麗華」と言っていた劉秀は陰麗華を皇后に冊立しようと望みましたが、既に郭氏が男児劉彊を生んでいたため、皇后は郭氏となりました。当然、劉彊が皇太子となります。 同じく6月、赤眉は軍中にいた斉の巫の言葉を受けて天子を立てることとしました。巫は呂氏の乱鎮圧に大功を立てた朱虚侯劉章を祀った際に、王朝を建てるべしとの託宣を受けた、と主張してい…
後漢 光武帝即位 各地で天子を自称する者が現れ、諸将は即位を勧める 最終的に、讖緯に基づいて劉秀は即位(後に光武帝として知られる皇帝)
少々先走りました。26年に戻りましょう。 各地で天子を名乗って自立する動きが出ていることを受けて、諸将は劉秀に即位を勧めます。しかし、劉秀は認めませんでした。 状況を変えたのは、讖緯です。 関中から彊華という儒者が『赤伏符』なる符命を携えてやってきます。そこには「劉秀が兵を発して不道を捕えれば、四夷は雲集し、龍は野で闘う。四七の際に火は主となれ」と書かれていました。 四七とは4×7で28…
後漢 河南の実力者劉揚の反乱 妻の一族のトップ、真定王劉揚は自ら天子になろうと讖緯をでっち上げ反乱を起こすが誅殺される
血筋から言えば、劉揚もまた皇帝となってもおかしくない存在でした。いえ、真定王の直系であることを考えれば、劉秀よりも前漢の皇帝の後を襲うのに相応しい存在でした。 こうしたことから、劉揚は自ら天子となろうとしたのです。彼は「赤九之後癭揚為主」との讖記をでっち上げます。 赤は火徳の漢を、九は9代目を示しますので、前半は漢の9代後の意味になります。そして後半は、癭(瘤)のある揚が主となる、とい…
後漢 河北の掌握 劉秀は劉玄により派遣されていた謝躬を排除することに成功、長く思いを寄せいていた陰麗華を故郷から呼び寄せる
宣言どおり、劉秀は賊を破ります。賊は北方の隆慮山という山に逃げ込みました。謝躬は魏郡太守の陳康に鄴を守らせ、自ら賊を攻撃します。しかし、追い詰められた敵は必死に戦い、その鋭鋒には当たるべからざる勢いがありました。謝躬は敗れ、鄴に戻ります。 ところが、この間に劉秀は呉漢と岑彭に鄴を襲わせていました。城を囲んだ呉漢は城内へ使者を送り「上智は危機にあって幸運に頼らず、中智は危うい状況で功績を…
後漢 公孫述 蜀の公孫述、漢の将を自称する盗賊たちの狼藉を見て、自らも将軍と偽って賊を斬り、蜀で自立 国号を成家とし、3公を置く
4月、蜀では公孫述が王を称します。 公孫述は父の公孫仁が成帝の侍御史だった縁で郎となったことをきっかけに役人の道を歩み始めました。公孫述は並外れた能力の持ち主だったようで、父親が教育のために派遣した者は「公孫述は教えを受けなければならないような者ではない」と帰ってきたですとか、能力を見込んだ太守から5県を兼務させられても仕事に滞りはなく、鬼神と称されたそうです。新では蜀の太守(新の制度では卒…
後漢 赤眉の離反 赤眉は長安を出て2手に別れ、南陽と河南を攻撃して県令や太守を殺害する 隗囂の謀臣だった方望もまた背く
赤眉と反乱軍は2手に分かれ、一派は南陽に向って宛の県令を殺し、もう一派は河南に向かって太守を殺します。それまで赤眉は郡県の令を攻めて殺害するような行動はとっていませんでした。明確に赤眉集団の性格が変わったのです。この性格の変化は、農民反乱から王朝形成へと目的が変わったためと説明されることが多いそうです。 新たな王朝の創設を目指すようになったとしても、根無し草の放浪軍に過ぎません。まして、当…
