関連記事⇒人物検索一覧明智光秀ゆかりの地1光秀の塚2光秀の塚の道標3明智越え4明智光秀公報恩塔5金地院明智門6明智風呂明智光秀
織田信長ゆかりの地京都市内で墓所とされているところは次の5ケ所です1妙心寺内の玉鳳院信長・信忠の石塔がある2大徳寺塔頭総見院信長・信忠・信雄等織田家一族の墓がある3寺町今出川上ル阿弥陀寺信長父子および森蘭丸ほか120名の墓がある。本堂には信長・信忠の影像が安置されています6月2日催事あり4寺町御池下ル本能寺信長・信忠父子供養塔本能寺の変に斃れた人の慰霊塔がある5円山公園南大雲院信長・信忠の墓➡有名人ここに眠る6天道神社7旧二条城の築城8建勲神社9薬師院10二条殿11浄慶寺12見性寺織田信長の庶子村井重勝13本能寺跡1本能寺址214真如院15妙覚寺日蓮宗16春長寺浄土宗織田信忠の家臣・本能寺の変で戦死・菩提寺織田信長
1三条小鍛冶宗近関連0002三宅安兵衛の道標2関連0022三宅安兵衛石碑その23関連記事0015神南辺道心4関連記事0013小野篁ゆかりの各地5関連0012紫式部ゆかりの各地6関連0014富岡鉄斎7関連0010俊寛8関連0004明治天皇行幸地など910111213人物検索一覧
1まち歩き東1126東山開睛館2教育の大変革をめざした人達幕末の「寄合」3近思録教諭所蔵書45教育関係
32二宮尊徳像1番組小学校教育学校二宮尊徳像
321石塔八幡001五輪大石塔航海記念塔重要文化財三宅碑石塔・五輪石塔
321店八幡001やわたの走井餅餅・和菓子
32奈良県新薬師寺1滋賀県マキノ町メタセコイヤ並木他府県まち歩き
天御中主命(あめのみなかのしみこと)を祀る摂社、石清水社発生のもととなった清泉が今なお岩間から湧き出ている。社前に松花堂昭乗の筆で、寛永12年(1635)京都所司代板倉重宗が寄進した旨をしるした石鳥居がある。祠前回の記事⇒祠右058ルルゲさん・・って三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠八幡059石清水社
道標前回の記事⇒道標八幡0289エジソン記念碑谷崎潤一郎文学碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0290いわし水下り坂
石清水八幡宮は、平安時代初め、貞観元年(859)、奈良大安寺の僧・行教和尚が、九州の宇佐八幡宮から、八幡神をこの地に遷ししたのが起源です。本殿が朝廷により建てられた後、行教和尚はこの地に前からあった山寺を改め「護国寺」と名付けたと伝わります。本殿と一体となり全山を取り仕切った重要な施設でした。平成22年(2010)の発掘調査で、江戸時代後期、文化13年(1816)に建てられた本堂に柱を支えた礎石の跡が見つかり、その内側に地鎮祭の跡がありました。銅でできた輪宝に独鈷杵を突き立てる天台宗に方式で、八角形に配置し、須弥壇を取り囲んでいました。護国寺は再建からわずか50数年後、明治の初めに破却されました。護国寺薬師堂跡南坂下瀧本坊西御本社昭和2年10月京都三宅安兵衛依遺志建立関連記事⇒関連0022三宅安兵衛石碑その2史...史跡八幡066石清水八幡宮護国寺跡三宅石碑
細橋(ささやきばし)石清水の源流が通っていた渡らずの橋まち歩き前回の記事⇒まち歩き八幡1147石清水八幡宮東総門重要文化財下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き八幡1148石清水八幡宮細橋(ささやきばし)
まち歩き前回の記事⇒まち歩き右1146安堵橋と呼ばれていました。下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き八幡1147石清水八幡宮東総門重要文化財
史跡八幡065 石清水八幡宮 宝塔院跡 琴塔と呼ばれていました
宝塔院は、本殿の東側に、平安時代以降明治初年まであった天台密教系の仏塔で、平安時代中期の万寿年中(1024~28)にはすでに建てられていました。軒の四隅に風が吹くと鳴るような琴がかけられ、「琴塔」とも呼ばれていました。江戸時代の設計図によると方形の二重の塔は、天台宗の「大塔」の様式で、現存する例は日本に1つしかありません。明治の初めに神仏分離令によって取り除かれ、基壇の中央に参道が通されました。今も参道の両側に、柱を支えた礎石が残されています。本殿の西側には真言宗の大塔もあり、密教の別宗派の2種類の大塔が、同じ境内に本殿と共に共存していたことは、石清水八幡宮の神仏和合の精神をよく表しています。江戸時代後期に描かれた宝塔院慶応2年(1866)に描かれた宝塔院と大塔軒から下る琴が描かれている史跡前回の記事⇒史跡向日...史跡八幡065石清水八幡宮宝塔院跡琴塔と呼ばれていました
道標前回の記事⇒道標八幡0288参道関連記事⇒エジソン記念碑まち歩き八幡1046エジソンの顔モニュメント⇒谷崎潤一郎の寄贈の鐘下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0289エジソン記念碑谷崎潤一郎文学碑
