前漢 匈奴2 史記の描く匈奴の姿 幼少の頃から騎射をよくし、中国とは全く異なる風習を持つ、恐るべき存在
(略)北方の未開地域に住み、家畜を放牧しつつ転々と移動した。その家畜は、数の多いものでは、馬・牛・羊があり、めずらしいものでは、橐駝(たくだ;駱駝)・驢(ろば)・驘(らば)・駃騠(けってい;馬の一種)・騊駼(とうと;野生の馬)・驒騱(てんけい;野生の馬)があった。水と草を追って移動し、城郭とか定まった住居はなく、耕作に従事することもなかった。しかしそれぞれの領地に分けられていた。…
前漢 匈奴1 血は水よりも濃いか?諸侯王に親族を据えて国の安定を図った劉邦 最大の外患、匈奴について
特に、封君が行われた当初、漢の直轄領が15郡に対して諸王の領地を合わせると30郡余りにもなっています。全土を直轄領とした秦と比べると、その脆弱さは明らかですね。 劉邦が気前よく報奨を与える人物だったことは、楚漢戦争に勝利する原動力にはなったかも知れませんが、同時に不安定さの種を撒くことになっていたのですね。前漢の前半は、この不安定さの解消の歴史とも言えるかも知れません。 漢帝国もまた、項羽…
前漢 諸侯国 広大な土地を与えられた諸侯王 諸侯王に与えられた権限と制限について
列侯の更に上位に置かれたのが、諸侯王です。功績が極めて大きな者、劉邦の一族が封じられました。その性格について、『秦漢帝国』はこう記しています 諸侯王と列侯を比較すると、諸侯王はその身分が列校より上位であった。その封地の広さも列侯とは雲泥の差があった。すなわち列侯のばあいには、その封邑は一県にすぎなかったけれども、諸侯王のばあいには、数郡数十県に及んでいた。 特…
前漢 楚王韓信4 自分が指揮する兵士の数は多ければ多いほど良い(多々益々弁ず)と自負を示した韓信
またある時、韓信は劉邦と指揮能力について会話を交わしています。会話は諸将についてのものから、互いのものへと移りました。 劉邦「朕はどのくらいの兵の将となれるであろうか」 韓信「陛下はせいぜい10万でしょう」 劉邦「では、そなたはどうか」 韓信「私は多ければ多いほど良いでしょう」 この時の韓信のセリフは「多々益々弁ず」というもので、多ければ多いほど上手に捌くことを言う慣用句として現代に残って…
前漢 楚王韓信3 韓信は自分を頼ってきた鍾離昧を売り渡すが、劉邦は韓信を捕らえ、韓信は『狡兎死して走狗烹らる』の言葉は正しかったと嘆く
そんな韓信に、「陛下は鍾離昧を恨んでいます。彼を斬ってその首を差し出せば陛下はきっとお喜びになるでしょう。案ずることはありません」と進言します。 韓信は鍾離昧を引見して相談すると、彼は「漢が楚を討たないのは貴方の下に私がいるからですぞ。もし貴方が私を捕らえて漢に媚びるというのでしたら私は今日にでも死にましょう。しかし、貴方もすぐに殺されますぞ」と言い、更に「貴方は大した人物ではない」と韓信…
前漢 楚王韓信2 陳平の策により、反乱疑惑の韓信と正面から戦うのではなく、出遊を口実に韓信をおびき出すことが決まる
また、地方を巡察する際、兵を連れ、隊伍を組ませて軍が移動するのと同じようにさせていました。これもまた、警戒心を呼び覚ますには十分な行為です。 劉邦麾下の将軍の中には、「すぐに討伐し、あいつを穴埋めにしてやれば良い」と息巻く者もいました。しかし、軍を起こして攻撃すれば、韓信は確実に反撃します。そうなった時に、戦上手の韓信相手に確実に勝利を得られる保証はありません。劉邦は迷いました。 諸将…
前漢 楚王韓信1 臧荼に続いて列侯の李機が反乱を起こすが、すぐに鎮圧される その年末、今度は韓信に謀反の疑惑がかけられる
