寺院前回の記事⇒寺院井手0702玉川寺真宗興正派井手山下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院井手0703修福寺日蓮正宗
寺院前回の記事⇒寺院井手0701西福寺真言宗智山派月照の母の墓碑がある下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院井手0702玉川寺真宗興正派井手山
史跡井手056 蛙塚 道標井手0279 玉の井 井手0280 井堤蛙舊蹟 三宅石碑
蛙塚(かわづつか)玉川の清らかな流れと黄金色の山吹の花の彩りなど、紙上豊かな井手の里は、万葉の昔より平安・鎌倉・江戸と、時代を紡いで数々の和歌に詠まれてきました。なかでも美しい歌声を聞かせる蛙かわづは井手の枕詞として用いられるほど、数多く詠まれています。このあたりは玉の井と呼ばれるように、湧水がこんこんと湧き出ておりました。その昔、大和路を行き交う人々は、湧き出る清水で喉の乾きを潤すとともに、水辺に遊ぶ蛙の声で旅の疲れを癒したことと思われます。井堤蛙舊蹟音にきく井堤能山吹みつれとも蛙の聲者かわらさりけ里貫之昭和3年秋禀京都三宅安兵衛遺志建立玉の井玉井寺跡昭和3年10月禀京都三宅安兵衛遺志建立史跡前回の記事⇒史跡宇治055龍目井(たつもくい)隠元禅師関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標関連0022三宅安兵衛石碑...史跡井手056蛙塚道標井手0279玉の井井手0280井堤蛙舊蹟三宅石碑
まち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1134井手町案内板関連記事⇒関連0009手押し井戸ポンプ下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1135井戸とポンプ玉水駅付近
まち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1133井手町玉川堤の歌碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1134井手町案内板
井堤荼靡故址後醍醐天皇舊蹟是東一里半田村新田駒登免て猶水かわん山吹の花能露そふ井手の玉川俊成昭和3年秋禀京都三宅安兵衛遺志建立関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標関連0022三宅安兵衛石碑その2下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標井手0278井堤荼靡故址三宅石碑
まち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1132井手の石仏下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1133井手町玉川堤の歌碑
まち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1131昔旅館だった家屋ここは奈良街道商人の宿下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1132井手の石仏
寺院井手0701 西福寺 真言宗 智山派 月照の母の墓碑がある
西福寺遍照山真言宗智山派井手町に所在する木造の仏像としては最古。像高103cm。一本造。きびしい目鼻立ちと簡略化されている衣文などから、年代は平安時代と推定される。西福寺は言い伝えによると天平時代の創建。同寺は城南西国33霊場第28番札所にあたる。井手町指定文化財「聖観音菩薩立像」月照の母の墓碑寺院前回の記事⇒寺院長0700寂照院地蔵尊関連記事⇒寺院東0357清閑寺1下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院井手0701西福寺真言宗智山派月照の母の墓碑がある
祠は石で作られています地蔵尊前回の記事⇒地蔵尊城陽061森山地蔵尊下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます地蔵尊井手062祠は石で作られています
まち歩き井手1131 昔 旅館だった家屋 ここは奈良街道 商人の宿
まち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1130JR奈良線・玉水駅水難記念岩石下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1131昔旅館だった家屋ここは奈良街道商人の宿
井手史蹟名勝六の玉川東南二丁玉井玉井寺跡東三丁橘諸兄公故址五丁玉津岡峰十五丁井堤蛙奮蹟二丁地蔵塔十五丁玉ノ井頓宮跡四丁山吹山三十丁南棚倉村二十九丁西玉水橋五丁三山木村三十五丁北多賀村二十三丁西北青谷村一里十二丁草内村三十三丁昭和3年秋禀京都三宅安兵衛遺志建立関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標道標前回の記事⇒道標長0276参陵道石碑長0215御陵道改修奉仕記念碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標井手0277井手史蹟・名勝三宅石碑
蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0393回城陽観音堂付近蔵のある風景井手0394回JR奈良線玉水駅付近
