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  • 50年後の道路再舗装

    集落と国道398号線を結ぶ道路が約50年ぶりに舗装されることになった。8月の盆前、朝の「田めぐり」で知る。事前に広報等で発表されていたこととは思ったが見逃していた。看板を立てられた直後、担当になった業者があいさつに来た。道路側耕作者には直接、集落全体にはチラシで通知するという。道路舗装の看板と道路の状況この道路は昭和49年圃場整備事業で新しくなった。集落と国道398号線を結ぶ道は主要な道路で交通量も多く、子供たちが学校に通う通学路でもある。旧道は、集落からやや北西に進んで隣集落に向かっていた。新しい道路は圃場整備事業で造成され、集落から真西に進んで隣集落へは途中で直角に曲がって入るようになった。新しい道路はすべて元は田んぼ、水路、土手の上となった。整備の終わって間もなく道路は毎年のように穴ぼこになった。写...50年後の道路再舗装

  • 麓集落 戸数の減少

    湯沢市川連町は川連、野村、大舘、久保の4地区で構成され、川連に麓、川連、上野の3集落が入っている。川連地区は川連城の城下町として形成されてきた。川連城が築かれたのは、寛治年間(1089~1093)といわれ稲庭城に小野寺氏が居城する頃に、小野寺道基が川連城に居館して築城したとされる。菩提寺の神應寺は1050年頃から存在する古い集落。現在全国的に空き家が急増している。総務省調査では空き家は全国に849万戸、長い間人の住んでいない空き家が349万戸と報道されている。今回これらの状況の中で集落内の住居の動向を振り返ってみた。今回私の持っている資料と「人口ピラミットPlus」を参考にした。下記の表は私が調査し集計した年代ごと増えた戸数と減った戸数の一覧。麓集落の戸数の推移(明治3年~令和5年)手元の資料で麓集落戸数...麓集落戸数の減少

  • 「山下惣一」さんとの別れ

    尊敬する佐賀県の山下惣一さんが7月10日に亡くなり、偲ぶ会が12月18日東京都千代田区の「日本教育会館」で開かれた。今回「山下惣一さんを偲ぶ会のご案内」をいただき、久しぶりの上京と思ったが、抜き差しできない所用と重なり出席を断念した。下記は訃報を伝える7月14日の朝日新聞。昭和32年中卒で農業に従事し、定時制高校を終えて本格的に家業の農業に入ったのは昭和36年。「農業の憲法」とまで言われた「農業基本法」が制定された年である。大きな変化が生まれそうな情勢に翻弄されていた時代。農の定着のために各地の情報を集めた。現在のようにインターネット等はあろうはずもなく。情報収集はテレビ、ラジオを中心に書店に出向き関連する本、雑誌が中心だった。そんな中で昭和41年、目に飛び込んできたのが佐賀県の「新佐賀段階」の米つくり運...「山下惣一」さんとの別れ

  • 1972年中国訪問記

    1972年11月23日私は国交回復直後の中国を訪問した。2022年は国交回復、訪中後50年を振り返って当時の記事を追ってみた。x帰国後の1973年1月から2月にかけて、農業共済新聞社は6回にわたって訪問記を連載された。表題は「我們爱农业」(私は農業を愛する)若い農民がみた中国帰国後農業共済新聞社の佐藤記者が来秋、私と湯沢の菊池さんが話したのを佐藤記者がまとめて連載した。写真は私が撮った。第一回目の記事で連載を次のように紹介した。1「第三次農村活動家訪中団が昨年暮れ、一ヶ月にわたって中国を視察訪問した。このグループは、全国の第一線で地道に農業問題に取り組む農民たちだが、平均年齢三十五歳という比較的若い層で構成された。中国では各地の人民公社をはじめ、工場や住宅を視察し、政府や要人とも会見した。とくに、農村活動...1972年中国訪問記

  • 第45回雄勝野草の会山野草写真展

    湯沢市雄勝野草の会主催、第45回山野草写真展は11月16日(木)から26日(土)まで湯沢市生涯学習センターロビーで開かれた。雄勝野草の会は昭和49年1月7日に18名で設立し、現在会員36名です。自然観察の中で各自が撮った67点の写真が展示された。私は今回10点の写真を出展しました。すべての写真は昨年と今年各地へ出かけ撮影したものです。特に八幡平、蓬莱沼等の写真は仙北市の和賀の仙人と言われる渓風小舎(佐藤隆)さんの案内で撮ったものです。10点の写真は①チングルマ(森吉山)、②オオバナノエンレイソウ(抱返り)、③エゾニュウ(八幡平)、④ミソガワソウ(八幡平)、⑤アマニュウ(八幡平)、⑥アオモリアザミとクジャクチョウ(八幡平蓬莱沼)、⑦サワギキョウ他(蓬莱沼)、⑧ヘクソカズラ川連麓)、➈ラショウモンカズラ(川連...第45回雄勝野草の会山野草写真展