臧荼の反乱とその後始末が終わると、劉邦は列侯全員を洛陽に集めようとします。この時、元々は項羽の部下で、項羽敗亡前に劉邦に付いていたことから潁川に封じられていた利幾は恐れ、反乱を起こします。劉邦は今回も親征し、利幾は敗れて逃亡しました。 12月、今度は李幾より遥か大物に謀反の疑惑が持ち上がります。即ち、韓信が謀反を図っている、との奏上があったのです。 韓信は広大な楚を賜っていました。そのた…
前漢 臧荼の反乱 劉邦は親征して臧荼を破り、臧荼の息子は匈奴へ逃げる 臧荼の後任の燕王に、幼馴染の盧綰を任命
臧荼は鉅鹿の戦いを項羽配下で戦い、そのまま関中まで付き従ったことで項羽により燕王に封じられていました。赴任した際、趙の武臣の配下で、燕を攻め下すとそのまま独立してしまい、項羽が天下に号令するようになると遼東王に移された韓広を滅ぼし、遼東全体を手中に収めていました。 史記高祖本紀を読んでも臧荼が叛いた理由は分かりません。臧荼は劉邦推戴に加わっていましたが、いざ劉邦が皇帝となってみると、王との…
前漢 漢の支配体制4 高級官僚の位階 直轄地については地方政治も秦と同じく、高級官吏は中央から、下級官吏は現地採用だった
古代の帝国における皇帝権力の絶大さを感じられる話ですね。他にも皇帝に仕える組織として、有力者の子弟で皇帝の近侍として仕える郎の統率に加え、皇帝の身辺警護や首都の警備を行う郎中令(後の光禄勲)、宮城の警備を担当する南軍の指揮官衛尉などがあります。 軍の指揮官でも、宮城の警護と長安の治安維持は別組織が担当しており、後者は中尉(後の執金吾)が司ります。 その他に、皇帝の車馬を管理する太僕を始…
前漢 漢の支配体制3 しばしば秦と漢があわせて「秦漢帝国」と呼ばれる理由 秦のものを引き継いだ官爵名
しばしば、秦と漢をまとめた「秦漢帝国」という呼び方が用いられます。『荀…
前漢 漢の支配体制2 秦の支配体制を引き継いだ漢、法三章は夢のまた夢
こうした背景があったためか、あるいは劉邦が項羽の楚と異なる体制を取ろうとしたのか、漢は法体制も含め基本的に秦の体制を引き継ぐことになったわけです。『
前漢 漢の支配体制1 破壊された咸陽の近くに、蕭何がリーダーとなって新たな都を築くことが決まる
関中に戻ったとは言え、秦の都だった咸陽は項羽に破壊されていましたから、劉邦が関中を平定した後は櫟陽を拠点にしていました。この櫟陽を拡大するのではなく、咸陽跡地の近くに新たに首都を築くことになりました。これが長安と呼ばれるようになっていきます。そして蕭何が宮殿の整備を担当することになりました。 張良は櫟陽まで劉邦と行動を共にしましたが、生来病弱だったこともあり、出仕せずに自宅で道家の健康法で…
前漢 劉邦勝利の理由 劉邦は宴会で、自分は蕭何、張良、韓信という傑物を使いこなせたから項羽に勝ったと振り返る
さて、皇帝即位直後、臨江王の尉が反乱を起こし、鎮圧に数ヶ月掛かるといったことが起こりますが、これで一通りの戦いは終わったと、兵士たちを故郷に帰します。そして、洛陽で大宴会を催しました。 「列侯、諸侯たちはどうして朕が天下を取れたと思うか」 すっかり上機嫌の劉邦がこう尋ねると、王陵が進み出て、劉邦は人を侮蔑し項羽は尊重するが、いざ部下が戦功を立てると報奨で報いないために天下を失った、と言…
前漢 梟雄田横の死 劉邦は酈商に田横に手を出さないよう厳命するが、田横は見世物になるより死を選び、彼の食客たちも全員死を選ぶ