水難記念昭和28年8月15日南山城水害。それはこの町にとっては忘れ難い悲運な記録である。前夜来の雨は時間雨量150ミリを超える稀有の集中豪雨となった。そして暗夜の中に猛り狂った水魔は町も人も一瞬のうちに蹂躙一夜明けた町は107人の犠牲者を含む無惨な受難地獄であった。当駅も駅舎ホームは文字通り河原と化したがこの石(6トン)は東南約500メートル先の玉川から押し流されてきたものである。昭和56年1月15日建立玉水駅この辺りの川はほとんどが天井川になっています。まち歩き前回の記事⇒まち歩き長1129大きな燈籠千眼講柳谷下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1130JR奈良線・玉水駅水難記念岩石
寂照院は、平安時代初めに僧道雄(?~851)が乙訓郡木上山に華厳宗に道場として建立した「海印寺」の子院の1つとされています。本尊は木造千手観音坐像(鎌倉時代)で、木造菩薩坐像(平安時代)、木造四天王立像(鎌倉時代、京都府指定文化財)などが伝わっています。仁王門には、仏法の守護神である木造金剛力士像が安置され、目鼻立ちや筋肉の抑揚、衣の皺や動きをやや誇張気味に表現する様式は、鎌倉時代の写実様式が形式化した頃の作例に特有のものです。昭和40年(1965)の解体修理によって、両像の像内から納入品が発見されました。それら納入品や吽形像の刻銘かどから、木造が康永3年(1344)に西岡地域の人々からの寄付で、海印寺のために造立されたことがわかりました。制作年の明らかな南北朝期の金剛力士像の基準作例であるとともに、造像の過程...寺院長0700寂照院地蔵尊
走田神社(はしりだ)奥海印寺・長法寺両村の産土神。式内社で、「延喜式」にのる乙訓19座の1つである。祭神は天児屋根命・武甕槌神・経津主神・姫大神の春日4柱を祀る。かつては「妙見社」と言われ寂照院の鎮守であったが、明治以後、正式に「走田神社」と呼ばれるようになった。社名の「走田」は初穂をつくる田を指し、早稲田の守護神であったであろう。なお、正月13日には御千度詣りや弓講が行われる。また、明治初め頃まで同じ祭神を祀る小倉神社(大山崎町円明寺)の神輿がこの社まで渡御し、その道がまだ古老たちによって語り継がれている。遠くに見えるのは石清水八幡宮・男山でしょうかヤマモモ神社前回の記事⇒神社城陽0209天満宮下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社長0210走田神社(はしりだ)
同じ形のものが他にある慶応元年の建立関連記事⇒まち歩き向0142五辻の常夜灯まち歩き前回の記事⇒まち歩き長1128ネギ浄光寺付近下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き長1129大きな燈籠千眼講柳谷
道標長0276 参道道 石碑長0215 御陵道改修奉仕記念碑
御陵道改修奉仕記念碑昭和13年8月参加校師範二中桃中聾唖一中三中平安山陵道大坂皇陵巡拝會道標前回の記事⇒寺院長0180浄光寺自然石の道標がある道標長0275石碑前回の記事⇒石碑南0214東寺の境内に尊勝陀羅尼の碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標長0276参道道石碑長0215御陵道改修奉仕記念碑
土御門天皇金原陵土御門天皇(1195~1231)は、後鳥羽天皇の第1皇子で建久9年(1196)僅か4歳で83代天皇に即位しましたが、承元4年(1210)に在位13年で順徳天皇に位を譲りました。承久3年(1221)の鎌倉幕府討幕計画(承久の乱)に関与しなかったので幕府からとがめられることはありませんでしたが、父の後鳥羽天皇は隠岐に、弟の順徳天皇は佐渡に配流されました。土御門上皇は、「ひとり都に留まるに忍びない」と、この年土佐に移りましたが、「都に返せないまでも、せめて都に近いところへ」との鎌倉幕府の配慮で、翌年阿波に移りました。その後、11年が過ぎた寛喜3年(1231)10月、御年37で亡くなり、阿波で火葬(現在、阿波池谷村陵とよばれる火葬塚がある)に付された後、ここ金が原に安置されました。天皇の塚の上には母の承...陵墓長032土御門天皇金原陵
まち歩き前回の記事⇒まち歩き西1127山陰街道の名水弁天水下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き長1128ネギ浄光寺付近
右の自然石に南無阿弥陀仏右よしミ祢左くうめう(光明寺)と刻されているとのこと道標前回の記事⇒道標東0274六道の辻2016年8月30日の記事寺院前回の記事➔寺院中0179竹林寺幕末、六角獄舎で処刑された勤王志士37名が眠る今日の俳句初秋や海も青田も一みどり/芭蕉下のユーザー地図で京都市内の記事探索が出来ます。試してみてください。寺院長0180浄光寺自然石の道標がある道標長0275
自然石を畳んだ底の低い井戸で、今なお清澄な水がこんこんと湧き出ている。この水は昔街道を往来した旅人の飲料水として用いられた。往時の宿場町としての沓掛村をしのばせる現存する遺跡です。底が見えていますまち歩き前回の記事⇒まち歩き東1126東山開睛館下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き西1127山陰街道の名水弁天水
関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠西088大枝山陰街道沿い祠もある
令和元年5月2日撮影他府県前回の記事⇒他府県001奈良県新薬師寺他府県002滋賀県マキノ町メタセコイヤ並木
西国17番六波羅蜜寺洛陽15番観世音洛陽23番地蔵菩薩洛陽24番六道の辻桂光山西福寺六道とは,仏語で衆生が生前に業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち,地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上をいう。六道の辻は,六道へ通じる道の分かれる所の意で,一般的に珍皇寺の門前のことをいい,松原通の轆轤町と新シ町の間を南に至る丁字路をさす。珍皇寺ゆかりの小野篁(802~52)が冥府との往復を果たしたという伝説から,六道の辻と称された。この地西福寺は,空海(774~835)が鳥辺野の無常所の入口にあたる地に地蔵堂を建て,自作の土仏地蔵尊を祀ったことに始まると伝える。六道の地蔵尊と称される。寺宝に「六道十界図」がある。この石標は六道の辻を示すものである。六道之辻島津久永書昭和五十四年十一月吉日志主伊勢村柾三郎八坂藤田石...道標東0274六道の辻