  • 声明 「食料への権利」

    先の参議院選挙に突如参入してきた参政党。オーガニック右翼とも揶揄される「農と食」に大きな違和感を持っていた。この度「声明」発表に賛同し、呼びかけ人の一員になりました。「声明」を全文を紹介します。賛同していただける方は下記にメール、電話、ファック等でご連絡いただければさいわいです。「私たちは農と食が国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します」私たちは農民です。農民として、自分の身の丈に合わせ、自然と相談しながら営農を持続し、ある者は有機農業に挑戦し、地域の農業を維持してきました。自由に、思いや行動や知恵や技術を発揮できることに誇りをもって食を作ってきました。私たちは消費者であり生活者です。私たちは食べる者として、自身と将来世代の誰もが健康で幸せに生きることができるように、安心して食べ続けられるように...声明「食料への権利」

  • 「田下畑上」とアブラチャン

    田下畑上(たじりはたがみ)とは田んぼや畑の境界を表す言葉。田下(たじり)は畦畔法面の下が境界。田んぼの畦畔は水を貯めることや農作業の通路で極めて需要。畑上(はたがみ)とは畑の法面の上が境界となる。これらが平坦な土地なら中心線になるだろうが畑地は傾斜地が多い。私の地区では土地の境界は、田下畑上と昔から呼ばれてきた。そして境界にはお互いの承認で目印になる木を植えた。それが境界木と呼ばれる。山林の境界は多くは大きな石や沢、境界木として多いのはカラマツが多い。境界木は道路と屋敷などにも植えられてい。地区にはアブラチャン、モッキ(ムクゲ)、エゴノキ、スギ、ヤマモミジ、サクラ、カツラ等がある。境界木についてはあまりにも日常的な光景で特に関心などなかった。昨年の暮れ、土蔵の冬囲いをしていた時に集落の「k」君が見知らぬ人...「田下畑上」とアブラチャン

  • 農地価格の暴落

    近農地価格が暴落傾向にある。住宅地内の畑、かつての樹園地は伐採され耕作放棄。家庭菜園以外、たばこ、枝豆、アスパラや野菜直売所向けの栽培も限定的で多くの畑地に作物は栽培されていない。020春2、衝撃的なニュースが入ってきた。近くの集落で十数代続く旧家が集落を離れ、近くの町に引っ越すという。近年若い世代の生活様式が変わり通勤、通学の便利な場所に引っ越すという家が出てきている。山間地の集落の過疎化は至るところで見受けられる。「農地すべてを手放しての離農」を予定したが農地の引き受け手がいない」ということだ。典型的な挙家離村型。すべて処分ということで集落を覆う山の杉、雑木の伐採等チェンソーのエンジン音が鳴り響いた。田んぼや畑がその後どうなったのかはわからない。家族農業を主としない農業政策は「規模拡大策」中心。規模拡大農家...農地価格の暴落

  • 2021豪雪と被害

    2021冬の累計降雪量は1026㎝。冬になり降雪があると毎朝、除雪機で道路から玄関まで排雪が日課となる。除雪機始動と同時にメジャーで降雪量を測る習慣になって数年になる。降雪量とは雪が降った量、積雪量とは雪が積もった状態をいう。降った雪にさらに雪が積りある一定の時間で降った雪の深さで積雪量と表現される。我が里は積雪量は最大で220㎝にもなった。このブログは毎朝の降雪の記録。この冬の豪雪には近年に経験したことがない特徴があった。雪が降ったのは12月14日から21日までと12月31日から1月6日までの集中降雪。約一週間、休みなく降り続いた。1月中旬以降2月は例年の降り方だった。3月は2日が5㎝、3日が2㎝の計7㎝の降雪だけで例年と比較して3月はほとんど降雪なしで終った。以下はこの冬の記録。豪雪の被害は12月14日初雪...2021豪雪と被害