しかし劉邦は許しません。皇帝の使者であることを示す節を持った使い(ここから使節の言葉が生まれました)を送り、「招きに応じてうまく行けば王に、悪くても侯に封じよう。応じなければすぐにでも攻撃する」と最後通牒を突きつけました。 一方で、酈商には「間もなく田横がやってくるが、もしお前の部下で騒ぎを起こす者がいれば一族を滅ぼす罰を与える」と牽制しました。 田横は食客2人と洛陽に向かいます。 …
前漢 論功行賞4 諸将は功績を巡って争い、反乱の兆しまで生じる 劉邦に恨まれている雍歯を封じることで不満も封じる
「どうしたら良いだろう?」 「陛下が普段から恨みを抱いていて、それを誰もが知っている中で、最も酷い者は誰でしょうか?」 「雍歯だな」 雍歯の名前を覚えているでしょうか?劉邦が旗揚げの際に付き従い、陥落した豊を任せていたのに、説得に応じて魏に降ってしまった人物でした。劉邦は豊を取り戻すのに大変な苦労をし、最終的に項梁に助力を仰がなければならなくなったのは豊を失ったからでした。その後の経緯は分か…
前漢 論功行賞3 諸将は功績を巡って争い、反乱の兆しまで生じる 劉邦に恨まれている雍歯を封じることで不満も封じる
功績の第一等が蕭何だとしても、その他の功臣に対する封建は欠かせません。固陵の戦いで敗北した劉邦は、韓信や彭越に土地を与えることを約束して軍を出させていたのですから当然でしょう。 「義帝が亡くなった後、楚には君主が居ない。斉王韓信は楚の風俗になれている」として、韓信を斉から楚に国替えします。彭越は梁王、韓王信を韓王、衡山王呉芮を長沙王にし、淮南王英布、燕王臧荼、趙王共敖は項羽に封じられたと…
前漢 論功行賞2 劉邦は狩りを引き合いに出し、現場を駆けるよりそれを指揮する者の功績が大きいと、蕭何の功績1位を確定させる
劉邦「君たちは狩を知っているな?」 功臣「存じております」 劉邦「狩猟で獲物を狩りたて、殺すのは猟犬であるが、犬に獣の位置を教えるのは人ではないか。君たちの功績は戦場を駆けて獣を得たもの、蕭何の功績は人のものである。それに、君たちは一身を持って従ってくれたが、一族からは数人を出したに過ぎない。一方、蕭何は一族数十人、皆が従ってくれた。その功績を忘れてはなるまい」 項羽と劉邦が滎陽のあたりで…
前漢 論功行賞1 劉邦は将軍たちの推戴を受けて皇帝となり、論功行賞を行う 功績の第一位となったのは、後方から劉邦を支え続けた蕭何
項羽が滅んだことで、天下の大勢は定まります。 楚王韓信、淮南王英布、梁王彭越たちは、「漢王は関中に最初に入って秦を定めて人民を安堵させたこと、功績有る者を諸侯に封じて社稷を立てさせたことなど功績は著しい。我々と同じように王を名乗られれば、その功績を攻勢に伝えることが困難となる。そのため、皇帝と名乗って頂きたい」と上書します。 劉邦は「帝とは賢者のみが許される称号である。内容の伴わない…
楚漢戦争 司馬遷の項羽評 杜牧が項羽を悼んだ「烏江亭に題す」 滅ぶべくして滅んだ項羽への司馬遷の評価
若くして比類ない強さを発揮し、32歳の若さで死んだアレクサンドロス3世の人生を彷彿させる人生のように思います。アレクサンドロス3世もまたオッドアイだったそうで、面白いところに共通点があるものです。 項羽の激しく、短い人生は多くの人の心を揺さぶりました。 例えば、晩唐の詩人杜牧は、「烏江亭に題す」という詩を詠んで項羽を悼んでいます。 勝敗兵家事不期 勝敗は兵家もこと期せず 包羞忍恥是男児…
楚漢戦争 項羽敗亡2 烏口の亭長からの逃亡の勧めを謝絶し、項羽は漢軍に突撃する 軍中に幼馴染の姿を見た項羽は自害して果てる