右宝暦4年6月(1754年)道標前回の記事⇒道標八幡0287京道うぢ道八幡宮道江戸時代の道標下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0288参道
道標前回の記事⇒道標八幡0286三宅安兵衛道標11基八幡ふるさと学習館にありました。下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標八幡0287京道うぢ道八幡宮道江戸時代の道標
道標八幡0286 三宅安兵衛 道標11基 八幡ふるさと学習館にありました。
①川口渡舟場半②所天橋昭和2年③右佐羅志三左岡の稲荷一④太古山古左洞ヶ峠右中ノ山古昭和2年7月京都依三宅安⑤聖徳太子御自作達磨大師霊像安置江湖道場圓福禅寺向て左西二子塚三丁美ノ山五丁長尾三十丁峠五丁向て右洞ケ峠二丁圓福寺五丁田ノ口三十丁昭和丁卯2年京都依三宅安兵衛遺志建立⑥⑦神宮寺跡東宮寺跡東二丁座恩寺跡神宮寺跡南二丁引窓古墳〇〇書昭和2年9月京都三宅安兵衛遺志以志建立⑧右側如法經塚古跡右八幡宮七丁左塩竃五丁昭和2年10月京都三宅安兵衛依遺志建立⑨左側西二子塚跡左東二子塚一丁右筒井陣所跡三丁昭和2年9月京都依三宅安兵衛遺志建立⑩右側洞ケ峠古墳右太古山二丁左筒井陣所跡三丁昭和2年10月京都依三宅安兵衛遺志建立⑪左側洞ケ峠登口是東半丁昭和2年拾月京都三宅安兵衛依遺志建立こんな感じです関連記事⇒関連0022三宅安兵衛...道標八幡0286三宅安兵衛道標11基八幡ふるさと学習館にありました。
なんなんだろうルルゲ昭和4年3月禀京都三宅安兵衛えーっとなんと書かれているのか花が供えられている関連記事⇒関連0022三宅安兵衛石碑その2祠前回の記事⇒祠向日057堂ノ前町地蔵尊愛宕灯籠下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠右058ルルゲさん・・って三宅石碑
宝樹寺熊谷山と号する西山浄土宗の尼寺本堂には熊谷直美(蓮生法師)の発願にて造刻したとつたえる本尊阿弥陀像を安置し、釈迦如来像(鎌倉時代)は、もとこの付近にあった阿刀氏の菩提寺教興寺の遺仏と伝わる。熊谷山寶樹寺像昭和4年6月禀京都三宅安兵衛依遺志建立関連記事⇒関連0022三宅安兵衛石碑その2寺院前回の記事⇒寺院向日0711玄隆寺法華宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院右0712宝樹寺西山浄土宗三宅石碑
大きい方右三条通六条ふしみ小さい方右三条みち大きい方北野天満宮二条下立売小さい方五条みち大きい方文政7年甲申5月再建1824年約200年前です左あたご右三条通六条ふしみ道標前回の記事⇒道標向日0284桓武天皇皇后御陵大坂皇陵巡拝會下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標右0285安堵橋の道標あたご北野天満宮
むかし嵯峨清凉寺の辺で火事があった時、香木でつくられた本尊の焼ける香が、比叡山まで匂った。驚いた延暦寺の衆徒は急いで駆けつけ、この橋のところにて尊像の無事なることを聞き、大いに安堵した。それより安堵橋と名づけたという。安堵橋は江戸時代から知られた橋であったが、甲塚橋と改められた。安堵橋のほうがいいなあ。比叡山の方角・東を見る嵯峨清凉寺の方角・西を見る愛宕山が見えるまち歩き前回の記事⇒まち歩き向日1145竹の径下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1146安堵橋と呼ばれていました。
関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠向日091向日市中垣内
寺院前回の記事⇒寺院向日0710願成寺西山浄土宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院向日0711玄隆寺法華宗
関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠向日090向日市西野町
関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠089向日市の愛宕灯籠2基
寺院前回の記事⇒寺院向日0709来迎寺洛西観音霊場第32番札所下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院向日0710願成寺西山浄土宗
石仏前回の記事⇒石仏向日043屋根に覆われています瓦葺きです下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏向日044石仏ずらりと並んでいます