  • 川連 江戸の絵師 3 知海

    「知海」は本名「井上松治」。明治3年~昭和19年(1870~1944)川連生まれ、屋号は「宇吉」。「松治」は井上家十代当主、初代当主は「及左衛門」。「松治」は明治17年(1884)14歳で秋田市の「神沢素堂」の私塾にはいり、3年間にわたって関学を学んだ。「素堂」の塾は当時秋田第一と言われ、多くの逸材を出したと「秋田の画人」昭和39年4月秋田魁新報社刊にある。さらに「秋田の画人」によれば「松治」は絵の才能を見せ、師に期待された。「素堂」も「平福穂庵」と交わり日本画(秋田蘭画)を描いていた。明治21年(1888)18歳で上京、勤王画家として名のあった「松本楓湖」について本格的に絵を学び歴史画を得意とした。明治23年(1890)20歳でに洋画に転じ、「小山正太郎」の不同社や白馬会研究所に通った。明治31年(1898)...川連江戸の絵師3知海

  • 豪雪と自衛隊

    秋田の湯沢は豪雪が続ついつている。前回ブログ「キノコ大豊作」を書き始めたのが12月13日でリリースしたのが15日だった。それまで標高444mの鍋釣山、540mの国見岳の中腹辺りまで降雪があったが平地まで降雪はなかった。昨年は近年まれにみるほどの小雪。屋根の雪下ろしは一回もせずに終わったので、天気予報での降雪情報等はそれほど大事になるとは想像もしていなかった。平地の初雪になった12月14日朝の降雪は24㎝あった。道路から自宅玄関まで除雪機での排除に小1時間かかる。平地に降った雪に初日から除雪機登場は近年記憶にはない。排雪は日課になり、防寒着にメジャーは常備し作業始まりには計測するのも定着してしまった。14日夜半から降り出した雪はその後続いた。朝の降雪15日45㎝、16日43㎝、17日30㎝になったら早い人は屋根の...豪雪と自衛隊

  • キノコ大豊作

    秋は「きのこ」の季節。今年の当地方は梅雨には比較的雨が多く日照不足で作物は低調な成育。8月に入ってから比較的好天が続き、作物は例年並みだったが収穫時期は遅れ気味だった。そんな中で平年より半月以上も遅れて「きのこ」の豊作の報が入ってきた。近年各地で熊の出没情報が多発。2020・1・25「秋田魁新報」に次の記事があった。「24日午前9時ごろ、秋田県湯沢市川連町川連の市道にクマがいるのを、付近の10代女性が見つけ、市役所を通じて湯沢署に届け出た。人や物への被害は確認されていない。県内でクマの目撃情報が警察に寄せられたのは今年初めて。県警地域課によると、県内で1月にクマが目撃されたのは2018年以来2年ぶり」。さらに7月八坂神社にある小社がクマに小破された。ミツバチの巣があったらしい。こんな背景が重なると村に住む住民は...キノコ大豊作

  • 第44回雄勝野草の会写真展

    第44回雄勝野草の会山野草写真展は11月19日(木)から27日(金)まで湯沢生涯学習センターで開かれた。会員7人が山野草の写真66点を展示。昭和49年(1974)に設立された「雄勝野草の会」の現在の会員は38名。湯沢生涯学習センター玄関今回の写真展に合わせて、「コロナ」禍で先送りしていた総会と写真展会場で出展会員のそれぞれの写真について説明が行なわれた。出展会員の解説私はこの写真展に7点出展した。①オクモミジハグマ(山谷西山公園)、②キツリフネソウ(川連黒森)、③ヒメシャガ(増田真人山)、④エゾニュー(川連黒森)、⑤オオバナノエンレイソウ(仙北抱返り)⑥ムラサキサキゴケ(川連田屋面)⑦ヒメハギ(山谷西山公園オクモミジハグマ(奥紅葉白熊)(山谷西山公園)オクモミジハグマと葉「オクモミジハグマ」は山谷西山公園で数年...第44回雄勝野草の会写真展

  • 「変容する都市のゆくえ 複眼の都市論」の「減反詩集」

    このほど「文遊社」から「変容する都市のゆくえ複眼の都市論」三浦倫平・竹岡暢編著が出版された。帯に「あの街は変わった」ーーーそれは本当だろうか?「沖縄の基地都市、東京の下町・歌舞伎町、下北沢、渋谷の大規模開発、さいたま、丸の内・東京駅、多摩ニュータウン、、、、目にみえる「変容」と「不変」を疑い、その背後に何が起きているかを問う。この本に『「村の記録」のなかの都市ーーーテレビドキュメンタリーに描かれた農村の変容』が収録されている。「序」で三浦・竹岡氏は「執筆者の選定に当たっては「日本のある特定の場所について都市/街/風景の変容というテーマで、事実を積み重ねた記述によって論じることが出来る」という基準を採用し多様な専門分野からの参加を得られるように心がけた。、、、必ずしも「都市」そのものを直接取り上げている論考ばかり...「変容する都市のゆくえ複眼の都市論」の「減反詩集」

