新 王莽の死 漸台での死闘は、矢尽き刀折れるまで続いたが、衆寡敵せず遂に王莽は殺される 平帝の妻だった王莽の娘は炎に我が身を投じる
大司馬王邑、王林、王巡らは決死の抵抗を見せました。弓や弩が雨あられと矢を降らせましたが、やがて、矢が尽きます。 絶望的な状況に、王邑の子の王睦は逃げようとしましたが、王邑はこれを叱りつけて呼び戻しました。結局、王邑親子らは戦死するまで戦い抜きました。 昼過ぎ、反乱軍は漸台へ侵入しました。抵抗を続けていた侍官は全員、戦死したと伝えます。そして、商出身の杜呉が王莽を刺殺して璽綬を奪いました…
新 長安攻防 クーデター計画こそ潰したものの、反乱軍は長安に至り、激戦の末に城門は破られて王莽は未央宮の漸台へ向かう
というのも、劉歆はこの頃、劉秀と名前を変えていたため、西門君恵の予言「劉秀という人物が王莽の天下をひっくり返し漢を復興するだろう」は彼を指した予言だと受け止められたのです。 また、劉歆は息子が王莽に処刑されたことから、王莽を恨んでいましたので、陰謀に参加する理由があったのです。 クーデター計画は練られていきましたが、董忠の部下が密告したことから陰謀は露見します。董忠は斬られ、劉?と王…
新 反乱相次ぐ 昆陽の戦いで新軍が大敗したことを受け、隴西の隗囂らは自立、相次ぐ反乱に動揺した長安ではクーデター計画が練られる
なお、大軍を指揮した王邑は、かつて翟義の反乱で首謀者を捕えることができずに王莽の叱責を受けたことがあります。先の叱責を踏まえ、王邑は劉秀らの生け捕りを大前提に考え、退路を塞ごうと昆陽を包囲しました。 兵法の説くところでは、全包囲は、敵が死地に置かれたと考えて必死で抵抗するため下策だと言います。攻撃側は敢えて一箇所は包囲を開けておき、そこから逃げられるようにすれば、逃げたいという気持ちが働…
新 劉玄起つ 前漢の景帝に連なる南陽劉氏の一員で、遊侠を好んだ劉玄、反乱に呼応する
莒といえば、戦国時代の後半に燕が諸国の連合軍を率いて斉を攻撃した際、70余城を落として斉を絶体絶命の危機に追いやった際にも即墨と共に徹底抗戦を続けた街でしたね。今回もまた莒は徹底抗戦を続け、赤眉軍は落とすことができませんでした。 そこで、赤眉は莒攻略を後回しにし、東南に向かって東海郡に入ります。しかし、東海郡の守兵と戦って、数千人を失う敗北し、今度は西の豫州に向かいました。 一方の緑…
新 荊州でも反乱 20年、今度は江夏郡の緑林で反乱軍が蜂起、地名から緑林の徒と呼ばれる 王莽は討伐軍を送るが、敗北する
後20年、荊州でも同様に反乱が起こります。こちらは江夏郡雲杜緑林で蜂起したことから、緑林の徒と呼ばれます。緑林も当初は数百人という規模だったのがです、数カ月で数千人に膨れ上がります。 王莽は荊州牧に攻撃させましたが、こちらも敗北を喫しました。 「牧」の役職は、三国志をお好きな方には馴染み深いものでしょう。元々、牧は武帝の時代に制定された刺史という、検察を司る役職でした。しかし、監察を受け…
新 東方で反乱続発 18年、東方で飢饉がきっかけとなって反乱続発 インフレで流通が破壊されていたため、被害は悪化の一途を辿った
仕事に対して人口が増えすぎるとこのようなことになります。特に農本主義の場合には、「安定した生活を寄越せ」が「土地を寄越せ」と等号で結ばれます。なにせ、農業が本業になり、他にロールモデルがありませんからね。このような理由で、この集団は農民反乱としての様相を呈していきました。 ただ、これに関しては王莽にも大いに同情の余地があります。漢の200年の間に、人口が増えすぎたのです。土地をよこせと言われ…
新 呂母の乱 些細な罪で処刑された呂の母親は悪少年を抱き込んで反乱を起こす 悪少年とはどのような人々か