石仏前回の記事⇒石仏向日042物集女で出会う下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏向日043屋根に覆われています瓦葺きです
平安時代初めの天皇で桓武天皇の皇子です。兄の嵯峨天皇と共に物集女にはゆかりが深く、承和7年(840)に亡くなると、遺言によって物集女で火葬にされ、大原野の小塩山の山頂から散骨されました。ここは火葬にした場所とされています。関連記事⇒まとめ042陵墓下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます陵墓向日034淳和天皇火葬塚
石仏前回の記事⇒石仏向日041壁の中の石仏下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏向日042物集女で出会う
関連記事⇒お寺・神社めぐり07洛西33所観音霊場寺院前回の記事⇒寺院向日0708崇恩寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院向日0709来迎寺洛西観音霊場第32番札所
物集女城跡物集女城は、中世にこの地帯を本拠としていた国人(土豪)物集女氏の居城跡と考えられています。物集女氏は細川藤孝から安堵を受けたが、物集女氏は従わなかったために殺された。史跡前回の記事⇒史跡向日063中海道遺跡下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます史跡向日064物集女城跡
寺院前回の記事⇒寺院向日0707昌運寺西山浄土宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院向日0708崇恩寺
中海道遺跡の豪族居館と祭殿古墳時代初頭豪族の居館があった。弥生時代にはなかった斬新なスタイル。まつりの儀式に使われた祭殿。史跡前回の記事⇒史跡向日062願徳寺宝菩提院跡下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます史跡向日063中海道遺跡
寺院前回の記事⇒寺院井手0706正蓮寺真宗大谷派巡讃寺跡下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院向日0707昌運寺西山浄土宗
村中安全☞あたご愛宕山常夜灯天保8年1837年祠前回の記事⇒祠向日056「はりこ池」の弁財天関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠向日057堂ノ前町地蔵尊愛宕灯籠
古墳前回の記事⇒古墳向日25五塚原古墳(いつかはら)まとめ0029古墳下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます古墳向日26南条古墳
まち歩き前回の記事⇒まち歩き向日1144白鳳の泉(名水)下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き向日1145竹の径
桓武天皇皇后高畠陵皇后は内大臣藤原良継の二女、名は乙牟漏(おつむろ)、平城・嵯峨両帝の生母。延暦9年(790)3月10日、長岡宮にて崩御。31歳、3月28日この地に埋葬された陵墓前回の記事⇒陵墓長032土御門天皇金原陵まとめ042陵墓下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます陵墓向日033桓武天皇皇后高畠陵
石仏前回の記事⇒石仏井手040竹林の中の石仏下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏向日041壁の中の石仏
道標前回の記事⇒道標井手0282井手左大臣橘諸兄公旧跡関連記事⇒まとめ043大阪皇陵巡拝会の道標下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標向日0284桓武天皇皇后御陵大坂皇陵巡拝會
まち歩き前回の記事⇒まち歩き向日1143向日市寺田町古城関連記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き向日1144白鳳の泉(名水)
願徳寺宝菩提院跡今から1300年前の白鳳時代、この付近に本拠地をおいた豪族が五重塔や金堂などの仏教建築を造営しました。大同5年(810)、嵯峨天皇の病気回復を祈願した「長岡寺」は当寺院のことだと思われます。別名を「願徳寺」といい、鎌倉時代には宝菩提院が併設され、以後天台密教の道場として発展しました。織田信長の兵火による焼亡を経て慶長8年(1603)に再興しましたが、昭和39年に廃寺となりました。昭和48年京都市西京区において再建されました。発掘調査では、平安時代のわが国最古の湯屋跡は入浴施設として注目されます。本尊であった木造菩提半跏像と同じ時代の遺構でもあります。史跡前回の記事⇒向日061長岡宮跡牛車わだちの跡関連記事⇒寺院西0124宝菩提院願徳寺国宝菩薩半跏像下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近...史跡向日062願徳寺宝菩提院跡