  • 川連 江戸の絵師 2 滕亮昌

    川連の江戸の絵師「亮昌」は謎に包まれていた。昨年まで絵師「亮昌」、「チセン」についての詳細はほとんど手がかりなしできた。2019年暮れ稲川文化財保護協会顧問、T氏との懇談で「日野亮昌」の名が出てきた。「稲川町史」資料篇第八集で松迺舎佐藤信敏「稲庭古今事蹟誌」稲庭画工家ノ事、「佐藤信成ノ事」に寛保3年(1744)生、宝暦10年(1757)14歳に川連村の人日野亮昌に隋て学ぶ」とあった。川連の「日野亮昌」の消息を尋ねられた。とっさに姓の「日野」ではなく「亮昌」の名にくぎ付けとなった。自家に「亮昌」の掛軸があったからだ。隣家「キエモン」(喜右衛門)宅で「鍾馗」の掛け軸が話題となり比較したことがあった。「キエモン」(喜右衛門)宅訪問は2015年春、豪雪で壊れた内沢の「山神社」の修復で募金活動していたら「山神社」の建立時...川連江戸の絵師2滕亮昌

  • 川連 江戸の絵師 1 続 「源尚元」

    江戸後期の絵師、源尚元の生没年は今までほとんどわからないできた。前回の「川連江戸の絵師1源尚元」の後、「ニザエモン」宅から新しい掛軸「十三仏」に「源尚元行歳六十一画」とあった。絵師が描いた絵に年齢を記しているのは少ない。この「十三仏」は私が拝見できた源尚元の絵の中で特筆すべき輝きに見えた。さらに自家から一点、発見できたので前回の「川連江戸の絵師1源尚元」、「続源尚元」として紹介してみる。十三仏の軸の裏側に明治34年7月吉日とあった。換算してみると明治34年(1901)61歳の生年月日は天保11年(1840)であることが分かった。前回のブログで「後藤逸女」と「源尚元」の軸に逸女62歳とあり、逸女の62歳は明治8年、源尚元36歳となる。十三仏源尚元行歳61画明治34年7月吉日十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとに...川連江戸の絵師1続「源尚元」

  • 川連 江戸の絵師 1 「源尚元」

    川連には江戸時代に二人の絵師がいた。江戸時代後期から明治初期には「源尚元」通称源光。文政年間には「滕亮昌」がいた。「源尚元」は地元では「源光」さんでとおっている。描かれた絵に「源尚元」と号、落款に源光の印があるのもあった。号とは本名のほかに絵師などがつける雅名で有名な尾形光琳は11もの雅名があったという。その中で好んで使われた「光琳」が一般名として採用された。源光の描いた神応寺の須弥壇の上両脇の狛犬はすばらしい。狛犬は神社や寺に奉納、設置された空想上の守護獣像。本来は「獅子・狛犬」といい、一般的には向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬とされる。神応寺のもの「阿像」は口が開いているようには見えない。狩野派の絵師は好んで「獅子・狛犬」を描いたとされる「狛犬」像が多く...川連江戸の絵師1「源尚元」

  • 後藤逸女 教子 井上常松

    2019年8月3日、今昔館がリニューアルオープンした。稲庭城(今昔館)30周年記念特別展として女流歌人「後藤逸女展」が主催湯沢市観光物産協会、共催稲川文化財保護協会、後援湯沢市、秋田県等で8月7日から11月10日まで開催された。今回の後藤逸女展に関して、私は川連地区で所蔵されている作品の一部をお借りし展示のお願いをした。西成家の「愛日蘆」、神應寺の掲額、井上家の逸女の教子常松に寄贈した掛け軸、栗林家の井上常松書の掛け軸等計9点。「愛日蘆」明治初年頃の逸女の家族は老女ハル、息子の与七郎、孫の宇一郎と直次郎の五人暮らし、老母は73歳で足腰がきかず、与七郎は発作やてんかんを起こし一人前の仕事ができなかった。逸女の孝養ぶりは近所に感動を与えていた。明治2年肝煎り高橋六之丞からお上に上申書をあげた。明治4年岩崎藩知事佐竹...後藤逸女教子井上常松

