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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 学校の工場化

    学校の工場化・笠岡市笠岡市史第三巻平成8年発行昭和19年2月25日、政府は「決戦非常措置要綱」を決定する中で、学徒動員体制の急速な整備確立を期するため、学校校舎の工場転用を強く打ち出している。2月26日合同新聞には、「学徒は工場に出向くことなく、学校内に於いて軍需生産に従事せしめ得るようにし、たとえば、女子校などでは雨天体操場に軍被服廠のミシンを移して、軍関係の被服製造にあたる」笠岡市域では笠岡工業学校と笠岡淳和高等女学校の二校で実施されている。『笠工50年史』から引用してみると、昭和18年10月に「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、軍国主義国家の要請によって、全国の大部分の商業学校とともに、笠岡商業学校も工業学校に転換した。しかし工業教育としての施設や設備・教材や教職員は皆無の状態であり、更に物資不足...学校の工場化

  • 昭和20年代の政治・政党

    ライシャワーの日本史文芸春秋1986年発行昭和20年代の政治・政党1920年代の政党活動の趨勢があまり形を変えずに戦後まで生き残っていた。1945年10月初め、旧民政党が進歩党として生まれ変わり、20年代のリベラル派外相であった幣原喜重郎を党総裁に選出した。幣原は既に首相に就いていた。旧政友会は、自由党の名のもとによみがえった。戦前の社会大衆党は社会党と名乗りスタートを切った。1924年以来非合法だった共産党も再発足した。自由党は、老練な鳩山一郎が率いていたが、占領軍は総選挙直前に鳩山を追放した。後継の総裁には、元外務官僚で駐英大使の吉田茂が就任した。同年5月に首相となり7年間首相の座を占めた。戦後27年間の3年間を除き、歴代首相はすべて官僚出身者が占めた。当時の日本政府は、アメリカ占領政策の執行者という特異な...昭和20年代の政治・政党

  • 電話をかける

    電話をかける高校生になって、名簿表(とでも呼ぶ)氏名・住所を書いた一覧表に電話番号を書く人が何人かいた。その時、驚き、また高校生になった事を実感もした。電話を書いた人はお金持ちと、親が商店の人だった。中学生までの名簿には電話番号は無かった。それが普通だった。思いもしなかった。高校を卒業する春休み、解放的な3月友人から電話のかけ方をおしえてもらった。仁王堂の本屋の前に公衆電話があった。傍らにいる友の言うように、右手の人差し指でダイヤルを何度か回した。そしたら呼び出し音がして・・・相手が出た。その頃、坂本九の「明日があるさ」という歌が流行った。あの歌と気持ちはよく似ていた。♪思いきってダイヤルをふるえる指で回したよベルがなるよベルがなるよ出るまで待てぬ僕明日がある明日がある明日があるさ・・・・・・・・・・笠岡市政だ...電話をかける

  • 井原の製糸・養蚕

    井原の製糸・養蚕「井原市史Ⅱ」井原市史編纂委員会平成17年発行桑園明治23年(1890)の桑園面積を基準にした場合、昭和4年(1929)は全県で8.9倍に面積が拡大している。後月郡は37倍、小田郡は20倍にもなってもいる。桑畑の畑地に対する比率は昭和4年の全県28%。後月郡27%、小田郡22%と県平均に近い。全県の桑園に占める比率を見ると、小田郡が8.2%、後月郡が4.2%であり、小田郡は県内でも桑園面積の広い地域であった。岡山県の場合、養蚕はあくまで副業であり、水田率の高い地域が桑畑の対畑地比率が高い傾向にある。つまり畑地の比率の高ければ、畑地で食料生産をしなければならず、桑園の拡大には限界があった。中備製糸明治26年(1893)に設立された中備製糸株式会社は、その後順調に発展する。大正2年、創業20周年記念...井原の製糸・養蚕