寺田町古城応仁の乱の激戦地の1つ、「寺田城」があった場所といわれている。中世の城は、館と呼ばれるかまえをしていたが、土地の人は「城」と呼び、城がなくなった後も地名として伝えている。江戸時代の耕地図によれば小字名を「御城ノ内」といい、周囲に堀跡らしき地割りもみられます。中世寺戸の土豪の館跡かと考えられてきましたが、発掘調査では明確な遺構が確認できませんでした。まち歩き前回の記事⇒古墳向日25元稲荷古墳まち歩き向日1142向日市文化資料館展示内容下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き向日1143向日市寺田町古城
長岡宮跡牛車わだち跡人や牛の足跡も見つかりました。模型は京都府立山城郷土資料館で保管されています史跡前回の記事⇒史跡井手060六角井戸下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます史跡向日061長岡宮跡牛車わだちの跡
五塚原古墳古墳時代前期、今から1650年前の前方後円墳です。1977年の調査で全長94m、墳丘斜面には葺石があり、裾部では埴輪片も採集されています。古墳前回の記事⇒古墳向日25元稲荷古墳下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます古墳向日25五塚原古墳(いつかはら)
長谷川五郎左衛門安政4年11月(1857年)祠前回の記事⇒東055祠東055相鎚稲荷大明神下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠向日056「はりこ池」の弁財天
乙訓地方では最も古い時期の古墳。刀剣・槍・斧などの副葬品が残っていました。出土した特殊器台形埴輪や壺型土器の発見によって「埴輪のルーツ」が明らかになったという重要な古墳です文化資料館では実物の天井石を見学できます。古墳前回の記事⇒古墳向日24妙見山古墳関連記事文化資料館⇒まち歩き向日1142向日市文化資料館展示内容まち歩き向日1141向日市文化資料館下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます古墳向日25元稲荷古墳
古墳前回の記事⇒古墳向日23寺戸大塚古墳下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます古墳向日24妙見山古墳
寺戸大塚古墳全長98m前方部は、竪穴式石室が検出された。古墳の斜面には、葺石と呼ばれるこぶし大の敷石が敷き詰められ、平面の部分には、埴輪が大量に並べられていました。石室内からは和製の銅鏡、銅鏃、紡錘車、琴柱型石製品などが出土している。後円部石室からは中国製の三角獣神獣鏡・合子・勾玉・石釧・管玉・鎌・鉄斧・鉄剣・鉄刀などが出土した。椿井大塚山古墳出土のものと同氾関係にあり、同じような鏡を埋納する他の古墳とともに、寺戸大塚古墳の被葬者が、椿井大塚山古墳の被葬者の支配下にあったものと考えられている。古墳前回の記事⇒古墳城陽22黒土1号墳下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます古墳向日23寺戸大塚古墳
遷都3年目長岡宮の改造始まる築地塀の見本です翔鸞楼都づくり31万人の農民が諸国から集められた難波宮の建築材が利用された庶民の食事カロリー源は玄米の大盛?木簡にみる税の貢進国税の都への集中約20ケ国から物質が送られていた下級役人の仕事書記官は墨すり・木札づくり・食事の世話・膨大な書類の処理・1年140日以上6年間で勤務評定役所のしくみ役人の総数は8000人長岡京の主な役所の機構軽間嶋枌木簡にみえる食物役人の食事市での買い物が楽しみの1つ長岡京東院跡東院跡で発見された建物群井戸桓武天皇宮都と政治鴟尾藤原種継長岡京の文書土地売買貴族のくらし貴族の食事百済王明信庶民のくらしと市おそれといのり平安京への道店で売られていた物はさみの歴史朝堂院と内裏の変遷長岡宮の役所森本遺跡の人面土器鶏冠井遺跡の銅鐸鋳型まち歩き前回の記事⇒...まち歩き向日1142向日市文化資料館展示内容
長岡京は、延暦3年(784)に平城京から遷都され、延暦13年(794)に平安京へ移るまでの10年間、乙訓の地に営まれた都です。長岡京は、政治や儀式を行う大極殿や朝堂院などの官庁街と天皇の住まいである内裏からなる宮域(東西約1.0㎞、南北約1.6㎞)と貴族や都市住民の居住域である京域(東西4.3㎞、南北5.3㎞)に分けられます。都の中心部である宮域は、すべて現在の向日市域にあり、周囲を築地大垣で囲まれていました。向日市文化資料館は、この古代の都・長岡京の宮跡の一角に、遷都1200年を記念して昭和59年(1984)に建設されました。60年以上にわたって続けられてきた発掘調査によって、そのベールをぬぎつつあります。元稲荷古墳石室の天井石向日市向町北山にある、乙訓最古の古墳元稲荷古墳の後方部石室の天井石として使われてい...まち歩き向日1141向日市文化資料館
