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集落と国道398号線を結ぶ道路が約50年ぶりに舗装されることになった。8月の盆前、朝の「田めぐり」で知る。事前に広報等で発表されていたこととは思ったが見逃していた。看板を立てられた直後、担当になった業者があいさつに来た。道路側耕作者には直接、集落全体にはチラシで通知するという。道路舗装の看板と道路の状況この道路は昭和49年圃場整備事業で新しくなった。集落と国道398号線を結ぶ道は主要な道路で交通量も多く、子供たちが学校に通う通学路でもある。旧道は、集落からやや北西に進んで隣集落に向かっていた。新しい道路は圃場整備事業で造成され、集落から真西に進んで隣集落へは途中で直角に曲がって入るようになった。新しい道路はすべて元は田んぼ、水路、土手の上となった。整備の終わって間もなく道路は毎年のように穴ぼこになった。写...50年後の道路再舗装
湯沢市川連町は川連、野村、大舘、久保の4地区で構成され、川連に麓、川連、上野の3集落が入っている。川連地区は川連城の城下町として形成されてきた。川連城が築かれたのは、寛治年間(1089~1093)といわれ稲庭城に小野寺氏が居城する頃に、小野寺道基が川連城に居館して築城したとされる。菩提寺の神應寺は1050年頃から存在する古い集落。現在全国的に空き家が急増している。総務省調査では空き家は全国に849万戸、長い間人の住んでいない空き家が349万戸と報道されている。今回これらの状況の中で集落内の住居の動向を振り返ってみた。今回私の持っている資料と「人口ピラミットPlus」を参考にした。下記の表は私が調査し集計した年代ごと増えた戸数と減った戸数の一覧。麓集落の戸数の推移(明治3年~令和5年)手元の資料で麓集落戸数...麓集落戸数の減少
尊敬する佐賀県の山下惣一さんが7月10日に亡くなり、偲ぶ会が12月18日東京都千代田区の「日本教育会館」で開かれた。今回「山下惣一さんを偲ぶ会のご案内」をいただき、久しぶりの上京と思ったが、抜き差しできない所用と重なり出席を断念した。下記は訃報を伝える7月14日の朝日新聞。昭和32年中卒で農業に従事し、定時制高校を終えて本格的に家業の農業に入ったのは昭和36年。「農業の憲法」とまで言われた「農業基本法」が制定された年である。大きな変化が生まれそうな情勢に翻弄されていた時代。農の定着のために各地の情報を集めた。現在のようにインターネット等はあろうはずもなく。情報収集はテレビ、ラジオを中心に書店に出向き関連する本、雑誌が中心だった。そんな中で昭和41年、目に飛び込んできたのが佐賀県の「新佐賀段階」の米つくり運...「山下惣一」さんとの別れ
1972年11月23日私は国交回復直後の中国を訪問した。2022年は国交回復、訪中後50年を振り返って当時の記事を追ってみた。x帰国後の1973年1月から2月にかけて、農業共済新聞社は6回にわたって訪問記を連載された。表題は「我們爱农业」(私は農業を愛する)若い農民がみた中国帰国後農業共済新聞社の佐藤記者が来秋、私と湯沢の菊池さんが話したのを佐藤記者がまとめて連載した。写真は私が撮った。第一回目の記事で連載を次のように紹介した。1「第三次農村活動家訪中団が昨年暮れ、一ヶ月にわたって中国を視察訪問した。このグループは、全国の第一線で地道に農業問題に取り組む農民たちだが、平均年齢三十五歳という比較的若い層で構成された。中国では各地の人民公社をはじめ、工場や住宅を視察し、政府や要人とも会見した。とくに、農村活動...1972年中国訪問記
湯沢市雄勝野草の会主催、第45回山野草写真展は11月16日(木)から26日(土)まで湯沢市生涯学習センターロビーで開かれた。雄勝野草の会は昭和49年1月7日に18名で設立し、現在会員36名です。自然観察の中で各自が撮った67点の写真が展示された。私は今回10点の写真を出展しました。すべての写真は昨年と今年各地へ出かけ撮影したものです。特に八幡平、蓬莱沼等の写真は仙北市の和賀の仙人と言われる渓風小舎(佐藤隆)さんの案内で撮ったものです。10点の写真は①チングルマ(森吉山)、②オオバナノエンレイソウ(抱返り)、③エゾニュウ(八幡平)、④ミソガワソウ(八幡平)、⑤アマニュウ(八幡平)、⑥アオモリアザミとクジャクチョウ(八幡平蓬莱沼)、⑦サワギキョウ他(蓬莱沼)、⑧ヘクソカズラ川連麓)、➈ラショウモンカズラ(川連...第45回雄勝野草の会山野草写真展
