ミイラ 日本のミイラ6 天竺冠者が行ったミイラ化は内臓を除去して漆を塗る中国式 日本でミイラが脚光を浴びるのは江戸時代
天竺の冠者が母親をミイラ化させた手法は腹の中のものを取り去って乾して固め、漆を塗ったというものでした。ミイラを作る際に漆を塗るのは中国で発達した方法でしたね。 この人物は他にも、水上を走るだの、病人を癒やしただのといった奇跡を売り物にしていました。奇しくもゴータマ・シッダルタやナザレのイエスが行っていた奇跡と同じですね。遂に自らを親王と名乗ったことから逮捕されて都に送られます。そして奇跡を…
ミイラ 日本のミイラ5 弥勒を唱えながら座死した琳賢は自然ミイラとなり、参拝人に見させた 初の人工ミイラの記録は奇跡を売り物にする詐欺師による
ところが、日本に伝わるまでの過程で、悟りだけではなく救いの教えへと仏教が変わっていきます。深遠な理想だけでは、衆生は受け入れなかったのですね。その1つの現われが、次のブッダで悟りを開く際に多くの者を救うことになるとされている弥勒菩薩信仰です。 日本のように多湿な地域であっても、ミイラ化そのものは稀に生じます。 中国と同じように、日本でも僧侶の遺体が生きているかのような状態で保たれる場合…
ミイラ 日本のミイラ4 仏教伝来前の日本の死生観 魏志東夷伝倭人の条に見られる死者を送る際の振る舞いについて
古来の日本では、死とは肉体から魂が離れることと考えられていました。貴人の遺体を埋葬するまで保管する殯宮(もがりのもや)の元の意味は、魂を呼び戻すための儀式を行うための場所です。魂の存在を前提とした場所なのです。そこから喪屋が生まれました。 魂が肉体から離れたら、残された遺体はどうなると考えられたでしょうか。 イザナギノミコトが死んだイザナギノミコトを探して黄泉の国へ入った際、イザナミノミコ…
ミイラ 日本のミイラ3 中国のミイラ事情 『抱朴子』の仙人思想に基づいて、僧侶が木食行に入る 唐は遺体に漆を塗って保存
両者は弥勒信仰で結びつきます。弥勒菩薩は最初の「悟りを開いた人」(=ブッダ)であるゴータマ・シッダルタの次に悟りを開く予定の存在で、その下生は56億7000万年後とされています。もちろん、そんなにも長い間生き続けることなどできません。そもそも、56億年も未来には、地球は膨張した太陽によって焼き尽くされて細菌の1つすら生きていないというほど未来の話です。 そこで、僧侶たちは弥勒菩薩の下生に立ち会うた…
ミイラ 日本のミイラ2 日本への仏教の中継地であった中国で、神仙思想と仏教が結びつき、更に弥勒信仰が付加してミイラが尊ばれるようになる
しかし、上記のミイラ化の流れは日本人工ミイラのうち、ほんの一部のものにしか当てはまらないようなのです。 日本の人口ミイラの多くは仏教と関連があるわけですが、そもそも論として仏教とミイラとの間には何の関係もありません。ゴータマ・シッダルタが生きた頃のインドは火葬が基本でしたし、ゴータマ・シッダルタ本人も火葬されています。 仏教は中国を経て日本に入ってきたわけですが、古代中国では土葬されて…
ミイラ 日本のミイラ1 日本ミイラ研究グループの研究成果を中心に、日本のミイラの姿を探る
皮肉なことに、貧乏人の墓は荒らされませんでした。盗られるものが無かったからです。 折角の機会ですから、本邦のミイラについても触れておきましょう。日本のミイラについては『
ミイラ 葬祭儀式4 遺体は40日間乾燥させられる ミイラ化全体では70日程度が必要だった 死後に困らぬよう大量の副葬品を埋めたことが盗掘の原因となる
乾燥に要する40日を含め、70日で埋葬の準備が整います。ただ、70日は実際の作業にそれだけかかることから決まったものではなく、宗教的な意味合いがありました。春から夏にかけて、シリウスが上らなくなる期間が約70日です。死後やってくるはずの再生を、シリウスの再来になぞらえたのです。ただし、時期や階級によって、1年以上という長期に渡ることも、逆に2日という、明らかにミイラ化する時間がかけられていない事例もあり…