寺院前回の記事⇒寺院井手0705地福寺浄土宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院井手0706正蓮寺真宗大谷派巡讃寺跡
地福寺有王山と号する浄土宗の寺、寺伝では天平勝宝5年(753)橘諸兄の創建とつたえる。本堂には諸兄の念持仏とつたえる地蔵菩薩像やその位牌を安置し、境内には諸兄塔とつたえる五重層塔がある。寺院前回の記事⇒寺院井手0704安養寺下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院井手0705地福寺浄土宗
六角井戸天平時代の左大臣・橘諸兄公は、井手左大臣とも呼ばれたように、ここ井出町に別荘を構え住まわれていました。この六角形に組まれた珍しい井戸は、諸兄公の館、玉井頓宮の名残として今に伝わるもので、゛公の井戸゛として語り継がれています。玉井頓宮には聖武天皇が平城宮から恭仁京へ遷都される旅の終わりに仮宮として訪ねられた他天平12年(740)数度にわたって行幸されたと伝えられます。史跡前回の記事⇒史跡井手059井手左大臣橘諸兄公旧址下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます史跡井手060六角井戸
寺院前回の記事⇒寺院井手0703修福寺日蓮正宗下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院井手0704安養寺
まち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1139用水発起岡田武寛〇下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1140井手町池
まち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1138-2井手火山灰層下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1139用水発起岡田武寛〇
橘諸兄公由緒公は天武13年(684)生れ父美努王母県犬養三千代敏達天皇五世の孫光明皇后の異父兄である。本名は葛城応のち母の氏を賜わって橘諸兄井手に住して井手左大臣と号す。天平10年(738)より右大臣同15年(743)左大臣となり天平勝宝8年(756)致仕するまで奈良時代の全盛期を首班として生きた大官である。この間に聖武天皇の相楽別業(諸兄の井手にあった別荘)・玉井頓宮への行幸恭仁京遷都大仏建立・開眼供養などがあった。また、この地には別業のほか井堤寺を建立清涼な玉川とわ愛し山吹を植え続けたので多くの文学に見える「名所井手の里」を生み出した。聖武上皇崩御天平勝宝9年(757)正月6日亡くなる齢74史跡前回の記事⇒史跡井手058大安寺旧境内附石橋瓦窯跡下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます史跡井手059井手左大臣橘諸兄公旧址
2001年に井手町南部の井手地区で発見されて、研究が進められた。この火山灰は岸和田市福田で発見されて研究された火山灰で、給源火山地域の岐阜県北部、高山地域の茶屋野凝灰岩層と恵比須峠火砕堆積物とに対比され、大阪層群のこの火山灰は恵比須峠─福田テフラと呼ばれるようになったまち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1138竹林の道下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1138-2井手火山灰層
道標前回の記事⇒史跡井手057井堤寺跡道標井手0281井堤寺故址三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標井手0282井手左大臣橘諸兄公旧跡
まち歩き⇒まち歩き井手1137巨岩に彫りもの左馬鎌倉時代のもの下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1138竹林の道
竹の葉道竹に囲まれています弥勒石仏花こう岩に線刻されたこの三体仏は言い伝えによれば、奈良時代橘諸兄の館建立に際し鬼門除けとして刻まれたものという。しかし、実際は鎌倉~室町時代にかけて戦乱に明け暮れる武士の支配体制に苦しみ、その日暮らしがやっとであった農民たちが心のよりどころとして刻んだものである。石仏前回の記事⇒石仏左039三千院内で鎌倉時代下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏井手040竹林の中の石仏