  • 終戦前後の岡山県の新聞

    「岡山市百年史下巻」編集・岡山市ぎょうせい平成三年発行終戦前後の岡山県の新聞岡山市の『合同新聞』(現、山陽新聞)は一県一紙の政府の政策により、昭和16年県下の地域紙を合併、昭和20年3月には本土が寸断されたときを想定して、題字の下に大坂紙朝日・毎日の題字も付けていた。委託の形であった。終戦前の県下で読める新聞は「合同新聞」一紙であった。昭和20年6月29日未明の岡山空襲で本社も印刷所も焼失した。上道郡幡多村’(現、岡山市)でタブロイド版の発行が続けられた。一県一紙に統合させられていた新聞は再び分離へと動いた。「倉敷日報」は昭和20年12月週刊「山陽日報」で復刊、のち日刊の「倉敷新聞」となる。津山市の「津山朝日新聞」も21年1月復刊した。用紙事情が悪く、新興紙に用紙割り当てが行われたため、昭和21年5月姉妹紙とし...終戦前後の岡山県の新聞

  • 集団就職③市立井原高等学校

    井原市に定時制高校が出来たのは昭和39年で、同様な市町村に比べ少し遅い。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ニュー井原市新聞昭和39年4月1日号市立井原高等学校4月16日に開校市立井原高等学校(定時制)は、その細目を次の通り決めた。一・応募資格、昼間100人、夜間50人、女子のみ、普通科。二・提出書類等、4月1日から4月10日まで500円を添えて提出。三・学力検査、4月11日本校にて五科目の検査。四・合格発表、4月14日午前9時。五・開校・入学式、4月16日。・・・・・ニュー井原新聞昭和39年4月21日号井原市立高校開校す希望新たに151名が入学開校並びに入学式は4月16日、県立精研高校講堂を会場に入学を許可された151名(昼間97名、夜間部54名)の生徒・関係者・来賓等多数参集して盛大に挙行された。集団就職③市立井原高等学校

  • 集団就職②新卒者を迎えた井原市繊維工業界

    昭和40年ごろ毎年の春、テレビの地方ニュースでは集団就職を報道していた。場所は児島市(現・倉敷市)か井原市高屋町で、セーラー服の女性が集団で入寮するシーンが多かった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ニュー井原新聞・昭和35年4月5日号新卒者を迎えた井原市繊維工業界地区ぐるみの暖かい抱擁を千人の求人に三百人の充足笠岡職安井原出張所の手を通じて繊維関係の工場に就職した者は、若干の過年度卒業者を含めて約三百人である。近来全国的に、求人数は求職者数を大幅に上回り、明年度以降も更にこの傾向よりの好転が期待できないという状況のもとにあっては、これら新しく職場に入った人を固着せしめ、地域産業全体の興隆発展に資するかは、受け入れ者にとって実に重大な課題であると思う。これら幼くかよわい産業戦士の大部分を、年々...集団就職②新卒者を迎えた井原市繊維工業界

  • 集団就職①就職列車

    「男船」を歌ってスターになった井沢八郎は、三菱農機のラジオ番組「田園ソング」から「あゝ上野駅」を出して、彼の代表曲になった。それは管理人が高校一年生の年だった。集団就職の人たちと世代が重なるが、中学校の同級生で就職する人が、「集団」で、ということはなかった。いったい集団就職とか、就職列車とはどんなものだったのだろう?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「懐郷」熊谷達也著新潮社2005年発行より転記鈍色の卵たち貴子が国語の新任教諭として雫石中学校に赴任した二年前、昭和36年度から労働省の職業安定政策が大きく変化した。中学校独自の就職紹介が実質的に禁止され、すべて職業安定所を通すようになった。つまり職安を差し置いての教員による職場訪問は、就職前もあとも、おおっぴらにはできなくなったのである。聡は当初から気...集団就職①就職列車

  • 「天空の城」に登る 雲突城(利神城)