まち歩き前回の記事⇒まち歩き宇治1125普茶料理下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き東1126東山開睛館
祠前回の記事⇒祠南054東寺・北総門前の不動明王下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠東055相鎚稲荷大明神
寺院東0698 六波羅蜜寺 西国17番 源平史跡 都七福神・弁財天
轆轤町(ろくろちょう)にある。むかしこの辺からおびただしい人骨を掘り出したので「髑髏町(どくろちょう)」とよんだ。寛永年間所司代板倉宗重が今の名に改めたという。一説には六原の古名を転訛したものともいわれている。六波羅蜜寺天暦5年(951)、疫病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、西国33ケ所観音霊場の第17番札所として古くから信仰を集めている。空也上人の自刻と伝えられる11面観音立像(国宝)を本尊とする。空也上人は醍醐天皇の第2皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六斎念仏の始祖である。往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。宝物館には定朝の作といわれる地蔵菩薩立像のほか、空也上人立像、平清盛坐像、長快作の...寺院東0698六波羅蜜寺西国17番源平史跡都七福神・弁財天
寺院前回の記事⇒寺院南0696東寺・北総門重要文化財関連記事⇒まとめ038東寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院南0697東寺・境内
寺院前回の記事⇒寺院南0695東寺・地蔵院関連記事⇒まとめ038東寺まとめ045京都府の重要文化財・国宝建物下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院南0696東寺・北総門重要文化財
寺院前回の記事⇒寺院南0694東寺・宝菩提院関連記事⇒まとめ038東寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院南0695東寺・地蔵院
いろいろなことが言われていますが京都の〈一条戻橋〉は,橋占で名高い。この橋は,死刑を執行する〈果ての二十日〉(12月20日)に罪人が立ち寄り,餅と花を供えて,次にこの世に戻ってくるときは真人間になれと申し渡されたところでもある。粟田口(あわたぐち、左京区)は、江戸時代には刑場が設けられていた。罪人は都の中を引き回された後、この粟田刑場で果ての二十日に首を斬られていたという。その命を忌み慎むという意味から、この日の過ごし方が守られてきた。罪人は首を斬られる前に一つだけ最後の願いが聞き入れられた。町衆はそれを恐れ、家族が目を付けられないように、特に女の子の外出は控えられていたという話もある。現在の粟田口周辺は、いくつかの地名としてその名残りをとどめている程度で、実際の面影はなにもない。近畿地方では「罪人の処刑」をこ...まち歩き果ての二十日市中引き回し六角牢跡
寺院前回の記事⇒寺院南0693東寺・観智院関連記事⇒まとめ038東寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院南0694東寺・宝菩提院
観智院東寺塔頭のひとつ延慶元年(1308)後宇多法皇が東寺に帰依し、西院(御影堂)に参籠中、21ケ院の建立予定された内のひとつと伝えられています。杲(ごう)宝僧正を開山としている。創建以来、代々学僧を持って住持とし、併せて東寺の別当職を兼ねた。また、慶長14年(1609)、徳川家康は黒印状を以て当院を真言一宗の勧学院と定めたのは、ひとえにこの寺の伝統とその膨大な経文・書籍の価値を認めたからである。東寺の塔頭中もっとも格式が高く、いまも別格本山となっている。関連記事⇒まとめ038東寺寺院前回の記事⇒寺院南0692東寺・北大門重要文化財下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院南0693東寺・観智院
寺院前回の記事⇒寺院南0691東寺・手水舎関連記事⇒まとめ038東寺まとめ045京都府の重要文化財・国宝建物下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院南0692東寺・北大門重要文化財
関連記事⇒まとめ038東寺寺院前回の記事⇒寺院南0690東寺・三面大黒天下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院南0691東寺・手水舎
三面大黒天大黒天は大地の神で、大地は糧を表し土は槌で表され、それを振ると福寿円満が訪れます。毘沙門天は四天王の北方の守護神で、財宝を司る神です。弁財天はインドでは河の神で、弁舌、音楽、技芸上達の神です。その三体の天神が合体したものが三面大黒天で、東寺・大黒堂にお祀りされているのは、お大師様作の像と伝えられています。我々の誓願をことごとく成満しお救い頂けるこの三面大黒天と御縁を結ばれ、無上の大功徳の霊験をお授かり下さい。大黒天、毘沙門天、弁財天、三尊のご利益が一度に授かれます。関連記事⇒まとめ038東寺寺院前回の記事⇒寺院南0689東寺高野山遥拝所下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院南0690東寺・三面大黒天