宮本水車の里は橋本水車と称されていた。江戸時代の文化年間に宮本三郎の息子の喜左衛門が分家して水車を造った。明治初年に京都府が水車を利用する仕事(水車生業)の許可(官帖)を与えた。その後、宮本家の人々がこの水車による搾油・精米・製粉を生業として従事し、里人の便宜をはかり、喜ばれるところとなった。昭和28年8月15日未明に山中の池が突如崩壊し、洪水を起こし、激流となり、一瞬にして水車も家屋も消失するという被害に遭う。痛恨極まりなしとなる。昭和28年の水害が惨事をもたらしたのです。そこで、宮本家先祖の生業を偲び、この碑をここに建立されたという石碑前回の記事⇒石碑井手0216井出町水難慰霊碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑井手0217宮本水車跡
昭和28年8月14日、夕刻頃から小雨であったが、22時か23時より強雨となり、8月15日に日付が変わった頃、雷鳴を伴う豪雨となった。午前2時半頃から才田川で最初の決壊、井手町においては低地での浸水が始まった。午前3時頃より玉川下流の右岸(北側)で、下流から順に越流・決壊が発生し始めた。そこへ、午前4時頃、上流にある農業用ため池(大正池・二の谷池)がほぼ同時に決壊し、山津波が発生。これにより玉川の上流でさらなる決壊が発生し、井手町は甚大な被害に見舞われることになった。井手町玉水地区は木津川堤防、玉川堤防、多賀=谷川の堤防という3方を堤防で囲まれており、典型的な内水水害地区(うちみずすいがいちく)となっていた。そのため、ほかの被災地区では早期に排水が進んだのに対し、この地区は災害後数日たっても水位が下がらす、しかも...石碑井手02165井出町水難慰霊碑
大安寺旧境内附石橋瓦窯跡大安寺とは平城京(奈良市)に造営された官寺で、東大寺建立までは官寺筆頭寺院の地位にありました。この大安寺創建期の瓦を焼いた窯が石橋瓦窯です。平成14年度の、道路整備と町施設建設に伴い新たに2基の窯跡が発見されました。そのため井手町では、橋梁を設け遺跡を保存することにしました。この窯跡は天平19年(747)の『大安寺伽藍縁起井流記資材帳』にみえる大安寺所有の「棚倉瓦屋」であると推定されています。奈良時代初期の官寺の瓦生産地と供給地が文献資料と発掘調査両面から裏付けられる初めての例となりました。このため平成17年度に「史跡大安寺旧境内」関連施設として、名称変更のうえ追加指定されました。史跡前回の記事⇒史跡井手057井堤寺跡道標井手0281井堤寺故址三宅石碑下の地図のユーザー地図の囲みをクリッ...史跡井手058大安寺旧境内附石橋瓦窯跡
左り馬駒岩(こまいわ)の彫刻左馬は、重さ数百トンの大きな岩があり、表面に約1メートル四方の馬が刻まれています。玉津岡神社の社記によると、この駒岩はもと玉川左岸の株山にあって「玉川水源龍王祠側大岩彫刻駒形の絵」と平安末期の年号とともに記されています。本来は、雨を願い玉川の水を治めるために、絵馬としての駒岩であったものが、いつのころからか左馬として「女芸上達の神」に変わり、裁縫や生け花、茶道、舞踊などを志す人々の守り神として古くから信仰の対象となっています。数百トンもの花こう岩に刻まれた半肉彫りの左馬は「女芸上達の神」つまり女性の習い事の1つである裁縫や茶法、生け花、ひいては舞踊などを志す人の守り神として、古くから信仰の対象になっていた。作者や制作年代はふめいであるが、躍動的な象徴をもつことから鎌倉時代のものだろう...まち歩き井手1137巨岩に彫りもの左馬鎌倉時代のもの
史跡井手057 井堤寺跡 道標井手0281 井堤寺故址 三宅石碑
井堤寺故址是南二丁昭和3年11月禀京都三宅安兵衛遺志井堤寺の柱跡について平成13年夏、府道和束井手線の改良工事に伴う発掘調査で、東西に並ぶ7基の原穴を確認しました。1辺が1m前後の四角形の掘り方をもつ柱穴は、3m(10尺)ごとに1列に並んでいました。柱穴内には柱の跡や柱を支えた根石も見つかりました。調査地が狭かったことから詳しいことは不明ですが、これらの柱穴は建物の一部になる可能性があります。この地には、天平時代の左大臣・橘諸兄が橘氏の繁栄を願って建立した井堤寺があったとされる井堤寺の建物の一面とも考えられます。伝承にしか残っていなかった井堤寺に関する遺構が見つかったことは重要な成果といえます。井堤寺跡井堤寺は、円堤寺(井手寺)とも称され、天平時代の左大臣・橘諸兄が、母・三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺と伝え...史跡井手057井堤寺跡道標井手0281井堤寺故址三宅石碑
まち歩き井手1136 井手の町の眺め 西方面を見る 向うに木津川
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