    雲突城(利神城)兵庫県佐用郡佐用町平福文句なし!”天空の城”のナンバーワン!!!平福の古い町並みの背後に聳え立つ利神城。標高400mの山頂に、石垣ははんぶん雪崩状に崩れ、ど迫力で迫る。冬の朝。山頂の本丸は白雲のような雲海が覆い、時間とともに移動したり、消えたり刻々と変化する。播州の山脈が現れ、平福の町が見えてきて雲海は無くなる。雲海が消えた後、足元が険しい山頂に、石垣の全容が見えてくる。山城を下る、下って振り返る。平福の町に戻る、町から利神城を見る。やはり”雲突城”という名がふさわしい。登城日・2013年12月5日「天空の城」に登る雲突城(利神城)

  • 「天空の城」に登る 桃山城

    伏見桃山城京都市伏見区桃山町伏見桃山城はJR奈良線の桃山駅から、(迷いやすい)坂道を上ってゆくと、たどり着く。桃の山という地名通り、高所にあり、眺めがいい。天主閣と櫓は、典型的な模擬天守だが形があるだけで太閤殿下の時代を想像させてくれる。ちょっとした遠足や、吟行などで一定の人気があるようだ。登城日・2015年2月18日「天空の城」に登る桃山城

  • 「天空の城」に登る 千早城

    千早城大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早千早城は規模が豪快すぎてはっきりとわからない。下山はロープウェイを利用したが、なんとなく楠公が活躍できた城である、という感じがした。千早城の登山口。ところどころ「千早城」の碑や説明がある。途中からは、城跡をたどっているのか?金剛山へ登山しているのか?自分でもわからなくなった。大阪と奈良の生駒山系の金剛山に何カ所が楠公の城があったようだが、山が大きくて迷子になりそうになった。登城日・2015.4.23「天空の城」に登る千早城

  • 「天空の城」に登る 高取城

    高取城奈良県高市郡高取町高取高取城は山中に、圧倒する石垣群を残している。巨大な山城であったことが偲ばれる。天正時代には三重櫓が17基建ち並んでいたそうだ。今は石垣だけ残るが「日本一の山城」を自称している。このお城の特色はハイキングに適している。スタートは、城下である高取の町。土佐街道の風情が残る。この道(土佐街道)をまっすぐ進めば、標識によって迷わず高取城へのハイキング道となる。城からの帰り道は、お里沢市の「壷阪寺」がある。いいコースだ。登城日・2012.10.29「天空の城」に登る高取城

  • 「天空の城」に登る 小谷城

    小谷城滋賀県長浜市伊部小谷城から眺める伊吹山天下の名城ではないが、天下に知られたお城。戦国ロマンや天下人に思いをはせたり、眼前の虎御前山、琵琶湖、水郷の眺め、まさに日本100名城であり日本五大山城にふさわしい。ところで、小谷城は、大嶽城と連山で城を成している。小谷城本丸から見る大嶽城。小谷城と大嶽城に登って、歴史資料館まで下山するとほんとにいい運動になる(へとへとになる)登城日・2011.8.6「天空の城」に登る小谷城

  • 「天空の城」に登る 近江八幡城

    近江八幡城滋賀県近江八幡市宮内町近江八幡は江戸時代の水運「八幡堀」が残り、掘割に沿って町並みは重伝建に指定された人気の町。その近江八幡にあるお城は豊臣秀吉の養子、二代目関白秀次43万石の居城。ところが秀吉に実子が誕生により、秀次は切腹後三条河原に晒された。お城は10年で廃城となった。この町並みと掘割が重伝建。正面がお城。お城への登城道はしっかりしているが険しい。でも安心、ロープウェイが運行している。この城跡に、なぜロープウェイがあるか?といえば、展望がすばらしい。琵琶湖、安土城、観音寺山城、近江八幡市街地などが展望できる。登城日・2011.8.7「天空の城」に登る近江八幡城

  • 「天空の城」に登る 犬山城

    犬山城愛知県犬山市大字犬山別名、白帝城とも呼ばれる。お城の下はライン川が流れる。日本の川名は木曽川で、中国の白帝城は長江(揚子江)に沿っている。この城の周辺は景勝地だったのだろう、城も含めて。今もJRや名鉄の駅から、お城目指して観光客が絶えない城。城主だった成瀬家の個人所有だったが、平成16年に財団法人に移管されている。登城日・2014.10.11「天空の城」に登る犬山城