後漢 銅馬集団 河北には赤眉とは別に多くの農民反乱が起こっており、劉秀はその最大の勢力である銅馬集団を破り、勢力を拡大する
劉秀は耿弇が正しいと認め、帰還を拒否しました。かつて兄の劉縯が宛を落とすという大功を立てたながら、劉玄に処刑された記憶は生々しかったでしょうから、当然のことでしょう。 そしてまた、実際問題として河北は落ち着いたわけではありませんでした。まだ各地に蜂起した集団が残っていたのです。 秋、劉秀は河北の農民反乱軍のうち最大の規模を誇った銅馬集団を攻撃します。 劉秀は敵と対峙してもなかなか…
後漢 長安への帰還命令 劉玄は劉秀を蕭王に封じ、長安へ帰還するよう命じるが、劉秀は耿弇の意見を容れて命令を拒否する
劉秀が人心収攬に優れた人物であることを教えてくれるエピソードですね。 さて、劉玄は劉秀が河北を鎮圧したことを知ると、劉秀を王郎討伐の功績で蕭王に封じると同時に、軍を解散して長安に帰還するよう命じます。 これを聞いた劉秀の部下の耿弇は寝室に入り、人払いを頼みます。そして「更始は政治を執らず、将軍は勝手に命令を下して都の中では地位の高い者たちが好き放題をしています。天子の命令は城門を出ず…
後漢 王朗誅殺 劉秀たちは鉅鹿を囲むが落とせず、直接邯鄲を衝く 名将耿弇や劉玄の派遣した謝躬らも共に攻撃、落城し王朗は誅殺される
呉漢は王朗と比べて劉秀が圧倒的に優れていると確信し、王朗は劉一族を名乗っているがそれは嘘だと(ここまでは正しい)主張をし続いて皆劉秀に付いていると嘘を吹聴して彭寵に劉秀に付くよう主張しました。また、蓋延も、呉漢に同調して劉秀を推したことが流を決めました。 劉秀は更に更始帝劉玄からの援軍も得て、遂に東に向かって鉅鹿を囲みます。 鉅鹿と言えば、項羽が章邯の率いる秦軍を破って、守勢から攻勢へ転換…
後漢 劉玄の堕落 長安に入った劉玄は綺羅びやかな宮殿に入り、酒色に溺れて政治を忘れる 露骨な贔屓で料理人にまで官爵が与えられた
長楽宮に入った更始帝劉玄は一族や功臣を王に封じます。 この時、隴西に拠っていた隗囂を招聘し、隗囂は謀臣の方望の諫止を無視して劉玄に応じ、右将軍に任じられました。諫言が受け入れられなかった方望は手紙を遺して隗囂の下を去り、また独自に漢復興を図るようになっていきます。 既にそれなりの地歩を固めた者を高い地位につけるという例はありましたが、全体で見れば引き続き、緑林系の新市、平林の指導者が力…
後漢 逃亡生活 命からがら逃げ出した劉秀たちは、飢えと寒さに苦しみながら各地を彷徨う中で、信都太守任光に助けられ、九死に一生を得る
一方、命からがら逃げ出した劉秀たちは食事にさえ事欠く有様でした。馮異が薪を集め、�ケ禹が燃やした火で劉秀は服を乾燥させたり、馮異の作った豆粥で飢えと寒さを凌いだりと、大変な苦労があったようです。 遂に、彼らは「王朗の使者である」と偽って、使者が休憩するための施設である伝舎に入ります。出された食事をがつがつと食べたことから伝舎の役人は偽物と疑い、「邯鄲の将軍がお見えだ」と嘘をつきます。周囲の…
後漢 王朗、背く 邯鄲出身の占い師の王朗、成帝の子を自称して邯鄲で背き、劉秀は危機に陥る 名将として讃えられることになる耿弇の合流
なお、王郎は邯鄲出身で、人相見や占いを行っていました。王朗は自らの占いから、東方で天子が生まれると考えるようになり、成帝の子を自称していました。どのような理由か、かねてから付き合いのある劉林はこれを信じます。 劉秀は邯鄲に戻ることもできず、王朗から逃れて真定へ逃げざるを得ませんでした。王郎は河北殻遼東に至る、広い地域を支配下に収めてしまいます。 困窮した劉秀に力強い味方が表れたのは、こ…