  • 細沼の「オゼコウホネ」

    オゼコウホネ(尾瀬河骨)は昭和12年、尾瀬で新種のコウホネ(浮葉植物)として見つかったのでオゼコウホネの名がついたといわれている。尾瀬、山形月山、北海道空知、宗谷等限られた場所にしか生えていないとされてきた。そのオゼコウホネが湯沢の細沼に群生している。尾瀬より早く発見されていたらホソヌマコウホネの名がついていたのかもしれない。数年前、福島県の桧枝岐村から始まる尾瀬を散策した。オゼコウホネは地塘(高層湿原にできる池)の主役などと言われているが生育場所は尾瀬でも限られ木道散策等では見ることはできない。山形県の月山のオゼコウホネは八合目、駐車場からすぐの阿弥陀ヶ原湿原。無数の地塘のある中で、広さがせいぜい100㎡に満たない地塘に生育している。湿原の木道を数分歩いてたどり着く。地塘なので立ち入りはできない。6月中旬に散...細沼の「オゼコウホネ」

  • 第43回雄勝野草の会写真展

    第43回雄勝野草の会山野草写真展は12日(火)から21日(木)まで湯沢生涯学習センターで開かれています。会員7人が山野草の写真66点を展示しています。昭和49年(1974)に設立された「雄勝野草の会」の現在の会員は38名。主に今年自然観察会や深山、里山等で撮った写真。66点の中には同じ名の山野草もみられる。各会員の感性による表現に触れるとより山野草の奥深い豊さ発見してしまう。一枚一枚の写真に感謝を込めたい。私は今回次の写真、サンカヨウ(湯沢市つぶ沼)、オオヤマオダマキ(川連町黒森)、オゼコウホネ(皆瀬細沼)、アケボノソウ(仙北市抱返り)、ツリガネニンジン(皆瀬ダム)、キンエノコロ(川連町田屋面)、ムラサキセンブリ(湯沢市山谷)の7点を出展しました。サンカヨウ(湯沢市つぶ沼)サンカヨウの漢字表記は「山荷葉」。花言...第43回雄勝野草の会写真展

  • 不思議な石

    不思議な形の石が見つかった。中央が顔に見え長い手で子供を抱いているように見える。普通に見ただけでは気づかなかった、微妙な光線の影で強調されると顔型がはっきりと見えてくる。6月ナラ枯れの木を薪ストーブ用に伐採していた。ツバキ等の灌木と落ち葉に隠れていた。約80年樹齢のナラの木は重いのでチェンソーで倒して運びやすい大きさにチェンソーで切り込んでいた。その時不思議な石に気づいた。チェンソーがキーンと何かと接触した。慌ててエンジンを止めた。落ち葉や土を取り除き掘り起こしたら高さが約55㎝、横幅がそれぞれ約34.5㎝ほどあった変三角の形に見えた。掘り起こした石後日、不思議な石に興味がわき箒をもって丁寧に土を払いのけた。しかし全容が把握できなかったので自宅に持ち帰り水洗いをしてみようと考えた。重量は約50㌔ほどやや水圧の強...不思議な石

  • 川連城址散策記

    川連城が築かれたのは源義家東征の「後三年の役」のころ、寛治年間(1089~1093)野武士の一団が国見山の中腹に城を築き始めた。当時奥羽一円に威勢を張っていた清原武衡、家衡の一党「梶美作守」が首領。当時陸奥に乱をなす清原一族の平定のため、朝廷の命を受けて東征してきた源義家の大軍に国見の堅城といわれた「梶美作守」の砦(川連城)が無残に敗れた。廃城となった川連城に長い年月が流れ稲庭城に小野寺氏が居城する頃に、小野寺道基が川連城に居館して築城したとされる。「稲川今昔記いなかわのむかしっこ」平成12年11月15日刊佐藤公二郎著引用稲川町史昭和59年(1984)3月31日刊によれば「川連城は嘉慶二年(1388)に小野寺左京蔵人道兼・黒滝に城を築いて隠居すと「大舘村創村記」などに見える」。とある。「大舘村創村記」は、享保十...川連城址散策記

  • 田植えの終わった田んぼ

    2019年田植えが終わり約20日が経過した。順調な気温の推移で田んぼの稲も順調な生育に見える。この頃の気温の高低差が大きく心配なところもある。「春、田圃に稲を植え、秋に実りを収穫する」ことは稲作農家の大きな作業。一つ一つの作業の終わりは次への作業が始まるまでホッとした気分が漂う。田植え作業の終わった田んぼにある種の異常を感じたのはつい最近にことだ。2年ほど前の6月末、由利本荘の友人と富山の友人宅訪問を企画し、私は奥羽本線経由で秋田に向かい羽越線で新潟に向かった。秋田駅を出発し車窓に田植え後の景色を見て唖然とした。田植え後の田んぼが雑然としていたのに気づいた。現在の田植え作業はすべて機械作業。田植え機が畦畔でターンした場所に稲苗の姿がないのだ。由利駅から乗車した友人に聞くと近年由利地方で田植えの終わった後田んぼに...田植えの終わった田んぼ