  • 「天空の城」に登る 岩村城

    岩村城岐阜県恵那市岩村町「女城主の城」「日本三大山城」であり、麓の城下は「重伝建」。三拍子そろった山城。重伝建の町並み、正面に岩村城の櫓が見えている。六段壁と呼ばれる石垣は見応えじゅうぶん。麓の街から、そのまま登城できるが・・・・・その岩村の街まで行くのがたいへん。登城日・2015.7.31「天空の城」に登る岩村城

  • 「天空の城」に登る 郡上八幡城

    郡上八幡城岐阜県郡上市八幡町柳町郡上八幡は高速道路から町並みが見える。その街に行くと清流あり、名水あり、城下町あり、夏には盆踊あり、典型的な小京都の街だった。お城は石垣と模擬天守があるが、お城は付け足しと言えるほどに、町並みが魅力的だ。登城日・2015.8.1「天空の城」に登る郡上八幡城

  • 「天空の城」に登る 岐阜城

    岐阜城岐阜県岐阜市金華山まさしく天空の城。空に聳え、力強い「天下布武」の信長の気構えが浮かんでくる。標高はおよそ300m、急峻な登城の道が何本も残されてる。この城を取れば天下の道が開ける、そうゆう場所に岐阜(井ノ口)があり、岐阜城(稲葉山城)がある。岐阜城天主閣から見る濃尾平野と名古屋市街地。戦国の信長が蘇るような城だ。登城日・2011.8.5「天空の城」に登る岐阜城

  • 「天空の城」に登る 大野城

    大野城福井県大野市城町「天空の城」として有名な大野城。しかし天空の城が発見された(世に出た)のは、ここ数年来の事。以前は「小京都の大野」だった。つまり市民でさえ、天空を知らなかった。遠方の山から年に何回かポスターのような朝があるのだろう。大野城は天空の城は看板倒れだが、城下町がいい。寺町の落ち着き、水の都。白山や田園に囲まれた小都市、魅力が大きな町。山頂の模擬天守は冬季休館。雪で登っていくもの難しい。登城日・2016年2月4日木曜日「天空の城」に登る大野城

  • 「天空の城」に登る 高遠城

    高遠城長野県伊那市高遠町高遠城は内藤家三万石の居城。小さな城だが桜の季節は天下の名城となる。城の遺構に関心の方は春を避け、花見の方は休日を避けるのが鉄則だろう。残雪の南アルプスの眺めは特に素晴らしい。桜は高遠桜といって濃い色。桜は城跡を覆って花で隠す。登城日・2014.4.15「天空の城」に登る高遠城

  • 「天空の城」に登る 七尾城

    七尾城石川県七尾市古城町霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁、月三更越山併せ得たり、能州の景謙信の歌で有名な七尾城。本丸は何段もの石垣に囲まれ、山は大きく、そして険しい。謙信が敵の落城を喜ぶさまが伝わってくる城跡だ。能登島方面遠望桜馬場石垣登城日・2015.8.1「天空の城」に登る七尾城

  • 「天空の城」に登る 春日山城

    春日山城新潟県上越市中屋敷春日山城本丸から妙高山を見る上杉謙信の居城として有名な春日山城。典型的な中世山城で、何重にも本丸を曲輪で囲み、名城の趣がある。春日山駅から、車の場合はお城スタンプ館から、歴史と自然のいいハイキング道を楽しめる。但し、山城はどの城もそうだが観光地と思って来ると失望する。お城は春日山駅の正面に見えている。駅前の道をまっすぐ行けば登城できる。登城日・2015.3.8「天空の城」に登る春日山城

  • 「天空の城」に登る 勝山館

    勝山館北海道檜山郡上ノ国町勝山城館は、とにかく眺めがいい。追分ソーランラインに大きな駐車場と看板があるので、あとは登っていくだけ。しかし結構きつい坂道。勝山城館は、松前藩の始祖の武田氏が15世紀に築城したもので、当時は城内にアイヌ人も同居していた。後半に築いた山城で、16世紀末頃まで、武田・蠣崎氏の政治・軍事・交易の一大拠点となっていた。長く北海道の中心地だったが、その後はニシン魚でも栄えた。国の重要文化財指定の旧笹浪家住宅が登城口にある。重要文化財指定の旧笹浪家住宅。登城日・2017年7月29日「天空の城」に登る勝山館