高野山遥拝所ここより南方に高野山があります。お大師様は東寺を真言宗の根本道場、高野山を修禅の道場と定められ、この二大寺を特に大切にされ、承和2年(835)3月21日、62歳の御歳に高野山で御入定なされました。ここから高野山奥之院のお大師様にお参りください関連記事⇒まとめ038東寺寺院前回の記事⇒寺院南0688東寺撫で石下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院南0689東寺高野山遥拝所
撫で石天降石(てんこうせき)古くからこの地にあったと伝えられ、江戸時代には護法石(五宝石)あるいは不動石と呼称され、いつの頃からか天降石と呼ばれる様になりました。石を撫でた手で体の悪い箇所を擦ると病が治ると信仰され、別名撫石(なでいし)とも呼ばれています関連記事⇒まとめ038東寺寺院前回の記事⇒寺院宇治0687万福寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院南0688東寺撫で石
黄檗宗大本山萬福寺由緒中国福建省福州府の黄檗山萬福寺の住持であった隠元禅師がわが国に渡来したのは承応3年(1654)である万治2年(1659)4代将軍家綱公よりこの地を賜わり寛文元年(1661)新しい寺の建立を始め元を忘れないために黄檗山萬福寺と命名した。爾来黄檗宗の本山として黄檗禅挙の揚の源をなっている。歴代住持の内16人が中国僧であるのみならず山内至る処中国職であるのみならず山内到る處中国職濃厚な事を特色としている。重文総門黄檗宗大本山萬福寺1661(寛文元年)中国僧隠元隆琦禅師開創、境内4万1千余坪の禅宗大寺院国内でも数少ない7堂伽藍が左右対称に居並び老松とともに中国情緒を醸し出す。主要伽藍23棟の堂宇は明朝建築様式を誇り、その回廊にいたるまで国の指定する重要文化財である。また、総門の扁額、第5代高泉書の...寺院宇治0687万福寺
京都府文化財指定表門天光塔金成不動尊天光院開山堂寺院前回の記事⇒寺院城陽0685龍福寺浄土宗蚕碑がある下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院宇治0686黄檗山萬松院
祠前回の記事⇒祠左053大雲寺閼伽井(観音水)下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠南054東寺・北総門前の不動明王
「いんげん豆」を移植した隠元禅師が中国からつたえた禅僧向きの精進料理で、黄檗の名物となっています。まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1124JR山城青谷駅下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き宇治1125普茶料理
尊勝陀羅尼の碑本来は北野天満宮(上京区)の宗像社のそばに、嘉永6年(1853)、比叡山の僧願海によって建てられたものです。慶応4年(1868)の神仏分離令によって、この場所に移されました。この周囲を回りながら、亀の頭や手足などを撫でて、その掌で自分の患部をさすると、万病に効くということで信仰を集めています。尊勝陀羅尼碑の下の亀に見えるのは中国の想像上の動物の贔屓(ひいき)で、竜の子とされ、重い物を背負う事を好み、甲羅に建つ石塔は永遠不滅と言われ、古来より石柱・石碑・墓の土台に用いられており、万病平癒の御利益があると信仰をあつめております。万病ぬぐい布で贔屓(ひいき)を擦り、自身の患部を擦ってください。傷病が治ったり効果が薄くなったと感じたら後方にある布納めの棒に結んで納めてください。万病ぬぐいの布は御影堂に御座...石碑南0214東寺の境内に尊勝陀羅尼の碑
龍目井(たつもくい)この2つの井戸は寛文元年(1661)隠元禅師が万福寺を龍にたとえ、これを龍の目となし、天下の龍衆(僧侶)がこぞってこの地に集まることを念願して掘らせた井戸と伝わる。史跡前回の記事⇒史跡城陽054縄文時代の遺跡森山遺跡下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます史跡宇治055龍目井(たつもくい)隠元禅師
駒蹄影園碑鎌倉時代の始め頃、宇治の里人たちが茶の種の蒔き方がわからず困っているところへ、通りかかった栂尾高山寺の明恵上人が馬を畑に乗入れ、その蹄の跡に種を蒔くように教えたと伝えられています。この碑は、明恵上人への感謝とその功績を顕彰するため、大正15年(1926)に宇治郡茶業組合により建立されたものです。もと付近の茶園にあったのをここへ移したものです。都賀山の尾上の茶の木分け植えて迹ぞ生ふべし駒の蹄影明恵石碑前回の記事⇒石碑城陽0212忠魂碑昭和3年下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑宇治0213駒蹄影園碑茶の木の植え方
まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1123城陽の名木「クスノキ」下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1124JR山城青谷駅
まち歩き⇒まち歩き1122青谷村道路元標下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1123城陽の名木「クスノキ」
関連記事⇒関連0011慰霊碑戦没碑石碑前回の記事⇒まち歩き城陽1121渚先生顕彰碑二宮尊徳像石碑城陽0211下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑城陽0212忠魂碑昭和3年
関連記事⇒関連0005道路元標下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き1122青谷村道路元標
