前漢武帝後 霍光の政策 武帝の治世で疲弊した国を立て直すべく、恤民政策が優先された 上官桀、外戚として権力を握ろうとする
霍光と上官桀の関係を見る前に、霍光政権の政治姿勢について見ておきましょう。 武帝の治世を承けた昭帝期の政治課題は何より民を休息させ生活を安定させることであった。そのための方策を霍光は進めていく。昭帝即位の翌年、使者5人を全国に遣わし、賢良を推挙させ、民の疾苦するところ、冤罪により職を失った者を問わせた。その翌年春には、種籾のない貧農にそれを貸与し、秋にはその返済を猶予し田租も免…
前漢武帝後 劉旦 燕王劉旦、昭帝即位の事情を怪しみ、実力で帝位を得るべく反乱の準備を整えるが、計画は露見して一味は捕らえられる
仮に、霍光らが武帝の意向を無視して(または武帝が後継者を示さないまま死んだために)操りやすい昭帝を擁立したとして、私が霍光の立場なら、事情の如何に関わらず「武帝が劉弗陵を後継者と定めた」と称しますから、この報告は不自然なものでは有りませんね。 おまけに、昭帝には母の胎内に14ヶ月も留まっていたという話があり、実は武帝の子では無いのではないか、とも囁かれました。なんと、その父は霍光である、とい…
前漢武帝後 昭帝即位 丞相や御史大夫といった官僚のトップを差し置いて、裏技的なやり方で霍光が権力を握る
遺詔で定められた通り、8歳の劉弗陵が即位します。これが昭帝です。 昭帝はわずか8歳の子供に過ぎませんから、当然、政治上の重大な決定などできません。そこで上述の体制で政治が執られるはずだったのですが、実際には霍光がほぼ全権を握ってしまいます。 なぜ将軍が権力を握ることができたのでしょうか。それは意外な、制度の盲点をついたものでした。 霍光は九卿の1つで皇帝一族の税や雑務を司る少府の、そ…
前漢武帝後 武帝の葬儀 武帝の葬られた茂陵の倍葬簿にはかつての重臣たちが眠り、現在は博物館が建てられ顕彰されている
武帝が甘泉宮を訪れた際、莽何羅たちは夜に宮殿へ侵入、武帝を殺そうとしたのです。しかし、金日?が彼らを遮り、格闘の末に莽何羅を宮殿の下に投げ飛ばして捕縛します。そして霍光と上官桀は彼らの一党を余さず捕らえたのでした。この一件で、3人への武帝の信頼は揺るぎないものになっていたのです。 政治面については桑弘羊を御史大夫に昇進させて丞相田千秋を支えさせました。既に述べたとおり、田千秋はただ劉拠の無罪…
前漢武帝後 昭帝即位 武帝は霍去病の弟の霍光、匈奴から降った金日磾、上官桀の3名に後事を託し、死去するこの3人について
翌日、侍中・奉車都尉・光禄大夫の霍光、侍中・駙馬都尉・光禄大夫の金日磾、太僕令の上官桀の3名が病床にある武帝のもとへ参じます。武帝はこの3名に、劉弗陵を補佐することを頼みました。そして、霍光を大司馬大将軍、金日磾を車騎将軍、上官桀を太僕兼左将軍に昇進させました。いずれも軍を握る立場ですから、彼らの軍事力を頼みとしたわけですね。 霍光は霍去病の異母弟に当たります。異母兄が夭折した後も武帝の厚…
漢武帝 武帝の死 前87年、後継者として8歳の劉弗陵を定め、武帝は世を去る 劉弗陵が定位を継いだ背景と、野心家劉旦について
武帝の後宮には7、8000人の女性がいたとされますが、そのうち男児は6人しかいませんでした。 劉拠が死んだことで、武帝の男児の中で最年長となったのは燕王劉旦です。彼が自分が次の皇太子であると考えるのは、極めて自然な流れだったことでしょう。劉旦は学問もすれば狩りもするという、文武に関心を持つ人物でした。そして、野心もあったということですね。 しかし、劉旦が父の武帝に、長安で警備に当たりたいと願…