  • 力道山の街頭テレビを見る岡山県人はいなかった

    力道山の街頭テレビを見る岡山県人はいなかった以前義兄に、福山市では力道山の街頭テレビは、駅前や通町であったのか聞いてみたら「福山で力道山のテレビを見る人を、見たことはない。東京や大阪のことだろう」と話した。力道山とシャープ兄弟の試合が熱狂したのは、昭和29年ごろ。岡山県にも広島県にもテレビ放送は始まっていなかった。・・・・・・・・・・・・・・・・・「岡山市百年史下巻」編集・岡山市ぎょうせい平成三年発行民間放送の誕生昭和26年に4社が設立された。岡山では27年ごろから山陽新聞社を中心に放送会社設立の動きが高まった。昭和28年4月山陽放送設立、山陽新聞社会長が社長となった。10月1日開局。放送には未経験者が多く、演奏所、送信所の機械、設備の据え付け、アナウンサー養成など開局準備に追われた。ラジオ東京などの協力を得て...力道山の街頭テレビを見る岡山県人はいなかった

  • 国家神道の解体

    国家神道の解体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「岡山市百年史下巻」編集・岡山市ぎょうせい平成三年発行より転記国家と神道の分離連合国司令部は、昭和20年12月15日いわゆる「神道指令」と呼ばれる覚書を発した。前文の中には、「日本国民を欺き侵略戦争へ誘導する意図のもとに、神道の教理並びに信仰を歪曲して軍国主義的並びに過激なる国家主義宣伝に利用するが如きことの再び起ることをことを防止する為に」とある。主な内容は国家と神社神道の完全な分離、国家神道(神社神道)の教義・儀式の宣伝の禁止、内務省神祇院の廃止などであった。そして神社神道は国の保護から離れ、軍国主義、過激な国家主義的要素を除けば民間の一宗教として存続できることを明らかにした。翌21年1月1日、天皇みずからの神格否定の人間宣言、神祇院廃止、2月2日宗教...国家神道の解体

  • 戦没者慰霊施設②忠霊塔・招魂社

    「続・しらべる戦争遺跡の事典」柏書房2003年発行zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz戦没者慰霊施設②忠霊塔・招魂社忠霊塔(忠霊塔・笠岡市北木島町諏訪神社。建立は「皇紀2600年」、揮毫は、「陸軍大将男爵本庄繁」角柱状でなく円形)忠霊塔は、1939年(昭和14)に設立された大日本忠霊顕彰会が、一市町村一基の忠霊塔を全国に建設する運動を展開するなかで広まった。同会は「一日戦死」をスローガンに掲げ、国民の寄付金を募り、忠霊塔の建設費に当てた。忠霊塔の形式は、規模の大小にかかわらず箱型の基壇上に角柱状の塔身を載せ、塔身に「忠霊塔」の文字を表したものである。また、基壇の内部には納骨施設を持ち、遺骨や戦没者名簿などを安置する。忠魂碑と墓...戦没者慰霊施設②忠霊塔・招魂社

  • 戦没者慰霊施設①忠魂碑

    「続・しらべる戦争遺跡の事典」柏書房2003年発行zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz戦没者慰霊施設①忠魂碑戦没者慰霊施設には、忠魂碑などの戦没者慰霊碑、納骨が可能な忠霊塔、戦没者の霊を祀る神社である招魂社・護国神社・靖国神社、仏教的な方法で霊を供養する忠魂堂などがある。戦没者慰霊碑出現したのは個人碑であった。戦没者個人碑で、日露戦争では未曽有の戦没者が出たため内務省は個人碑建設を規制するよう各道府県へ通達した。膨大な数の戦没者個人碑が建設され、異様な光景が出現し、厭戦気分が広まることを危惧したものであった。1906年、神社境内に「招魂碑、忠魂碑、弔魂碑、忠死者碑と称するものの如き墓碑に紛らわしもの」の建設を許可してはならない...戦没者慰霊施設①忠魂碑