なぜ、「呂のお母さん」としか表記されないような、名家の生まれでもない女性が反乱を起こしたのかというと、単なる私怨です。 これに先立つ後14年頃、呂母の息子が微罪で海曲県の県宰に処刑されていました。呂母は県宰に復讐することを決意します。とはいえ、彼女には何の力もありません。ただ、彼女には金はありました。 呂母は多くの資産を持つ富豪で、酒屋を営んでいました。彼女は密かに刀剣類を集め、平行して…
新 貨幣改革(何度目だ) 過去の貨幣改革の失敗を受け、後14年にまたもや貨幣改革を行う 後17年、民衆の鬱憤は呂母の乱として爆発する
14年、王莽は貨幣改革を行います。 またか!と思われた方、私も同感です。こんな短期間で制度をころころと変えられても、民草は困るばかりではありませんか。それでも改革が強行されたのは、端的に言ってしまえば過去の改革が大失敗だったからに他なりません。 今回の改革では、大銭、小銭も廃止され、代わりに貨布と貨泉が制定されました。貨泉は5銖で円形方孔ですから、5銖銭と同じですね。刻された文字だけ異なる…
新 西方諸国の離脱 遠征軍は戦いを始める前に崩壊、屍が虚しく野に散らばる 匈奴攻撃と同時期に行われた高句麗遠征の顛末
果たして、兵士たちは食料不足から西方までは行ったものの出撃はできず、戦いが起こる前に病で次々に死者が出て、虚しく荒野に屍を晒すという惨状を呈しました。そして、高句麗は王莽の要請を無視して軍を動かしませんでした。 新の体たらくを見た西域諸国は新から離反します。そのうち、カラシャールは挙兵して西域都護を殺しました。王莽は新たに西域都護を派遣したのですが、これもカラシャールに殺されてしまいます。…
新 匈奴への出兵強行 車師後国が新から離脱して匈奴に付いたことをきっかけに、王莽は西域への出兵を決意 部下は諌めるが、出兵は強行される
互いに不信感を高めていた後10年、車師後国が新から離反して匈奴に付いてしまう、という出来事が起こります。匈奴はこれを機会に西域へ出兵し、西域諸国を新から切り離そうとしたのです。 王莽は西域への出兵を決断します。そして、10年12月に匈奴単于を降奴服于と変え、12将に30万の軍を率いさせて匈奴へ出撃させました。計画では、300日の食料を輸送し、匈奴を北に駆逐して呼韓呼単于の子15人を分封するはずでした。 …
新 骨抜きにされる改革 古礼に従って商工業者の利益を抑えようとしたが、ノウハウが無いためかえって失敗 関係の悪化した匈奴への出兵
銅の採掘を自由にすれば、呉楚七国の乱における呉王劉濞のように自ら銅銭を鋳造する者が現れますから、当然のことでしょう。私鋳を許せば貨幣がだぶついてこれまたインフレーションが起こる可能性がありますし。 また、物価統制として、各地に五均官を置いて季節ごとに標準価格を決めさせようとしました。新の物価統制は、漢で実施された均輸法、平準法を拡大したものです。 新は農本主義を採用していましたから、…
新 繰り返される貨幣改革 前回の改革からたった2年で貨幣改革を行うが、やはり名目と実質の価値が一致していなかったため、盗鋳が相次ぐ
後9年には貨幣改革を行います。貨幣改革は、まだ仮皇帝だった2年前に行ったばかりでしたね。高額貨幣として契刀、錯刀などを作ったのでした。名目価値が実質価値を遥かに上回る硬貨の制定は大量の偽貨幣を生んでいたのでしたね。 今回の貨幣改革では作ったばかりの契刀、錯刀に加えて5銖銭を廃止し、代わりに1銖の小銭を鋳造、大銭と併用させました。契刀、錯刀を廃止したのは、劉氏の「劉」の字に「刀」が含まれているこ…
新 名称変更 三公を始めとする役職名、行政区画、地名に加え、外国への印綬も中国に服属するような表現に変更される
