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  • 麓集落 戸数の減少

    湯沢市川連町は川連、野村、大舘、久保の4地区で構成され、川連に麓、川連、上野の3集落が入っている。川連地区は川連城の城下町として形成されてきた。川連城が築かれたのは、寛治年間(1089~1093)といわれ稲庭城に小野寺氏が居城する頃に、小野寺道基が川連城に居館して築城したとされる。菩提寺の神應寺は1050年頃から存在する古い集落。現在全国的に空き家が急増している。総務省調査では空き家は全国に849万戸、長い間人の住んでいない空き家が349万戸と報道されている。今回これらの状況の中で集落内の住居の動向を振り返ってみた。今回私の持っている資料と「人口ピラミットPlus」を参考にした。下記の表は私が調査し集計した年代ごと増えた戸数と減った戸数の一覧。麓集落の戸数の推移(明治3年~令和5年)手元の資料で麓集落戸数...麓集落戸数の減少

  • 「山下惣一」さんとの別れ

    尊敬する佐賀県の山下惣一さんが7月10日に亡くなり、偲ぶ会が12月18日東京都千代田区の「日本教育会館」で開かれた。今回「山下惣一さんを偲ぶ会のご案内」をいただき、久しぶりの上京と思ったが、抜き差しできない所用と重なり出席を断念した。下記は訃報を伝える7月14日の朝日新聞。昭和32年中卒で農業に従事し、定時制高校を終えて本格的に家業の農業に入ったのは昭和36年。「農業の憲法」とまで言われた「農業基本法」が制定された年である。大きな変化が生まれそうな情勢に翻弄されていた時代。農の定着のために各地の情報を集めた。現在のようにインターネット等はあろうはずもなく。情報収集はテレビ、ラジオを中心に書店に出向き関連する本、雑誌が中心だった。そんな中で昭和41年、目に飛び込んできたのが佐賀県の「新佐賀段階」の米つくり運...「山下惣一」さんとの別れ

  • 1972年中国訪問記

    1972年11月23日私は国交回復直後の中国を訪問した。2022年は国交回復、訪中後50年を振り返って当時の記事を追ってみた。x帰国後の1973年1月から2月にかけて、農業共済新聞社は6回にわたって訪問記を連載された。表題は「我們爱农业」(私は農業を愛する)若い農民がみた中国帰国後農業共済新聞社の佐藤記者が来秋、私と湯沢の菊池さんが話したのを佐藤記者がまとめて連載した。写真は私が撮った。第一回目の記事で連載を次のように紹介した。1「第三次農村活動家訪中団が昨年暮れ、一ヶ月にわたって中国を視察訪問した。このグループは、全国の第一線で地道に農業問題に取り組む農民たちだが、平均年齢三十五歳という比較的若い層で構成された。中国では各地の人民公社をはじめ、工場や住宅を視察し、政府や要人とも会見した。とくに、農村活動...1972年中国訪問記

  • 第45回雄勝野草の会山野草写真展

    湯沢市雄勝野草の会主催、第45回山野草写真展は11月16日(木)から26日(土)まで湯沢市生涯学習センターロビーで開かれた。雄勝野草の会は昭和49年1月7日に18名で設立し、現在会員36名です。自然観察の中で各自が撮った67点の写真が展示された。私は今回10点の写真を出展しました。すべての写真は昨年と今年各地へ出かけ撮影したものです。特に八幡平、蓬莱沼等の写真は仙北市の和賀の仙人と言われる渓風小舎(佐藤隆)さんの案内で撮ったものです。10点の写真は①チングルマ(森吉山)、②オオバナノエンレイソウ(抱返り)、③エゾニュウ(八幡平)、④ミソガワソウ(八幡平)、⑤アマニュウ(八幡平)、⑥アオモリアザミとクジャクチョウ(八幡平蓬莱沼)、⑦サワギキョウ他(蓬莱沼)、⑧ヘクソカズラ川連麓)、➈ラショウモンカズラ(川連...第45回雄勝野草の会山野草写真展

  • 声明 「食料への権利」

    先の参議院選挙に突如参入してきた参政党。オーガニック右翼とも揶揄される「農と食」に大きな違和感を持っていた。この度「声明」発表に賛同し、呼びかけ人の一員になりました。「声明」を全文を紹介します。賛同していただける方は下記にメール、電話、ファック等でご連絡いただければさいわいです。「私たちは農と食が国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します」私たちは農民です。農民として、自分の身の丈に合わせ、自然と相談しながら営農を持続し、ある者は有機農業に挑戦し、地域の農業を維持してきました。自由に、思いや行動や知恵や技術を発揮できることに誇りをもって食を作ってきました。私たちは消費者であり生活者です。私たちは食べる者として、自身と将来世代の誰もが健康で幸せに生きることができるように、安心して食べ続けられるように...声明「食料への権利」

  • 「田下畑上」とアブラチャン

    田下畑上(たじりはたがみ)とは田んぼや畑の境界を表す言葉。田下(たじり)は畦畔法面の下が境界。田んぼの畦畔は水を貯めることや農作業の通路で極めて需要。畑上(はたがみ)とは畑の法面の上が境界となる。これらが平坦な土地なら中心線になるだろうが畑地は傾斜地が多い。私の地区では土地の境界は、田下畑上と昔から呼ばれてきた。そして境界にはお互いの承認で目印になる木を植えた。それが境界木と呼ばれる。山林の境界は多くは大きな石や沢、境界木として多いのはカラマツが多い。境界木は道路と屋敷などにも植えられてい。地区にはアブラチャン、モッキ(ムクゲ)、エゴノキ、スギ、ヤマモミジ、サクラ、カツラ等がある。境界木についてはあまりにも日常的な光景で特に関心などなかった。昨年の暮れ、土蔵の冬囲いをしていた時に集落の「k」君が見知らぬ人...「田下畑上」とアブラチャン

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