先の参議院選挙に突如参入してきた参政党。オーガニック右翼とも揶揄される「農と食」に大きな違和感を持っていた。この度「声明」発表に賛同し、呼びかけ人の一員になりました。「声明」を全文を紹介します。賛同していただける方は下記にメール、電話、ファック等でご連絡いただければさいわいです。「私たちは農と食が国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します」私たちは農民です。農民として、自分の身の丈に合わせ、自然と相談しながら営農を持続し、ある者は有機農業に挑戦し、地域の農業を維持してきました。自由に、思いや行動や知恵や技術を発揮できることに誇りをもって食を作ってきました。私たちは消費者であり生活者です。私たちは食べる者として、自身と将来世代の誰もが健康で幸せに生きることができるように、安心して食べ続けられるように...声明「食料への権利」
田下畑上(たじりはたがみ)とは田んぼや畑の境界を表す言葉。田下(たじり)は畦畔法面の下が境界。田んぼの畦畔は水を貯めることや農作業の通路で極めて需要。畑上(はたがみ)とは畑の法面の上が境界となる。これらが平坦な土地なら中心線になるだろうが畑地は傾斜地が多い。私の地区では土地の境界は、田下畑上と昔から呼ばれてきた。そして境界にはお互いの承認で目印になる木を植えた。それが境界木と呼ばれる。山林の境界は多くは大きな石や沢、境界木として多いのはカラマツが多い。境界木は道路と屋敷などにも植えられてい。地区にはアブラチャン、モッキ(ムクゲ)、エゴノキ、スギ、ヤマモミジ、サクラ、カツラ等がある。境界木についてはあまりにも日常的な光景で特に関心などなかった。昨年の暮れ、土蔵の冬囲いをしていた時に集落の「k」君が見知らぬ人...「田下畑上」とアブラチャン
近農地価格が暴落傾向にある。住宅地内の畑、かつての樹園地は伐採され耕作放棄。家庭菜園以外、たばこ、枝豆、アスパラや野菜直売所向けの栽培も限定的で多くの畑地に作物は栽培されていない。020春2、衝撃的なニュースが入ってきた。近くの集落で十数代続く旧家が集落を離れ、近くの町に引っ越すという。近年若い世代の生活様式が変わり通勤、通学の便利な場所に引っ越すという家が出てきている。山間地の集落の過疎化は至るところで見受けられる。「農地すべてを手放しての離農」を予定したが農地の引き受け手がいない」ということだ。典型的な挙家離村型。すべて処分ということで集落を覆う山の杉、雑木の伐採等チェンソーのエンジン音が鳴り響いた。田んぼや畑がその後どうなったのかはわからない。家族農業を主としない農業政策は「規模拡大策」中心。規模拡大農家...農地価格の暴落
2021冬の累計降雪量は1026㎝。冬になり降雪があると毎朝、除雪機で道路から玄関まで排雪が日課となる。除雪機始動と同時にメジャーで降雪量を測る習慣になって数年になる。降雪量とは雪が降った量、積雪量とは雪が積もった状態をいう。降った雪にさらに雪が積りある一定の時間で降った雪の深さで積雪量と表現される。我が里は積雪量は最大で220㎝にもなった。このブログは毎朝の降雪の記録。この冬の豪雪には近年に経験したことがない特徴があった。雪が降ったのは12月14日から21日までと12月31日から1月6日までの集中降雪。約一週間、休みなく降り続いた。1月中旬以降2月は例年の降り方だった。3月は2日が5㎝、3日が2㎝の計7㎝の降雪だけで例年と比較して3月はほとんど降雪なしで終った。以下はこの冬の記録。豪雪の被害は12月14日初雪...2021豪雪と被害
「知海」は本名「井上松治」。明治3年~昭和19年(1870~1944)川連生まれ、屋号は「宇吉」。「松治」は井上家十代当主、初代当主は「及左衛門」。「松治」は明治17年(1884)14歳で秋田市の「神沢素堂」の私塾にはいり、3年間にわたって関学を学んだ。「素堂」の塾は当時秋田第一と言われ、多くの逸材を出したと「秋田の画人」昭和39年4月秋田魁新報社刊にある。さらに「秋田の画人」によれば「松治」は絵の才能を見せ、師に期待された。「素堂」も「平福穂庵」と交わり日本画(秋田蘭画)を描いていた。明治21年(1888)18歳で上京、勤王画家として名のあった「松本楓湖」について本格的に絵を学び歴史画を得意とした。明治23年(1890)20歳でに洋画に転じ、「小山正太郎」の不同社や白馬会研究所に通った。明治31年(1898)...川連江戸の絵師3知海
