漢武帝 朝鮮併呑3 漢の包囲を受けた王険では和平派が朝鮮王を殺し、漢に降る 漢は広大な地域を手中に収め、大帝国へと成長した
王険の内部では先行きに不安を覚えた人々が降伏してしまいます。更に、降伏派は刺客を送って衛右渠を暗殺させてしまいました。それでも漢への抵抗は続いたのですが、荀彘は衛右渠の子の衛長や降伏した高官たちに降伏を呼びかけさせる一方で、反乱軍の中核部隊を叩き潰すことで朝鮮半島を平定し、漢は楽浪郡など4郡を設置しました。前108年のことでした。 帰国した将軍には、しかし過酷な運命が待ち受けていました。左将…
漢武帝 朝鮮併呑2 入朝することになった王子、部下の武装を解かせないことから揉めて帰国したことから漢の攻撃が再開される
こうして太子が入朝することになったのですが、太子としては無防備で漢に向かうのは抵抗があったため、完全武装した1万余りの軍を連れて国境の川を渡ろうとします。しかし、それは漢軍にとっては奇襲攻撃を受ける懸念を惹起しました。衛山と荀?は、太子が心変わりしたかと疑い、「降伏したのだから、部下の武装を解け」と命じます。太子は騙し討ちを疑い、引き返してしまいました。 衛山がこの経過を武帝に報告したところ…
漢武帝 朝鮮併呑1 朝鮮は服属の際の条件を反故にして交通を阻害したため、漢は軍を送る 朝鮮王は地面に頭を擦り付けて降伏を誓う
衛満は漢の強大さを知っていたため、独立はしましたが、藩国となって漢に服属する道を選んでいましたね。その際の条件の1つに、周辺国が漢に使者を送った場合、妨げてはならないというものがありました。しかし、衛右渠はこの約束を反故にし、周辺国の使者を妨害しました。また、漢からの亡命者を多数受け入れ、漢への入朝は拒否していたため、漢はこれを座視できなかったのです。 そこで、漢は渉何を衛右渠のもとへ送り…
漢武帝 司馬遷 司馬談は封禅の儀に立ち会えなかった悔しさから没し、息子の司馬遷に太史公の地位と書きかけの私的歴史書を託す
さて、司馬談はもともと重篤な病だったのか、封禅の儀に立ち会えなかった悔しさからか、間もなく世を去ります。彼は歴史書の編纂も手掛けていましたが、それは息子に託さざるを得ませんでした。その息子こそ、司馬遷です。 司馬遷は幼い頃から字を教えられ、10歳では尚書を諳んじたそうです。司馬遷はまた、董仲舒に師事し『春秋公羊伝』を中心に儒学を習っています。恵まれた環境にあったのですね。 更に、彼は20歳…
漢武帝 封禅の儀2 天文官の司馬談ら、封禅の儀の内容を調べようとするが、はっきりしないまま武帝は封禅の儀へ向かう
泰山で何を行えば良いのか、という正解の無い問題に取り組むことになったのは、天文官たちです。 古代中国では、天がその意思を天体現象に表すと考えていたため、夜空の観察が体系的に行われていました。また、そのような成り立ちから、天を祀るためのことも管掌しました。現代的な感覚ですと、なぜ天文官が儀式のことを考えなければならないのか不思議な感覚ですが、当時では至極当然だったのです。更に、天文と関係の深…
漢武帝 封禅の儀1 宝鼎が発見され、黄帝のときと同じだとか周の遺徳を継ぐものだとの阿諛追従が行われたことから泰山の儀式が話題に登る
平準法とは、均輸法の欠点を埋め、かつ民衆の負担を軽減するもので、その内容は『
漢武帝 南越併呑3 南越は漢の送り込んだ小規模部隊は全滅させるが、続いて送られてきた大軍には抗し得ず、滅ぼされて漢の一地方となる
この中途半端な兵力は、呂嘉個人にとっては脅威ですが、南越国としてはなんということもないものです。呂嘉が生き延びるには、南越の軍を手中に収めなければならなくなったわけです。 呂嘉は、この場合に取るべき行動を躊躇うような人物ではありませんでした。将軍となっていた弟と共に兵をあげると、太后と南越王、更に漢の使者を討ち取ったのです。そして、南越王趙嬰斉の異母兄趙建徳を王位に就け、自分の傀儡としまし…
漢武帝 南越併呑2 南越の丞相呂嘉、漢に傾きつつある王族への反発を集め、王族との対立が深まる 漢は強硬策を採用、小部隊を南越に送る
南越の高官には漢から職位を表す印綬が与えられ、漢と同じ法律が適用されることが命じられました。漢では廃止され、南越では残っていた肉刑も同様です。 しかし、独立していた国が他国に服従するということになれば、面白くないと思う者は大勢いるものです。そうした人々の望みを担うことになったのが、丞相の呂嘉です。 呂嘉は趙胡の代から3代に渡って仕えてきた老臣で、その一族は王家とも縁戚関係で深く結びつい…