  • 薪伐採の顛末記

    薪ストーブを利用の多くの人は伐採作業は3月、4月の雪のある時期に終わっている。5月になると薪割り作業も終わり、乾燥促進のためきれいに積んだ薪が方々にみられる。私の場合は田植が終わり田んぼ作業が一段落してからの時期に集中している。林道側の自家の雑木林での作業。軽トラ横付けの作業をモットーとしてるのでこの時期になってしまう。自家の雑木林の主流はミズナラ。樹齢が80年前後。薪材としては最良だが数年前から「ナラ枯レ」に侵されている。今年の薪材は昨年来「ナラ枯レ」とまだ枯れてはいないが衰弱したミズナラの伐採を決め込んだ。今年の素人のナラの木伐採は失敗だらけ。初めの一本は予定の方向に倒すことができ、滑り出しが上々で作業の開始となったが、二本目の直径40センチのミズナラ伐採は予測した方角から大きく外れ側の杉林にもろに倒れてし...薪伐採の顛末記

  • 人形送りと鹿島様

    2010年5月2日に「人形送り」を次のように書いた。「岩手県西和賀町左草地区の「左草人形送り」。ネットで調べたら下記の記事であった。「ショウキサマ」と呼んで、昭和28年頃まで続けられていたようですが、何らかの事情で中断されました。そして昭和62年から再開し、今年で24回目となりました。男女2体のわら人形には、病がソバに寄らないようにとして、ソバ粉で作った団子を持たせます。その他に穴の開いたお金を持たせ村はずれまで、送って道端の木に結わえて無病息災をお祈りします。通りすがり初めての対面。ミズナラの木高さ4㍍程にワラ人形二体。地域の伝統行事に何かしら新鮮な感動を覚えた。岩手県西和賀町左草2010.5.2西和賀町の左草地区を通る度にミズナラの木の人形を思い浮かべていた。今回鮮やかな晴天に久しぶりのドライブ。コースは西...人形送りと鹿島様

  • 陽が当たらなかった「春蘭」

    「陽の当たらない春蘭」は自家の雑木林から移植したものだ。この場所は集落のすぐ傍で毎年9月の第二日曜日に「麓ぼんぼら大会」の会場になっている。我が家の持地になった記録として「山分け証文」がある。持ち主麓村掃部、武右衛門、立会川連村、兵左衛門宝暦3年(1753)8月8日とある。現在の字名は「東天王」になっているが古文書には「天王社外杦雑木立」川上治衛、黒沢治右衛門の「御先分」となっている。天王社は八坂神社のこと、神社の境内、社地以外の山林をいう。現在は天王山といい、ほとんどが杉林、一部にミズナラ、クリ等の雑木林になっている。地目、東天王は神社社地の東部に当たる。当時から我が家の持地になっていて、文政5年(1822)に「極立杦」等300本植栽の「書上覚」を肝煎当てに出している。「極立杦」とあるのは普通の植樹と違って意...陽が当たらなかった「春蘭」

  • パソコンの解体

    1978年(昭和53年)、東芝が初の日本語ワードプロセッサJM-10を発表した。これはワープロ専用機で630万円の価格報道に驚いたことを覚えている。当時和製タイプライターが出ていた時代で超価格のワープロ専用機のニュースは報道で知った。1980年代後半には、ワープロ専用機は、持ち運びが可能な大きさまで小型化されたパーソナルワープロとして、中小企業等への導入が始りだした。そのような背景の中で1989年(平成元年)私はやっとのことでワープロを手に入れた。富士通のデスクトップで当時の新しい型だった。21万ほどだで当時の自分にとっては高価な買い物だった。富士通にしたのは変換が親指も使いローマ字変換な苦手な自分にピッタリと思ったように思う。パソコンはまだまだ高価でパソコンのパの字も話題に上ることはなかった。電子計算機の名が...パソコンの解体