大司馬、大司徒、大司空の3公は漢初の丞相、御史大夫、太尉に相当する役職です。大尉は武帝の時代に廃止され、大司馬がその役割を担っていました。衛青や霍去病、後に霍光ら、錚々たる人物が就いてきた役職で、最高の輔政者でした。特に、霍光の独裁によって丞相の地位が形骸化して名誉職へと変わっていく過程で、大司馬の役割は拡大されました。哀帝期に丞相が大司徒へ、成帝の末年から御史大夫が大司空へとその名を変えてい…
新 王莽人事 金匱策書に基づいて、金匱策書をでっち上げた哀章や、美名というだけの王盛、王興が抜擢される
さて、王莽は即位すると、早速人事を固めるのに合わせ、官制改革を行いました。特筆すべきは、哀章の金匱策書の符命を実現することを前提に改革が行われたことでしょう。 新たな官制でトップとなったのは、4輔(太師、太傅、国師、国将)、3公(大司馬、大司徒、大司空)、4将(更始将軍、衛将軍、立国将軍、前将軍)です。 このトップ人事が金匱策書に従って行われたのです。 太師には王舜、太傅には平晏、国…
新 簒奪に反対した女たち 王太后や王莽の娘で廃立された劉嬰の妻は漢の滅亡を喜ばず、鬱々と過ごすことになる
漢王朝は悪政で命脈が尽きたわけではありませんが、幼帝が続いて大帝国を統治するだけの力を失っていましたから、平和裏に皇帝が変わるのであれば、それはそれで良いことだったのかも知れません。 簒奪に最も激しく反対したのは、太后王政君です。彼女は詔制臨朝にあたっていたため、秦が滅んだ際に漢に伝えられたという伝国の玉璽を持っていました。日本で言うところの三種の神器に相当する、皇帝を継いだことを象徴する…
新 禅定 翟義の反乱を鎮圧した王莽は、次から次へと奇跡をでっち上げて帝位を奪う 中国初の禅定劇がここに成立
同年12月、王邑、孫建らは反乱軍を破り、反乱を主導した翟義は磔にされ(生きたままだったのか、自殺後の死体だったのか、どちらとも解釈できる状況です)、劉信は軍を捨てて逃亡しました。王邑らの遠征軍はとって返して王級らと合流、趙明らの反乱軍を攻撃します。こちらもほどなくして鎮圧されました。 なお、王邑は首謀者全員を生け捕りにすることができなかったことで、王莽から厳しい叱責を受けます。これが後にな…
新 貨幣改革の失敗 高額取引用の貨幣が作られたが、名目価値と実質価値の乖離が大きすぎ、贋金作りが横行する 翟義の反乱
新たに追加されたのは、12銖で5銖銭50と等価値の大銭、5銖銭500と等価値の契刀、5銖銭5000と等価値の錯刀です。いずれも、名目価値が実質価値を遥かに上回るのが特徴です。歴史上、このような状況では必ず盗鋳が起こります。現代の貨幣は、偽札が作られないように透かしを入れたり特殊なインクを使ったりすることで偽札を防止していますが、それでも完璧に贋金が作られることを防止できていません。まして、古代の単純な作りの…
新 反王莽の動き 王莽は皇帝と同じしきたりで職務や祭祀を行うように為る 後6年、南陽郡で小規模反乱が起こるが鎮圧される
同月、王莽は宣帝の玄孫のうち最年少である2歳の劉嬰を立てました。 皇帝が若く無能であればあるほど、漢王朝には不利に働きますが、王莽は権力を壟断できます。そして、王莽のさらなる野心を満たすには、この状況こそが望むものでした。 王莽は、職務や祭祀はすべて皇帝と同じしきたりで行うようになりました。 誰もがみな、王莽の専権を快く思ったわけではありません。その不満が最初に爆発したのは後6年のこ…
新 儒教国教化 孔子が排除しようとした迷信も取り込むことで皇帝を思想的に受け入れ、儒教は国教化していく
「経度」という言葉に見られるように経は縦を意味し、緯度が横を意味します。経書が正統な知の流れを経糸に見るならば、未来を見通す神通力を持つ緯書は緯糸として、知は面となるのです。 半分がオカルトなのに知が面になるなんて言ってどうなるんだ、と思われるかも知れません。しかし、当時の知識階級にとっては、神秘は天がしろしめす意思に他なりませんでした。人為的なものだと一笑に付すなど、とてもできないことだ…