関連記事⇒まとめ030二宮尊徳像まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1120城陽の名木「梅」下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1121渚先生顕彰碑二宮尊徳像
まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1119路上の案内板山背古道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1120城陽の名木「梅」
蚕碑自然石の石碑養蚕が盛んだった明治28年(1895)5月、養蚕家によって建てられた蚕の供養碑です。今は梅畑や民家になっていますが、昔は桑畑で蚕の餌としました。寺院前回の記事⇒寺院城陽0684大蓮寺寺田芋の島利兵衛の墓下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0685龍福寺浄土宗蚕碑がある
まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1118観音堂巽畑のシブガキまち歩き城陽1119路上の案内板山背古道
大典記念とある催されており神社の由緒はあきらかでない。棟札で古いものは慶長11年(1606)であるが、神社の成立はこれよりも早い。江戸時代には境内で「雨乞い」も行われた。慶長3年には「おかげ踊り」が盛大に催されており、拝殿の絵馬にはその様子が生き生きと描かれています。関連記事⇒関連0008御大典記念のあるところ神社前回の記事⇒神社城陽0208旦椋神社(あさくら)以仁王の冑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社城陽0209天満宮
関連記事⇒まとめ0029古墳下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます古墳城陽22黒土1号墳
蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景木津川0392回木津川市市役所付近蔵のある風景城陽0393回城陽観音堂付近
観音堂巽畑のシブガキ「鶴の子」という山城地域特有の品種で、柿渋を採るのに利用されるカキの大木。一面に実をつけた姿が美しい。城陽の古い暮らしを伝える木。まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1117木戸孝允御中飯処明治13年下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1118観音堂巽畑のシブガキ
左長池陸軍演習場道右中村田原道天保11年2月建立(1840)施主欣浄寺道標前回の記事⇒道標城陽0272高倉宮冑之社三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標城陽0273二本松の道標2基
旦椋神社旧観音堂村の産土神。旦椋は穀物を収納する校倉の古語。また、平治の乱で知られた以仁王の冑を祀ったとも伝え、冑神社と称したという。本殿は、二間社流造、こけら葺。規模・つくりは、荒見神社本殿(重要文化財)に共通しており、桃山時代風の華やかさがある。現在、本殿は覆屋で守られている。境内は、カシが中心の緑豊かな森である。境内地の背後は砂利採取地がせまっているが、氏子の努力によって境内の緑は守られ、鎮守の森にふさわしい景観を遺している。当社の例祭は10月4日である。観音堂の道沿いには、高張ちょうちんがたちならぶ。神輿の巡行はなく静かな祭りである。桃山時代の建築様式を伝える本殿や緑豊かな境内地をもつ当社は、昭和58年4月15日付で、京都府より本殿は登録文化財に登録され、本殿を含む境内地は環境保全地区の決定を受け、将来...神社城陽0208旦椋神社(あさくら)以仁王の冑
長池宿碑長池宿碑明治21年(1888)建立文久年間(1861~64)、助郷の課役にくるしんだ当時の村人たちが、大道栄造の尽力によって救われたことが記されている。島利兵衛の墓芋の形をしています琉球芋宗匠島利兵衛と裏面にきざまれている。利兵衛は長池で薬種問屋をいとなんでいたが、その中に幕府の禁制品があったため、遠島に刑に処せられ、琉球喜界ケ島へ流された。享保元年(1716)ゆるされて帰国の際、ひそかに甘藷の種を持ち帰り、この地に試植した。それより各地に栽培が行われた。特に隣村の寺田村ではもっとも品質のすぐれたものが生産されたから、一般に「寺田芋」として知られるにいたった。利兵衛は元文5年(1740)に没した。寺院前回の記事⇒寺院城陽0683常光庵下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0684大蓮寺寺田芋の島利兵衛の墓
第1関連0002三宅安兵衛の道標101関連0022三宅安兵衛石碑その2
高倉宮冑之社是東二丁昭和3年秋禀京都三宅安兵衛遺志建立関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標関連0022下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標城陽0272高倉宮冑之社三宅石碑
明治10年2月8日木戸孝允公御中飯処作間一介・田口乾一御同席木戸孝允は明治10年5月26日に亡くなっている関連記事⇒木戸孝允ここで亡くなる、明治天皇も見舞いに訪れるまち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1116長池の伝説大蛇と剣下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1117木戸孝允御中飯処明治13年
旧長池郵便局明治37年(1904)に、放示九一郎が木造平屋建の旧長池郵便局を建てました。建物の瓦には、郵便局のマーク「〒」をみつけることができます建物前回の記事⇒建物下008島原大門下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます建物城陽009城陽長池旧長池郵便局明治37年築