漢武帝 李広利の破滅2 李広利は遮二無二匈奴を攻めるが、無茶な進撃は破綻を来し、軍は敗北して李広利は匈奴に降る 李広利の憐れな死
しかし、ここが李広利の攻撃の限界点でした。漢軍の疲弊を悟った狐鹿姑単于は、自ら5万騎を率いて李広利に夜襲をかけます。無理な進軍で疲れ切っていた李広利の軍は敗北しました。 大勝利の夢が潰えた今、李広利に残されているのは、漢に戻って処刑されるか、戦い続けて戦死するか、降伏するかの3つしかありません。そして、李広利は3つ目を選びました。当然のことですが、人間、降伏するくらいなら死ねと言われてもなか…
漢武帝 李広利の破滅1 出陣の前夜、李広利は劉屈氂に昌邑王劉髆が皇太子になるよう働きかけるが、密談が漏れて劉屈氂は処刑、李広利の家族も囚われる
出陣の前夜、李広利は丞相の劉屈氂との酒宴を開きます。劉屈氂は李広利の娘を娶っていましたから、2人は義理の親子関係に会ったのです。宴席上、李広利は妹の李夫人と武帝の子である昌邑王劉髆が皇太子となるよう密談します。 翌日、李広利は渭橋まで見送りに来た劉屈氂に、「早く昌邑王を太子に立てるよう、陛下に願ってください。昌邑王が帝となれば、貴方には何も憂いがなくなるでしょう」と説きます。 確か…
漢武帝 武帝の後悔 田千秋という老人の諫言を受けた武帝は皇太子を失ったことを悔やみ、息子の廟を建てて涙を流す
さて、巫蠱の禍という一時の騒乱が終わって落ち着いてみると、武帝にも劉拠が反乱を起こしたとは思えないようになっていきます。そこにやってきたのが、秦に滅ぼされた斉の王族を出自にもつ田千秋なる身の丈8尺(184cm)もある老人です。彼は武帝に「子どもが父親の武器で遊べば、その罪はムチ打ちに当たります。天子の子が誤って人を殺したのなら、どのような罪となるでしょうか」と言って、武帝に劉拠の無実を訴えました。そ…
漢武帝 史記の改変 武帝後の前漢を知るための書、漢書 司馬遷と班固の置かれた境遇は史記と漢書の性格の違いを際立たせることになる
また、父の司馬談が執筆に関わっていたこともまず間違い有りません。「私はだれそれから直接話を聞いた」というような記述があります。例えば刺客列伝の荊軻による始皇帝暗殺未遂事件について、「太史公」は薬嚢を投げて始皇帝を救った夏無且と付き合っていた公孫季功と董生が話を聞いており、それを話してもらったと記しています。 始皇帝暗殺未遂事件が前227年、司馬遷の誕生には諸説ありますが、前145年としても、話を…
漢武帝 史記の改変 史記の武帝に関する記述は後世書き換えられている
史記の結びを思い返してみましょう。麒麟ではなく、方士についてが最後の記述でしたね。しかも、武帝についての伝記は「今上本紀」ではなく、同時代の人間には知りようのない「孝武本紀」です。武帝とは諡号ですから、武帝の死後にしか分かりませんからね。 これを考えると、司馬遷が著した武帝に冠する記述は失われ、現存するものは後の世に付け加えられたことが分かります。 武帝時代の最後の記述について、武帝が…
漢武帝 史記の結び 麒麟を捕らえたことを記して司馬遷は史記をかきあげたとしているが、これは春秋の結びと同じ 武帝への批判が込められた
任安のように明確な罪がある(私には彼はなすべきことをやったように見えますが)者のだけではなく、劉拠の寵愛を受けていた者たちには皆死刑判決が下ります。その中に張湯の息子の張賀の名前もありましたが、兄で衛将軍となっていた張安世が除名を願ったため、宮刑を受けて生き延びています。 さて、巫蠱の乱はこうして収束したわけですが、皇太子を失うなど、漢に残したダメージは小さなものではありませんでした。 …
