川連には江戸時代に二人の絵師がいた。江戸時代後期から明治初期には「源尚元」通称源光。文政年間には「滕亮昌」がいた。「源尚元」は地元では「源光」さんでとおっている。描かれた絵に「源尚元」と号、落款に源光の印があるのもあった。号とは本名のほかに絵師などがつける雅名で有名な尾形光琳は11もの雅名があったという。その中で好んで使われた「光琳」が一般名として採用された。源光の描いた神応寺の須弥壇の上両脇の狛犬はすばらしい。狛犬は神社や寺に奉納、設置された空想上の守護獣像。本来は「獅子・狛犬」といい、一般的には向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬とされる。神応寺のもの「阿像」は口が開いているようには見えない。狩野派の絵師は好んで「獅子・狛犬」を描いたとされる「狛犬」像が多く...川連江戸の絵師1「源尚元」
2019年8月3日、今昔館がリニューアルオープンした。稲庭城(今昔館)30周年記念特別展として女流歌人「後藤逸女展」が主催湯沢市観光物産協会、共催稲川文化財保護協会、後援湯沢市、秋田県等で8月7日から11月10日まで開催された。今回の後藤逸女展に関して、私は川連地区で所蔵されている作品の一部をお借りし展示のお願いをした。西成家の「愛日蘆」、神應寺の掲額、井上家の逸女の教子常松に寄贈した掛け軸、栗林家の井上常松書の掛け軸等計9点。「愛日蘆」明治初年頃の逸女の家族は老女ハル、息子の与七郎、孫の宇一郎と直次郎の五人暮らし、老母は73歳で足腰がきかず、与七郎は発作やてんかんを起こし一人前の仕事ができなかった。逸女の孝養ぶりは近所に感動を与えていた。明治2年肝煎り高橋六之丞からお上に上申書をあげた。明治4年岩崎藩知事佐竹...後藤逸女教子井上常松
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