平成30年12月9日撮影荒見神社本殿重要文化財御霊社京都府登録文化財旧富野村の産土神。社伝によれば、もと五社ケ谷にあったが、室町時代に現在地に移ったという。当社は、祭神が多い(五柱)のが特徴。社殿は水田の中に立つ森で、アラカシ・シイ・クスが繁茂している。周囲には堀割がめぐる。南面の鳥居をくぐると藥井門があって神社としてはめずらしい。神仏習合時代のおもかげを残している。境内に入ると西面して本殿が立つ。富野の有力大工の手になるもので、桃山期建築の特徴をよく示す。本殿は慶長9年(1604)の棟札をもつ三間社流造、檜皮葺、本殿右側の境内社御霊社は、一間流造、檜皮葺きの小規模な建物。建立時期について、蟇股は本殿のものより古い室町時代後期ごろの特徴を持つが、組物、木鼻は近世のもので本殿と共通する。東六兵衛寛延貮年9月(17...神社城陽0207荒見神社本殿・重要文化財
京都と奈良を結ぶ大和街道の中間点に栄えた宿場町である長池宿には、江戸時代の文化11年(1814)に、詳細な日本地図作成のために全国を測量していた伊能忠敬が宿泊しています。是北京都街道新田廿五丁伏見三里長池駅玉水一里十丁南奈良街道木津三里余奈良四里半西東富野三丁水主渡舩所十七丁西富野八丁大住一里枇杷庄十三丁田辺一里余昭和3年秋禀京都三宅安兵衛依遺志建立関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標城陽0271長池旧跡の碑三宅石碑
森山地蔵堂長池駅前にあり、長池西町森山地蔵講の家々によって祀られています。昔は森山の山中にお堂があり、そこから移してきたという伝承もありますが、成立年代など詳しいことはわかっていません。また、この地蔵堂には虎図蒔絵絵馬があり、銘によると寛永9年(1632)、一吉により奉納されたものです。この絵馬は平成16年(2004)城陽市指定文化財となり、城陽市歴史民俗資料館に寄託され、定期的に公開されています。地蔵堂前回の記事⇒地蔵尊左060岩倉の町で下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます地蔵尊城陽061森山地蔵尊
長池の伝説むかしむかし、奈良街道ぞいに端から端まで300mはあろうという長い長い池があったそうなそこには悪い大蛇が住んでいて、ときどきぬーっと姿をあらわしては近くに住む人に悪さをはたらいておったんじゃと。若い娘さんなどは、大蛇が池から顔を出してこちらのほうをジロリ、とにらんだだけで腰を抜かして動けんようになってしもうたほどじゃ。困りはてた村人たちは、「このままでは池の主にみんな丸呑みにされてしまう。なんとか神さんに退治してもらえんやろか」と近所の神社に片っぱしからおがんで回った。するとある日、どこからともなく刀を持った人があらわれ、大蛇をはっさり切り捨ててまた消えて行ったそうや。村人はびっくりするやら喜ぶやらで、「きっとあれは行基菩薩さんの化身に違いない。ありがたい、ありがたい」とさわいでおったが、死んだ大蛇の...まち歩き城陽1116長池の伝説大蛇と剣
まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1114JR長池駅周辺の見どころ下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1115JR長池駅
まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1113鴻の巣山山頂からの眺め下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1114JR長池駅周辺の見どころ
森本遺跡遺構の復元断面古墳時代の方形周溝遺構の溝の断面をイメージ復元しました。溝の底からお祭りに使ったと思われる土器がたくさん出土しました。森本遺跡は、縄文時代後期(約4000年前)に人々が暮らした集落遺跡で、竪穴住居などが見つかっています。キャラクターは、森山遺跡で暮らした縄文人の家族の中で、弓矢を使って狩猟を行う父親をモチーフにしています。史跡森山遺跡縄文時代(今から約4000年前)から古墳時代(今から1400年前)の集落の跡です。縄文時代の集落は、広場を中心にU字形に6棟の竪穴住居が作られていました。また集落の南の端には、配石遺構し呼ばれる石を並べたお墓が見つかっています。この集落では、20~30人くらいの人々が生活していたと考えられます。竪穴住居がたびたび建て替えられた跡がないことや出土した土器(縄文土...史跡城陽054縄文時代の遺跡森山遺跡
誰だろう有名人かな寺院前回の記事⇒右0682寺院右0682仁和寺の紅葉下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0683常光庵
鴻ノ巣山のふもとにある水度神社は、旧寺田村の産土神で、祭神は天照皇大御神・高御産霊神・少童豊玉姫命です。「山城国風土記」逸文に、「久世の郡水渡の社祇社」とあることから、風土記が編さんされた奈良時代には存在したと考えられます。平安時代前期に成立した『延喜式』には、「水渡神社三座」と記されています。重要文化財の本殿は一間社流造で、文安5年(1448)に造営された市内に現存する最古の建物です。屋根は桧皮葺で、正面に大きな千鳥破風があります。また、庇の正面中央には、透彫の唐草と笹りんどうをあしらった欄間がつけられ、意匠を凝らした優美な建物です。水度神社には京都府登録文化財の「おかげ踊り図絵馬」と、城陽市指定文化財の「鉄湯釜」、「大般若経」があります。「おかげ踊り図絵馬」は、文政13年(1830)11月1日に寺田村北東町...神社城陽0206水度神社(みと神社)本殿・重要文化財