後漢 鄧禹合流 河北に入った劉秀に旧知の鄧禹が合流、以後股肱の臣として劉秀を支えることになる
新が滅んでも、直ちに新たな統一政権が生まれるわけがありません。新が滅んだ23年9月、劉玄は劉秀を河北へ派遣します。 劉?のこともあり、劉秀を目の届かない遠方へ派遣することには反対論もありました。特に、大司馬となった朱鮪は強く反対します。しかし、丞相に任じられた劉賜が強く劉秀を推したことから、劉秀派遣が決まったのでした。 劉秀にとっては、虎口を脱したことになります。 河北へ向かった劉秀が…
後漢 新の滅亡 宛に続いて洛陽を手に入れた劉玄は都を洛陽に移す 各地で起こった反乱は関中にも波及し、戦乱の中で王莽は殺され新は滅ぶ
隗囂は声望があり、また書をよく読むことから、一族に推戴され、望まずして反乱のリーダーとなってしまいました。隗囂は漢復という、どうみても漢の復興を狙う元号を定め、同時に各地へ反王莽の檄を飛ばしました。 これに応じて各地で反王莽の動きがでます。 9月、劉玄は緑林のリーダーの1人だった王匡を派遣して洛陽を攻撃させます。大変ややこしいことに、洛陽を守るのは王莽の一族の王匡と、讖緯をでっち上げた哀…
後漢 劉縯誅殺 劉玄は功績、能力、人望のいずれも自分に勝る劉縯を、機会を見つけて誅殺してしまう
劉稷は劉玄が即位した際、魯陽を攻撃している最中でした。劉玄即位を知った劉稷は「蜂起を画策したのは劉伯升(伯升は劉縯の字)と劉文叔(同じく劉秀の字)兄弟ではないか。劉聖公(劉玄の字)が何をしたというのか」と怒声を放っていたことが劉玄らの知るところとなり、警戒されていたのです。 そこに劉縯が駆けつけたのですが、彼と共に挙兵した李軼は劉縯の殺害を勧めました。劉玄はこの進言を受け、劉稷と共に劉…
後漢 昆陽の戦い 王莽が派遣した大軍は大軍故に小回りが効かず、城内と城外からの挟み撃ちにあって大敗、新の運命を決定づける
劉秀は、王邑、王尋の本営を攻撃します。新軍が攻撃を受けているところを見た城兵も撃って出たことで、新軍の中枢部は挟撃を受けることになったのです。また、劉秀は先頭に立って奮戦したため、兵士たちは劉秀を守れとばかりにこちらも力の限りに戦いました。 大軍だった新は、臨機応変の対応ができませんでした。いえ、あるいは、兵の数を揃えて優秀な将軍に指揮を採らせていたのであれば、このような寡兵など、鎧袖一触…
後漢 宛を巡る攻防 劉縯が宛を落としたことを受け、王莽は宛を攻撃すべく100万もの軍を送り出す 新軍は劉秀の籠もる昆陽を囲んだ
宛の太守が戦死したことで岑彭が戦いを引き継ぐことになりました。岑彭は抗戦を続けましたが、宛城内では食料が尽き、死体を食むほどの惨状を呈します。これでは戦い続けることなどできず、岑彭は遂に劉縯に降伏します。 この際、劉縯の側近からは降ることなく守り続けた岑彭を処刑すべしとの声があがりましたが、劉縯は「郡の重役だったのだから固く守るのは筋を通したということだ。大事を行うには義士を大切にし、…
後漢 更始政権の顔ぶれ 劉縯こそ大司徒に任じられたものの、中枢は緑林勢力で固められ、劉秀は偏将軍とされたのみで冷遇される