新 讖緯説 平帝の急死直後、「安漢公(王)莽に告げる、皇帝と為れ」と書かれた石が出現 奇跡をありがたがる讖緯説について
同年12月、年末の大祭の蠟祭(ろうさい)で、神酒を飲んだ平帝が急死します。まだ若い平帝の急死について、漢書は「未央宮で崩ず」と記すのみです。しかし、平帝が王莽に母の衛一族を滅ぼされたことを恨んでいるとの噂を聞いた王莽が毒殺した、と言われます。 事実がどうかは分かりませんが、まだ若い皇帝の急死と、その死により最大の利益を得たのが王莽であったという状況からすれば、王莽はいかにも怪しく見えます。…
新 権力の絶頂へ 王莽は謙譲を装って娘を皇帝と結婚させることに成功し、宰衡なる称号を得、更に九錫を与えられて絶頂期を迎える
後3年、王莽は自分の娘を皇后にしようとして後宮を充実させるように進言します。ところが、吏が挙げた候補の中には王一族の娘が多くいたため、王莽の娘が選ばれる可能性は高いものではなくなってしまいました。もし王莽の娘以外の王氏の娘が皇后になれば、皇后の父親へと王莽の権力は移ってしまうでしょう。 そこで、王莽一計を案じ、謙譲を装って「私は徳がなく、娘も優れてはおりませんので、他の子女と一緒に選ばれる…
新 祭祀改革 王莽は劉一族で儒学者として知られる劉歆らを登用し、祭祀の改革を図る 新は短命に終わるが、王莽の定めた祭祀は時代を超えて残る
また、古い制度にあった太師、太保、太博、少博を設置して、王莽がこれを統括することになります。大司馬という政府の最高権力を握ると同時に、皇帝へつながる情報ルートも押さえたのです。王莽が権力につながるあらゆる地位を占めたわけですね。 幼帝を擁して他の有力者を排除した王莽は、儒学者として知られる劉歆らを登用し、改革に着手しました。 例えば、古礼に天子の廟は7つと書かれているため、漢の廟も7つ…
新 安漢公王莽 新皇帝の外戚を排除した父を諌めた長男すら自殺させて王莽は権力を守る 益州南方の越裳氏が雉を献じたことから王莽は安漢公となる
王莽は手に入れた権力を二度と手放す気などありませんでした。儒家が称揚して已まない周公旦は主君が幼少のうちは主君に代わって力を握りましたが、成人すると権力を奉還したからこそ素晴らしいと言われているのに、どういうわけか儒教原理主義的な王莽がそうした生き方に従わなかったところを見ると、王莽は単なる権力亡者にしか見えなくなるのが不思議です。 と、つい嫌味を書いてしまいましたが、霍光一族の例を見ても…
新 失脚と復活 成帝が亡くなり哀帝が即位すると王一族は権力から逐われる ほどなくして哀帝が死に、王皇后は璽を奪って王莽を大司馬に復活させる
前8年、王莽の叔父の王根が病を理由に大司馬を退きます。しかし、実際には病だけが理由ではなく、この疑獄事件の影響もありました。彼は後任に王莽を推し、退任したのでした。 ようやく転がり込んできた権力でしたが、王莽の大司馬時代はすぐに終わってしまいます。翌前7年、成帝が亡くなり、哀帝が即位すると王氏が逐われたのでしたね。この際に王莽も新野に戻ることになったのです。 下野している間、次男の王獲が…
新 出世の端緒 病に倒れた王一族の頭領である伯父・王鳳を懸命に看病したことから出世の道を開いた王莽
新について書き始めるに当たり、さらっとながしてしまった前漢末期における王莽の行動を見ておきましょう。どうしても重複が生じてしまいますが、どうかご容赦ください。 王莽は王鳳の早世した弟、王曼の遺児です。兄がいたのですが、早くに亡くなったため、王莽が家督を継いでいました。先に記した通り、王鳳の兄弟で存命中の者は皆列侯に封じられたのですが、王曼は死去していたため封じられませんでしたね。そのため、…