中央の山は愛宕山平成30年12月9日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1112大木水度神社参道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1113鴻の巣山山頂からの眺め
瘤がすごい大きく曲がっています関連記事⇒まとめ001樹木まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1111歌碑鷺坂柿本人麿下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1112大木水度神社参道
遺跡の発見標高40~50mの南向きの台地上にあるこの遺跡は、昭和40年(1965)、台地西端の池畔で瓦片や土器片が見つかり、古代寺院があったと推定されて「正道廃寺跡」と名付けられました。しかし、昭和48年(1973)2月からの大規模な発掘調査では、寺院跡とみるより、奈良時代の郡衙(郡の役所)中心部分と推定される建物群跡が確認され、昭和49年(1974)には名称も「正道遺跡」と改められました。その後、付近で部分的な発掘調査を続けた結果、遺跡西側にも建物群跡があることがわかっています。国の史跡にこの遺跡は、5世紀の小規模な古墳と6世紀後半から7世紀にかけての集落遺構、そして7世紀以降の整然と配置された大型の掘立柱建物群からなる官衙(奈良時代の役所)遺構などが重なり合う複合遺跡です。特に官衙遺構は歴史・地理的背景や出...史跡城陽053正道官衙址
久世神社西側の境内地にあたる。以前からこの辺に布目瓦が散布し、古い寺院跡があることが伝わっていたが、昭和43年、測量が行われた結果、東西に並ぶ2ケ所の土壇があることが確認された。東は塔跡、西は金堂跡と推定され、講堂はこれより北に位置するものと思われたが、今のところ判明していない。出土遺物は飛鳥様式の軒丸瓦や軒平瓦が多く、南門付近ではまた天平様式の見事な金銅仏(奈良時代)が出土した。寺域はほぼ1町(約108m)を占めるものとみられ、伽藍配置は平川廃寺とは逆に、いわゆる法起寺式であり、奈良時代前期に建立された寺院であることが判明した。寺名については明らかでなく「久世廃寺」と称している。塔跡は、東西13.7m、南北13.4mの瓦積基壇と推定されています。金堂跡は、東西26.7m、南北21.3mの瓦積基壇です。講堂跡は...神社城陽0205久世神社本殿・重要文化財久世廃寺跡
芝ケ原遺跡は、東から西に延びる芝ケ原丘陵にひろがる遺跡です。これまでの発掘調査で、古墳時代後半から飛鳥時代の集落跡や古墳時代中ごろの古墳などが見つかっています。また遺跡の範囲内には、芝ケ原古墳群や久世廃寺があります。集落跡からは、竪穴住居と掘立柱建物があわせて約200棟みつかっており、大規模な集落であったことがわかってます。竪穴住居は、一辺が2~6mあり、ほとんどがカマドを持っています。竪穴住居は、出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)~飛鳥時代初め(7世紀初め)に営まれたものと考えられます。掘立柱建物は、8.3m×3.8m(5間×2間)のものが最も大きく、また倉庫と考えられる建物も4棟みつかっています。掘立柱建物は、出土遺物から古墳時代末(6世紀末)~飛鳥時代末(7世紀末)のものと考えられます。芝ケ原遺跡の集...古墳城陽21芝ケ原遺跡
久世鷺坂舊跡昭和3年秋禀京都三宅安兵衛遺志建立関連記事⇒関連0002三宅安兵衛の道標道標前回の記事⇒道標左0269後鳥羽天皇・順徳天皇御陵参道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標城陽0270久世鷺坂の碑三宅石碑
ここは万葉歌の久世の鷺坂この歌は飛鳥時代、万葉の歌人柿本人麿らが鷺坂を往来してうちに、その美しい景色に感動し、「山城の久世の鷺坂は、神代の昔から、春はいっせいに若葉がもえ、秋はひたすらちってしまうのだなあ」と四季の素晴らしさを詠んだという。柿本人麿歌集として万葉集巻九におさめられている。ここ鷺坂一帯は、万葉集など和歌の名所であり、また、飛鳥・白鳳時代の寺院跡(久世廃寺跡)をはじめとする古代遺跡跡が集中し、政治・文化の中心地であった。まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1110JR城陽駅前観光案内図下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1111歌碑鷺坂柿本人麿
まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1109JR城陽駅下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1110JR城陽駅前観光案内図
まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1108京都駅奈良線9番ホーム下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1109JR城陽駅
関連記事⇒まち歩き下0266JR京都駅奈良線ホームまち歩き前回の記事⇒まち歩き右1107雲水修行僧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1108京都駅奈良線9番ホーム
平成30年11月28日撮影下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます紅葉だより001仁和寺八十八ケ所一番札所
ポスター0110 仁和寺 372年、秘められた時を越え、五躰の明王 初公開
2018年のものですポスター前回の記事⇒ポスター0109三千院ポスター0110仁和寺372年、秘められた時を越え、五躰の明王初公開
2018年11月28日撮影寺院前回の記事⇒寺院左0681宝泉院血天井五葉の松袈裟懸け石下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0681仁和寺の紅葉