反乱を率いて来た人々は列侯に封じられました。 なお、この際に劉縯の弟の劉秀は偏将軍に任じられたに過ぎません。劉縯が宛で挙兵したことが反乱の成功に寄与した影響の大きさを考えると、冷遇と考えておかしくない扱いです。 劉良が実質の伴わない役職に祭り上げられていることを除けば、南陽劉氏や緑林の徒以外の反乱指導者は端役しか与えられなかったことが見て取れます。これを見ると、劉玄は自分の信頼できる…
後漢 更始帝即位 緑林の徒は新と対抗するために皇帝を立てることにし、議論の結果劉玄が即位する
大組織となった彼らが必要としたのは、しっかりとした組織です。繰り返しになりますが、この反乱軍は食い詰めた悪少年が起こしたようなものではありません。大土地所有者の皇族をリーダーに据えた反乱軍です。当然、無秩序にあるところから奪う方式は彼ら自身の利益と背反するのです。 新組織は、新に代わりうるものとする必要があります。では、新に取って代わる存在であることを最も簡単に示すことと言えば何でしょうか…
後漢 劉縯の反乱 豪傑タイプの劉縯が反乱を起こそうとしても周囲は怯え、慎重な劉秀が加わることで反乱に参加する者が増える
王莽は一定以上の土地所有を禁じ、奴婢も規定数を上回る者からは没収しました。また、土地の売買を禁止し、貧富の差が開かないようにしました。ところが、厳しく取り締まった結果、富裕層での不安が高まったため、後12年には法律は廃止され、土地売買契約は許されるようになっています。 豪族からすれば、王莽政権はいつまた自分たちの財産に食指を伸ばしてくるか知れたものではありませんでした。特に劉氏の血を引く者は…
後漢 古代の人口問題 前漢末の人口は59,594,978人、前漢初の2000万人から3倍増で、急速な人口拡大は社会問題を生み出す
南陽劉氏は郡内の有力な一族と通婚し、豪族となっていたので、この時に加わった人々は呂母の乱に加わった悪少年(失うもののない、農家の次男以降の男子)とは少々その性格を異にします。 当時の豪族は大土地所有者で、同族で結集していただけではなく、賓客を養っていました。前漢の後期には、これら大土地所有者と貧農の差が開いてきます。 原因の1つには大幅な人口増加がありました。平帝の時代に戸籍調査が行わ…
後漢 南陽劉氏の反乱 緑林の徒に呼応して、前漢帝室に連なる劉玄、次いで劉縯が反乱に加わる 慎重な劉秀もまた挙兵し、新野を攻める
古礼に則るという名目で短期間に改革を繰り返して国政を混乱させた王莽が死んだからといって、直ちに太平の世が訪れるわけはありません。 農民反乱の様相を呈する東方では赤眉、南陽劉氏の加わった緑林、隴西で自立した隗囂、蜀の公孫述を始めとする勢力がありました。彼らが次の天下を巡って争うことになります。その状況について、新滅亡時に既に皇帝を名乗っていた、更始帝こと劉玄を中心に、新滅亡前に時計の針を戻し…
新 後世の評価 後漢はその成立の事情から新には批判的だった 前漢末から再統一までで、人口は6000万人から2000万人に急減している
新が滅亡した後に成立した後漢は、その成り立ちから新には極めて批判的です。そのため、私達が利用できる史料はそもそも過度に王莽に批判的だろうと予想されます。 その後漢時代に生き、漢書を編纂した班固は、王莽が国政を補佐していた時については国家のために力を尽くし、まっすぐな行いをしたと評価しています。 もし王莽が皇帝になるという野望を持たず、周公旦のように皇帝を支える存在であり続けようとしたの…
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