  • 江戸の人々と外国人

    江戸時代の人々は外国人をどう見ていたのだろう。そのように思いめぐらしたのは前回のブログ「地震、大火、北の黒船」を書いた時からだった。今から約200年前、文化4年(1807)大館村の肝煎高橋喜右ヱ門の覚書、「文化四年卯年五月松前国へどじん赤人陳舟移多見へ候」にあった。「大辞林第三版」に赤人(あかひと)「江戸後期、蝦夷(えぞ)の択捉(えとろふ)・得撫(うるつぷ)などに来航したロシア人を、日本人が呼んだ呼称。赤蝦夷(あかえぞ)。赤ら顔、あるいは赤い服を着ていたからという」と書かれている。肝煎高橋喜右ヱ門は松前国に赤人が押し寄せ、秋田藩の要請に「横手湯沢のお侍久保田まで具足、武具、馬疋杯仰せつけられ百姓まで難儀迷惑至極」とあった。帝国ロシアの松前藩侵入に大舘村の侍、百姓が大きな犠牲を払ったことがしるされている。このこと...江戸の人々と外国人

  • お稲荷さんとキツネの闊歩

    稲荷神社の稲荷は「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる。稲荷神を祀る神社を稲荷神社と呼ばれている。稲荷神社は穀物・農業の神だが、現在は商工業を含め産業全体の神として商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として信仰されている。京都市伏見にある伏見稲荷大社が日本各所にある稲荷神社の総本宮。伏見稲荷大社では、キツネは稲荷神の神使とされる。朱の鳥居と神使の白いキツネがシンボルとなっている。伏見稲荷神社の白いキツネ像2018.10.17平成2年秋田県が悠紀の国に選ばれた。秋田県神社庁は大嘗祭と同趣旨の新嘗祭に新穀を伊勢神宮、県内神社に奉納するために「新嘗祭献穀田」を設け、平成3年より県内13支部持ちまわりで実施している。平成最後の献穀田は湯沢市川連町が選...お稲荷さんとキツネの闊歩

  • 地震、大火、北の黒船と大館村

    「象潟地震、江戸の大火、北の黒船と大館村」は、寛政拾年(1798)二月から天保十一年(1840)二月までの大館村麓、肝煎喜右ヱ門の記録(覚書)。昭和42年3月発行「稲川町史史料集第三集小松久編」で紹介された。寛政拾年以降(一)覚書川連高橋喜右ヱ門氏蔵とある。その覚書から象潟地震、江戸の大火、松前藩択捉島ヘロシア帝国侵入を追ってみた。稲川町史史料集第三集小松久編「寛政拾年以降(一)覚書川連高橋喜右ヱ門氏蔵」象潟地震について「文化元年甲子年より中だんひるなり、同元年子年六月四日よる4ツ半頃に大地震なり、五日には暮六つには地震、六日には朝六つには地震。三日之間〇〇やめずにゆるなり、近国大きに家蔵揺り崩れ、庄内三百と坂田(酒田)家蔵大きにひきつぶれ、志を越(塩越)かんまん寺大寺もひきつぶれ、かた(潟)も島もゆれ候、近国...地震、大火、北の黒船と大館村

  • 第42回雄勝野草の会山野草写真展

    今年の湯沢市雄勝野草の会主催、第42回山野草写真展は11月13日から22日まで湯沢市生涯学習センターロビーで開かれています。雄勝野草の会の会員は40名。今年は自然観察の中で7名の会員が撮った66点の写真が展示されます。私の写真展参加は第39回からで4回目になります。第42回山野草写真展に以下の7点、クルマユリ(川連町坪漆)、オオミスミソウ(美郷町真昼岳)、スカシユリ(鶴岡市白山島)、フジバカマ(京都府龍安寺)、ミズバショウとエゾリュウキンカ(奥小安三本杉湿原)、タニワタリノキ(川連町麓)、ヤブカンゾウ(川連町麓)の写真を出展することにしました。以下はその詳細です。クルマユリ(川連町外坪漆)外坪漆の杉林の林道に咲いていた。この林道は国見岳の山麓で登っていくとかつて三梨城から川連城への古道があった場所に通じていた。...第42回雄勝野草の会山野草写真展

  • 2018 紅葉の栗駒山

    栗駒山は、紅葉狩りの名所として、全国的にに知られ紅葉が見事な奥羽山脈の中でも、とりわけ栗駒山が美しく日本一とも言われる、紅葉、黄葉、褐葉が同時に進み、緑葉との絶妙な組み合わせと配色にある。栗駒山の高度と緯度、気象条件は、多様な植生を同時に紅葉(紅葉、黄葉、褐葉)させ、昼夜の寒暖差が大きいことなど美しい紅葉になるための条件を満たしている。稲刈りが終わった9月28日紅葉盛りの栗駒登山をした。この日の午前9時には300台駐車可能の須川温泉前東北はもとより関東ナンバーの自動車はほぼ満車状態。名残が原周辺は始まったばかり頂上はガスがかかって見えない。昭和湖で休憩。大勢の登山客がいた。昭和湖からの登り狭い階段状の登山道は登りと下りの人でごった返しの状況。前日の雨で階段状の登山道は水が音を立てて流れる。低木帯で見通しは悪くひ...2018紅葉の栗駒山