漢武帝 南越併呑1 南越の王族は漢からの人質要求を拒否 漢は越の太后の昔の愛人を使者に送り込む
さて、劉勝が世を去ったのと同じ前113年、漢は南越へ軍を派遣します。 武帝は前135年に?越に攻められた南越を救ったことがあります。これが武帝の対外攻勢の嚆矢となったのでしたね。?越の攻撃を受けた時の南越王は趙佗の孫の趙胡でしたが、このときには更に趙胡も没しており、超胡の孫の趙興が即位していました。 趙興の父で先代の王の趙嬰斉はかつて長安で人質となっていたことがありました。趙嬰斉はここで見初め…
漢武帝 均輸法 前115年、物資の質の確保と輸送費削減を目的に、均輸法が制定される
ややこしいことに、どうせだからと武帝即位に遡って元号が設定されました。即位した前140年から前135年が建元、前134年から前129年が元光、前128年から前123年が元朔と続きます。よほど「元」に思い入れがあったのでしょうね。 元号の発明さえ無ければ、現代の日本で年齢の計算がややこしいという、大変に非合理的なものが使われることは無かっただろうにと思うと、少々残念な出来事だったように思います。 前115年…
漢武帝 霍去病の死 前117年、霍去病は24歳の若さで世を去り、息子の霍嬗が後を継ぐ 元号の始まり
一方、農機具に欠くことが出来ない鉄についても、鉄鉱石の産地が限られていることから専売が容易でした。こちらは全国50箇所の鉄鉱石の産地に鉄官を置いて製鉄と鉄器販売を監督させる方式でした。 塩や鉄への徴税そのものは、専売制以前にも行われていました。しかし、それは民間業者への課税に留まり、また納税先も皇室の財を管轄する少府でした。ということは、どれだけ納税があったとしても、それは戦費不足に対する解…
漢武帝 塩の専売 贋金の蔓延に苦しんだ漢、桑弘羊の案で塩の専売を開始する 塩を専売にすることができる背景について
実際に5銖銭の流通が始まったのは、翌年の前118年からです。しかし、銭の発行を諸侯国にも許していたことから、品質のバラツキが非常に大きく、前113年に貨幣鋳造を漢中央のみが行えるようにするまでは盗鋳が相次ぎました。死刑になった者が数十万人に及ぶ、とされます。 人口3000万程度の当時で数十万人ということは、人口の1〜2%が処刑された計算なので、流石に大げさだと思いますが。 前117年には爵位を1級17万銭で…
漢武帝 武帝の貨幣改革 白鹿の皮から作った皮幣や合金からなる貨幣が造られたが、贋金が大量に造られ、改革は破綻
ともあれ、この法律に選って多くの商人が破滅に追い込まれていくことになります。 ちなみに、この頃の丞相は李蔡という、李広の従兄弟に当たる人物でした。では李蔡がこれらの政策を仕切ったのかというとそうではなく、丞相はもうお飾りの存在となっていて、実務上の官吏のトップは御史大夫となっていました。すなわち、張湯が実務のトップでした。 前120年には白シカの皮で作った皮幣を40万銭で売り、宗室の入朝時…
漢武帝 勝利の裏側 大量の軍馬が失われたためこれ以上の攻勢は不可能に 戦費の消費も著しく、財政はとても耐えられないレベルだった
さて、勝利は華々しいものだったのかもしれませんが、漢の被った損害もまた、甚大なものでした。遠征に向かったウマは14万頭でしたが、帰国したのは3万に過ぎません。勝利を挙げた霍去病にしても、その軍の3割は失われていたのでした。 大量のウマを失ったことは、漢から匈奴への攻撃が困難になったことを意味します。一方、大敗が続いたことから匈奴は北方へ大きくその勢力を後退させましたから、両者の戦いは大きく減じ…
漢武帝 李広の死2 言い訳を延々とするよりも、李広は潔い死を選ぶ
李広は、これまでの戦いに次ぐ戦いの日々を思い返すと、「私が道に迷ったのであって、部下に罪はない。今から自分で報告書を書く」といって、本営に向かいます。そして直属の部下に、「私は元服してより、匈奴と70回以上戦った。幸いにも大将軍に従って遠征して匈奴の単于と戦えるものかと思っていたが、周り道を命じられた上に道に迷ってしまった。これも天命であろう。齢60を越え、いまさら木っ端役人の相手などしたくない」…
漢武帝 李広の死1 李広の戦死を恐れた武帝は無理に攻撃させないよう衛青に命じていた 衛青は匈奴に勝利するが、単于は取り逃がす