漢武帝 史記成立 司馬遷自らが綴った李陵弁護の理由と宮刑を受けてでも生きて史記を書き上げようと望んだ心意気
司馬遷が宮刑に遭うことになった経緯も、彼自身の筆で綴られています。 私と李陵はともに侍史の官にあった。しかし平素はあまりつき合いがなかった。私たちの好みや志も異なっていた。一度もともに酒を飲み、情を尽くして歓び合うことはなかった。けれども私が彼の人と為(な)りを見るところ、節操を守る奇士である。親に事(つか)えては孝行、士と交わっては信義がある。財物に対しては廉潔、人とのやりと…
漢武帝 巫蠱の禍5 過酷な事後処理により、多くの者が処刑される 処刑の決まった任安に司馬遷が送った書簡「任少卿に報ずる書」について
劉拠には「戾」という諡が与えられました。このことから、劉拠は戾太子と書かれることもあります。この「戾」とは「悪逆な」を意味する言葉なので、彼の名は死後も辱められることになったのです。 事後処理は過酷なものになりました。衛皇后は自害させられ、その一族は滅ぼされました。同様に、劉拠の妻や子どもたち、子の配偶者たちまで殺されたのです。 一族だけではなく、反乱に少しでも与した者も死刑となります…
漢武帝 巫蠱の禍4 武帝は直ちに劉拠に兵を向け、長安城では皇帝軍と皇太子軍が激しく戦う 劉拠は敗北して逃げるが、追手に囲まれて自殺する
その頃、江充派の蘇文は甘泉宮に逃げ込み、武帝に劉拠が反乱を起こしたと報告します。武帝は反乱と即断はせず、劉拠を呼び出そうと使者を送りますが、この使者は劉拠のもとへ行くことすらせず、「殺されそうになったので逃げ帰ってきました」と報告してしまいました。 武帝は長安城西の建章宮に移り、近県の武器を集めさせます。 一方の劉拠は丞相府も攻撃します。丞相の劉屈氂は印綬を失いながら単身脱出し、事態…
漢武帝 巫蠱の禍3 劉拠に即位されては困ることになった江充は巫蠱で皇太子を追い込む 追い詰められた劉拠、江充を斬って反乱を起こす
劉拠は江充を不快に思うようになりましたし、江充もまたそのことを知ります。もし、このまま順当に劉拠が武帝の次の皇帝になったら、江充を待つのはただ破滅のみです。 江充はその危険を悟っていました。そのため、武帝から巫蠱事件の摘発を命じられた江充は、最終目標を劉拠の排除に置いて拷問を含む強引な捜査を開始します。それどころか、胡の占い師を連れてきて呪いの人形を掘り当てさせたり、酒をまいて儀式の痕跡を…
漢武帝 巫蠱の禍2 佞臣の江充、武帝の不調は巫蠱によるものだと上奏、皇族の取り調べに当たる そのターゲットは、皇太子劉拠
公孫敬声が陽石公主と密通していたとされたことから、取り調べは皇族にも及びます。閏4月、武帝の娘の諸邑公主と陽石公主、更に衛青の息子の衛伉が誅殺されます。この後、武帝が体調を崩して甘泉宮で臥せっている時に、江充という人物が「帝の病は巫蠱の呪いによるものです」と上奏したことから、独裁国家の醜悪な面が吹き出ることになりました。 江充は権力を平気で私する人物でした。江充は元の名を江斉と言います。出…
漢武帝 巫蠱の禍1 泣いて丞相任命を辞そうとした公孫賀、不正で逮捕された息子の公孫敬声を救おうと奮闘する中で、巫蠱を行っていると告発される
前任者たちの轍まないように気をつけたであろう公孫賀の失墜は、自身ではなく、息子の公孫敬声の振る舞いが発端になりました。 公孫敬声は父が宰相になったこと、皇后の甥であることから、次第に驕慢となっていきます。おそらく、阿諛追従する輩たちが拍車をかけたことでしょう。公孫敬声はかつて父もその任にあった太僕となりますが、権威を傘に不法行為に手を出し、獄に下されます。 公孫賀は息子を助けるために大…