  • 「天空の城」に登る 感状山城

    感状山城兵庫県相生市矢野町瓜生羅漢の里から登城は始まる。標高は305m。城は南北朝時代、赤松氏がここで新田義貞と奮戦し、足利尊氏から”感状”をもらったことで名付けられた。山頂付近には何か所も石垣遺構が残っている。国の指定遺跡で、史跡とハイキングが楽しめる登城。山頂からは相生市街地方面の展望がいい。登城日・2013.3.15「天空の城」に登る感状山城

  • 「天空の城」に登る 富田松山城

    富田松山城岡山県備前市片上片上湾に形のよ山がそびえる(写真左の山)。あれが富田松山城。標高は209m、備前の戦国大名・浦上氏の支城。本拠地は三石城。天正時代に家臣だった宇喜多直家により浦上氏は滅ぼされ、城は廃城となった。山頂の本丸や、東側の出丸には曲輪の遺構、土塁や堀切が数多く残っている。元は水城と呼べる、本丸から海の眺めもいい。登城日・2010.8.13「天空の城」に登る富田松山城

  • 「天空の城」に登る 新高山城

    新高山城広島県三原市本郷沼田川の右岸に、空に突き刺すような急峻な山がある。それが「新高山城」。山陽本線、国道2号線、山陽道、新幹線、そのすべての車窓から新高山(にいたかやま)を眺めることができる。小早川隆景が築き、その後三原城に移り廃城となった。城があったのは45年間。登城の道は整備されているが、元は山城だけにハイキング気分は出ることなく、もっぱら戦国時代を身近に感じ、城の攻防を予想させる。名城であるに違いない(続日本100名城)。登城日・2010.2.13「天空の城」に登る新高山城

  • 「天空の城」に登る 白旗城

    白旗城兵庫県赤穂郡上郡町赤松兵庫県の東部には、山城の名城が数多い。白旗城もその一つ。高くて(標高440m)大きな山に城はあった。南北朝時代から戦国時代初期まで、赤松氏の居城だった。白旗城の登城名物の岩場。自然石がごろごろと続く道を登る。山頂周辺は曲輪が数多く残り、室町時代の山城の名残を感じさせる。周辺の山々の眺めがいいが、残念ながら山の名はまったく不明。登城日・2013.3.15「天空の城」に登る白旗城

  • 「天空の城」に登る (備中)福山城

    福山城岡山県総社市清音三因清音(きよね)の福山は、総社市と倉敷市の間にあり、両市民のハイキングの山になっている。標高は302m。駐車場、登山口や登山道は整備され、コースも多様にあり、岡山県南では人気の山。福山は「太平記」時代の古戦場で、足利尊氏と新田義貞の”福山合戦”があった。その合戦につづき、湊川合戦でも足利尊氏が勝利して室町幕府をひらいた。山頂からは、高梁川方面の眺めが特にすばらしい。山頂は福山城当時の石垣や石が少し残り、あの時代への瞑想が可能な広場となっている。登城日・2012.4.29ほか「天空の城」に登る(備中)福山城

  • 「天空の城」に登る 鳥取城

    鳥取城鳥鳥取県鳥取市東町「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」(信長公記)有名な「「鳥取の飢え殺し」の舞台、因幡の鳥取城。山頂の本丸まで約240m。本丸の天守閣は、江戸時代になって久松山から麓に改修工事が成され、池田藩32万石の大藩の城と化した。初期の藩主・池田光政は備前岡山藩と所領交換され、決闘「鍵屋の辻」の荒木又右エ門は鳥取藩で人生を終えた。山頂本丸には強固な石垣が残り、展望もいい。晴れていれば鳥取大砂丘も望める。鳥取城跡は今(2020年)、桝形門や太鼓御門の復元工事中。3年先の完成が待たれる。登城日・2009.7.4ほか「天空の城」に登る鳥取城

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