2019年11月記事追加2018年11月28日撮影見学することができました2015年10月14日の記事陽明文庫と書かれています右の方へ行きます次に左へ道なりに進みます虎山荘という建物がありましたさらに進んでいきます昭和13年(1938)10月、時の首相近衛文麿公が同家に伝わる多くの古文書、古典籍、古美術工芸品等を一括保存管理するために設立された特殊図書館です。近衛家の歴代は官職の最高位にのぼり、常に朝廷の公事儀式を中心とした政治の場に関与していたから、これら議事典礼などに関する記録をしたため、代々伝えのこしてゆくことがもっとも重要なことであった。主なる収蔵品は、御堂関白藤原道長の自筆日記(12年分)をはじめ、二十数代にわたる近衛家歴代の関白の自筆日記、など20万点。国宝8件、重要文化財49件に及ぶ。日本歴史の流...陽明文庫日本歴史の解明につながる
まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1106三千院実行院歩道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1107雲水修行僧
平成30年5月9日撮影本堂本堂の中の様子はこんな感じです他府県001奈良県新薬師寺
2019年11月9日記事追加画像は2018年11月28日のもの福王子神社第58代光孝天皇の皇后斑子皇后がおまつりしてあり斑子皇后は仁和寺の開山祖宇多天皇の御母君であらせらるところから古くより仁和寺の鎮守神であります。この御神殿は寛永21年今から330年前3代将軍徳川家光公と仁和寺法主覚深親王が仁和寺大伽藍と共に新たに御造営された社殿でそれ以前は深川神社(本社末社共)と申し上げ平安朝時代からあった神社で延喜式の社号がございました、が応仁の戦乱で惜しくもすっかり焼失してしまいました。現在の福王子神社はこの深川神社の後身であり御再建以来、仁和寺歴代親王の崇敬あつく今日も尚お祭りには奉幣の儀が行われています。又、御祭神斑子皇后は至極お気軽なお気持ちの方でその御神徳をお慕い申し上げ、古くから東紙屋川、西廣沢大沢池畔、嵯峨...神社右0047福王子神社
まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1105千枚漬けの材料まち歩き左1106三千院実行院歩道
令和元年11月5日撮影宝泉院実行院と同じく、勝林院山内の一院で、寿永年間(1182~85)声明研究の専門寺院として創建されたと伝える。現在の書院は室町時代の文亀2年(1502)の再建であるが、廊下の天井は俗に「血天井」とよび、慶長5年(1600)伏見城を死守した鳥居元忠が自刃した時の板間と伝える。皇慶阿闍梨が大原在住のとき、常に従う護法童子は師の袈裟の汚れを天竺の無熱池に行って洗いすすぎ、この石に掛けて乾かしたという。もと若狭街道の路傍にあったが、近年移したものらしい。法然上人衣掛石と書かれいてます「五葉の松」は、樹齢600年を数える老松で、近江富士に型どってつくられている。夜間ライトアップ平成30年11月27日撮影寺院前回の記事⇒左0680寺院左0680三千院往生極楽院下の地図のユーザー地図の囲みをクリックす...寺院左0681宝泉院血天井五葉の松袈裟懸け石
石仏前回の記事⇒石仏左038大原摂取院近く下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左039三千院内で鎌倉時代
三千院天台宗五箇室門跡の1つ。最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東塔南谷に一堂を建立したのが起こり。大正初年に修補された客殿内部各室の襖は竹内栖鳳等、当時の京都画壇を代表する五氏の筆により飾られている。本堂往生極楽院(重要文化財)は江戸時代に大修理を行ったが、内陣は、比較的古形を保つ。殊に山形に板を貼り、25菩薩の来迎図を描いた船底天井は有名で、堂内に阿弥陀如来両脇士坐像(三体・重要文化財)が安置されている。朱雀門寺院前回の記事⇒寺院左0679三千院門前駒札・境内図・歌碑関連記事⇒まとめ045京都府の重要文化財・国宝建物下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0680三千院往生極楽院
三千院天台宗五箇室門跡の1つ。最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東塔南谷に一堂を建立したのが起こり。本堂往生極楽院(重要文化財)は江戸時代に大修理を行ったが、内陣は、比較的古形を保つ。殊に山形に板を貼り、25菩薩の来迎図を描いた船底天井は有名で、堂内に阿弥陀如来両脇士坐像(三体・重要文化財)が安置されている。大正初年に修補された客殿内部各室の襖は竹内栖鳳等、当時の京都画壇を代表する五氏の筆により飾られている。読み取れる文字は千魚など細すぎて読み切れないたぶん歌が詠まれているのだろう寺院前回の記事⇒寺院左0678念佛寺天台宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0679三千院門前駒札・境内図・歌碑
道標前回の記事⇒道標左0268第二十壱番札所勝林院下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0269後鳥羽天皇・順徳天皇御陵参道
まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1104茅葺の家築200年関連記事⇒千枚漬け漬け込まれましたへたは処分へ下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1105千枚漬けの材料
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