遠征に際して、李広は出撃を望みましたが却下されています。それでも何度も願うため、根負けした武帝は李広を前将軍に任命し、衛青の指揮下で匈奴攻撃に参加させたのでした。ただし、武帝は李広は老いて、運の悪い人物なので、無理に攻撃をさせないようにと衛青に伝えていました。 そのため、単于の居場所を捕虜から聞いた衛青は、李広と軍を分け自分は西の道を進み、回り道になっている東の道から李広を進ませたのです。…
漢武帝 シルクロード 先進的な西方文化との交易により、中国からは大量の黄金が流出するようになる
しかし、西域との貿易は、漢にとって必ずしも良いものではありませんでした。宮崎市定『
漢武帝 張騫の再派遣 張騫は今度は烏孫と結んで匈奴を討つべく西方へ使いするが、烏孫は漢を知らず同盟を拒否するも、河西回廊に通商路が開かれる
翌前119年、張騫は匈奴との戦いを有利にすすめるべく、月氏との同盟に代わる新たな策を武帝に具申し、認められます。その策とは、烏孫との同盟でした。 烏孫はかつて匈奴に服属していたのですが、現在の王である昆莫(こんぴ)の父が匈奴に殺害されたことから、西方へ逃れて匈奴から離れていました。この烏孫を、漢に降伏した渾邪王の土地に入植させ、漢と結んで匈奴に対抗しよう、というのです。 このような策は、…
漢武帝 霍去病無双1 公孫敖軍との合流に失敗した霍去病、自軍だけで匈奴深く攻め入り大戦果を挙げる 敗戦の責任を取らされそうになった渾邪王は漢に降る
一方、霍去病の軍は公孫敖の部隊との合流に失敗したのですが、自分たちの部隊だけで居延の河を越え、祁連山にまで至り、匈奴と戦って大戦果を挙げました。武帝が「降伏したもの2,500人、あげた首級と捕虜は30,200、5人の王、5人の王の母、単于の閼氏(単于の正妻の称号)、王子59人、相国・将軍・当戸・都尉あわせて63人をとらえた」(『
漢武帝 東方朔2 博覧強記で怪異にも詳しく、その名は伝説となって「鶴は千年亀は万年、東方朔は八千歳」と謳われた
博覧強記で怪異にも詳しく、函谷関で武帝の行く手を塞いだ怪物の正体を消す方法を教えた、などという荒唐無稽な話も伝わっています。後世では話に尾鰭が加わっていき、やがて西王母の飢えた3000年に1度しか実をつけない桃の実を3つも盗んだなどとどんどん人間離れした物語ができていきます。その桃を食べた東方朔の寿命は8000歳になり(ということは、まだご存命なはずなのですが、残念ながら武帝が死ぬ前に世を去っています)…
漢武帝 東方朔1 東方朔は木簡3000枚もの自薦の上奏文を奉り、採用される
張湯の性格について、司馬遷は「偽りが多く、知恵で操った」と散々な評価をしています。しかし、上書を武帝に咎められた際には「部下が帝の仰るとおりのことを進言してくれてはいたのですが、臣が愚かだったためにお叱りを受けることになってしまいました」と、部下を褒めるようにしていたそうですから、部下として仕えるには良い上司だったのかもしれません。 しかし、武帝が罰したいと思う者は厳しい罰を与える廷吏に、…
漢武帝 淮南王の反乱2 戦後処理で、反乱を自首した伍被は処刑され、劉安の一族は滅ぼされる 諸侯王の締め付けは強化される
反乱計画を自首した伍被については、武帝は許そうとしたのですが、張湯は「伍被は淮南王の反乱計画の中心にいた人物であり、その罪は許されるべきではありません」と上奏したため、伍被もまた処刑されてしまいました。 こうして淮南国は取り潰しとなり、九江郡へとなったのでした。 淮南王劉安の弟に、衡山王劉賜がいます。この兄弟は仲が悪く、互いに非難する間柄ではあったのですが、漢に背いて天下を得ようという…
漢武帝 淮南王の反乱1 『淮南子』で知られ、匈奴戦に反対だった淮南王劉安、反乱計画を巡らせるが、内通者のため計画は露見し自害する
同じく前122年、淮南王と衡山王の反乱未遂事件が発覚します。 淮南王劉安といえば、呉楚7国の乱が起こった際、反乱に与しようとしたものの、部下に兵士を奪われて反乱に参加せず、そのために生き残った人物でしたね。 彼は入朝した際、武帝が太子を立てていなかったことから、「陛下がお隠れになったら大王様の他に後を継いで即位なさるべき人は他にいらっしゃらないでしょう」と田蚡に言われたことから野望を抱く…