漢軍の包囲を脱した項羽たちは揚子江北岸の烏江へ着きます。そこには、烏江の亭長が項羽を待っていました。そして、「江東は狭いといえども土地は千里四方、人工は数十万。王となるには十分です。どうか、急ぎ渡ってください。いま船を持つのは私のみです。漢軍が押し寄せても河を渡ることはできません」と言って再起を促しました。 しかし、項羽は笑ってその申し出を謝絶します。 「天が私を滅ぼそうとしているのに…
楚漢戦争 項羽敗亡1 なんとか包囲を掻い潜り、僅か28騎になっても項羽は漢軍に突撃して周囲の敵を捩じ伏せる
逃げる側は無防備な背後から攻撃を受けることになりますから、大変不利な状況に置かれます。淮水を渡ったとき、項羽に付き従うのは僅か100騎にまで減っていました。 何とか漢軍の追撃を振り切って陰陵に至った時、項羽は道に迷います。田父に道を尋ねると、「左に行きなされ」とのことでした。ところが、田父の言葉通りに左の道を進んだ項羽たちは沢に出てしまいます。騙されたのです。あるいは、項羽が占領した街の人々…
楚漢戦争 虞美人草 項羽の抜山蓋世の歌に応え、虞美人もまた歌う 虞美人は死を選び、埋葬された跡からヒナゲシ(虞美人草)が咲く
この詩から、威勢が強く盛んな様を抜山蓋世というようになりました。なお、騅とは項羽の愛したウマです。名馬と美女を歌ったのですね。名馬はさしずめ現代では車でしょうから、男の本質は変わらないものだと思ってしまいます。 項羽の涙ながらの歌を聞き、兵士たちもまた涙を流し、誰も顔をあげられなかった、と伝えられます。 史記の引く楚漢春秋によれば、虞美人が項羽の歌に応えてこう歌ったとされます。 漢兵…
楚漢戦争 四面楚歌 莫大な報奨を約束された韓信や彭越、英布らが四方から項羽を攻撃、項羽は垓下に立て籠もる ある夜、四方から楚の歌が……
そこで、劉邦は張良の言葉に従い、韓信と彭越に項羽を滅ぼした後に広大な土地を与えると約束します。今度は韓信も彭越も軍を動かすことを約束しました。 韓信は斉、彭越は梁、英布と合流した劉賈が寿春から楚軍を攻撃します。他の諸侯が楚を攻撃するところを見た大司馬の周殷は楚を捨てて漢につきました。 いくら項羽が戦上手でも、こうなっては楚軍に勝ち目はありません。楚は各地で敗北を重ね、項羽は垓下に追い詰…
楚漢戦争 和睦と約定の破棄 劉邦は項羽と和睦を結ぶが、項羽が撤退を始めるとその後背から襲いかかる それでも負けて城に籠城
しかし、韓信は蒯通の熱心な説得を断りました。蒯通は日を改めて説得することまでしましたが、やはり結論は変わりません。韓信が劉邦の下に留まり続けるのなら、楚漢戦争は漢の勝利に終わるでしょう。そうなれば、韓信に独立を説いた蒯通は下手をすれば反逆罪に問われかねません。蒯通は狂人を装って韓信の下を去りました。 前203年、項羽と劉邦の間で和議が結ばれます。苛烈な項羽には珍しい措置ですが、これより前…
楚漢戦争 独立のすゝめ 弁士の蒯通、韓信に独立を説くが、韓信は劉邦からの厚遇を思い、拒絶する
武渉が去ると、蒯通がやってきます。彼は自分の進言が正攻法では聞いてもらえないだろうと、人相の話から始めました。 蒯通「私は以前、人相を見る術を学んだことがございます」 韓信「先生はどのように人相を見るのでしょうか」 蒯通「身分は骨相に、心の状態は容貌に、成功失敗は決断にございます。この3つを見れば間違うことはございません」 韓信「なるほど、それでは先生は私をどうご覧になるのでしょうか」 …
楚漢戦争 韓信調略 項羽は弁士の武渉を韓信のもとへ派遣して劉邦からの離脱を説かせるが、韓信は楚での冷遇を引き合いに出して拒否する