ミイラ 葬祭儀式3 脳が鼻から除かれると、身体に香油を塗り、全身を布で覆う 遺体は長方形、後には人形の棺に収められて埋葬を待つ
一般的な除去の方法は、先端がかぎ針状になっている細長い金属製の道具を左の鼻孔に差し込み、鼻の付け根の骨を壊して頭蓋内から脳を掻き出すというものだった。このような方法で除去ができるのかと疑いたくなるが、脳は空気にふれると液状化するため、穴を開けて頭部を動かすことでそれほど困難なく除去ができたらしい。 摘出が終わると、頭蓋内には樹脂が詰められました。これも腐敗防止に役立…
ミイラ 葬祭儀式1 高位の者の葬儀では、遺体はナイル川を渡り、特別な建屋に運ばれて清められ、更に場所を代えてミイラ化処置が行われる
技術衰退後のミイラ化については置いておき、『
ミイラ ミイラ化技術の進化2 ミイラ作りのピークである第21王朝では、乾燥させた内蔵を体内に戻すことになる 前1200年のカタストロフ
なお、かのツタンカーメンは第18王朝の王です。かの有名なツタンカーメンの豪奢な棺は、18王朝以降の王だからこそのものなのです。トトメス1世から続く血統はここで絶えるのですが、ややこしいことに次代のアイも第18王朝の王にカウントされています。 内臓を取り出して別保存するのは長くは続かず、第21王朝では内臓を取り出して乾燥と防腐処理した後、体内に戻されるようになります。この第21王朝が、ミイラづくりのピ…
ミイラ ミイラ化技術の進化 第1王朝では麻で遺体を包むのみだったのが、内臓を除き、防腐処理をし、と進化していく
第1王朝では麻で包むのみでしたが、第2王朝では樹脂に浸したリンネル布を、第3王朝の末期からは内蔵を取り除くようになります。水分は体の表面から失われていきますから、最も内部にある内蔵や脳こそが腐りやすい部位です。そこで、彼らは内臓と脳を遺体から取り除くことにしました。肉体を残すのには熱心でも、内臓や脳は腐らせないために取り出してしまうというのは発想の転換ですね。表面積も広がって乾燥しやすくなります…
ミイラ 古代エジプト史 プトレマイオス朝の神官マネトーの分類に従った古代エジプト史の概観 カバの危険性について
この第一急湍の上下にそれぞれ国ができたのですが、前3125年頃にそれを統一したのがメネス王(0王朝のナルメル王とされることもあれば、メネスとナルメルは同じ人物ではないかと言われることもあります)です。この王は60年以上も統一エジプトを支配したことに加え、カバに殺されたことでも有名です。 意外に思われるかもしれませんが、実はアフリカで最も人を多く殺している野生の獣はカバであると言われます。今でも300…
ミイラ エジプトの自然ミイラ 砂に埋めた遺体は自然とミイラ化 遺体を尊び棺桶に入れるとむしろ腐敗しやすくなるという皮肉
霊が肉体に戻ってきた時に肉体が朽ちて無くなってしまっていては、霊は依代を失ってしまいます。そこで、肉体をそのままに残そうとミイラ化に執心したのですね。 ピラミッドが建設されるより遥か以前、支配者たちの葬儀の際には北方の土を避け、砂地のある南方で埋葬されていたそうです。これも、土の下に埋めると土壌細菌の働きで遺体が腐敗してしまうためでしょう。この時代の乾燥した遺体が少なからず発見されています…
ミイラ エジプト死生観 ミイラを生み出したエジプトの死生観と神話 オシリスは弟のセトに殺され、バラバラにされるが、ミイラとして復活する
エジプト人の死生観は、まず神話に色濃く現れています。古代エジプトは多神教の国でした。その主要な神がオシリス神です。 オシリスには、女神イシス、女神ネフティス、男神セトの3人の妹弟がいました。そして、有力者の特権が姉妹との結婚だったエジプトらしく、オシリスはイシスと、セトはネフティスと結婚しています。 オシリス神は弟のセト神の奸計にはまり、殺害されてしまいます。もっとも、その背景にはセト…
ミイラ アンデスのミイラ6 ミイラが権力を持ち続けたことで皇帝の権力は制限され、解消しようとしたときにはスペイン人の征服がはじまっていた