ミイラ 参考文献 もっと知りたくなった方のためのブックガイド
今回、ミイラについて調べるのに用いた参考文献についてご紹介致します。 各地のミイラについて、ざっと知りたいという方に向いているのが、『教養としてのミイラ図鑑』です。各地の様々なミイラを美しい写真と共に紹介してくれておりますので、ミイラ展に行く前に目を通したい!という方にはまずこちらがお勧めです。 『「知」のビジュアル百科 ミイラ事典』はエジプト中心ではありますが、他の地域のミイラにつ…
ミイラ 現代のミイラ2 王朝を樹立した王の遺体もまた、聖なるものとしてミイラ化されることがある 宗教を否定したレーニンの防腐処理されたミイラ
偉大な王の遺体やその一部がミイラ化されることも、極めて宗教的です。後継者たちは偉大な先達の威厳を借りようとしたり、民衆の素朴な信仰心を統治に利用しようとしたのでしょう。例えばハンガリーの初代国王イシュトヴァーン1世の右手のミイラは今もイシュトヴァーン大聖堂に残っています。私は訪れたことがありますが、残念ながら当時はその事実を知らず、目にしませんでした。 王朝とは異なりますが、レーニンの遺体…
ミイラ 現代のミイラ 極めて宗教であるミイラは現代でもその価値を失っていない 聖人の遺骨やミイラに価値を見出す人々 ザビエルのミイラ
なお、大英博物館にも人魚のミイラが展示されています。興味を持たれた方は探してみては如何でしょうか。また、他にも各地に鬼や河童のミイラがあることが知られていますので、探し歩くのも面白いかも知れません。ただし、そのときには作りものであることをお忘れなく。 人工ミイラを生み出してきた人の心、つまり、死者を悼み、死や遺体を特別なものと考える心は近代化しても変わるようなものではありません。 近代…
ミイラ 日本のミイラ8 アリューシャン列島におけるミイラ化手法 1880年の墳墓発掘禁止令と死体損壊禁止令が人口ミイラの終わりとなる
その期間は大人の場合、31日乃至40日でしたが、赤ん坊の場合は次の子供が生まれるまで家の中に安置され、母親は生きている子供と同じように扱ったそうです。 日数の違いは、親が子を悼む心情に加え、ミイラが陣取るスペースというはなはだ実際的な問題もあったのかも知れません。 アリューシャン列島では肛門と陰部の間の会陰部を切開して骨盤の間から腸を抜き取ったり、胸部や腹部を切開して臓器を抜き取ったりした…
ミイラ 日本のミイラ7 藤原氏のミイラと関連して語られることの多いアイヌのミイラ 樺太のアイヌは中国との関係でミイラ化が決まった
藤原氏のミイラとの関係で語られることが多いのが、アイヌのミイラです。もっとも、藤原の血縁は明らかにアイヌ系ではなく、遺体の分析からもそれは裏付けられています。まず直接の関係はないと推測されることを押さえた上で、アイヌのミイラについても見ておきましょう。 北海道のアイヌは一般に体を伸ばした状態で土葬されます(これを伸展葬と呼びます)。 ところが、同一民族である樺太のアイヌはミイラをつくってい…
ミイラ 日本のミイラ7 義経を匿ったことで源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏3代の遺体はミイラとして現代に残る
人工ミイラの一部は数年に渡って木食行を続け漆を飲んで、ミイラとなる準備を重ねてきたものですが、そうではない事例もあります。例えば現存する鉄竜海上人のミイラを調べたところ、内臓や脳は取り去られ、石灰が詰められていたことが判明しました。 こうした事例を取り上げた後、『
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