漢武帝 蘇武2 蘇武はバイカル湖のほとりへ送り込まれ、「雄のヒツジが乳を出したら戻してやる」と無理難題を押し付けられる
匈奴はさらに蘇武を北のバイカル湖のほとりへ送り、「雄のヒツジが乳を出したら戻してやる」という無理難題を押し付けられたのでした。 降伏を断固拒否し、草を食みネズミを捕獲して露命をつなぐ蘇武の姿に、敵ながらあっぱれと感じ入った匈奴もいました。その1人が単于の弟で、彼らの援助も受けて蘇武は何とか生きていたのです。 李陵はこの蘇武のもとへ説得に訪れました。しかし、蘇武は旧知の李陵の説得にも頑として…
漢武帝 蘇武1 外交使節として匈奴を訪れていた蘇武、単于暗殺を巡る陰謀に巻き込まれて匈奴に抑留される
さて、李陵に対する厳しい処置については、武帝にも思うところがあったようで、李陵を取り戻すべく、公孫敖に命じて匈奴を攻撃させます。 公孫敖は匈奴に敗北し、目的を達成することができませんでしたが、捕虜から聞き捨てならない情報を入手します。すなわち、「李」なる将軍が匈奴に協力しているというのです。李陵は匈奴に寝返ったと判断され、妻子をはじめとする一族は皆処刑されました。 自分の一族が滅ぼされ…
漢武帝 李陵降伏の余波 李陵の降伏に激怒した武帝は李陵の家族を処刑、庇った司馬遷は死刑判決を受けるが死を逃れるため宮刑を選ぶ
匈奴の且鞮侯(しゃていこう)単于は李陵の戦いぶりを気に入り、自分の娘を李陵に与えます。李陵は厚遇されても、匈奴に協力することはありませんでした。 一方、生還した兵士から李陵が降伏したことを知った武帝は激怒します。朝廷でも、敢えて独裁者の誤りを指摘するような者はいません。いえ、司馬遷ただ1人は、李陵の奮闘を認め、無罪を訴えました。それすら武帝は許さず、司馬遷は獄に繋がれ、死刑と決まりました。…
漢武帝 李陵の降伏 李広利の遠征に李陵は参加するが、別働隊だった李陵が匈奴の本体と遭遇、衆寡敵せず、李陵は降伏する
辺境の人々の生活から離れ、歴史の流れに戻りましょう。 前99年、李広利は3万の騎兵を率い、祁連山へ匈奴の右賢王討伐に向かいます。この際、匈奴が李広利に集中しないように、5000からなる別働隊も派遣しました。この別働隊を率いたのが、李広の孫の李陵です。 李広には子が3人いました。長男の李当戸と次男の李椒は若くして亡くなっており、三男の李敢は李広が亡くなった時に、霍去病の下にいました。彼は武勇に優…
漢武帝 長城防衛5 燧が匈奴に囲まれた場合、あるいは更に燧の内部まで攻め込まれた場合の防御装置について
それでも匈奴が烽燧を囲んだ場合には、戦わざるを得ません。『
漢武帝 長城防衛4 敵発見の信号の詳細 大帝国を支える官僚機構の最末端として辺境の燧に配置された書記官
程度に応じた信号について、引き続き上掲書より引用します。 烽火品約には、これら5段階の危険度に応じて上げる烽と燃やす苣火や積薪の数を規定している。烽と苣火は昼夜による区別であるから、基本的に数が同じである。よって、日中の場合に限って品約を並べると、第1品では烽1、積薪なし、第2品では烽2、積薪1、第3品では烽3、積薪2、第4品では烽3、積薪3となる。そして、第5品では積薪の場所に到達できな…
漢武帝 長城防衛3 敵を発見した場合の連絡方法と合図の詳細 夜でも狼煙を挙げた燧が分かるよう、燧は弧状に配置された
戍卒の仕事としては、まずは天田のパトロールが挙げられます。不審な足跡は、何も匈奴のものとは限りません。逃げ出してしまう味方の足跡を探すことも含まれています。同じく、望楼から匈奴を見張ることも重要な仕事でした。 もし匈奴の姿が見えた場合、連絡をしなければなりません。なにせ、燧には多くて5人程度なのですから、とても対応などできませんからね。 主要な連絡手段は、籠に赤い布を被せた蓬、旗の一種の表…