ミイラが持つとされた力は領土拡張にも役立ちましたが、一方で国内政治を複雑にもしていました。ミイラが生きている時と同じように扱われたため、新たに即位した皇帝は死んだ皇帝の領土を引き継げませんでした。では、皇帝ミイラが支配することになっていた地域を実際に治めていたのは誰かというと、側近たちです。既に死んだ皇帝の側近たちは、ミイラの権威を盾に生きた皇帝の権威に従わなかったのです。 死んだ皇帝の側…
ミイラ アンデスのミイラ5 生きている時と同じように尊重された皇帝のミイラ 領土拡張に利用されたミイラ
また、当人も覚悟を決めていた事例もあることが、『
ミイラ アンデスのミイラ4 アンデスの山頂で見つかった「氷の少女」 生贄に捧げられる子どもたちについて
また、ミイラにはまだ弾力があり、生前の姿をそのまま残していました。この点からも貴重な歴史史料となったのです。 3体のミイラは15歳の少女、7歳の男の子、そして6歳の少女です(年齢は推定です)。彼女らは、生贄に決まったときから、来たるべき犠牲の日に備えて、特別な待遇を受けました。遺体の分析から、死の1年ほど前から栄養状態が著しく改善したことが明らかになっています。また、コカも同じ頃から与えられ、死…
ミイラ アンデスのミイラ3 神に捧げられるため、候補者の女子は処女であることが求められる 山頂で発見された生贄にされた子どものミイラ
スペイン人が記録している記録には生贄についてのものもあります。犠牲になるのは子どもたちで、その理由は「純粋なので神々と過ごしやすいから」とのことです。子どもたちには、神々と人々との仲介役が期待されました。その役割から、生贄にされる子どもたちは神聖視され、尊崇されました。 聖性を保つため、女の子には処女でいることが求められました。この特別な女性は、「選ばれた女性たち」を意味するアクリャと呼ば…
ミイラ アンデスのミイラ2 インカ帝国がミイラ文化を持つ西海岸砂漠地帯を飲み込んだ際、ミイラ文化がインカ帝国へ入る
ミイラ文化の栄える西海岸砂漠地帯を領土として取り込んだ際、ミイラ信仰もまたインカ帝国に入り、新たな文化が花開くことになります。 インカ帝国はスペイン人によって滅ぼされることになるのですが、その際にスペイン人たちがインカ帝国についての記録を残しているため、少なくともインカ帝国末期における文化についてはある程度はっきり分かっています。 エジプトではミイラは埋葬されましたが、インカ帝国では家族が…
ミイラ アンデスのミイラ 世界最古のミイラを生み出したチンチョロ文明について
長期間に渡って行われた風習で、悪霊を遠ざける、美の追求などの説が唱えられているのですが、上述の通り南米の文化は文字を持たなかったため、理由は分かりません。 なお、頭蓋骨の変形についても地域差があるようで、縦に長く延した円錐形の変形は高地から、前後から潰したような扁平系は海沿いから発見されることが多いそうです。 骨の形状から民族や生前の生活を探る人類学者にとっては、このような強制的な変形…
ミイラ アンデスのミイラ1 世界最古のミイラは極度に乾燥した地域である、南米で生まれた 最初のミイラと頭骨の変形について
総論はこれまでにして、もう少し地域ごとに個別の事情を見ていきましょう。 世界で最も古いミイラをご存じでしょうか?それは意外なことに、エジプトとは縁もゆかりもない、南米はチリのアタカマ砂漠から出土しています。 この地に栄えたチンチョロ文化で前5000年ほどのミイラが発見されているそうなので、エジプトよりも遥かに古い時代からミイラ化が行われてきたことになります。ただ、南米の先住民は文字を持たな…
ミイラ ミイラの価値が下がったら? 迷信で病気に効くとされたため、ミイラは粉末にされ、薬にされたこともある
ミイラそのものの価値も高いのですが、その遺品から、5000年前の暮らしの模様を知ることができたことから、史料的な価値が極めて高いものです。『
ミイラ 中国のミイラ、寒冷地のミイラ 中国の馬王堆漢墓から発見された貴族の婦人のミイラ 5000年前の生活を今に伝える「アイスマン」