  • 追想 「米を作る若者」と 皆川嘉左ヱ門

    2018年4月4日の朝、秋田魁新報電子版で皆川嘉左ヱ門の逝去を知った。秋田魁新報は4月7日付「北斗星」で次のように追悼した。「横手市十文字町の国道342号を東成瀬村方向に進むと、右側の休耕田に彫刻作品が並ぶ一角がある。今月3日、76歳で亡くなった皆川嘉左ヱ門さんが23年前に開設した「減反画廊」だ▼皆川さん自身も農家だった。立ち尽くす老農夫、吹雪の朝市に店を出すおばあさん、田植えの女性といったテーマの作品で知られる。減反に翻弄(ほんろう)される農民像を繰り返し彫った▼平成の初め、40代後半の皆川さんは東京・銀座のど真ん中で不動明王を彫るパフォーマンスを繰り広げた。羽後町の農家・高橋良蔵さん(故人)と共に、コメ市場開放反対を大都市の消費者に訴えたのだ▼4年前、皆川さんが横手市で個展を開いた折に再会し、そんな昔の話を...追想「米を作る若者」と皆川嘉左ヱ門

  • 田んぼと坪池の「トンボ」達

    7月に入ると田んぼでは赤とんぼの羽化が始まる。赤とんぼとは正確に言うとナツアカネ、アキアカネ、ノシメトンボの3種類のトンボが水の張られた水田で一斉に誕生する。今年最初に確認できたのが7月3日だった。約15日間が最盛期。ナツアカネは田んぼ周辺や住宅地に移動、アキアカネやノシメトンボは近くの山に向かい、産卵期の9月になると田んぼに戻ってくる。朝の田んぼで畦畔を歩くとこれらのトンボは慌てて飛び立って又すぐ止まる。羽化直後ノシメトンボの和名は、成虫の腹部の黒い斑紋が熨斗目模様に似ていることに由来する。羽の先が濃色でわかりやすいが、今年はノシメトンボはいつもの年よりやや少ない。ノシメトンボ引用羽化早々のナツアカネ、アキアカネの区別は難しい。「翅胸第1側縫線に沿う黒条の先端が、アキアカネが尖るのに対して、ナツアカネは角状に...田んぼと坪池の「トンボ」達

  • 400年前の大舘村の名請人

    大館村は現在の湯沢市川連町大舘、合併前は稲川町大舘。大館村は江戸期から明治22年の村名。大舘は大字で麓と大館部落で構成されている。そして名請け人とは江戸時代、検地により田畑、屋敷の所持者として認定され、検地帳に記載された百姓。耕作する権利と義務があり年貢、諸役を負担した。大館村の東に小野寺一族の川連城があり、天正18年(1590)豊臣の太閤検地に仙北地方(現在の雄平仙)と由利地方に検地反対の一揆が勃発した。この検地騒動は「川連一揆」ともいわれる。豊臣秀吉の太閤検地を越後の大名上杉景勝を命じた。秀吉家臣大谷吉継をが庄内、最上、由利、仙北の検地を行った。この検地の過酷な所業に諸給人、百姓が蜂起した。一揆勢力は各地に放火、追い詰められた一揆勢は増田、山田、川連に2万4000余名が籠城し抵抗したが圧倒的な大谷勢に鎮圧さ...400年前の大舘村の名請人

  • オオミスミソウ(雪割草)

    先日和賀山塊にオオミスミソウ(大三角草)に会いに行ってきた。雪割草ともいわれる。オオミスミソウは、キンポウゲ科ミスミソウ属の常緑の多年草。オオミスミソウは、名前の通りミスミソウよりも葉や花が大きい上に花色も白色、淡紅色、濃紫色、淡紫色などの変異があるといわれている。4月10日になっても林道はまだ積雪があり車から降り歩くこと約30分で目的地についた。南東斜面で陽あたりよさそうな地形。傾斜50度近いブナ、ミズナラの林は歩くことが少しきつかった。這うようにして小さな雑木を手繰り寄せながらの観察となった。春先の斜面が滑りやすく一歩一歩確かめながらの移動もことさら慎重にならざるをえなかった。白花、淡紅色の花、濃紫色のものはまだ見ることが出来なかった。花期の後半になるとみられるという。オオミスミソウの花びらが6枚、7枚、8...オオミスミソウ(雪割草)

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