漢武帝 長城防衛2 燧間の連絡や、燧に配置される人数、給与など 配置される中には受刑者もあり、彼らは無給だった
燧と燧の連絡は、狼煙が使われることも有りましたが、夜間であれば狼煙では役に立ちません。そこで、柴を燃やして光で合図をしたり、早馬を送ったりしました。早馬の場合、暗闇だと目的地を見失ってしまう危険性があります。そこで、燧は「馬糞や草を混ぜた白褐色の土で外壁を塗装して」(『
漢武帝 長城防衛1 趙破奴による遠征が失敗に終わり、漢は長城を整備して防衛体制を固める
前103年春、武帝は趙破奴に2万騎を率いさせて匈奴に侵入させます。 先に記したとおり、即位したばかりの児単于は残虐だったため、左大都尉は漢と組んで単于暗殺を図っていましたし、前105年冬には寒波が襲って匈奴では多くの家畜が死んでいましたから、漢は匈奴に付け入る隙をみていたのです。 匈奴の左大都尉は漢軍侵入の機をとらえて単于を暗殺しようとしますが、企ては露見し、左大都尉は処刑されました。趙破奴…
漢武帝 弐師将軍李広利3 漢軍に包囲された弐師城内では、和平派が王を殺して漢の条件を飲むことを決める
これは同時に遠征軍のバックアップも兼ねていました。この西域4郡からの補給を受け、李広利は順調に軍を進めます。周辺の小国も、李広利の大軍を見て李広利に食料を提供しました。 大宛軍は漢軍を迎え撃ちます。漢軍が弓隊を最大限に活用したため、大宛軍は敗北して弐師城に撤退しました。漢軍はここでいよいよ川を決壊させて流れを変えてしまい、弐師城内は渇きに苦しむことになりました。 包囲は40日に及び、外城…
漢武帝 弐師将軍李広利2 砂漠を越えての遠征は失敗に終わり李広利は漢に逃げ帰るが、武帝は入国を許さず兵を与えて再遠征へ赴かせる
李広利軍は郁成の軍に敗北を喫したため、彼らは弐師城へ向かうことは諦め、帰国することにします。何とか敦煌に戻るまで2年を要し、李広利と共に帰ってきたのは1割から2割ていどだったそうです。 壊滅的な被害と言えるでしょう。 李広利は一度軍を解散し、新たに軍を編成してから再遠征を行いたい、と武帝に上申しました。ところが、武帝は怒り、玉門関を封鎖して、「李広利の部下で命令に背いて帰国しようとする者…
漢武帝 弐師将軍李広利1 前104年、漢はフェルガナの千里を走り血の汗をかくという名馬を求めるが拒否され、フェルガナ遠征を企図する
同じく前104年、外交上の問題がもちあがります。 漢では匈奴との戦いに必要な名馬を必要としていました。西域との貿易で多くのウマを得てはいたのですが、まだまだ質も量も足りていない状況でした。そんな中、大宛の弐師(じし)城ではで1日に千里も走り、血の汗をかくという汗血馬を飼っている、との情報が漢にもたらされます。 「これは今日アラブ種として知られる、実はイラン高原を原産地とする肺活量の大に…
漢武帝 匈奴遠征再び1 前106年に烏維単于(ういぜんう)が死んで若く残忍な児単于が即位したことから、北辺は途端にきな臭くなる
遠征は行われてもその対象は匈奴ではなかったので、北辺にはしばしの平和が訪れていたのですが、匈奴側の状況の変化は再び両勢力を戦いに向かわせることになります。 前106年、匈奴の烏維単于(ういぜんう)が死去します。烏維単于の子の児単于が即位すると、漢は匈奴分裂を図り、単于と右賢王にそれぞれ使者を送ります。ところが、使者は2人共単于のもとへ連れて行かれ、漢の工作は露見してしまいました。当然、漢と匈奴…
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