劉邦は張良の言うことが正しいと判断し、「立派な男が諸侯を平定したのだから、真の王となれば良いだろう!仮の王などということがあるか」と言って、張良を派遣して韓信が王を名乗ることを認め、そして項羽と戦う劉邦に兵を送らせました。これには韓信も兵を送るしかなかったでしょう。 一方、項羽は信頼する数少ない部将の龍且が死んだことで、焦りを感じるようになります。そこで、武渉を派遣して韓信に以下のように劉…
楚漢戦争 斉制圧 韓信は田広に続いて黒幕の田横も破り、斉を制圧する 劉邦へ使者を送り、仮の王に任命して欲しいと頼む
田横は斉王を名乗ると、軍を集めます。もともと、項羽が諸侯を封じる前から斉で力を振るっていた田横ですから、残兵を集めて指揮を取るのは造作もないことだったでしょう。しかし、田横の力も、何度も激戦をくぐり抜けてきた韓信軍相手には通用しませんでした。田横は灌嬰と戦いますが、敗れて彭越の下に逃げます。 彭越は劉邦に与して項羽と戦うことが多いのですが、劉邦の部下になったわけではなく、独立勢力だったこと…
楚漢戦争 龍且の死2 韓信を侮った龍且、川を渡って韓信を攻撃しようとして水攻めで敗北して斬られ、斉王田広もまた命を落とす
攻撃を仕掛けたのは韓信でした。しかし、川を半分ほど渡ったところで撤退に移ります。弓兵からの攻撃による犠牲が耐えられなかったと見たか、龍且は「韓信が臆病なのは知っていたわい」と言うと、猛然と追撃に移ります。そして、先頭にたって川を渡り、韓信を攻撃しました。 その直後、轟音と悲鳴で龍且は異常を知ったことでしょう。振り返った龍且の眼の前で、川は濁流と化して楚軍の兵士を次々と飲み込んでいきます。韓…
楚漢戦争 龍且の死1 項羽と劉邦の対談は劉邦を襲った1本の矢で終わりを告げる 斉平定に向かった龍且、持久戦を拒否して韓信と決戦を選ぶ
会談は、一本の矢が楚軍から放たれ、劉邦の胸に命中したことで終わりを告げました。 項羽が隠れていた射手に劉邦を狙撃させたのです。劉邦は、矢が足の指に当たったと嘯いて自陣に戻りました。 矢傷は重かったようで、劉邦は床に伏します。そのままでは、劉邦の体調に関する噂話が広まり、漢軍の士気が下がることは明らかです。そこで、張良は無理を押して軍中を巡るように求めます。劉邦は張良に従ったのですが、や…
楚漢戦争 広武山の対峙2 再び両雄は谷を挟んで会談し、劉邦は項羽の罪を数え上げて対決姿勢を鮮明にする
そこで楚軍は漢軍を攻撃しますが、趙の西北に住む楼煩人の兵士が楚の兵士を次々に射殺してしまいます。項羽が睨みつけると、楼煩人は恐れて城壁の中に戻りました。ただ、今回の攻防は、楚軍が攻撃しようとしたが楼煩人らの弓矢攻撃で攻撃を中断せざるを得ず、漢が楚の意図を挫いて終わったと総括できそうです。 小競り合いの後、再び項羽と劉邦が谷を挟んで話し合います。 劉邦は項羽に対し、「懐王は先に関中を定め…
楚漢戦争 広武山の対峙1 項羽は劉邦の父・太公を俎の上に載せ、スープにして食うぞと脅すが劉邦は取り合わず、対峙は続く
項羽は向かうところ敵無しで、戦っては敵を破り、城を囲んではこれを落とす、といった具合でした。しかし、劉邦は本拠地である漢中は当然のこととして、関中にすら楚軍の侵入を許さず、一度は彭城を落としているように、漢が攻勢に出て、楚が守っていました。 だからこそ、項羽は有能な味方を得なければならなかったはずですが、英布は義帝殺害のような汚れ仕事をおしつけられて離反、范増を離間策で失うと、項羽は頼るべ…
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