中国でも複数のミイラが知られています。そのうち最も有名なものの1つは、馬王堆漢墓から出土した、前漢時代に長沙国の宰相だった李蒼の妻の辛追のものでしょう。血管にはまだ血液が残っていた、というほどの保存状態でした。遺体は水銀液の溶液に浸されて防腐処理された他、棺は5トンにもなる大量の木炭で覆われて遺体からでた水分が吸湿されて速やかに失われるようになっていました。 こうした処理の結果、遺体に損傷は…
ミイラ 泥炭地のミイラ2 泥炭地のミイラはいずれも冬至の頃に殺されていたため、儀式と見られる ミイラの発見から解決した殺人事件について
なぜ彼ら、彼女らは殺害されて泥炭地に沈められたのでしょうか。『
ミイラ 泥炭地のミイラ ヨーロッパの泥炭地から見つかるミイラには殺害された跡がある 処刑か儀式か
このブログでも、過去、ローマ2 ゲルマニア3 ビールとハチミツ酒は魅力だけど食べ物は恐ろしそうなゲルマニアにおいて以下の文章を載せているとおりです。 『
ミイラ 遺体をミイラにする50の方法2 塩漬け、燻製、死蝋化など、様々な方法でミイラは生じる
例えば、イランの岩塩坑から発見されたミイラは塩漬けになることでミイラ化したものです。この場合、塩が強力な吸湿剤として働くため、遺体から急速に水分が失われるのですね。仮に水分が残っていたとしても、塩分濃度が一定以上高まれば、細菌が生化学反応に利用できなくなりますから、遺体は腐敗せずに保たれるようになります。 あるいは、パプワニューギニアのアンガ族は死者の脂肪を抜き取ってから煙で燻して乾燥させ…
ミイラ 遺体をミイラにする50の方法 現在では皮膚の残った遺体はミイラと呼ばれる ミイラ化には様々な方法があり、保存食の技法はそのままミイラ化の技法でもある
日本のように多湿な地域で暮らす場合、遺体はほどなくして腐敗を始めます。現代では遺体が放置され、腐敗して朽ちていく姿を見ることは(検屍官などの一部の方を除いて)そうそうないでしょうが、少し年代を遡れば遺体が朽ちていくのは当然のことで、その移り変わりは例えば九相図のような形で残されてきました。 腐敗した遺体は悪臭を放つだけではなく、腐敗菌によって周囲の者に健康被害を与えることもあったでしょう。…
ミイラ ミイラの語源 日本語のミイラはポルトガル語のMirraから 更にその語源は没薬(Myrrh)または瀝青(Mummiya)に行き着く
上野の科学博物館において現在ミイラ展が開催されています。折よく前漢の項が終了したことを受け、一時的にいつもの連載を中断し、ミイラについて記すことと致します。お付き合いいただけると幸いです。 ミイラという言葉は、没薬(Myrrh)またはアラビア語のMummiyaを起源とします。前者の説を採るならミイラの防腐処理に没薬が使われていたこと、後者なら7世紀にエジプトを支配したアラブ人がミイラのあの色を瀝青に起…
前漢武帝後 簒奪2 幼児の劉嬰から玉璽を奪い、自ら皇帝となる 新たな帝国の国号は、王莽が封じられた「新都」から、「新」と名付けられた
王太后は王莽の娘を皇后に冊立することを認めました。また、皇帝の義理の父となった王莽には宰衡の称号が与えられました。この聞き慣れない称号は、殷王を補佐した伊尹の阿衡と周王を補佐した周公旦の太宰から採ったものです。自分の野心を優先させる王莽がこの両名を慕っていたと言われても、何の冗談かと思ってしまいます。 この結婚は、王莽の娘にとって不幸でしかないものになっていきます。その悲しい未来はもう少し…
前漢武帝後 簒奪1 王莽は衛一族を都にすら入れないことを諌めた息子すら殺し、平帝の皇后に自分の娘を送り込んで権力を盤石なものとする
王宇は衛一族を長安に入れるよう、父の王莽に働きかけます。ところが、王宇の行動は王莽の激しい怒りを買い、王莽は王宇やその義兄の呂寛を殺し、平帝の叔父の衛宝、衛玄をはじめ、衛姫以外の衛氏一族を皆殺しにしてしまいました。 平帝が即位した前1年、益州南方の越裳(えつしょう)氏が白雉1羽と黒雉2羽を献上します。これは周公旦が摂政の際に、その徳を慕って越裳氏が献上した故事を踏まえてのことです。これは王莽…
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