漢武帝 張騫の帰国3 張騫の得た情報により、漢軍はオアシス伝いに遠征するようになる 張騫は出征するが、集合に間に合わず、平民に落とされる
なお、香料の1つの安息香はこの安息に由来します。有機化合物で重要な骨格をなすベンゼンは安息香の主要成分である安息香酸から得られたことから名付けられたものです。安息香酸はベンゼン環にカルボキシル基(-COOH)が付いた単純な構造をしているので、高校の化学にも顔を出しますね。学部生の実験でも合成することがあると聞きますので、興味がある方は科学科を進路に選ばれても良いかもしれません。 話が逸れました。…
漢武帝 張騫の帰国2 何とか月氏のもとへ辿り着いた張騫だったが、月氏は安定した暮らしを得て匈奴への対抗心を失っていた 帰途もまた匈奴に捕まる
大宛から康居を経てようやく月氏のもとへたどり着いた張騫でしたが、月氏との同盟は成りませんでした。月氏が逃げ込んだ先は豊かな土地な上に、周りにライバルがいません。おまけに、東西貿易の中間点だったため、安定した生活を楽しんでいたのです。当然、強敵が待ち受け、困難な戦いに勝利しても痩せた土地しか手に入らないというのでは、復讐など考えないでしょうね。 10年以上の軟禁生活を送って、なんとか目的地に到…
漢武帝 張騫の帰国1 出国した直後に匈奴に捕らえられた張騫の苦難の旅 10年以上の監禁から脱出し、フェルガナに至るが月氏は更に西へ移っていた
他にも、勝手に諸侯王と君臣関係を結ぶことを禁じた左官の令、勝手に税を重くしてはいけないという附益の律、中央から派遣された官吏が諸侯王の罪過を知りつつ報告しなければ罰せられるという阿党の令など、諸侯王の力を削ぐための法律が制定されていきました。 これらの施策は皇帝に権力を集中させるもので、郡県制を採用した秦の在り方に近づくものでした。諸侯王の反乱を未然に防ぐという意味では、確かに重要な意味を…
漢武帝 推恩の令 諸王の力を削ぐため、封国の相続を男児に均等に分けさせるよう法律が変わる
慌てた右賢王は愛妾と側近数百騎のみで包囲切り開き、追撃を振り切って北方へと逃げ去りました。残された者は降伏し、漢軍は男女合わせて1万5000人余り、家畜を数十万頭も鹵獲しました。大勝利です。 匈奴は敗北したとはいえ、大ダメージを受けたというわけではないため、同年秋には代に侵入してきました。これを受け、翌年に衛青は出撃します。兵力3000の部隊が数万の匈奴に遭遇してしまい、壊滅的な被害を受けるという…
漢武帝 飛将軍李広3 平民に落とされた李広だったが、その手腕と知識は捨て置かれず、匈奴が遼西の太守を攻殺した後、李広は復権を遂げる
何とか生還した李広でしたが、敗戦の罪は死罪相当です。やむなく金銭で贖って庶民へ落とされました。これでは将軍はたまったものではありませんよね。 漢初は戦いが続いたため、敗戦にも理解があったのでしょうが、戦乱の世の中になると理念ばかりが先行して、このような過激なことになっていったのでしょうね。平和な江戸時代になって、武士道だの刀は武士の魂だのと、現実から遊離した夢物語が語られるようになったのと…
漢武帝 飛将軍李広2 李広と同時期に活躍した程不識と李広の違い 李広は兵士を自由にさせたことできちんと働かせた
捕虜を縛ってウマに乗せて匈奴の方を見ると、匈奴の騎兵数千の姿が見えました。戦えば全滅することは確実です。部下の騎兵たちは速駆けして陣地に戻りたいと主張しましたが、李広は逃げ出せば追われて全滅すると言って、匈奴に近づき、ウマから降りて鞍を外すよう命令します。 匈奴に囮の部隊と思わせたのですね。 白馬に乗った将校が敵の中から出て、部下に指示を出し始めます。それを見た李広は直ちに10騎余りを率…
漢武帝 飛将軍李広1 呉楚七国の乱に参加して活躍するが、不運も重なり昇進はできなかった 鎮圧後は匈奴との最前線で奮闘、、石に立つ矢の故事を生む
李広については、文帝と共に狩りにでかけた時に武勇を見せ、高祖の時代に生まれなかったことを惜しまれた人物として既に触れていますね。彼は景帝の時代には隴西の都尉となり、騎兵を率いていました。 隴西の太守だったとき、羌族が背いたことがあります。李広が降伏するように説いた結果、800人が応じました。しかし、李広は結局彼らを殺してしまいました。従兄弟の李祭は李広と同時期に出仕して出世を重ねていたのに李…
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