秋田の湯沢は豪雪が続ついつている。前回ブログ「キノコ大豊作」を書き始めたのが12月13日でリリースしたのが15日だった。それまで標高444mの鍋釣山、540mの国見岳の中腹辺りまで降雪があったが平地まで降雪はなかった。昨年は近年まれにみるほどの小雪。屋根の雪下ろしは一回もせずに終わったので、天気予報での降雪情報等はそれほど大事になるとは想像もしていなかった。平地の初雪になった12月14日朝の降雪は24㎝あった。道路から自宅玄関まで除雪機での排除に小1時間かかる。平地に降った雪に初日から除雪機登場は近年記憶にはない。排雪は日課になり、防寒着にメジャーは常備し作業始まりには計測するのも定着してしまった。14日夜半から降り出した雪はその後続いた。朝の降雪15日45㎝、16日43㎝、17日30㎝になったら早い人は屋根の...豪雪と自衛隊
秋は「きのこ」の季節。今年の当地方は梅雨には比較的雨が多く日照不足で作物は低調な成育。8月に入ってから比較的好天が続き、作物は例年並みだったが収穫時期は遅れ気味だった。そんな中で平年より半月以上も遅れて「きのこ」の豊作の報が入ってきた。近年各地で熊の出没情報が多発。2020・1・25「秋田魁新報」に次の記事があった。「24日午前9時ごろ、秋田県湯沢市川連町川連の市道にクマがいるのを、付近の10代女性が見つけ、市役所を通じて湯沢署に届け出た。人や物への被害は確認されていない。県内でクマの目撃情報が警察に寄せられたのは今年初めて。県警地域課によると、県内で1月にクマが目撃されたのは2018年以来2年ぶり」。さらに7月八坂神社にある小社がクマに小破された。ミツバチの巣があったらしい。こんな背景が重なると村に住む住民は...キノコ大豊作
第44回雄勝野草の会山野草写真展は11月19日(木)から27日(金)まで湯沢生涯学習センターで開かれた。会員7人が山野草の写真66点を展示。昭和49年(1974)に設立された「雄勝野草の会」の現在の会員は38名。湯沢生涯学習センター玄関今回の写真展に合わせて、「コロナ」禍で先送りしていた総会と写真展会場で出展会員のそれぞれの写真について説明が行なわれた。出展会員の解説私はこの写真展に7点出展した。①オクモミジハグマ(山谷西山公園)、②キツリフネソウ(川連黒森)、③ヒメシャガ(増田真人山)、④エゾニュー(川連黒森)、⑤オオバナノエンレイソウ(仙北抱返り)⑥ムラサキサキゴケ(川連田屋面)⑦ヒメハギ(山谷西山公園オクモミジハグマ(奥紅葉白熊)(山谷西山公園)オクモミジハグマと葉「オクモミジハグマ」は山谷西山公園で数年...第44回雄勝野草の会写真展
このほど「文遊社」から「変容する都市のゆくえ複眼の都市論」三浦倫平・竹岡暢編著が出版された。帯に「あの街は変わった」ーーーそれは本当だろうか?「沖縄の基地都市、東京の下町・歌舞伎町、下北沢、渋谷の大規模開発、さいたま、丸の内・東京駅、多摩ニュータウン、、、、目にみえる「変容」と「不変」を疑い、その背後に何が起きているかを問う。この本に『「村の記録」のなかの都市ーーーテレビドキュメンタリーに描かれた農村の変容』が収録されている。「序」で三浦・竹岡氏は「執筆者の選定に当たっては「日本のある特定の場所について都市/街/風景の変容というテーマで、事実を積み重ねた記述によって論じることが出来る」という基準を採用し多様な専門分野からの参加を得られるように心がけた。、、、必ずしも「都市」そのものを直接取り上げている論考ばかり...「変容する都市のゆくえ複眼の都市論」の「減反詩集」
川連の江戸の絵師「亮昌」は謎に包まれていた。昨年まで絵師「亮昌」、「チセン」についての詳細はほとんど手がかりなしできた。2019年暮れ稲川文化財保護協会顧問、T氏との懇談で「日野亮昌」の名が出てきた。「稲川町史」資料篇第八集で松迺舎佐藤信敏「稲庭古今事蹟誌」稲庭画工家ノ事、「佐藤信成ノ事」に寛保3年(1744)生、宝暦10年(1757)14歳に川連村の人日野亮昌に隋て学ぶ」とあった。川連の「日野亮昌」の消息を尋ねられた。とっさに姓の「日野」ではなく「亮昌」の名にくぎ付けとなった。自家に「亮昌」の掛軸があったからだ。隣家「キエモン」(喜右衛門)宅で「鍾馗」の掛け軸が話題となり比較したことがあった。「キエモン」(喜右衛門)宅訪問は2015年春、豪雪で壊れた内沢の「山神社」の修復で募金活動していたら「山神社」の建立時...川連江戸の絵師2滕亮昌
江戸後期の絵師、源尚元の生没年は今までほとんどわからないできた。前回の「川連江戸の絵師1源尚元」の後、「ニザエモン」宅から新しい掛軸「十三仏」に「源尚元行歳六十一画」とあった。絵師が描いた絵に年齢を記しているのは少ない。この「十三仏」は私が拝見できた源尚元の絵の中で特筆すべき輝きに見えた。さらに自家から一点、発見できたので前回の「川連江戸の絵師1源尚元」、「続源尚元」として紹介してみる。十三仏の軸の裏側に明治34年7月吉日とあった。換算してみると明治34年(1901)61歳の生年月日は天保11年(1840)であることが分かった。前回のブログで「後藤逸女」と「源尚元」の軸に逸女62歳とあり、逸女の62歳は明治8年、源尚元36歳となる。十三仏源尚元行歳61画明治34年7月吉日十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとに...川連江戸の絵師1続「源尚元」
川連には江戸時代に二人の絵師がいた。江戸時代後期から明治初期には「源尚元」通称源光。文政年間には「滕亮昌」がいた。「源尚元」は地元では「源光」さんでとおっている。描かれた絵に「源尚元」と号、落款に源光の印があるのもあった。号とは本名のほかに絵師などがつける雅名で有名な尾形光琳は11もの雅名があったという。その中で好んで使われた「光琳」が一般名として採用された。源光の描いた神応寺の須弥壇の上両脇の狛犬はすばらしい。狛犬は神社や寺に奉納、設置された空想上の守護獣像。本来は「獅子・狛犬」といい、一般的には向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬とされる。神応寺のもの「阿像」は口が開いているようには見えない。狩野派の絵師は好んで「獅子・狛犬」を描いたとされる「狛犬」像が多く...川連江戸の絵師1「源尚元」
2019年8月3日、今昔館がリニューアルオープンした。稲庭城(今昔館)30周年記念特別展として女流歌人「後藤逸女展」が主催湯沢市観光物産協会、共催稲川文化財保護協会、後援湯沢市、秋田県等で8月7日から11月10日まで開催された。今回の後藤逸女展に関して、私は川連地区で所蔵されている作品の一部をお借りし展示のお願いをした。西成家の「愛日蘆」、神應寺の掲額、井上家の逸女の教子常松に寄贈した掛け軸、栗林家の井上常松書の掛け軸等計9点。「愛日蘆」明治初年頃の逸女の家族は老女ハル、息子の与七郎、孫の宇一郎と直次郎の五人暮らし、老母は73歳で足腰がきかず、与七郎は発作やてんかんを起こし一人前の仕事ができなかった。逸女の孝養ぶりは近所に感動を与えていた。明治2年肝煎り高橋六之丞からお上に上申書をあげた。明治4年岩崎藩知事佐竹...後藤逸女教子井上常松
オゼコウホネ(尾瀬河骨)は昭和12年、尾瀬で新種のコウホネ(浮葉植物)として見つかったのでオゼコウホネの名がついたといわれている。尾瀬、山形月山、北海道空知、宗谷等限られた場所にしか生えていないとされてきた。そのオゼコウホネが湯沢の細沼に群生している。尾瀬より早く発見されていたらホソヌマコウホネの名がついていたのかもしれない。数年前、福島県の桧枝岐村から始まる尾瀬を散策した。オゼコウホネは地塘(高層湿原にできる池)の主役などと言われているが生育場所は尾瀬でも限られ木道散策等では見ることはできない。山形県の月山のオゼコウホネは八合目、駐車場からすぐの阿弥陀ヶ原湿原。無数の地塘のある中で、広さがせいぜい100㎡に満たない地塘に生育している。湿原の木道を数分歩いてたどり着く。地塘なので立ち入りはできない。6月中旬に散...細沼の「オゼコウホネ」
第43回雄勝野草の会山野草写真展は12日(火)から21日(木)まで湯沢生涯学習センターで開かれています。会員7人が山野草の写真66点を展示しています。昭和49年(1974)に設立された「雄勝野草の会」の現在の会員は38名。主に今年自然観察会や深山、里山等で撮った写真。66点の中には同じ名の山野草もみられる。各会員の感性による表現に触れるとより山野草の奥深い豊さ発見してしまう。一枚一枚の写真に感謝を込めたい。私は今回次の写真、サンカヨウ(湯沢市つぶ沼)、オオヤマオダマキ(川連町黒森)、オゼコウホネ(皆瀬細沼)、アケボノソウ(仙北市抱返り)、ツリガネニンジン(皆瀬ダム)、キンエノコロ(川連町田屋面)、ムラサキセンブリ(湯沢市山谷)の7点を出展しました。サンカヨウ(湯沢市つぶ沼)サンカヨウの漢字表記は「山荷葉」。花言...第43回雄勝野草の会写真展
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